美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

楊貴妃は神霊仙女だったと見変えれば、蕩心の悲話も醇美な伝説へ羽化する(艶説楊貴妃)

2023年10月29日 | 瓶詰の古本

 さてまた楊貴妃と申しますお方は、元仙女であつたとも言われますがいかがなものでしよう。玄宗皇帝御即位の後、もつぱら外夷を征しまして、塞外に軍勢をつかわし巴に吐蕾、突厭、奚契舟等を平定し、ひいて勃海、遼東、高句麗、倭國、扶桑を手に入れようとの遠謀ありますのを、これら何れの国かの神霊、かりに仙女と化して帝の佛農場玄淡の女となり、さらに、長安の禁内に入りまして宮女となり、貴妃と呼ばれ愛寵を得て帝の心を蕩(とろ)かし、武備を怠らして異域を征めるをとめたと申すことでございます。従つて玄宗帝の威令ようやく落ち、安禄山の変にあつて四川へ逃避の途中、馬關驛と言うところで全く化身のつとめをおわり、容姿解け去つて神霊は遠くはれにか還(かえ)り終つたのであります。また玄宗帝が蜀り京都に還幸したまいてより、蜀の臨印縣より道士楊通幽と申す者が参り、貴妃の霊をもとめようと神仙の住む蓬壹にまたがり、太眞院に貴妃の霊をもとめ証拠の品々として、あおかいの香箱や、黄金のかんざしなどを獲(え)て帰つたとも申します。何れにしてもまことに神秘なことでございまして、ここで筆を止(とど)めることに致します。

(「艶説楊貴妃」 水上凌三訳)

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書物に倦きて魔が差したからといって、際限ない欲望の実現と引換えに身魂売り渡す取引をしてはいけない(マーロウ)

2023年10月25日 | 瓶詰の古本

学者甲 フォースタスが怖がつてゐるのは何だらう。
学者乙 あんなに快楽に耽つてゐたのに憂鬱になつたのかな。
学者丙 きつとあまり独居しすぎたので、何か病にとりつかれたのだ。
学者甲 もしさうなら治すお医者を呼ばう。さうすれば治るだらう。
学者丙 暴飲暴食をしただけさ。心配することはない、フォースタス。
フォースタス 地獄行きの罪悪を沢山にね。それで身体も魂も地獄に堕ちてしまふのだ。
学者乙 だが、フォースタス。天上を仰ぎたまへ。神様の御慈悲は無限のものだといふことを覚えておきたまへ。
フォースタス だがフォースタスの犯した罪はどんなことをしたつて赦される筈がない。イーブを誘惑したあの蛇ですら救はれるかも知れないが、フォースタスは駄目なのだ。あゝ、諸君。どうか辛抱づよく私の話すことを聴き、何を私が物語つても身震ひしないでいただきたい。私が此処にこの三十年も学徒として暮らしてきたことを追想すると、私の心は高鳴り、ふるへをののくのではあるけれど、あゝ、私は一度もウィッテンバーグを目に見なかつたならば、一度も書籍をひもとくことがなかつたならばよかつたと思ふのだ。私がなしたいろいろの奇績は、全ドイツ、いや全世界が證人となつてもくれやう。だがそんなことを仕出来(しでか)したが為、フォースタスはドイツも世界も、それどころか天国までも、あの天、神のまします所、祝福を受けたるものの座しますところ、喜びの王国までも失つてしまつたのだ。そしてとこしへに地獄に留まらなければならないのだ、……地獄、あゝ地獄に未来永劫にとは。友よ、地獄に永久にゐるとしたら、此のフォースタスは一体どうなるのだらう。
学者丙 その時でも、フォースタス。神の御名を呼び給へ。
フォースタス 神を呼べだつて。フォースタスがはつきりと見捨ててゐたあの神を。
フォースタスが冒瀆しつゞけたあの神を。あゝ神よ、私は涙にくれたいのです。ところが悪魔が私の涙を干し上げてしまふのです。えい血よ、涙のかはりにほとばしれ。血ばかりか、生命だつても魂だつてもだ。おゝ奴が私の舌を動かさなくさせる。私は両手を振り上げたいのだ。だが見よ、奴等が、奴等が私の手を押へつけるのだ。
一同 誰がなのだ、フォースタス。
フォースタス ルーシファとメフィストフィリーズとが。あゝ諸君。私は奴等に魔術と引換へに私の魂を渡したのだ。
一同 えつ、罰あたりな。
フォースタス 全く、神様の禁ぜられてをることだ。だがフォースタスはそれをやつてのけた。二十四ヶ年の空虚な快楽のため、フォースタスは永遠の歓喜幸福を失つてしまつたのだ。私は奴等に自分の血潮で證書を書いた。もはや期限はきてゐる。今が期限なのだ。で、奴は私を連れ去るだらう。
学者甲 何故もつと以前にフォースタスは吾々に此のことを語つてはくれなかつたのか。祭司達にたのんであなたのためにお祈りをして貰へただらうに。
フォースタス 何遍も何遍も、私はさうしようと思つたのだ。だが若し私が神の御名を口の端にのせるなら、悪魔は私をちりぢりに引裂くとおどかし、若し一度でも神聖なるものに耳をかたむけるなら、身体も魂も連れ去るぞとおどかしたのだ。そして今になつてはもう遅い。諸君、あちらへ。私と一緒に死滅するといけないから。
学者乙 おゝフォースタスを助けるために、吾々は何をしたらよいだらう。
フォースタス 私のことなどどうでもよい。身を救けて、立去りなさい。

(「フォースタス博士の悲話」 マーロウ作 細川泉二郎譯)

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詰まるところ小説というのは、天与の才が何者にも動かされることなくその生を生きるため命を削りながら書いているもの(ジョルジュ・ペリシエ)

2023年10月22日 | 瓶詰の古本

 若しもギュスタアヴ・フロオベルが決して哲学や政治や乃至は道徳に煩ひされなかつたと云ふならば、それは芸術に就いての専一な偏執からだ。処が芸術もモオパッサンには無感覚でゐられたらしい。吾々は少くとも彼が決して文学を談ずるを肯じなかつた事を知つてゐる。彼は自分の諸著作や他人の作品に就いての一切の談話を拒んでゐた。彼は頑として美学の論争の圏外に止まつてゐた。たつた一度だけ、「ピエエルとヂヤン」の序文の中で、彼は宣言書染みたものを書いて意見を述べた。吾々はそれによつて何よりも先にどんな侮蔑の態度で彼が批評と云ふものを扱つてゐるかを見る事が出来る。それから又彼の文学上の主義は有らゆる種類の理論を放逐してしまふにある事も窺ひ知る事が出来る。モオパッサンは生きる為めにしか書かないのだと主張してゐた。有らゆる場合にあつて彼は決して、フロオベルの如く、斯様々々ときめてかゝつた完成の理想を実現しやう為めに書いてはゐなかつた。真の自然主義は如何なる学派にも属するものではない。自然主義派にさへも属さないのだ、何故つて一切の派は何等かの系統を、何等かの党派心を、多少共特別な何等かの見地を、前提とするものだからである。で若し自然主義派は諸事物や諸人物を描出するに或る特別な用心をしか前提としてゐないにしてからが、作家に要求してゐるこの用心は、作家をしてそれ等のものをばあるがまゝに描出する事を許してゐないのである。真の自然主義者は学派的自然主義が容るせないやうな全き精神の自由を、一種の公平無私と殆んど無良心に近いものとを、要求してゐる。ギイ・ド・モオパツサンが有らゆる彼の同時代の作家等の中にあつてこの名に値してゐると云ふのはまさしくそれ故にである。

(「最近佛蘭西文學史」 ヂヨルヂュ・ペリシエー著 木村幹譯)

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一度は詩心のために底へ足をつけた人々、それと井月(横光利一)

2023年10月18日 | 瓶詰の古本

 中原君の葬式は人数は少なかつたが近ごろ稀に見る良い葬であつた。鎌倉五山の一つの壽福寺といふ禅寺で、裏には實朝と政子の墓もあるといふ。杉の大木の竝んだ間の石畳を踏んでゐると、ふと踏み応へに覚えがあつた。よく見ると一度行つたことのある佐佐木茂索氏の鎌倉時代の家が横に見えた。壽福寺は小さいが建物の木めのよく洗はれた手堅さに古雅な美しさが内部から沁み出てゐる。禅堂に立つて暮れかかる杉の樹を仰いでゐると、幹の赤い肌に風のあたるさまが中原君の詩のやうに見えて来た。葬はすんでしまつたのに送る客とてなく、委員の喪章も杉の陰に疎らで何となく寒い。花環の下を潜つて名簿の傍へよらうとする河上氏の喪服の肩へ白菊の辯が散りかかる。小林氏が私の立つてゐる傍へ来て、
「どうもありがたう」と礼を言ふ。薄暗い禅堂の廊下に集つてゐる紋服の人たちも黙つて動かうともしない。何をするために動かないのか誰にも分らぬ様子のまま、近づいた曇り日の夕暮の下で、菊の白さばかりが強く鮮やかになつた。だんだん足もとが冷えて来た。
 この葬に集つてゐた人々は佐藤正彰、中島健藏、大岡昇平、永井龍男、深田久彌、青山二郎、中村光夫、河上徹太郎、阿部六郎、小林秀雄、島木健作、菊岡久利、草野心平、伊集院清、林房雄氏等このやうな人達である。それぞれ一度は詩心のために底へ足をつけた人々だ。
    落栗の座を定めたる窪みかな
 ふと井月の美しい名句が浮かんで来た。何となく中原君の葬はこの句に似合ひの葬であつた。

 夜更けて家へ帰ると京都から「茶道月報」が届いてゐて、口絵の写真に牧渓の柿栗の図が出てゐた。この画は私には初めてであつた。一生乞食をしつづけた井月の落栗の句と言ひ、壽福寺の禅堂と言ひみなこの柿栗の図と等しい見事な平凡さである。しばらく見てゐるうちに、人おのおの何が自分を成長させるものか知らぬのだとふと思つた。自分の気附いたものなどはそんなに自分を成長させてゐないのではないかといふ疑ひが次第に強く起つて来た。こんな考へは実は非常に危険である。またこのやうな疑ひは、いつも誰にも朦朧と顔の一角に忍んで来てゐることも事実である。しかし、牧渓の柿栗の図を見てゐるとそれがもくもく形をなして強く動いて来るのである。私は中原君もこれに一番困つたのではないかと思ふ。かうなれば人は手綱を離れた馬になる。

(『中原中也』 横光利一)

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他者への哀惜の情をここぞとばかり大げさに触れ回る人もいるが、それによって奇特な好い人だと思われることはない(宮武外骨)

2023年10月15日 | 瓶詰の古本

「死屍に鞭つ勿れ」とは、例の偽道学者の言である、其人の生前にはテキパキと云ひ得ないで、死後に悪罵する卑怯者は例外として、苟も非難す可き点があるのならば、其人の生前と死後との別なく、ピシピシと痛撃を加ふべしである、「彼は悪い奴であつたが、モー死んだのだから憎むに及ばない、寧ろ其死を憫むべしである」と云ふが如きは、自己本位の憎悪であり同情であつて、我身の生活に妨害を加ふる敵者と見ての私情の流露に過ぎない、死屍に鞭つのを不道徳とするのならば、弓削道鏡は悪僧なり、足利尊氏は逆賊なりと論ずる歴史家をも責めねばなるまい、誰か国家的観念より出づる痛罵を非とせんや、我国現行の刑法には左の如き條文がある、第二百三十條の二項に
  『死者の名誉を毀損したる者は誣罔に出づるに非ざれば之を罰せず』
死後には、個人たる悪人を曲庇する必要のない事が、此條文にも現はれ居る、そして国家が歴史的伝記を尊重する所以は、要するに破邪顕正を社会的教訓の根本と見るからである、故に社会に害毒を流せし悪人に対しては、大に其死屍に鞭つて、以て徹底的膺懲の刑を加ふべしである、我輩は頃者、偽人の死に対する諸新聞の評言を読で一層此感を深くした。

(『悪人の死屍には鞭て』 宮武外骨)

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お前の前生は何であったかね、云うてごらん(小泉八雲)

2023年10月11日 | 瓶詰の古本

          

 十月十日。子供の生涯のうちに前生の事を覚えてゐてその話をする日が一日、たつた一日だけあると云はれる。
 丁度満二つになるその日に、子供は家の最も静かなところへ母につれられて箕の中に置かれる。子供は箕の中に坐る。それから母は子供の名を呼んで「お前の前生は何であつたかね、云うてごらん」と云ふ。そこで子供はいつも一言で答へる。不思議な理由で、それよりも長い答の与へられる事はない。時に返事は謎のやうで、それを解釈するのに僧侶か易者を頼まねばならない事がよくある。たとへば昨日銅鍛冶の小さい倅はその不思議な問に対してただ「梅」と答へた。ところで梅は梅の実か、女の名の梅かの意味に取れる。その男の子は女であつたといふ意味だらうか、或は梅の木であつたらうか。ある隣人は「人間の魂は梅の木には入らない」と云つた。今朝易者はその謎について問はれて、その男の子は多分学者か詩人か政治家であつたらう。それは梅の木は学者、政治家、及び学者の守護神である天神の象徴であるからと断言した。                   
                             (『東の國から』「生と死の斷片」より)

(「日本人の心」 小泉八雲著 田部隆次譯)

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何気ない語り口にうかうか乗ったが最後、謎の世界から魂をもぎ離すことができなくなる乱歩という魘術(宇野浩二)

2023年10月08日 | 瓶詰の古本

 江戸川乱歩全集を十冊ばかり持つてきた出版社の編輯らしい人に、私は、『二銭銅貨』ははひつてゐるか、『心理試験』ははひつてゐるか、と聞いた。
 私がこんなことを聞いたのは、この二つの小説を、私は、発表された時に、読んで、感心し、江戸川乱歩、と云へば、すぐ、この二(ふた)つの小説を、思ひ出すからである。
 さて、私は、この二つの小説のうちのどちらを先(さ)きに読んだかを殆んど覚えてゐないが、何となく『二銭銅貨』の方を先きに読んだやうな気がする。これは、どういふ訳(わけ)か、私には、江戸川乱歩といふと、『二銭銅貨』、『二銭銅貨』といへば、江戸川乱歩、と、口に出るのである。
 私は、これらの小説を読む前は、欧米の探偵小説(の翻訳)を手あたり次第に読んでゐた。それらの小説は、もとより、大てい巧妙であつたからたまらないほど面白かつた、が、皆、よそ事(ごと)のやうな気がして、親(した)しめなかつた。それから、私はそれらの小説を読むずつと前に、(少年時代から、)黒岩涙香の翻案小説をむさぼるやうに読んだ。それらの涙香の小説は、今、回想すると、ずつと後によんだ数多い欧米の探偵小説などより、はるかに面白かつた。それは、涙香のすぐれた考案と文章のために、それらの小説の本(もと)になつた、エミイル・ガボリオ、フォルチュヌ・デュ・ボアゴベ、その他の小説より、ずつとずつと面白かつたからである。
 ところが、私が、江戸川乱歩の、『二銭銅貨』、『心理試験』、『D坂の殺人事件』、その他に感歎したのは、先きに上げた、外国の諸小説や涙香の多くの探偵小説より、乱歩のこれらの小説の方が、私には、ずつと身近(みぢか)に感じられ、私たちの周囲にも起こつてゐる事のやうに思はれるからである。
 それから、こんど、この三つの小説を読みかへして、この三つの小説の書き出しの、(『二銭銅貨』の「『あの泥坊が羨(うらや)ましい』二人のあいだにこんな言葉がかわされるほど……」といふ書き出しの、「蕗屋(ふきや)清一郎が、何故これから記(しる)すような恐ろしい悪事を思い立つたか…」といふ『心理試験』の書き出しの、又、『D坂の殺人事件』の「それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであつた。私が…」といふ書き出しの、)何とも云ひやうのない巧妙さに、私は、感歎した。それから、もう一(ひと)つ、私が感歎したのは、はらはらさせながらとんとんと進む筋のはこひ方(かた)の手際(てぎは)のよさである。
 さて、この三(みつ)つの小説だけについて述べても、探偵小説のなかでもつとも重要な役(やく)をする、『謎』の解き方(かた)はまつたく独特のものであつて、読者の意表に出る上に、『謎』の正体が、終りまで、どんな頭(あたま)の鋭い人にも殆んど見きはめることが出来ない。もつとも、これは、すぐれた探偵小説には共通する特徴ではあるが、これらの乱歩の初期の小説は、これらの特徴に於いても、他に類がない、と云つても、過言ではない。それで、私は、これらの小説を、発表された頃に、読んだ時は、舌をまいて驚いたことであつた。

(『乱歩の初期の短篇』 宇野浩二)

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前田慶次(郎)、先へ先へ突き抜けるおどけ者(長谷川伸)

2023年10月04日 | 瓶詰の古本

 晩年になつて、慶次郎は江戸へ出た。徳川が好きでない慶次郎は、江戸の人間も好かなかつた泰平慣れのしたらしい物腰、猪口才なとりなしが、小癪にさはつてゐたらしい。
 その頃、銭湯が江戸に出来はじめた、慶次郎はその湯へひよこひよことはひつて行つた。
 素裸になつて長い手拭をさげた慶次郎は、片手に短剣を鞘ぐるみぶらさげた。丁度そこに居合はしたのは三四人の武士であつた。
「あの入道は刃をもつてゐるぞ」
「乱心者ぢやな、湯はやめようか」
「いやそれはいかぬ、多寡が老衰の入道に恐れてやめては恥ぢや」
「といつて、どうするのぢや」
「我々も用意して入湯すればよい」
「成程、いゝ事に心づいた」
 これから入湯する武士は、短剣を手拭の下に隠してはひつたが、既に湯にひたつてゐたものは仰天した。
「見知らぬ老人ぢや、どうやら乱心と見える、恩怨もないのに斬りつけられては迷惑千万、それに赤裸のまゝ手傷とでもならうなれば、世上の聞えも恥しい、主の名をも汚す訳ぢや、というて急ぎあがつては臆するに似たり、さればというて、此の儘では」
 愚図々々してゐたが遂に湯から出て、ひそかに短剣を抜いて持ち、湯の中へ戻つてきた者さへあつた。
 白昼の事ではあり、浴場に装飾がまだ施されぬ頃とて、日の光りは十二分にさしてゐた、ぽかぽか湯に暖められて、よい気もちになつた慶次郎は、荒木板の流しに両足をなげ出して、大欠伸をした、それが又入浴中の外の者をして、いよいよ彼奴気が変だわいと思はせた。
 慶次郎はそれ等の者に眼もくれなかつた、短剣を抜いた、刃の光りが湯気の中でキラリと光つた。眼をつけて放さず気を付て油断せぬ人々は、成行如何と息をのみ、敢へて近づかない。
 入道は極無造作に左の腕をぐいと伸し、右手に刃を持つて皮肉の上をぐいぐいとこすりはじめた。
「あツ」
 いづれもは呆れ返つた、刃ではない、竹箆に刃色に似た銀紙をまいたもの、所謂竹光であつた、伊勢平氏の昔物語を、実地にやつた慶次郎のいたづらであつた。
 この手で脅かされた武士が、江戸には沢山あつた。有名になつた頃には最う姿を湯屋に見せもしなかつた。

(『ひよつと齋』 長谷川伸)

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厭人的古本病者にとって書物は形を現じた魂としてその前にひれ伏すものだから、博覧などいう瀆聖の言句は冗談でも口にしない(内田魯庵)

2023年10月01日 | 瓶詰の古本

 読書家と蒐書家とは違つてる。読書家必ずしも蒐書家でなければ蒐書家亦必ずしも読書家では無い。が、此の二者は隣人同士で決して見ず知らずでは無いのだが、読書家の蒐書家を見る、恰もパリサイ人の如く、動もすれば「積んどく先生」と称して軽侮する。が、書籍の保全されるのは「積んどく先生」あるが為めで、善書を読書家に供給するは「積んどく先生」である。「つんどく」は決して恥づるに及ばないので、鼠が物を齧るやうに行き当りバツタリに喰ひ散らす乱読や、醉漢が千鳥足を踏むやうにシドロモドロに混迷脱落する錯読や、何でも彼でも鵜呑にして少しも消化しない盲読や、然ういふ無用の或は脱線した読書よりは「つんどく」が却て文献保存の重大な任務を盡してゐる。
 且書籍は本来読む為めに作られたものであるが、古い時代を閲したものは歴史的記念物であり、特殊の装飾を施したものは芸術的鑑賞物でもある。書籍は年報、報告、法典、機械書、測量書等を除いては単なる功利一遍のものでは無い。又書籍に由つては読み棄てにする消耗品類似のものもあるが、然ういふ類を除いては書籍は内容以外にも愛翫すべき鑑賞すべきものである。読んで了つたあとが小豆の餡の搾り滓となるやうなものではない。自然読書家は蒐書家で無くとも自づから書架を富まし、蒐書家は読書家で無くとも亦自づから博覧となる。
 所謂ビブリォファイル即ち愛書家は読書家とも蒐書家とも違つてる。愛書家は必ずしも書籍の熟読者でも無ければ万巻の書を儲へようとするものでも無い。内容が左して面白くないものでも或は思想的に相容れないものでも稀覯や伝来や装幀や種々の点から愛撫するが、必ずしも愛慾の手を伸ばさうとしないで僅に二三冊に過ぎないものを限りなく熱愛する。之が段々と成長して読書家となり蒐書家となる場合もあるが、愛書家は必ずしも読書家や蒐書家では無い。

(『東西愛書趣味の比較』 内田魯庵)

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