美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

才子ぶりたがる病気(モリエール)

2018年12月31日 | 瓶詰の古本

   クリタンドル 近頃あの年の若いクレオン氏の許へ、かなり相当の人物が出入する様になりましたが、あの男は一たい如何(どう)お考へになります。
   セリメーヌ あの方があんなにえらくなつたのは料理番のお陰でせう。御機嫌伺ひに行くのではなくて、お料理をたべに行くのでせう。
   エリアント さう、飛びつ切り上等の御馳走を出さうと思つて荐りに苦心してゐる様ですね。
   セリメーヌ えゝ、併し慾を云ふとあの人自身を出さない様にして貰へれば尚ほ結構ですがね。あれだけは、実に愚劣で、鼻持ちのならない御馳走ですからね。たとへどんな御馳走が出ても、あんなのが控へてゐては、少くともわたしは喰べた心地がしませんね。
   フィラント あの方(かた)の伯父さんのダミース氏にはかなり人望がある様ですが、奥さんの御意見は如何ですか。
   セリメーヌ あの方(かた)はわたしのお友達なんですの。
   フィラント 相当しつかりした人物だと思ひますね。かなり事の解つた様な顔をしてゐるではありませんか。
   セリメーヌ えゝ、たゞ一つ才子ぶりたがるといふのが病気でしてね。これだけはわたしも少し我慢がなりませんの。しよつちゆう衒ひづめなんですもの。何の話をしてゐても、何か名句を吐かうと思つてしきりに苦心してゐるのが露骨に眼に附きましてね。自分が博学多才の士であると決め込んでしまつてからといふものは、たとへ何を見せられても、『好い』といふ事は決して言はない。いやにむつかしくなつてしまつたんですの。他人(ひと)の書いた物なら何とか云つてけちを附ける。つまり、褒めるなんて事は玄人のす可き事ではない、難癖をつけるのが、之れが学者だ、感心したり笑つたりするのは抑々大馬鹿野郎共に限る、苟しくも現代人の手になつたものは何一つ之れを認めないが故に俺は他の奴等よりもずつと偉い、といふ訳なんです。一寸した会話にすらも早ややかましいことを云ふんですの。つまり、そんな談話は態々吾輩の如き人物が参加遊ばすにしては余りに趣味が低級すぎるとでもいふのでせう。皆が色んな事を云ひ合つてゐるのを、独り腕を組んで、その高邁なる見地からして、哀れむが如き眼附を以てつくづくとお瞰下し遊ばしますわ。

(「人間嫌ひ」 モリエール作 關口存男譯)

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心霊現象と奇術(長谷川智)

2018年12月27日 | 瓶詰の古本

○心霊現象や霊術法力と称するものは、神霊や霊魂の実在及び力の証明にはならない。何となれば、それらの現象と同一のもの、又は近似せるものを、趣味奇術によつて行ふ事が出来るからである。
○心(神)霊力は在るべきものに違ひないのだが、それが現在までの心霊研究者や法術家によつて演じられてゐる戯技同様の現象であるとは考へられぬ。
●現在までのそれらの現象が純正であるならば、神霊や霊魂などといふものは甚だたわいない存在である。
●仮に、今までの心霊現象が全部真実であつたとしても、そんな手品に等しい現象で、それらの力を証明せんとするのは心(神)霊に対する甚だしき冒瀆である。
○科学者であり、著名な心霊学者であるサー・オリヴー・ロツヂや、名探偵小説家コナン・ドイルに折紙をつけさせた霊術家ジユールス・ザンチツク夫妻はその最後に於て彼等の以心伝心術のタネ伝授の広告を、奇術雑誌スフインクス(アメリカ)に掲載した。
●同一現象も種があれば奇術、種がなければ超自然現象といはれる。
○現在の奇術研究上から見ると、
 『心霊現象は奇術(手品)現象なり』といふ仮説は、成り立つが、
 『心霊現象は正真現象なり』といふ仮定は、少しも裏書きするものがない。
○現在日本の霊術家で物体浮動現象の大家K氏や、過去の有名な霊術家三田光一等は元を質せば一介の手妻使ひであつた。
○近世奇術師中の偉才、米人ハアリー・フーヂニー(約十五年前歿)の奇術を、心霊力の証明に使つた心霊家――英国心霊大学校長J・H・マツケンジー氏――がある。
○あまり優れた奇術を演じると、大衆は『彼は単なる奇術家ではない。彼は超自然力を持つてゐる霊能者だ』とさへいふ。
○最近物故した日本心霊科学協会の淺野和三郎氏が、某著で『今まで多数の心霊現象や実験会に立会つたが、詐術の疑ひの無かつたものは、僅か四、五回のみであつた』といふ意味の事を述べてゐる。
○心霊現象や霊術法力などの奇術的技法解剖を行つても、その信仰は打ち破れない。
○同じ条件で宣伝しても、霊能者の奉讃会とインチキ解剖会では、前者の方に数倍の人が集る。
 人間は発いたり、攻撃したりするより、讃め称へたり信じたりする方が好きである。此処に『迷信打破の会』や『信仰排斥の会』の盛り上らぬ根本原因があるらしい。
○『霊魂の実在を否定すると靖国神社の奉祀理由が無くなる。故に霊魂の実在を認める』こんな言葉を吐く人がある。最下等の人格しか持ち合せぬ人だ。神や霊魂の存在に就ては、神代七世と同じく信じるべきもので論ずべきものではない。
○すべての法術的奇術(自然奇術)はその科学的理論を知つて演じるより信念によつて行つた方が容易である。
○心霊現象を信じてゐる人と、さうでない人に同時に奇術を見せると、前者の感歎は甚だ大きいが、後者には全然関心を持たぬものすらある。
 奇術実演者にとつて、心霊信者は最もよい観客である。
○心(神)霊現象を信じる人の多くは、理論で信じるのでなく、不思議さが好きで信じるのである。
○気のキイタ幽霊は引込む時代である。
●幽霊が出にくゝなつた程、今の世の中はせちがらい。

(「奇術つれづれ草」 長谷川智)

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恋の心を起こす第一の重なもの(セルバンテス)

2018年12月09日 | 瓶詰の古本

『サンチョーよく気をつけい、』とドン・キホーテは言つた、『恋といふものは何んな思慮にも影響されず、どんな理性の拘束をも認めず、死と同じ性質のもので、金殿玉楼の王をも貧しく賤しい小屋の羊飼をも同じやうに襲ふのぢや。そしてそれが心の全体を占めてしまふと、それが為始める第一の事は、心から恐怖と羞恥の念を逐ひやることぢや。それ故恥かしいと思はずにアルティシドラは心のたけを述てをるのぢや。あれは拙者の心には気の毒とよりも寧ろ当惑を感ぜさせたわい。』
『ひどい邪慳なことぢや!』とサンチョーは叫んだ。『聞いたこともない情知らずぢや!私ア内証で言ふのでござりますが、彼の娘のほんの一寸した可愛らしい言葉を聞いたばかりでも、私はその言ふなりになつて奴隷のやうになつたでござりませう。えゝい!貴方は、何といふ大理石のやうに冷たい心ぢや!何といふ真鍮のやうな腸ぢや!何といふセメントのやうな魂ぢや!ぢやが私はあの娘が旦那様の何を見てあんなに参つてしまうたか考へつきませんわい。何んな華美やかなお姿が、何んな大胆な御様子が、何んな元気なおやさしが、何んな顔形の美しさがさ、さういふものゝ一つ一つか全体か、一体何がまアあの娘に旦那様を思はせることになりましたやら?全く何遍も私は立ち止まつて旦那様の足の底から頭の頂辺の髪まで眺めましたが、人に思ひをかけられるよりか怖がらせる方が多からうと思ひましたよ。それに恋の心を起す第一の重なものは、美しいことぢやと人のいふのを聞きました、けれども旦那様は少しもお美しいところはないのぢやから、私はあの可愛さうな奴めが何に思ひをかけたのか分りませんわい。』
『考へて見るがよい、サンチョー、』とドン・キホーテは答へた、『美しいといふのにも二た通りある、一つは心の美しさで、も一つは体の美しさぢや。心の美しさは智慧に、温和に、貴い行ひに、心の寛さに、良いたしなみに表はれるのぢや。そしてかういふ性質は醜い人にも在るものぢや。人の心を引くものが、此の種の美しさであつて形の美しさでない場合には、恋は急激に烈しく突発し易いのぢや。サンチョーよ、私は明かに自分の美しうないことを認めてをるが、それと同時に自分の醜怪でないことも知つて居る。若し人が上に述べたやうな心の天賦を持つて居るならば、怪物とはならず恋の的となるには、正直な人にとつてはそれで充分ぢや。』

(「ドン・キホーテ(下)」 セルヷンテス 島村抱月 片上伸共譯)

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偽書物の話(百六十九)

2018年12月05日 | 偽書物の話

   成程、偽書物は並み居る書物とは一味違う方法、一個一個に意味を体現する文字を介することなく水鶏氏を別世界へ案内し、現世界にある複層の更なる様相を鮮やかに見せつけた。そこでは、遷移する顔貌を後ろ陰に暗示する謎めいた悪辣さは窺えない。水鶏氏の書物へ注ぐ切愛には、さすがの偽書物も込み入った手で誑惑するのをためらったものと推せられる。黒い本の挿し絵の画像が私に似通って、その上、男とも女とも見えるのは変幻自在な面貌に自然と現われるとらえどころのなさである。水鶏氏の視線が私に向けられて動こうとしないのを感じながら、頑なに表情を変えないでいるのはいかさま息の詰まる難行である。いずれにせよ何者かから解放され、これ見よがしにほっとした表情に戻ることで、私は心の均衡を細々保っていられた。
   「時を追って挿し絵が私に似て来るのか、元々似ている顔容に目からうろこが落ちたのかは依然藪の中であり、それあって殊異な別世界が開示されたのであれば、その錦地世界の素晴らしさを披露する栄誉に涙するでしょうが、見聞きし実感する別世界がそこで開かないのは、真から残念な話で地団駄踏む思いです。文字めいた形像の連なりが凸凹にせり上がり、せり落ちして目と耳を彩に驚かす別世界が現出するのは、私の高望み、愚直に文字を拾って読もうともせず書物への歪んだ恋着を募らせる人間に永劫閉ざされた至福なんでしょうか。」

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ワタクシをやらねば世帯はもてない(倉田一郎)

2018年12月02日 | 瓶詰の古本

 わが国の民間生活をみると、辞書にいふワタクシとは幾らか趣を異にするワタクシがみられる。辞書を作つたものゝ眼にはとまらない僻陬の生活ばかりに、之が在るのではないが、気がつかないだけである。やかましい公私といふ熟語の慣用してゐるワタクシから、もう一歩常民の生活に立入つて、始めて気づくものである。この国の民間の詞でワタクシといふものは、端的にそれを表現したものと自分は考へてゐる。
 沖縄本島の常民のあひだでは、家族のもつてゐる私有の財物をワタクシと呼び、茲では金銭は勿論、牛・馬・羊などの如き家畜から、土地までもワタクシの目的となつたらしい(シマの話)。薩南諸島中の沖永良部島でも、結婚前の若い女たちが収穫時に籾をぬいたり、百合を栽培したり、或は他の労働に依つての所得を貯蓄することがワタクシで、これが女の財産であつたといふ(シマの生活誌)。喜界島でもワタクシといふ女の私金を意味する語がみえてゐる(喜界島方言集)。言ふまでもなく、家長以外のものゝ私有財産をさしてゐる。だから土地に依つては女・子供の所有物をワタクシモノと謂ふ例もあるやうだ。かやうなワタクシは、古い国風の遺つてゐる沖縄や奄美の島ばかりかといふにさうではなく、内地では近畿・四国あたりにも、この詞が行はれてゐる。吉野の野迫川などで謂ふワタクシは内証金のことであるが、和州の宇智郡あたりでは奉公人の休日までワタクシなのである。これは謂はゞワタクシの行はれる時とその結果とを示したものといふべく、この他、我家の仕事を済ましてから他家の手伝ひをするとか、夜なべ仕事に俵を編んだり、或は家を離れて奉公に出た娘などの所得も亦ワタクシと謂ふ所が尠くないのである。讃岐西部の山村などでは、親や主人の眼をぬすんで男衆に頼んで俵を売るとか、トビツ(米櫃)から一二升とり出してよそへ売りこかしたりする事がワタクシで、ワタクシをやらねば世帯はもてないものだといふ述懐もある(山村生活の研究)。

(「經濟と民間傳承」 倉田一郎)

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