美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

偽書物の話(百六十八)

2018年11月28日 | 偽書物の話

 水鶏氏からは次第に悔しげな様子が消え、珍重すべき腐れ縁と割り切って黒い本の手管にあきれながら身を任そうと、悠揚迫らぬ態度へ事もなげに推移する。隅に置けないというのは、折れない気心を隠し持つ水鶏氏のことである。あるいは、転んでもただでは起きないというのは。
 「あなたの訴えにと胸を突かれたおかげで、今では私にも挿し絵の頁が目に入り、そこに描かれてある絵像を如実に捉えているんだと思いますが、しかし、なんだか私には画中の人物が女性のようにも見えます。しかも、それがあなたに似てなくもないのだから、案の定、この本はなかなかに手を焼かせる尤物です。これだけ大事に扱われているのに未だ誠心を韜晦し、二重三重の中途半端な空気で人の心を嬲ります。ブロッケン山のお化けじゃあるまいし、自分の影をおとりに使われて自心の底溜めまで躍り上がる翻弄を受けるとは、冊子綴じ物と見れば鼻の下を長くして溺愛する私にして贖わなければならない罪を、その気なく長きに渡って犯して来た報いでしょう。」
 万一、水鶏氏に甘んじて受ける罰があるとすれば、この私に受け留め切れる罰のあろうはずがない。黒い本を取り次ぐことで招いた危局はどう解釈しようとも水鶏氏にではなく、私に降り掛かるものである。水鶏氏の自傷的な分析にかかわらず、偽書物の鋒先は私の胸元へ向けられているのである。

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かんたんむ

2018年11月25日 | 瓶詰の古本

 何故、こうした本が消えて行くのか了解できないのは、偏屈きどりな古本病者の驕りというやつだろうか、若しくは、厭味ったらしい衒いとでも。
【こうした本の例】
  「全譯アラビヤンナイト」(本間久 大正2年)
  「西遊記」(呉承恩 田中英光 昭和22年)
  「例解国語辞典」(時枝誠記編 昭和31年)
  「精講徒然草」(橋本武 昭和51年)

 何故、こうした古本屋が実店舗をたたむのか了解できない(したくない)。ネット販売の目録データは、(脳裏に彷彿する街の)古本屋で目の当たりにする均一台や土間床に直積みされた古本の光景とは全くの別物、干乾いた既視的張見世である。
【こうした古本屋の例】
  「斎藤書店」
  「古書かんたんむ・神保町古書モール」

*一週間宛の書籍購買総額一千円の範囲内で概ね四~六冊の古本を掘り出せる店が、脳裏に彷彿する街の古本屋のイメージ。古本病者に付き物の素寒貧な懐具合と狭隘な部屋のことは言わずもがな、つらつら省みると、「週刊文春」の現行定価である420円を(無意識のうちで)本一冊当たりの限度額に設定していたらしい。読み終えた雑誌を捨てるに(もったいないの)未練を残す人はいない世間の仕組みに倣って、読んでしまったあと心置きなくすいすい捨てられるように、週刊誌の値段を天井の目安として古本を漁っているのだと今頃気がついた。

 

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偽書物の話(百六十七)

2018年11月21日 | 偽書物の話

   開巻劈頭の一、二頁を瞥見するほんの少時で別世界へ没し、瞬目に別建ての世界を流連していたとあれば、わざとめかしく首をひねるのは笑いの取れない俄狂言です。書物御用達の使い魔の手によって倉卒に別世界へ連れ去られたのでなく、それ以前、本の頁から頁へと障りなく散々漫歩した末に、さしも陶然と別世界へ入って行った。つまり、これらの挿し絵は何か幻術を使って私の感官をすり抜けるか、若しくは光子の進路を歪めて可視領域へ飛び込むのを事由あって妨げるかしていたのではないか。底意のある誑かし、でなければ邪気を含んだいたずらであったと懺悔させるために、本の耳でものどでも所嫌わず抓んで締め上げてしまいたい。私が心理的な陥穽に落ちたとは、冗談にせよ受容することはできないし、多分は架空の幻であろう黒い本の悪だくみは許せても、書物の自心を振りかざす精神が書物に踏みにじられ、登った梯子を外される不体裁は許せるものではありません。」
   いかに気色ばんでみせても、水鶏氏の口許が心ならずほころんでいるは隠せない。書物にだったら懇ろに騙されて恨みを遺さないのが水鶏氏の本懐なのである。
 「そして、今現在は先生の御目に止まっているんでしょうか。」
 「言うには及びません。ともあれ、あなたの顔貌と挿し絵の人物の形貌とを見比べているくらいですからね。」

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人生の真昼の後(ニーチェ)

2018年11月18日 | 瓶詰の古本

   正午に於て。――人生の活動的な騒々しき朝をあてがはれた人は、その人生の正午に於て彼の魂が、一の奇異なる休息欲に襲はれる。そしてその休息は数ヶ月数ヶ年に亙つて続くかも知れない。彼の周囲は静かになる。声音はとほく、より遠く聞える。太陽は彼の真上(まうへ)から照らしつける。かくれたる森の草原に、彼は大なるパンが眠つてゐるのを見る。自然のあらゆる物がパンと共に眠つてゐる――その顔には永久に言ふことの表白をもつて。かくのごとく彼には思はれる。彼は何物をも欲しない。彼は何物にも煩はされない。彼の心臓はとまり、彼の目だけが生きてゐる。それは目をあけてゐての死である。そのとき人間は、彼がかつて見なかつたところの多くの物を見る。そして彼の目のとどく限り、すべては光の網に編み込まれて居り、また謂はばその中に埋められてゐる。彼は幸福に感ずる。しかしながら、それは重つくるしき、重つくるしき幸福である。そのとき遂に樹木の間に風が起り、正午が去る。人生は再び彼をつれて去る――人生はめしひたる目をもつて、その背(うしろ)に騒々しき従者を(願望や、幻想や、忘却や、享楽や、破却や、衰滅なぞを)従へて。かくて朝よりもより騒々しき、より活動的な晩が来る。本当に活動的な人間にとつては、此等の引きのばされたる認識の情態は、殆んど物凄く且つ病的である。けれども不愉快ではない。

(「人間的な餘りに人間的な」 ニイチエ 生田長江譯)

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身骨の何層倍もの古本

2018年11月16日 | 瓶詰の古本

   部屋に群れなす古本は、古本病者の身骨の何層倍もの空間を占領し、痩せ枯れた魂の億兆倍もの深淵を呑んでうたた寝している。手当たり次第に一目惚れし、つまみ食いの衝動にまかせて無軌道に買い漁るから、必然、蒐めた古本は乱倫極まりない無頼の衆となる。神品、傑作の栄光はホコリと嘆息に埋まり、読まるべき値打ちを掠め取られた書物の恨みがましい気鬱だけが室に燻っている。
   やがて、それと知れぬ間に訪れる頓死の一撃は、寂しみさえ忘れた古本病者の魂をたちまち塵界から拭い去ってしまう。今や哀切と呼ぶほかない貪りの蒐書欲から解き放たれた歓びに、犇めく古本の面々は晴れ上がった秋天へ舞い散じるだろう。俗情まみれの歪んだ恋着を逃れようと光子の速さで羽振る蝶や鳥さながらに、引力の桎梏を一気に断ち割って遠らかに翔ぶだろう。

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偽書物の話(百六十六)

2018年11月14日 | 偽書物の話

   囁き声が耳朶の周りに揺蕩う間、水鶏氏の体は漸次嫋やかになり、尋常一様の人の形へと着々復して行く。侵食を防ぐため河岸に抱かせる砕石孕みの蛇籠の円転滑脱な曲率でもって、しっくりと椅子の内縁へ体躯を寄り添わせ、剛直に過ぎた姿勢をなだらかに立て直した。椅子の背枠なりに昂然と揚げた顔は、さきほどと打って変わった落ち着きの色に覆われている。
 「どこいらあたりで別世界の水際が始まるのか、よく憶えていません。憶えてはいませんが、何遍となく頁の前後へ漫ろ歩きし、頁に目を晒していたのは忘れようがありません。連なってある文字が黒い形影を白地へ浮かばせており、街灯に浮かぶ路上の人影を片っ端に漏らさず尋問する警邏のうぶな使命感に負けず劣らずの探偵眼で、左見右見していたことは憶えています。
   格段頭を働かせるまでもなく、文字は書物の頁を舞台に相伴なって繋がりながら、生来一つ一つが切り離されて独立独歩する自己完結した個物です。私には、そのことが人一人ずつの魂が一身体に収斂して自在に動き回っているのと丸写しで、なんとも玄妙でならなかった。時経て考えれば、書物の炒り付けた文字の玄妙にうち震える精神こそが孱弱の狂気でしかないが、いや、要は私と黒い本とは睦びの時間をそれなりに楽しんでいたと言いたいのです。

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意志に関する文例(佐々木邦)

2018年11月11日 | 瓶詰の古本

I was a fool to drink, but I’ve no will-power.  It’s awful.  Directly I see a glass of wine my will-power is utterly destroyed.

飲む筈ではなかつたが、私には意志の力がない。何うも恐ろしい。一杯の酒を見るや否や私の意志力は全く駄目になつて了ふ。

An imprudent marriage is a different thing, for then the consequences are inevitable when once the step has been taken,and have to be borne, will he, will he.

無考への結婚は又別問題である、何となれば此場合に於ては一度乗出した上は其責任は免れ難く、否応なしに背負はねばならない。


(「重要語句文例 英語の基礎」 佐々木邦)

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実験室の測定で人間の実際的真価は測れない(W・ジェームズ)

2018年11月11日 | 瓶詰の古本

事物に対する興味や感情が、人間の活動的生活の果実を規定するに与りて力あることは、到る所に現はれて居る。心理学実験室に於て行ふことの出来る様な単純なる測定は、人間の実際的真価の上に、何等の光をも与へることが出来ないのである。人間の活動力、感情的及び道徳的精力や剛気は単純なる実験で測ることの出来るものでない。此等は唯人間一生に於ける全体的果実によりて初めて知らるゝものである。ユーバー氏は盲目者であつた。けれども蜂や蟻に対する興味の深きが為め、他人の目を通して此れ等を研究して、而して反つて明目者よりも能く観察したではないか。近頃亡くなつた、国会議員のカヴァナー氏はどうであるか。彼は手も脚もなき不具者である。彼の赤児の時、彼の母は彼を愛せなかつたに相違ない。彼の運動能力を実験で測つたならば、零にもまだ足らぬであらう。然るに彼は冒険的旅行家で、騎馬者で、遊戯家で、強壮なる戸外生活を営んだではないか。ローマネス氏は多数の人に付いて、一文章を出来る丈け早く読ましめて、然る後其中より喚想し得る所を直に書かしむるの方法を以て、統覚の原素的速度を研究したことがある。而して彼は、一文章を読む速度には、最も速なるものと、最も遅きものとの間には、一と四との驚くべき差異あること、并に読むことに於て最も速なる人は、大抵之れを憶ひ出すことに於ても速であることを見出した。併しローマネス氏が真正なる知的動作と称するものゝ結果によりて試験されたるが如く、此の如く読むことに最も速なる人は、知的作用の最も優越なる人ではないのである。何故なれば氏は、科学及び文学に於て大に秀でたる多数の人に付きて実験して見たが、其大多数は、遅読者の方であつたからである。

(「教育心理學講義」 ウイリヤム、ゼームス原著 福來友吉譯)

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偽書物の話(百六十五)

2018年11月07日 | 偽書物の話

   そのように水鶏氏が語るのを聞いた気がするが、我にもなく差し迫る朧朧した想いに取り巻かれ、実際に耳にした言葉と幻聴との色分けがつかない泥沼に墜ちていた。私にも自心があると捨て身で仮言したあかつきに、劇しく冷覚を刺して浴びせかかるのは、水鶏氏の蒙った雷撃の小型版と称すべき飛沫、心の密室の内側へ顕われた忽地の不逞者が重吹く口沫の水煙である。私が聞いたと感識する科白は、水鶏氏の発露した言葉である必然性に欠けていると了得して何の不都合もないという気がしてならない。発せられたのが誰それの喉元を通るにかかわらず、先の言葉でもって私の疑念がほぐれることは全くないのだから、実は私の咬み出した言葉であるとしたって大勢に変わりはないのである。私が水鶏氏の思惑を揣摩し代弁している声を、水鶏氏へ回響させて鼓膜に戻したと考えるのは理外の理でも何でもない。一躯のこん棒となって思念の鹹水を浮沈する水鶏氏である。私の声が耳へ届こうが届くまいが、そっくりそのまま打ち返して当然である。
 斯くまで掻雑する目眩ましに冒されて、なお頭のネジが常同をなんとか持ち堪えているのは、突然密室に形を結んだ不逞者が私の自心であると薄明かりに実感しているためである。発話の混淆に魘される自心を感じるなかで、偽書物の奈落に沈む画像がそれそこにあると囁く声が聞こえて来る。

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ポオの本質(平林初之輔)

2018年11月04日 | 瓶詰の古本

『人間の中には、近代の哲学がそれを無視しようとしてゐる神秘的な力がある。そしてこの何とも命名しがたい力なしには、この根元的な力なしには、人間の多くの行為は説明されないし、又説明することができないだらう。これ等の行為は、それが悪であり、危険であるためにのみ魅力をもつのだ。一歩誤れば身を滅ぼす危険な深淵の魅力をもつてゐるのだ。この本源的な、抵抗することのできない力は、人間の生れつきもつてゐる非道であつて、それが、人間に、人殺しをさせたり、自殺をさせたり、刺客にさせたり、死刑執行人にさせたりするのである。』
 ポオが、その詩や所謂怪奇小説やで描き出さうとしたのはこの神秘的な力なのである。
 彼の物語りは、人生の例外的な出来事を描いたものであるといふ一般的な解釈は、それ故に誤つてゐる。彼の興味を惹いた世界は、例外的な世界などではない。例外にも何にも実在しない世界であると同時に、誰の頭の中にもひそんでゐる普遍的な力の支配する世界である。だから、彼の描く世界が普遍的に読者に迫る力をもつてゐるのだ。そして私は言ふが、科学者がコレラ菌を研究するのが、ちつとも悪いことではないと同じやうに、ポオがどんなに「不健全」な世界を描いたつて、そのことの故に彼の芸術を誹謗するいはれは少しもないのだ。

(「エドガア・ポオ集」 平林初之輔譯)

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