美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

日本小説文庫の発刊について述べる無題の辞(春陽堂)

2022年06月30日 | 瓶詰の古本

 曩きに小堂が刊行せる一円本の文学全集によつて、読書階級層は加速度的に拡大増加せられた。今や更に徹底せる出版の大衆化として、この「日本小説文庫」の華々しい出現を見るに至つたことは、誠に百パーセントの読者奉仕と云ふべきものである。
 全篇悉く現代小説の大作家の最高傑作を網羅し、大衆小説、現代小説のあらゆる生粋を全収し、本文庫によつて日本小説の完璧なる真髄はこゝに始めて諸賢の前に、最も至廉な価格と、最も携帯の便利な、しかも色取々の選択の実に自由な形式の中に、画期的な大衆普及版として提供せられた。
 その興味の深大なる、理想の高遠なる、行文の平易流麗なる、事件・構想の多岐奔放なる、恋愛猟奇、流血、探偵、哀愁等々、千万大衆はたゞ、その圧倒的面白さに息もつけぬ感興を、心底から揺り動かされる事であらう。
 この祖先来の血肉よりなる日本小説の精華は、その多趣多彩の内容の魅力によつて、書斎の絶好書、街頭の最上の同伴者、家庭の喜びの泉、工場にあつては工場文庫、学校の理想的副読本、田園の最高の実り、いかなる旅にも欠くを得ざる心友、実に到るところ形に影の伴ふ如く、必携せられよ! この最も大衆的にして最も芸術的なる、極めて良心的な編輯の下に、数多続々連刊せられる、わが日本小説文庫を、あらゆる雄篇巨作の精粋を、心ゆくばかり愛読味到せられよ!

(日本小説文庫第二篇「孤島の鬼」 奥付裏頁にて)

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小さな恋愛はすぐに押し流れて行き、ものを書く日が多くなった頃(林芙美子)

2022年06月26日 | 瓶詰の古本

 大正十二年に女学校を卒業して、わたしは一人で東京へ出て参りました。東京へ出て来て、わたしは、幼い日のみじめさとはまた違つた辛い生活を続けました。東京へ出て運よくみつかつたのは、赤坂の丹後町と云ふ処にあつた小學新報社の帯封書きの仕事です。月給三十五円でした。中野の川添と云ふ処に二階借りしてゐて、幾月もせずして、わたしは、この二階へ母達を呼びました。
 秋には震災に逢つて、わたしは原始へかへつたやうな東京の街で、おこはや餅を売つたりしました。日比谷公園は便所と露店の軒並みで、わたしはこゝへ義父達と店を出しに来ました。食べものゝ店を出すと、全く面白いほど売れるのです。大した親類もなく、知人も友人もない田舎出のわたし達は、何もはづかしいものがありませんでした。
 震災の頃は十二社にゐました。十二社には水車のある鉛筆工場があつたり、池のそばにはちらほら料理屋があつたり、風呂屋があつたり、いまは、あれから十年以上もたつてゐます、賑ぎやかになつてゐることでせう。
 日比谷の露店がとり払ひになつてから、わたし達は、神楽坂だとか鳴子坂なぞに夜店を出したりしました。
 貧しくつて、生活が暗澹としてゐると、誰だつて憤りつぽく、喧嘩するものなのでせう、仲がいゝくせに、この頃はよく、わたしは、親子喧嘩をしました。
『娘の身そらで夜店なんか出すの厭だ』と云ふのが、わたしの云ひごとなのでしたが、結局は食べられないから仕方がないのです。或夏の始めには鈴蘭を売つたりしました。時々おもひ出すのですが、神楽坂の四辻のどの辺だつたかに経師屋さんがあつて、そこの前に立つてゐて、咽喉が乾くと、よく水を飲まして貰つた記憶があります。
 この頃、トルストイの『戦争と平和』と云ふぼう大な本を感激して読んだものです。一時は生かじりのトルストイフアンになつてしまつて、トルストイの他は文学ではないやうな気持ちでゐた事があつたりしました。何か、自分も書いてみたいとおもつたのは此頃です。
 此頃、小さな恋愛もありましたが、それはすぐ押し流れてゆき、わたしは、段々ものを視つめ、ものを書く日が多くなりました。
 放浪記も此頃から書き始めたやうに覚えてゐます。わたしの青春は、それこそじめじめして、こゝに書きたいやうな何ものもありません。

(『思ひ出の日』 林芙美子)

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芸術家だけでない、事実を事実として承認することを恥辱とする風のある自堕落な人々(石川啄木)

2022年06月19日 | 瓶詰の古本

 世の中には、自分及び自分の仕事を何の考量比較を費すことなくして、特に他人及び他人の仕事より尊貴なものとし、何者よりも侵さるゝを許さぬものとしてゐる人がある。例へば、芸術家及び芸術家志望者が、自己の天分及び芸術その物に特別な権威あるものの如く考へてゐるが如きである。私はさういふ人の意外に多く存在する事を同情を以て認めてゐる。何故なれば、其等の人々は、さういふ空想を力強く把持して、あらゆる道理と事実との前に目を瞑つて過す外には、自己の生活を是認するの途をもたぬ人であるからである。従つて、其等の人々から其の捧げてゐる偶像――架空の信念を奪ふことは、即ち其等の人々の生命を絶つことである。
 私は、さういふ憐れむべき人々の言ふ事を聞く時、笑ひたくなるよりも先きに悲しみたくなる。心を空しうして考へて見れば、実際それは滅びかゝつたいのちを取りとめようとして踠いてゐる老人の断末魔よりも悲しいことである。何故なれば其等の人々は多くまだ年若い人々であるからである。
 然し其等の人々は決して何事に対しても謙遜ではない。よしや凡てに対して反抗するだけの気力は無いまでも、猶且謙遜するといふ事を知らない。謙遜する事を知らないのみならず、事実を事実として承認する事を寧ろ恥辱とする風がある。
 さういふ自信とさういふ自矜(プライド)
 世には何時からともなく芸術家の自信、芸術家のプライドを寛容し、黙認し、其生活の誤謬と言動の自恣とに追求しない風がある。その一般社会から寛容、黙認されてゐる所の芸術家の自信とプライドとが、若しも此処に言つたやうな自信とプライドとであつたならば、私は、世に芸術家ほど愍むべきものはないと思ふ。
 弱者! 自ら弱者たることを認容するを怖れて、一切の事実と道理とを拒否する自堕落な弱者! 私は、希くは再びさういふ弱者になりたくない。

(『巻煙草』 石川啄木)

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天才による探偵小説的文学と探偵小説、バルザックが校正刷へ注いだ命とポーが最終行へ注いだ命(フォスカ)

2022年06月12日 | 瓶詰の古本

 バルザックには想像力があつた。その人物に生命を与へる才能があつた。転変極まりない劇的事件に対する好奇心があつた。その上に彼にはその時代の巴里のあらゆる社会に対する知識があつた。これだけのものがあれば、『売笑婦の栄華と悲哀』なる作品は、その登場人物ヴォートランが天才的犯罪者として行動し『セレンディピティ』が堂々と駆使される小説となし得たのではなからうか。然るにバルザツクはそれを実現しなかつた。ヴォートランは術策にたけてはゐたが、推理によつて捜査を進めるやうなことは皆無であつた。『小説の探偵と実験室の探偵』に於て、ロカール博士は『彼には専門的捜査方法について全く知識が欠けてゐた』と言つてゐる。その他裁判官カミュゾにしても可成り平凡な存在だし、コランタン及びペイラードの如き職業探偵に至つては大凡そ四十年も時代遅れた存在である。その謝肉祭的変装と云ひ下劣な策謀と云ひ、フーシエ時代(フーシエはナポレオン帝政時代、即ち一八〇二年から一八一五年に至る期間、警察官としてその腕を恐れられた人物である)の所謂『蠅』(刑事の綽名)とか『密偵(エスピオン)』を思はせるものがある。
 要するに探偵小説のテクニツクを準備し、探偵小説の諸法則を限定するには、バルザツクの頭脳とは別個の頭脳――幾何学的エスプリと審美的エスプリが独創的形態に以て完全に融合してゐるE・A・ポオの頭脳に待たなければならなかつた。

(「探偵小説の歴史と技巧」 江戸川亂歩感想 フランソア・フオスカ著 長崎八郎譯)

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それなりな組織の長を歴任するほどの阿諛追従者ならば、上品なる卑屈者に成りおおせる技量は傑出した有能の証明と自負しているに違いない(中江兆民)

2022年06月08日 | 瓶詰の古本

 世の中には上品なる卑屈とも云ふ可き一輩の人間が有る、是れは西洋にも有る、亜細亜にも有る、扨其人種と云ふは其初め身を立て志を行ひ遖れ社会の水平上に頭を昻げんと欲し、或は漢籍を研究し或は洋書を鑚攻し、政治とか法律とか経済とか、相応に一科の学を脩め、此れならば最早社会に乗り込みても佳ならんとそろそろ途に上るに及び、始めて此不完不率なる社会の障礙に出逢ひ、一度二度は自ら撾ちてがんばるも、三四度と成ると落胆して、自身に此れでは迚もいけぬと考へ直ほし、専ら目上の人の機嫌を取り、唯利禄是れ貪り、衣服を美にし冠履を飾り、其顔色得々然其言辞截々然として、下級の吏僚を蔑視して無上の栄華と心得居る者滔々皆な然り、されば此上品なる卑屈者は気の毒と云ふ可き乎、気の毒なり、笑止と云ふ可き乎、笑止なり、悪くむ可き乎、否悪む可らざるなり、必要なればなり、世の中に紙屑屋が無ければ汚れたる古紙はどふして片付ける乎、掃除屋が無ければ屎尿はどうして取り除ける乎、此上品なる卑屈者が無ければ雑務はどふして料理する乎、但国家の大計を図謀するに至りては、所謂、富貴不レ能レ淫、貧賤不レ能レ移、公益是れ図り自尊是れ保つ人物が漸次に増殖せざる以上は百国会有りと雖ども百憲法有りと雖ども二三賢宰相有りと雖ども、富国強兵は到底覚束なきなり、既に堕落したる魔鬼は再び済度す可らず、世の赤裸々淫灑たる壮年諸君よ、願はくは上品なる自尊家と成れ、上品なる卑屈者と成ること勿れ、勉旃々々。
 大丈夫学を脩め術を講じ、官海に乗出さゞれば已む、苟くも官海に乗出す以上は、大臣宰相と成らんのみ、一生涯大臣宰相と成るの見込み無くして姑らく下僚に身を納るゝ者は志業には非ざるなり、商法なり、苟くも商法的の仕事なる時は其強笑媚諛するも畢竟商法の一術なるが故に敢て咎む可きに非ず、我其の気根の強き忍耐の盛んなるに感服するなり。
――「警世放言」――

(「中江兆民集」 中江兆民著)

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桐生悠々を相棒に文学へ走った頃(徳田秋聲)

2022年06月05日 | 瓶詰の古本

 私が文学へ走つた相棒には、ちやうど同じやうな境遇の桐生悠々君があつて、この人は私よりも学才に恵まれてをり、数学が下手といふ訳でもなかつた。その頃素人下宿へ出て、弟子を集めて代数や幾何や英語を教へ、その月謝を学資に当てゝゐたくらゐで、私に比べては実行力も働きもあつたのである。二人は肝胆相照すといつて可いくらゐで、毎日往来して文学論をやつてゐた。私の子供々々してゐるのに比べて、この男は既に恋愛も知つてゐるらしく、その頃肩で風を切つて豪傑ぶつてゐる、謂はゞ維新当時の志士の流れを汲んだやうな、硬派の青年達の態度を軽蔑してゐた。この硬派の青年達のあひだには、吉田松陰だとか橋本左内だとか、坂本龍馬とか、高杉晋作だとかの詩文が持囃され、陽明や中齋のものが愛読されてゐた。私なども老荘が好きであつたところから、洗心洞箚記などを手写して愛読してゐたものであるが、一方また加藤弘之博士の天則といふ雑誌や、福澤諭吉、田口卯吉なぞいふ人の論文も学窓へ入つてゐた。桐生君と私とは、しかし段々小説熱に浮かされて、しがらみ草紙や早稲田文学などに読み耽けり、紅露二家の作品を論じ合つてゐた。書生氣質や浮雲はもう大分前に卒業済みで、セイクスペヤやデツケンス、アヂソン、スコツト、リツトンものなぞ生半可に囓つてゐた。水滸傳や漢楚軍談などの軍記や、美少年錄、田舎源氏、神稻水滸伝などのエロチツクな廃頽的なものなど、蒲団を被りながら豆ラムプの明りで読んだものだが、巢林子の博多小女郎浪枕を読んだときには、日本にもこんなえらい作家があるのかと思つて、その当座感動に打たれてゐた。黙阿彌の狂言も、読んでゐると舞台が見えて来て、芝居好きだけに面白かつたが、饗庭篁村翁の『むら竹』といふ短篇集は殊にも好きであつた。しかし八犬傳と梅暦は、違つた意味で孰も厭味で、その頃は読み通せなかつた。西鶴なぞも桐生君ほどには解つてゐなかつた。

(『文學修業豫備行動』 徳田秋聲)

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機械は人間と同じように(あるいはそれを超えて)ものを考えるし、人間を支配する場合だってある(ビアス)

2022年06月02日 | 瓶詰の古本

「まじめなの、君は? まじめで機械が人間と同じように、ものを考える、というの?」
 マクスンはすぐには返事をしないで、熱心に暖炉の石炭のここそこを、ポーカーでつついていた。つつきかたが、よかつたのか、火は間もなくさかんに燃えはじめた。数週間まえから、なんでもないことをきかれても、すぐには返事をしない彼の癖が、しだいにはげしくなるのを私は気づいていた。でも、それは問われたことを考えるのでなくて、なにかほかのことを考えているらしかつた。つまりほかのことで頭がいつぱいになつているのだ。
 やがて彼はいつた。「いつたい機械といつたらなんのことだ? この言葉にはいろんな意味がある。たとえば辞書を引くと、『それによりて力がでて能率的になつたり、希望する効果がえられたりする、いろんな道具や構成物』と書いてあるが、してみると、人間も一つの機械じやなかろうか? そして人間が考える――あるいは考えると考えていることは事実なんだからね」
「ぼくのきくことに答えたくないのなら、答えたくないと云つたらいいじやないか?」と、私はじれつたげにいつた。「君はごまかして逃げているんだ。ぼくの云う『機械』が人間でなくて、人間が作つて支配するある物を意味しているぐらいのことは分りそうなものだ」
「機械が人間を支配しない場合はね」と云つて、彼は急に立ちあがつて窓ぎわによつたが、風雨の強い夜なので、窓の外にはなにも見えなかつた。彼はにつこり笑つてふりかえり「ごめん。なにもごまかしているんじやない。ただ辞書に書いてある不用意な文句が、示唆にとんでいて、議論すべき多くの事柄をふくんでいると思うだけなんだ。君の質問には簡単に答えられるよ。機械というものは、それがする仕事のことを、考えるものだとぼくは信じている」

(『マクスンの作品』 A・ビアズ 妹尾アキ夫訳)

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