美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

かの魔力をもつ咒術者(フライエンフェルス)

2019年01月31日 | 瓶詰の古本

 宗教的咒術行為の多くは、現代人の目には、いかにも原始的で野蛮なものに見えるかも知れないが、しかしこれが宗教に及ぼす反作用を決して軽視してはならない。咒術が信仰される場合には、かかる反作用は必ず現はれなければならないものであるから、咒術を行ふ多数の咒医(メヂシンマン)や咒師(シヤアマン)を故意に人を欺く詐欺師だと考へるが如きは、大きな間違であらう。殊に咒術は通常外部の状況や暗示作用(とりわけ病気を癒すときには)によつて、効果をあげることの多いものであるから、彼等の術が時には効を奏さないことがあつても、彼等自身は勿論、民衆もこれを以て、咒術の無力であることの証拠とは考へないのである。しかし人びとが咒術の力を信ずるならば、咒術者の自信は必ずや力強く昂まるに違ひない。また咒術者が自己を神の代理者とか、神と同一であるとかと感ずるとき、彼はその感情を以て、彼自身が宗教的上界に関与してゐることの証拠と信ずるのである。そればかりか信心深い民衆もまた、かの魔力をもつ咒師――しかしその人を通して神々は業(わざ)をなし給ふのであるが――を、人間と上界の神々とを結びつける仲介者と考へるのである。だから理論的に云ふと、咒術は大抵の宗教に於て、架空的な実在に過ぎないが、しかしその効果から見るならば、重要なる宗教的意義をもつ現実的原動力である。恰も奇蹟が理論的には想像的なものと見られながらも、幼稚な基督信者に対して、イエスの神性を証明するのに奇蹟によるのが、もつとも簡明であるといふ事実を考へ合せるならば、如上のことは容易に理解されるであらう。だから迷信にとらはれない進歩的な思想をもつ人が、たとへ宗教的咒術をどんなに嘲笑しようとも、宗教的咒術は、しつかりとした心理的根拠をもつてゐるもつとも重要な原動力であつて、単に活動的宗教心のうちに存するばかりでなく、解脱的宗教心のなかにも働いてゐることを、忘れてはならないのである。

(「宗教の心理」 M・フライエンフェルス著 安河内泰譯)

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野心の漕刑罪人とバルザック(ストリンドベリ)

2019年01月12日 | 瓶詰の古本

 先生がいはれた、「バルザツクは、野心の漕刑罪人といふことに就て説明をして居るが、それはスウエデンボルグが説明した地獄の一節、ホーマーが描いたタンタラス、イキシオン、ダタイデスとよく似て居る。斯ういふ野心の罪人は、絶えず人よりも偉らくならう、人々にもて囃されようといふ激情に襲はれて居る。斯ういふ種類の人物が持つて居る勢力の愛は必ず罰される。野心家が人の首領たることの出来ない場合には、病気になるに定(きま)つて居る。ヴオルテールは、嘗て某王子が自分の門前を素通りされたので病み臥した。斯ういふ人物は、人から返事が来ないと、自分の信用威名が無くなつたものだと思つて、散々考へ込んだ揚句には憂鬱症になる。新聞紙に、何々王子が上陸された時に、某々の名家が出迎へられたと書いてあつて、自分の名が見当らなければ、世の中が暗になつたやうに情(なさけ)なく思ふ。彼等は最大人物とよばれても満足が出来ないのだ。彼等は人が褒められると、死ぬるやうに苦しむ。彼等は後輩に追つかれはしないかと始終おそれて居る。その心理作用が大犯罪人に似て居る。大野心家の肖像は、漕刑罪人の顔によく似て居る。横柄、怨恨、恐怖(特に恐怖)がその顔に画かれてある。
 意味は反対だが、バルザツクは、発見せむとする高尚な野心、歓喜のよつて生ずる善良な仕事にいそしまうとする高尚な野心に迫られて居た。然し彼の生涯は埋れて人には分らなかつた。巴里人からは知られず、よし知られたところで誤解され、漸く評判をとつても、それは些々たる年代史編纂者といふ評判だつた。然し彼は少しもそれを意にしなかつた。五十一歳になつて彼は漸く成功して、家庭をつくることゝなり、新婚をすることになつたが、結婚の報知をしたその日に死んでしまつた。それは解脱して成し遂げた崇厳な往生だ?」

(「新生の曙」 ストリンドベルヒ著 三浦關造譯)

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