本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

人と道

2022-11-25 20:14:37 | 十地経

「道」という言葉も

ただ道路というような

人や車が行き交う道もあれば

柔道、茶道、弓道、剣道

というように、

人が人となっていく

そういう道もあります

 

「道人」という言葉もあって

仏門に入った人のことも

そういうように言います

また、道具という言葉もあり

精神面だけでなく

物としての意味もあります

 

「道というものが

我々に出会うんです。

それで道が成就する。

道が我々に出会わせて

我々というものを

変えることによって

道が人間に生きてくる。

 

道から人が生まれるんです。

また

人も道に会うことによって

初めて自分になる。

道に会うまでは

人ということが厳密に

言えんのや。

 

人というのはなんか、

人という、

我というものが実は

言えんのです。

漠然としておるわけですね。

我でないものに

生きとるわけです。

 

名利とか文化とか幸福とか、

そういうことの中に生きとる

そこに我はないでしょう。

それを破ってですね、

何か我というものに

なるんです、

道に触れることによって。

 

また道の方も

我を我とるすることによって

道が成就するんです。

もし道によって我が、

私がないなら、

道も無駄ですわ。

また私も道に会わんなら

一生生きたことは無駄に

終わるわけです。」

 

先日もサッカーの試合で

面白いことに

コートに入る時に一礼して

入っていきます

デパートでも、

店員の方が店に入って

こられるときに一礼して

入られます。

 

まあ、

その理由はいろいろあると

思うのですが

本来的には仕事の場

というものを単なる

商売の場と考えずに

自分を磨く道場と

捉えておられるのでしょう

 

柔術が柔道になった

ただ勝てばいい

というものではなく

柔術というものによって

それを自分を磨いていく

糧としたのが柔道になった

ということでしょう。

 

以前テレビで見た、

弓道の段取りの試験

はるばる海外から来られて

受験しておられました

その方も7段とか

持っておられるのです

的には的中したのですが

段は上がることが

出来ませんでした

道場への入り方

呼吸の仕方、

立ち居振る舞いなど

総合的にみられるのでしょう

その方もまた来年挑戦します

と話しておられました。

 

ただ的に当てればいい

それだけではなく

人格まで評価されるところに

道としての姿が

あるように思います。

 

ですから、

道が我々を人にするし

人も道を見つけなければ

道が道として成就しない

ですから

本当の人間の姿は

道を歩む

ということにあるのでしょう

でないと

名利とか損得勘定だけで

本当の自分をなくしている

ということでは

ないでしょうか。

 

 

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仏道という行の歴史

2022-11-23 19:56:44 | 十地経

昨日からの続きですが、

 

「仏教が生きているという。

本がある

というようなことでない。

つまり一番大事なのは

仏道の学者がおるという

ことではない。

学者は菩薩ではない。

仏道の知識は持っている

というだけの話だ。

行じてはおらんですね。

 

仏教研究が盛んだ

ということと、

仏道が興隆しておる

ということとは別ですわね。

何かそこに、

色んな仏教の学会がある

というようなことが

何か仏道があるというような

ことだと思うというと

えらい間違いです。

 

道を行じておるという…。

こういうものは実際分からん

ですわ。

どこにもそういうものが

おるかということは。

研究発表というものは

あらしませんしね。

統計もとってあらせん

ですから。

 

仏道の歴史ならみんな

知っておるんですわ。

いやインドには

こういう歴史があった、

中国にはこういう教学が

成立したというようなことは

日本に来るというと、

真言宗があったり、

天台宗があったり、

そういう

教理の歴史はあるけど、

そういうものじゃ

ないんであって、

行の歴史ね。

 

歴史というものは

行がなければ歴史とは

いえんでしょう。

仏道が行じられとる

ところにですね、

やっぱり歴史というものが

ですね…。」

 

よく講義で出てくる

「歴史」ということですが

この言葉もよく分からない

ことなんですが、

よくこういうことを

仰っておられます。

「釈迦を成り立たせるような

教えが大乗なんだ」と、

普通の歴史からいうと

釈尊が教えを説かれ

涅槃に入られたのち

大きく二つに分かれ

それが大乗仏教となり

もう一つが小乗仏教になった

その大乗仏教が

中国へ渡り、

日本に伝来したと、

これが普通いう歴史です

 

ところが「行」仏道を行じる

となると

ところが、

教えの歴史からいうと

釈尊を生み出すような教えが

大乗仏教だと。

なかなか分かりにくい

ことなんですけど、

仏道を実践してこられた方の

言葉なのでしょう。

 

まあ、時ということも

二つあって

カイロスとクロノスという

ギリシャ神話の神ですが

クロノスというのは

普通に流れていく時間、

カイロスというのは

面白い風貌で

前髪は長いが後は禿ている

美少年として描かれます

チャンスの神は前髪しかない

ということを表している

ようです

時というものは

ただ流れていくものではなく

その一瞬をとらえる

チャンスというものは

虎視眈々と狙わなければ

訪れないということです

 

また、人との出会いも

何もなければ挨拶だけで

終わってしまうものですが

この人という

そういう出会いがあれば

その出会いは「時」が止まる

というか

貴重な時に変わってきます

ただ過ぎていく時ではなく

一瞬一瞬が輝く時に

変わってくる

 

そういう時があると思います

行というものが

本当に実践される時

それは流れていく時ではなく

止まったような時間になると

思います

ですから、

クロノスという時間を持てる

人にのみチャンスもあるし

時間も生きてくるし

行というものが完成する

そういう時が

あると思うのです。

 

 

 

 

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行のないところに人間はない

2022-11-22 20:58:33 | 十地経

仏教といっても

坊さんのものでもなく

道を歩む、道を行ずる人の

ものである

ということが

安田先生の教えの中心

じゃないかと思うのです

 

「仏道というものを

宗派的に考える必要は

ないんであってですね、

菩薩というのがこれが、

仏教的な人間なんです。

仏道というものに生きている

人間を菩薩という。

 

別に坊さんという意味では

ない。

自分が生きているじゃない

というような意味、

道を通して人類と共に

生きているというような

ですね、

道を通して人類と共に

生きていると。

そこに本当の人間があり、

本当の人生という、

生があるわけです。

 

その場合に大事なことは

行ということじゃないかと

思うですね。

我々は行というものを

特殊に考えるんですよ。

座禅するとか念仏するとか

あるいは加持祈祷を

やるとか、

そういうような、

特殊に考えるから、

 

つまり

宗派的仏教に考えるから

何か特殊なものだと思うけど

そうじゃない。

行のないところに

人間はないわけですよ、

行のないところに

仏道はないんだ。

仏道のないところに

人間はないわけです。

 

仏教が生きている

ということは仏教が

行ぜられておるからね、

それで仏教が生きている。」

 

道とか

道を行じるとか

難しいようですが、

 

「道という言葉に

 迷うことなかれ

 朝夕己が為すわざと知れ」

 

という言葉があります。

毎日自分が行っている

何でもない行いの中に

本当の行が潜んでいるのです

流されていく日々の行為

当たり前と捉えるか

千載一遇のチャンスと

考えるかで

日々の一瞬の出来事が

流されていくか

輝く一時となるかは

自分次第ということでしょう

 

人生はやり直すことは

できないが

見直すことはできる

 

と仰った先人がおられます。

 

 

 

 

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嘘も方便・方便はウソ??

2022-11-21 20:46:23 | 十地経

『十地経講義』にちょうど

方便智ということが

出てきたのですが

「方便」ということも

なかなか難しい言葉です

 

嘘という字は

口へんに虚しいと書きますが

もとの意味は

うそぶくこと、息を長く吐く

ということですが

日本では「うそ」の意味に

なったということです

 

『嘘』という歌もあります

一世を風靡しました

なかなか微妙な人の心理を

表現しています

面白いところでは

「嘘と坊主の頭は

ゆったことがない」という

諺もあるようです

 

仏教では方便ということは

「方便智」という

一つの智慧として出てきます

十波羅蜜の中に

方便波羅蜜ということが

あります

『十地経』のなかでは

楽無作行対治という

その楽無作行を対治するのは

方便智と有ります

 

本来、方便とは

ウパーヤといって

近づく、到達する、という

意味です

辞書には

たくみにはかりごとを

設けること

向上し進展するための手段

といように出ています

 

さとりへ近づけるための

手段とか方法

ということでしょう

 

ちょっと難しくなりますが

一応、方便ということが

たんに、「嘘も方便」

ということだけではない

もっと深い意味を

含んでいますので

 

進趣方便(シンシュホウベン)

さとりに向かって近づく行、

権行方便(ゴンギョウホウベン)

仏が衆生を導くために

はかりごとをめぐらす智慧

施造方便(セゾウホウベン)

目的理想の達成のために

なすことがたくみで

かなっていること

集成方便(シュウジョウホウベン)

一の中に一切を具え

一切の中に一を成じて

たくみに相集まって

成立している

ここのところは

「一即一切・一切即一」

one is all  all is one

ということに通じるでしょう

 

ウパーヤという近づける

という意味を方便と翻訳した

ことも分からないところです

そこから

方便ということが

正しく理解もされずに

嘘も方便というような

勝手な解釈もしれませんが

正しい目的へ近づける

ためには手段はウソでもいい

というのは

おかしいようにも思います

 

修行では

「嘘」ということが

一番諌められることです

人をごまかしても

自分自身はごまかせない

嘘をついたということは

自分の心に残っていくから

です

それが積み重なると

自分の心はウソで満たされ

人生までもが嘘の人生になる

ということなんです。

 

方便智という智慧で

楽無作行対治という

空に執着する

空に落ち着いてします

その心を対治するのは

方便智という智慧なんです

 

先生の言葉で残っているのは

「方便智発起殊勝の行」

「楽無作行対治」という

何かしら意味も分からず

心に残っていることがなんです

 

 

 

 

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ビーガンのお店・燦設計室

2022-11-20 19:55:13 | 住職の活動日記

宇治の家を設計して頂いた

燦設計室

この度、転居をされて

我が家の近くになりました

古民家をリフォームして

2階が設計室

下がビーガンのカフェです

 

 

最近は

こういう古民家の再生が

あちこちで見られます

外観はできるだけくずさずに

躯体自体の構造を強化して

街並みの景観を崩さずに

新しい街が生まれてくる

ということです

 

 

サンドイッチやスパゲッティ

のメニューが並んでします

 

 

小さなスペースを上手に

生かされています

『燦』という字の下は

金属がめくられている

ようなところは郵便受けです

桶の中の花は週ごとに

入れ替わるということです

 

 

玄関はいると

小さなスペースも花台に

作り込まれています

 

 

ちょっと分かりにくいのですが

天井の壁紙は型押しした壁紙を

使われておられます

 

 

外を眺めながら

私はパスタ、

家内はサンドイッチ

を注文、

まず出てきたのは

色とりどりのサラダです

普通は申し訳ない程度に

ちょこっとなんですが

大きめの皿に

たくさんの種類の野菜が

ならびます

 

サンドイッチも

野菜がふんだんに使った

ものです

パスタも麺のなかにも

面にからまるように

野菜群が入っています

 

心地好い満腹感

ご主人のご厚意で

 

 

栗のシフォンケーキを頂戴

爽やかな甘みが

コーヒーの苦味と合わさり

絶妙のバランスなんです

 

散歩途中の休憩場所に

もってこいです

 

 

ちょうど帰り道

仏光寺の門前に出てきました

両脇には塔頭が並んでいます

 

 

一歩踏み込むと

お寺の中の喫茶室でしょうか

若い方々が列をなしています

 

ご本尊にご挨拶して

北側の門より出て

まっすぐ行けば我が家です

 

ちなみに「燦」さんは

御幸町通の松原を

下がった所です

休みなしで営業されています

お勧めの所ですよ。

 

 

 

 

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信仰の歩み

2022-11-19 21:08:25 | 十地経

お釈迦さまのさとりの内容

四諦(シタイ)その実践として

八正道(ハッショウドウ)が説かれて

います

十地経の講義でも

八正道が語られています

その中心は「正見」(ショウケン)

ということです

講義も遠回りするようですが

ずっと正見ということが

語られたいます

 

八正道の目的は

「正見」の智慧を開く

ということです

そのために他の七つの行が

あるということです

 

「人間の側からいえば

信心が第一なんですけど、

同時に信心というときには

まだ信心でないものが

たくさんあるということと

矛盾せんから、

それによって

信心が一歩ずつ展開していく。

 

そのために地が

十地と立てられてくる。

展開だ。

精神の発展です。

だからそこにやはり、

信仰に歩みというものが

あるんです。

 

人生というものは、

信心を得てすぐそれで

何もなくなるのなら、

それ以上生きている

必要がない。

生きているという意味が

分からん。

何のために生きているのか。

 

仕事するために生きている

ということはない。

やはり

我々が生きているというのは

苦しみがある。

苦しみがあるというのは

ただ苦しんどるためじゃない

信心を磨く

ということがある。

そこに

大きな役目があるでしょう。

 

やっぱり生きとらんならん

意味がある。

我々は生涯を賭して

精神を開拓するという使命が

そこに

与えられているわけです。

信仰に歩みがある

ということが大事なことです

 

行道ということがある。

精神が展開していく

一つの行道です。

これ以外に仏教というものは

ないじゃないでしょうか。

これが

信心によって生きている

ということです。

信心だけで生きている

ということです。

 

先言ったように、

ただ念仏とか只管打座とか

ということは

そういいうことなんです。

正見の智慧に生きている。

正見の智慧を開いて、

その開いた正見で自分が

立っている。

 

色々のことがあるけれども、

全部正見に立っている立場を

動かずして、

あらゆるものに

関係しとるんです。

パン問題もあるし、

娑婆に生きている限り

色々の問題があります。

むしろ

そればっかりといってもいい

 

しかし

それらに正見は動かされない

もし正見がなかったら

世帯じみている

というだけです。

生活の労苦の中に

もみくちゃにされて、

惨敗するより仕方がない。

惨敗を嫌おうとするなら

自殺するより仕方がない。

 

人間が人間の立場に

立っている限り

結論は自殺しかない。

なぜ自殺せんかというと、

ごまかすからです。

まあわしばっかりじゃない、

皆こうじゃないか

というように、

そんなところにおるから、

自殺せずにのうのうと

タバコ喫っとれるわけです。

 

厳粛に考えたら

自殺以外に手はない。

にもかかわらず自殺もできず

ごまかしてついに

汚れてしまうと、

これが我々の

一生の運命じゃないか。

 

こういうものを翻して

生きるという、

そういうときに

初めて自己があるんです。

あらゆるものに

成功とか失敗とか

そういうものに引きずり

回されたときには、

自己・主体性はないでしょう

 

何がきても動かんから

自己という。」

 

なかなか厳しい言葉です

ごまかしながら

生きているというのが

私たちのあり方です

そういう自分である

ということを知るのが

大切なことです。

 

 

 

 

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第八不動地

2022-11-18 20:00:02 | 十地経

『十地経』の八番目は不動地

当院のご本尊は不動明王

お経の中にも「不動」という

言葉が出てくると気になる

ものです。

ちょうど講義でも「不動」

ということが出てきました。

 

「人生のあらゆる問題は

皆その因縁によって

賜ったものです。

問題は、

それを如何に

我々がいただくか

ということが

我々の責任になるわけです。

それほど強い対場はない。

 

良いものは欲しいけれども

悪いものはいやだとか、

そういうことじゃない。

悪いものがきても

良いものがきても、

逆境がきても

順境がきても、

それは平等にから

ものです。

如から賜ったものです。

 

そうすれば

もう動きようがない、

自分の立っておる大地はね。

不動です。

地を見出したということは

自分が不動になった

ということです。

 

不動ということは

どの地についても

言えるんです。

地は不動ということと

同義語なんです。

しかし最も顕著に表して

あるのが第八不動地です。

だけど

初歓喜地の経文から不動

ということが語られています

 

しかし地そのものは

十はないけれども、

地を得た自分には色んな

雑夾性をまだもっています。

たとえてみたら、

先言ったように

心境を開いたような正見の

智慧を開いたということは

具体的には信心といっても

いい。

 

信心はキリスト教の

信仰と違って、

仰ぐというようなこと

とは違って、

信知するという。

やはり一つの智慧という

ものを、

信として智慧を賜る。

正見の智慧を賜る。

人間の智慧じゃないんだ。

論理的な智慧じゃない。

 

信心が成仏するんです。

信心を得て別にまた

成仏するということはない。

信心が成仏するんです。

成仏の真因なんです。

信心が成仏する。

 

しかし信を得た時

すぐ成仏したと、

こうは言えんのです。

信は凡夫でも得られるけど

成仏したときには

凡夫ということはありえない

凡夫にも信心は開く。

 

その信心が成仏するんです

けども、

しかし

信心は凡夫と矛盾せんのです

凡夫の中に凡夫を破って

現れる。

ちょうど

泥の中に蓮華が咲いた

ようなものだ。

蓮華は信心の華です。

しかし

蓮華の花の咲いたところは

泥の水の中です。

泥の水があるということと

蓮華の華があるということと

は何も矛盾せん。

泥の中にあっても泥にならん

だから正見というのです。

 

だから信心を得ても

信心を得ない人と同じ

欠点をたくさんもっている。

だからして、

信心を得ても甘いものは

甘いし寒いものは寒い、

困るときは困る。

 

信心を得たらなにも困らんと

そんな嘘をつく必要はない。

困るときは困る。

だけど

困るといっても

困るということが

立場にならんのですよ。」

 

難しいところですが

不動ということは

出発点が見つかった

ということでしょう

生まれた時が出発ではなく

人間として本当の問題が

見つかった

ということが出発でしょう

だから

十地という道を歩んでいける

ということのように思います

 

 

 

 

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京都御苑の紅葉

2022-11-17 20:37:11 | 住職の活動日記

今、京都はいたるところで

紅葉が見ごろを迎えています

賑やかな所を避けて

何時もの京都御所へ

 

 

泰山木でしょうか

花が落ちて大きな葉が

色づき始めています

 

 

花の後には実を結んでいます

 

 

御所もあちこち紅葉が

始まっています

生憎、曇天

色の発色が悪いようです

 

 

ゆっくりと歩きます

やはり、久しぶりです

ちょっとしんどい

でも、森林浴

木々の出す美味しい空気を

胸一杯吸いながら

 

 

木々の下を歩きます

人も少ないので

マスクを外し

何とも気持ちのいい散歩

 

 

椋の古木

今年からでしょうか

立派な添え木ができました

 

 

北山杉でしょうか

床柱にでもなりそうな

節のない磨いたものです

 

 

さくらの古木ですが

白くなっている枝は

ムシがついているようです

でも、白い枝と桜の紅葉は

美しいものです

 

 

緑から赤色へ

グラデーションが美しい

 

 

新しい建物ができていますが

平屋の作りと紅葉のバランス

いいものですね

 

 

向こうに見えるのが

仙洞御所でしょう

今日は予約が多いようで

満員とのことです

 

小一時間ほど歩きましたが

気持ちはいいものの

運動不足の体には

ちょっときつかったようです

 

籠りっぱなしの部屋から

こういう大きな空間

そして何よりも

清々しい空気が何よりでした

 

 

 

 

 

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人間を超えていくということが人間の本質

2022-11-15 20:55:25 | 十地経

先日からの続きですが、

「このままの自分でいい」

ということはないのです

今の自分を超えていきたい

という願いが根底にあります

 

講義では

「例えばニーチェに

Üermensch・ウーバーメンシュ

ということがありますが、

これは人間を超える

という意味ですね。

 

人間を超えていく

ということが人間の本質だ。

その意味で

橋というたとえも

使っていますけど、

人間は橋であると。

 

こういうような意味が…

人間を超えていくとか、

自分を否定するとか、

人間はただ肯定を望む

ものじゃない。

自己自身を否定するような

要求も人間はもつ。

 

だからして

罪悪深重とか凡夫であるとか

いうのは、

つまり倫理的反省じゃない。

倫理的な価値判断から

いっとるんじゃない。

最も高度な人間の自覚です。

 

全世界を包むような

大きな精神は、

人間は罪悪深重なものである

というような、

そういう砕かれた自分だ。

 

それは理性の立場からみれば

何か負けたというように

考えるけど、

そうじゃない。

頭を下げたんじゃない。

下がったんだ。

下げるのは理性の立場です。

 

ところが、

人間が頭を下げる

ということは

負けたんじゃない。

それが人間の本質なんだ。

人間というものは

頭を上げたいものじゃない。

下げたいけど

下げる道が見つからん。

 

仏道に触れて初めて、

満足して下げることができた

これが南無というものです。

下げて情けないとか負けた

ということは仏教には

ないんです。

 

外からいうから

失敗したとか成功したとか

いうけど、

失敗とか成功とかいうのは

人間の立場で

人間を考えとるからです。

 

あらゆるものを縁として、

人間は

自分を超えていくんです。

失敗ということによって

初めて、

人間は自分の有限ということ

を知るんです。

有限を知れば、

その有限を通して無限に

触れるわけです。

その時有限のままが

無限なんです。

だからそこには

一点の失敗もないんです。」

 

先生と対談されたティリッヒ

という方は

「永遠の今」eternal now

ということを仰ってましたが

有限の人間が永遠なる真理に

ふれる一瞬があるのでしょう

なんだか

そういうものに触れる

そういう感覚が誰しもある

のですが

なかなか現前として感じ取る

ことが難しく

他のことに気が取られて

見過ごすことが多いのです。

 

しかし、

今日のところは

人間が自分を超えていく

ということが

それは難しいことでもなく

誰しも心の底で願っている

ことのように思います。

 

 

 

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本蔵院地鎮式

2022-11-14 20:02:01 | 住職の活動日記

前日の12日、気温27.5度

快晴の空、汗ばむほどの暑さ

準備も進み

リハーサルが始まります

 

 

今回の地鎮式は

柴燈護摩(さいとうごま)

で勤めます

中央に大きな壇が組まれ

その周りを桧葉で

覆ってあります

 

 

四国から、島根鳥取からも

北九州からも応援に

駆けつけて頂きました

学園の同期の方や友人達

もう皆さん柴燈護摩の

ベテランの方ばかりです

 

 

入念な打ち合わせも済ませ

当日を待ちます

 

あのような晴天が

夕方には曇り夜には雨

心配した当日も晴れ間が

見えてきます

しかし、

式が始まりだすと

小雨交じりの雨

でも、傘をさす程でもなく

その雨も上がってきました

 

雨降って地固まる、です

その中心配だったのが

あの大きな炎の火の粉です

まさに恵みの雨と思われる

ような降り方です

 

式も進み

いざ、点火となり

モクモクと立ち上がる

大きな煙

上に上がったかと思うと

西から北にめぐり

東から南と

土地を一巡するように

お参りの方々をまるで

清めるかのように

廻ったのです

 

 

この護摩木が百八枝という

皆さんの願いの籠った護摩木

燃え上がりだすと

導師の手により

願いを込めて投入されます

いよいよ炎も力強く

燃え上がります

 

鍬入れも終わり

お参りの方々と一緒に

四方の隅の大きな穴に

護摩木の灰を入れて

土地のお清めです

 

「こういう事業は

三代かかるのですね

先先代から聞かされて

いましたよ」

と檀家の方も感慨深そうです

 

 

こういう見事な御幣も

お飾されていました

 

 

こういう形で四方を守護する

意味があるのです

結界を仕切られ

いよいよこの土地に

本堂が建ちあがるのです

 

 

来年9月には完成予定

昭和3年に建立されて

それから百年余り

新しい精舎が立ち上がります

予想図を見ながら

皆さんとても楽しみに

しておられる様子です

 

また、今回の

柴燈護摩による地鎮式

皆さん初めての体験だった

ようです

「貴重な式に参列できて

感激です」と

口々におことばを頂き

何よりも素晴らしい式典

でした。

 

無魔成満の工事の進捗を

祈っております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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