美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

瓶詰の古本屋(十七)

2011年01月29日 | 瓶詰の古本屋

   「まさしく寝言なんだ。丸っ切り意味が分からん。」
   古仙洞は口一杯にお茶を含み、咥えた煎餅を柔らかくしながら喉へ送り込むと、つぶやいた。好きではあるが、固めの煎餅は苦手らしい。
   「おれにだって、分からない。言葉として残ったばかりで、いったん覚醒してしまったら、出来事は確かに存在したのにその意味を読むことはできないのさ。夢の意味を探す馬鹿な真似は、さすがにしないだろう。ただ、そんな夢を見たおかげで、頭は考えているのじゃないということが分かったという話だ。日常あたかも考えているようでいて、頭は考えているんじゃない。ほとんど感じているだけに過ぎないんだね、実は。自動回路の暗がりを鼻面引き回されているくせに、自分の頭で考えていると思い込まされているだけ。そして、昼間働くことのない、夢のうちで初めて発起する頭の仕事に出会って、未遇の体験に深く驚くことになるのよ。本当のところ、いかになんにも考えちゃあいないかが知れるってもんだ。」
   しかし、この話を聞きながら、傍らにいるぼくの胸はシンとしていた。似た夢を見たことがある。やはり、白い家が点々と散らばっていた。丈高い草が絶間なく風に靡いて、波立っているようだ。その真っ只中をふうわり、ふうわりと漂っている。明るい無限の風に流され続けている。ひょっとして、寸分違わぬ風景を目に映していたのだろうか。二人とも、同じ夢の場所にいたのだろうか。あるいは、今のいまもどこかで揺らぎ、どこかへ降り続けているのかも。
  「あの、さっき話に出て来た闇の木橋渡りって、いつごろから始まるんですか。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瓶詰の古本屋(十六)

2011年01月22日 | 瓶詰の古本屋

   「足元は何だか草原の柔らかさを思わせる。色の鮮やかな花なんか咲いておらず、ただ緑のそよいでいることだけは確かなのだ。無限にそよいでいる。緑の波のなだらかな斜面を、映画のスローモーションのように、ゆっくりとジャンプしては降り、降りてはまたジャンプして、下へ下へ降りて行く。見上げても、見下ろしても、どこまでも緑のそよぐ斜面が続いているだけ。どこまでも降りて行く。どこまで降りても涯しがない。ところどころに、白いペンキの塗られた家が建っている。ぽつん、ぽつんと建っているのが、緑のそよぎの中にくっきりと浮かび上がって見える。白い色をした家の内側では、人々が人々なりの温かい暮らしをそれぞれに送っていることが分かっている。
   しかし、おれは、この世界でたった一人、ひたすらに降り下って行く。時計の針が回転し続けて、千年数えるか、一万年を数えるかは知らない。全く音のない世界で、とにかく、ゆっくりゆっくりと降りて行くばかりなのだ。怖いとは思わない。かと言って、気持ちが良いという訳でもない。ただ、際限のない降下をしているという体感があるばかりなのだ。その感覚は、現実の生活では絶対に出くわしたためしのない感覚だった。生まれた拍子に忘れ落としたもの、きっと生まれる前には深く馴染んでいたに違いないと信じたくなる感覚のようでもあった。
   夢から覚めて、その感覚から引き剥がされて行く哀しさとともに、自然と言葉が浮かんで来た。心も体も成行きも借りもの。一つはすべてであり、だから、そのままの一つは、すべてのそのままのことなんだと。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瓶詰の古本屋(十五)

2011年01月15日 | 瓶詰の古本屋

   「そういえば、夏目漱石の『彼岸過迄』の中に、雨の日に二歳の子供が死ぬ話が出て来る。あの話も哀切だね。何度読んでも胸に迫る話だ。雨の日に訪ねてくる客とは会わないという謎が哀しい話で解かれるあのくだりはね。
   それはそうと、相変わらずこの店は流行らないね。今気がついた。客が全然現われないじゃない。かかる事態をしも哀切と言わなければならんのか。」
   「残念ながら、哀切とまではいかないなあ。だって、たまには客が来るんだもの。そして、たまに来てくれれば十分なんだ。人一人食って行くと考えたら、まあまあ散文的な商いに感謝しなければと思わなくっちゃあいけない。」
   「ふむ、うちとおっつかっつの柳腰ってとこかな。男児たる者が地を踏むにしては弱っちい足腰なんだが、特段何か大きな仕事をこれからやろうとしている訳じゃないしな。土台、余分のお金ってのは一向に入って来ないもんだ。」
   「金はあればあるほど良いにきまっているさ。有り余るなら、なお嬉しい。無論、そんな結構が手に入る見込みは期待薄だね。故に、金がなければ出会うことのできないもので本当に宿命的なものなどないと、そう思うようにしていますよ。金に縁がないことが、おれにとっての宿命なんだとね。それを、おれは小さい頃から知っていたつもりだったんだが、実はこの歳になってようやく分かって来たような気がする。いや、あきらめというんじゃなくてよ。例えばだ、この前こんな夢を見たんだ。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瓶詰の古本屋(十四)

2011年01月09日 | 瓶詰の古本屋

   「まず彼の話のどこに我々は哀切さを感じるかを考えてみればいい。それは、きっと子供にまつわるもの、子供とその親にまつわるものではないかな。そこに、最も純粋な愛の形があるとドストエフスキーは考えていたんではないかな。それを大切に最上位に置いてから、その次に荒れ狂うばかりの激しい男女の愛を、喜劇悲劇の舞台を取り混ぜて、思うまま語ったのだと勝手に思っている。まあ、親子の至上の愛を語らずしては、それ以外の愛は決して語り得なかったのかも。他の言い方をすれば、この情愛が至上のものと知ってさえすれば、それ以外の愛情は如何なる形でも存在することを許される、親子の情愛が至上のものと知り得ぬ人間にとっては、自ずから、人に対する偽りの愛の形が連なると考えるのだ。心に一番痛切に響くのは、一番大切なものが失われたときだ。一番大切なものが何であるかを、繰り返し物語っているのだ。
   そのように感じていたが故に、彼はそれ以外のすべての愛情において、あらゆる形を許したんだと思う。ただし、神への愛について彼がどう考えていたのかは、おれにとって、まさに天上界の話になってしまって、一番大事なところだろうに、良く分からない。」
   須川はそこで口を閉ざすと、ポットから急須に湯を注いだ。古仙洞は、呼吸を合わす様に茶を飲み干した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瓶詰の古本屋(十三)

2011年01月04日 | 瓶詰の古本屋

   宿屋のおかみさんの顔と淡泊な食膳が頭に浮かんだ。もう一晩泊まって行こうか。今日は晴れ上がった一日なのだ。
   「そうします。ええ。」
   「ところで、あなた、ドストエフスキーの『貧しき人々』読んだことがありますか。」須川が訊いた。
   「ええ、何度か読んだと思いますが。」   
   「あの小説の女主人公の恋人だった大学生の話は、覚えているでしょう。かなり、悲しいくだりなんだけれど、どうして哀切だと我々は思うんだろう。」
   「良くは分かりませんが、恋愛中の若い男と女の、その片割れが失われてしまったことに、ごく当たり前に痛切さを感じるんじゃないですか。二人の未来が永遠に失われてしまったことに。」
   大した経験のあるはずもない身としては、恋愛に関わるそうした類の別れというものに対して、稚拙な空想に頼った感慨しか出て来ない。須川は、最初からこちらの言うことを聞いておらず、小さな声で呟いた。
   「『貧しき人々』に登場する大学生の死が何故哀切なのか。愛し合う男女の一方が死んでしまうのは、なるほど痛切な出来事に違いない。しかし、あの大学生の死を哀切だと言うのは、それがある男にとって愛する子供の死にほかならないからだと思う。それも、出来の良い子供が死んでしまったから哀切なのではない。出来が良かろうが悪かろうが、子供の死はいつだって、悲しい極みだ。あの話が哀切なのは、残された親父が出来の良い親父ではないってことがある。このひとつのためなのだ。処世の下手な、そして、愛情にひどくあついという男が父親であったこと、不出来不器用な父親だったからこそ哀切なんだ。目前の子供の死を、心の中でどう処理したらいいのか分からない、その生き残った者の悲しみの測り知れない混乱が哀切なのだ。」
   「父親の哀切なのは分かりますが、ドストエフスキーの話には必ずと言っていいくらい悲しい逸話が出て来ますね。あれはどうしてなんでしょう。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする