本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

補特伽羅(ほどがら)

2021-05-31 20:49:27 | 十地経

あまり聞きなれない言葉ですが

「補特伽羅」という

仏教には色々な言葉があります

この言葉も

「十地経講義」で出てきたのです

 

「無著の『摂大乗論』(ショウダイジョウロン)

に、補特伽羅、pudgala の

音写ですけど、人と訳すんですが、」

 

という一文です。

人という言葉は他にも

manusya マヌシュヤという語も

あります。

 

で、この「補特伽羅」は

「ふどぎゃら」「ふとがら」

「ほどぎゃら」とも読みます。

簡単には人という意味ですが

普通いう「人」というよりも

もっと幅広い内容を含んでいる

ので、あえて訳さずそのまま

音写したのです。

どいう訳か

玄奘三蔵もこの言葉は訳して

いなくて、玄奘訳の経典には

出てきません。

 

辞書には、

「生命的存在」とか

「生死をくりかえす存在」

というようにも訳され

そういう意味からすると

「人」というのはほんの一部の

生命存在ということでしょう。

 

ふと思うのは

今、ジェンダーのことが問題に

なっていますが

仏教では補特伽羅というように

男と女と非男非女とに或は

有学と無学とに

声聞と縁覚と菩薩とに分ける

というように

人のあり方を

その人の行いによって生存の

あり方を分けているようです

 

それで、数取趣(さくしゅしゅ)

とも訳されます。

ある面では非常に的確な言葉の

ようです。

数々の趣を取る存在ということで

 

「趣」というのは

自分の作った行為で導かれ

趣くところの生存の状態で、

「趣」はよく出てくる言葉では

五趣とか六趣があります。

 

六趣というのは六道ともいい

地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・

天の六つです。

衆生というと人間だけではなく

地獄餓鬼も衆生に含まれます。

 

ですから、地獄というのは

ある面では死んで趣く所とも

いえますが

補特伽羅ということから見れば

その人の行いによって

趣く所ということです。

 

数という字は「さく」とも読み

数数と書いて「さくさく」と

繰り返しという意味です。

地獄餓鬼畜生阿修羅人天の世界を

くりかえしくりかえし六趣を

取るところから数取趣サクシュシュと

あるのです。

 

人間の迷いが

自分勝手な思い込みで行動する

それによって自分の境遇を

作り出している

そういうあり方をする存在を

補特伽羅といったのでしょう。

 

男とか女とか

顔があって手足がある

それだけの存在ではなく

人間というものを

もっと言えば生命のあり方を

厳密に見つめたところからの

言葉のように思います。

 

英語でいう human being では

とらえきれない内容が

人という補特伽羅という言葉には

あるような気がします。

 

 

 

 

 

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努力を通して努力の無効を知る

2021-05-30 20:15:47 | 十地経

「十というけども、

それはまあ象徴的な数字であって

本当というものはいうものは

三地を押さえれば

そこに結晶してると思います。

結局、

十地の道程というものは、

三地の道程が内容なんだ。

 

つまり、

初め(初歓喜地)から六地まで

それから、第七地でしょう。

第八地から第十地までですね。

こういうように三地ということで

尽くされている。」

 

と講義に出てくるのですが

最初聞きだした頃

何で七地なのだ

何時になったら八、九、十と

進んで行くのだろうと

単純な疑問を持っていました。

 

ここにあるように

1~6、第7、第8から10と

三つに分かれその中心が七地

ということです。

極端にいえば第七地が

大きな転換点であるし

キーワードみたいな意味合いを

もっているようです。

 

ですから、七地のところは

「努力」ということが盛んに

でてきます。

 

「努力の最後というものを

表すのが遠行地(第七地)」とか

「努力を尽くして、

努力を超えたものに触れる」

 

努力を尽くすというのが

第七地であり

それが第八地になると

努力を超えて自然(じねん)

という世界が広がるのでしょう。

 

仏道修行にも難行(なんぎょう)と

易行(いぎょう)があり、

お経の喩えでは

「陸上を歩いてゆくように苦しく

(これが難行で)

海上を船で行くように楽である

(これが易行と)」

いうように書いてあります。

それで自力聖道門を難行と

他力浄土門を易行というようです

 

比叡山には三つの地獄がある、と

その一つに祖師のお堂を守る行が

あり、

一枚の落ち葉さえ許されない

それを掃除地獄というようです。

それは傍から見たら

なんと大変な地獄のような

掃除の仕方ですねと

掃除地獄と見るのでしょうが

やっている本人には

どうか分かりませんが

努力を超えた世界で掃除する

のであれば、

極楽かもしれませんが

一生懸命の努力の世界で

頑張っているのなら

地獄かもしれません。

 

いずれにしても

易行にしても難行にしても

努力ということが

ないわけではありません。

 

「努力をやめてただ向こうから

降ってくるのを

易行を待っているのではない。

難行をやめて易行だけなら

それは、天下りではないか。

自覚ではない。

ハッと知らん間に

悟っとったというんだ。

知らん間に助かっとった。

そういうものではない。

 

やっぱり努力を通して

努力の無効を知るんだ。

努力の中に、

有効の努力と無効の努力と

二つあるんではない。

努力の本質が無効なんだ。

つまり、

努力が無効だということが

努力したことなんだ。」

 

とこういうようにあります。

ですから、

初歓喜地から第六地までは

努力の世界で

世間的な問題をふくんだ段階

世間知で解決しようと

しているところでしょう。

そこは人知を尽くす努力の世界

そこから、

第七地という努力が完成した

ということになるのです。

 

これからですが

第七地を押さえてゆけば

十地という全体が見えてくる

のではないかと思います。

ですから

この講義も第七地を中心に

第八地から七地を見直したり

初歓喜地から見てみたりと

行きつ戻りつしながら

進んで行くようです。

 

第七地のところでは

「努力」ということが

眼目のようで、

色々な形で出てきます。

 

 

 

 

 

 

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薔薇の花のように

2021-05-29 20:40:01 | フラワー

いつも習っている

フラワーアレンジの先生から

薔薇の花を求めました

 

 

というのも、

お世話になった方が

今まで立ち上げてこられた

会社をお辞めになる

そこで、

お花を持参することに

したのです。

 

玄関に置いてあったので

 

 

まず、一枚写真に収め

それから花束を作り

今日お届けしました。

 

その方とも長いお付き合いで

息子さんが高校に入られる時から

その息子さんも今やその会社の

社長さんです。

 

初めは小さな建材店でしたが

それから、建築の免許もとられ

建築会社へ

有限会社から株式会社と

次々と大きくされてきた方です

 

女性ながらガッツの有る方で

一身に会社を背負って

営業から設計の相談

女性目線でのアドバイス

そして

師匠の家も建築され

私宅も建てていただき

それまでも細々したことを快く

引き受けていただき

お付き合いも40年余り

 

そのお世話になった方の

会社を辞するという

その労いもかねて

花を持って行ったしだいです。

 

その余った花で

 

 

わが家も薔薇尽くしです

薔薇の花はやはりいいですね

 

 

おトイレにも活けられました

 

 

坐って見ていても

何かしら豊かな雰囲気です

おすそ分けに預かり

我が家も華やいでいます。

 

ケーキとコーヒーを頂きながら

昔話に花が咲き

時の経つのも忘れ

また、辞するという寂しさ

色々と感慨深いものがあります

 

「これからの出発が

 明るく華やいでみえます」

という仰っておられました。

78歳というお年ですが

これからまた趣味の大学へ通うと

抱負も語っておられ

増々のバイタリティーを

漂わせておられる女性です。

薔薇のように明るく元気で

ご活躍下さい。

 

 

 

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禅譲と禅定と禅杖そして三昧

2021-05-28 18:59:38 | 漢字

どの漢字も読み方は

「ゼンジョウ」で同じです。

気になったのは、

禅という言葉は「座禅」という

言葉もあるようにもっぱら

仏教用語かと思いきや

 

歴史の中の解説で

「禅譲」ということが出てきて

この意味は

天子が皇位を譲るということです

ということで

調べてみると「禅」ということは

音は「ゼン」訓は「ゆずる」

本来は「位とかを譲る」という

ことが最初の意味です。

単・タンは

祭事を行うにあたって祭場を清め

平旦にするというところから

きています。

そこで山川の神を祭った。

その祭事は天子のみに許された

特権であったことから

「禅譲」という言葉も生まれて

きたということです。

 

ところが、

仏教で使う「禅」はインドの

Dhyanaドヒャーナを禅那と音写した

それを禅定ともたんに禅とも

言ったのです。

その禅という言葉が

たぶん鈴木大拙という方によって

英語化されZENとも漢字で禅

ということが国際的に認められ

一般化していったようです。

 

そして、座禅をするときに

眠気がさしてきた時、

肩を叩かれる棒が「禅杖」です。

 

禅というのは少し幅が狭く

もっと広くいえば「定」という

ことがあります

戒・定・慧の三学というように

智慧を生み出すには

まず心を一点に集中して

散心にならない「定」という

ものが必要です

では定を得るためには

規則正しい生活が必要で

それが戒律ということです

戒が成り立ち

心に定が生まれると

智慧が生まれてくるという

それが三学といわれるものです。

 

その「定」ということは

サマーディSamadhiという

インド語で三昧とも音写されます

この三昧も普通には

何々三昧ザンマイとか使います

この「定」の中の一つに

「禅」ということがあります。

 

「定」ということは

七つの意味があると言われ

1.サマーヒタ、等引と訳され

 人間のうきうきする心と

 落ち込む心を離れて平等である

 そこから「等」という字を使います

2.サマ-ディ、三昧

 これは等持と訳されます

 等持院というお寺もあります

3.サマパッティ、

 これは等至と訳され

 心身の平等に至るという意味

4.ドヒャーナ、禅那・禅です

 静慮と訳されます

5.チッターイカーグラター

 長い名前ですけど

 この言葉も十地経でよく

 使われる言葉です。

 心一境性と訳されます。

6.シャマタ、止と訳され

 止観という言葉で使われます

7.ドリシュタ・ダルマ・スカ・

 ビハーラ と何とも長い名前

 現法楽住と訳されます。

 

難しい名前が出てきますが

4番目に「禅」ということが

出てきます

それほど、定・三昧・禅という

言葉は幅の広い内容をもった

言葉です。

ということは

心を静め集中するといっても

色々な心の段階もあるし

それぞれの方法もある

ということでしょう。

 

やはり、インドの人は

厳密な頭の構造を持っている

ようですね。

 

 

 

 

 

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人間は持てば持つほど貧しくなる

2021-05-27 20:05:26 | 十地経

「円満成就」エンマン ジョウジュ

ということがお経に出てきます

円満、欠けることがなく

まどかにして満ち足りている

そして、成就というのですから

具わっているというのでしょう。

 

講義の中に

「人間はいろいろ加えて

円満成就したんじゃない

初めから円満成就されとるんだ

だから非常に豊かなんだと。」

 

こういう言葉が出てきました。

なんだか、いろいろ修行したり

徳を積んだりして円満成就すると

思っているのですが

そではなく、

最初から円満成就している。

続けて読んでいくと

 

「人間というものはやっぱり、

如に触れんというと、

何でも積み重ねるとか、

外に求めれば積み重ねる以外に

ないんだけど、

人間はいろんなものを

持つというと、豊かになるように

思うけど、そうではない。

持てば持つほど貧しくなる。」

 

普通には持てば持つほど

豊かになるように思うのです

身につけるものから

住まいにしても便利になり

今では、人間の考えたものが

考えたように思い通りに

あるようですが、…

 

「だからして、

貧乏人が一番、腹が太い、

金持ちはちょっと持ったら

持ったことが刺激になって

さらに深い欲を起こしてくる。

 

ある人が欲しければ

いるものは差し上げますよ

といってきたら、

それはありがたいと。

それならどれだけ上げましょう

といったら、

ちょっと待ってくれと、

考えておったが、

全部くれと。

だからして、

欲しいものがあるなら何でも

いってくださいということは

簡単に言えるものではない

というんです。

 

全世界を得るといえども

自己を失うなら何の益があるか

ということが福音書にありますが

全世界を得ても

自己は満たされていないと、

こういうようなもので、ですね。

自己が本来の自己に帰るなら

そこに初めから

満たされとるんだと、

存在というものは。」

 

何かしら分かるような

気もあしますが

持てるだけ持ってみたい

気もします。

何億円という宝くじが当たれば

気もおかしくなりますよ

といったら

おかしくなっても当たってみたい

という答えが返ってきます。

 

急に、土地が売れたりして

大金が入ってきて

今までの生活が狂ってきて

一家離散した

という話しも聞きます。

また、

おかねは使い方が難しい

儲けるのは簡単だ

ということも聞きます。

けど儲けたことはありませんが、

けど確かに

あればあったで有頂天になり

自己を失っていくのも確かです。

 

本当の自己にであう

この自己のことを

如というのでしょうが

これほど豊かな世界はない

ように思います。

本来の自己にであう

自分とはそういうものであったか

自分が自分で自分に頷ける世界

そういう世界が見つかれば

これほど安らかに安住できる

世界はないと思います。

 

が、

それを見つけるのに

十地という段階があるのでしょう

それこそが修行、

努力して努力して

自分との闘いの連続

その難関を乗り越える道程が

十地という位のようです。

それに三大阿僧祇という

時間が必要ということでしょう。

 

 

 

 

 

 

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アマリリス満開

2021-05-26 20:42:36 | フラワー

やっと4輪みな開花です

写真に撮って孫たちに送り

お母さんにアマリリスの歌でも

教えてもらったら

と送ったら、

「調べはアマリリス」

の部分だけは何となく分かる

けど、

全体は分からないという返事

 

 

ラインでしたので

動画で送ったのです

 

 

くるりと一回りして

上からみると

 

 

四方正面のように咲きます

花言葉に「おしゃべり」

というのがありますが

それぞれ四つの花が

おしゃべりしているようにも

見えてくるものです

 

 

また、「輝くばかりの美しさ」

という花言葉もあります。

 

 

24日の時点では

まだ蕾もあり

 

 

というところで

咲きそろってはいなかった

のですが

同じ茎から出てきても

少しずつ順番が違うものです

 

孫たちに歌を聞かせて

といったのですが

よく聞くとこの歌も不思議で

「みんなで聞こう

 たのしいオルゴールを 

  調べはアマリリス」

この「調べはアマリリス」

という部分だけ

妙に覚えているもので

よく考えると意味は分かりません。

 

調べてみると

諸説あるようですが

古代ローマの牧歌に登場する

美しい羊飼いの少女の名前が

アマリリス、とか

フランス土産のオルゴールで

聞いた歌の名前がアマリリス

というようで、

この歌も結構長い歌です

しかし、

「調べはアマリリス」しか

覚えてはいません。

 

 

 

すっと伸びて

四方に花を咲かせる

そういう姿を見ると

「誇り」という花言葉も

頷けるようです。

 

今夜は宇治も厚い雲に覆われて

スーパームーンの皆既月食は

見れないようです。

 

 

 

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向島庚申町(むかいじまこうしんちょう)

2021-05-25 20:00:18 | 住職の活動日記

旧国道24号線を北上

雑踏の道路の中を歩きます

 

 

大学の掲示板

ふと気になる言葉が

「愚者と思うものは

 すでに賢者なり

 賢者と思うものこそ 

 真の愚者なり」

と、ドキッとする言葉です。

 

 

そこを過ぎると京都市に入ります

宇治市と京都市の境

 

 

振り返ると宇治市・歴史街道

の表示が見えます。

目指すはもう少し行った

伏見区の向島庚申町です。

 

庚申コウシンというのは

おもしろい仏さまで

時折、庚申堂とかの祠があり

仏教では青面金剛ショウメンコンゴウ

として祀られます。

道教の影響もあるようで

古くは「枕草子」にも出てくる

庚申会というお祀りがあります

 

庚申コウシンは「かのえさる」で

干支の一つでもあります

人間には三尸(さんし)といって

三匹の蟲がいて

それが庚申の夜になると

体から抜け出して

閻魔大王のところへ行き

その人の行いを報告する

するとそれによって

寿命が短くなったり

災いがやって来るという

それで、庚申の日は

抜け出していくのを見張るために

夜通し起きて酒を飲み

三尸が出ていかないように

したという

そのことを庚申会とかいって

平安の頃からあったのです。

 

その庚申様がいらっしゃるかと

この町まで足をのばしました

 

 

向島の大きな団地を過ぎて

 

 

この団地は私たちが結婚する頃

団塊の世代が結婚という

それを当てにして作られた

ようです。

 

 

それらしきお堂を発見

しかし

 

 

よく見ると、どうも

お地蔵様のようなお姿です

 

 

さらに奥にもありましたが

ここもお地蔵様

しかしながらどのお地蔵様の祠も

立派な造りになっています

ここらを附近を探したのですが

ふと気がつくと

足の方が限界に達しているようで

足の裏に痛みが走る

やむなく今日はここまでか

歩数も万歩を超えている

 

 

しかしここの道は

ルネサンスロード向島という

力を入れている道のようです

団地を抜けて

帰りは近鉄にしようと駅へ向かう

 

 

近道しようと思ったら行き止まり

急がば回れ、ということです

 

 

ここら一体を向島二の丸町といい

名前の通り昔は二の丸があった

向島というくらいですから

巨椋池に浮かぶ一つの島

そこに家康が

秀吉の伏見城をにらむように

お城を築いたのです。

 

 

ちょうど電車は止まっていました

特急と急行の時間待ち

ジャストタイミングです

 

 

この駅を出て一駅で小倉です

時間にして3分

歩いて小一時間

昔の人は偉かった

何という便利な世の中でしょう

ほんの150年前までは

みな歩いてどこまでも行った

一日に50キロ位は歩いた。

 

しかし、慣れない身体には

突然の万歩というのは堪えました

 

 

駅に着くと

帰り道に、マメ科の花でしょう

美しく咲いていました。

 

 

 

 

 

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三大阿僧祇(サンダイアソウギ)

2021-05-23 20:10:10 | 十地経

人間が仏になるには

三大阿僧祇という長い年月が

かかると言われています。

 

インドの人の数に関する考えは

私たちの考えの及ばない

気が遠くなるような

数の観念を持っています。

 

数というのはインドの言葉で

サンクㇶヤーといいます

一、十、百、千、万、…と数えて

52桁の数があります

たまに聞く名前に那由多ナユタ

というのがあって、

その52番目が阿僧祇です。

阿僧祇とはアサンクㇶヤの音写で

アがつけば否定の言葉で

直訳すると「数えられない」

という意味です。

しかし、

それだけでは終わらないで

その次が

無量、無邊、無等、不可数、…

とまだ続き、

さらに阿僧祇を倍したものが

阿僧祇転、さらに…

と続いていきます。

 

こういう数に関する考え方が

今でいう

アメリカの宇宙開発が

出来なかっただろうということを

聞いたことがあります。

 

ゼロの発見もインドですし

それが思想的には空や無の考え方

となり、そういう

数も思想ということになったのが

インドのようです。

それをアラビア人が数学として

発展させたと、

 

十地経でも阿僧祇ということが

でてきます。

「まあ、『十地経』を読むと

えらい悲観するようなことに

なりますが、

仏には永遠になれんものだと

いうことが書いてあります。

三大阿僧祇という

無量の時間において、

無量の行をもってようやく

達しうるというような、

ほとんど不可能だと、

いうことがあります。

 

日本人は非常に、

横着者だというか、

何か早い便法はないかと、

こういう日本人というのは

功利的な民族だ。

インドに行くと逆なんだね。

早いものは安物だという。

三大阿僧祇、

それだからこそ仏道というものが

尊厳なんだと。

そういう意味があって

これなども我々よっぽど

考えんならんと思うね。」

 

そういえば

真言宗では「即身成仏」とか

「頓証菩提」トンショウボダイとか

すぐさま仏になるようなことを

いっています。

この身このままで成仏する

三大阿僧祇など必要ない、と

あるのですが、

ここのところは、

よく勉強していないので

はっきりした考えは分かりません

 

「頓」という言葉も

頓証菩提と菩提という仏の心を

たちまちに証する、とか

頓知の一休さん、

無頓着という言葉もあります。

頓ということもあるのかも

しれませんが

今までにすぐさまさとった人を

見たことがありませんし

即身成仏をした方に出会った

こともありません。

 

なぜそういう三大阿僧祇という

長い時間が必要かと

それは、

人間がもっている無数の過失

我執という罪

それを対治していく道程に

十地があるということです。

 

しかし、

よく考えてみると

なにも到達点にたどり着く

必要はなく

仏になれないけれど

仏へ向かって歩み続ける

その方向性が大事なのでは

と思うのです。

何か早い便法を求めますけど

結果よりも方向性

その方向を向けばいつの日か

たどりつく

そういうことが大事なのでは

と思うのです。

 

 

 

 

 

 

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アマリリス開花中

2021-05-22 20:24:59 | フラワー

毎年、

もう5年ほどになるのですが

咲いてくれるアマリリス

 

 

一つだった花が分かれ始め

 

 

それぞれの花になっていく途中

なんですが

真っ赤というより何とも不気味な

色をしています

 

 

そのアマリリスが

四つの花に分かれ始めました

 

 

もう赤さを花に届けたのでしょう

茎の部分は赤から緑へと

変わってきました

明日ぐらいには咲くでしょう

 

 

それから、孫が撒いた

ドングリが大きな葉を広げて

花のようなものをつけ始め

でも、

不思議なのは葉の大きさです

小さい鉢なのに

この葉の大きさは

あの大木の葉と同じ大きさです

盆栽の様に小さく設えようかと

思うのですが

そんなことはお構いなしに

葉だけは大木と同じ大きさの葉を

立派に広げています。

 

昨夜のひどい雨、結構降りました

雨上がり、生憎の曇りですが

ひとっ走り

 

 

何気なく、

自然味豊に植えられた木々

ツツジもあればモミジもあり

山法師もあります

ビルの一角なのですが

上手に作ってあります

たぶんそれなりに手が入って

下草も自然に生え出てきた風情を

漂わせています

 

 

コーヒーとケーキを頂きました

パン屋さんなのですが

このケーキもコーヒーとよく合い

程よい酸味があり甘くもなく

後味がすっきりしていて

口の中にはコーヒーとケーキの

苦味と酸味が溶け合い

絶妙のバランスでした。

 

 

出てきたナフキンには

双頭の鷲の紋章と

何とも難しい店の名前

双頭の鷲というとあの

ハプスブルク家の紋章です。

 

ハード系のぱんですが

少し切って食べたのですが

やはり美味しいものです

明日は焼いてお昼にでも

頂こうかと楽しみにしています。

 

 

 

 

 

 

 

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人間の体の順応性

2021-05-21 20:11:01 | 住職の活動日記

今年に入ってから

どうも何か見えずらい

気になって、右目を隠し

左目だけでみると

下の方が影のようなものがあって

見えないようです。

早速、眼科へ行って、検査

いろいろと検査がありました。

その結果は

眼球の上の血管が詰まっていて

反対に下の部分が見ない

ということです。

 

よかったですね!

もう少し中心に近い所であれば

突然見えなくなっていましたよ

ということです

それから目薬をもらい

たぶん治らないと思いますけど

さしてみてください

とのことでした。

 

それから、2か月後にまた再検査

矢張り変わりはないようです

このまま様子を見ましょう

ということだったのです。

 

ところがここ最近

目の陰りがなくなったような

何だかよく見える気がします

これは

詰まっていた血管が

流れ出したのでは??

という期待をもって

眼科へ行ったのです。

最近は運動もしているし

血流もよくなってきたのでは

と自分なりに希望がみえて

きていました。

 

視力検査から始まり

写真を撮ったり

色々検査をして

いよいよ診察です。

ところが、

血管は詰まったままでした

影が消えたのですけど!?

というと

一度詰まった血管は

治りませんよ、ということです

たぶん、

右の視力がいいので

右目が頑張っているのでしょう

ということです。

 

人間の体の順応性ということは

よくできているもので

片方が出来ないと

もう片方が上手に調節して

両方見えるように

機能しているということです

 

しかし、

ふと考えてみますと

般若心経にも書いてありますが

目が見るのではない

目はものを見る機能であって

見るのは眼識という意識が

見ているということです。

ですから

両方の目から入った情報を

眼識が頭の中で調節して

あたかも両方の目で見ている

ように眼識が見るのでしょう。

 

一つ一つ機能は衰えていきます

それを身体全体として支え合って

うまく一つの身体として

はたらき合っているのでしょう

お釈迦さまも、

最後の言葉に

自分の身体はあたかも壊れかけた

車輪のように革ひもの助けによって

かろうじて動いているのだ

ということを仰っておられます。

 

三浦先生も

体というものは精密機械だ

上手に使えば長持ちする、

ということを仰っていました

晩年はとても自分の身体を労わり

大切にされていました。

 

歯に目にと、それから

脳細胞は一日に2万個も

壊れていくし

だから、当然物忘れはする

というように

いいところはありませんが

頂いたいのちですから

上手に大切にいたわりながら

使っていかなければ

と、思っております。

 

ということで

ちょっとおかしかったら

検査に行くことです

もし、早めに見つかれば

対処法は色々あると思います。

 

しかしながら

人間の身体というものは実に

よくできているものだと

感心しました。

 

 

 

 

 

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