本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

精霊飛蝗・霄壤飛蝗の死

2020-10-30 16:50:22 | 住職の活動日記

このところ朝夕の冷え込みも

厳しいようで、

私たちも体調の変化に

ついていけません

当然、小さな虫たちにとっては

命とりになるようです。

 

 

帰ってみると玄関先に

行き倒れのようです

行旅死亡人です。

厳寒の下で寒さを凌いでいた

のかもしれません。

 

精霊飛蝗(ショウリョウバッタ)

のようです

八月のお盆の頃出てきて

その姿が精霊船に似ている

ところから、この名前が付いた

ともいわれ、また

オスに対してメスの方が随分

大きく、その差が雲泥の差も

あるところから

霄壤飛蝗(ショウジョウバッタ)

ともいわれます。

 

霄壤の「霄」はそらという意味

「壤」はつちという意味で

土壌という言葉もあります。

その大きさが天と地ほど差がある

ところから

こういう名前も頂いています。

 

 

さほど元気はなかったのですが

夕日を浴びて

暖を求めているような飛蝗も

います

 

 

芝の中にもぐり込んだのですが

夜の寒さは虫にとっては

堪えるかもしれません。

 

ふと思うのですが

私たちも一応は

病院で亡くなるのですが

一人で死んでいくのですから

行き倒れといっても

いいかもしれません。

 

そういえば、

お釈迦様の死も行き倒れです

沙羅双樹の下に床を敷いて

涅槃に入られますが

まったく関係のない人から見れば

年老いた老人の行き倒れの姿です

その傍で呆然としている

阿難尊者がいます。

 

しかし、阿難尊者から見れば

お釈迦さまの姿は

年老いた老人ではなく

光り輝く大きなそして立派な

お釈迦さまの姿に見えたのです

そして、

お釈迦さまの涅槃に入られた

ことを聞き付けた弟子たちの姿が

あの涅槃像になったのでしょう。

 

私たちもあの虫たちと変わらない

行き倒れで死んでいくのが

本当の事実のようです

場所は違いますが

病院であったり幸い寝床という

こともありますが

一人で死んでいくことには

変わりはありません。

 

寒空で可哀そうにと思う反面

死ということの事実は

こうなんだということを

見せつけているようにも

見えてきます。

 

ある方が亡くなられたとき

安田先生が深々と頭を下げ

「ご苦労さまでした」

といわれたそうです。

 

虫たちも暑い夏を元気に過ごし

子孫の卵を残し

次の世代に託して

死んでいきます

虫たちにとっても

生きていくには色々大変なことも

あったことでしょう

静かに死を迎えることが

出来たのは

本当にご苦労さまです。

 

一つの死を受け止めて

「ご苦労さまでした」と

いえるところに

その人の人生を感じ取り

次の代の担い手として

生きていくことが

残された人の使命なのでしょう。

 

精霊飛蝗ご苦労さまでした。

精霊という名前も

形から付けたとはいえ

精霊船に乗ってあの世へ行く

というような

何となく意味深いものを感じます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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10月28日 季節のうつろい

2020-10-28 19:08:07 | 住職の活動日記

朝夕の気温差が激しくて

朝方や陽が落ちると

途端に寒さを感じます

それなのに日中はは汗ばむほど

よく見ると

自然の姿も少しずつ変化を

見せています。

 

 

咲き誇っていた彼岸花も

花を落とし横からは勢いよく

葉が伸びだしています

 

 

気持ちよく晴れて渡った青空

すぐに雲もなくなり

真っ青な晴天になってきました

 

 

日に輝く樒の葉もいい色を見せ

何とも清々しいような美しさ

 

 

その下には樒の種がおちています

 

 

この星型のものが樒の種を

蓄えていたもので

はじき飛ばして種をあちこちに

わが子孫をばらまいています

種を飛ばしても

その種が落ちたところが問題で

砂利の上でもうまく潜れば

発芽しますが

でなければそのままでしょう。

 

いつどこに撒かれるか

それによって芽生えるものもあれば

そのままでいるものもあります

仏の種もいつどこに撒かれるか

それによって早い遅いや

また次の世代を待たなければ

いけない種もるようです。

 

 

山茶花も蕾を膨らましています

この木も寒さが増すと

花が出てくるという

なんとも不思議な木です

 

 

モミジもまだ青々としています

しかし枝にはたくさんの種があり

 

 

この種も結構遠くまで

飛ばしているようです

しかし、

根が付くのはほんのわずか

この種も多分、

芽を出せないでしょう。

 

 

今日の護摩は衣は冬もの

パリッと強めに糊の効いた衣は

それだけで気が引き締まる

思いがします

やはり好きな衣は木綿の衣です

着ていくうちに身に馴染み

一体感も出て着やすいものです。

 

マスク着用のお護摩ですが

一心不乱に臨みます。

 

 

 

 

 

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凡愚と尊厳性

2020-10-26 15:57:30 | 十地経

「凡夫にして愚者である」

短く読んで「凡愚」といいますが

なにか、こういってしまうと

どうも卑下したようで

「どうせ私は凡愚でございます」

とかいいますが、

このとき「どうせ」とつくのが

問題です。

 

聞法ということも

いろいろな教えを聞いて賢くなり

他人に教えたりとか

他人よりも賢くなったと

思いがちですが、

そうではなく、

教えを聞くことによって

自分の愚かさ、何も知らなかった

ということが明らかになってくる

そして、

今までこうだと思っていた

固執していた思いを捨てきる

そこに聞法の大切さがあると

思います。

 

ティリッヒという方の

「存在への勇気」

という言葉がありましたが

それは、

今まで学んできて

そうだと固執していることを

教えを聞くことによって

それはまるっきり間違っていた

それを捨てる「勇気」を

存在への勇気、というのだと

思います。

 

講義では

「父母から生まれた身には

違いないけどですね、

その身の内容やね。

凡愚であるというようなですね

凡夫にして愚者であると。

凡というのは何でもない人間

という意味です。

能のない人間という意味です。

そして何も分かっとらん人間と。

こういうところに現実という

ものを押さえてあります。

 

つまり、凡愚というところに

我々は膝を屈するわけです。

下に行くわけや。

下に行くのはただ下に行くために

行くんじゃなしに、

大いに屈するために、

大いに伸びるためなんです。

凡愚にまで下がるということは

人間が凡愚にまで下がる

ということは、

それを人間以上に高める

ためでしょう。

 

だからして、

ある意味で凡愚にして、

凡愚という面もあるけど

人間に最高の尊厳性を与えると

賢くするんじゃないんだ

尊厳を与えるんだ。

偉い人にするんじゃない。

尊厳です。

どんな賢い智慧でも馬鹿にできん

ようなものを与えるんです。

あらゆる人に。」

 

また、別のところでは

「凡愚というような立場に

立たんと如来は分からんですわ。

凡愚でも分からん…。

凡愚にも分かるんじゃないんだ、

凡愚でないと分からんのだ。

 

だから凡愚という受動の立場に

立つというと、

始めて如来が分かる。

如来が分かると、

如来が我のためだというとですね

そこに目覚めればですね、

その如来を背負って立つでしょう。

 

だから「受」というのは

消極的ですけどね

人間として消極的なことは

かえって絶対積極的になる

如来に生きるんだから、凡夫が。

絶対に積極的になるでしょう。

これから菩薩になるんじゃない

如来が我となって

菩薩の徳が我に満足するんだ。

積極性をもってくるです。」

 

このように出てきますが

読み書きして

さらにこのように書いてくると

何かしらその時のもようが

静かな言葉ながら

染み入るよう心に届いてきた

ことを思い出します。

 

それから思い出すのは

「尊厳性」ということは

立派な人だけにあるんじゃない

そこらのおっさんや子どもにも

皆同じように尊厳性があるんだ

ということです。

愚かということはなにも

消極的なのも出なく

その立場を見つけそこに立った

時にはそれは積極性を

もってくるということです。

 

ですから、

凡愚でなければ尊厳性は

出てこないと思います。

 

 

 

 

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地獄の苦しみの16倍の苦しみ

2020-10-25 17:22:45 | 住職の活動日記

地獄の世界もいろいろあって

殺生した人が堕ちる等活地獄

殺生して偸盗した人が堕ちるのが

黒縄地獄と

さらに、

それに加えて邪淫した人が堕ちる

地獄が衆合地獄と出てきます

その地獄の一番の苦しいところが

阿鼻地獄(アビ)です

阿鼻とはインドの言葉で無間と

訳されます

間が無い、苦の止む時がない

という地獄です。

 

阿鼻地獄は前の七つの地獄

(等活地獄・黒縄地獄・衆合地獄

叫喚地獄・大叫喚地獄・焦熱地獄

大焦熱地獄)の

千倍も苦しい地獄だといいます。

 

その苦しい地獄よりもさらに

16倍も苦しい世界があると

源信僧都は『往生要集』に

書いておられます。

 

それは、天上界の苦しみだと

普通でいえば、天の世界天上界は

最高の世界です

これは人間が考えた最高の世界

でも、そこには

「天人五衰」ということがあると

書いてあります。

天人が亡びる時五つの兆候が

現れるというのです。

 

「十界」ということがあって

人間のあり方を

十の世界に分けて考えます

一番下が地獄です

それから、餓鬼・畜生・阿修羅・

そして私たちがいる人間界

その上が天の世界です

ここまでが迷いの世界といいます

 

つまり、六道(六つの世界)

六道輪廻というように

いつもこの六つの世界を

迷い続けていると、

お釈迦さまがお生まれになった時

七歩歩まれたというのは

この六つの迷いの世界を超えた

ということを表しています。

 

ではなぜ、迷いのせかいで

一番最高の世界である

天の世界が地獄よりも苦しいのか

 

一面には、

人間が考えたということが

大事なところです

仏の世界ではなく

人間が考えた最高の世界

ということです。

 

ふと思うと

今いる私たちの世界も

ある面からみると

この天上界かもしれません

すべてのもが便利になって

一昔前と考えると雲泥の差

昔、憧れを持っていたことが

すべて叶ってきたのです

特にここ100年の進みようは

驚異的なように感じます。

 

すべてが満たされて

本当に満足しているのでしょうか

手に入れたことでかえって

人生が虚しくなってきている

というのも事実でしょう。

 

お経のなかに

「有田憂田 無田憂田」

(ウデンウデン ムデンウデン)

という言葉があります

田というのは税とも関係があって

物を生み出す場所

財産を生み出し所有するところ

だから、

財が有ればあったで

失うわないかと憂い

無ければそれが欲しいと憂うる

ということがあります。

 

地獄の苦しみは

苦しいと叫んだり、うめいたり

ああしなければよかったと

愚痴ったり、

世の中を恨んだりと

できるのです

ところが

天上界での天人の苦しみは

そういう苦しみはなく

もって行き場のない苦しみ

痛くもかゆくもない

ぬるま湯にいるような苦しみ

苦とは感じないかもしれませんが

何とも言えない虚しさが

自分を襲ってくるという苦しみ

 

それが地獄よりも16倍も苦しい

というのです

天人が亡びる時の五つの兆候

その中に、

自分のいる境遇を楽しまなくなる

ということがあります

最高の状態にあるのに

その暮らしを楽しめないという

苦しみです

 

天の世界を去る時に

こう告げられるそうです

「もう一度人間界に戻り

苦労してこい」と

 

この天の世界を超えてこそ初めて

声聞ショウモンという

迷いを超えた第一歩が始まる

といいます

人間がもっているあらゆる欲望

それはそのままでは煩悩ですが

それが仏の智慧によって

見直されてくると

それは讃嘆に代わるといいます

 

仏が着けている装飾は

そういうことを

象徴しているのでしょう。

 

あれも欲しいこれも欲しい

と言っている間は

苦しくても何か希望がもてる

ものです

ところが、満たされた

望むことは何でもできる

という苦しみ

空虚なる苦しみは

どうしようもないものなです。

 

そこに16倍の苦しみ、と

言われる所以のような気がします

 

 

 

 

 

 

 

 

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我が家もハロウィン模様?

2020-10-23 21:16:17 | フラワー

フラワー教室も次第に

戻りつつあるようで

稽古の予定も入ってきています

今月はハロウィン

ということでしょうか

 

 

このような花が活けられました

カボチャが入りオレンジ色で

包まれるとそのような雰囲気に

なってきます

 

 

なぜカボチャなのか

わかりませんが

見かけるのはくりぬいて

カボチャのお化けを作った

ものです

 

 

やはりどこから見ても

カボチャは存在感があります

 

ハロウィンというのも

日本のお盆のような行事で

ご先祖さまが帰ってくる

それをお迎えするというのが

この行事のようです

 

 

このオレンジ色というのも

目立つ色使いです

また、家の中に飾ると

とたんに家の中が明るくなります

 

昔カナダで見たハロウィンは

寒い小雪が混じる中を

子どもたちが裸足で

家々を回りお菓子をもらっている

風景でした

今の日本の様子とは違う

静かなものだったようです

 

地蔵盆の時は子どもたちが

やはり家々を回り

お菓子をもらう風景は

なんだか似ているようです

 

 

久しぶりに華やいだ玄関に

なりましたので

カメラ片手にあちこちから

撮ってみました。

 

 

 

 

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等活地獄(とうかつじごく)

2020-10-22 20:45:25 | 住職の活動日記

地獄には「八大地獄」という

種類があって

その一番初めに出てくる地獄が

等活地獄というところです。

殺生をした人が堕ちるところと

いわれています。

その様子は恵心僧都が書かれた

『往生要集』に詳しく出ています。

 

恵心僧都は源信が正式な名前です

この方は7歳で父と死別

信仰心の篤い母の影響で9歳で出家

14歳の時に得度されています

天暦10年(956)15歳の時に

村上天皇により法華八講の一人に

選ばれます。

このことを喜んで

天皇より下賜された品を

母に送ったところ

母は喜ぶどころか

源信を諌める歌を添えて

送り返してきたのです。

 

「後の世を渡す橋ぞと思ひきに

  世渡る僧となるぞ悲しき」

まことの求道者となり給え

 

この母の歌によって目が覚め

さらに精進したということです。

 

その『往生要集』には

「等活地獄」とは、

等しく活きかえる、

等しき姿に活きかえる

という意味です。

等活地獄へ堕ちますと

獄卒が罪人を頭から切り刻んで

足の先まで切り刻んで

まったくその形をとどめなくなる

それで終わりかというと

一陣の風が吹いてきて

またもとの等しきすがたにかえる。

そしてまた始めから、

頭から切り刻まれていく、

これが繰り返し終わることがない。

ということが書いてあります。

 

何とも恐ろしい世界ですが

反対にされる身になって考えると

何も意識することなく

毎日このことをしている

切り刻んで日々の食卓へ上がり

食事として美味しいと言って

食べているのです

される身になると

何とむごたらしいと思うのです

立場を変えると

私たちは日々何も考えず

行っていることなのです。

 

等活地獄へ堕ちて

初めて、

私たちがいつも生活で

奪い続けてきたものが、

かけがえのない命であり

重いいのちであったことを

思い知らせるわけです。

 

そういうことを思い知る相が

等活ということです。

私たちが一生の間

奪ってきたいのちの数だけ

等活する。

 

つまり地獄というのは

今まで私たちが気がつかなかった

罪業の自覚を表す世界なのです。

 

その下には

黒縄地獄というのがあり

ここは殺生とさらに偸盗をした人

が堕ちる地獄です。

その一番下は

阿鼻地獄(無間地獄)があり

無間ですから休む間がない

という苦しみが連続している地獄

他の地獄に比べて

千倍の苦があると出ています。

 

それから、八大地獄には

それぞれ副の地獄が16あると

書いてるのですが、

ということは

それだけ私たちは気がつかない

けれど、地獄があるということは

それだけの罪を造っている

ということになります。

 

このことを思うと

必ず思い出されるのが

覚鑁カクバン上人の

「無始よりこのかた

忘想に纏われて衆罪を作る

身口意の業、常に顚倒して

過って無量不善の業を犯す」

という言葉です。

 

そういう懺悔サンゲがあってこそ

始めて真の力が湧いてくる

ような気がします。

 

 

 

 

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必栗託仡那(ひつりったきつな)

2020-10-21 20:30:00 | 十地経

何とも難しい聞きなれない言葉

ですが、訳すと「凡夫」という

ことになります

お経には訳さずに音写した言葉で

出てくることがあります

それが、

「必栗託仡那」ヒツリッタキツナ

ということです。

インドの言葉では

prithag-jana

プリタグ・ジャナを

必栗託仡那と音写したのです。

直訳すると「異生」イショウ

となります。

 

弘法大師は『十住心論』で

一番最初の位を

「異生羝羊心」イショウテイヨウシン

といっておられます。

凡夫といわずに異生という

字を使っておられます。

羝羊とはおひつじのことで

人がただ欲望の赴くままに

生きている状態という

ことを指しています。

 

異生という言葉は

異なって生じている

ということで、

いろいろな考え方や

それぞれの煩悩によって

業を作って様々な果をうけて

種々な世界に生まれている、

ということです。

 

世界は一つという人もいますが

人はそれぞれに自分の世界を

作って生きています

人と人と合う合わないという

ことはその人の世界と世界が

どういう接点を持っているかで

合う人と合わない人とが

出てきます。

 

ですから、異生といえば

自分の世界に固執して

人の考え方を容易に受け入れない

ということをいうのでしょう。

 

また、普通には

凡夫というようにいいます

聖者ショウジャに対して、

愚かで凡庸な士夫ジブ・人間

ということです。

 

生まれたり死んだりして

六道に輪廻しつつあるものを

六凡ロクボンといいます

地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・

天の六つの世界を輪廻している

凡夫ということです。

 

『十地経講義』で

「人間の現実とは何が現実

なんだろうか。

我々は現実現実といっているけど

我々の現実は、理想と比較して

現実というだけでしょう。

つまり理想から見た現実であって

そうじゃなくて、

理想が消えてしまうような現実が

あるでしょう。

そのどうにもならんものをですね。」

 

そういうどうにもならない現実に

生きている人を凡夫と

いうのでしょう。

「自分探しの旅に出ます」

ということが言われましたが

その自分というのは

自分に都合のいい自分

ということでしょう。

理想から見た自分なのです

現実に生きている自分となると

どうにもならないものをかかえて

生きています。

 

そこに、理想に走らず

現実に身を置いたひとを

凡夫というのでしょう。

心は色々いいことばかり考えたり

反対に悲観してしまったり

好き勝手に考えるのが心です

ところが、

その好き勝手に考える自分を

支えているのはこの身という

ことになります。

 

弘法大師も、

「即身成仏」と

身が成仏するのだと

心が成仏するのではない

というように「身」という

ことを大事にされています。

 

そこに、凡夫とか異生という

言葉は違いますが

現実に身を置いた人ということで

理想に走らず夢を見ない

現実の人と

言っておられるようです。

 

 

 

 

 

 

 

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フロインドリーブ

2020-10-20 20:24:53 | 住職の活動日記

教会が喫茶店になった

という珍しいお店です

 

 

なるほど外観は教会そのものです

中に入ると

 

 

店の名前のエンブレムがあり

その下には登録有形文化財の

銘板もあります

 

 

二階へ上がると喫茶店

下にお店があります

 

 

お店の名前は

ハインリッヒ・フロインドリーブ

というパン職人の名前によるもの

第1次大戦の折、日本で捕虜となり

その後、

敷島パンで初代工場長を務め

1924年40歳の時、

神戸でパンの店をオープン

この話は「風見鶏」のモデルにも

なったということです。

 

 

 

阪神大震災にも遭遇

ほとんど壊滅状態だったところ

皆さんの願いにより

1999年に三代目社長が

結婚式を挙げたユニオン教会を

工場兼店に改装して

今の姿になっています

 

 

天上を見上げると

教会そのものです

骨組みはトラス工法で

組み上げてあります

 

本蔵院の本堂もそうなのですが

もっと大きなトラスで

作られていますが

こうやって見せるという

作り方も素晴らしいものです

正面には

キリスト像が祀られていた

のでしょう

 

 

入り口にある調度品も

歴史を感じさせる

なかなか立派な品々です

 

 

店舗のシャンデリアも

白を基調とした造りと相まって

輝きも一際際立っています

 

 

ここから中庭へ行けます

教会に出てくる修行僧モンクが

出てくる雰囲気です

 

 

中庭も美しく

珍しい花も見かけました

 

 

あらためて見直すと

正面の歩道には可愛い花が

活けられなんだかいい感じです

 

そういう雰囲気もさることながら

本筋のパンはさすがに美味しく

一味違う味を楽しみました。

 

 

 

 

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世界の絶滅危惧種!

2020-10-18 21:05:58 | 住職の活動日記

「絶滅の恐れ、3万種超」

という京都新聞の見出し、

何かしら恐ろしいものを感じます

地球上には214万種の生き物が

いるそうで、

その中で調査した12万種のうち

3万種超が絶滅の恐れがある

ということです。

 

すでに絶滅したと考えられる種が

882種(ニホンアシカなど)

深刻な危機が6811種

この中にはクロサイとかが

いるそうで

また、危機・危急に当たる生物は

レッサーパンダとかジュゴンなど

名前を聞いた動物たちが

そうなのかと驚かされます。

 

庭をはい回っているダンゴムシ

散歩しても見かける毛虫や

色々の昆虫

それらの生き物たちが妙に

気掛かりでなりません

どうすることもできないのですが

私たちの勝手な振る舞いで

身の危険にさらされているのかも

しれません。

 

ある方は今のコロナ禍という問題

一面では人間の勝手な行いが原因

とかいっておられます

自分たちにとって

住みやすいように使いやすいように

自然を破壊してきたことが

コロナというウイルスを生み出した

というように聞いています

 

地球という大きな生き物と

考えたときその中には

214万種という生き物たちを

生かしている

ある側面からいえば

一番悪い生き物は人間かも

しれません

住みやすいように作り替え

邪魔と思うものは消し去り

何だかしたい放題にしている

ような気がしてなりません。

 

これも京都新聞の「凡語」という

欄ですが、10月16日付

琵琶湖の深層部には

琵琶湖固有のビワオオウズムシが

暮らしているそうです

体長約3~5㎝。

数十万年前から生息している

その住人の行く末が

危ぶまれている、という

水深90mではほぼ無酸素状態

80mでも貧酸素状態で

湖底に住むイサザやオオウズムシ

が激減している。

琵琶湖は冬になると

表層の冷たい水が沈み込んで

深層部に酸素を届けるという

「全層循環」がなかったそうで、

このことも大きな問題です。

 

私たちの目には触れないかも

しれませんが

生きもたちは色々なところで

生きています

全層循環ということも

地球温暖化が問題ともいわれて

いるようです

地球温暖化ということは

目に見えないところにも

静かにその影響を及ぼしています

 

生き物の頂点に立つという

人間であれば

自分さえよければいい

ということではなく

あらゆる命にも目を向けて

考えていくことが使命のように

思います。

 

 

 

 

 

 

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グロリオサ

2020-10-17 20:07:05 | フラワー

コロナの影響でいろいろの

習い事の教室も休みが多く

フラワーアレンジの教室も

ここ最近お休みが続いています

久しぶりにお花が活けられました

 

 

色々な花が活けられていますが

その中で存在感を際立たせている

のがグロリオサです

 

 

色といい形といい

日本では見かけない形

そのせいでしょうか目が行いって

しまいます

 

 

正面と後ろにも控えています

南アフリカが原産とか

名前もグロリオサというのは

glory 栄光から

きているのでしょう

glorious というと栄光ある

花は gloriosa ですから

 

年配の方に贈ると

喜ばれるということです

昔の功績や栄光を讃える花

ということなんでしょう。

 

 

外に目をやるとクローバーが

群生しています

 

 

ヒヨドリバナでしょうか

たくさんの蜂?が群がっています

 

 

しかしよく見ると

蜂でもなさそうな … ?

冬に備えて蜜を集めているの

かもしれません

 

 

我が家ない花がない時

外に出ると賑やかな花は

ありませんが

可愛い小さな花たちが

足元に咲いています。

 

また、

珍しい珍客もやって来ました

 

 

どこか近所の枝から落ちた

のでしょう

ごそごそやって来て

コンクリトーの上を右往左往

そばの芝に置いたのですが

どうも居心地悪そうで

暫くして見に行くと

どこかへ行ってしまいました

モンシロチョウになるまで

蛹になる場所を探しに行った

ようです。

 

今年は寒さも早いようです

11月下旬ごろの気温とか

天候の不順は小さな虫たちには

生き死にに関わる大問題です。

何とか上手に蛹になって

来春やって来てほしいものです。

 

 

 

 

 

 

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