「学問即ち物の理がわかると云ふ事と生活の自由即ち金があると云ふ事とは独立して関係のないのみならず、反つて反対のものである。学者であればこそ金がないのである。金を取るから学者にはなれないのである。学者は金がない代りに物の理がわかるので、町人は理屈がわからないから、其代りに金を儲ける」
何か云ふだらうと思つて道也先生は二十秒程絶句して待つてゐる。誰も何も云はない。
「それを心得んで金のある所には理屈もあると考へてゐるのは愚の極である。しかも世間一般はさう誤認してゐる。あの人は金持ちで世間が尊敬してゐるからして理屈もわかつてゐるに違ない、カルチュアーもあるに極つてゐると――かう考へる。所が其実はカルチュアーを受ける暇がなければこそ金をもうける時間が出来たのである。自然は公平なもので一人の男に金ももうけさせる、同時にカルチュアーも授けると云ふ程贔屓にはせんのである。此見やすき道理も弁ぜずして、かの金持ち共は己惚れて……」
「ひや、ひや」「焼くな」「しつ、しつ」大分賑やかになる。
「自分達は社会の上流に位して一般から尊敬されてゐるからして、世の中に自分程理屈に通じたものはない。学者だらうが、何だらうが己に頭をさげねばならんと思ふのは憫然の次第で、彼等がこんな考を起す事自身がカルチュアーのないと云ふ事実を証明してゐる」
高柳君の眼は輝やいた。血が雙頬に上つてくる。
「訳のわからぬ彼等が己惚は到底済度すべからざる事とするも、天下社会から、彼等の己惚を尤もだと是認するに至つては愛想の尽きた不見識と云はねばならぬ。よく云ふ事だが、あの男もあの位な社会上の地位にあつて相応の財産も所有して居る事だから満更そんな訳のわからない事もなからう。豈計らんやある場合には、そんな社会上の地位を得て相当の財産を有して居ればこそ訳がわからないのである」
(「野分」 夏目漱石)