美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

セザンヌが羨ましがった素晴しい目(ヴォラール)

2018年08月19日 | 瓶詰の古本

 ある日セザンヌは『割に出来のいゝ』絵を見せやうと云つて、妹のマリイの家へ連れて行つた。処が丁度夕方の祈祷の時刻で、家には誰も居なかつた。画を見る事が出来なかつたので私は、セザンヌに、少し庭を散歩してはどうかと云つた。ところが此の時位私の魂のためになつた散歩はなかつた。至る所で人々は直立して罪障消滅の祈祷を捧げて居た。かくして或者は数日間、或者は数月間、又ある者は全生涯を汚れなき心を持つて行くのである。
 マリイの家を出てから、セザンヌと私とはアルク川に沿つて歩き出した。私達は暑さから逃れやうとしたのである。何となればそこには風がそよともしなかつたから。セザンヌは云つた「全くこの暑さでは何もかもくたくただ。膨張するのはたゞ金属と冷酒の売上げだけだ。こゝにも此頃工場が一つ出来てね。エクスでも段々とそこへ通ふ者が殖えて来た。あゝそれらの連中の生意気さうな様子の気持の悪さ!あゝかういふ静かな田舎で、畜生!阿呆共が!」
 私は「しかしこの中には例外もあるでせう。」
 セザンヌは「あるかも知れない。しかしそういふ人は目立たない。本当に謙遜な人といふものは自分でも気の付かぬものだ。さうだ!ジョ(詩人ジョアキム・ガスケ)は好いい男だ」
 セザンヌは目の上に手をかざし乍ら、川上の一ト所をじつと眺めつゝ云つた。「あの風景の中へ裸体を描いたらどんなに素晴しいだらう!この川の岸にはモチイフがふんだんにある。一つ所でも違つた角度で見ると、一つ一つが皆な素晴しくいゝ題材となる。すつかり変つた景色になるから、一つ場所で少しも動かず、たゞ右を見たり左を見たりするだけで、何ケ月でも仕事を続ける事が出来る。
「本当にボラールさん、画は確かに、私にとつては此世のどんな物よりも、大きい意味を持つてゐる。自然の前へ出ると、私の心はいつもすつかり明るくなる。だが悲しい事には、自分のこの感激を表現(リアリゼ)しやうとする段取が、いつも私には、非常に苦痛を伴ふのだ。私には私の官覚を打つこの強い力が、とても表現出来ぬやうに思はれる。大自然に生命を与へてゐる色調の濃艷な美しさ、これが私の力では及ばないのだ。しかしやうやく此頃、私にも色の感激といふものが目醒めて来たのに、あゝわしはもう年寄だ!自分の心に思つた事、感じた事が、その儘の形で描けないといふ事は何といふ悲しい事だらう!雲を御覧なさい、わしはあれが描きたいのだ!モネエには出来た。彼には腕があつた。」
 セザンヌは同じ時代の人の中で一番クロオド・モネエを高く買つてゐた。印象派の話が出るといつも彼は、この「時間の画家」に対してお得意の洒落を飛ばして云つた。「おゝモネエか!奴はたゞ目だけだ」そして直ぐつけ足していつた「だがあゝ神様、奴の目は何といふ素晴しい目だ!」

 (「セザンヌ傳」 ヴォラール著 近藤孝太郎譯)                                                          

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