出版社による紹介。
ここには言及されていないが、章ごとに実際の翻訳者が存在する。本書では列挙されている。
さて、
アナロジー的思考は論理的な演繹ではない。 (「第1章 はじめに」本書4頁)
では何か?
そのような意味からすると、『論理的』ではないということになる。例えば鳥や人間が、それそれの居住環境を比較可能な仕方で同じようにつくらねばならない理由は無いのである。だからといってアナロジーはでたらめなものではない。ゆるい意味では、ある種の論理があるといえる。 (同頁)
“ある種の”?
それ〔引用者注。ある種の論理〕をアナロジックとよぶことにしよう。このアナロジックが、〔中略〕アナロジー利用の仕方に制約を与えているのである。 (同頁)
そのアナロジックの基本的な“制約”(?)とは、同章10-11頁によれば以下の三である。
①アナロジーが適用される両者(ベース領域とターゲット領域)に直接的な類似性があること、
②この両者に一貫した構造上の相似関係を見いだすように働きかける圧力が存在すること、
③アナロジー利用のゴールがあたえるアナロジーの目的の内容のもたらす要請。
だが、これら①②③はすべて、文化によってその中身が異なってくるものである。つまりアナロジックの条件ではありえても「ある種の論理」の“定義”たり得ない。ああ、だから“制約”なのか。
(新曜社 1998年6月)
ここには言及されていないが、章ごとに実際の翻訳者が存在する。本書では列挙されている。
さて、
アナロジー的思考は論理的な演繹ではない。 (「第1章 はじめに」本書4頁)
では何か?
そのような意味からすると、『論理的』ではないということになる。例えば鳥や人間が、それそれの居住環境を比較可能な仕方で同じようにつくらねばならない理由は無いのである。だからといってアナロジーはでたらめなものではない。ゆるい意味では、ある種の論理があるといえる。 (同頁)
“ある種の”?
それ〔引用者注。ある種の論理〕をアナロジックとよぶことにしよう。このアナロジックが、〔中略〕アナロジー利用の仕方に制約を与えているのである。 (同頁)
そのアナロジックの基本的な“制約”(?)とは、同章10-11頁によれば以下の三である。
①アナロジーが適用される両者(ベース領域とターゲット領域)に直接的な類似性があること、
②この両者に一貫した構造上の相似関係を見いだすように働きかける圧力が存在すること、
③アナロジー利用のゴールがあたえるアナロジーの目的の内容のもたらす要請。
だが、これら①②③はすべて、文化によってその中身が異なってくるものである。つまりアナロジックの条件ではありえても「ある種の論理」の“定義”たり得ない。ああ、だから“制約”なのか。
(新曜社 1998年6月)