書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

興膳宏 『新版 中国の文学理論』

2017年05月20日 | 人文科学
 いったい一口に「六義」とはいうが、「詩経」の詩を内容上から区分した風(諸国の歌謡)、雅(王室の儀典歌)、頌(王室の先祖をたたえる祭祀歌)と、修辞上の技法である賦(直叙)、比(直喩)、興(隠喩)とは、範疇をことにした概念である。仮名序の「そへうた」「かぞへうた」「なずらへうた」「たとへうた」「ただごとうた」「いはひうた」が、そのままの順序で風・賦・比・興・雅・頌に対応するものならば、序の作者は「六義」を主に技法として解釈していたことになるが、本来二つの範疇に属する概念を混淆してしまうところに、そもそも根本的な無理がある。(「『古今集』真名序覚書」本書467頁)

 混淆ではなく仮名序では(あるいは紀貫之は)、これを「うた」という一つのカテゴリーとして捉えたとは考えられまいか。紀貫之は、「うた」を数え上げるくだりの冒頭、で「そもそもうたのさま、むつなり」と、はっきり言っている。

 また仮名序には、「そもそもうたのさま、むつなり。からのうたにも、かくぞあるべき」とあるから、これが「六義」からのアナロジーとして発想されていることはまちがいないが、その六種の「さま」の内容を一つ一つもとの「六義」に押しつけてゆくのも、かなり窮屈な解釈になってしまう恐れがありはしないか。(同上)

 むりがあるとすれば、その日本語の「うた」と漢語の「六義」に、カテゴリーとしてずれがあるということの現れとして、当然の結果ではないか。

(清文堂 2008年11月)
『本』 ジャンルのランキング
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 福井佳夫 『六朝文評価の研究』 | トップ | K.J.ホリオーク/P.サガード著... »

あわせて読む