本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

お葬式

2019-09-30 18:04:18 | 住職の活動日記

最近ふと耳にする言葉に

違和感というか人間の都合というか

新しい言葉も生まれているようです

「墓じまい」「家族葬」

「手もと供養」など、どこか寂しい

一面があるものの

現実問題を

突きつけられているような

気もします。

 

25年問題、

私たちベビーブームの人たちが

そろそろお別れする時です

そこには、火葬場も満杯で

順番待ちというか

こちらから火葬の日時を選べない

ということが起きるでしょう

それからお墓の問題、

 

そういうことを考え出すと

後に残る人たちに

迷惑をかけたくない

という気持ちが起こってくる

のも当然のことだと思います

そこから、

後々のことを考えると

もう自分一代で整理しておくか

ということになると

墓じまいということも

やはり子供が少なくなっていく

という現実から

仕方ないことかもしれません。

 

死ということも

身近な問題です

何も年寄りが先に逝くとも

限りません

いつどのような形で訪れるか

油断できない問題です

しかし、

自分に限ってはまだまだと

思いたくなるのが人情です。

 

知り合いの方で

50歳ごろ病気になられ

「もう死ぬ! もう死ぬ!」

と言いつつ

100歳まで生きて長寿を

全うされた方もいらっしゃいます

家族の方からは

「もう死ぬ詐欺や!」と

言われたそうですが、

 

死は誰にも必ず起こることですが

誰も死を経験した人はない

といいます

つまり、死んだときは

意識がないのですから

人の死を見て

自分もああやって死ぬのだなと

思うだけで

死を経験することはないのです。

 

今では生前葬とか

生きているうちにお別れして

また、楽しくお別れをしようと

いう方もいらっしゃるようですが

葬式とは

その方の問題ではなく

後に残った方の問題だと思います

その方の死をどうとらえるか

 

ある有名な仏教の先生が

お祖師様のように

自分が死んだら葬式もいらない

鴨川に流してくれ

と言っておられて

どうしたものかと

悩まれたそうですが

偉い先生だったので

間違いないだろうと

鴨川に流すことはできませんが

お葬式もせずに終わられたそうです

ところが、

有名な方だったので

人づてに聞きつけられた

次々と弔問の方が自宅にお見えになり

それも昼夜を問わず

ついには忌明けが済むまでには

とうとう奥様は倒れられて

「うちの主人はあんな立派なことを

言っていたのに、亡くなった後に

こんなに家族に迷惑をかけるのは

どんな教えを説いていたのか」と

問題になったということを

聞いたことがあります。

 

ですから

葬儀はこうしてほしいとか

本人の言うことよりも

後に残った方が

その方の死をどうとらえるかが

問題だと思います。

 

お釈迦様の涅槃図で

こういう絵を見ました

それは、

青色をベースにした淡彩で描かれ

大きな樹の下に

行倒れ老人が横たわっている

その横に若き僧がうなだれて

悲しんでいるという図です。

お釈迦様の死という事実は

こういう姿だったでしょう

ところが

最期を看取られた

阿難尊者にとっては

痩せこけた老人ではなく

光り輝く大きな姿に見えたのが

あの大きな涅槃図を

生み出したのでしょう。

ですから

今私たちが目にしている涅槃図は

阿難尊者に見えたお釈迦様の

姿なのです。

 

似たような経験で

いつも講義を聞く時

先生はよぼよぼした姿で

本当地お爺ちゃんという

格好なのですが

いざ講義を始められると

その顔は輝き声も張りがあって

とても老人の姿ではないのです

法が口をついて飛び出してくる

そのように見えてきます。

 

もう現役も離れ一人寂しく

生きている人と見るか

今まで尽くしてこられた業績を

光り輝くものとみるか

それは後に残された人の問題

だと思うのです。

 

私も現役を離れ

お寺も離れ静かにいるので

そっとお葬式をしてくれたら

誰にも知らせんでいいと

思うのですが、

これは息子への課題として

残しておくことにします。

 

 

 

 

 

 

 

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お不動さまへ香りのお供え

2019-09-28 10:25:34 | 住職の活動日記

予報に反して美しく晴れました

庭に出てみると

どこからともなくいい香りが

漂ってきます。

この香り金木犀です

 

 

ちょうど修行大師の後ろにある

かなり年数の立って木です

 

 

よく見ると

小さな花がいたるところに

咲いています

 

 

なんとも不思議な花です

このような木の中に

小さい可愛い花を咲かせます

そして、

それがとても高貴な香りを放つ

 

 

ちょっと見ただけでは

この木からこのような香りを放つ

とはとても思えません

 

 

ちょうどお寺の東北の角

表鬼門にあたる場所です

鬼門には香りのいい木は

良いといいます

それで、このお寺が出来たときから

あるのでしょう

 

香りは仏さまにとって

何よりの御馳走です

「香をもって食とす」

ともいいます

聞いたところではインドでは

美しい花よりも

香りのいい花を仏さまへ

お供えするといいます

 

 

小さいながらも

なんともいい香りをお寺一面に

漂わせて

知らん顔しているかのように

木はでんと立っています。

 

今日はお不動さまの秋の大祭

お参りの方々に

そっと香りを届けてくれる

ことでしょう。

 

 

午後1時からの護摩の法要です。

まだまだ暑さも厳しい9月、

それを吹き飛ばすように

力を込めて護摩の修行です。

 

 

 

 

 

 

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何故学ぶのか

2019-09-27 18:00:38 | 十地経

 

十地経講義の中で

何回読んでもハッとする一文

ここが原点なのかもしれません。

 

「人間は自己にかなうものだけ

 要求するんでなしに、

 自己を否定するものするものまで

 要求する。

 自己を否定するものなら

 逃げそうなもんだけど

 逃げたい気持ちで近づく。

(そういう立場が)

 学生(がくしょう)

といわれるものでしょう。

 人間というものが、

 これでいいんだ、

 ということでなしに

 本当に何か問題を持った場合に

 それが学生となる

(それが本当の人間の構造)

 人間が最も人間的である場合が

 学生である。

 仏教ではその学生を

 声聞・縁覚・菩薩という。

 

という一文です。

さとりということも

ある人に起きてある人には起きない

というものではなく

人間の本質的なあり方として

学生という立場になれば

だれでも起こりうることなのでしょう。

 

平安時代を支えた仏教に

最澄の天台宗と空海の真言宗があります

共に教育ということに注目され

それぞれの立場を明らかに

されています。

 

最澄の

「山家学生式」

(さんげがくしょうしき)には

「国の宝とは何物ぞ

 宝とは道心なり。

 道心ある人を名づけて

 国宝となす。

 故に古人曰く、

 経寸十枚これ国宝にあらず

 一隅を照らす

 此れ即ち国宝なりと。」

といわれています。

 

また空海は

「綜芸種智院式序」

(しゅげいしゅちんしきじょ)

に、

「物の興廃は必ず人に由る

 人の消沈は定めて道にあり」

と述べておられます。

 

こういう仏教の根本問題を

明らかに述べておられます。

分かり切ったように過ごしていますが

本来は国宝といっても

物ではなく

道心という求道心でしょう。

 

本当はこういうことを学ぶために

修行に励むのです。

 

ふと忘れてしまいますが

原点の言葉だと思います。

 

 

 

 

 

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一瞬を切り取る!

2019-09-26 20:41:01 | 住職の活動日記

昨日は阿蘇神社もお祭りのようで

ちょうど行ったときはその余波が残る

空気が漂っていました

秋の「田実祭」とか

収穫を祝うお祭りでしょう。

 

流鏑馬は終わった後のようで

本殿近くの一角では

「居合切り」の

奉納が行われています

 

 

その一瞬です

十数枚撮った中で、

ジャストタイミングの一枚が

ありました。

不安定な台に置いているだけなので

このようにスッパと切る技は

見事なものです。

 

今日庭の掃除をしていると

一羽の蝶々がやって来ました。

さかんに彼岸花の周りを飛び

花に止まっては蜜を吸っています

 

 

羽は結構激しく動かしています

なかなか止まった瞬間を取るのは

難しいものです

 

 

ちょっとボケましたが

私の技ではこれ位が限度です。

 

一瞬を切り取り

その中にそのすべてを映し込む

そこにカメラマンの技が光る

ということでしょう。

 

この人と言ったらこれ

というものがあるのは

いいものです

そのもの自体のその人の人生を

反映できるものがある

何十年か生きたその証が

ものでもいいし時でもいい

そういうもので表現できることが

素晴らしいのではないかと思います。

 

さて、どの一瞬を切り取るのか

人生の課題ですね!

 

 

 

 

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阿蘇の五岳を望む

2019-09-25 20:19:10 | 住職の活動日記

天気も良く足を延ばして阿蘇へ

 

 

いつ来ても

大観峰からの景色は

素晴らしいものです

 

 

ススキが美しく輝いています

遠くに五岳、涅槃像が見えます

 

 

ここのところ噴煙を巻き上げて

その煙で霞んでいます

 

 

美しい雲の景色も撮れました

 

 

このお姿を釈迦涅槃と見たのは

ここで修行されている修験の方々の

目から見たものでしょう

阿蘇のお山はただの山ではなく

修行するものには

山自体をご本尊と仰ぐ神聖なる

山なのです。

 

祖父たちにとっては

物見遊山で阿蘇に行くことを

強く諌めていました

「六根清浄を唱えながら

 上れと」

学生の頃、山を征服するとか

いうと、叱られたものです。

 

 

中岳からは噴煙が上がっています

ということで

ここ草千里から見ることにしました

 

 

遥か向こうに見えるのが

外輪山、噴火で陥没した所が

今町になっているのです

ということは

いかに大きな山だったか

 

 

そして、はるか昔は水が溜まって

大きな湖を成していたのです

かすかに見える水の淵の後が

見えます

 

 

何とかアザミという名前でしたが

下の葉はアザミの形です

 

 

最後に阿蘇の噴煙を後に見て

下山

阿蘇神社へ向かいます。

 

 

 

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お彼岸法要も無事に勤め

2019-09-23 20:00:00 | 住職の活動日記

お彼岸法要が始まる頃には

見事に晴れ上がり

 

 

仏旗も気持ちのいい風に

たなびいています

法要に先立ち

百万遍のお数珠繰りから始まります

 

 

休みとあってお子さん方も

お参りに見えました

 

 

まさに老若男女ご一緒のお参り

 

法要を勤めて

お昼からはお斎(とき)です

外の金魚さんたちも

お腹がすいてきたようです

 

 

それにしても

随分と大きくなりました

 

 

 

バラ寿司と護摩豆腐、しらあえ

お煮しめと皆さん舌鼓のようです

 

 

住職も何かとお世話されています

 

 

お子様たちは別のテーブルで

お召し上がりの様子

 

 

帰りがけには

安田念珠の念珠を求める方も

何か皆さんゆっくりされているようで

あちこちで話が弾んでいます

皆さん替えられた後は

私たちのお昼です

 

 

まかないのお昼というところ

 

 

結構の量があるのです

お代わりする方もおられます

 

その後は、掃除と片づけをして

あとは28日の大祭の準備

9月はお彼岸と大祭と

一年の内で一番忙しい月になります。

 

 

 

 

 

 

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台風一過、お彼岸準備

2019-09-23 10:17:34 | 住職の活動日記

昨夜台風が通り過ぎました

強い風

一瞬、2階にいると揺れるような

そういう錯覚がするような

吹きようでした

 

朝一番、庭に出てみると

落ち葉が吹きとばされています

その庭の奥まったところに

 

 

一本だけお彼岸に合わせるように

咲いています

 

 

今日の主役です

 

掃除をしていると

指にやってきました

あなたは誰 ?

 

 

クモさんなのか

手にくっついて離れません

下を見ると

 

 

あのトゲトゲ虫も落ちています

刺されたら痛い奴です

多分

モミジの木に付いていたのでしょう

昨夜の風は虫たちにとっても

災難でした。

 

 

本堂では幕張から始まり

後はお参りの方のお待ち受けです

 

 

京都からは「安田念珠さん」も

お見えになり

百万遍のお数珠の新しい方の玉の

入れ替えです

 

 

新しく申し込みされた方を

順に加えていきます。

 

 

今回、11月13日

醍醐寺の本山で「百螺祈願」が

勤められます。

当院でも団参を組んでお参りします

住職が今一番力を入れている行事で

このポスター目に付くところへ

貼ってあります。

 

もうそろそろ、

お彼岸の法要の始まりです。

どうぞお運びください。

 

 

 

 

 

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ほとけさまどこに どこにいらっしゃる

2019-09-22 21:37:30 | 住職の活動日記

こういう歌があります

 

 ほとけさまはどこに 

    どこにいらっしゃる 

  春は花咲く 枝のもと

  夏は水辺の 草のかげ

  秋は空ゆく 雲のうえ

  冬は窓うつ ゆきのなか

 いつもどこかで 見ていて下さる

  いつも何かを教えて下さる

 

仏さまというと

とても立派なお姿を想像しますが

実は身近に感じることが

出来るのでしょう。

 

 

いつも葉をつけたまま

夏を越していたシクラメン

今年は葉をすっかり落とし

球根だけになってしまい

枯れたのかなと

思っていたのですが

ちょっと涼しさを感じると

小さなかかわいい新芽を

出してきました

 

 

あちこちでニョキニョキと

出し始めました

秋が来る頃葉を落とし

眠りに入る植物もあれば

これから活動を始める

草花もあります

 

 

たぶん孫たちがドングリを拾って

蒔いたのでしょう

いつ頃蒔いたか捨てたか

分かりませんが

気が付いた時にはもう秋

葉も枯れようとしています

また

 

 

彼岸花もお彼岸に合わせるように

咲き出し

種類によっては

 

 

咲き終わり

そのハタラキを葉に託している

彼岸花もあります

 

 

ふとやって来たバッタ君

足元にとまり

何かしら元気がなさそう

もう冬が来て命の終わりが

間近なのかもしれません

跳ねる姿にも力なく

去っていきました。

 

「散れば咲き 咲けばまた散る

  春ごとの 花の姿は

    如来常住」

 

という一休さんの歌もあります。

 

明日はお彼岸のお中日

そっと静かに手を合わせ

折々の草花を見て

そこに仏を見つけるのも

お彼岸の大きな意味があるように

思います。

 

 

 

 

 

 

 

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古市陵墓

2019-09-21 19:47:35 | 住職の活動日記

古市陵墓監区は

先日世界遺産になった仁徳天皇陵や

応神天皇陵、聖徳太子墓などを

管轄している所です

場所は羽曳野市の住宅の中

細い道を入ったところです

 

 

入口に事務所の碑が見えます

 

 

ここには応神天皇の陵墓があります

参道を進み

 

 

周りの住宅街の喧騒を遮るように

細い参道が続きます

奥の右手に見える瓦屋根が

事務所にあたります

 

 

ここが前方後円墳の方の部分

ここから上に方形があって

その先が円形の部分

というと随分と大きな御陵です

 

 

ここでお参りして事務所へ

 

 

鉄筋ながら和風の趣を湛えた

落ち着いた作りです

留守なのか?

声をかけると中からお見えになり

親切な対応

 

 

17の陵墓の印があります。

それぞれの方の人生というか

生き様、事件などのことを

思いながら、

名を唱え印を力を込めて押します

 

これで後残すところ

東山の陵墓だけです

ただ印だけ頂くのではなく

時間を見つけてそれぞれの御陵を

お参りしたいと思っております。

 

 

ふと見ると面白い花が

事務所の前に植えてあります

 

 

なんとも不思議な形で

色も濃い紫色

何という名前の花でしょう?

 

頂いたパンフレットには

「陵」とは、天皇、皇后、太皇太后

 及び皇太后を葬る所

「墓」とは、その他の皇族を葬る所

ということが書いてあります。

 

今は便利な機能があるもので

家内が携帯で撮り

それをアプリでアップすると

花の名前が出て来る

それによると

「カシミアバイオレット」

という名前のようです。

 

 

 

 

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虚空尽き 涅槃尽き 衆生尽きなば …

2019-09-19 20:28:26 | 十地経

弘法大師の有名な言葉です

 

「虚空尽き 涅槃尽き 

   衆生尽きなば

 我が願いも尽きなむ」

 

という、高野山で万燈会を

勤められた時の願文の一節です。

分かったような気もするのですが

本当かといわれると?

分からなかったのです。

 

ところが、

「十地経講義」のなかで

同じような句が出て来たのです

講義によると

これは仏教の根本の考えで

十大願の中に出て来る文句の

ようです。

 

「如衆生界尽我願乃尽。」

「如是衆生界尽不尽。

 我此善根亦不可尽」

 

というように出てきます。

こういう言葉が繰り返されます

一つ一つに繰り返されるわけです。

 

そこで、講義では、

「衆生界尽 我願乃尽」と

衆生界尽きなば我が願いも尽きなん

ということで、

この尽という字は

無限という意味です。

もし衆生界が尽きるなら

衆生に限度があるもんなら

我が願いもまた尽きていいだろうと

衆生というものが、

流転の衆生の世界がね、

限りあるものならば、

わが願いも尽きるだろうと。

流転の衆生は尽くされんと

だからわが願いも尽きるわけには

いかんと。

逆じゃないんです

わが願いが無尽だから

衆生が無尽じゃないんだ。

衆生は無尽なんです。

衆生というものは

未来際を尽くしても

衆生は流転するもんだと。

 

だからわが願いも尽きんのだ

こういうことでしょう。

これを十尽句というんです。

これはまあ衆生界から始まるんです

けど、

法界とか涅槃界とかね、

十でてくるわけです。

一番初めは衆生界尽ですね。

だから衆生の流転が無限であると。

無尽であると。

だからして我が願いもまた

無尽なんだと。

衆生の流転にしたがっていくと

衆生の流転に仕方なしじゃない

あえてしたがっていこうと

いうわけです。

つまり衆生の流転をもって

わが流転にしようと。

これが願ですね。

 

虚空というのは

空間という意味じゃないですわね

法界なんです。

あるいは法性(ほっしょう)ね。

界も性も同じような意味なんです。

法性の徳なんです。

つまり真理なんだ。

真理が究竟虚空の如く広大無辺際

なんだ。

その真理の徳が、真理が

願を通して世界として具体化されて

くるわけです。

我々が色々なことを考えて

作ったんじゃないんだ。

真理本来の徳なんだ。

そういうことがまあここへ出てますね

 

とこいうように講義は

続いていくのですが、

 

弘法大師の

「虚空尽き 涅槃尽き

  衆生尽きなば

 我が願いもつきなん」

ということも、

衆生の迷いも尽きないのであれば

それを切ってしまうのではなく

私も衆生と共に迷っていこうと

あえて流転していこうと

こういうのが願ということでしょう

明らかなものが見えているからこそ

一緒に迷っても

ミイラ取りがミイラにならないで

一筋のものを持っているから

いつかは迷いを翻していく

方向性を持っている

ということでしょう。

 

この事は大乗仏教の根幹では

ないでしょうか。

 

 

 

 

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