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本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

死して生きる

2020-12-31 17:01:11 | 十地経

仏教には死して生きるという

ことをいいます

今までの自分に死んで

新たな自分となって生きるという

ところが

「死して生きる」

ということが至難の業です。

 

今までの延長線上に

新しい自分というものを創る

ということは出来ないのです。

どんなに勉強して賢くなっても

それはただ知識や要領よさの業を

身につけただけで

新しい自分ではないと思います。

 

地獄餓鬼畜生という十界の世界に

ちょうど人間の上の世界に

天という世界があります

そこは人間が考えた最高の状態

なのですが、

まだ迷いの世界で

天人五衰ということがあって、

天人でもその世界に満足

できなくなって滅んでいく

といいます

その天の世界を超えて

初めて仏の世界が開けてきます

天という世界は

「人間が終わるところ

 仏が始まるところ」

という二つの意味を含んでいます。

人間に死して初めて仏の世界が

始まるというのです。

 

このことは

人間の自我に死ぬのでしょう

それでないと

無我という仏の世界は

始まりません

今まで大事にしていた自我

それだけでは満足できなくて

では、

本当の自分とは、という

真なる自分、真なる自己という

発見に繋がってくると思います。

 

お正月には

「お屠蘇」を頂きます。

この字もよく見てみると

不思議な字で、

といいますのも

「屠」という字は、

という言葉もあり

殺すという意味を持っています

「蘇」は、蘇生するという

生き返る、よみがえる

という意味です。

屠蘇というのは

殺すと蘇るが一緒になった言葉

しかし、

お屠蘇というのは「屠蘇散」

という、山椒や桔梗や肉桂皮など

の漢方薬で長壽を願って

飲む物ですが

「屠蘇」という漢字だけ見ると

面白いものを感じます。

 

勝手に解釈すれば

そこにも、「死して生きる」

ということを願ったのでは

ないでしょうか

新たな年を迎え

今までの自分に死して

新しい年に新たな自分となって

生まれかわる

そいう願いが込められている

ようにも感じてしまいます。

 

亡くなることを「往生」とも

いいます

極楽往生とも言いますし

死ぬんですが

往きて極楽に生まれる

今では死ぬということだけで

この言葉を使いますが

ただ死後の世界のことではなく

生きている私たちの問題と

考える時

いかにして、

本当の自分(ほとけ)

と出遭うのか、という問題

ただ死んでから極楽へ往く

というのではなく

生きているうちに仏に見マミえる

という

そこに、今までの自分に死して

本当の自分と出遭う

そのことを考えることが

重要ではないかと思います。

 

お正月という行事も

案にそういう内容を

形でもって表現しているのでは

と思うのです。

 

 

 

 

 

 

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衆生縁・法縁・無縁

2020-12-29 19:51:24 | 十地経

仏教の根本の教えとして

十二因縁ということがあり

因縁・縁起というのは

当たり前のようであり

よく考えれば深い教えです。

 

「此れ有るとき彼れ有り

 此れ生ずるより彼れ生じ

 此れ無きとき彼れ無く

 此れ滅するより彼れ滅す」

 

という相依相対的な

関係を説いています。

 

講義では、

「衆生縁というのは

かわいいというような慈悲です

一番範囲の狭い。

我が子に対する愛情とか、

あるいは夫婦の間の愛情とか

兄弟の愛情とか、

あるいは苦しんでおる衆生、

苦しんで悩んでいるという、

そういうことが縁となっておこる

同情というようなもの。

これが一番小さい。

 

だからそういう慈悲というものは

苦しんどらん人間にはおこらん。

けど苦しんどらん人間でも、

いとしむべきもの

というようなことが成り立ってくる。

それが法縁です。

有限なるものという意味で

人間はいとおしいんだ。

これから今日死んでいくんだ、

これが最後のお別れだといったら

どうなるかね。

きのうまでかたきのごとく

憎んどったやつでも、

これで最後のお別れだとなったら

無二の親友じゃないか。

名残惜しいわ。

 

それは逆縁というものかも知らん

腐れ縁かも知らんけどですね

腐れ縁でもやっぱり

縁があったということがですね、

そこにしみじみとした

人間の愛情というものが

ありましょ。

 

なにかそういうようにいつでも

今日が終わりだと、

こう思って生きてみなさい、

見るもの聞くものが違ってくる、

態度がね。

思いやりが深くなってくる。

そういうような意味で、

法縁ですね、有限なるものと。

別に幸福な状況に

あるものだけじゃない。

幸・不幸を超えて有限である。

まあ、そこまではようわかる。

 

最後は無縁という。

これが仏教の真の意味の愛情で、

今日我々が話しとる無分別智

というようなものによって

成り立っている慈悲なんだ。

慈悲慈悲というけどもですね、

よく世間では智慧と慈悲と

いうけど、

別に仏教ではそういう区別は

ないんです。

本当の慈悲は智慧なんだ。

智慧でない慈悲があるとするなら

煩悩。

そういう意味で、

まあ無分別智は智というけども、

それは何かというと、

能縁・所縁(ノウエン・ショエン)が

消えとるからですね、分別が。

まあ無分別の慈悲というような

もの。

何か人を見て、

それから見られた人が、

ものが縁となって

おこっとるんじゃない。

ものそのものとなるというですね

ものそのものとなると。

ものを見て、

それに対して同情するんじゃない

ものそのものとなる

というようなことが

無縁の慈悲という。」

 

これはたとえてとして

よくないかもしれませんが

おかあさんが

子どもが何かした拍子に

泣き叫ぶ

どうしたのと

他人は色々聞いたりするんですが

とくに男は

あれがこうしてこうなって

痛いのかと聞くのですが

母親は子ども痛いといえば

そうね、いたいね、いたいね

と、子供と一緒の気持ちになる

 

ものそのものとなる

子どもと同じになる

おかあさんは子育てにおいては

子どもと同事になれる

一つになれる

それも一つの無縁かどうか

わかりませんが

母親がお観音様といわれる

所以かもしれませんね。

 

 

 

 

 

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自由はもう懲り懲りなんだ

2020-12-28 20:10:08 | 十地経

「自由」というと

民主主義の三原則にもある

自由・平等・博愛

というように

民主主義においては

とても重要なことです

特に西洋では「自由を勝ち取る」

というように

自由のための戦い

ということがあります。

 

同じ、自由ということでも

仏教の場合は少し違う

ようですけど、

こういう一文に出会いました。

 

「自分の心は自由になると

思っていた。

けど、自分の心が

自分の自由にならん。

『どんな心の起こるのも

 宿業でないものはない』

ということがあり、

人に親切を尽くすというのも

そういう良い心を持っているから

善をするのではない、

良い心という縁に動かされている

だけ

自分がよくて

良い心を起こしたんじゃない

自分がよくてと思うのは

考えた話だ

そういう善も、

いい心を起こすような縁に遇うて

いいことをしただけの話、

あらゆるものが

偶然に動かされている

一点の自由もそこにはないんだ

本当は、

喜んで自己を否定するような

ものが欲しい

なんか、頭が無条件に下がる

ようなものが欲しい

自由はもう懲り懲りなんだ

道というものは

喜んで行くものではない

恐ろしんだ

恐れを持ちながら近づいていく

そして

それが道に出遭ったとき

初めて

不安というものの意味を

自覚するんです

そして

克服するんです。」

 

とても心にすとんと落ちた

言葉なのです

「十地経の講義」でも

喜んでということは一度も

なかったのです

今月は休み、となると

何だかほっとしたのです。

というのも

一つは難しい講義を聞く

ということもあったのですが

準備として

その当時はトイレも汲み取り式

自分たちで汲み取りして

埋めるという作業と

すべてを綺麗にするという掃除

それも大変でした。

それから、

お茶当番の私は

抹茶の準備、炭を熾して

炉に炭を入れ茶釜をセットする

どのお茶碗にするかと選んで

お煎茶も出すので

その準備もありました。

 

まして一番きつかったのは

お茶をお出しした際

先生は一言もしゃべられない

お抹茶を出して

沈黙が続きます

次はお煎茶の準備

お湯が冷えるまでの時間

何とも長い時間です

やっと冷めて

お煎茶を入れてそれで

お役御免というしだいです。

ただ一言

「お茶をやっていたのかね」

「いえ、

見様見真似ですいません」

「作法はどうでも

美味しかったらいいじゃないか」

そんな会話でした。

 

三浦先生が聞かれるから

仕方なしに列席して

出ないとまた何で聞法しないのか

という問い詰めがあり

出席していたというのが現実です

けど、

その座に坐ってみると

なんだか、

今日はこの言葉という

感動する一言を頂くのが

やはり出席してよかった

と思うことでした。

 

やはり、本当の話というのは

恐る恐る近づく

というのが正直なところでしょう

聞きたいと思って

行くことはないと思います。

 

自由ということも

自由自由と盛んに言いますが

本当は何でもかんでも

好きにするという自由ではなく

何かしら

自分の身を捨てても悔いない

というものが欲しい

というのが本当の気持ちでしょう

自由にしなさいと言われても

何してよいか分からなくなる

ことがあります。

 

あるとき

三浦先生からきつく叱られて

「お前はもういい

 何でも好きにしなさい!」

といわれて

何をどうしたらよいのやら

困ってしまったことがあります

 

規則の中にはめられた時は

ああ自由になりたいと

思うものですが

規則から外されて

これから自由ですよ

好きにしなさい

と言われても困ってしまう

ことがあります。

 

自由ということも

自らに由る、と書きますから

自ら自身がはっきりしてる

というか独立していなければ

成立たないように思います。

ということは

自分自身が正しい道を歩む

ということが身に付いていないと

自由ということは成り立たない

ということです。

 

それから、

いいことをした、というのも

俺はいいことをした

と自慢することでもなく

それはそういう縁によると

縁のなせる業ということです。

それは

自慢することでもなく

卑下することでもありません

そういう縁を積んでいけば

そういう良い縁が出てくるし

だからといって

ほったらかしていて

いい縁が出てくるという

ものでもないということです。

 

今はお陰様で

毎日が日曜日

自由な時間ばかりですが

いかに自由でないように

過ごすかが大変なことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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姫蔓蕎麦(ヒメツルソバ)

2020-12-27 20:21:34 | フラワー

通りすがりに見かける

空き地に咲いている

可愛らしい小さな花

 

 

金平糖のような

白やらピンクの花を

一杯に咲かせています

 

『散歩で見かける野の花』

という本を調べたのですが

今の季節、秋冬のところにはなく

最初の春のところを見ると

「ヒメツルソバ」という

名前が分かったのです。

 

大体は春の花ですが

暖かい所では

「周年開花」といって

一年中見られるそうです。

 

明治の中頃、観賞用に

導入されたものが

野生化してどこでも

見られるようになった

ということです

 

 

葉も特徴的でVのような

筋が見えます

一応、この葉も紅葉してるようで

春の頃は

青々した緑色をしています

 

 

この花ももっと冷え込んでくると

ピンク色に変わってくるようです

何気ない路地の一角に

群生していますが

よく見ると本当に不思議な形です

まん丸の球状で当に金平糖

蔓状に伸びていくので

蔓姫蕎麦、

姫はこの小さな丸い形から

何となく想像できますが

蕎麦の由来は何でしょう?

 

この花も外来種ですが

原産はヒマラヤの麓

といいますから

お釈迦さまがお生まれになった

あたりかもしれません

この小さな花も見ておられた

のかもしれませんね。

 

 

それから、これが我が家の

最後の紅葉です

孫たちが醍醐寺に遊びに行った時

拾ってきたドングリを

植えたというか蒔いたのか

捨てたのか

その中の2本が芽を出し

次第に大きくなり

今年はまた一段と成長しました

そして、

美しい紅葉を見せています。

葉が落ちたら

何か別の鉢に植え替え

盆栽の様に育ててみたらと

思っているのですが

どのようになるか楽しみです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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入出息念

2020-12-26 21:28:48 | 漢字

「息子」という字

息イキの子と書いて息子ムスコ

ちょっと不思議な気がします

「息」という字調べてみると

息という字いろいろ意味があって

まず第一に呼吸するという息が

あります

それから、生息という

生きながらえるという意味、

そして、そだつという意味もあり

休息、というやすむ

という意味もあり

また、利息という

お金を貸した時の利子も

あります

最後に、こどもという意味が

出てきます。

 

それで、息子ということは

そういう意味があったのです

なるほどと納得です。

 

息という字は

「青息吐息」という

何かしら歌の題にあったような

息絶えだえという

意味もありながら

反対に

呼吸ということは

心を静める一番の方法です

 

深呼吸というと

吸って吐いてということです

が、心を静めるには

まず、思いっきり吐く

ということから始まります

思いっきり吐けば

自然と息は入ってくる

 

仏教には

「入出息念」ニュウシュツソクネン

という呼吸法があります

言葉の上では

「入出息」と

入る方を先に書きますが

元のインドの言葉では

出入息と書きます。

お釈迦さまが菩提樹の下で

瞑想に入られたときの

呼吸法が

「入出息念」です

まず息を整える

すると、自ずから心も整って

次第に深い瞑想へと

入っていけるのです。

 

物事に集中するときも

まずは呼吸を整えます

特にスポーツ選手は

この呼吸法ということは

とても大事にされているようです

力を出すにも

技を決めるにも

呼吸が一番大事です。

 

息が整えば

心も体も落ち着いてきて

気持ちもすっきりしてくる

ものです

ヨガもいろいろな技がありますが

その根幹は息を整える

ことに他なりません。

 

まず、坐って

細く長く息を吐いていきます

吐き切ったところで

すると

自然に息は入ってくるものです

このことを次第にやっていくと

自然と息も深まり

吐いて吸ってという動作が

1分間で一呼吸という

これは

思いっきり吐きだして

息を止める

そして我慢する

我慢できなくなったところで

ゆっくり息を吸い始める

すると胸の下の方まで

息が入っていきます

そしてまた止める

我慢できるまで止め

それからゆっくり細く長く

息を吐きだしていく

この繰り返しが

息を長くする

コツではないでしょうか。

 

この練習が身に付けば

息を長く、長息ナガイキ

長生きできるかも

しれませんね。

 

 

 

 

 

 

 

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お正月のお花

2020-12-25 20:24:16 | フラワー

ずっとフラワーアレンジの教室が

お休みで、久しぶりに

本当に久しぶりです

 

 

お正月の花が活けられました

こうやって活けられてみると

お花の力を感じます

いっぺんに部屋の空気も変わるし

華やぐし和んできます

 

 

松に葉ボタンが活けられると

お正月気分です

けれども今年は我が家は

喪中につき

静かにそっと過ごしますが

お花だけでもお正月です

 

 

扇も手作りで

金銀の紙を重ねて折ったものです

花器には水引もかけられ

 

 

本来はお花の中に掛ける

ようですが

ちょっと控えめに花器に

あしらったようです

 

今年も残すところ

1週間を切りました

いろいろありました

あっという間の

一年だった気がします

コロナも勢いを増していますが

来年こそは

収まって平穏な年になって、と

願うばかりです。

 

災い転じて福となす

という言葉もあります

転じるというのがキーワード

ですが

コロナを消し去って

福をもたらすというのではなく

コロナを転じて、です

 

東北には「かまくら」という

行きで作った室があります

中には水神さんをお祀りします

水神様をお祀りしないのは

偽物だそうですが

先日も豪雪で車が立ち往生

大変なことになりました

その雪を災いとして

跳ねのけるのではなく

その雪を水神様としてお祀りする

今は厄介者かもしれませんが

その雪が解けて

豊かな水をもたらし

作物を育ててくれる

そこに自然に対する感謝の気持ち

が厄介者の雪を水神様として

お祀りする

日本人の自然と共に生きていく

姿勢が見えてくるようです。

 

末広がりの扇を眺めながら

来年の良き年を祈るばかりです。

 

 

 

 

 

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師匠への報告

2020-12-24 20:33:32 | 住職の活動日記

師匠の月命日

今年のご報告を兼ねて墓参

今年は師匠のお弟子さんも

たくさん亡くなられた

 

 

今、生きている人よりも

あちらの世界の方が

多くなったのかもしれません。

「おお、おまえも来たか

 ええ、またお前もか」

と言われているかもしれません。

 

命日と名前を書きあげて

墓前にて師匠に報告しました

もうご存じかもしれませんが

その方々の供養もかねて

読み上げたのです。

 

 

苔むした参道を歩きながら

よく見ると

前回にはこれほどまでに

石畳の隙間に

これほどまでに

苔が伸びていなかったような

気がします

滅びていくものもあれば

勢いを増していくものも

あります

本当に諸行は無常です

一時として変わらないものはない

 

振り返ってみると

1月には連絡を受け

その足で神戸まで走り

3月には大分へフェリーで行き

帰りは地道を走り

帰るとまた身近な人がなくなり

とんぼ返りに熊本へ

もうこれでお終いにしてと

思っていた矢先

兄の危篤の連絡

その日と時を同じくするように

兄弟子が亡くなっておられた

 

そして最後は

九州の母方の叔母が亡くなった

という電話があり

さすがにコロナ禍ということで

相手もご遠慮したい旨

焼香は出来なかったが香典だけで

すまさせていただいた。

 

本当に今年は

喪中の連絡もいつもより

多いように思います。

ご縁のあった方がの逝去

今年はとても寂しい年に

なりました。

 

でも、墓前では

報告とともに

活躍している方々の報告も

したりと

墓石も一応、磨いて

すっきりして頂いて

新しき年を迎えて欲しいと

念じていました。

 

 

帰り道には

梅の花が咲いていました。

ちょうど雨も降りだしたところで

綺麗には撮れませんでしたが

マヤ紅梅という梅です。

 

 

 

 

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「UN75」からの三つの問いかけ

2020-12-23 20:04:11 | 住職の活動日記

UN75、国連創設75周年を

記念して

こういう問いを投げかけています

1.私たちはどのような未来を

 つくりたいのか

2.それを実現できる目途はたって

 いるのか

3.そのギャップを埋めるためには

 どのような行動が必要か

ということです。

 

今、地球はある面からいえば

重篤な患者のようにも思えます

資源の枯渇していくなかで

豊かな生活を謳歌するために

CO2を出し続け

地球は温暖化に向かっています

思想的には

自国ファーストということが

罷り通り、

自国の利益しか考えない

そこから国同士の対立が起こり

貿易戦争から内紛状態が

以前に比べ多くなってきました。

 

そういうことを踏まえ

国連は75周年を記念して

こういう三つの問いを投げかけ

できるだけ多くの人々に

考えて欲しいということで

アンケートを実施しています。

 

地球環境もとても大切なこと

ですが、その環境を支えている

人間のあり方

人間とはどういうものか

ということも考えなければ

いけないような気がします。

 

弘法大師の言葉に

「心境冥会して道徳現存す」

ということがあります

心境、心と環境です

冥ミョウとは目に見えないはたらき

というのもでしょう

冥はメイとも読み「冥土の旅」と

言う言葉もあります。

心と環境は別なものではなく

絶妙のバランスで関係しあい

それによって道徳は成り立つ

ということでしょう。

 

人間の心の問題と環境問題とは

切り離せるものではなく

同じ人間の問題だと思います。

 

今一番欠けているのは

人間とは何ものか

という問いと答えが

語りつくされていないように

思うのです

理性的な面だけでは

解決がつかない問題が残ります

 

人間の考えでどうにかなる

という考えが、一面的な

そうではなく、

人間の考えではどうにもならない

という立場を見いだす

という立ち位置が見つかった時

どんな問題でも解決していく

能力が与えられる

「人知を尽くして天命を待つ」

という言葉もありますが

 

人間のままではどこまでいっても

適当な妥協点を見いだすか

根本的な解決にはならない

のではないかと思います

いったん、自分を否定するような

そういう立場に立った時

そこから見直されてくる見方

 

仏教には六道の中に

「天」という世界があります

人間が考えた最高の世界です

私達が望む物はすべて叶えられた

世界ということです

であればそれで十分なようですが

そこに

「天人五衰」

ということがあります

思うのがすべて叶えられたのに

その世界に楽しめなくなってくる

そういう兆候が五つ

現われるといいます。

 

妙な譬えですが

豊かになった人々の顔

その目を見るとは気がない

ようにも見えます

ところが

発展途上国といわれる

子どもたちの顔は

目は輝き生き生きしている

ように感じられます。

 

こう見ると「天の世界」

というのはとても重要で

いきなり理想に近づくのではなく

天という人間が考えた最高の状態

を経験して始めて

本当のことは何か

という問いが起こり

そこから本当の人間像を求めての

歩みが始まるようです。

 

テレビでは世界各国からの

コロナ禍における生活のあり様が

流れていました

職をなくし、ありとあらゆる職の

求職に登録した

という人もいれば

マスクをしないのは自分の自由

祖先たちが勝ち取った自由は

手放せないと

声高らかに宣言する人

 

そういう人々を見ていると

こういう仏教的な内面的な考えは

多分受け入れられないような

気がしてきます

しかし、そういう考えも

否定はできないし

時機純熟ということもあります

じっと見続けるしか仕方がない

ような気がします。

 

どういう答えであろうと

UN75の三つの問いかけには

考えてみる必要があるように

思もいますが … 。

 

 

 

 

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命令は誰のものか?

2020-12-22 20:16:29 | 住職の活動日記

こういうコロナ禍という時には

リーダーの発信力というものが

問われてきます

決断する時には決断する

その責任を取る時にはとる

というような強さという

ものが必要に思われます。

 

こういう言葉にであいました

「経営者が崇高な理念を

打ち立てても、それを支える人

実行に移す幹部が社内に

いなくては社長と言えども

目標を達成するのは難しい」

というものです。

 

なるほど、

いくらいい理想や目標を語っても

それを理解し実行に移す部下が

いなかったら

それはただの空論になってしまう

ようです

ですから、

命令を出したとしても

その命令を理解し実行するのは

部下ですから

その命令というのは

どちらにあるかということです

 

トップがいくら命令を出しても

それを実行する部下が

いなかったら

命令は

命令でなくなってしまいます

その命令を受け止める部下が

いてこそ命令が命令になるのです

ということは

命令は出した人よりも

それを受け止めて実行する

部下の方にあると言えるのでは

ないかと思います。

 

「如来の勅命」という

ことを聞いたことがあります

たぶん、安田先生の独特の

表現かもしれませんが

勅というのは、みことのり

天子のおことば、天子の命令

ということですから、

それを仏、如来の命令

勅命として受け止める

ということでしょう。

 

今ある立場、条件ということ

他人のせいにすれば

それでこと済んでしまうかも

しれません

しかし、それを自分のこことして

受け止めるのです

 

熊本に「のさり」という

言葉があります

とてもいい言葉だと思うのです

他人の世話ばっかりして

苦労が絶えない、そういう時

「のさってる」と

自分に与えられたこととして

受け止めるのです

「のさり」というのは

上手にいえば、頂き物

賜ったもの、

ですから、

いろいろなご苦労も

蹴散らすのではなく

静かに、自分に与えられた

こことして逃げないのです。

 

勅命ということも

如来が命令したわけでは

ないのですが

如来の言葉として

自分が受け止め実行する

ということです。

 

生まれてきたことも

誰から頼まれたことでもなく

子が親に生んでくれと

頼んだことでもなく

ただ条件がそろって生まれてきた

偶然の出来事でしょう

それを偶然の出来事とせずに

このいのち仏さまから頂いた

いのちと感得して

いかに生かしていくか

そこが与えられた使命として

そういうものを感じとる

そのはたらきが

「如来の勅命」と

いうことでしょう。

 

命令ということも

それを受け止め実行してこそ

初めてその命令が生きてきます

偶然を必然と受け止めていく

すべてのことは

偶然かもしれません

そのことをただの偶然と

流してしまうのではなく

この出会いは

出会うべくして出会った、と

することによって

人生にも深みが出て

味のあるものに変わってくる

ように思います。

 

ですから、

命令はそれを聞いた受け止めた

人にあるといっても

いいと思います。

どのように受けて止めたかは

それは受け止めた人が料理

することになります。

 

何でもない一言が

その人の人生を大きく変える

こともあります。

受け止め方というものが

人生を豊かにもし

味のある楽しいものにも

するようです。

 

 

 

 

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八邪行・八聖道

2020-12-21 20:41:13 | 住職の活動日記

お釈迦さまが最初に説かれた教説

は八聖道(はっしょうどう)と

いわれています。

これは三十七道品(どうほん)の

中にある仏教の代表的実践道です

 

八正道の目的、中心は

「正見」ということです

正しい見解をもつということです

「見道」ということも

この正見を得るということです

 

そして、その内容はというと

正しく考える、正思惟

正しい言葉を語る、正語

見の行いを正しくする、正業

という、

身口意の三つの行いがあります。

 

次に正命という正しい生活

これは三つの行いの内容です。

以上のことを正しく努力する

正精進というのがあります

それから、

正精進の意識的な面として正念

正見という目的を常に忘れない

憶念不忘ということです

それが揃ってくると

正しい禅定が生まれ

正しい宗教生活ができる

ということになります。

 

また、正しいといえば

その反対もあってそれが八邪行

ということです。

邪見・邪思惟・邪語・邪業・邪命

邪精進・邪念・邪定

ということになります。

 

「邪」という字も

見るからに悪そうなよこしまな

ものを感じます。

 

よく使う言葉で

「じゃま!そこどいて」

ということをいいますが

これも邪魔と書き、仏教語で

仏道の修行を妨げる悪魔と

いうことですが

お釈迦さまもさとりを開かれる時

降魔といって、魔を降して

おられます。

それで、降魔成道という熟語で

表現します。

 

邪淫という言葉もあり

十善戒の中に「不邪淫」という

ことが出てきます。

今ですと、コロナ禍ということで

「邪気を払う」

という言葉があります。

自分勝手に都合よく思いめぐらす

邪推という言葉もあります。

まあ、辞書を見ていても

よい言葉は何一つないようです。

 

正・邪ということがあるように

正しいだけでも

見方としては十分ではなく

邪ということも見て考えないと

本当の見方は出来ないようです。

 

正しいことだけ考えていると

何が間違っているのか

自分でも分からなくなって

しまいます

お経を読んでいますと

正しい言葉だけが

並んでいるのではなく

その反対の邪の面の言葉も

書いてあります

それは人間の持っている

表面的な(本心かも)心の内

を書いてあるのです

そこを見ていくと

さらにその深い所には仏心という

本当のこころが眠っている

ということでしょう。

 

正と邪、両方を考える

合わせ鏡のようなものですね

そういう両面から見ていかないと

本当の心は分からないのでしょう。

 

 

 

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