美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

アラビヤンナイトの出版について(本間久、矢野運美、增子義亮)

2022年01月30日 | 瓶詰の古本

 真に世界的名著として昔から今日に至るまで東西南北いづれの国に於ても毎年々々夥多(おびた)だしい部数を出版されるものは実に五指を屈するに過ぎぬ。其中で第一に数へられるのはバイブルで、其次に位するのはバンヤンの天路歴程(てんろれきてい)とアラビヤンナイトである。此アラビヤンナイトは世界中どこの国でも年年各十種内外(廿五銭本から十円の物まで)を夥多しく出版して居るのに、我国だけは未だ其一種をも持たなかつた。(かの井上勤氏の訳書でさへも原書の半分しか訳してない。)それでは余り気の利(き)かぬ話だと云ふんで此書を出す事になつた。

(「全譯アラビヤンナイト」 本間久譯)

 

輙ち本書の年代及び起源の古くして沿革の曖昧なるその構成に於て亜剌比亜のみならず波斯、印度、埃及、希臘等に於ける昔譚を引用せる且つ本書の累代幾多の文士により改作されたる如き本書が文壇の一隅に優越の地歩を擅有せるも偶然にあらず亦た名所の世に名を恣にせるには常に紹介者あるが如く本書も亦た紀元千七百四年仏人ガランドの翻訳刊行さるゝ迄は毫も世に聞へざりしが同人の翻訳一度び顕はれてより世人はその内容の怪奇なるに魅せられたり
一千八百三十九年に至り英人レーンの立派なる翻訳出でゝより一層世間に普及されその声名倍々揚がると共に其後改訳改作せらるゝもの指を屈するに遑あらず
本書はフイラア、タウセンドの著を採用せるものにて之に比し新書ありと雖も原本は最も広く普及さるゝを以て特に之を撰び譚は夜話中の最も興趣に富める二十章を抜萃せるものにして世間に流布せる抜萃書の如きも多くこの題材を撰抜せり以て読者に対し対照上一段の便宜を与へ得べき乎

(「長楽夜話アラビヤンナイト」 矢野運美譯)

 

 此アラビヤ夜話、一名一千一夜物語は、その作者も、時代も、出生地も不明であります。恐らく紀元前八世紀頃、波斯語でかゝれたものと云ふことです。夫が十三世紀頃アラビヤ語に翻訳され、十八世紀に仏蘭西のAntoine Galland(アントーワヌ・ガラン)と云ふ人の仏訳に依つて初めて欧洲に紹介され、夫より各国語に重訳されました。此東洋の荒唐無稽、奇々怪々な物語は弘く世界の人に歓迎され、あらゆる家庭にとつて無限の娯楽の源泉となりました。
 本書は少年少女諸君の為め極めてやさしく書いたもので、訳註者の老婆心から、全然辞書を必要とせざる迄に出来るだけ詳しく註解を附し、種々類例を挙げて学習上の便宜に供しました。

(「アラビヤ夜話」 增子義亮譯註)

 

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大戦以前から今日に至るまで果てしなく討究されながら、未だ照射し尽くせない歴史の深淵として残存する

2022年01月27日 | 瓶詰の古本

 ヒットラー、アドルフ   独・政治家
財政的に国家瀕死の独逸、そこへ時を得顏に乗出したのが極右の国粋社会党と極左の共産党である。而してヒットラーは前者の首領である。彼は一八九八年墺太利の税関吏の家に生れ、幼くして歴史を好み、早くも国家主義に傾倒し、ウインに赴いて建築学を修めて製図家となつたが、同僚たちの社会主義に反対して、計らずも馘になつた。大戦勃発と共に故国を脱して、ババリヤ軍兵として出征し負傷した。偶々一九一九年、ミュンヘンのカフヱーの一室に彼を中心として国家主義者が会合した。彼の雄弁宏辞は直ちに国粋社会党なる一党を組織した。ニ三年、英仏のルール占領に対する国民の不平に乗じて、ル将軍と共にクーデターを決行して失敗投獄された。後独逸人民自由党を併合して、党を再建した。今や国内第二多数党として第三党の共産派と激烈なる抵抗ぶりを示してゐる。彼は極端な反マルクス主義者であり、且つ排猶太人主義で、彼及びその一党の目差す処は、大独逸の建設であり、眼中プロもブルも無く、只生産的独逸民族あるのみ。「醒めよ独逸」「パンと仕事」を標語とし、純党員は約三万で、普通会員、奇襲員、巡警員に分れ、厳重な規律があり、褐色の襯衣に赤色の腕章を附してゐる。大多数は退職士官、学生、青年団員で、未だ労働者の加入は少ない。その掲ぐる政策はムッソリーニのファシズムの少しく社会主義化したものである。

(「尖端世界人々名辭典」 早坂二郎 酒本麟吾共編)

ヒトラー Hitler,Adolf (1889-1945)。 ドイツの独裁的政治家。1921年ドイツ労働党(ナチス)の党首として反動的民族運動に入り,23年にはミュンヘンに一揆を企てて投獄。32年の大統領選挙に敗れたが,その党は第一党となり,翌33年には連邦首相。共産党を弾圧,34年ヒンデンブルグの死後大統領,首相となり,総統として独裁権を握る。ついで侵略政策を断行し,ドイツを全体主義国家にした。39年第二次世界大戦をひきおこし,41年にはソヴェート同盟と開戦し,45年敗れ,降伏に先立ち自殺。

(「思想人名辞典」 思想人名辞典編集部編)

 

 ヒットラー Adolf Hitler (1889~1945) オーストリアのブラウナウ出身。父は下級税関官吏。はじめ画工の助手とななる。1914年軍隊にはいり第一次大戦に出てニ回負傷して後送され二回目の入院の時1919年のドイツ革命が起り、ドイツ労働(ナチス)の党員となつた。爾来ナチス運動に奔走し21年には同党首として反動的民族運動に活躍し、23年ミュンヘン一揆を企て投獄された。入獄中「わが闘争」を書いた。その後32年の大統領選挙には落ちたが翌年には連邦首相、共産党を抑えて34年ヒンデンブルグの死後大統領となった。ついでザールの帰属・ラインランド進駐、オーストリアとチェコの併合などの侵略をなし、いわゆるドイツ全体主義国家を完成した。39年第二次大戦をひき起し41年ソ連とも開戦したが遂に45年降伏に先立って自殺した。

(「世界人名当用辞典」 井上洗耳編)

【生年等、各辞典記載のママ】

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ヒトラーに似た男(清澤洌)

2022年01月25日 | 瓶詰の古本

 欧州ではよくダブル――生き写しが問題になる。たとへばスターリンの周囲には、このダブルが沢山居つて、スターリンを暗殺しようとしても、どれが本物だか分らないといふ噂があるやうにだ。
 ヒトラーの周囲にも、このダブルが居るといふ説がある。筆者の机の上にあるヒトラーに関する著書の内三冊までが、そういふ事を書いてゐる。真偽は固より保証しないが、種々のデマ存在の例としてそれを紹介しよう。
 第一にはワード・プライスの著書だ。これはロンドン、デイリー・メールの重役で、信用の置ける人だ。日本にも来て拝謁を仰せつかつた。その著書はドイツに好意を持つて書かれて居るのでドイツ輸入を許されてゐる。
 かれによると、一九三六年九月に、ニユルンベルグでヒトラーが護衛隊を検閲した時、病人椅子にかけた傷病兵の中にヒトラーと瓜二つの人を見た。頭の毛も鬚もかれそのまゝで、若しも、両人が同じ場所にゐなかつたならば、とてもその区別はつくまいといふのだ。
 第二は例のガンサーのインサイド・ユーロープ(邦訳が出来て「歐洲内幕」といふ)で、この本はデリー・テレグラフの通信を引用して、ヒトラーの周囲には厳重な護衛がゐるが、その一人がこの生写しだ。彼はドイツ最高の月給取りで、必要な時にはヒトラーの代理として公開の席にも出るといふのだ。之は少し信じ難いことだが、噂として聞いて置く分には害はあるまい。
 も一つこゝにダブルについて奇怪な書物がある。米国に於ける最近のベスト・セラーズ(最も売れる本)の一つに『ヒトラーの怪死』といふのがある。この内容はアドルフ・ヒトラーは一九三八年九月二十九日の午前二時十三分に死んで、今ヒトラーの名を以て生きてゐる人は、マキシミリア・バウエルといふダブルだといふのだ。死因はヒトラーの周囲のものが毒殺したことになつてゐる。世の中にこれぐらゐ馬鹿々々しい著書はありはすまい。嘗て米国で『ハーデイングの怪死』といふ本(大統領ハーデイングが死んだのは夫人の毒殺によると記述したもの)が売れたことがあるので、それから考へついたことかも知れないが、こんな本が売れるとなると米国人の常識を疑ひたくなる。尤も信用ある新聞や雑誌は紹介すらもしないが、大衆は半信半疑で、筋の面白さに買ふのであらう。筆者の手許へは奇抜な一例として知人が送つてくれたのだ。
 馬鹿々々しいと知りながら、かうした事を紹介するのはヒトラー総統の存在が大になればなるほどそれをめぐつて種々のデマや噂が飛んでゐる事実を示さんがためである。そしてそうした噂がムソリーニになくてヒトラーにあるのは、後者の存在が一種神秘的な宗教的なものになつて来て居る証拠だ。ドイツではヒトラーは今や半神的存在だ。

(「第二次歐洲大戰の研究」 清澤洌)

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地上とは思い出ならずや、と稲垣足穂は言ったそうな(モーパッサン)

2022年01月23日 | 瓶詰の古本

 そのかみ睦じく恋人と相語らひ、相擁した思ひ出の場所を、ずつと後になつて訪ねた時のあの侘しさや、妄執のやうに附纏ふ在りにし人の面影に、覚えがある人はないだらうか。これこそ僕の知る限り、世にも烈しく、また苦しい思ひをする一時(ひととき)だ。彼女がどこからか入つて来て、にこやかに両腕を拡げるさまが、今にも目に見えるやうで、とりとめのない、そのくせはつきりとした彼女の面影が、目の前を行き戻りし、やがてどこへか消え去つてしまひ、それはまた夢魔のやうに、人の心を重くし、胸を一杯にさせ、はてはその非現実的な存在によつて、人の感覚をも溷濁させてしまふ。といふのも彼女のまぼろしが目には見え、そのつけなれた香水の匂ひが、どこからともなく鼻を撲ち、その接吻の味がまだ唇の上に残つて感ぜられ、その肉の愛撫が皮膚の上になまあたたかく感ぜられて来るからだ。が、そのくせそこは誰もゐない一人ぼつちなのだ。またそれは知り過ぎるくらゐ自分でも知つてゐるのだ。けれどもゆくりなく思ひ浮べたまぼろしから受ける不可思議な混乱のために、さんざんに苦しみ、と同時に重い、胸を引き裂くやうな悲しみにとりまかれて、まるでいましがた永遠の別離を告けて来たやうな感じがして、あらゆる物体が、みなそれぞれに物悲しげに見えて、見る人の心に魂に、怖ろしい孤独や追放の印象をなげつける。ああ、まことにかつて愛人をもろてに抱き締めた町や家や部屋や森や庭やベンチを、二度と再び見るものではない。

(『ロンドリ姉妹』 モーパッサン 小西茂也譯)

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確かに彼にとっては自分自身が唯一の世界存在と思いたいだろうが、多分それは凡庸人のありきたりな独りよがりに過ぎない(ドストエフスキー)

2022年01月18日 | 瓶詰の古本

 「私は日の出るころに、パヴロフスクで死のうと覚悟を決めた。しかも別荘の誰にも心配をかけないように、ひとり公園へ行って死のうとしたのである。私の『告白』は警察に対して、事件の顛末(てんまつ)を十分に説明するに足るであろう、心理学に興味を寄せている人や、そのほか必要のあるかたがたは、この『告白』からなんとでも、都合のいいように、結論を下されるがよろしい。それにしても、私はこの原稿が公けにされないようにと念じている。なるべく公爵に写しの一部を手もとに保存し、さらに一部をアグラーヤ・エパンチンに渡していただきたいと思う。これが私の本懐である。ここに遺言して、私の遺骨は学術研究の資料として、医科大学へ寄付することにしよう。
 「私は私を裁こうとする人を認めない。私は今、あらゆる法権の外に立っていることを知っている。ついさきごろ、こんなことを予想して吹き出してしまった。もしも今、急に私が手当たり次第に、一度に十人くらいの人を殺すとか、この世の中でとにかく最も恐ろしいことと考えられている何か最もすさまじいことをしてみようと考えついたら、余命わずか二、三週間にして、拷問も折檻(せっかん)も何の役にも立たない私の前に立つ裁判官はいかなる苦境に陥るであろうかと。私は注意深い医者がついていて、おそらくは自分の家よりもはるかに居心地がよく温かいお上(かみ)の、病院で、温まりながら、眠るがごとき往生を遂げるであろう。私と同じ境遇にいる人々に、たといほんの冗談にもせよ、これしきの考えが、どうして念頭に浮かばないのか、私には呑み込めない。もっとも、ことによったら、浮かんでいるかもしれない。この国には、そのくらいのことを考える陽気な連中が、ざらにいるのである。

(「白痴」 ドストエーフスキイ 中山省三郎訳)

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スメルジャコフはドストエフスキーが殺した

2022年01月14日 | 瓶詰の古本

 スメルジャコフが自殺(自らを縊り殺)したのは、如何なる訳があってのことだろうか。イワンに全てを告知してしまった後、状況を踏まえればスメルジャコフ本人が話した通り、親殺しの嫌疑、真犯人と名指しされるおそれはまずない。
 さらに、彼自身の胸中において真犯人はイワンであって、彼本人はその指図に忠実に従い、教えのままにフョードルを殴殺したに過ぎないと信じている。だから、そもそも犯罪に対する良心の呵責自体が最初から存在していないし、罪の発覚、処罰への恐怖もまず胚胎していなかった公算が高い。
 ならば、何故スメルジャコフは自殺してみせたのか。罪を悔いたのでもなければ、罪の露見に怯えたのでもないとすれば何故だろう。
 まさかとは思うが、スメルジャコフが死ななければ「カラマーゾフの兄弟」第一部を小説として完結させることが困難だったから、ということはないだろうか。スメルジャコフが生き長らえていたら、今ある形で小説を閉じることはできず、まだまだ展開させなければならないその先を暫く書かなければならない(終わらない)。スメルジャコフが死に、イワンが狂熱の人事不省に陥ったればこそ、(誤った)裁判は誤ったまま結了し、ミーチャの不条理な冤罪の運命が動かし難いものとして確定し尽くして、小説の一旦の終局が訪れてくれる。
 つまり、スメルジャコフは小説に一区切りつかせるためにドストエフスキーが殺してしまったと、こう考えるのはキリスト教の神や聖書について何一つ分からず、小説作品について碌々思案したこともないド素人の創造への冒瀆、どんな小説にだって当てはまり馬鹿馬鹿しくて誰も口にしない狂人の新発見というやつだろうか。
 ドストエフスキーはこれによって、「罪と罰」から「カラマーゾフの兄弟」に至る五長編の全てで、漏れなく自殺(未遂を含む)という行状を書き残したわけだが、例えばスヴィドリガイロフやスタヴローギンの場合、死のうが生きようがどちらを選んでも当該の作品にとどめを刺すことはないが、スメルジャコフをのめのめ生かしてこの小説から出すわけにはいかなかった。小説は自らの筋書きによって偉大となることを求め、且つ偉大なまま(第一部としての)完結を求めたが故に彼の運命は決定づけられ、その筋書きにしたがってドストエフスキーはスメルジャコフを殺したと。

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迷信によって行賞を受け更に滅びへと導く者(森田正馬)

2022年01月12日 | 瓶詰の古本

 今迷信の弊害に就いて、思ひ出すがまゝに、其実例を挙げて見れば、先づ北條氏の滅びたる一原因として、此迷信が大に関係してゐる。それは弘安四年、元寇が暴風のために敗れたといふ事から、僧徒神人は、其行賞を受くる事が常に武人に勝り、次第に権勢が強くなると共に、是等僧徒神人は、驕横となり、其要求は愈々多く、意にかなはぬ事があれば、直ちに神木を担ぎ出して、朝廷を脅かすといふ様な事が屡々あつた。それで其祈祷のため、寺社、殿堂修築に費やす所は、兵備築塁に勝り、租税は益々重きを加へたため、諸国困弊して、終に北條氏は天下人心を失ふの緒を開くに至つたのである。これ蓋し元寇の時、暴風の起れるは、神の威霊であつて、祈祷の力によるものとなし、元兵去りて後は、益々諸国の社寺に命じて、盛に祈祷を修め、大難既に去つて、降伏鎮靖の祈、年を経て益々盛んとなつたが故である。迷信の国家に及ぼす弊害も茲に至つて大といはなければならぬ。

(「迷信と妄想」 森田正馬)

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神田伯山の芸術(石田龍藏)

2022年01月09日 | 瓶詰の古本

 私は講談としての講談を是非する玄人ではない。専門家ではないが、然し伯山を是非する事が天下の法度でない限り、自由自儘の筈。
 伯山の陣容は魚鱗鶴翼の備へを立てて、大道をひた押しに押して行くものではない。奇兵を以て敵の虚を突かうとするのだ。覆面黒装束の曲者が、木の下闇に紛れて峠の峴道から現はれたと見れば、抜く手も見せずに斬つて落す。三人五人、サツと吹く凄風に乗じてか曲者の姿は早闇に紛れて失せた。
 といふ物凄さである。而して勝算既に彼の掌中にありといふ者、更に其斬味たるやだ、大身の槍ではなく又、正宗や村正などの太刀でもない。ジりジりと油煎りにした青竹の槍なんだ。其斬口たるや、傷口を見えずにじつとりと血が流れるのではなく、ザツクリと破れて口を開け、ドクドクと迸しる血潮。
 それが何時までも何時までも耳から目に浮んで来て忘れやうとしても忘れられない。其所に伯山の妙味があるといふ訳。
 余りに横道が多くて何を聞いたのだか判らない様な、そして、肝心の本筋だけが明晩の前講になるといふ先生達が沢山あるが、吾が伯山に限つてそんな馬鹿な事はない。一席で客を満足させる、筋はたつぷり進めて行く、だから誰れだつて安価い安価いと嬉しがらずには居ないのだ。
 伯山の人気は客に依つて作られたのではない。伯山自身の精力と勉強による正当の酬ゐなんだ之れあるが為めに今日の伯山たらしめたのであるが、更に彼の凄じい啖火と軽妙な滑稽がある。正しく彼に取つての鬼に金棒だ。

(「世相百態 明治秘話」 石田龍藏)

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不老長壽、というか人生百二十五年を先見した人(下中芳岳)

2022年01月05日 | 瓶詰の古本

不老長壽論
「吾々が『人生五十年』と言つて、多くは百歳の壽を保ち得ぬのを自然的常命のやうに考へて居るのは間違つて居る。あらゆる生物はその成長期の五倍は生きる。人間は二十五歳までを成長期とする故、約百二十五歳までは当然生きらるべきである。然るに、さはなくて、五十、六十で死に、若くは老いて役に立たなくなるのは何故か。人間の腸には沢山の二裂桿菌が居る。腸内腐敗は、此の菌の繁殖に本づく。而して腸内腐敗はあらゆる病気の源であるのみならず、早老の原因たる動脈硬化を誘致する。故に、此の腸内腐敗を拒げば、人間は今よりもずつと長壽を保ち得る。腸内腐敗を拒ぐ方法としてはかのブルガリア菌(ヨーグルトには之を多く含む)を腸内に繁殖せしむるのが一番よい。」といふ仏蘭西の学者メチニコフ氏の創説。

(「ポケット顧問 や、此は便利だ」 下中芳岳編著)

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周義先生と若君の患者(瀟湘錄・安成三郎)

2022年01月02日 | 瓶詰の古本

 鄭の国に周義という医師がありました。才気勝れて高く且つ独立不羈といつた性質の人でしたが、仁術を以て任じ、人の急を聞くと、食べものを吐き出してもそれに赴き、療治してやるので郷党に神の如く思われて居りました。
 或日一人の若者が、錦の衣裳をつけ、杖をついてビツコを扶けながらやつて来て、周義の診察を頼むのでした。
「私は孟州県の太守の子ですが、偶ま郊外に猟に出て兎狩をしました。少し獲つたかと思うと、私の持つて行つた鷹、犬、一緒に行つた十余人の少年等、おまけに乗馬まで何とも知れず悉く斃れて了つたのです。私も流矢に中つて右足を傷けられたのですが、全く何処からどう射られたか分らないのです。このまゝ帰えると、恐らく、少年達の両親が、私を棄てゝおかないと思います。といつてこの足では遠く奔ることも出来ません。先生は天下に聞えた名医と承つてやつて参りました。何卒私を当分匿まつて御療治して頂き度いと存じます、後日屹度御恩報じをいたします。」
 義は窮鳥懐に入る時は猟師も殺さずといわれる猟師以上の医師でありますから、言下に
「えゝ宜しい、お引受けしましよう、安心してゆつくり御養生なさい。」
といつて治療をすることになりました。それから百余日を経て漸くその傷もなおり、跛になることから免れました。しかし義はその間孟州に右のような事があつた事は、全然耳にしませんでしたので、不思議に思い、或る晩その若者と全快祝の酒を酌みながら問うて見ました。
「貴方が最初私の処へ見えられた時は、孟州の太守の令息と名乗り、猟に出て死んだ人があつてその為帰えれないといわれました。それ以来ひそかに注意して居ましたが、今だに此のような事があつたという話を聞かないので、私は貴方を疑つて居るのです。どうです?、ほんとうの事を話して呉れませんか、どんな事があつても貴方に対する私の心は変りませんから、安心してお話しなさい。」
 若者は暫く沈吟して居ましたが、急に席を立つて義を拝し
「実は私がこんな出たらめをいつてお願に参りましたのは、どうしても先生でなければ療治が届かないと思つたからですが、今の先生のお言葉で、これ以上かくしておくわけに参りませんので申上ましよう。しかし先生、それをお聞きになつても、先生の人の急に赴くような御心を少しでも動かすことのないよう祈つて、そうしてほんとうの事を申上ましよう。」
「御心配御無用です、何を聞いても大丈夫です。」
「有りがとう御度います。私は実は孟州県に住む虎なので御座います。フトした事から多数の人を傷けましたので、太守は州兵を動員して私を捜し出し、私を屠ろうとして居るのです。私は実際怪我をしましたのと、遥に先生の高義と当代の耆婆扁鵲でいらつしやる事を承つて居り、それで人間に化けて先生のお袖にすがつて助けて頂いたのですが、先生は私の言を信じて私を若君待遇して療治して下さいました事は、何とも有りがたい事で御座います。たゞもうどうしてこの御鴻恩を報じようかという気持で一つぱいです。たゞこう事実を申上ました上は、こゝに住(とゞ)まることはゆるされません。というのは何時虎の本性になつて先生をたべたくなるか分らないからです。ではおいとまを頂いて山に帰ります。御恩は忘れません。」
 と、忽ち大きな虎となり二声三声吼えて何処かへ行つて了いました。それから一と月ばかりした或る夜一人の少年が、義の家の垣を越えて入つて来て、何か家の中へ鏘然と投込み
「私は曾て大恩を享けた者です。万分之一にもとこれを差上ます、何卒御収め下さい。」
 義がその声を聞いて投込まれた物を見るとそれは仙人でもするのか黄金の枕でした。少年は、義が枕を手にしたのを見て、再び虎となり勇躍して何処とも無く去つて行きました。

(「怪力乱神(中国怪談集)」 安成三郎訳)

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