本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

無生法忍によって初めて不動ということが成り立つ

2021-02-28 17:54:53 | 十地経

今月まで自粛ということで

2月のお不動さまにも

お参りできませんでした。

ところが、

『十地経』でも

初歓喜地と第八不動地が

面白いというか大事なところで

ちょうど読んでいる所も

不動地です。

 

先生の講義も進まなくて

繰り返し繰り返しというように

行きつ戻りつしながら

展開していきます。

第65講が昭和53年5月30日

そして、

第68講が昭和53年11月25日

ですが

「もう一遍読んでみましょう。」

と同じところから始まっています

聞く私たちには

半年余りたっていると

とても新鮮に聞こえるのです。

しかし、

経典を読むというのは

こういうように同じところを

繰り返しているように

思うのですが

ドリルと同じで繰り返しながら

深めていくということが

お経の読み方でしょう。

 

「経に曰く、一切法本来無生、

無成、無相、不失、無蓋、不行

なるに入る」

と、

無とか不という否定的な言葉が

重なって出てきます。

全てを否定しているような

ここのところを

 

「仏教の論で非常に目立つのは

ギリシャの論と違うのは、

否定が否定でもってなんかね、

真相を、ものの真相を

明らかにしようとしていること

です。

真なるものを否定で表そうとする

こういうことが非常に

目立ってます。」

 

このように述べておられます。

『般若心経』でも

やたらと否定的な言葉が続きます

空の相は、不生・不滅・不垢

不浄・不増・不減と出てきて

続けて

無色・無受想行識と

色受想行識という五蘊の否定

無眼耳鼻舌身意という

眼耳鼻舌身意の六根の否定

さらに、

無色声香味触法の六境をも

否定して、

見ているとずっと否定の無

という言葉が連なっています

その結論は

究竟涅槃を尽くすという

ことでしょう。

その真なる涅槃を表すために

私たちの見るもの聞くもの

考えること全てを

否定しているのです。

 

講義では第八不動地について

その不動ということは

詳しくは発展しないのですが

ただ、

 

「この無生法忍ということは

不動ということを明らかにする

無生法忍によって初めて不動と

いうことが成り立つ」

 

というように述べておられます。

無生の法を認識する

そのことによって

不動ということを明らかに

しているということでしょう。

不動ということも

「不動院」というお寺もあれば

「無動寺」というお寺もあります

この場合の否定語は

「不」もあるし「無」も使います

この使い分けも見てみると

面白いことが分かるのでは

ないかと思うのですが…。

 

しかし、講義も

繰り返しているようで

繰り返しながら進んでいる

その内容はまた違ったものに

なって展開していきます。

 

 

 

 

 

 

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安田先生の声「身辺雑感」

2021-02-27 21:06:59 | 十地経

「いろんなことがありましたが、

長い間私病気していた

もんですから、

それからまた

最近は火事にあうというような

ことがあって、

いろんな事件がありましたが、

機縁が熟しまして、

北陸相応学会の会を、

いったん中止していたのを

再び始めるというようなことに

なりました。

これが、再出発の第一回目

ということになりました。」

 

という文で始まるのですが、

安田先生の17回忌を記念して

『摂大乗論聴記』ショウダイジョウロン

として出されたものです。

講義に入られる前に語られる

言葉が身近に感じられ

先生ご自身の生身の言葉として

響いてきます。

 

「それで、きのう、

相応学舎の日誌がありまして、

それを見ていたんですが、

昭和42年ですから、

いまからちょうど7年ほど

前ですね、

金石カナイワでこの『摂大乗論』

の会がありまして、

そのときに風邪を引いたんですわ

非常に寒かった。

異常な寒さでした。

しかし、外の方はそういう事情

ですけど、

自分自身の方からいうというと

やっぱり疲労していたという

ことがあるでしょうね。

 

大体、私は、

個人的なことですけど、

余り話をするということが

好きじゃないんですわ。

だから、講義だから

これを長い間続けてきましたけど

そういうようなことで、

あちこちの講義に

引きずり回されたというような

ことで、疲れていたんだと

思いますね。

そういうときにやっぱり、

体の調子が悪いもんで、

内にはそういう身体の事情があり

外には異常な寒気というものが

あって、

始めはそれがわからなかった

ですけどもですね、

これは肺炎になる危険がある

ということを注意されて、

それで入院したんですが、

それが42年です。」

 

ちょうど「十地経講義」が

再開されたのも

昭和46年3月28日です。

それまでは講義録としては

残っていないのですが

講義は一泊二日ということで

先生もお泊りになり

夜は決まって「おでん」という

ことでそれをつまみながら

結構議論が伯仲していました

私はまだ学生で

何のことやら分からずじまい

でした。

けど振り返って今思うと

先生が入院されていた間に

いろいろの問題が起きたのです

教えということの大事さ

聞法がなくなると

あちこちで歪みのようなものが

出てきて組織としても

些細な問題が大問題に

発展していくものです。

 

その時の講義の第一声が

「ちょうど4年ほどこの会も

間ができましたんですが、

今度もまた、相応学舎の講義を

ここで始めていただくことに

なりました。

4年間たつというと顔も大分

変ってきていますし、

それから顔は変わらんにしても

気持ちは大分変って

きていますから、

テキストを改めてもという具合に

そんなことも考えられるし、

また今『十地経』ですけども、

初めからやり直したらどうだ

というようなことも考えられたん

ですけども、

これはやっぱり『十地経論』という

ものは何回も繰り返して読み返す

ということが必要だと

思うんですね。

 

見て敬い聞いて忘れず

ということがありますが、

結局学問とか研究とかいうことを

簡単にいえば、

聞思ということですね。」

 

ということで始まります。

やはり心に残る言葉は

「見て敬い聞いて忘れず」

ということです。

ただ聞くのではなく

参考までにとか聞き流す

ということではなく

敬い聞くという姿勢が大事で

そして忘れないということですが

なかなか自分にとって

出来ないので心に響くのかも

しれません。

 

どの言葉も先生の言葉なのですが

自分自身の病気のこととか

火事にあわれたことなど

そういう言葉が先生を身近に

感じる言葉でもあります。

 

 

 

 

 

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弥生三月春の頃

2021-02-26 19:52:01 | フラワー

寒の戻りがあったり

春の陽気になったりと

ここのところ

激しい変化の気候です。

でも、もうすぐ弥生三月です。

フラワーアレンジの教室も

コロナのせいでしょうか

月に1回のペースになりました。

 

久しぶりのお花です

一気に我が家には春が来たようで

 

 

一陽来福です。

春の花々が活けられました

チューリップに菜の花

そして今の時期の桃の花です

 

 

どうもピントがよくありません

 

 

そこでと… 

どうもスッキリしませんが

少々ボケた味を楽しんで

 

 

ガーベラにカーネーションと

春満載のようです。

庭の牡丹やアジサイも芽吹いて

きています

 

 

牡丹の葉ですが

これが開いていくのです

まるで燃え上がる炎のような

そのような力強さを感じます

 

 

アジサイも初々しい葉が

膨らみ始めています。

まだ寒さが続く中

春の温かさを待ちわびるように

勢いを付けているようです

 

 

グッと頭を持ち上げた

チューリップ

この頃の生き物たちは

すべてが元気印のような姿です

 

 

久しぶりなので

あちこちから眺め楽しみました

 

そういえば

桃の花は魔よけの力があるようで

よくお寺の屋根瓦の隅とかに

桃の瓦が乗っています

また桃の饅頭も縁起物で

中華料理では出てくる品です

 

「桃李不言下自成蹊」

という言葉もあります

「桃李もの言わざれども

 下自ずから道を為す」

と読み、

桃や李スモモは良い花や実があるので

自ずと人も集まり自然に道も出来る

という意味で

松坂桃李さんの名前も

ここから来ているようです。

 

それから、

桜も桃も梅も同じ画の字、

梅が咲き、桃が咲き

それが終わると桜が咲いてきます

 

 

 

2月の頃のデザートには

こういう梅模様のスプーンを

添えられているようです。

こういうところにも

季節を感じるさせる工夫が

あるようです。

 

まだまだ余寒が続くようですが

身体を大切に春を待ちましょう。

 

 

 

 

 

 

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阿耨多羅三藐三菩提

2021-02-25 20:23:59 | 十地経

講義を聞いていると

どこを開いても、菩提、菩提心

ということが貫かれているように

思います。

「阿耨多羅三藐三菩提」

アノクタラサンミャクサンボダイ

anuttra-samyak-sambodhi

アヌッタラ・サムヤク・

サンボーディ

という言葉をあえて訳さず音写した

言葉です。

どの経典でも

阿耨多羅三藐三菩提という漢字で

出てきます。

訳すと、

無上正等正覚、無上正真道、

無上正遍知となります。

 

上がない(無上)と

いうのですから、終わりがない

修行にしても到達点がない

どこまでも修行していく

というのでこういうのでしょう

さらに、

正しく等しい(正等)

正しいさとり(正覚)と

いうのです

 

別な見方には

無上正真道とありますから

もう終わりがない正しい

本当の道、道程ということで

このように訳されたのでしょう

 

「三」という言葉が

「三藐」とか「三菩提」と

出てきますが

これは数字の三ではなく

サンミャク、とかサンボダイ

という言葉の音写です。

 

それで講義では

「菩提心に立った人間が、

菩提の心というのは

菩提を求める心

菩提を成就した人を正覚者

仏陀といいます

無上正覚者と

阿耨多羅三藐三菩提を完成した人

というんです、

仏陀というのは。

だから無上菩提心という場合

ただ心というのではなく

その要求です。

願心です。

 

願というのは

魂という概念になるでしょう。

人間というものが

道具でもないし

自然物でもないということは

なにか、魂があるからでしょう。

 

霊魂というのが魂じゃないんで

願が人間の魂でしょう。

願というものはどういうものか

というと、

無上というでしょう。

無上ということをよくいうのは

究竟クキョウですね

究竟や、この上ないんですから

だから、願というのは

究竟的関心ですね

それは、気にかかる

ということです。」

 

色々気にかかることはあります

経済とか地位や名誉や幸福など

そういうものの根底にある関心事

それを究極的関心(究竟的関心)

というのでしょう。

 

英語の辞書を見ていたら

soulソウルとスピリットspirit

宗教的な霊魂がソウルで

肉体に対する魂がスピリット

というようです。

ついでに、

魂も魂魄ということがあって

「魂魄」コンパクという言葉も

昔、軍歌で知ったのですが

古代中国の考え方では

人が死ぬと魂と魄に別れ

魂は天上に、魄は地上に止まる

と考えられたそうです。

そういう言葉を

どうも私たち現代人は

言葉があるとそういうものが

実体的にあると考えてしまう

魂があるとか、魂を見たとか

これも二元論にとらわれた

私たちの妙な癖のような

ものでしょう。

目に見えないものは無いというし

言葉があればそういうものが

あると考えてしまうという

ことなのです。

見えなくても感じとる世界が

あるように思います。

 

話はそれましたが

阿耨多羅三藐三菩提

とても大事な言葉なのですが

書かないとつい書けなくなって

しまいそうです

玄奘三蔵もあえて訳さず

経典に音写の言葉として

残されたのはそくに深い意味が

あるように思います。

 

 

 

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人間の尊厳性

2021-02-24 20:28:04 | 十地経

「種姓」(しゅしょう)という

新しい言葉が出てきました。

たぶん聞いていたはずなのに

まったく記憶に残らなかった

言葉です。

 

種姓というのは、

種タネという字と姓という字で

姓名とかの姓です

姓はもと生まれた血筋、族の名

ということを表す言葉です。

また、この性も使いますが

こちらは生まれながらの心の

はたらきという意味です。

 

「種姓」ということも

辞書には、

それぞれさとりを開く種タネ

となる本来的な素性、素質と

あります。

インドの言葉のゴートラを

訳したもの、です。

 

講義では、

「誰が迷い、誰が自覚していく

のかと。

誰かということを論で問題を

出しとるんです。

そうするとそれは大乗の、

二種のね、種姓というね、

大乗の種姓や。

大乗の種族であるような、

そういう衆生が、

誰が道を歩むのかといえば、

大乗の種姓であるような衆生が

ですね、

その位に住する衆生と

いえるんだと。

つまり求道者という意味です。

 

この種姓と字がね、

ゴートラ(gotra)ですけどね

種姓という字が女偏のある姓です

頭がいいとかいうんじゃない、

頭がいいとか愚かとかいうこと

でもないし、

それから努力したというような

ことでもないしね、

元気があるとかいうことでも

ないしね、

なんかそこに顔がきれい

ということでもないしね、

これは不思議なことじゃないかね

 

僕はその大乗の種姓というのは

尊貴性というようなこと、

あるいは尊厳性。

つまり、

菩提心を起こした衆生という時に

初めて、

人間は尊厳性を持つんだと、

こういう意味がある。

 

賢いとか勉強するとか

そんなこといってみても

話はけちくさいと。

就職とかね、

そういうものは、なにかというと

名利になるんでしょう。

人間が尊厳性を失えば、

じゃどうなるかというと、

人間は名利に落ちるわけです。

名利ということは

けちくさいということでしょう。

 

菩提心に立たん学問は、

何が動機になっとるかといえば

押さえてみれば

みな名利なんです。

名と利しかありゃしません。

学校の資格というようなものが

そうですね。

資格をとれば、

有力な位地が得られるんだから

社会に。

まあいってみりゃ低い名利だけど

何とも言えんそこにけちくささ

があるでしょ。

多少上も下もあるけどもね、

上も下もあっても

それはけちくさいもんやわね。

尊厳性というようなものじゃ

ないでしょう。

この尊厳性をもった衆生を

菩薩といったわけです。」

 

種姓ということに二種あって

大乗二種種姓

一つはもって生まれ素質、本来性

ということで

本性住種姓ホンショウジュウシュショウ

それからもう一つは

後天的といえる修行による

深い経験を重ねて得るところの

習所成種姓シュウショジョウシュショウ

というものがあります。

 

講義では

「本性として住すると、本来性。

本来尊厳であるのは、

本来として尊厳なんだという意味

と、それからして

またそうじゃない、

だんだんそれは深い経験を重ねて

成就されたんだと。

習というのは薫習クンジュウという

意味ですから、

長い経験の結果として

そういうものができ上がった

んだと。

尊厳性というものは、

天から降ってきたもんじゃない

本来持っとるものが

尊厳というもんだと。

こういうような二つの姓

これはどっちも還元できんでしょ

二面でしょう。」

 

ということでこの巻は終了です。

またこの問題は出てくると

思いますので、

「種姓」という言葉が

新鮮でした。

 

 

 

 

 

 

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大極殿

2021-02-23 20:02:01 | 住職の活動日記

大極殿は宮都における

中心的建物です

国家儀式の際天皇が出御する所で

即位式など行われた場所

 

 

今は野原というか

広大な土地に一つだけ

威容を誇り鎮座ましましています

 

 

正面には大極殿の扁額があり

 

 

屋根には鴟尾が両サイドにあり

 

 

中央の屋根の上にも

大棟中央飾が輝きを放っています

 

 

風も強く、珍しく風鐸が

ガランゴロンというような

古代の音色を奏でています

 

 

周りの欄干には宝珠があり

ここも伊勢神宮と同じように

本物の玉があります

 

 

五色の玉で彩られいます

普通はこういう本物で飾れない

そこで擬宝珠という

銅とかで形作ったものを乗せます

中には高御座が据えられ

 

 

京都御所のものより

はるかに大きいようです

 

 

飾り金具も立派で

 

 

その一番上には鳳凰が乗っています

 

 

天上の格子には

こういう花の模様が描かれています

 

 

こういう飾り金具の見本を

間近で見れますがとても立派な

造りのようです

 

 

天皇陛下の御歌があります

ここを訪れその立派さに感動され

詠まれたのでしょう

 

外に出ると

 

 

若草山を背景にして

大仏殿を拝めます

昔は建物もなく

ここより遥かに見える大仏殿を

拝まれたのでしょうか

 

近くの遺構展示館には

その当時の様子を伺えるように

なっています

やはり一番驚いたのは

あの昔に水の設備が整っていた

ということです

 

 

ここは井戸の模型ですが

 

 

こういうような様子で洗濯とか

されていたのですね

 

 

これは木製の排水管

木をくりぬいて溝を作り

その上に立を被せている

 

 

なかなかの優れものです

 

 

これが当時のもので発掘された

ものです

 

 

角もあれば円形のものもあり

 

 

これは大きな木をくりぬいて

作った井戸の外の部分

 

 

鏡があり内部の様子が伺えます

 

 

奈良はこういう遺構が

たくさん残っています

京都は建物が立ったりしていて

こうやって露出したものは

めったに見ることは出来ません

 

 

大変面白い貴重な展示ですが

しかし、

こういうのはあまり人気がないようで

ほとんど独占状態で

見ることが出来ました。

 

しかし、まだまだ

見る所は他にもたくさんあり

再度訪れることにします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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怒りは自分の理解力の不足から

2021-02-22 20:18:19 | 住職の活動日記

大坂なおみ選手全豪オープンで

2度目の優勝以来

いろいろなテレビで取り上げられ

その言葉が話題となっています。

スポーツ選手として

ただスポーツをするだけでなく

世界に向けての発信も大事と

素晴らしい言葉を

語っておられます。

 

そういう中で、

なるほどと思った言葉が

「怒りは自分の理解力の

   不足からだ」

ということです。

今までは

プレーが上手くいかないと

ラケットを投げたり

悔しくて泣いたりと

起伏の激しい場面もありました

ところが、今回は

メンタル面もフィジカル面も

強くなられ、

逆境の場面でも顔色一つ変えず

淡々と自分のプレーに集中し

逆転していかれる。

 

そういう時に

感じられたのでしょう

腹が立つのは自分の自分に対する

理解力の不足なんだと。

 

このことは

「迷いを迷いと知れば

 それはさとりになる」

ということと相通じるものが

あるように思います。

蹴とばしてしまうのでもなく

見ないようにするのでもなく

迷いの正体を見て

理解することです。

 

仏教ではそのことを

「正見の智慧」というようです。

智慧ということも

分かりやすく現代風にいえば

理解力ということにも

つながるようにも思います

仏教でいう「自覚」ということも

人間理解、

自分が自分をどのように

理解するかということで

ただ違う点は、

法に照らして自分を見る

道理に照らして自分を理解する

ということだと思います。

 

それから、

この言葉も気に入りました。

「燃えて燃えて燃え尽きれば

 試合に勝とうが負けようが

 それは関係ない」

というようなことです。

本当にそうだと思います。

不完全燃焼が一番いけない。

何でもいい、

これと思ったものに

全身全力打ち込めば

結果はどうであれ

納得いくものです。

仕事でも遊びでも

一心不乱やり抜けば

本当に満足できるようです

燃え尽きないから

不満が出てきます。

 

23歳にして

さとりに触れたような言葉

世界を背負って勝負に挑む

その責任感があの言葉を

生み出しているのでしょう。

 

さらなる、精進を

心より祈り、応援しています。

 

 

 

 

  

 

 

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八幡さま詣で

2021-02-21 20:55:07 | 住職の活動日記

ついで、

といっては失礼になるのですが

いつもの背割提

日曜日ということもあって

駐車場は入れないくらいの

混雑ぶりです

それで急遽反対側の男山八幡へ

何時もは背割提より

仰ぎ見ていたのですが

今日はお参りすることに

 

気温も上がり四月上旬の陽気

20度になっています。

ケーブルカーで山頂へ

 

 

八幡造りとい立派な本殿です

 

 

間近に見上げると

面白屋根の作りになっています

欄間には龍虎の彫り物

右側が虎

 

 

そして左が龍

 

 

龍に麒麟、鳳凰と龜が加われば

四霊獣です

「龍虎」と続けて言います

雲は龍に従い、風は虎に従う

という言葉もあります。

 

 

隣にいるこの龍も

眼光鋭く爪も鋭いものを感じます

本殿をくるりと回り

 

 

この角度も美しい姿です

 

 

瓦の入ったこの塀も

なかなか風情があります

ちょうど裏あたりに

 

 

一円硬貨の裏にある木

「招魂木」おがたまのき

と神社の方では言われてますが

調べると

木の名前はないそうで、また

木がある方が表ということです。

 

 

一回りして再び拝む本殿

ここから見るのも厳かです。

お参りして道を下りながら進むと

展望所があります

 

 

櫓のような展望台があって

そこの筋を左に進むと背割提です

 

 

展望台とその下には休憩所があり

今日はサイクリングの人たちで

あふれています

ちょうど休憩するには

もってこいの場所です

 

 

川の向こう側が背割提

今は茶色の桜並木

桜の頃になると

ピンク色に染まることでしょう

その左には天王山があります

その昔、

天下分け目の天王山の戦があり

秀吉軍と光秀軍の戦いの様子を

ここの宮司さんはここから

見ていたのでしょうか。

 

 

アジサイも芽吹きだしています

この新芽で出したところで

零度近くまで下がり

霜にやられたのでしょうか

この寒暖差は植物たちにも

堪えるのでしょう。

 

帰りは

ケーブルカーの一番前に陣取り

 

 

子供みたいにわくわく気分で

すれ違うところとか

 

 

見ながらのあっという間の

時間なのです。

何時もの背割提が満車状態で

かえってちょっとした

旅行気分を味わえました。

 

 

 

 

 

 

 

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メンタルとフィジカル

2021-02-20 20:31:03 | 漢字

大坂なおみ選手

全豪オープンテニスで二度目の

優勝です。

本当におめでとうございます!!

解説の方が言われるのに

フィジカル面もメンタル面も

非常に強くなったと、

テニスというスポーツも

メンタル面が非常に左右し

ちょっとしたプレーで

形勢が逆転するものです。

そのメンタルを支えるのも

フィジカルの強さ

地道な練習の賜物ということです

 

話はそれるのですが

メンタルとフィジカル

普通には精神と肉体というように

言われています。

フィジカルもphysicalと書き

physics物理という名詞の形容詞が

physicalで物理的なということから

肉体的というようになったようです

それに関して

metaを付けるとmetaphysical

になります。

メタフィジカルというと

突然、形而上学的という

難しい言葉になります。

 

どうも解せないのは

ただ、metaを付けただけで

肉体的なという言葉が

形而上学的というような

言葉になるかです。

metaが付く言葉に

metamorphoseメタモルフォーゼ

変身という言葉になり

metabolismメタボリズム

代謝という言葉になります

今は代謝異常ということで

メタボということで使います。

 

メタは何々の後にとか

超越したとか高次のという

意味があります。

メタフィジカルということも

直訳的には自然に関するもの後に

という意味になります。

これを形而上学的と訳したのです

訳した方は

明治時代の哲学者、井上哲次郎

という人です。

何気なく使う言葉ながら

どうにも、私にはしっくりこない

ので納得する意味で書くのですが

形而上学ということもあれば

反対に

形而下という言葉もあります。

 

メタフィジカルも形而上学とか

訳さないで

フィジカルとメタフィジカル

肉体的と精神的と訳してくれたら

何かしら

分かりいいと思うのですが、

そこは哲学者

その意味する内容は

そう簡単なものでは

ないのかもしれません。

内容の深さから訳しきれなくて

メタフィジカルを形而上学と

訳されたのでしょう。

 

それから、明治のころに

西洋の哲学が入ってきて

その言葉を訳すのに苦労されて

その時生まれた言葉に

コンセプト・概念という

これも分かったようで分からない

それから

コンセプト・範疇という言葉も

頭の中に入ってこない言葉です。

 

しかし、

それはそうと

大坂なおみ選手、やはり

精神面も立派なものを

持っておられ、

肉体・精神相まって

強くなられたようです

そして、

今回の優勝は単に途中に過ぎない

もっと先のことを

見据えておられるようです。

ゆるぎない強さで

ナンバーワンになることを。

 

 

 

 

 

 

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迷いを迷いと知れば…さとりになる

2021-02-19 20:29:53 | 十地経

十地経の講義でも

上っ面で聞いているせいか

単純には

立てとおっしゃる

立つと坐れとおっしゃる

一体どうすればいいのか

という疑問が起こってきます

両方のことを言われているようで

これというような

決め手がないように思えてきます

同じようなことを三浦先生も

思っておられたようで

安田先生に聞かれたら

「だから、よく考えなさい」

という答えが返ってきたそうです

 

今また、こうやって

読み返していると

やはり丁寧に話されていることが

よく分かります。

 

「この廻転エテンということが

自覚道の要点だと思うんです。

迷った者を、染分ゼンブンを捨てて

つまり迷っているものを捨てて

それからその正反対のさとりを

外からもってくるじゃない。

そうすると、

さとりは天下りになります。

 

キリスト教の神を立てれば

啓示ということになります。

外から輸入してくるんでもない

そういうもの、啓示は信仰や。

自覚ではない。

御言葉のままにということになる。

そうかといって

我々の考えを、

迷っている我々の考えを

積み重ねて合理化して、客観化して

究竟的なものに達するんじゃない。

そうすると

理論で一切を解決しよう

ということになるでしょう。

人間を延長して究竟するという

ことになると、それは人間主義

でしょう。

それでは理性の道です。

そうかといってそれをやめて、

さとりを天下りでもらおうと、

こういうことになると

奇蹟でしょう。

啓示でしょう。

だからして、奇蹟でもないし、

そうかといって

積み重ねでもない。

 

そうすると第三の道は

どこにありますか。

それは転テンでしょう。

迷いを迷いと知れば、

迷いの全体がさとりになる

わけです。

廻転エテンですね。

これが自覚道です。

 

迷っているのも意識だし、

さとるのも意識です。

迷っとる意識がさとる意識に

転ずるんです。」

 

こういう話です。

私にとっては聞いただけでは

なかなか分からなかった問題が

こうやってじっくり

読み書きすると

ほどけていくような気がします。

しかし、

この「転」ということが

曲者で、

迷いを迷いと知る、

とありますが、

かといって、迷いもなかなか

楽しい面もあり

上手に迷わせてくれれば

これに越したことはないのですが

「どうせ私をだますなら

 だまし続けて欲しかった」

という歌がありますが、

そういう具合に迷っていれば

一時的には楽しいこともあります。

 

でもここで言われるように

ついつい、私たちの考えが及ばない

のなら、いっそのこと

簡単に天下り的にさとりという

そういう奇跡が起これば

と思ってしまいます。

その反対に、人間主義で

何でも人間の考えでどうにかなる

ということでも行き詰まりが

出てくると思います。

 

そこで、こういう

迷いを迷いと知るということ

何が迷いなのか

お経には厳密に書いてあるので

そこのところを

迷いの内容を見ていく必要が

あるように思います。

 

 

 

 

 

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