本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

障りが十地を成り立たしている

2022-02-28 19:45:36 | 十地経

「初発心時 

すでに正覚を成ず」

という言葉もあるように

発心(志を起こした時)

その心には正覚(さとり)

が生まれている

ということです。

 

確かに、覚悟を決めて

修行に臨むというその心には

清らかな仏の心を頂いて

いるのでしょう。

それでいいはずなのですが

そこから修行が始まる

仏の心を頂いて

仏の修行をする

ということです。

 

その心を初歓喜地といいます

歓喜がその人を動かすのです

ところが

修行を始めると

色々な障りが見えてきます。

 

「経典の第一段を世親は、

楽無作行を対治する、

こういう具合に言っている。

この楽無作行というのは

障りなんです。

障りを対治する。

読んでみると

対治が二段あって、

初めのは楽無作行対治、

次には彼障対治、と。

 

対治というのは

何か障りを対治する。

障りというものが

これが歩ませるんです。

障りがないところに、

障りが出てきたら

やめるんじゃないんです。

 

障りがあるから

それを超えていくんです。

超えるのは、

障りを媒介として

成長していくんだ。

魂が成長する。

障りがないところに

歩みはないんです。

だからして

精神生活がボケたといって

いる場合は、

障りがなくなったんです。

障りが自覚できん場合。

だから

 

障りが

十地を成り立たしているん

です、十地をね。

 

真理からいえば

一地なんです。

真理には十もありゃせん

です。

真理からいえば一即一切

なんです。

それが十というのは

段階とか過程とか、

転回とか数えているのは

障りによるんです。

 

障りが向こうにある、

真理にあるんじゃない、

人間にある。

真理はどんな人間にも、

どんな段階にも

変わらんものが真理です。」

 

何かやろうとすると

必ず障がいというか

困難なこと難関が出てくる

ものです。

ちょうど

この講義を聞いていた時

色々の難しい問題が

起きました。

その時は、

その難しい問題がなくなれば

なんと、思うようにすべてが

いくのではないかと

考えたものです。

障りを媒介として成長する

と言われても

そんな成長より

今の困難がなくなれば

どれほどいいかと

考えていました。

 

この時の講義も

そういう困難なことをが

起きていることを

見透かされているかのように

こういうことを察して

どうかその困難な障りを

糧に成長してほしい

という願いがあったのかも

しれません。

 

こういう聞法ということも

どん底に落ちて苦しい時

なかなか聞けないものです

また、調子がいい時は

かえって面倒な話と

これも聞けないものです。

苦しすぎても聞けないし

楽過ぎても聞けない

人によっては

本当に苦しい時聞ける方も

あるでしょうが

聞法できるというのは

本当にいろいろな条件が

重なった賜物なのかも

しれないような気がします。

 

しかし、経典では

この困難、障りこそが

成長する糧と説いています。

 

 

 

 

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都見(とけん)

2022-02-27 20:37:56 | 十地経

安田先生の講義は

新しい言葉によく出会います

その度に辞書で引いて

内容を確認しノートに書き

と、知っていく楽しみも

あるのですが

こうもよくボキャブラリーの

多さに驚きます

 

この「都見」という言葉も

広辞苑にも漢和辞典にも

仏教辞書にも出てきません

察するに

「都」という言葉は

みやこ、という字ですが

その語源は、人が多く集まる

というところから、

みやこという言葉になった

そこから意味を見ていくと

あつめる、まとめる、すべて

というような意味もあります

 

そこから、

「都見」というのは

すべてを見わたす

というような意味に

なるのでしょうか、

講義では

 

「プロセスというものを

一遍に見る場合に都見という

都見というのは言ってみれば

シェーマSchema(ドイツ語)

図表ですね。

時間的に経過したものを

つまり過程、

プロセスでしょう。

過程的にできたものを

それを同時的に見る場合が

図表というんですね、

それを都見という。

 

都見ということが、

法蔵菩薩は世自在王仏から

あらゆる仏の浄土の法を

聞いた、

二百一十億の諸仏の世界を

都見したと

こう書いてある。

二百一十億の仏の世界

といったら、

世自在王仏の経験です。

あらゆる現世の、人生と、

レーベンというものを

経験し尽くした苦労人です。

 

それが一遍にそこに

出ているのはその人の顔。

今ごろは直観力が鈍いからね

人の顔を見たら

もう聞かんでもいいです。

その人が何をやってきたか

もうちゃんと

書いてあるんです。

それで、

肖像画というものの意味の

深いのはそうなんだ。

面白いでしょう、

肖像画というのは。

もう山を描いてあるより

もっと面白いんだ、

人間の顔の方が。

 

つまり都見できるんだ、

その人の過程をね。

それは芸術直観です。

一つの直観の中に

その人がその人にまで

なってきた過程が一挙に

見えるんでしょ。」

 

そういえば

三浦先生も面接の時

直観で採用を決めて

おられていました。

顔を見た途端、

はい、どうぞ務めてください

という具合です。

その人のご苦労を

顔の中に見られたのでしょう

 

それにしても

この講義はテープから

文字を起こされたのです

声を文字にされた

この「とけん」という

言葉を「都見」というように

漢字にされた

辞書にもない言葉を

それは本当に驚きです。

何気なく書き写してますが

言葉を文字にされた

そのご苦労は大変なこと

だったように思います。

書いてみて、

一つの言葉が文字になっていく

ことに驚きを感じます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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寺町三条界隈

2022-02-26 20:40:35 | 住職の活動日記

家から歩いて4000歩

寺町通りを北上

三条界隈を散歩しました

学生の頃からよく歩いた所

古い喫茶店や

古本屋、仏具関係の念珠店

などが立ち並びます

 

安田先生もよく歩かれた

であろうという界隈です

先生のお馴染みの其中堂という

古書店

それから

先生の本をよく出版した

文栄堂という書店

中を覗いてみると

昔とは並んでいる本も

違っていました

孫にもお土産に本を求め

先生の本を探しましたが

あまりないようです。

 

その隣には

あの「鳩居堂」さんがあります

最近新しく建て替えられ

歴史を感じさせるような

趣のある姿になっています

 

 

天井の木の美しい姿に

見とれていました

細い木をきれいに並べ

それを支えるものは鉄鋼で

組んであるようです

 

この近くに京都で最も古いと

いわれている

喫茶店があります

 

 

スマート珈琲店です

 

 

このミルが目印です

 

中に入ると

いいコーヒーの香りが

漂ってきます

 

 

ここの定番は

珈琲とホットケーキ

 

 

京都は

老舗のコーヒー店が多く

それぞれに違った味を

その店の看板にしています

 

 

美味しそうなホットケーキ

不思議なことにこうやって

お店で食べるのは初めてです

珈琲とケーキの組み合わせの

味は抜群です。

 

久しぶりに学生気分に

戻ったようで

店の雰囲気や珈琲の味を

楽しみ、また

安田先生の面影を辿りました

 

この寺町は名のとおり

秀吉によってお寺が集められ

ひとつの城壁代わりに

お寺をもってきたのです

お寺には立派な塀があり

水や食料もあり

いざという時には

兵たちが休む格好の場所

ということです

今では

そのお寺もほとんどなくなり

色々な店が立ち並び

歩いてみるには絶好の

通りなのです。

 

 

 

 

 

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悩むものが人間

2022-02-25 20:35:13 | 十地経

あるとき、

講義か話の中で

「あんたは多情多恨やね」

と言われて

三浦先生が大変悩んで

おられました

人の世話して裏切られ

そんな苦労の愚痴を

安田先生にこぼされた

と思うのです

そのとき安田先生は

直接には答えなくて

講義の中で

その返答をされたようです

 

「哲学は枯草を食うような

もんだと

よくいいますけれども、

冷たいもんでもないし

暖かいもんでもないんです。

つまり、

客観的なんです。

それが真理なんです。

けど、

真理というものを求め、

真理と格闘する人間は、

これは血の流れる

人間なんです。

多情多恨の人間なんです。

多情多恨でないものは

人間じゃない、

そんなものはね。

 

ええ、

失敗も無限に犯すしさ、

そういう過ちをやった後から

更に過ちを繰り返していく

というところに

生きた人間があるんです。

別に過ちを勧められは

せんけど。

 

そういうものが人間には、

驚き悩み疑惑しやね、

そういうものが人間なんです

悩むものが人間なんです、

一言でいえばね。

悩まんところに

人間はおらんです。

それだけど

真理に遇わねば人間も

悩まんわね。

これで当たり前だと

思っている。

 

真理に対して悩む。

真理は永遠である。

人間は今しかないと。

今生きてもう夕べには

死んでしまうですわ、

人間というものはね。

もうはかないものです。

しかし、真理は永遠だと。

 

そういうところに

永遠なものに触れて、

生というものの短いという

ことを知るんです。

再び得られん人生なんです。

 

その、

大きな矛盾といえば

矛盾みたいなもんですけど。

真理と人間との

格闘というものがね。

だから

人間はそうじゃないかね、

瞬間にして消えていくような

命の中に

真理の永遠性を獲得しようと

いうんでしょう。

 

今日生きたことが、

永遠に生きたんだという

具合に

人間は自己を完成したい

んです。

そうしなければ、

生まれてきて、

何も得ずに死んでしまう。

生まれなかったことと

同じことや。

うまいことしたとか

なんとかいってみたところで

一時の感覚やないか。

そういうようなもんです。」

 

本当に私たちは

一番大切なものを

後回しにして

日々誤魔化しながら

生きているようです。

 

一つの三浦先生の

問いに対しても

直接に答えられるのではなく

講義の題材として

講義の中で答えていかれる

このような絶妙な

講義のやり取りのような

気がします。

 

 

 

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五十六億七千萬年

2022-02-24 18:53:36 | 住職の活動日記

お釈迦さまが涅槃に入られ

次の代を担う仏さま

弥勒菩薩が出現されるまで

56億7千万年の歳月が

かかるということです。

その無仏の間、

人々に道を指し示す仏さまが

地蔵菩薩です

それで道の辻々に立たれ

人々が迷わないよう

導かれています。

 

24日はお地蔵様のご縁日

近くのお地蔵さまへ

お参りに行きました。

やはり京都です

お地蔵さまも丁寧に

お祀りされています。

 

 

家の裏にある公園のお地蔵様

歴史を感じるような

雨風に晒されながらも

立派な大きな屋根に守られ

ているご様子です

 

 

こちらはお地蔵様というより

よく見ると大日如来

エプロンで隠れていますが

手の指は智拳印を結んで

おられるのでしょう

 

 

屋根は最近葺き替えられた

ようで、真新しい銅板が

輝いています

 

 

ビルの片隅にあったお地蔵様

手入れもよく行き届いて

普通でしたら

真っ黒くなってしまう

木の部分も日々拭いておられる

様子が伺えます

 

 

ここのお地蔵さまは

またご立派な石造りの中に

昔からの御社を

移築されたのでしょうか

 

 

ビルの入り口よりも

お地蔵様が正面に鎮座され

本当に大事にされている

お気持ちが伝わってきます

 

 

お社の作りも本格的

たぶん宮大工さんが

作られたのでしょう

 

 

一番近くにあるお地蔵様

どこのお地蔵さまも

日々お参りされ

お守りされている

 

 

横に回ってみると

その拭きあげられた板壁や桟

 

 

もう桟の木が擦り減って

きています

長年掃除していたら

雑巾で拭いていると

こういうようになってきます

何かしらの懐かしさを

感じてしまいます。

 

このお地蔵様の

お役目が終わるのが

56億7千万年後です

その時、兜率天トソツテンより

弥勒ミロク菩薩が下生され

龍華樹のもとでさとりを開かれ

三度説法されるという

このことを龍華三会サンネ

といいます

真言宗では弘法大師が

弥勒菩薩であるという信仰

からこの龍華ということを

とても大切にします。

 

まだまだ、

京の町にはいたるところに

たくさんのお地蔵様がいて

町々を

護っておられるようです。

折に触れて

お参りしていきたいと

思います。

 

 

 

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思索するなら、かえって肉体労働の方がいい

2022-02-23 20:35:40 | 十地経

ここのところも

大学時代に聞いて何かしら

心に残り、

自分の方向性が決まった

ような話です。

 

「学校出たら、

あの大学みたいな三年や四年

の学問で満足するはずがない

ええ、学問の嫌いな人間です

大学だけで学問やめるのは。

あれだけで学問やむはずが

ないけど、

さあそれについては銭がない

もう親も出してくれん。

そうするとなんか

やっぱり自活せんならん。

自活するなら

学問にあうような生活方法を

選ぶ。

で、図書館に入るとか

そいうような文筆的な

仕事を選ぶ。

それが合うように思うけど

それはとんでもない間違い

なんだ。

そろばんは合うけど

銭は足りん。

かえって労働みたいなものを

選んだ方がいいんです。

うん、学問には。

図書館なんかに入ったら

かえってあかんのや。

ええ。

体を使うような仕事をね、

その方がかえって

学問には合うのじゃ

ないだろうか。

 

哲学しようとすると

やっぱり

高等学校の先生なんかして

おった方が便利だと、

こういうようなわけで、

いかにも合うように思われて

やられたかもしらんけど、

必ずしも合うとは

決まっておらんね。

かえって

体を動かしている方が、

集中できるんじゃないかと

思うですね。

筋肉労働がいいといっても

あんまりひどい

筋肉労働やっていたら、

もう休んだ途端に

眠うなってしまって

夕飯食うて一杯飲んだら

それで朝まで寝てしまう

というような。」

 

昔の哲学者は

レンズ磨いたり、粉ひいたり

労働の中に哲学した

という話しでした。

その当時教職免許を取ろうか

悩んでいたこともあり

労働の方がかえって

いいのではないかと

お寺での雑務の方が

面白そうに思えて

それからはお寺の道を選び

ひたすら、雑用雑事

高校の掃除からお寺の掃除と

何でもするという

大変有意義な時間を

過ごしていたのですが

いざ、結婚という時になって

初めて自分の置かれている

立場に驚いたのです。

というのは

その当時の給料は

アルバイトよりも安い

その給料でどうやって

生活するのかと

突きつけられた時

今までそういうことを考えず

一生懸命楽しくやっていた

仕事が世間から見たとき

通用しないものだと

思い知ったのでした。

 

学問といっても

一途に突き詰める方でもなく

何か気にはかかるけれども

生活を懸けて

というほどのものではなく

中途半端なことだったのです

 

安田先生は

「食えんようになったら

それが死ぬ時だ」

と、本当に命を懸けて

求道しておられたのです。

私たちにはできるものでは

ないように思いました。

 

いまこうやって

講義の話に没頭できるのは

ある面、老人の呑気な

隠居仕事なのです。

確かに、

こうやって読んでいくと

労働しながらの方が

こういう本は読めるのでは

ないかと思うのです。

体を動かしながらの方が

寸暇を見つけて読める

ように思います。

 

といいつつ、

次の行を読みだすと

「楽無作行対治…」と

先月から全く進んでいない

また振出しからはじまる

というように

講義は円を描くように

行きつ戻りつしながら

進みます。

 

 

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菜の花畑

2022-02-22 19:59:02 | 住職の活動日記

この時期になると

ふと訪れたくなるのが

琵琶湖に面する

なぎさ公園の菜の花畑です

 

 

天気は良いものの

向かいの比叡のお山は

白く吹雪も吹いている様子

 

 

この寒風の中にも

風に揺れながら黄色い花が

一面に咲いています

 

 

風は冷たいはずです

比叡颪オロシというか

あの雪山から琵琶湖を渡り

吹き下ろしてくる風

 

 

よく見ると菜の花たちも

寒風に晒されて傾いています

 

 

この黄色い菜の花とバックの

白い雪山、比叡の嶺が対象的で

絶好のカメラマンのスポットの

ようです

 

 

この花も春の季語

菜の花が終わると

梅が咲き、桜も咲きはじめ

いよいよ春の訪れです

 

 

天気が良く、カメラの画面が

まったく見えません

ほぼ感で撮ったのですが

 

何とか写っていたようです

 

 

ずいぶん冷えて来たので

ここを後にして

 

畑の途中で

 

 

何とものどかな景色、

 

 

やはり寒いはずです

山々は白い雪に包まれて

いるようです

 

振り返ると

 

 

近江富士の三上山が

美しい姿を見せていました。

 

 

 

 

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本を読むのが思索なんです

2022-02-21 20:02:26 | 十地経

ここのところ難しいところが

続きます

哲学用語を用いながら

ただ一面的に仏教を論じる

のではなく

色々な面から見直して

いかれるのです。

今まで何でもないように

思っていた言葉

辞書を引きなおしてみると

哲学用語だったりと

その言葉を調べなおして

いるとなかなか進みません。

例えば、

物質、感覚、史観、先験的、

主観などなど、

分かっていたつもりが

見直すと

深い意味を持っていたりと

ここのところそういう

遅々とした日々が続いて

いるのです。

 

「こういうような

古典的な研究ということに

なると、

読むということしかあらへん

のではないかと思うですね。

回数を重ねて読む

ということしか

ないじゃないかと。

問題は

その読むに耐えるような

文章を見つける

ということです。

何遍読んでも味が出てくる

ようなもの、

そういうものを読む。

 

つまり、

覚えようと思って

記憶するんじゃない。

覚わるんです。

努力して記憶するんじゃない

憶念執持というのは。

憶念執持とは覚えている

という意味じゃない。

忘れられんという意味です。

無理して覚えているという

試験勉強と違うんです。

 

経典というものは、

それによって

自分が形成されるんです。

また形成された眼で

古典が読めていくんです。

新しく読むという。

新しく読む

というということは

何かというと、

新しく読めるように

自分が成長したことや。

だから古典と、本と自分との

間に対話が行われるんです。

そういうように生きた対話が

そんなことが

僕は学問というものの

基礎になるんじゃないかね。

 

僕の学問というものは

そういうもんです。

これは講読、今度は論文と、

そういうことは僕は

ないんです。

本を読むのが思索なんです。

本読んだ後からまた思索する

ということはないんです。

本を読むことが思索すること

大体人と話するのも思索です

 

つまり、

僕らには職業でない学問

というものがある。

本来はそういうもんだと、

学問というのは、ね。

職業の学問になったのは、

これはカント以後です。

それまでは

哲学者というものは

別に大学教授ということは

ありゃせん。

ルター、ルーテル、

ドクター・ルーテルと

いうのは、

あれは、

昔の大学は修道院だった。

西洋ではね。

修道院が大学だった。

だからルターは修道僧です

からそういうよなドクター

という名もあるんでしょう

けれども、

大体一般には

スピノザにしても、

レンズ磨いて生活しとった。

眼鏡磨きで。

それから粉ひいていた人も

おるしさ、ええ。

何も別に哲学する人が

大学の教授になる

ということはなかった。

哲学する人が大学の教授に

なりだしたのはカントから、

つまり職業になった。

哲学というものが一つの

職業になった。」

 

というように出てきます

悪戦苦闘の日々ですが

分からないなりに

取り組むことが

大事ではないかと

講義の文章に浸っています。

 

 

 

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記憶と阿頼耶識(アラヤシキ)

2022-02-20 20:26:04 | 十地経

この、記憶というのは

何でもないような話ですけど

何というか、もっと単純には

記憶というのは

心理学の概念ですけど、

それは過去が生きとるという

意味ですね。

それは矛盾概念でしょ。

過去はなくなったものを

過去という。

 

なくなったものが

生きてあるというのは、

それは現在です。

つまり、

過去は過去じゃない、

過去が現在として生きておる

過去も現在だというと、

非常に大事な意識現象という

ものを押さえている現象

なんです。

だからして、

記憶というものは

アウグスチヌスでも注意

している。

『記憶と物質』という本が

ある、ベルグソンに。

 

それから

唯識でいうと阿頼耶識という

ようなね。阿頼耶。

アーラヤ・ビジュニャーナ。

これはなんかというと、

阿頼耶識を論証するのに

記憶をもって論証する。

ええ。

過去に得た経験が

いつでも現在に蓄積されて

いる。

過ぎ去ったものを

いつでもはらんでいる。

過ぎ去ったものを

背負うとる。

同時にまた

未来をはらんでいる。

それが阿頼耶という。

 

記憶というものが

いかに重大なですね、

記憶というのは一面

心理学の概念だけど、

もうこうなるとはや

存在論的な概念に

なってしまう。

哲学的概念になってしまう。

 

先日から忘れるということ

記憶ということが

私の中で問題になっていて

気にかかっていたことが

やはり講義でも出て来たので

なるほどと思いつつ

読んでいたのです。

 

過去は過ぎ去ったものとして

捨て去ることもできない

現在今あるのは

過去の蓄積が今の自分を

作っているのです。

いいことも、悪いことも

すべてが

自分の肥やしとなっている

ということです。

思い出すと背筋が冷っとする

ことばかりなのですが

 

阿頼耶識ということも

含蔵識とも訳されます

蔵のようにすべての行いを

蓄えているという意識です。

いいことだけ蓄えてくれたら

いいのですが

嘘ついたり誤魔化したり

したことも

ちゃんと蓄えている

そこが怖いことで

それが、

蓄えただけで終われば

いいのですが

その蓄えたことが

利息のように今の自分の

行いに出てくる

ということなのです。

 

昔から「嘘八百」という

言葉がありますが

一つ嘘をつくと

それを隠すために次々

嘘をついて

ついには八百にもなってくる

ということなのでしょう。

常に師匠からは

「嘘だけはついちゃいかん」

ということを諌められました

人は誤魔化せても

自分自身は誤魔化せない

ということです。

 

記憶と阿頼耶識

なかなか面白い問題です。

 

 

 

 

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忘れたのではない、思い出せないだけ

2022-02-19 20:17:27 | 十地経

仏教では「念」

憶念不忘ということがあって

修行の中でも最も大事な

ことなのですが、

日常茶飯事、この、忘れる

ということに悩まされます

聞くところによると

若い方でもよく忘れる

でも、

忘れることを気にしない

年とともに

忘れたことに自分自身が

惨めに感じてくる

ことに違いがあるようです

 

講義の中でも

ある先生は、

忘れた、とは言わない

「忘れたんじゃないけど

思い出せない」

と、仰っています

 

「なかなか負けんね。

忘れたんじゃないけど

思い出せん、

これはただ法螺吹いているん

じゃない。

何か本能に維持している

本能に維持しとるけど、

それが今思い出せん。

ないんじゃない。

憶念執持している、本能が。

こういうようなわけでしょう

何かやっぱり

同じ記憶ということを一つ

考えても思索的ですね。」

 

と、こういう忘れるという

こともやはり、

私たちとは

違うものがあります。

そこで記憶ということも

 

「憶念執持という仏教の

概念がある。

憶念執持オクネンシュウジする。

記憶ということです。

感覚をね、

起こった瞬間に感動を、

感動というものを得た瞬間に

感動が消えてしまったら

何も生まれてこない。

ええ、

ちょうど酒に酔ったような

ものです。

感動するけど

後から消えていくんです。

その感動をだね、

いつでもこう失わずに

生き生きとして保つ

というところに

記憶がある。

記憶力、ね。

憶念執持して。

一遍得た感動を生涯まで

それを執持する。

そういうことによって

歴史感覚が歴史認識に

構成されてくるんです。」

 

先生も講義の中で

筆記する必要はない

ということを仰って

おられました

私の目をみてよく聞きなさい

と、感動したものは

残るはずです、と

この歳までこの講義を

読み続け

いまだに感動できるのは

不思議なことです

 

それにしても

読む先から忘れている

憶念不忘ということが

あるのですが

執持できない

ある先生の言葉を借りれば

忘れたのではない

今、思い出せないだけ

ということになりますが、

 

そういえば

今日は安田先生のご命日

「無窓忌」です

いつもなら、

先生がいらしたお寺で

勤行がありその後、

先生のお弟子さんの

法話があるのですが、

コロナの影響でここのところ

ずっと取り止めなのです。

1982年(昭和57年)2月19日

亡くなられる前の最後の講義

寒さのことを仰っておられ

寒さが来ると先生のことが

思い出されるのです。

今日も全国的に大雪注意報

京都も冷え込んできています。

 

 

 

 

 

 

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