本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

本蔵院の青モミジと奥村歯科の金魚たち

2021-06-30 20:34:32 | 住職の活動日記

京都のもみじの有名なお寺では

今は「青モミジ」と銘打って

ライトアップをしています

 

本蔵院のもみじも

青々として緑を輝かせています

 

 

随分と大きくなったものです

幹を見ると髄の部分は腐敗して

皮だけでもっているのですが

それでも日々成長して

 

 

30年前は下に流れる井出の上の

中ほどまで伸びていました

川を覆うように大きくなればと

願っていたのですが

今やすっかり川越えるほどに

なっています

 

 

その下にある

ツツジのプランターには

モミジの子ども達が

芽を出しています

 

 

今では本蔵院の象徴的な

モミジになっています

ところで

治療でお邪魔した奥村歯科には

沢山の金魚さんたちが

待っていました

 

 

縮緬で出来ているのでしょう

色も鮮やかです

 

 

とても色鮮やかで

生地の柄の使い方も上手く

いい表情です

 

 

上から舞い降りるような

出目金のしっぽの柄も

華やいでいます

 

 

金魚鉢に納まったランチュウの様な

金魚もいます

 

 

金魚すくいに捉まった

子供のような金魚

 

 

おとなしそうな様子の金魚

 

 

尾っぽの鮮やかな金魚

 

 

そして

 

 

お祭りの金魚たち

小さいスペースながら

色とりどり表情豊かな金魚たち

楽しそうに遊んでいる様子が

伝わってきます

 

 

そういえば

明日から七月、七夕様です

今年はあっという間に

半年が過ぎてゆきました

 

金魚が好きな私には

ホッとするようなたのしい

金魚たちに出会いました。

 

 

 

 

 

 

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応仁の乱の始まりと終わり

2021-06-26 20:49:08 | 住職の活動日記

宇治市民大学の講座も

コロナウイルスの緊急事態宣言で

延期になったり、

変更になったりで、

今日の講座は5月15日の分です

講師の先生は

京都橘女子大学の名誉教授の

田端泰子先生です

 

テーマは

《室町・戦国期を生きた人々》

ー応仁の乱と将軍家・村落住民ー

ということです

 

応仁の乱もなかなか複雑で

よく理解できなかったのですが

今日の講義は

とても興味あるものでした

先生がこの時代の造詣が深く

何よりもこのことが好き

というお人柄が伝わってきます

 

応仁の乱の発端は

足利義政の優柔不断さが招いた

ということです

義政は兄義勝の死により

14歳で将軍になっています

その母は義政の正室・日野富子です

富子26歳の時の子です

 

そして、

この時「寛正の大飢饉」があり

世の中の三分の二の人々が

餓死によりなくなっています

それは諸国で起きる暴風雨、洪水

虫害が原因です

こういうことが背景にあります

 

それで、

応仁の乱は応仁元年(1467)

正月18日、上御霊神社の戦で

始まります

それから都では東西両軍の衝突で

大火災、京中の商売停止、

そして食糧難と

応仁元年7月~11月には

「京都大焼亡」ということに

なっていきます

 

中抜きですが

応仁の乱が終息するのは

文明9年(1477)11月です

11年続いた内乱はやっと

終わるのですが

この応仁の乱を終わらせたのは

日野富子です

 

その終息のために使った費用は?

 

米1石=10斗=100升=

1000合(古代から近世)

近世以降 

1石≒180ℓ≒米150㎏=

9万円~15万円になります

それで、義満が100貫文を寄進

ということがあって

この金額は100石の米価になり

ということは

約900万円~1500万に相当し

 

富子は乱の終息に1000貫文を

畠山義統(よしむね)に渡したと

ありますから

今のお金でいうと

9千万円から1億5千万円になる

ようです

 

最初と最後だけですが

その間にいろいろの出来事があり

それがまた難しいのです

ただ、一つの戦を終わらせるのに

これだけの費用も掛かる

ということも

やはり金銭が絡んでいる

ということです

 

明応5年(1496)5月

日野富子は他界します、57歳です

三条実隆は

「貴きこと后妃コウヒに同じ」と

記しています。

 

 

 

 

 

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未来のために今がある 過去のために今がある?

2021-06-25 20:48:55 | 住職の活動日記

未来は未だきたらざるもの

過去は過ぎ去ったもの

ということが言われています

 

仏教では未来のことを

「当来」(とうらい)といいます

未来は偶然やって来るのではなく

今の中に孕まれている

もっと言えば当来ですから

当に来るべき(まさにきたるべき)

今の行いの中に

未来が内蔵されている

今行っている一挙手一投足は

未来の自分を作っている

ということです

 

今の行いを疎かにして

未来は必ず、と願っても

望む未来はやってこないのです

今の中に未来が約束されている

ということで「当来」と

いうのです

 

ふと思ったのは

「過去のために今がある」

のではないかということです

過去は過ぎ去ったもので

今の中にあるわけないと

思うのですが

 

「失敗を拝む」と

言った方がおられます

 

最近は妙なもので

過去の成功体験や(ないのですが)

よかったことは思い出さずに

失敗したことや恥かいたことが

やけに思い出されます

夢の中でも、反省することしきり

ということですが

今更反省してもどうにも

ならないのですが

 

しかし、

この反省が深まると

今こうしてあるのは

あの時の失敗があったればこそ

あの時恥かいたから

そういう失敗が今の自分を

作ったのではないか

と思うことがあります

 

ドミノ倒しで

一つ倒せば次々全部倒れてしまう

おもしろいように倒れていきます

その倒れた駒が

失敗を拝むというか

その失敗があればこそと

見直してくると

倒れた駒が全部起き上がってくる

ような

今まで失敗していたことが

それが自分の肥やしであったと

思い直すと

失敗が生きてくる瞬間がある

ように思います

 

そのように考え直すと

「過去のために今がある」

ということも

言えるような気がします

 

過去を殺すも生かすも

今の自分次第ということです

自分の行い次第ということで

今という一瞬は

未来を孕み、過去を見直してくる

そういう大きな一瞬を含んでいる

ようにも思います

 

ですから、

一瞬で過ぎ去っていく今ですが

あだやおろそかには出来ない

そういう一面をもっているのでは

ないでしょうか。

 

 

 

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24日はお地蔵様のご縁日

2021-06-24 20:56:16 | 住職の活動日記

宇治の地は他所と比べても

お地蔵様のお社が多いように

思います

 

 

いつも通るところですが

お社が並んで立っています

中を覗いてみると

 

 

なんだか楽しいそうなお地蔵様

二人並んでいらっしゃいます

 

 

こちらの地蔵様は

光背のところがやけに賑やかな

色彩で化粧されています

8月24日は地蔵盆で

その時に美しく化粧直しされます

その時のお化粧がまだ残っている

ようです

 

 

こちらも、楽しそうな顔した

お姿です。

 

こうやってどのお社を見ても

大事にお祀りされています。

 

そして今日は師匠の祥月命日です

高野山で修行されたのも

「地蔵院」というお寺です

そして、東寺でも

塔頭に地蔵院という名前を付けて

そこがご自坊でした

お地蔵様にご縁があるのでしょう

ご命日もお地蔵様のご縁日です

 

久しぶりにお墓参りに行き

近況やお弟子さんたちの

活躍の様子などをご報告

石を撫でてみると

少し苔が生えかかっています

ブラシでこすりながら

たっぷりの水で洗い落しました

 

そしてまた、

不思議なことに先生の3回忌に

母が逝ってしまいました。

 

お釈迦さまが涅槃に入られてから

次の仏さまは弥勒菩薩です

それまでには56億7千万年

という長い年月がかかります

その無仏の時代

道の辻々に立って迷わないように

導かれるのがお地蔵様です

 

そういう一番身近な仏さま

そのように師匠が一番大切に

見守ってこられたのが子供達です

そういう願いを叶えるかのように

24日というお地蔵様のご縁日が

ご命日ということです

 

また師匠が故郷の大分に建立された

お墓は縁あって

熊本の菩提樹苑に移転しました

そこにもたくさんのお地蔵様があり

お墓の向きは故郷の大分の方を

望むように立てられています。

 

ふと思うのは

弟子の方々も鬼籍に入られた方が

多くなったような気がします

なんだか寂しい限りです。

でも、

まだまだ元気で活躍している

弟子の方々や幼稚園の子ども達を

温かく見守っておられる

ことでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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空のアポリア・空に沈む

2021-06-23 20:57:33 | 十地経

『十地経』の第七地は

七地沈空の難といって

大きな難関があります

空に腰を落ち着け空に沈む

これが一番の難関です

 

講義では、

「空ということになると

何もする必要がない。

真理から見れば。

迷っているから何かをやろうと

するんだと。

真理から見れば、

仏教の言葉で言えば

助けるべき衆生もないんだと、

衆生も空だと、

求めるべき菩提も空だ。

別に

仏というもの衆生というものが

どこかにあるわけじゃない

求むべき仏もなければ、

離るべき衆生もない。

空というものだ。

そうすると、

それは空に沈んでしまった。

ニヒリズムだ。

ニヒリズムの中に埋没してしまう

ということになるでしょう。

 

どうもそこに、

空というものは真理だけど、

真理は真理に埋没した場合は、

真理は真理自身を救えないんです

 

そこに何か一つのアポリアという

ものが出てくるでしょう。

難関が。

難関というのはアポリアだ。

そういう時に

願というものが、

生産的原理というもんじゃないか

理は静止的原理だ。

願はものを生産する原理だ。

Principle  といっても、

生産的原理というものが

願というものに

あるんじゃないか。」

 

先生の講義はドイツ語や

英語そしてギリシャ語まで出てきて

それを縦横無尽に駆使して

仏教語や日本語で語れない部分を

何とか語り尽くそうとされて

いるようです

 

この、Principle というのは英語で

原理原則、それから主義信条

そして格式語としては

本源・本質という意味があります

英語の辞書の説明は

私なりにとても頷けるものがあり

言葉の説明の順番ですが

最後の「本源・本質」が言葉の

中心で、

そこから「根本の原理」という

意味になり

そういう基本的考え方があって

主義・主張という意味が

生まれてくる

ということのようです。

 

願とかいう仏教語は

ただ願いというものでもなく

もっと深い意味があるようですが

それを英語の Principle という

言葉で説明されているようにも

思うのです。

そして、

その願ということを

生産的原理という内容で

表現されていることは

実践の言葉として取り上げて

おられることでしょう。

 

願には意欲ということがあって

清浄意欲といいますか

私たちの汚れた欲望ではなく

清らかな意欲

こういう意欲さえなくなって

きたら仏道を求めるという

エネルギーも出てこないようです

しかしその根底には

動かない、

理という静止的原理がある。

 

理事ということも

仏教語としては事理ともいい

重要な意味です

普通でいう事務取り扱う

理事さんとは違い

「理と事」「事と理」

ということがあります

理は、真理とか道理というような

平等な本体のことで、

事は、事相、事法のことで

具体的な現象のことです

私たちが日々行う迷いの行いも

事ということがいえると

思います。

 

講義を読むには

色々の辞書を片手に

調べながら読んでいくのも

進まないですが

楽しいものでもあります。

 

 

 

 

 

 

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札幌より花だより、クマだより!?

2021-06-22 20:07:19 | フラワー

東寺で一緒に修行した方ですが

今は札幌の自坊を復興され

東奔西走のご活躍のご様子です

 

坊守様が丹念に育てておられる

花々の便りが届きました

 

 

お寺というのですが

矢張り現代に合わせて近代的に

建て直され

雪対策やおまりの利便性など考え

RCのお寺なのです

ということもあってか

庭はイングリッシュガーデンと

お洒落な装いです

 

 

白く可愛い花

スズランスイセンというそうです

 

 

これはタイツリソウという名前

漢字で書けば「鯛釣り草」

下に釣り下がった様子が

鯛を釣り上げた形から

また、お寺の華鬘にも似て

華鬘草ともいうそうです

ところ変われば

草花の様子も違います

 

 

こちらも美しい花々です

ユーホルビアポリクロマという

むつかしい名前です

 

 

丹精込めて育てておられる様子が

伺えます

 

そしてこれは

 

 

クマとの遭遇だったそうで

お参りの途中だったのでしょうか

車の中から迫力あるショットが

撮れています

 

テレビのニュースの話か

と思いきや

身近なところで

こういうことに

出遭われているのです

 

こちらでは

明治天皇陵の桃山御陵で

鹿に出会ったことがありますが

目を合わすなり

向こうの方が慌てたようすで

逃げて行ったのでよかったですが

熊となると話は違います

まあ、車の中ということで

事なきを得たのでしょう

 

こちらでは今花といえば

アジサイが賑わっていますが

札幌からめずらしい花だより

何よりのプレゼントでした。

 

 

 

 

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裸になる原理

2021-06-21 19:41:31 | 十地経

裸になるといっても

全という言葉が付くと卑猥に

なってきますが

 

先日でしたか

新聞チラシに高齢者用マンション

の案内が入っていました

この頃よく見かけます

見てみると何と狭い

ベッドを置いて

トイレと小さなキッチン

それに申し訳程度の物入れが

あるというものです

いずれは …

ということは

今あるものを全部捨てないと

入れないということです

それこそ裸一貫で来なさい

ということでしょう

 

十地経で出てくる問題は

そういうことではなく

最近の科学や主義主張という

ものはこれでもかと

加えることばかりで

裸にしてくれるものは無い

ということです

 

講義では

「加える方の話ばかりで

それで世界は充足している

裸にしてくるものは一つもない

裸になるならどういうことが

あるかというと

安心じゃないんだ

どんな荷物でも担ぐという

これが宗教の救いなんです

 

荷物のなくなるのが救いじゃない

問題の無くなるのが

宗教の救いじゃない

いかに問題があっても

それに耐えていくというのが

問題を持ちうることが救いです

問題の解消してしまうのが

救いじゃない

死んでもなお残るような問題を

背負うところに人間の救いがある」

そういわれても

なかなか難しいことです

問題が出てくると

すぐにおろしたくなるし

背負うなんてことは

とてもできることではありません

しかし、

出来る出来ないというのは

私の計らいかもしれません

 

それで裸になるということで

キリスト教でもこういう問題が

あったようです

福音書(エバンゲリオン)に

神の国に入るには

幼児、みどりごのように

ならなければいけない

ということで

中世の人たちは

爺さんや婆さんがおもちゃで

遊んでいた

という話しがあるようです

 

「それで、裸になるということは

智慧なんです

智慧なしに裸になるということは

できない

裸になるということは

例えば持ち物でいえば金でしょう

金がなくなったの裸じゃない

そんなのなら楽な話だ

君らは毎日経験しとる

財布の中はいつも空っぽだ

それで般若現前したか

 

だから財布の金がなくなる

ことじゃない

金に対して、

欲しいという心がなくなるのが

裸だ

金がなくなっても

欲しいということは残っている

そういうことで

裸になるということは

智慧でないとできない」

 

というように出てきます

何でもすべての問題が解決して

スカッとなることが

救いのような気がしますが

そうではなく

問題を抱えていく

自分一代で解決しなくても

いいではないか

そういう大きな問題を背負う

そういうところに

人類の問題として抱えていく

ということなのでしょうけど

言うのはたやすいのですが

 

いざ問題に出くわすと

先は

どうなるかと真っ暗になります

けれどもこういうこともあります

事実は明るい

はたで見ていると大変そうに

見えるのですが

その現場にいる人にとっては

そんなこと言っておれず

次から次に起こってくる問題に

対処していくには

悲しんでいる暇もゆとりもなく

明るくこなしていかなければ

ならないという現実があります

 

よく、

「明るく悩め」

ということを言われましたが

何かしら

自分では解決できないような問題

を持つということは

ある面、吹っ切れたような

よっし、と腹もすわり

明るく対処できるようです

 

お釈迦さまが持たれた問題を

今の私たちも悩んでいる

のでしょう

それは人類の問題として

永遠に続いていく問題のような

気がします。

 

 

 

 

 

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言葉によって迷い、言葉によってさとる

2021-06-20 20:22:59 | 住職の活動日記

最近、テレビとか聞いていると

分からない言葉が続出

さいわい、携帯という便利な道具

があって、すぐさま調べることが

できます

そういうことの略なのかと

驚くことばかりです

 

それにしても最近は言葉自体が

力をなくしてきたというか

劣化してきたように感じます

国会の討論にしても

地方地自体の長にしても

その発する言葉が

色々なキャッチフレーズの連発で

本当に言葉の力がなくなった

 

テレビのせいでしょうか

短いフレーズで心地よい

耳障りのいい言葉が好まれ

ちょっと長い文章や

論理的な言葉になると

とたんに敬遠さえます

 

大坂なおみ選手

インタビューを拒否されたため

罰金を科せられました

テニスの世界では

試合後のインタビューは

決められたもので必ず出席と

決めらています

 

あのインタビューでも酷いもので

勝てば持ち上げられ

負ければいつ引退かと

そういう誘導尋問のような

質問攻めにあいます

 

こういうところにも

言葉が軽く扱われているようです

本来は

お互いの意思疎通のための

重要なツールなのですが

それが人を中傷したり

引きずりお下ろすような言葉に

人を傷つけているようです

 

言葉が疎かになると

考え方もおろそかになり

すると実践も疎かになってきます

言葉の乱れは

考え方も単純になったり

その行動も

短絡的になってしまいます

 

仏教の中の「十善戒」でも

十の中の六つが

言葉に関する戒律です

妄語・綺語・悪口・両舌

妄語は嘘をつくということです

綺語は人に対するおべっか

というか、上手する言葉です

おだてるのもいいようにも

思うのですが

一番怖いのは自分に残っている

わずかな真心までなくしてしまう

ということです

悪口(あっく)といいますが

人に対する悪口です

まあ、これほど楽しいことは

ありませんが

自分を横に置いておいて

他人を上げたり下げたりする

というのはある面たのしい

ものがあります

両舌は離間語ともいいます

人の中を割く言葉です

 

意識するしないにかかわらず

こういうことは常にやっている

ことなのですが

「口は禍の元」

ということわざもあり

口、言葉に難することは

とても大切に扱わないと

本当のことは求められません

 

さとるという本当のことを

本当の自分自身をみつける

ということのためには

言葉がいい加減ですと

絶対に無理なことです

やはり、ウソはいけません

その場は何とか切り抜けても

自分を誤魔化した

ということ残ってきます

 

毎日使う言葉

何気なく使う言葉

たかが言葉かもしれませんが

されど言葉で

その一言が迷いにもなるし

さとりを目指す

方向にもなってくる

ということです。

 

 

 

 

 

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龍神さま

2021-06-19 20:10:25 | 住職の活動日記

全国的に梅雨入りした模様です

雨も降りすぎても困るし

降らなくても困ります

科学が進んだ今でも人間の力では

どうすることもできない

問題なのです

 

テレビでの話ですが

マヤ文明も滅んだのは

雨が降りすぎたからとか

また干ばつが続いたからとか

いろいろあるようですが

原因はまだわからないそうです

しかし、

雨が降らなくて生贄(人)を

湖に投げたということが

あるようです

それほど自然への畏怖の念

降らなければ生き死に関わる

大問題だったのです

 

そういうことを日本では

龍神さまとして

大切にお祀りしました

雨が降りすぎても祈り

降らなくても雨乞いして

祈ってきたのです

 

室生の地には龍神さまが

いらっしゃるという

龍穴という場所があります

 

 

清らかな水が流れるところ

この付近は赤目四十八滝があり

水の豊富なところ

その崖に

 

 

岩の割れ目があり

そこが龍神さまのいらっしゃる

ところです

 

 

この本宮には龍穴神社があります

 

 

両脇に生え出ている杉の大木

鳥居の役目もしているようです

 

 

いかにも歴史を感じさせる巨木

ここも雨神タカオカミノカミを

お祀りしています

京都の貴船神社と同じです

 

 

また気になったのは

このお堂ですが

 

 

額には「善如龍王」とあり

この神様は弘法大師が

京都が干ばつになった際に

中国から勧請して雨を降らせた

という龍神さまです

 

龍ということも仏教と縁が深く

禅宗のお寺では本堂(法堂)の

天井には龍の絵が描かれています

火災から守るという意味も

あるでしょうし

また、仏法を守護するという

働きもしておられます

 

それからお坊さんの名前にも

龍という字が使われます

すぐに思い出すのは

「龍樹」リュウジュという方

龍猛リュウミョウとも言われ

真言宗の第一祖でもあり

『十地経』(十住毘婆沙論)

を造った方でもあります

それから第二祖は龍智という方

 

それは龍象ということがあって

サンスクリットではナーガといい

龍とも象とも訳されます

そして、高僧で学識のある僧を

龍象と呼びます

それは水族と獣類の王に喩えた

ということです

 

面白いことに

「龍宮」ということも

仏法が行われないときは

龍王はここに経典を護持する

ということです

(今の時代、龍王様がそっと

 経典を龍宮に隠し守って

 おられるのかもしれません)

 

また、龍穴神社の近くにある

室生寺はもとは龍王寺と呼ばれた

時代があるようで

龍穴神社の神宮寺ともいわれた

ということは

何かしらここの地は古くから

雨乞いの地として信仰され

降りすぎれば祈晴を祈り

私たちが生きる上で

切っても切り離せないところで

あったようです

 

何気なく暮らしていますが

人間の力ではどうにもならない

水ということを龍神さまとして

大切にお守りしてきのです。

 

梅雨に入り、

降りすぎれば災害が起こるし

空梅雨でも作物は育たないし

心配なことばかりです

何ごともなく無事に梅雨も

乗り切れますように

祈るばかりです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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落ちたところが生きる場所

2021-06-18 20:10:37 | 住職の活動日記

よく通る道の交差点

その交差点の角っこに

あまり気づいてもらえない

ひっそりとゴージャスに

咲いています

 

 

となりは誰かさんのお宅

下は水路があって

そのちょうど三角形の土地に

咲いているのです

自然に自生したにしては

あまりにも立派

 

 

真っ白い塊や

 

 

下の方にはピンク色もあります

自然にピンク色になったのか

 

 

そしてその上の方には

ガクアジサイの

これまた美しい色をしています

 

 

これも変種でしょうか

同じガクアジサイでもこういう色

もあるようです

 

 

そして奥の方には

よく見かけるガクアジサイ

 

このような小さい場所に

色とりどりのアジサイがあるのは

自然に生えたわりには

色々あって面白いもです

 

こういう花々も

初めは誰か植えたのでしょう

最初は植えた人たちが愛でいた

のかもしれませんが

今では誰からも注目されず

密やかにそれでも絢爛にも

咲いています

 

よく新聞には

あるお寺さんのアジサイが

ハートの形をしているとかで

出ていますが

こういうアジサイは注目の的で

写真写りにも映えるということで

皆さんから見られ

写真にも撮られることでしょう

 

誰が見ようが見まいが

落ちたところが生きるところです

見られる花もあれば

誰かも注目もされず

一人誇ることもなく咲く花も

あります

 

『十地経講義』では

「落在者」(らくざいしゃ)

という言葉が出てきます

落ちて在るもの

私たちもそうなのでしょう

落ちて在るのです

 

修行がきつい時は

故郷に帰りたいと泣き言を

いうのですが

いざ帰ってみると

やはり、修行しているお寺が

いいと思うものです

 

人間の心は決めたと思っても

なかなか決まらず

仕事の時は5時過ぎの遊びを

頭に思うもので

遊んでいると仕事が気になり

 

そこにいるのですが

心は勝手にいろいろと思いめぐらし

その今いることに集中できない

その場に落ちないのですね

 

我が家のアジサイも

鉢植えでは狭いのでしょう

買った時は大きな花も

今年は息苦しそうに

小さな花しか咲かせまんでした

でも

何の不平も言うことなく

与えられたものを十分に生かし

それなりの花を咲かせるものです

 

 

この隅っこでひっそりと

でも精一杯咲いている

アジサイに見とれていました。

 

 

 

 

 

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