本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

杞憂(きゆう)

2019-05-31 18:25:21 | 漢字

「杞憂」この漢字も、

最近ではあまり使わなくなった

ようにも思います

使っても、「き憂」と

ひらがな交じりで出てきます。

 

その意味は、

取り越し苦労とか、

将来のことをあれこれと心配する

というようなことです

 

昔、中国の杞の国の人が、

天が落ちてこないか心配した

事から始まります

そのころ天は四方に大きな柱があり

それによって支えられていたと

考えていたのです

その柱が壊れ天が落ちてこないか

心配したことから、

「取り越し苦労」という

意味になったようです

 

杞の国というのは

紀元前500年ごろにありました

「杞小微、其事不足称述」

とあって

とても小さな国で書くに足りない

というような記述もあります

その後、

春秋時代、戦国時代と続き

紀元前221年には秦の始皇帝が

統一国家を作っています

 

しかし、

孔子も夏礼を学ぶために

杞を訪問したという記述もあります

その頃の時代というと

お釈迦さまも紀元前556年4月8日

に生まれています

また、ソクラテスも

紀元前469年ごろ誕生

孔子も紀元前552年9月28日に

生まれています

紀元前500年ごろというのは

こういう偉人が生まれたように

人間が自分の存在を深く考える

宗教的自覚が芽生えた頃と

言えるのではないかと思います

 

人間が宗教に芽生えた頃

それが紀元前500年ごろになる

のではないでしょうか

 

杞の国の人も天が落ちてきやせんか

と憂えたのも

ある意味からすれば

諸行無常という

絶対なものはないんだという

いつ何がってもおかしくはない

そいう「無常の感覚」を

持ち合わされたのは

宗教的感覚に優れていたのかも

しれません

孔子が教えを請うために

訪れたくらいですから

 

しかし、

ここ最近の出来事を見ていますと

「想定外」では片づけられない

問題が多発しています

そしてまた災害も

いつ起きてもおかしくない状況です

京都も

奇跡の200年といわれています

過去の歴史を紐解くと

100年ごとに地震が襲い

都自体が大きな被害を受けています

また、

南海トラフも猶予がありません

「杞憂であればよいが」と

済まされない問題が

すぐそこまで来ているようです

 

今一度

災害、交通事故、事件事故

杞憂でないように

考え直すべきかもしれません

 

買い物に出ても信号待ちで

ボーッとしているのではなく

車の動きとか見まわしていなければ

何がどうなって飛び込んでくるやら

分からない時代です

自分自身もしかりで

気を付けているつもりが

ちょっとした不注意で

加害者になる可能性もあります

 

古代の杞の国の人に倣って

「杞憂」ということを

取り越し苦労でないように

再確認しなければ… !

 

 

 

 

 

 

 

 

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お不動さまへカシワバアジサイのお供え

2019-05-30 21:17:51 | フラワー

いつもお参りいただき

またご一緒に勉強もしている方より

ご自宅に咲いたそうで

見事なカシワバアジサイを

お不動さまへお供えいただきました

 

 

真っ白い花です

一見すると

アジサイには見えないのですが

 

 

よく見ると花の形はアジサイです

たまに見かけるのですが

こうやって間近に見るのは

初めてです

 

 

よく見ると葉の形が柏の葉と

同じ形からその名前が付いたようです

 

 

ボリュームのある花で

花瓶に活けるにはちょっと一苦労

形がおさまらなかったようで

 

 

それでもこのボリューム感だけで

花の見事さが伝わってきます

 

不思議なご縁でしょう

アジサイをいただいて庭に植えた

そのアジサイがうまく根付いて

いつも見事な花を咲かせるので

それ以来、

アジサイが好きになり

通りすがりに見ても

いつも気になる花になったのです

 

 

同じカシワバアジサイですが

色々眺めていると

また違った表情を見せてくれて

 

 

ついつい

シャッターを切ってしまいました

 

 

今日はこの花と一緒に勉強会です

お不動さまも静かに見守って

皆さんの勉強する姿をじっと

見ておられることでしょう

 

はたまた、

私にはしっかりせい、と

激励が飛んでくるような気がします

 

まあ、月一回ですが

私の方が勉強させられている

ような気がします。

 

夕方の便で

 

 

着くころには

美しい夕を見ることができました

今回は来るときも

天気も良く

阿蘇の美しい姿も見え

また、金峰山も緑に覆われた

米塚のような美しい形の山

このような姿は初めて見る

光景でした

多分何かの都合でコースが

変わったのかもしれません

とてもラッキーでした。

 

カシワバアジサイに感謝!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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令和の不動護摩(春の大祭)

2019-05-28 20:25:10 | 住職の活動日記

五月は春の大祭

それに令和最初の護摩祈願です

 

 

本堂ご本尊の前には

令和の年号が供えられ

今上陛下の位牌もお祀りされます

 

正月、五月、九月は大祭です

特に五月は小満ということもあり

木々の緑が美しい季節

 

 

植物はいのちを吹き返し

新芽を次々と膨らませています

木々は伸び盛りなのですが

人間にとっては季節の変わり目

五月病という言葉もあるように

心身ともに変調をきたす頃でも

あるようです

そいうこともあって、

五月は春の大祭として

不動護摩祈願を勤めるのです

 

 

お参りの準備も進み

護摩祈願に先立ち

 

 

光明真言のお数珠繰りが

始まります

 

門の掲示板には

 

 

美智子皇太后のお言葉が

掲げられています

 

昨夜からの雨もあり

少しは涼しくなったものの

護摩の火は勢いを増して

燃え上がります

お供え物のお不動様の火で

焦げてているようです

令和になって初めての護摩祈願

ご祈願のお札には

令和の年号が金色で書かれています

令和最初の護摩というと

護摩としてはいつもと同じなのですが

令和最初となると

気持ちの上でも新たなものを感じます

 

それにちなんででしょう

 

 

今月の言葉には

美智子上皇后のお言葉が

掲げられています

なるほどと頷けるお言葉です

 

ちょうど今は

アジサイが膨らみ始めています

 

 

こういう淡い色もあれば

 

 

紫色のアジサイもあり

 

 

ことば通り七変化の姿を

見せてくれます

 

護摩というと不思議なもので

炎という火、

何かしらの力を感じるものです

正五九月は内陣への参拝もあり

朱塗りの護摩木を

自ら護摩に投じてお参りします

普段と違って

より身近にお不動様を感じるとる

絶好の機会です

みなさんそれぞれの

ご祈願をお不動様に念じて

おられます

私たちにとって

一番素直になれる瞬間です

日々の雑踏の中で

あれやこれや思い煩うとき

心を込めて朱の護摩木を

お不動様の炉に投じるとき

心が軽くなる思いを抱かれると

思います

 

仏仏相念

仏と仏が相念じる

念じる私たちのその姿が仏の姿の

ようにも思いました。

 

 

 

 

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賓と濱

2019-05-26 15:31:20 | 漢字

ちょうど、国賓として

トランプ大統領がお見えですが

この賓という字と

この賓にサンズイが付いた濱

微妙に似ているようで

厳密には濱の場合には点がいらない

縁者にこの字があって

ついつい少ないというように

書いていたのですが

の場合は点はいらないよ

という指摘を受けて

よく見ると点がない

 

という字は

ウ冠かと思いきや貝部になります

もともとの意味は

神を祭宮に迎えて敬いもてなす

ということで、

そこから、もてなされる人

そして、

神が人を訪れる、

もっともたっとばれる客となった

ようです

貝が付くのは、

客と主とが貢物や贈り物を

ならべて見せ合ったので

宝物をを表す貝が付いたという

ことです。

賓を「まろうど」ともいいます

これはマラヒトの転で

稀に来る人の意というように

広辞苑にはあります。

 

濱はもとは別の意味で

音だけを取って当てたようです

ちょっとした違いで

意味が全く変わってきます

 

以前から気になっていたのは

怒という字と恕という字

ちょっと見ると

よく似た字です

しかし、意味は全く違ってきます

女に又か女に口かで

そしてその下に心を書きます

これは又と口との違いではなく

奴隷の奴と如来の如となると

違いは一目瞭然です

 

平成天皇の一番愛された言葉は

「忠恕」ということです

直接お会いして

聞いたことはないのですが

確か新聞等でそのように知りました

「恕」ゆるすということが語源で

おもいやる、おもいやり、

自分の心を多におし及ぼす同情心

と辞書には出ています。

 

まごころと思いやりをもって

人々と接してこられたことは

平成天皇の信条だったようです。

 

それに対して「怒」は

奴がいかるさま、とあります

煩悩の中でも

小隋煩悩の最初に出て来る煩悩です

徳川家康も人生訓で

「怒りは敵と思え」

といっているように

怒りはすべてを壊してしまいます

この心も発展型があって

最初の怒りは「忿」フン

なにか言われたとか

気に食わないことがあって

ムカッとした

といういかりです

それがそのままで終われば

それでいいのですが

それが後を引き心に残ってきます

それが「恨」コンです

夜中にふと思い出して

又思い返して腹が立ってくる

ということです

それが繰り返し思い出され

心にしこりのように出て来るのを

「悩」ノウといいます

思い出して追体験するのです

本当に悩ましてくるのです

 

いかりも

忿→恨→悩と発展してくる

煩悩もそのままではなく

よく見極めておかないと

ついつい成長して

自分でも手に負えなくなってしまう

そこに怖さがあります

そしてそのことがいよいよ実行に

移された場合が

「害」という煩悩です

相手を叩き壊そうとする

まあ、これが怒りの完成形です

 

漢字も面白く

ちょっとした違いで意味も全く

変わってくるものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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山法師が一輪咲きました

2019-05-26 14:57:49 | フラワー

山法師の花も下から見上げても

その存在を見ることはできません

私の庭の花だけかもしれませんが

ふと二階から見ると

 

 

やっと一輪顔を出しています

ちょうど日を受け

そよ風に揺れて涼しげです

 

 

手入れが悪いのか

よそで見る山法師のように

たくさんは咲かないのです

今年も一輪

下からでは全く分からず

人知れず静かにそっと咲いています

 

そういえば

今年もアマリリスが如キッと

出てきました

 

 

なんだか申し訳ない

というのも、

さほどお世話するのではなく

ある意味、ほったらかしの状態

それでも自然の力は凄いものです

その時期になると

顔を出して存在を示します

 

 

葉の方が先に出てきたのですが

葉のハタラキと花のハタラキ

根っこは一緒でしょうが

それぞれの役割で顔を出すのは

面白いものです

 

 

レモンの木も新しく葉を出しました

しかし、

花も実もないのに

虫たちはおいしさを

知っているのでしょうか

さっそく葉にやってきました

葉の裏には小さな虫がいます

手で洗うように取って

これ以上の被害を食い止めました

まあ、実が付くまでには

相当かかりそうです

 

 

そして、

さつきも咲き出したのですが

手入れ不足でしょう

やっと一輪二輪といったところです

 

一輪の花に出会い

楽しみながら愛でています。

 

 

 

 

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小満

2019-05-25 21:09:29 | 住職の活動日記

5月5日は早や「立夏」

夏です

そして21日頃は「小満」

緑の美しい季節です

 

 

宇治市文化センターには

面白い形の風車? があります

風が吹くとキラキラと輝きながら

回ります

 

 

ちょうど緑の美しさと相まって

一層きれいに見えます

 

宇治鳳凰大学のオリエンテーション

もう、4回生ということです

つい最近かと思っていましたら

来春には休もうが単位に関係なく

卒業しなければなりません

 

宇治は丘陵地帯

丘という地名がたくさんあるように

起伏の激しい土地柄です

この宇治市文化会館も

この段差をうまく利用して

建てられています

けど、

年を取ってくると

上がったり下がったりと

大変な面も出てきます

 

今日は歩きで

風を感じながら歩いていたら

この風車を発見したのです

 

 

今まで幾度となく

通っていたのに全く気が付かず

それも、車でということもあって

素通りするだけで

眼に入らなかったのでしょう

 

それにしても

今日の暑さ34度を指しています

家に巣ごもりして

じっとしていました

それでも

なんだかだと次回の勉強会の準備

などなど結構忙しくしていました

 

なんだか妙なもので

『十地経講義』の本さえあれば

読んだり書いたりと

楽しいものです

知らないこともさることながら

感動する言葉に出会う

ということが何よりの嬉しいこと

なのです

そうやっていると

日の立つのも忘れてしまいます。

 

数習(さくじゅう)という

繰り返しの面白さです。

 

 

 

 

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知足安分(ちそくあんぶん)

2019-05-24 21:47:55 | 住職の活動日記

知足安分、

足るを知って、分に安んじる

外にあんまり求めない

与えられたものに満足していく

ということがあります

 

修養とか修道ということが

仏教の一番の実践項目ですが

そういうことを一言でいうと

「精進」ということになります

六波羅蜜の中では

布施・持戒・忍辱・精進と

4番目に出てきます

一生懸命頑張るということですけど

これは悪の方に向かって

精進努力するということは

ありません

それは精進とは言わないのです

 

お釈迦様が説かれた修行の方法に

三十七道品というのがあります

その中にも

四正勤(四正断)という

正しい努力ということが出てきます

これはただ正しいことをしなさい

というだけでなく

悪を生じさせないように努め

すでに生じた悪を断じる

という二つの方向性を持っています

ここで「断」ということを

いうのは

精進努力が怠慢心を断じ

また障りを断ずるので

四正断という字を使ってあります

 

また、精進如意足ということもあり

五力の中には

信力(信心の力)、

勤力(精進努力の力)

ということが出てきますし

七覚支(さとりの智慧を助ける)

の中には

精進覚支(正しい法に精励し、

     たゆまない)

というように

行といえば精進ということが

いたるところに

形を変えて説かれています

 

そこで、

足るを知って分に安んず

ということは

なかなか難しいことで

足るを知るということも

もうこれくらい

というと、腰砕けというか

意欲ということがなくなってきます

こんなもんでいいだろうと

そして、

分ということもわかりにくい

年とともに

矢折れ玉尽きてもはやこれまで

と感じるころになると

まああ、これが自分の分かと

頷かざるを得なくなってします

ある意味での、あきらめに

近いような

しかし、

どうもそれは違うようで

 

十地経の講義では

外面的なことに満足する

ということではなく

その境遇境遇に満足していく

内に求めて止まんと

内面を開拓していく

だから外には与えられた通りに

満足していく

つまり、

与えられた分限の中に、

無限のものを見出していく。

内に精進があるから

限りなく求めて止まんという

内面がある。

というように述べておられます

 

外に求めるのではなく

内面、自分の心の内に

求めていくその欲求があるからこそ

知足安分という

外の世界には足ることを知って

内なる世界では

求めて止まないという

そこに初めて心が安んじておれる

という

なにも、分に安んじるというのは

自分はこれくらいと

決めてしまうのではなく

飽くなき探求というか

どこまでも求めて止まないという

そういう心境こそが

分に安んじることができる

ということでしょう

 

話は違いますが

アインシュタインでしたか

ナチスに追われてアメリカへ移住

その道中スイスでは

奥さんが素晴らしい景色でも見たら

といわれますが

自分は考えている方が落ち着くと

一生懸命数式を見ていたそうです

求めている人には

考えて未知なるものを求める方が

落ち着くのでしょう

 

何かそういうことも

分に安んじるということに

通じるようにも思います

不思議なもので求めるということは

終わりということがないのでしょう

次々と泉のように

解らないことが出て来るのでしょう

 

知足安分

なかなか深い言葉ですね。

 

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残滓(のこりかす)

2019-05-23 21:00:50 | 住職の活動日記

残滓・ざんし、

ざんさいとも読みます。

普通には「ざんさい」と

読んでいるようです

 

ふと気になった言葉です

十地経の講義を読んでいて

「雑夾性」ということがずっと

出てきていて

そのことからでしょうか

「残滓」ということが

どうも気になってきたのです

 

振り返ると

住職を辞して6年目になろうと

しています

最近では

やっとなくなってきたのですが

「住職」 という言葉に

ついつい反応してしまい

返事をしてしまいそうになります

 

また、東寺にいたこと

ある面では自分なりに命懸けで

やってきたという自負もあり

東寺のことがいつも気になって

いました

もう関係ないのですが

反射的に、こうしたらということが

頭をかすめます

 

そういう今までのことが

残滓、残りかすのように

体のどこかにへばりついている

なかなか取れないものです

 

辞めてからは

普通のおじさんとして

自分の今までの正体がわからない

ような暮らしをしています

けど、ふと出て来る

それをなくしていくのが

今の自分にとって

一番の修行のような気がします

 

ちょうど講義でも

「有無の二見」

ということが出てきました

あればあったで離すまいとする

なければないで欲しいと思う

あってもなくても

それに執着してしまう

 

難しいもので

有るというと何かしら形が

あると思ってしまうし

今度は反対に

目に見えないものはないと

有るか無いかのどちからに

偏ってみてしまう

 

清めるとか清浄になるとかいっても

具体的には分かりません

何が清浄になったのやら

講義では

有無の二見を破ることが

清浄にすることだと

出てきます

見といっても

これが大切で、見方考え方です

 

私たちがものを見るといっても

本当に物事の真実を見ることは

出来ません

どちらかに偏ってみてしまいます

自分にとって都合がいいか

それもと都合が悪いか

それだけでは済まなくて

その考えに執着、固執してしまう

その考え方を離さないようにする

 

自分はこう思う

この考え方は絶対だと

それに固執してしまう

それで

いろいろ諍いが起きてきます

煩悩よりも

この有無の二見に固執する

この方がたちが悪いようです

 

だから、

どうしても残滓が残っている

本当に残りかすですね

この退治がなかなかです

姿かたちはそこらにいるおっさんに

なったのですが

心の中に残る残滓が

どうもそこらにいるおっさんに

なれないのです

 

このことがこれからの課題です。

 

 

 

 

 

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ドクダミ・蕺草

2019-05-22 20:34:28 | フラワー

今年も花咲きました

 

 

植えたわけでもなく

自然に生えてきました

最初は一本にょきっと

顔を出したのですが

次第に広がりを見せ

次々に顔を出し始めました

 

 

葉はハートの形

そして独特のにおいがあります

お肌の健康にも効くし

色々な形で使われるのでしょう

「十薬」とも呼ばれます

 

 

やっと顔を出したところ

これから白い4枚の花弁が

広がっていきます

 

また、漢字では

「蕺草」(シュウソウ)と

めったに見ない漢字です

大体は「蕺」という一字で

ドクダミと呼びます

「毒矯み」とも書きます

毒を矯める、毒を貯めるではなく

毒を抑えるという意味で

矯めるという字を使います

 

矯めるというのは

生け花とかで枝を曲げるのを

ためる、といいます

曲げることですが

話は飛びますが

 

思い出すのは唯識の経典で

「矯しく」(かたましく)

という字で出てきます

「矯しく徳有りと現して」

徳もないのにあるような恰好をして

ということですけど

なんだか自分に当てはまり

身に詰まされたということで

この字は覚えていたのでしょう

 

やはり、曲げるという意味ですから

ドクダミも毒を曲げる、ことから

矯める、毒矯みとも書くのでしょう

 

 

この花も地下茎でつながっていて

ちょっとやそっとでは

なくなったりはしません

切っても抜いても

またどこからか顔を出します

 

しかし、よく見ると

白い可愛い花を咲かせます

そして時期が来ると

枯れてなくなってしまい

今の時期になると

また子供をたくさん作って

勢力範囲を広げて来るのです

 

この細いスペースも

最初は手のいらなくて強い花

ということでピンカミノールを

植えたのですが

その隙間を縫って

生え出てきたのです

 

今は最初のピンカミノールと

ドクダミと芝も伸びてきて

命の激戦区です

しかし、

ドクダミも葉を広げ地下に

栄養を蓄えたら

秋には枯れていきます

よく見るとこの小さな居場所も

それぞれのいのちの活躍の場

のようです

 

楽しく見守りたいと思います。

 

 

 

 

 

 

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鍛錬

2019-05-21 21:14:33 | 漢字

十地経の講義でも

練り上げていく、これが修養と

練り上げて雑夾性を排除していく

ということがありましたが

練り上げる、鍛錬ですね

鉄でも不純物がある

それを叩き出して純粋なものへ

そして強靭な鉄に鍛え上げていく

 

そういえば

宮本武蔵の『五輪書』にも

「千日の稽古を鍛とし、

 万日の稽古を錬とす」

という言葉があります

つまり終わりがないということです

修養ということも

これでいいということはない

どこまでも雑夾性を取り除いていく

そういうことと通じることがあると

思います

 

気になって

英語ではどういうのだろう

まず出て来るのはDiscipline

訓練、鍛錬、修養という訳です

また、Temperと

これは普通には気性とか気分、怒り

そして、鉄とか鍛えるときに

この言葉を使うようです

Temperatureとなると気温、温度

ということです

temperも元の意味は調和という

そこから調和のある状態、

寒暖の状態、→ 温度

というようになったということです

 

簡単にはTrainingトレーニング

という言葉もあります

千日回峰行も千日のTrainingと

訳してありました

なんだか厳かさもなくなって

回峰行もトレーニングかと

ちょっと残念な気もします

汽車のことをtrainトレインと

いいますが

同じスペルで訓練するという言葉も

あります

 

またドリルということも

学習問題練習帳をドリルdrill

反復練習ということですが

穴をあける機械もドリルといいます

反復して繰り返していくと

穴が開く、貫き通す

ということから

繰り返しの練習が目的を達成する

ということから出た言葉でしょう

 

あるバレリーナの方の言葉でしたか

記憶が定かではありませんが

1日練習を怠ると自分は分かる

2日怠ると批評家は分かる

3日怠ると聴衆が分かる

といっておられましたが

まさにその通りだと思います

 

鍛錬も科学的な言葉では

非金属の介在物を絞り出すとか

叩き出すということでしょうが

精神の世界では

心の雑夾性、不純物、障り

というものを練って錬って

練り上げていくということでしょう

 

練るという字も糸へんもあれば

金偏もあります

練と錬です

「練」は、灰汁などで煮て

柔らかくし光沢を出した絹糸

とあります

「錬」の方は、

金属を熱して、やわらげて

ねりあげるということ

とあります

どちらも、ねりきたえる

ということは同じのようです

 

心も日々練り鍛え上げないと

不純物がたまり

それに押しつぶされてしまいます

日々鍛錬、日々修養です。

 

 

 

 

 

 

 

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