本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

各発無上心・共発金剛志

2024-03-31 18:26:20 | 十地経

各発無上心

(かくほつむじょうしん)

共発金剛志

(ぐうほつこんごうし)

 

こういう言葉があります

各発と共発

この「発」という字

普通には「はつ」と読み

ますが

仏教的には特に「ほつ」

と読むのが通例です。

 

一念発起(イチネンホッキ)

とか

発菩提心(ホツボダイシン)

というように、また

得度したお坊さんを

新発意といいます

読み方は「しんぼっち」と

独特な読み方です

新たに志をおこした

仏になる心(菩提心)を

起こしたという意味で

 

普通には「おこす」という

と、「起こす」と

この字を使いますが

菩提心をおこすという場合

には、「発」という字を

使います。

 

開経偈(かいきょうげ)

というお経を読む時

最初に唱える言葉の中に

「百千萬劫難遭遇」

(ひゃくせんまんごう

 なんそうぐう)

百千萬という、それも劫

という長い時間の中で

たまたま出会ったんだ

ということです。

 

こうしてこうやったら

出会うだろうという

そういうことではなく

偶然にも出逢ったという

そういう教えなんだ

という意味です

 

それでこの「発」も

こういうふうにして

菩提心を起こした

というのではない

たまたま自分の中から

沸き起こるように

生まれ出てきたという

ことで、

この「発」という字を

使うのだと思います。

 

そういうことを講義では

 

「各発といったら個人で

おこした精神力ね、

個人的ですね。

我々が個人の努力で

やせ馬の尻を叩くように

おこして、

しっかりせんならん

というようなものだ。

 

そういうものは

おこしてみても

成立しがたいと。

一応やってみるけど

その相場は決まっとる。

個人のまじめな心で

おこしたような菩提心

というものは、

景気のいい時は続くけど

景気が悪くなったらすぐ

止めてしまうというような

 

そうじゃなく

持っと根元にある菩提心

ですね。

我々がおこすんじゃ

ないんだ。

我々が、我々からおこした

んじゃない。

 

我々をその中に

呼びかけとる菩提心です。

我々の根底に流れている

菩提心、それに帰れ

というんだ。

我々のおこした菩提心の

挫折によってもっと深い

根元の菩提心に帰れ。」

 

各発、

各々各個人がおこした

菩提心

それは限界があります

発菩提心といって

おこした時は覚悟もあり

顔つきもきりりと

引き締まった面構えです

ところが

誰でも経験があると

思うのですが

続かない、

挫折してしまいます。

 

そこに、共発という

ことがあると思います

修行する友ということも

ありますが

真言宗では「同行二人」と

お大師様と共に

というのですが

何かしら妥協できない存在

講義では

「根元の菩提心」

というような表現です。

 

自分の中にあるのですが

自分の心を超えている

そういう自分の中の

根元にある菩提心です

勝手な妥協を許さない

そういうものに出会って

本当の歩みが始まる

ように思うのです。

 

 

 

 

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円空 仏

2024-03-30 20:37:11 | 住職の活動日記

円空という人

何となく知っている

といいうより

名前くらいは

聞いたことがある

という程度

 

その円空が彫ったという

仏像展があった

事実、見てみると

思っているのと違って

迫ってくる力がある

 

 

鉈一本で彫り出していく

粗削りながらも

うったえるものを感じる

 

 

そのままの木を活かし

曲がったものは

曲がった仏に彫っていく

この仏も

たぶんそこにあった木を

彫ったものでしょう

 

円空は天台宗の修験道の僧

一定の所に留まることなく

修行の旅に身を委ね

そこにある木の中に

仏を感じ取り

その木から仏にお出まし

頂いたというような

彫り方のようです

 

 

この仏たちも

仏を彫るために準備した

というものではなく

余った木の中から

仏を彫ったものです

ですから

横からみると薄っぺらい

ものです

 

 

賓頭盧尊者(びんずる)

お酒が好きで

一生止められなかった

迷いの人びとと共にあり

悟りを開かれなかった

そういう親しみのある仏

撫で仏でもあり

黒光りしている

人々の側にあったほとけ

そういう様子を彷彿と

させる像のようです

 

 

やさしいお顔は

他の円空仏とは

一線を画しているようです

 

 

 

不動明王です顎の張った

その中にも優しさを

秘めています

不動明王は不動使者とも

いわれ、童子形に作れと

言われていますから

その姿をよく表現している

ようです

 

 

両面宿儺坐像

(りょうめんすくな)

珍しい仏です

面白いことにネットで

調べるとすぐに出てきた

なんと「呪術開戦」

というアニメにも登場する

仏のようです

 

ここのコーナーはOK

ということで

こういうコーナーがあると

なんかいいですね

 

 

 

この仏も見方によると

また違った表情に

見えてくるものです。

 

ついでに

 

 

高いところから

四天王寺さんをお参り

させて頂きました

 

 

足もすくむような高いビル

デパートもあり

美術館も併設し

ホテルもあるという

複合施設のビルなのです。

 

京都からも乗り換えなしで

55分で行けるという

便利なところです。

 

 

 

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仏教は何のためなのか

2024-03-29 19:42:53 | 十地経

忙しい世間からみると

仏教というもの

あってもなくても

いいような気がするのです

ある講義の終わりに

ご婦人が、質問が、

といって

「唯識は宗教じゃない

 と思うのですが」

先生は一言

「唯識は仏教です」

と、

『唯識三十頌』の最初には

衆生を利益する為に

この経を説く、とあります

ですから、

個人的な関心からではなく

一切の衆生を利益する

ということが一番の目的

になります。

 

「仏教は何の為めなのかを

最後まで押していけば

『人が人になる為』

なのです。

つまり仏教に依って

人間が成就する

というのです。

けれども、

この『人間』という考え方

にはいろいろあるでしょう

 

人間学という学問も

ありますが、

その思想とか教学が、

人間をどんな深さにおいて

捉えるかということが

あるわけです。

 

つまり、

人間の本当の要求は

何であるかということを

見届けなければなりません

 

現代社会では、

生きてゆく場合に

資本主義制度が入って来る

それで幸福になる

というものではなくて、

本当の要求が隠れてしまう

のです。

資本主義に幻惑されて、

かえって本当の要求を

忘却させられている。

 

皆が一歩でも進歩しようと

突貫してゆき、

それに遅れた人間は

弱者であり、

愚者だとされます。

けれども、

その愚者の方が本当の

要求を持っているかも

知れないのです。

 

進歩したといっても、

自分というものが

分からなければ、

進歩した愚者に過ぎません

魂がはっきりして

いなければ、

賢い凡夫に過ぎないのです

 

愚かとか賢いというよりも

もっと深い

要求があるのです。」

 

ということが

別の本ですけど

こういう一文に出会いました

ふと気になって

一体何のための仏教か

ということが問題になり

読んでいたらこういう文に

出会い

ややもすると

この『十地経講義』を

読んでいても

その目的が薄れてくる

のです。

 

何も立派なものに

なるわけでもなく

人間が本当の人間になる

これが一番の目的です

仏になるためでもなく

賢い人になるわけでもなく

本当の自分に出会う

これが一番のご利益です

 

利益(りやく)というと

「りえき」とも読み

何か金銭的なものとか

はっきりしないけど

幸せになりたいと

そういうことが利益と

いうように

考えてしまいます。

 

ですから、

自分の心の底に眠っている

本当の要求に気が付かなく

なってしまっています。

それが病気にでもなると

途端に、今までの価値観が

くずれてしまいます。

そういうとき

微かな要求として

一体本当の自分とは

そういうことが気になって

きます。

 

忙しいということも

いいようで

一つの言い訳として

でも、よく考えれば

この字は、心を亡ぼすと

書きますので

忙しい、忙しいと

言っているうちに

自分の一番大事なものを

失くしてしまうという

危険が潜んでいるようです

 

 

 

 

 

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十地の難関

2024-03-28 21:04:08 | 十地経

有名なのは

「七地沈空の難」

ということがあります

空に沈むという

何か分かったけど

力が出てこんという

空に沈むという難が

あるわけです。

 

前に出てきた

前上地勝差別という

前の地にも勝れ

また、後の地にも勝れて

いるという

前の地が六地以前です

その地に勝れている

ということは分かる

後の地にも勝れている

後の地ですから八地、

九地、十地です。

 

七地はそういう

前にも後にも勝れている

という特色を持っている。

そういうことが

また別の角度から

述べられています。

 

未証浄心の菩薩

浄心の菩薩

上地の菩薩、と

こういう菩薩が登場します

 

未証ですから

今ださとり(証)を

得ていない菩薩です

けど浄心である

未証浄心の菩薩

何かとてもいい名前ですね

 

「前と上とに勝れておる

という。

未証浄心の、これは前、

前地ですね。

浄心の菩薩、これがまあ

八地じゃないですか、

浄心というのは。

それから上地というのは

九地、十地。

浄心の菩薩と上地の菩薩。

 

だから八地も入るわけです

浄心というもので、

上地が成り立ってくる。

未証浄心は全く浄心という

ものにまだ触れん場合、

このような言葉で

表しているんです。

 

この浄心というのが

つまり無功用心です。

無功用。

功用、努力を超えた心です

 

だからここに大きな溝が

あるわけです。

この溝を超える

というんだから、これは、

飛躍です。

 

未証浄心が浄心に転ずる

だからこれは

一から、六、七地までと。

一地から七地までと

八地以上と、

そこに大きな難関が

横たわっている。

 

これなんか、

やっぱり、人間の成長、

人間の精神の展開、

その宗教心の展開ですけど、

宗教心というだけじゃ

なしにもう人間そのものが

展開するときに、

いつでもこういう形をとる

 

難関ということを

別の言葉でいえば

失敗ということになる。

せっかく積み上げてきた

ものが元も子もなくなる

というような失敗や。

 

人間は、やらん人間は

失敗もせんけど。

しかし失敗せん人間は

まだ一人前じゃないでしょ。

何もせん人間は、

それは話にならんけど。

 

何かやりださなければ、

やりだすという時に

もう十地があるわけだ。

精神があるわけです、

その場合。

 

しかしやりだしても

失敗のない人というのは

これはその、

その精神というものは

永遠に未完成じゃないか。

未完成に終わるじゃないか

 

失敗したことのない精神

というものは生活しとらん

生活がないんや。

つまり

嫌なことを避けてきた

だけなんだ。

嫌なことは避けると、

汚れることはやめると、

それは生活はない。

 

だからして

精神の成長には、

失敗ということがある。

失敗したらいい

というものじゃない。

失敗を見出して

さらにそれを超えていく

という。」

 

何ごとも実践していくと

いうことは

見直してみると

十地という段階を踏んでいる

ように思います。

なかなかきつい失敗も

受け入れるのは大変です。

 

 

 

 

 

 

 

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柳緑花紅(りゅうりょくかこう)

2024-03-27 20:43:13 | 住職の活動日記

柳は緑、花は紅

何でもないような言葉です

当たり前の

しかし、

一つの悟りの世界を表現

した言葉です

 

19日、まだ蕾でした

六角堂の桜

美しく咲いています

まだ肌寒く

今日は珍しく晴れ

気温も上がり穏やか

 

 

しかし、明日からまた

雨模様です

 

 

小さな花ですが

それがまた六角堂と交わり

何とも好い風情です

 

 

お地蔵さまの上に

降り注ぐように

咲いています

 

この咲いたという情報

広まるのが早く

境内は外国の人で一杯

 

 

日本の桜を

楽しんでおられます

この横には、左手には

スターバックスがあり

今日は満杯のようす

珈琲片手に花見と

何とも好いコーヒーを

召し上がっておられます

 

 

門を入ると正面横

立派な柳があります

ちょうど新芽が出てくる頃

まさに、柳は緑・花は紅

 

自然法爾(じねんほうに)

というか

まさにそのまま

その姿がほとけさまです。

 

 

 

 

 

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古典を読むということ

2024-03-26 20:33:54 | 十地経

講義はここのところ

ヨーロッパの文化特に

キリスト教の話が

続くのですが

哲学とかやってないので

難しい問題が続きます

学生の頃、

勉強してなかったことが

悔やまれます

 

「ああいう古い文化、

この『十地経』でも

同じことだけど、

現代人の考えを輸入する

のは、非常に、

現代人の考えで古典を読む

のなら読まんのと同じこと

なんです。

 

何も別に古いものを

読まんで新しいものを

読んだ方がいいんです。

我々、

古いものを読むのは

現代人というものが

そこから教えを見出そうと

するから。

 

だから我々は

無になって見なければ

いけないんです、古典は。

自分を空にしてね。

 

自分の予定概念で、

現代人の頭に合うように

読んどった日には、

読まんのと同じことです

 

我々が無になるという

ことは、

現代が行き詰まるという

ところに立つからです。

現代人が、

真に現代のために、

耳を澄ませると。

 

自分の主張をやめてね。

それでないと古典は

読めんのじゃないかと

思いますね。」

 

簡単そうでなかなか難しい

どうしても自分の考えで

読み、理解して、

考えてしまいます。

この講義でも

安田先生は

よく政治のことを話され

るのですが

私たちの見方と違って

どちらにも偏ることなく

見ていかれます

 

ちょうど講義の頃も

石油問題で田中角栄さんも

困っておられたようですが

そのことも

ただ政治の話ではなく

宗教という立場に立って

話していかれます

アジアの寛容性と

アラブの非寛容性という

表面的でなく

その宗教の起こる起源から

見ていかれるという。

 

私たちの好き嫌いの

立場では

ものごとの真の姿は

見えてこないのです。

 

よく、「人間釈迦」

というような話があります

けれど、どうもそれでは

本当のお釈迦さまの姿は

分からないような

気がします。

 

人間ではあるけど

人間を超えて仏になった

人間として釈迦を見ても

分からないし

まして、

自分の悩みを解く課題

にもならないのです。

 

先日もテレビで

釈迦涅槃像を見て

寝仏(ねぼとけ)とか

死んだ仏の姿とか

なんとも、

宗教性の微塵も

感じられない説明で

悲しくなります。

 

古典を読むときには

自分を無にして空になって

読んでいくという

ことが大事なのです

ですから、案外

読み下しを読むというより

原文をそのまま

漢字のまま読んでいく

繰り返し

先生の読み方をみると

舐めまわすというか

言葉を一つ一つ大切に

読んでいかれます。

 

この『十地経』も

第七地を約10年にも

渡り読んでいかれるのは

そういうことなのでしょう

読むたびに感動しながら

そういう根気強さ

まるで原生林を開墾する

そういう読み方です。

 

いまや、

この『十地経講義』も

現代の人にとっては

古典になりつつあるのかも

しれませんが。

 

 

 

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仏教の十戒

2024-03-25 18:16:13 | 十地経

戒律ともいい

詳しくは、戒と律に分けて

見ていきます

戒はシーラといい

自ら自分を自制していく

ということで、

律はビナヤといい

他からの軌範で自分を

持するものです

 

ですから、

モーゼの十戒は神律という

神からの軌範という意味が

強いようです

 

反対に仏教の十戒は

自らでもって自らを制する

お釈迦さまがこうしなさい

というより

そういうニュアンスが強い

ように思います

 

それで、私たちの行い

業(ごう)を三通りに分け

身体で行う(身)

口で行う(口)

心で考える(意)

というように十戒を

分けて考えます

身で行う 不殺生

     不偸盗

     不邪淫

口で行う 不妄語

     不綺語

     不悪口フアック

     不両舌

心で行う 不慳貪ケンドン

     不瞋恚シンニ

     不邪見ジャケン

となりますが

やはり、口は禍の元

といわれるように

口・ことばに関する諌めが

四つもあります

 

妄語という

嘘をついてはいけない

その場しのぎでついウソを

ついてしまうものですが

一つつくとそれを隠すため

また嘘をつくというように

ついには嘘八百という

ことになりかねません

すると

自分の人生そのものが

嘘の人生ということに

なりかねません

 

綺語(きご)というのは

綺はあやぎぬということで

綺語は直訳的には

美しい言葉ということです

が、ここでは偽りの飾った

言葉ということです

まあ、お世辞というか

今ではリップサービスとか

いいように思うのですが

あまり言いすぎると

自分の真心まで

失くしてしまうという

危険をはらんだ言葉です

 

不悪口、悪口と書いて

「ふあっく」と読みます

悪口ですが、

人の悪口は絶対に言わない

という人がおられます

しかし、

そういう人に限って

自分が悪口を言われると

烈火のごとく怒る人が

おられます

まあ、逆説的には

自分自身というもの

よくよく見れば

誉められるようなことを

しているわけでは

ありませんので、

悪口言われるような自分

でもあるわけです

そういうことも考えて

みなければなりません

 

不両舌は二枚舌です

離間語ともいいます

人と人との間を割く言葉

両方の人に都合のいい

ことを言って人の仲を

割く言葉です

 

こういう仏教でいう

言葉に関する戒は四つも

細かく分けてみている

のですが

モーゼの十戒では9番目の

隣人について偽証しては

いけないということに

当たるのでは

ないでしょうか。

 

そして、心に関するものは

不慳貪、不瞋恚、不邪見です

不慳貪(ふけんどん)

むさぼりです

不瞋恚(ふしんに)はいかり

不邪見はよこしまな見方

自分勝手なものの見方

 

このように十の戒を

三業という、身と口と心の

グループに分けてみています

こうやって

モーゼの十戒と見比べて

みると、モーゼの十戒は

仏教でいう戒と違う

神からの神律というような

戒というより律的な面が

強いようです

 

自分自身の問題とする

仏教の戒と

神との契約による戒とは

破れば罰がある

というような

厳しいものがあるようです

 

やはり宗教が生まれた

環境ということが大きく

作用しているように思い

ます。

 

 

 

 

 

 

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モーゼの十戒と仏教の十戒

2024-03-24 20:54:27 | 十地経

昔の映画で『十戒』という

ものがありました

その時、海が割れて

そこをモーゼに率いられた

民が渡っていくという場面

が話題でした。

ただその映画で気になった

のは、シナイ山でモーゼが

神から十戒を賜るという

場面です。

 

神をどのように表現する

のかということが、…

やはり光として表現し

声だけが響いてきました

「Ⅰam who Ⅰ am」

という声です

ずっと意味が分かりません

でした。

題字では

「我は在りて

   あるものなり」

と出てきましたのです。

神ということを

このように表現したのです

 

そこで、モーゼが

十戒を授かります

光が飛んできてその光が

石に刻むという場面です。

 

その内容は

1.主が唯一の神である

2.偶像を作ってはならない

3.神の名をみだりに

 唱えてはならない

4.安息日を守ること

5.父母を敬うこと

6.殺人をしてはならない

7.姦淫をしてはならない

8.盗んではいけない

9.隣人について偽証しては

 いけない

10.隣人の家や財産を

 むさぼってはいけない

 

ということです

仏教と似ているところも

あるのですが

根本的に違うのは

Ten Commandments

というように英語では

いいます

command は命令という

意味ですから、

十戒は神からの命令

という意味あいがある

ように思います。

 

仏教の十戒は

身と口と心という三つの

グループに分けて考えます

身に関わるものに

1.不殺生

2.不偸盗

3.不邪淫

の三つがあります。

ここの所はモーゼの十戒と

同じです

 

ただもう少し内面的に

捉えます

殺人ではなく不殺生です

仏教の場合は

一切の命を取っては

ならないということです。

 

ここに大きな矛盾が

出てきます

すべての命というと

食べることが出来なく

なります

食べれば殺生をしてしまい

ます

では、食べないというと

自分を殺生してしまいます

 

この矛盾をどうするのか

 

一つのヒントとして

鎌倉時代に真言宗中興の祖

といわれる覚鑁(かくばん)

という密厳院懺悔発露の文

(ミツゴンインサンゲホツロノモン)

の中に

「我等懺悔(さんげ)す 

無始よりこのかた妄想に

纏われて衆罪を造る」

という一文があります

 

「無始よりこのかた」

人が生まれる以前から

無明という妄想によって

罪を造っていたのだ

という深い懺悔です

 

仏教では「さんげ」と読み

「ざんげ」とは濁りません

これは、インドの

クシャマという言葉を

そのまま音写したのです

ですから、懺悔には

懺悔したからそれで罪は

なくなるというのではなく

 

罪という意識をずっと

重たく受け止めて

引き受けていくという

罪を背負って生きていく

という

そこに深い自重が出てくる

そこに何か重たいものが

あるのです

 

神の言葉を守るという

コマンド(命令)と

受け止めるのですから

そこには神との約束が

重要なポイントです

 

神との契約による戒と

自分の問題として受け止め

守れないことを知りつつ

守れない自分を重く

受け止める

というところに

罪というものの受け止め方

戒律の受け止めかた

の違いがあるようです。

 

まあ、ええ加減な

捉え方ですので、

自分なりに考えてみるのも

面白いと思います。

 

 

 

 

 

 

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乳と水との流れる土地

2024-03-23 20:46:01 | 十地経

安田先生は若い頃

キリスト教も勉強されて

やはり、仏教との比較も

しながら、その宗教の

違いも説いていかれます

ここの講義は

「厳しさ」ということから

宗教性の違いを

述べていかれます。

 

この講義のなされた時が

昭和49年ですから

田中角栄さんが首相の時

この頃も、石油問題が

起こっていた時です

 

「イスラム、それから

ユダヤ教ね。

同じ場所に発生してます。

一方はユーフラティスの

文化と一方はナイルの文化

との間に挟まれた地帯。

緑があるのはその二つしか

ないんです。

ナイルの河畔と、

ユーフラティスの河畔と。

だからあの地区というのは

二つの勢力の

大きな大国の間の争奪戦。

それがあのユダヤの

旧約聖書が代表しとる

特異な歴史が出でいる

所以です。

 

あの時、両方に攻められて

両方の力の中に圧迫されて

いた民族を、

激励するのが預言者です。

預言者の文化です。

それはあの厳しい世界に

生きたんだ。砂漠地帯に。

 

向うでは、

自然を愛するというような

ことはありえないんです。

自然は何か人間をね、

恐怖するね、

怪物なんだから。

山の格好から見ても。

なんというか、

ちょっと形容してみよう

のないほど、すごい、

形態を持っているんです。

砂漠の山というのは。

 

『出エジプト記』という

のがありまして、

モーセがですね、

イスラエルの民族を

引き連れて、ヨルダンに

入っていくところで。

 

モーセの十戒ですね

あれは仏教の戒と違って

それは神律ですね。

神の声という言葉ですから

 

あの、シナイ半島なんかの

山を見ると、

砂漠地帯で、それは、

水もなければ草もない

ところです。

そこで、

憧れの世界というものを

「乳と水の流れる土地」

という言葉で表しとるんです

水があると草が生える。

草が生えると牧畜が出来る

というわけで、

あれが向こうの浄土という

オアシスを表す言葉です。

 

乳と水の流れる土地

というのは

人間の渇望を結晶した言葉

です。

その憧れの土地を

もう、絶望してですね、

もうこの苦しさには

耐えられないと。

ここでしんでしまおうと

絶望です。

 

その民族を引き立てる

というときには、

「何言うか」

という以外にないんです

甘い言葉で約束するわけに

はいかんのです。

𠮟り飛ばすわけです、

神の権威で。

それで、あの、

民族の絶望から救った。

人間が自分に絶望して

しまうんだ。

それを、なんていうか

立ち上がらせる厳しい言葉

そこから厳しさが出てくる

とてもそりゃ

仏教なんかで考えられる

ようなものじゃない。

 

まあ、注意してみれば

分かるように、

キリスト教が伝播した

ところは、

それ以前にあった古代文化

が全体根こそぎ消えて

しまった。

それはもっといえば、

味方でないものは

敵なんですよ。

敵でないもの、その中間の

友達というものは

ないんです。」

 

まあ、こういう話しが

続きます。

それであらためて

イスラエル、出エジプト記

預言者、十戒、キリスト、

イエス、などなど

調べてみると

知っているようで知らない

ことばかりで

現在の問題の歴史的背景を

少しばかり理解できる

ような気がします。

 

宗教ということも

起こったその歴史、場所

時代ということで

随分と変わってくる

もので、私たちが考える

宗教ということは

一概には言えないのです。

やはり、知り、理解する

ということが必要な

気がしますが

相手の立場に立って

理解することは不可能な

気もします。

 

難しい問題です。

 

 

 

 

 

 

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罪の意識

2024-03-20 20:07:10 | 十地経

暑さ寒さも彼岸まで

というものの

彼岸の中日は

各地で荒れ模様の様子です

ある面

迷いから覚める

ということは雲が晴れて

すっきりとした天気

ということではなく

雨かもしれないし

風の強い荒れ模様かも

知れないのです

 

ですから、覚める

ということはそういうこと

が分かるということです

晴れとは限らない

雨嵐かも知れない

迷いといのは

今晴れなのか雨なのか

そういうことが分からない

ということです

 

彼岸、彼の岸

つまり憧れの安心できる

そういう世界のことで

その反対は此岸・此の岸

という迷いの世界を

表しています

 

宗教の世界も考え方で

浅い宗教もあれば

深い宗教というものも

あります

その区別ということは、

講義では

 

「宗教の意識ということを

もってくると、罪という

ことがある。

罪の意識というような

ことがある。

宗教の意識というものの

深さは、どれだけ

深く罪ということを

とらえているかと

いうことにある。

 

そういうことがないと

いつでも一番深いものが

一番浅いものに堕落して

いくということがある。」

 

というように、

 

「そこでキリスト教では

信仰上の罪を神話的に

説いている。

アダムとイブがエデンの園

で食べてはならないという

林檎を食べた。

その智慧の実を食べた

ことから罪がはじまった

という。

 

果実を食べたということが

なぜ罪か。

罪とは何か。

罪とはどこにできるか

ということが問題になった

ルターが精読したという

『ゲルマニカ』という書物

がある。

神秘主義的なもので

禅に近いものである。

 

林檎を食べてよいか

わるいかは分別である。

善悪の分別がなければ

林檎をどれだけ食べた

からといって

罪ということはない。

しかし、

分別があるならば、

エデンの園にいても地獄

であるというのである。」

 

なかなか面白い問題です

林檎を食べたら

良いか悪いかと考える

分別が罪というのです

ですから、

仏教では

「人間は自分の分別で

生きていると考える、

それが最高の罪である」

といいます。

 

煩悩が罪ではなく

分別が罪であるという

そしてまた

罪は量ではない質である

ともいいます。

 

私たちの不安は

本当の世界から離れている

からである。

しかしまた、

自分の力が及ばない

という自覚を通して

本来の世界に呼び戻される。

 

ですから、ある面では

私たちが不安をもつ

ということは

私たちを本当の世界に

呼び戻そうとする

微かな呼びかけかも

しれません。

 

罪の意識ということも

そういうことを

感じなかったら

それはそれでいいのかも

しれません

ただ、気になる

自分自身の罪ということを

 

そういう感じ取る意識が

深いということでしょう

そこに

彼岸という(浄土)も

感じ取ることができるし

此岸という迷いの世界も

嫌な世界ではなく

浄土へ導く

手掛かりとなる

大きなチャンスを持った

世界に変わってくると

思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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