さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
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さすらいの風景 王家の谷 その2

2010年12月24日 | 海外旅行
ツタンカーメン王は、ピラミッドを築いたクフ王やアブシンベル神殿を造ったラムセス2世よりも、良く知られているファラオになっています。

古代ファラオの墓は、全て盗掘されて副葬品は失われ、残された見事な壁画からその壮麗さが想像されるだけでした。

ツタンカーンメン王の墓だけが、盗掘を免れた状態で発見され、そこで発見された黄金のマスクなどの副葬品は、カイロ考古学博物館に展示され、エジプト観光のハイライトになっています。



王家の谷でツタンカーメンの墓を訪れることを楽しみにしていました。

他の王墓は観光客で満杯状態だったので、ツタンカーメンの墓は、入場待ちかと思ったところ、がら好きでした。

これは、王家の谷の三つの墓の入場券が80ポンド(1200円)なのに対し、ツタンカーメンの墓は100ポンド(1500円)もするためかもしれません。

ツタンカーメンの墓は、ラメセス6世の墓の隣にあります。小規模な墓で、その入り口には後にラメセス6世の墓が掘られた時の残土が盛られ、当時の人夫小屋も建てられたため、忘れられた存在になったようです。



ツタンカーメンは、宗教改革を行ったアメンヘテプ4世(アクエンアテン)に続いて、9才で即位し、18才の若さで亡くなってしまいます。

ツタンカーメンの墓が、他の王の墓と比べて小規模なのは、若いうちになくなってしまったためと考えられています。



ツタンカーメンの墓の下降通路には、他の王の墓と異なり、装飾が何も施されていません。



前室まで下りると、左には密閉容器に納められたツタンカーメンのミイラが安置されています。

右には玄室があり、入ることのできるのは前室までのため、覗き込むことになります。

以前は、ツタンカーメンのミイラは、玄室の中の石棺の中に納められていましたが、観光客の入場による湿度の上昇によって痛みが進んでいることが判りました。現在では、湿度と温度調整を施した容器内に納められて、素顔を見学できるようになっています。

なお、王家の谷で眠っているファラオは、ツタンカーメンだけで、これは墓を発掘したカーターの意向で元の墓に残されたといいます。

玄室には、一番内側のミイラ棺が石棺に納め、周囲の壁には色鮮やかな壁画で飾られています。

この玄室と奥の宝庫は、カーターが発掘した時は、文字通りの宝物で埋め尽くされていましたといいます。



石棺の四隅には、イシス、セルケト、ネフティス、ネイトの4柱の女神が両手を広げて守っている像が飾られています。



北壁に描かれた壁画です。右は、口開けの儀式で、中央は復活した王が天の女神ヌゥトに息子として迎えられるところ。左は、冥界の王のオシリスを抱擁し、来生に入ったことを示しています。王の背後にたって肩に手をかけているのは、王のカー(生命力)です。王に生命力が戻ったことを示しています。




口開けの儀式は、ミイラが来生でも物を食べたり、話したり、見たりできたりするようにする儀式です。次の王になる神官アイが執り行っているところが描かれています。



南壁には、ハトホル女神とアヌビス神から祝福を受ける王のが描かれています。



また、西壁には、夜の航海に出発する太陽神のために、西の地平線にある冥界の門を開く12頭のヒヒが描かれています。



東壁には、王のミイラが廷臣達に引かれていく図が描かれています。




ツタンカーメンの墓の発掘のいきさつにについて簡単に述べておくことにしましょう。

王家の谷は、古代ギリシャ時代からファラオの埋葬地であることが知られ、トレジャー・ハンター(トゥームレイダー)によって発掘が行われましたが、宝探しから科学的調査に移っていきます。

イングランドの貴族ジョージ・カーナヴォン卿は、保養のための避寒地としてエジプトを訪れ、考古学隊の発掘現場に出会うことにより、考古学に興味を持ます。発掘経験のあるカーターを紹介されたことにより、彼を発掘指導者として雇い入れます。

王家の谷での発掘権を、先に手を付けて見限ったアメリカ人実業家ディビスに代わって手に入れますが、1922年から5年間掘り続けるも、何も発見できませんでした。

出資者のカーナヴォン卿は中止の考えに傾きますが、カーターはこれが最後の年と訴えて発掘を続けます。

1922年2月、地下への階段が発見され、カーターはイギリスのカーナヴォン卿に重要な発見があったので現場を訪れるようにという連絡をして、発掘の準備を始めます。

11月26日に、カーナヴォン卿の立会いの立会いのもとで、墓の前室にある宝物の一部を確認しました。

写真は、棺を調べるカーターです。



発見時の前室ですが、儀式用のベッドをはじめとする家具調度類、分解された戦車が所狭しと詰め込まれています。

これらは、カイロ考古学博物館で見ることができますが、カーターらが初めて目にした時の驚きは想像もできません。



これらの発見物は、エジプト政府とのいざこざの末に全てエジプト政府に没収されて、当時のお金で5000ポンドをもらって終結することになります。

カーターは、そのお金全てをカーナヴォン卿の未亡人に渡し、自分は「ツタンカーメン王墓を発見した人」という名誉だけをもらって生涯をとじます。

さて、ツタンカーメンの墓というと、ファラオの呪いを思い浮かべます。

封印されていたツタンカーメン王の墓の入り口には、「偉大なるファラオの墓にふれた者に、死はその素早き翼をもって飛びかかるであろう」と碑文が刻まれてあり、発掘に携わった関係者は次々に死に見舞われます。

スポンサーのカーナヴォン卿は、翌年の4月に急死。結局、1930年までにツタンカーメンの墓の発掘に関わった人たち22人が死亡したとまことしやかに伝えられています。

ところが、真相は、ロンドンタイムズ紙と独占契約を結んだカーナヴォン卿に対するマスコミの恨みによるでっちあげであったようです。

カーナヴォン卿が亡くなったのは57才で、病因は不明ですが、もともと健康状態は良くなかったようです。恨みの最大の標的になるべきカーターは、発掘後17年生きて65才で亡くなっています。死亡者に上げられた者の中には、現場に立ち会っておらず、ただの親戚というものも含まれていたようです。

子供の頃に見た「恐怖のミイラ」の影響で、ミイラが襲ってくるという話は刷り込まれており、ツタンカーメンの墓の見学も、どこか怖いもの見たさという気分が抜けませんでした。

ツタンカーメンの墓は、規模は小さいですが、考古学発見の現場として、入場料は少々高いといっても、見ないわけにはいかないでしょうね。

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