ヴヱルレヱヌと云ひ、また、チエホフと云へば、読者の心にすぐその作家のおもかげが、はつきり浮かんでくるでせう。太宰治もまた、さういふ懐かしい作家の一人です。こなひだある雜誌に、三井ふたばこといふ人が、この人は西條八十の娘さんのやうですが、お父さんの話を書いたついでに、一寸太宰治のことを書いてゐました。みだりに引用することを許してもらふならば、三井さんはこんなやうなことを云つてゐました。敗戦後、心の苦しかつた時期に、太宰治の作品を読んで、慰めをうけた、彼の作品が聖書以上に優しく心に沁み込んできたと、おそらく、彼にはかういふ隠れた読者が少くないことでせう。それは彼が読者をだますことをしなかつたからです。そしてそのためには、書きたくないことも忍んで書いてきた作家だからです。そしてまた、彼自身が、タンポポの花一輪に、チサの葉いちまいに、信頼と慰めを感ずることの出来た、柔軟な心の持主であつたからです。
彼はある作品の中で、自分のことを、「歯が、ぼろぼろに欠け、背中は曲り、ぜんそくに苦しみながらも、小暗い露地で、一生懸命ヴアイオリンを奏してゐる、かの見るかげもない老爺の辻音楽師」に喩へてゐます。耳ある者は聴くべし。これは決して作者の傲岸の言葉ではありません。素直な読者の黄金権にだけ望みをかけてゐる、作者の正当な心構へであり、また願ひです。太宰治は胸襟をひらいて、読者に語りかけてゐます。古来一流の作家たちがさうであつたやうに。読者もどうか、彼にまつはる、さまざまな伝説や偏見にとらはれることなく、この小冊子を繙いて下さい。読者はきつと、この本に心の友を見出すことが出来るでせう。
(「太宰治集」後記 小山清)