悪魔が誇示して以て或ひは前代未聞と称し或ひは珍無類の芸当と呼ぶ処のものは,そんなものはどうせ,極く俗な意味での『享楽』で,要するに金と女と名誉である。Faustが求めてゐる所のものは,そんな浅墓なものではない。彼の野心は,前にも述べた如く,無意味に鈍感に生きて半分麻痺してゐるやうな酔生夢死の人生に活を入れて其の惰眠を醒まし,人生が真に人生らしく緊張するやうにと云ふ所にあるのだ。此の見地から見るならば,金や女や名誉や好奇心の満足などと云ふ世間一般の享楽は,むしろ惰眠を助長するものであつて,それよりは,むしろ今までのやうな,書齋の中で悶々として鬱ぎ込んでゐた不満の生活の方が,まだしも多少かれの理想に添うてゐたかも知れないと云ふ奇論すら成り立つ位だ。――さうではない,博士が求めてゐるのは,むしろ『人生の深み』である,『生活の高潮』である。そのためには,むしろ女よりは失恋の方が向いてゐるのかも知れない。金よりはむしろ金のための真剣な苦労かも知れない。成功よりはむしろ失敗かも知れない。要するに人間として味へる限りの楽苦を味はひ,人間として心の奥に眠つてゐる感情の鍵盤を,最高のキイから最低のキイに至るまで,其の有りとあらゆる音色を有りとあらゆる可能なる順序に結合して嵐の如くに叩き廻はし,其処から叩き出し得る限りの旋律を全部叩き出して,『人心のピアノ』といふのはもう大体こんなものであつて,これが最大限度である,これより以上はもうピアノを叩き割つた場合の轟音より以外に出し可き音は無いと云ふところまで叩いて見たい…これがFaustの野心である。――かう云ふ野心は,中世紀の悪魔などには一寸わからないに相違ない。だから『悪魔だてらが,おれに何を呉れると云ふのだ!凡そ人間なるものの高邁な野心が,貴様のやうな奴等に理解されたためしがあるか!』と云つてせせら笑ふのである。
(「ファオスト抄」 関口存男訳註)