書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

坂野潤治 『大系 日本の歴史』 13 「近代日本の出発」

2011年03月23日 | 日本史
 20年前(1989年)の出版だから「脱亜論」が明治日本の政府の海外拡張政策および一般社会の風潮の象徴として特筆大書される(104-105頁)のは仕方がないにしても、例の「処分」を現代日本語の「処分」と同義に解しているのは如何なものか。何遍でも繰り返すが、この論説は数十年前の日本語、しかも文語で書かれているのである。この「処分」は、「処理」「措置」という意味である。この「脱亜論」では文脈から見て、さらに軽く、おそらくは「対応」「応対」「応接」ほどの意味で使われている。同じ文中のなかで同義語をいえば、「会釈」だ。

 左れば、今日の謀を為すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予あるべからず、寧ろ、其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那、朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分すべきのみ。悪友を親しむ者は共に悪名を免かるべからず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。 (「脱亜論」結語)

(小学館ライブラリー版 1996年2月初版第2刷)