書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

岡田英弘/神田信夫/松村潤 『紫禁城の栄光 明・清全史』

2016年07月27日 | 東洋史
 わが国の教育勅語においては忠君愛国が強調され、尽忠報国が国民の義務とされていたのに対し、六諭が一般庶民の道徳として尽忠報国を要求していないことは、いちじるしい相違点である。これはなぜかといえば。シナでは臣と民とが別のものだからである。臣とは官僚のことで、皇帝の恩顧にこたえて忠誠をつくす義務がある。しかし民すなわち一般の庶民は、皇帝とは直接関係がないので、忠誠の義務もしたがってないわけである。これは秦代以来そうであった。 (松村潤「第二章 乞食から皇帝へ」“里甲制度”、54頁)

 それは何の関係もない人間にどうして年貢を納めねばならんのかと思っても不思議ではない。

 六諭にあげられた徳目は、どれをとってもシナの村落社会では大むかしから実行されてきて、まったくの常識になっているものばかりである。それをことあたらしく六諭という形式で発布した目的はなにかというと、こうしただれひとり反対できない徳目を、みんなに斉唱させるという点にあるのである。斉唱しているうちに、皇帝はすべての道徳の最高の権威であるということになってくる。これが皇帝の人民支配につごうのよい武器になる
 (松村潤「第二章 乞食から皇帝へ」“里甲制度”、54頁)

 いまやアルタンはモンゴル人のハーンたるのみならず、数十万の漢人のコロニーの支配者にもなったのであるから、元の世祖以来の伝統からすれば、皇帝と称する資格は十分にあったわけである。こうして漢人たちがモンゴルを北朝、これに対して明を南朝とよび、ふたつの帝国が対立しているものと考え、アルタンにさかんにすすめて山西方面を経略せしめ、ゆくゆくは北シナを征服させようとしたのであって、一五六七年にアルタンが大挙して山西を蹂躙し、男女数万を殺したのはその影響と思われる。 (岡田英弘「第五章 ハーンと大ラマ」“漢人の集団移住”、104-105頁)

 この“北朝”“南朝”という捉え方、考え方がやや非伝統的に思える。南北朝時代の状況を念頭においた語彙と表現ではあろうが、南北朝に範を取ること自体が通常ではないのではないか。

 念のためにいうが、朝貢というのは、中国の伝統では、友好国の大使が定期的にシナの皇帝を訪問することをさすだけである。だからここでアルタン・ハーンのモンゴルが明の朝貢国になったというのは、決して彼らが明の皇帝の臣下になったことを意味しない。明側からいえば、朝貢を許可するのは、単に相手を独立国として承認する手続きにすぎない。 (岡田英弘「第五章 ハーンと大ラマ」“平和のおとずれ”、107頁)

 対等者という概念とそれをとりあつかう制度が存在しないのだから、仕方がないといえば仕方がない事態ではある。

 ちょうどその時代は、マテオ・リッチはじめ多くのイエズス会の宣教師によって天文学、暦学、数学、地理学など西洋の科学知識が中国に輸入され、その実証主義的方法が中国の知識人に影響をあたえていた際でもあった。儒教の経典に対する実証主義的研究は、清朝の盛世とともにいよいよ発達し、これを考証学といった。 (神田信夫「第十五章 揚州の画舫」“考証学”、304-305頁)

 考証学の研究方法というのは、まずもっとも正しいテキストをえらび、その一字一句について本来の正確な意味を、文献上の根拠をあげて追究してゆくのである。つまり主観に偏した宋明の学者の態度とはまったくことなり、あくまでも客観的に解釈して帰納的論断をくだすという科学的な文献学に類するもので、儒教の研究に新生面をひらいたのであった。 (神田信夫「第十五章 揚州の画舫」“考証学”、305頁)

 上2件。実証主義、そして帰納は、西洋の科学学術からの輸入ということか。