美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

今ここにある世界は、金や力に媚びず孤舟のままに終始する不羈の作家がいくらでもいる世界である(トルストイ)

2023年01月29日 | 瓶詰の古本

 彼は此の現実の世界、此の物質的世界は、啻に最善なる世界に非るのみならず、最善の世界とは正反対のものであること、(此の考はホルラーに於て見事に発表されて居る)、及び此の世界は理性と愛の要求を満足させない事を認めて居る。彼は或る他の世界がある。少くも此の如き他の世界に対する要求が、人間の魂にあると云ふことを認めている。
 彼は此の物質界の不道理、醜悪に苦めるのみならず、又その愛のないこと及び不統一に苦しんで居る。迷へる人間が寂莫に堪へずして、絶望の叫声をあげて居る有様が、彼の最も精巧なる短話、ソリチチユードに最もよく表はされて居る。
 最もモウパッサンを苦しめて居るものは人間の痛ましき寂寞の状態、精神的寂寞の状態である。此の事は彼は繰返し繰返し描いて居る。彼を苦しめて居るのは人間とその同類の間を隔つる垣である、此の垣はその人々が肉体的に近き関係があればある程尚痛ましく感ずるのである。
 然らば彼を苦めるもの、此の垣を破るものは何か、此の寂寞を消滅せしむるものは何か、愛である、婦人の愛ではない、彼が嫌悪した、婦人のではない、併し純潔なる、精神的なる、神聖なる愛である。
 モウパッサンの求むるものはこれである。彼が自分を囲める桎梏の間にありて痛ましくも努力して居る所のものは、昔明かに人間に示された此の生命の救である。
 彼は彼の求むる者に未だ名称を与へる事が出来ない、多分彼に取て聖の聖なるものを穢すことを好まないから、自分の唇を以つて名命することを望まないであらう。併し彼の云ひ表はされない憧憬はその寂寞の恐怖に示されて居るが極めて真摯なるもので単に唇を以て説かるゝ、多くの説教より、強く人を動かし人を引きつける力がある。
 モウパッサンの生涯の悲劇は、最も奇怪なる不道徳的社会にありて、彼の天才力に依り、彼の内部に宿りし異常なる光によつて、その社会から脱出せんと煩悶し、殆ど救済を得るに近く、已に自由の空気を呼吸して居たことである。併し彼の最後の力を此の努力に費し、更に一段の努力を為すことが出来ないので、彼は自由を得ずして倒れたことである。

(『モウパツサン論』 トルストイ原著 葛西又次郎述)

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入学試験に挑んだ以上は、合格電報が届いた日一日ぐらい誰だってのぼせていていい(太宰治)

2023年01月25日 | 瓶詰の古本

「狐にだまされてゐるみたいだね。」と僕が言つたら、兄さんは、
「いや、本当にいま、だまされてゐるのかも知れん。どうも変だ。」と真面目に言つた。
 昔からの馴染の、撞球場にはひつてみた。暗い電球が一つともつてゐるだけで、がらんとしてゐる。奥の部屋に、見知らぬ婆さんがひとり寝てゐる。
「突くのけええ、」と、しやがれた声で言ふのである。「突くんだば、ここの押入れん中ん球、取つてくれせええ。」
 僕は逃げようかと思つた。けれども兄さんは、のこのこ奥の部屋へはひつて行つて、婆さんの寝床を踏み越え、押入れをあけ、球を取つて来たのには驚いた。兄さんも、たしかにけふはどうかしてゐる。一ゲエムだけやらうといふ事になつたが、黒ずんだ羅紗の上をのろのろ歩く球が、なんだか生き物みたいで薄気味が悪くなつて来て、勝負のつかぬうちに、よさうや、よさう、と言つて、外に出てしまつた。そばやへはひつて、ぬるい天ぷらそばを食べながら、
「どうしたんだらう、今夜は。意志と行動が全く離れてゐるみたいだ。僕の頭が、変になつてゐるのかしら。」と僕が言つたら、兄さんは、
「なにせ、進が大学生になつたといふあたりから、けふは、あやしい日だといふ気がしてゐたよ。」と、にやにや笑つて言つた。
「あ、いけねえ!」僕は図星(ずぽし)をさされたやうな気がした。
 けふの怪奇の原因は、片貝の町よりも、やつぱり僕が少しのぼせてゐるところにあつたのかも知れない。それにしても、兄さんまで、僕と同じ様に、足が地につかない感じだなんて言つて賛成するのは、をかしい。兄さんも僕と同じ様に、うれしく、ぽつとしてしまつたのかしら。ばかな兄さんだなあ。これくらゐの事で、そんなに興奮して。
 いまに、もつともつと喜ばせてあげよう。けふは一日、夢を見てゐるやうな気持だつたが、夢だつたら、さめないでおくれ。波の音が耳について、なかなか眠れない。でも、もうこれで、将来の途が、一すぢ、はつきりついた感じだ、神さまにお礼を言はう。

(「正義と微笑」 太宰治)

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生身な言葉への照れ隠しなのか、「恋愛」を談じるに重厚厳粛めく辞書の語釈から始める含羞の小説家(太宰治)

2023年01月22日 | 瓶詰の古本

 人生はチヤンスだ。結婚もチヤンスだ。恋愛もチヤンスだ。としたり顔して教へる苦労人が多いけれども、私は、さうでないと思ふ。私は別段、れいの唯物論的弁証法に媚びるわけではないが、少くとも恋愛は、チヤンスでないと思ふ。私はそれを、意志だと思ふ。
 しからば、恋愛とは何か。私は言ふ。それは非常に恥かしいものである。親子の間の愛情とか何とか、そんなものとはまるで違ふものである。いま私の机の傍に辞苑をひらいて見たら、「恋愛」を次の如く定義してゐた。
「性的衝動に基づく男女間の愛情。すなはち、愛する異性と一体にならうとする特殊な性的愛。」
 しかし、この定義はあいまいである。「愛する異性」とは、どんなものか。「愛する」といふ感情は、異性間に於いて、「恋愛」以前にまた別個に存在してゐるものなのであらうか。異性間に於いて恋愛でもなく「愛する」といふのは、どんな感情だらう。すき。いとし。ほれる。おもふ。したふ。こがれる。まよふ。へんになる。之等は皆、恋愛の感情ではないか。これらの感情と全く違つて、異性間に於いて「愛する」といふまた特別の感情があるのであらうか。よくキザな女が「恋愛抜きの愛情で行きませうよ。あなたは、あたしのお兄さまになつてね」などと言ふ事があるけれど、あれがつまり、それであらうか。しかし、私の経験に依れば、女があんな事を言ふ時には、たいてい男がふられてゐるのだと解して間違ひ無いやうである。「愛する」もクソもありやしない。お兄さまなんてばからしい。誰がお前のお兄さまなんかになつてやるものか。話がちがふよ。
 キリストの愛、などと言ひ出すのは大袈裟だが、あのひとの教へる「隣人愛」ならばわかるのだが、恋愛でなく「異性を愛する」といふのは、私にはどうも偽善のやうな気がしてならない。
 つぎにまた、あいまいな点は、「一体にならうとする特殊な性的愛」のその「性的愛」といふ言葉である。
 性が主なのか、愛が主なのか、卵が親か、鶏が親か、いつまでも循環するあいまい極まる概念である。性的愛、なんて言葉はこれは日本語ではないのではなからうか。何か上品めかして言ひつくろつてゐる感じがする。
 いつたい日本に於いて、この「愛」といふ字をやたらに何にでもくつつけて、さうしてそれをどこやら文化的な高尚なものみたいな概念にでつち上げる傾きがあるやうで、(そもそも私は「文化」といふ言葉がきらひである。文のお化けといふ意味であらうか。昔の日本の本には、文華または文花と書いてある)恋と言つてもよささうなのに、恋愛、といふ新語を発明し、恋愛至上主義なんてのを大学の講壇で叫んで、時の文化的なる若い男女の共鳴を得たりしたやうであつたが、恋愛至上といふから何となく高尚みたいに聞えるので、これを在来の日本語で、色慾至上主義と言つたら、どうであらうか。交合至上主義と言つても、意味は同じである。そんなに何も私を、にらむ事は無いぢやないか。恋愛女史よ。
 つまり私は恋愛の「愛」の字、「性的愛」の「愛」の字が、気がかりでならぬのである。「愛」の美名に依つて、卑猥感を隠蔽せんとたくらんでゐるのではなからうかとさへ思はれるのである。
「愛」は困難な事業である。それは、「神」にのみ特有の感情かも知れない。人間が人間を「愛する」といふのは、なみなみならぬ事である。容易なわざではないのである。神の子は弟子たちに「七度の七十倍ゆるせ」と教へた。しかし、私たちには、七度でさへ、どうであらうか。「愛する」といふ言葉を、気軽に使ふのは、イヤミでしかない。キザである。
「きれいなお月さまだわねえ。」なんて言つて手を握り合ひ、夜の公園などを散歩してゐる若い男女は、何もあれは「愛し」合つてゐるのではない。胸中にあるものは、ただ「一体にならうとする特殊な性的煩悶」だけである。
 それで、私がもし辞苑の編纂者だつたならば、次のやうに定義するであらう。
「恋愛。好色の念を文化的に新しく言ひつくろひしもの。すなはち、性慾衝動に基づく男女間の激情。具体的には、一個または数個の異性と一体にならうとあがく特殊な性的煩悶。色慾のWarming-upとでも称すべきか。」
 ここに一個または数個と記したのは、同時に二人あるひは三人の異性を恋ひ慕ひ得るといふ剛の者の存在をも私は聞き及んでゐるからである。俗に、三角だの四角だのといふ馬鹿らしい形容の恋の状態をも考慮にいれて、そのやうに記したのである。江戸の小咄にある、あの、「誰でもよい」と乳母に打ち明ける恋ひわづらひの令嬢も、この数個のはうの部類に入れて差し支へなからう。
 太宰もイヤにげびて来たな、と高尚な読者は怒つたかも知れないが、私だつてこんな事を平気で書いてゐるのではない。甚だ不愉快な気持で、それでも我慢してかうして書いてゐるのである。
 だから私は、はじめから言つてある。
 恋愛とは何か。
 曰く、「それは非常に恥かしいものである」と。

(『チヤンス』 太宰治)

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均一台を漁る古本病者にしてみれば、キキメの一冊を欠いたまま不揃いな全集にもそれなりの味わいがある(吉田兼好)

2023年01月18日 | 瓶詰の古本

 ある大福長者のいはく「人はよろづをさしおきて、ひたぶるに徳をつくべきなり。貧しくては生けるかひなし。富めるのみを人とす。徳をつかむと思はゞ、すべからくまづその心づかひを修行すべし。その心といふは他のことにあらず。人間常住の思に住して、かりにも無常を観ずることなかれ。これ第一の用心なり。次に万事の用をかなふべからず。人の世にある、自他につけて所願無量なり。欲に従ひて志を遂げむと思はば、百万の銭ありといふとも、しばらくも住すべからず。所願は止む時なし。財(たから)は尽くる期(ご)あり。限りある財をもちて、限りなき願(ねがひ)に従ふこと得べからず。所願、心にきざす事あらば、我を滅すべき悪念来れりと、堅く慎み恐れて、小用をも為すべからず。次に銭を奴(やつこ)の如くして使ひ用ゐるものと知らば、長く貧苦をまぬかるべからず。君の如く神の如く恐れ尊みて、従へ用ゐることなかれ。次に恥にのぞむといふも、怒り怨むる事なかれ。次に、正直にして、約を堅くすべし。この義を守りて利を求めむ人は、富の来たる事、火の乾けるに著き、水の下れるに従ふが如くなるべし。銭積りて尽きざる時は、宴飲声色(えんいんせいしよく)を事とせず居所を飾らず、所願を為さざれども心とこしなへに安く楽し」と申しき。
 そもそも人は所願を成(じやう)ぜむがために財をもとむ。銭を財とする事は、願をかなふるが故なり。所願あれどもかなへず、銭あれども用ゐざらむは、全く貧者と同じ。何をか楽(たのしみ)とせむ。このおきては、たゞ人間の望を絶ちて、貧を憂ふべからずと聞えたり。欲をなして楽とせむよりは、しかじ財なからむには。癰疽(ようそ)を病む者、水に洗ひて楽とせむよりは、病まざらむにはしかじ。こゝに至りては、貧富分(わ)く所なし。究竟(くきやう)は理即(りそく)に等し。大欲は無欲(むよく)に似たり。

(「徒然草」 吉田兼好)

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堕落した天使の考え出した愚か(で魔魅的)な手品に取り憑かれないようにするのも中々むずかしい(ホフマン)

2023年01月15日 | 瓶詰の古本

 或る晩皆が集つた時、心霊の作用だの、奇怪な磁気に関する方面の事などに話が弾んだ。遠く離れて居ても心は通じるものだと云ふ色々な実例が持出された。中でも或る若い医者で磁気療法を研究してゐる男は、いくら遠く離れてゐても、一念を凝らしさへすれば催眠術にかゝつてゐる男を自分の意の儘に動かすことが出来る、と弁じ立てクルーゲやシューベルトやバルテルス等の説が引合ひに出された。すると観察の鋭い点を買はれてゐる一人の医学生が云ふには、
「さうですね、一番大切なことは、磁気術と云ふものは、普通何でもないと思つてゐる事柄にもいろいろ神秘なことがあるのを教へるものだと云ふことでせうね。勿論さう迂闊に物を云つてはなりませんがね。しかし、外面から云つても内面から云つても、われわれに少しの関りのないやうな人物のことゝか事件の真相などが、自分でもびつくりするほど明瞭りと判ることがあるのは一体どういふわけでせう。殊に奇妙なのは夢の中での飛躍でね、全く忘れ去つた事が、突拍子もない夢の中ではつきり出て来て、遠い場処や思ひも掛けぬ人に会ふものです。それどころか、数年後に知り合ふ人を、夢に見ることがあつて、『おや、何処かで見た人だが、』なんていふのはこの類ひです。特殊な能力だなんて言ふが、何か思ひもよらぬ刺戟が心に働くのぢやないかしら。何の準備もなく霊気の交流作用が行はれるなんて、普通の人には出来るわけのものぢやないですからね。」
「どうもこれぢやあ、妖精だの、魔法だの、大昔の馬鹿々々しい迷信や想像を信ずるのと大差ないね。」
 と誰かゞ笑つて言つた。
「いや、何もそんなに大昔に限つたものではないですよ。人間の考へることなど、いつの世でも愚かなものです。法律上厳密な確証の上つた事なんかでも頗る怪しいもんでね。心の故郷の様な不可思議な国があつて、其処には盲ひた眼を照す微かな光すらもあるとは思へない、たゞ土龍(もぐらもち)のやうな天性だけがあるのだと思ひますね。暗闇の下を盲滅法に突つ走つてゐるのです。けれど、盲人が木々の葉音で森を知り、水のせゝらぎで小川を知ると同じやうに、霊の息吹でそれと判る神の高鳴る翼音を聞いて、盲ひた眼が開かれる光の源へ辿りついたことがわかるのです。」
「では、われわれには全くわからない或る精神の原理があつて、それが心を左右してゐるといふ訳ですか。」
 僕はその医学生の方を向いて尋ねた。
「えゝ、さうです。さうした精神のはたらきが有ることも可能であれば、またそれは磁気術にかゝつて外に現れた行動とも同じものだと考へてゐますがね。」
「ぢやあ、われわれを破滅させる悪魔の力もあると信じますか。」
「堕落した天使の考へ出した愚かな手品ですか。そんなものにとりつかれちや困る。附け加へて申しますが、僕は或る精神原理が絶対の支配力を持つてゐると云ふのではなく、さう云ふ性質の人も居るし、意志の薄弱と云ふこともあるし、又心の転機(はずみ)でさうなるんですよ。」

(「小夜物語」 ホフマン 石川道雄譯)

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そもそも操り人形が立ち上がったということからして既に奇蹟は始まっている(コッローディ)

2023年01月11日 | 瓶詰の古本

「お父さんは何処にいらつしやるのだ?」彼はだしぬけにさう叫んだ。さて、次の間へ飛び込んで行つてみると、そこにはゼペツトがちやんとゐた。ゼペツトは病気が治つて元気になつて、おまけにすつかり若返つて、最初にピノチオを彫刻にかかつた時と同様に生々してゐる。
「いつたい、これはみんな、どうしたんです、お父さん?」と、ピノチオは尋いた。
「それはねお前、お前はこれから、この立派な家に釣合ふやうに立派な行ひをしなくちやならない、といふことなのさ。」と、ゼペツトは言つた。
「ええ、僕、やつてみますとも。」と、ピノチオは言つた。「でも、お父さんまでがそんなに元気になつて、若々しくおなりになつたのは、いつたいどうしてなの?」
「いけない子がよくなると、おかげで何もかもすつかり善くなつてゆくさ。家内中のものがみんな仕合せになれるんだよ。」
「そしてもとのピノチオは?――あれは何処へ行つちやつたの?」
「そこにあるよ。」とゼペツトは答へた。そして、彼は、そこの椅子にもたらせかけた木の操人形を指したが、其奴が首をがつくりさせ、両手をぐんなりして、さて両足を組み違へてゐる態たらくときては、そもそもこんな代物が立上つたといふことからして既に奇蹟のやうに思はれるのだつた。
 ピノチオは振返つてもとの自分を眺めやつた。さてしばらくの間しげしげと見守つてから、彼はさも満足げにかう言つた。――「僕が操人形だつた時分はまあ何といふやくざだつたんだらう!そして今こそ本当の男の子になれて、まあ何といふ仕合せだらう!」

(「ピノチオ」 コロディ 佐藤春夫譯)

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何より尊く失われてならないのは普通の日常、人々が心のままに居合わせること(エルンスト・グレエザー)

2023年01月08日 | 瓶詰の古本

 市は女達で一ぱいだつた。彼女達は公告柱に貼つてある告論書を振向かうともしなかつた。彼女達は最近の電報を読まなかつた。彼女達は街角に立ち、料理店を歩き廻はり、そして笑つた。彼女達は自分の部屋のことを考へてゐた。何処にも一人の男が欠けてゐた。その男がフランデルにゐるにせよ或はウクライナにゐるにせよ、トルコの文化を擁護してゐるにせよ或はオーストリアを助けてゐるにせよ――どの部屋にも、ある男のゐるべき場所が空いてゐた。どの家にもある男がある女と共にゐるべき寝台が空いてゐた。平和とは何のことであつたか? 居合せること、それが平和と称ばれてゐた。稲を扠くのに居合せる、店に食事に、日曜日に、堅信礼に、旅立つときに、戻つたときに、呶鳴るときに、疲れたときに眼が覚めたときに、食べるときに居合せること、部屋にゐて、さあ寝(やす)まうと言ひ、電燈を消し、おやすみを言ひ、仲よくし合ひ、いがみ合ひ、愛し合ひ、憎み合ふ――然し、居合はせること、それが平和である。

(「平和」 エルンスト・グレエザー 大野敏英譯)

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酒を飲みたい病(と古本を積みたい病)は小娘の恋の病と同じ、飲ます薬がない(青木正兒)

2023年01月04日 | 瓶詰の古本

 古往今来、凡そ酒徒なるものは、深浅の別こそ有れ、誰しも「瓶盞病」(銚子盃病)に罹つてゐないものは無い。善く言へば酒趣体得であり、悪く言へば酒精中毒である。「瓶盞病」とは何ぞや。宋の陶穀の「清異錄」酒漿門に載する所の醉僧法常の放言に曰ふ、
 酒天は虚無で、酒地は広大。酒国は安楽で、君臣貴賤の区別は無く、理財を図ることも要らず、刑罰を避けることも要らず、らくらくと、やすやすと、其の楽みは量り知られない。‥‥酒飲みは朝となく晩となく、寒いにつけ暑いにつけ、楽しめば無論醉ひ、愁へても同じこと、閑なら勿論、忙しくても同様、肴が有らうが有るまいが、酒が善からうが悪からうが、一切お構ひなし。質入れ、無心、借金、掛買ひ一向平気で、日ごとに飲み、飲めば醉ふまで、醉うてもまだ飲み足らず、貧乏も苦にせぬ。俗に之を瓶盞病と名づける。「本草」(薬物学書)を片端からめくつて見ても、「素問」(古代の医書)を仔細に検べて見ても、此の薬だけは見付からぬ。
是は全く四百四病の算盤はづれ、小娘の恋の病と同じこと、飲ます薬が無いのである。

(「抱樽酒話」 青木正兒)

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三の朝(元日)を二木(門松)に迎える蕪村の春(蕪村)

2023年01月01日 | 瓶詰の古本

 歳旦説

ことしは歳旦の句もあらじなどおもひゐけるに、臘月廿日あまり八日の夜のあかつきのゆめに、あやしき翁の来りていふやう、おのれはみちのくにの善正殿にたのまれまいらせて、京うちまゐりし侍るおきななるが、よきついでなればそこに奉るべきものゝ侍れば、こゝにまほで来ぬとて、ひらつゝみときて、根松のみどりなるをふたもととうでゝ、これを御庭のいぬゐの隅に植おき給はゞ、かぎりなきよろこびをも見はやし給はんといひつゝ、かいけちて見えずなりぬ。ゆめうちおどろきても、此翁にむかひかたるやうにおぼえて、かの武隈の古ごとおもひ出られてかくは申侍る。
  我 門 や 松 は ふ た 木 を 三 の 朝

(「新華摘・蕪村翁文集」 夜半亭蕪村著 荻原井泉水校訂)

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蓬莱の山祭りせんとする蕪村の春(河東碧梧桐)

2023年01月01日 | 瓶詰の古本

  ほうらいの山まつりせん老の春 

「ほうらい」は「蓬莱」、支那の「山海経」「魯范神仙篇」「十洲記」等にある、仙人の住む、寿福の極致を理想化した渤海中にある仮想の山である。「山海経」の註には「上有仙人、宮室皆以金玉之、鳥獣皆白」とあり、「十洲記」には「上有仙家数萬、天気安和、芝草常生、無寒暑、安養萬物」とあり、「神仙篇」には「乗空向紫府、控鶴下蓬莱」とある。秦の始皇帝が、方士を蓬莱に使はしめて、不死の薬を求めたのも名高い話である。説を為す者は、其の蓬莱山は、我が日本であつて、方士徐福の墓と称するものが、現に紀州にあるともいふ。
 この芽出度い山を象どつて、三宝の上に、鏡餅を置き、海老、昆布などを添へ、正月の縁起を祝ふ飾り物を作る、それを蓬莱といふ。この句も無論、正月の飾り物の蓬莱で、蕪村の家にも、当時の習はしを欠きはしなかつたであらう。蕪村といふ人が、世間に伝へらるゝ程磊落一方の人でなく、社交にも家庭にも、むしろ細心な注意を払つてゐたことから考へて、案外家に不相応なと思はれる程、立派な蓬莱を据ゑてゐたかも知れぬ。
「老の春」は、元日のことを「御代の春」「花の春」などゝ言つた、其の転訛で、老人の春を迎へた、俳句的な簡約法による既成語である。
 句意は、別に解釈を要するまでもない。蓬莱の山祭りをして、年老いて迎へた芽出度い春を祝はうといふのである。自分を蓬莱山中に住む不老不死の仙人と見て、其の山祭りをしよう、といふやうな気持が、この句を作る素因であるらしくもあるが、そこまで深く穿鑿するのはどうか。年寄つても、幸ひにかやうに健やかである、このめでたい春にふさはしい、といふ春らしい豊かな華やかな気分から、蓬莱のお祭りをしよう、といふ半ば即興的の気分の動きとみていゝと思ふ。
「蕪村句集講義」の鳴雪説に、支那の帝王の位についた時、山岳を祀る儀式をする、それに倣つて、其の意気組みで山祭りをするといふのがあるが、帝王の封山の儀式は、其の即位を天地に告げる意味で、神聖にして且つ荘厳を極めるものらしい。蕪村がさういふ意気組みであるといふより、もつとずつと軽い気持で、めでたい心祝ひの対象として、蓬莱をかりて来た、と位に見る方が妥当であらう。
 蕪村の作に、正月の句といふのが比較的に少ない。「蕪村句集」にも僅かに三句を録するのみである。其の他「歳旦帖」「句稿草稿」等をあさつても、恐らく十余指を屈するに過ぎないであらう。正月の句には、芽出度いとか、春らしいとか、作句内容に或る限界があつて、創作の自由性が半ば束縛されてゐる。自然、言葉遣ひや、文字の扱ひが主となつて、空虚な内容を糊塗する手段的になる場合が多い。言はゞ、最も句作の困難な、佳句の得難い、苦手とも見られる。旺盛な創作慾を持つてゐた蕪村が、正月の句を試みるに余り勇敢でなかつたのも、其の為めでないかと思ふ。こゝにも、たゞ一句を掲げるにとゞめる。

(「蕪村名句評釋」 河東碧梧桐)

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