本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

菩提樹苑、慧日堂でのお護摩

2022-06-28 20:30:46 | 住職の活動日記

いよいよ、

本蔵院の再建に向けて

今月からは

菩提樹苑の納骨堂・慧日堂

でのお護摩となります

 

 

菩提樹苑事務所の横に

建立された納骨堂の慧日堂

入り口横には

修行大師の銅像が立てられ

お参りの方々をお出迎えです

 

 

 

本蔵院ではやや高いところに

安置されていたので

こうやって間近に拝めるのも

親しみを感じます

また足元を見ると

その足のごつさにご修行の

足跡を感じます

 

 

護摩壇はロビー横の

テラス部分に設置されました

この護摩壇は

いつも除夜の鐘の折に

焚かれるものです

 

 

ご本尊は傷みも激しく

日通の美術部の方に

厳重に梱包していただき

慧日堂のご本尊阿弥陀如来と

ちょうど

背中合わせになるように

安置されています

今はお前立の石のお不動さま

になります

 

 

その後ろに式衆が並びます

今日は梅雨も明けて

暑さも一段と厳しく

式衆にとっても修行です

 

 

クーラーの効いたロビーで

ガラス越しに参拝されます

が、やはり

お護摩の煙というか

お護摩の匂いも好き

という方もいらっしゃて

式衆と同じく外の席で

お参りされる方も

いらっしゃいます

 

嬉しかったのは

ロビーに立派な水槽が置かれ

 

 

お寺の池で飼われていた

金魚さんたちが

その姿をお披露目しています

池の上からだけしか

見ていなかった金魚さん達

こうやって横から見る姿に

驚きもあります

 

 

この白い金魚

なかなか人になついていて

自分をアピールしてきます

エサ金という

エサになる金魚を買ってきた

のが始まりで

アオサギにも食べられ

何代にもわたって

生き延びてきた金魚が

今の姿です

これからは

アオサギに食べられる

心配もなく

お参りの方々に

見て頂けるのはなによりも

安心しました

 

暑いと言いつつも

まあ全身汗でびっしょり

その汗が自然のクーラーと

なって、

この慧日堂でのお護摩も

無事に勤めることが

出来ました。

これから一年余りは

この場所での

お護摩となります

 

どうぞよろしくお願いします

 

 

 

 

 

 

 

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呻きながら哲学する

2022-06-25 06:43:12 | 十地経

早速ですが講義では

なんかここのところはとても

響いてきましたので、

 

「そうすればその失敗した

という事業が、

大きな菩提心を荘厳してくる

ことになるんです、ん。

そういうようにして、

人間が悪戦苦闘を重ねて、

人間が健康な人間に

なっていくのが、

それが菩薩というもんです。

 

人間が菩薩になるならば

どんな事件も

意味があるんですわ。

その信念を、

決して忘れてはならんのは

その一点ですね。

その一点を忘れると

神経衰弱になっちゃうんだ

人間は。

早うなんか一服したい

ということなっちゃう。えっ。

 

だから、

荘厳というようなことも

なんかこう

文学的なロマンティッシュな

ことを言っとるんじゃない、

もうそこには

非常に深い、現実にですね、

足があるんですわ。

 

あのー、

パスカルという

フランスの人がいますが、

哲学……。

呻(うめ)きながら

哲学するという、

呻きながらね。

こういうことが大事なんだ。

本当の哲学というものは

そういうところから

生まれてくるもんなんです。

ただ学問が好きだとか、

そんなような浮いたですね、

とこから

生きた哲学というものは

生れやせんですわ。

 

そういうものはみんな

哲学の … 、

教養なら生まれてくる、

講壇哲学の。

真に自己を救い

世界を荘厳するような哲学

というものは、

呻くような苦悩から出ないと

生まれてこないんですわ。

菩薩道というものは

そういう、ちゃんとね、

現実の人生というものに

足を置いてやっとるんです。

 

凡夫というと

能力の低い人間という

意味じゃないんです。

現実に生きとる人間

という意味です。

研究室の人間でない

という意味だ。

 

研究室のようなものに

抽象化された人間でなくて

人間が現実に生きる場合は

必ず凡夫なんですわ。ん。

現実の世界を背負うて

生きとる人間です。えっ。

 

生きる言葉もう

煩悩悪行を作らざるを

えないんですわ。

煩悩も作らず悪行も作らず

生きとるということは

考えられん。

抽象的世界だ、えっ、

思惟の世界だけにあること

であってですね。

 

生きることが悩みなんです。

それだからして、

呻きながら思索する

というのはそれなんですわ。

そこに凡夫があるんです。」

 

ということなんです。

私にとっては

とても力をいただく言葉です。

 

 

 

 

 

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方便智をもって荘厳するという

2022-06-23 20:58:00 | 十地経

この講義は、

色々なことを駆使して

語られていますが

その中心課題は

「象徴と荘厳」ということ

なんです

 

やはり独特の解釈なんです

「荘厳」といえば

飾るという意味ですけど

そこに精神的な意味を

見出してこられたのです

 

昨夜不思議な夢を見たんです

古い友人の夢

彼は権力ということに

興味があったせいか

その方に進んで行ったんです

修行時代は

仲良くやっていたのですが

やはり、肩書がつきだすと

比べ合う心が出てきて

段々と方向が違ってきます

 

彼は望み通り

権力を手にしたのですが

いのちの方がもたなくて

亡くなってしまったんです

方向が違ってから

話すこともなく

かえって恨みがましくも

思っていたのですが

 

不思議にも

昨夜夢に出てきたのです

何かしら明るい顔をして

座って、

「うん、

そうだった、そうだった」

と、しきりに頷いている

何かしら話が通じたのです。

 

というのは

ちょうど読んでいた講義の

ところからだったのかも

しれません

講義はこうです

 

「深い宗教心というような

ものの根底から、

精神の展開をみるとやね、

宗教心に目覚めてみると

それまでは

まあ失敗もあったり、

ひどい目に合ったり、

ちょっと早く

一服したがったり、

なんかいろいろある。

 

だけどそれらが

全部意味を持ってくるんです

失敗も皆よかったと、

こういうような

意味をもってくるんですよ。

成功だけが

意味があるんじゃない。

 

これを取ってしまうと

なんか成功したというのも

夢のようだし

失敗したというのも

夢のようだし、

差し引きゼロだと、

何も無意味に終わった

ということになってしまう

ですよ。」

 

というようにあるんです

そして、

 

「方便智をもって荘厳する

という。

それは根本智に外から

持ってきて

加えたもんじゃないんだ、

飾るといってもですね。

ものを飾るといっても

ものに色を塗ったり

することじゃないんであって

その根本智の中に

それを見出してくるんです。

 

根本智の反省なんです。

無分別智を分別で反省する。

そこに無分別という空の中に

無尽蔵の意義を見出してくる

反省してね。

そのことが

その空を荘厳する

ということなんだ。」

 

とあります

無分別智という空を求めて

修行するんですが

その智慧、根本智を得ても

七地沈空の難

といいますか

得たのに沈んでしまう

という難があって

 

それを破っていくのは

経典では

「諸仏の激励」とありますが

ここでは、

かえって世間智という

世間一般の智慧がそれを

破っていく、

現実的には

会社にしても理念があって

それに進んで行くのですが

行き詰まった時

その行き詰まりを破るのは

現場の声です

それによって

理念というものが

息を吹き返し

更に新たな理念として

成長していくということが

あると思います。

 

安田先生もよく

現場の声というものを

大切にされたように

思います。

何かしらそういうところに

荘厳という意味も

あるように思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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安居(あんご)・半夏生

2022-06-22 19:36:47 | 住職の活動日記

ちょうど梅雨の時期

傘が似合う時でもあります

烏丸通に面した

池坊の大きなビルの一角に

 

 

梅雨空を明るくするような

モニュメントがあります

 

この時期はインドでも

雨がよく降る

それで、「安居」といって

お釈迦さまをはじめ

お弟子の方々は

托鉢に出ることなく

一所に止まって

静かに瞑想したり

お釈迦さまの教えの研削に

励んだのです

 

一つには遊行には不便である

一つには虫類を踏殺すことを

恐れて出歩かない

ということです

 

この安居という字も面白く

普通には「あんきょ」と読み

安らかに暮らす、という

意味です

それを仏教では「あんご」

と読み

仏教の研究修養に務めた

のです

 

インドではヴァルシャといい

雨季という意味です

インドの夏季の降雨時期

4月16日から7月15日の

90日間を安居として

お釈迦さまの成道の翌年から

入滅まで続けられました

自ら犯した罪を問う(自恣)

作法が厳粛に勤められました

 

ちょうど

夏の時期ということで

夏行ゲギョウ、夏坐ゲザなどの

呼び方があるようです

 

安居の初日のことを、

夏安居の制度を結ぶ

という意味で、結夏ケツゲ

安居が完了することを

過夏カゲといいます

 

 

半夏生ですが

読み方から「はんげしょう」

で、

半化粧と思っていたのです

葉の部分が半分白くなるので

半分化粧した、と

ところが

どうもそうではなく

結夏ケツゲと解夏ゲゲの間

解夏というのは7月15日

以降に安居を解くことで、

その間を半夏といいます

「半夏生」という名前も

そこらから出ているようで

やはり仏教に関する言葉の

ように思います

 

この安居の行事も

お寺にはとても大切な行事で

この安居の出ることで、

法臘(ほうろう)というも

受戒以後の年齢ですが

本当はこの安居に出席した

年を数えたほど

この安居という行事は

仏教徒にとってとても大切な

行事だったのです

 

今では、色々なお寺で

夏期講座が行われていますが

これは安居のということの

現代版だということです。

 

池坊も六角堂頂法寺ですから

 

 

こういう傘をモチーフに

安居ということを

表現しているのかも

しれませんね。

 

 

 

 

 

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松原通を堀川通りから烏丸通へ

2022-06-20 20:01:10 | 住職の活動日記

現在の松原通が旧五条通で

祇園神社の南限が松原通りで

伏見稲荷の北限が同じく

この松原通です

伏見お稲荷さんもこんな所

まで縄張り(勢力圏)氏子

を持っていたのです

 

 

堀川通と松原通の角に

「北来地蔵」ほくらいじぞう

さんの祠があります

とても立派です

日蓮宗の大本山本圀寺の

北門前町

また近くに来迎堂があって

町名も来迎堂町

その二つの町名の頭文字

をとって「北来」と命名され

 

 

北門前町のお地蔵さまは

立像で

来迎堂町のお地蔵さまは

坐像ということです

 

 

歩きながら目にとまったのは

この石碑です

「親鸞聖人御入滅之地」

とあります

親鸞は関東から帰洛され

この地、五条西洞院に

(現・松原西洞院)住まわれ

たということです

 

 

ここは九条兼実の別宅で

親鸞が流罪になる前の

住居で

寺伝では

この地で亡くなられ

その後善法院に移された

とあります

 

 

それから「五条天神」という

御社です

天神とあるから

菅原道真を祀るのかと

思いきや

 

 

そうではなく

大己貴命オオムナチノミコト

少彦名命スクナヒコナノミコト

天照大神の三神を

お祀りしてあります

歴史は古く

平安遷都の延暦13年

大和の宇陀郡から

天神アマツカミを勧請した

のが始まりということです

当初は「天使の宮」天使社と

呼ばれていたのですが

後鳥羽天皇の時代に

「五条天神宮」となったと

いうことです

 

 

亀山稲荷神社という

細い路地に鎮座されて

います

 

 

 

間口はわずか2歩で

通り過ぎてしまうほどの

狭き入り口です

 

 

入口の石碑には

白瀧大明神・花月大明神と

あります

 

 

鳥居を抜けて

 

 

ここの祭神は二神あって

江戸時代からの亀山藩の

鎮守神・白瀧大明神と

明治維新のとき

親鸞ゆかりの大泉寺花月亭の

鎮守神・花月大明神です

 

もとは、江戸前期は

間口11間、奥行30間の

広島藩の京屋敷で

その後丹波亀山藩となり

京都監視の重責を担ってきた

という歴史があるようです

 

近くを少し歩いただけでも

こういう歴史を感じるのは

楽しいことです。

 

 

 

 

 

 

 

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七地沈空の難

2022-06-19 20:12:45 | 十地経

『十地経』の第七地は

「遠行地」(おんぎょうち)

遠くへ行くと書きますが、

これは行が完成したと

いう意味です

その地なのに「沈空」という

空に沈むという

大きな難関があります

 

初歓喜地から

ずっと修行を積んで

第七地という世間を超えた

やっと仏の世界に入ってきた

それなのに難といって

上には求めるべき菩提もなく

下には救うべき衆生もない

とみて、

無相寂滅の理に沈むという

それで修行が出来なくなる

 

しかしこの時

十方の諸仏が七種の法を以て

勧め励ますという

それで再び勇気を奮い起こし

第八地に進むという

 

こういうことが出てきます

こういうことを

講義では

沈むという表現ではなく

固定化という言葉で

出てきます

 

「空に停滞するという、

無分別の空に停滞する

ということは

無分別の空ではどうにも

できないです

そこで逆にこの、

分別智をもってその無分別の

停滞を破るという。

 

無分別智そのものは

何も妨げじゃないであって

無分別に停滞するのが

妨げ、固定化するんです。

 

こういうところから

分かるように

仏教学の立場というのは

もういかなる場合にも

固定を許さんということが

ですね

これがあるだろうと思います

 

これはやっぱり

西洋哲学に対しても

そういう区別が根底に

あるわけです

それでもう、無我論という

つまり

実体化というものを

徹底的に排除すると、

こういうのが

大乗仏教の、まあ、

仏教学そのものの立場

でしょう。

 

仏教の立場から見ると

どうもヨーロッパの

哲学にしても神学にしても

なんか一つの固定化という、

実体化というものが

見られるわけです。

 

空というようなことは

何も無い

という意味じゃない、

なんか固定すべきものは

何もないという意味です。

法というものは。

法の上に固定すべきものは

何ものもないという意味で、

固定化を破っとるんであって

その法を否定しとるんじゃ

ない。

 

法の固定化を破っとるのが

空であって、

むしろ法というものを

躍動さしとるという意味が

あるわけです。」

 

空を固定化する

ということも

空に沈むということも

同じであって

私たちも何か得たというと

どうもそれを離そうとせず

それにしがみつくものです

すると

修行も止まってしまう

これでいいんだと

そこに腰を据えてしまう

 

そういうことが

沈空(ちんくう)という

ことでしょう

これが一番の難関で

何かちょっと分かってくると

もう動きが

止まってしまうのです

止まったということが

分かるのは

気持ちが沈んでいく

ということがあるからです

 

諸仏の激励ということは

やはり「サンガ・僧伽・僧」

友ということです

一緒に聞法したり修行する友

忌憚なく話せるという友

そういうことで

仏法僧の僧という友が

大事なのです。

 

分かったという「難」

こういうことがある

というのも面白いものです。

 

 

 

 

 

 

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アゲハ蝶が飛び去った今

2022-06-18 20:43:09 | 住職の活動日記

今までは

さほど気にもならなかった

ところが

私の目の前で

黒い毛虫のようなムシが

次第に大きくなり緑色の

大きな幼虫になり

それが蛹となって

蝶に羽化していく姿を

見せてくれたのです

 

そうなると妙に愛おしくなり

飛び去った今

ベランダが

精気をなくしたような場所に

なってしまいました

一日かけてゆっくりと

羽を広げ

お腹から液体を出して

羽も乾くと

あくる朝、

カーテンを開けると

家内の目をジッと見て

お別れするかのように

飛び立ちました

 

それでよかったのですが

妙に寂しいような気もします

 

 

後には抜け殻になった

蛹だけが残っています

 

三匹が食欲旺盛で

この檸檬の木だけで

足りるかと心配したり

調べると

楠木も好物だそうで

その葉を取ってこようかと

考えたりもしましたが

枝だけになりながらも

ちょうど

葉っぱとのバランスもよく

三匹の食欲を充たして

くれました

 

そのレモンの木も

 

 

よくしたもので

食べられた後には

若い葉を出してくれました

この自然の

はたらきには驚かされます

本当に自然のリズムは

SDG,sそのもののようです

 

今はまさに半夏生の見ごろ

 

 

菖蒲の花もバトンタッチする

かのように

半夏生の中に交じって

最後の花を咲かせています

 

こういういのちのハタラキ

というか

いのちの輝きを見るのは

楽しくもあり

また残酷な一面もあります

もう一匹のアゲハは

蛹を作った場所が

ベランダの壁面

ツルツルしているせいか

羽化しても掴まる所がなく

風に飛ばされ落ちてしまい

羽を折って

とうとう死んでしまいました

 

忙しい日々からすれば

なんてことはない

一匹の虫のいのちなど

取る足らないことかも

しれませんが

間近に見ていると

ただの命とは思えない

ものを感じます。

 

 

 

 

 

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趣味に生きるんじゃない!

2022-06-17 20:45:05 | 住職の活動日記

という言葉は

師匠の言葉なのです

趣味「に」なのか趣味「で」

なのか定ではありませんが

「に」と「で」では

ニュアンスも違ってきます

 

趣味ということも

人生を豊かにしてくれる

ものなのですが

それだけになってしまうのも

問題があるようにも

思います

 

私の家族もどうやら

趣味が豊富だったようです

兄も多趣味で

羨ましく思ったものです

私もかろうじて

囲碁と歌が好きでした

 

大学に進んだ時

囲碁の同好会とグリークラブ

に入ったのですが

その日に、帰るなり

クラブに入った旨を話すと

師匠より

「何しに京都へ来たのか

歌うたうくらいなら

帰りなさい

趣味に生きるのではない」

と一括され

それで、

辞めてしまったのです

 

何かの折に

「お前の趣味は

掃除と炊事に頑張ればいい」

と言われ、

そのことが

本当に趣味みたいになり

中華料理に凝ったものでした

 

趣味で色々集めたり

また、ものを作ったりと

例えば、定年で陶芸とかと

自分でご満悦の入るのですが

その後が困るのです

亡くなられて

遺品にもなるし

捨てるに捨てられず

その処分には困って

しまうものです

 

趣味に生きるのではない

ということも

普通の人であれば

老後の楽しみとか

その趣味で人間関係も広がり

また生き甲斐にもなってくる

ものです

しかし、

出家得度したとなると

話しは違ってくると

思うのです

 

出家得度したというものの

やはり、お寺をもつというと

経営という面も出てきて

仏道を求めるということが

疎かになってきます

 

師匠の言葉で

「えらい、呑気な話やね

出家得度した意味は

得度したのに

何故嫁さんもらったのか

そういう問題を

明らかにしないで

忙しさにかまけて

どういうことや!」

と、

一喝されたことが

頭から離れないのです

 

住職を引いた後は

これこそ本当の人生と

仏道を求めるということに

励まなければ

それが本当の生き方と

思うのですが

なかなか思うようにならない

というのが事実です

 

まあ、そのおかげか

これといった趣味はないので

そう残るのものないと

思っています

強いて言えば

書き写したノートくらい

これは焼くなり

資源ごみとしてリサイクル

としてしもらえばいいのでは

ないかと思います

 

お寺の再建ということで

ご先祖さまの遺品とか

整理していくと

その当時のことが思い出され

また苦労の後を忍べたりと

今後遺すべきか

保存していくべきか

その取捨選択に本当に

悩むものです

自分に引き寄せて考えると

出来る限り

身軽にしておかなければと

つくずく考えさせられました

 

 

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木の中から仏さまを取り出しただけ

2022-06-15 21:24:40 | 十地経

よく、仏師の方が

「仏を彫ったのではない

木の中にあった仏さまを

取り出しただけ」

ということをよく聞きます

 

このことを講義の中で

アリストテレスの原因という

形相因・質料因・動力因・

目的因という四つの因で

話されています

 

「芸術家が彫刻を作る

というような場合は、

大理石というものを

ストッフという。

Stoff(材料)やね。

大理石を質料因とするわけや

そして何かを作るという、

ヴィーナスならヴィーナスを

作るというのは、

それは一つの形相因です。

フォルム、Formですか。

こういう具合にこの。

あるいはイデアといって

いいかも知れんが。

雑多な材料を統一して、

そして、

動力因というのが入るね。

 

つまり、

大理石からヴィーナスを

作るんじゃない、

もうヴィーナスが大理石の

中にあるんやと。

芸術家は芸術家の自力で

作るんじゃないと。

本来あるものを現すだけ

だと。

邪魔者を取るだけでだと。

もうヴィーナスは初めから

あるんだと、

この大理石の中に。

 

それはもう出たくて

うずうずしとるんだと。

だからして

ヴィーナスはなにも

芸術家によって出るんでない

ヴィーナスは

ヴィーナス自身で

ヴィーナスになっていく、

芸術家を通して。

 

芸術作品というものは

芸術家という人間を

媒介として

自己を表現していくやと。」

 

難しい表現ですが

何となく分かるような

気がします

ですから、

仏師は「一刀三礼」して

仏を彫るといいます

まさに、木の中にある仏を

取り出していく

拝みながら鑿を振るう

ということでしょう

 

彫りだした仏は

仏師の下にあるのでなく

自分が彫りだしたものですが

遥かに自分を超えた存在

それが

本当の仏像なんでしょう。

 

先生の講義の面白いのは

自分の話される話が

自分のものでなく

自分を超えた話なのです

それで、

自分の話に

自分が頷きながら

自分の言葉が次の言葉を

生み出しながら

話しが進んで行くという

ことなのです。

 

そこにただ

ノートに書いたことだけを

話されるのではなく

自分の言葉を一番に聞くのは

自分の耳です

多分その言葉に

自分自身が感動され頷き

それでまた

次の言葉生まれてくる

 

この「十地経講義」の

面白い点は

あえて、「うん」とか

「あのー」「このー」

こういう言葉を残されている

先生の全集はあるのですが

それは、

そういう言葉を削除して

格調あるような文章に

なっています

が、

あえて、

こういう言葉をそのまま

残されているところに

この講義録を

声を文字人にされた

ところが面白くもあり

先生の息が伝わってくる

ということのようです。

 

 

 

 

 

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アゲハの蛹が蝶になる

2022-06-14 17:13:29 | 住職の活動日記

帰ってみると多分

蛹は蝶になっているだろうと

思っていたのですが

まだ蛹のままでした

 

昼前、

帰るのを

待っていたかのように

変化が現れました

 

 

ちょうど出てきた瞬間です

まだ、羽も折りたたまれ

これから

広げていくところです

 

 

出てきたものの

ベランダは

強い風が吹いています

飛ばされないように

慌てて、

何か覆いになるものをと

物干しに毛布を掛けて

風除けにしました

 

先に生まれたアゲハは

多分ベランダの壁に

蛹を作ったので

掴まるものがなく

落ちてしまい羽も傷つき

とうとう死んでしまったのです

 

このアゲハは網戸だったので

網目にしっかり掴まり

無事に羽を広げることが

できるようです

 

 

何とか羽も伸びたようです

見ていると

お尻から水のような液体を

たくさん出しています

蛹から蝶になった時の

羊水みたいなものを

出したのかもしれません

 

 

30分もすると

羽も無事にそろったようです

 

 

反対側から見ると

このような状態で

しっかり掴まっています

 

 

しかし、今日から梅雨入り

外は風も強く

さらに雨も降っています

もしこの子も

外で生まれたら風や雨に

さらされて

命を保つことはできなかった

のではないでしょうか

 

自然で生きていくことは

本当に大変です

何気なく飛んでいる蝶も

こういう難関を乗り越えて

来ているのでしょう

自然は恵みを与える反面

厳しい現実もあるのです

 

ベランダで生まれたものの

花の蜜はないし

外へ飛んでいくには

風も強そうだし

どうやって生きていくのか

心配です

 

けど、巣立っていくのを

見守るしかありません。

 

夕方、見てみると

 

 

もうすっかり

立派な蝶になったようです

 

 

網越しに見ると

すっかり成蝶になった

ようです

私の役目はここまでです。

 

 

 

 

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