いわゆる現行版『福澤諭吉全集』、当該巻(正確には第8巻以降16巻まで)は『時事新報』論説文。
第8巻以後、それまでの巻に比べ面白さが著しく減少する。
またそれ以前に、本当に福澤のものかどうかわからぬ文章とまともに付き合おうという気にならぬということもある(『時事新報』の論説は基本的に無署名だった)。本日身体不調のこともあり、とばし読みする。
ただ、本当に福澤のものかどうかわからぬながら、「朝鮮事変の処分法」(明治17・1885年12月23日・第10巻147-151頁所収)のように、「処分」をあきらかに「処理」「措置」の意味で使っている例を確認できたりと、別な意味での収穫もあった。
是れ我輩が此事変を処分する意見の大要なり。(同151頁、原文旧漢字旧仮名遣い)
(岩波書店 1960年6月―1961年6月)
第8巻以後、それまでの巻に比べ面白さが著しく減少する。
またそれ以前に、本当に福澤のものかどうかわからぬ文章とまともに付き合おうという気にならぬということもある(『時事新報』の論説は基本的に無署名だった)。本日身体不調のこともあり、とばし読みする。
ただ、本当に福澤のものかどうかわからぬながら、「朝鮮事変の処分法」(明治17・1885年12月23日・第10巻147-151頁所収)のように、「処分」をあきらかに「処理」「措置」の意味で使っている例を確認できたりと、別な意味での収穫もあった。
是れ我輩が此事変を処分する意見の大要なり。(同151頁、原文旧漢字旧仮名遣い)
(岩波書店 1960年6月―1961年6月)