美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

偽書物の話(百五十六)

2018年08月29日 | 偽書物の話

   それまでと微妙にずれた声調が、水鶏氏の抑えかねる焦慮と響応したものかは分からない。手抜かりなく推し量って桁外れに間違える無駄骨を折るだけ、益体もない誤解に溺れて沈没するのは目に見えている。何事にも言葉の裏があるとする下衆の勘ぐり、猪口才な理性の思い上がりは、粒々辛苦して思考を辿る道に降り落ちる醜怪な毒虫であり、さなきだに劣等な私の自心を甘口に爛れさせるのである。
   すぐに私は黒い本を閉じて両手で掴み取ると、前屈みに椅子から立ち上がり、二人を隔て横たわる乱脈な机の上空へ偽書物の重みと累次の別離に小刻みする腕を差し伸ばした。今度は水鶏氏も立ち上がり、不安定な体勢にめげず精一杯両腕を架け渡して黒い本を出迎えた。同時に腰を下ろすと、ただそれだけの労役なのに二人ともしばらくは椅子に腰をおさめたまま、呆然としている。なんだか黒い本の巧妙な橋渡しにまんまと乗ぜられて、大切な自心をやり取りする笑劇を御抱え写真師付きで演じたのではないか、そんな取り留めのない自虐の魔手が私を引っ括ってしまう。
   黒い本を取り戻した水鶏氏は、更に深く椅子へ沈み込んでいると見える。なぞめいた想望の念が胸の中で滴り貯留し、主人の気取らぬ間に、剛堅な椅子の座でも持ち堪えられなくなるほどに膨らんでいるようだ。

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想像力なくしては歴史も片輪なものとなってしまうと考えて(フロベール)

2018年08月26日 | 瓶詰の古本

 彼等はまづウォルター・スコットを読んだ。
 これは新世界の驚異とでも言ふべきものだつた。
 それまでは亡者ないし名詞にすぎなかつた過去の人々が、生命のある存在となつて、王も、王子も、魔法使ひも、侍者も、密猟監視人も、僧侶も、放浪者も、商人も、兵隊も、或は城砦の武器庫で、旅籠の黒い床几の上で、街の曲りくねつた道路の上で、小屋がけの店の軒先で、僧院の庵で、議論したり、干戈を交へたり、旅行をしたり、取引したり、飲み食ひしたり、祈つたり、さては歌つたりしてゐる。芸術的に構成された風景が舞台装置さながらにその情景を囲繞してゐる。砂浜づたひに馬を疾駆させる騎士の姿が眼に浮ぶ。えにしだの叢では爽かな風に息を入れ、小舟の滑る湖は月光に照し出され、鎧は太陽に映え輝き、草葉がこひの小屋には雨が降り注いでゐる。モデルも知らないのに、彼等はこれらの描写を活写だと思ひこみ、その幻想には欠くるところがなかつた。かうして冬は過ぎた。
 昼食がすむと二人は小室の暖爐の両端に向ひ合ひに陣取つて、本を手に音もなく読みふける。陽が傾くと街道へ散歩に行き、晩飯もそこそこに夜更けまで読みつづける。ランプの直射を避けるために、ブヴァールは青の色眼鏡をかけ、ペキュシェは庇帽の庇をまぶかにかざしてゐる。
 ジェルメーヌは出て行かなかつた。ゴルジュも時々庭を掘りに来た。それといふのも、雑事の放念から彼等は二人をずるずるに許してしまつたのだ。
 ウォオルター・スコットについでは、アレクサンドル・デュマが幻燈のやうに彼等を娯しませた。その人物等は猿さながらに敏捷、闘牛さながらに不死身、かはらひはさながらに屈託がなく、風のやうに現れて喋りまくつたり、屋根から舗道に跳びおりたり、おそろしい手傷を負つてもけろりとして、死んだと思ふとまた現れる。床の下には陥穽あり、解毒剤あり、忍びの術ありといつた調子に、万事縺れあつて筋は運ばれ、息つくまもなく解決がついてしまふ。恋愛は端正、狂信は朗かで、殺戮もまたほほゑましい。

(「ブヴァールとペキュシェ」 フロベール作 鈴木健郎譯)

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幻影夢(23)

2018年08月24日 | 幻影夢

   なにが「断じて言わせないよ」だ。てっきり常習の逆上者に相違ない。何故この女は、外道な発想を一々大仰にまくし立て、触れ回りたがるのだろう。未だかつて感服したためしのないその口舌に耳朶をなぶられるという苦役は、あるいは天から課せられた試練でもあろうか。しかして、そもそも試練なるものは、克服する行為が有意義に作用する主体に賦与されものである。試練を背負わされるに値しない粗悪頓馬の品性であるのは、当の本人が最も切実に自覚している。案ずるに、高尚な遍歴修業の旅で出会う艱難ではなくて、単に虐待という日常茶飯な景象が起きているだけのことだ。誰あろうおれが現に味わいつつあるのは、普遍的、超越的な存在が個別的、偶有的な存在をいたぶるだけいたぶっているという戦慄であり、美質を誇示する女が虚像を狐疑する男(おれ)を懲らしめているという酸っぱい感傷ではないか。
   眼界に入る小暗い路の中程に五、六段の階段が設けられ、ここから上り坂は秘かに始まっているわけだ。延べの長さにして百歩を要しない通りは傲岸不遜にも駅前商店街を名乗っているが、荒物商、呉服店、煮売屋、周旋業、蕎麦屋、汁粉屋、青物商、建具物などの商舗を見ることはない。さて、小路のいよいよの外れ際に、ガラス戸を開けっ放しにした古本屋がある。もろにお誂えというか、目の毒というか、先生を訪ねる行き掛けの駄賃式に十が十、この狭い間口の古本屋へ嬉々として吸い寄せられるのが、後で述べるように何とも説明しにくい後ろめたさを生ぜしめるのである。

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偽書物の話(百五十五)

2018年08月22日 | 偽書物の話

   遠回しながら淡々とした口調で普通至極な精神と御墨付きを与えられるのは、案に相違して物寂しい気分へ誘われるもてなしだった。いびつな衒気の混じり合った内省心には、偏頗な言動へ奔らず諸般に均衡を失しない精神であることが、退屈この上ない俗物臭の検知証明となるのである。表立って狂気を剔抉されるのは恥ずかしく忌まわしいのに、おしなべて対人応接のことごとくが穏健でそつがないと評定されると我慢ならない。鬱勃たる感性を内奥のどこかに秘めている、と嗤うべき妄想に張り付いて他人と異なる精神を高位にあるものと取り違えた矜持をふくらませ、とっくの昔に、手間味噌の通理を施して甘美に改変した現世界(の枯れ落葉)としか折り合えない精神構造の上に寝そべっていた。そうした精神構造は多かれ少なかれ万人に共通する月並みな自尊本能から瘤起したのであって、狂気の刃によって良識の防壁が絶えず切り剥られる恐怖に出会う前のうたた寝を貪っていられる猶豫は短く、魂の凹面鏡へ自心の像が結ばれた時に甘やかしは終わるのである。
 「なにはさておき、私に見れども見えなかった挿し絵があるとするならば、気を入れ直してそれらと対峙してみたい。あなたの話される顔容の変貌もさることながら、ぬけぬけと私の目をかい潜ったか、私の知覚が致命的な不作の藁束に過ぎなかったか、黒い本があるうちに検分させてもらいたいのです。」
 私と目をそらさず、幾らか言いにくそうに水鶏氏はささやいた。

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セザンヌが羨ましがった素晴しい目(ヴォラール)

2018年08月19日 | 瓶詰の古本

 ある日セザンヌは『割に出来のいゝ』絵を見せやうと云つて、妹のマリイの家へ連れて行つた。処が丁度夕方の祈祷の時刻で、家には誰も居なかつた。画を見る事が出来なかつたので私は、セザンヌに、少し庭を散歩してはどうかと云つた。ところが此の時位私の魂のためになつた散歩はなかつた。至る所で人々は直立して罪障消滅の祈祷を捧げて居た。かくして或者は数日間、或者は数月間、又ある者は全生涯を汚れなき心を持つて行くのである。
 マリイの家を出てから、セザンヌと私とはアルク川に沿つて歩き出した。私達は暑さから逃れやうとしたのである。何となればそこには風がそよともしなかつたから。セザンヌは云つた「全くこの暑さでは何もかもくたくただ。膨張するのはたゞ金属と冷酒の売上げだけだ。こゝにも此頃工場が一つ出来てね。エクスでも段々とそこへ通ふ者が殖えて来た。あゝそれらの連中の生意気さうな様子の気持の悪さ!あゝかういふ静かな田舎で、畜生!阿呆共が!」
 私は「しかしこの中には例外もあるでせう。」
 セザンヌは「あるかも知れない。しかしそういふ人は目立たない。本当に謙遜な人といふものは自分でも気の付かぬものだ。さうだ!ジョ(詩人ジョアキム・ガスケ)は好いい男だ」
 セザンヌは目の上に手をかざし乍ら、川上の一ト所をじつと眺めつゝ云つた。「あの風景の中へ裸体を描いたらどんなに素晴しいだらう!この川の岸にはモチイフがふんだんにある。一つ所でも違つた角度で見ると、一つ一つが皆な素晴しくいゝ題材となる。すつかり変つた景色になるから、一つ場所で少しも動かず、たゞ右を見たり左を見たりするだけで、何ケ月でも仕事を続ける事が出来る。
「本当にボラールさん、画は確かに、私にとつては此世のどんな物よりも、大きい意味を持つてゐる。自然の前へ出ると、私の心はいつもすつかり明るくなる。だが悲しい事には、自分のこの感激を表現(リアリゼ)しやうとする段取が、いつも私には、非常に苦痛を伴ふのだ。私には私の官覚を打つこの強い力が、とても表現出来ぬやうに思はれる。大自然に生命を与へてゐる色調の濃艷な美しさ、これが私の力では及ばないのだ。しかしやうやく此頃、私にも色の感激といふものが目醒めて来たのに、あゝわしはもう年寄だ!自分の心に思つた事、感じた事が、その儘の形で描けないといふ事は何といふ悲しい事だらう!雲を御覧なさい、わしはあれが描きたいのだ!モネエには出来た。彼には腕があつた。」
 セザンヌは同じ時代の人の中で一番クロオド・モネエを高く買つてゐた。印象派の話が出るといつも彼は、この「時間の画家」に対してお得意の洒落を飛ばして云つた。「おゝモネエか!奴はたゞ目だけだ」そして直ぐつけ足していつた「だがあゝ神様、奴の目は何といふ素晴しい目だ!」

 (「セザンヌ傳」 ヴォラール著 近藤孝太郎譯)                                                          

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偽書物の話(百五十四)

2018年08月15日 | 偽書物の話

   上長の下す品隲を乞う局面で、切羽詰った人間の動揺が恥がましい露頭を舌の根に晒している。水鶏氏は水鶏氏で、簡単に堰を割って奇矯の言辞を放出する私の攪乱に、黒い本へ病みついた温気を感じ取ってか、たじろぐ本意を庇い切れない。
   「いやいや、まずもってそんな心配をする必要があるのですか。仮にあなたにけったいな節々があるとすれば、そのあなたに罔両たる問いを投げている私は、何十倍もけったいな境涯に甘んじていることになってしまいます。何をしてか、そんな……。」
   狂人の真似をしてみたいと望むのは狂人ならではの素懐である、と教える鮮やかな箴言は巷間知れ渡っていて、誰彼なく通用し得る訓諭なのに、常に中庸を外れない要心や冷めた客観的観察眼がほとんどの人に備わっていないから、ややもすると知らぬ間に知覚の底が抜け落ち、遂には回復不能なまでに理性が崩壊する危難に見舞われるのである。好意ある赤の他人が声をかけて引き止めてくれなければ、私は先で待つ未来の枷に嵌り、偽書物のもう一つの自心であろう絵頁の似姿に寄り添うしかなくなる。
   「遠慮して言い淀んでいると勘違いされては困ります。あなたが尋常普通の精神にあると事改めて明言するのは、旅役者が大見得を切る田舎芝居と同断で、臭気紛々としてたまったものでない。普通至極で都合の悪いことでもありますか、何一つないでしょう。」

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バルザックの生涯は一つの長い労働だった(シモンズ)

2018年08月12日 | 瓶詰の古本

   バルザックの生涯は、一つの長い労働であつた。そこでは時と金と事情とがすべて彼に逆らつた。一八三五年には彼は書いてゐる、「私はこのごろ、二十六日間も書斎を出ないで過してゐる。私は、私が支配するつもりのパリを見下ろす窓のところへ空気を吸ひに行つただけだ。」そしてその労働に大喜びする、「この仕事に光栄があるとすれば、ひとり私だけがそれを成就することができる。」海が岩に打ち寄せることに比べることで、彼はその生涯を象徴化する。「今日も一波、明日も一波、それとともに私は運ばれる。私は岩に当つて碎かれる。しかし気を取り直して他の隠れ岩のところへ進む。」「時として私は、頭に火がついたやうな気がする。私は智力の塹壕のなかで死ぬのだらう。」
   バルザックは、スコットのやうに、負債の重圧のもとで死んだ。彼の言ふところで見ると、『人間喜劇』の全体は金のために書かれたものと見られないこともない。近代の世界では、彼がいかなる人よりも明瞭に悟つたやうに、金は多く実体よりも象徴であり、しかもあらゆる欲望の象徴であり得る。バルザックにとつては、金銭こそただ一つしかない地上楽園の鍵であつた。それは愛する女を訪ねる暇を意味し、最後にはその女と結婚する可能性を意味してゐた。

(「象徴主義の文學」 アーサー シモンズ著 宍戸儀一譯)

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偽書物の話(百五十三)

2018年08月08日 | 偽書物の話

   そっと踵を起こして傾きをつけ、わずかに震える両膝の上へ偽書物を置き直す。無器用な指先で頁の縁を手繰って、復た件の絵図に行き当たる。目の下隅で捉える挿し絵には、描かれた人物が箱形の、書物と見える黒いものを左脇に抱えている。絵にある画像の腰から下、泳ぐようなかっこうをした半身は後方から照らす明かりを遮る黒い影だが、うつむき加減にねじ曲げた顔の表面には背後から光が回り込んで、にじみ出る内心の迷乱を黒絵式に隈取っている。意力を奮って常軌から踏み外すまいと腐心する儚い抵抗に関わりなく、その面貌は私と似寄る丰姿へ遷って行く。
   「絵像の顔の変易するのが知覚の溷濁から発した現実に対する希望的錯覚、熱病出自の幻想であれば、変な話、愚直な理性に寄りかかって一安心できます。法外に図々しく卒爾な願い事で申し訳ありません、先生の観察される雰囲気をお聞きかせいただければ、切羽詰まりかけた人間にとって非常の助けとなります。ここでこうして椅子に座らせてもらい、賢しら口を利いている風の私ですが、ざっくばらんなところ、錯覚とか幻想とかの淳海の中で、潮の流れなりに尾ひれを靡かせる魚が吹いたあぶくのように見えたりしませんか。夢ともつかない夢にあやされてなお夢であると悟らず、土埃や雨の匂い立つ場面を次から次へと繋ぎ続ける鎖糸のようなものと驚きあきれたりしておられないでしょうか。」

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ついつい私的なスケールに逆もどりしてしまう(久保榮)

2018年08月05日 | 瓶詰の古本

 ずつと前、何かで読んだおぼえがあるが、近代リアリズムが移植される以前の、といふよりもその最初の成果と見做される「浮雲」の方向を遮つた硯友社の社中なぞでは、或る事件なり或る人物なりをそのまゝ「直写」するのを、作家の恥としてゐたとかいふことだ。描写に厳密なリアリテイが要求されず、フイクシヨンが作りものめくのを恐れなかつた時代の人たちの、戯作者風の暢気な考へ方には相違なからうが、それが大正の末になると、たとへばその時分にはもうすつかり通俗作家に転身してゐた久米正雄あたりから、芸術とは、高々、その作者の歩んだ一つの人生の「再現」に過ぎず、バルザツクやフローベルの作も、高級ではあつても、結局、偉大な通俗小説でしかないといふやうな意見が提出されるまでになつたので見ると、近代リアリズムの移植が、日本では、自然科学の精神とも実証主義哲学とも殆んど没交渉に行はれ、この期間に、外国の一流のロマンにさへ作為の不自然さを感じるほどに、個人の私的経験の描写が異常成熟を遂げたわけで、さう思ふと何か恐ろしい気がする。
 もし過去の私小説作家を、自分の主観なり、その主観を生み出した直接の経験範囲なりを描くに適した芸術上のサブジエクテイヴイスト(主観主義者)と呼ぶことが許されるなら、最近の人たちは、ソシアル・サブジエクテイヴイスト(社会的主観主義者)以上のものではなく、本格的なリアリズムの前提となる基礎デツサンの習練を欠くといふ点では、両方とも変りがないのではなからうか。さういふ基礎がないために、科学的な類推力の助けを借りて、自分の体験を自分のこととしてでなく、別な境遇とタイプとに描き変へる技術が持てず、自分以外の人間に対しては、自分の眼から見て、その人物にとつて合理的と考へられる意志や感情を機械的に想定し当てはめる以上のことが出来ない。この機械的なつぎはぎ細工は、つまりは与へられた性格のなかへ「我」を投影させることでしかないのだから、かうして結局、描写の対象を、その置かれた境遇から切り離してしまふことになり、言ひかへれば作者はユートピアから出発することにもなるので、それが厭さに、幅のひろい描写を望みながら、ついつい私的なスケールに逆もどりしてしまふのが、最近の新しい私小説なのではなからうか。

(「新劇の書」 久保榮)

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偽書物の話(百五十二)

2018年08月01日 | 偽書物の話

 偽書物の頁を埋める文字は解読の尻尾すら掴ませず、いくら眦を決して向き合ってもその意趣がこちらの心頭へ届くことはない。しかし、行をなす文字と関わりがあるのかないのか知らぬまま、文字とは別立ての案内によって水鶏氏は別世界に踏みどころを得た。その別世界は、水鶏氏が幾度となく繰り返した通り、脳髄の表裏を随意気ままに蚕食する夢想の吐く色糸羅綾ではなく、実在する複層へ更に複層を伸張する現世界の動態である。偽書物の舞台で演じられる顔相の変移劇を脳中の幻想と診断され、挙句は、現世界ですら幻想の戯れであると言いがかりをつけられたら、別世界を散りばめた現世界の実在の根基である水鶏氏の自心は、パラドックスの密林で無矛盾の小枝を求めあぐね無念のうちに窮死する途方へ突き進むかも知れない。
 黒い本を携えて水鶏氏が夕刻に見聞きした別世界は、自心を実感した瞬間に撃たれた実在性、原始星に連なる実在性の煌めく世界であっただろう。煌めきの輻射を受けて蠢動する私の自心もまた、表に現われた怪異の兆候に怯え、首を竦めて幻覚をやり過ごす誤った弱気に陥っていられない。自他を扱き雑ぜた幻想の掛け合いに縋って快刀乱麻の帰結を願うなら、自心の実在性は幻想の流砂へ呑まれて沈み、現世界と渡り合う機会は永劫見失われてしまう。偽書物の付け目はそこにあると疑訝に噛まれること自体、疾くに幻想の流砂に足先を舐られている徴憑と言えなくもない。

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