本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

メタ・meta

2021-10-31 19:53:01 | 住職の活動日記

Facebook が Meta(メタ)

と名前を変えたという

記事が出ていました

 

私にとってはこのことを聞いて

気にかかったのは

分からない言葉の一つ

メタフィジカルです

形而上学と訳されています

この訳をされたのは

井上哲次郎という人

ちょうど、渋沢栄一さんと

同時代の人です

 

安田先生の講義でも

当たり前のように出てくる

形而上学という言葉

どうもしっくりきません

どこがどうなって

メタフィジカルが形而上学に

なるのか

 

METAPHYICAL

metaを取るとフィジカル

Physical は身体とか肉体と

いう意味で

あの選手はフィジカルが

弱いとかいいます

反対に心が強いというと

メンタルという表現です

 

広辞苑によると

ギリシャ語の

自然科学の後に置かれた書

(ta meta ta fhysika)

の意で、存在の根本原理を

論じた書を

自然学書の後に配列した

ことに由来する

ということです

 

ですから、

存在の根本原理が

メタフィジカルということで

それを井上哲次郎は

形而上学と訳したのです

 

上があるなら下もあるかと

見ると

形而下という言葉もあります

これも広辞苑を見ると

「形而上なる者は之を道と謂い

形而下なる者は之を器と謂う」

とあります

形をそなえるもの。有形。

という意味です。

 

井上哲次郎という方も

ずいぶん苦労されて

フィジカル、メタフィジカル

を中国の易経から

形而下、形而上と訳されたのです

 

こうやって見てくると

なんとなく

精神面をあらわすのが

形而上学、メタフィジカル

ということで

物質をあらわすのが

形而下、フィジカル

と、大雑把に解しても

いいのではないかと

哲学的にはもっと深い意味を

持った言葉ですが

 

また

範疇という言葉も難しく

カテゴリー(category)を

西周ニシアマネという人が

作った訳語で

同じく西周という人も

井上哲次郎よりも30年ほど

前に生まれた方です

 

書経の洪範九疇という言葉が

もとになっています

やはり形而上と同じように

存在(ある)ということを

表す基本的構造を表す術語

 

仏教でいう

真如、とか、如という

あり方の根本を表す言葉に

通じるものがあるように

思います

 

この頃は政治の世界も

精神界も元気があって

新しい外国の言葉を

いかに日本のものにしようか

という学問に対する

前向きな姿勢のようなものを

窺い知るようです

 

形而上学にしろ範疇にしろ

どうしても頭にしっくり

入ってこない言葉です

こうやって慣れていくしか

ないのかもしれませんが

よく出てくる言葉なので

一応おさえておかないと

いけないように

思いましたので…。

 

 

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慈・悲・喜・捨の四無量心

2021-10-29 20:45:04 | 十地経

「捨」シャ、という

すてる、という

意味もありますが

断捨離というような

そろそろ身軽になってと

遺品整理ではないですが

捨て去っていくという作業

ということもあって

この捨という字が気になり

ついつい読んでいくと

目に付くものです。

 

本来の意味は

ウペークシャーという言葉の

訳で、平静、無関心の意味に

なります

唯識では

惛沈コンジン・掉挙ジョウコの

二つの心を離れることを

いいます

惛沈という深く沈みこむ心

そして掉挙はウキウキする心

そういう心が定ジョウに入る

さまたげとなるのです

その二つの心を離れることを

「捨」といいます

 

それから、十地経講義で

出てきたのは

四無量心の中の

慈・悲・喜・捨の捨です

 

「この無量というのを

大という字で表す。

大慈・大悲・大喜・大捨と。

大いなるという意味です。

つまり無量ということです。

一番有名なのは『涅槃経』に

出ています。

仏子地ですね。

 

釈尊の一人息子がいた

羅喉羅ラゴラというね。

一切衆生を一子の如く愛する

というものです、一子地。

一子地というのがそういう、

慈悲喜捨、大悲…四無量心の

ことを一子地というんです。

その地に立つというんだね

 

親のところにおって

子どもを憐れんどるんじゃ

ない。

一切の人類の外にみて

それに大悲心を起こしとる

というようなもんなら、

そんなら慈善みたいな

ものです。

そういうような、

高いところから

低いところを憐れむ

というものは、

それは同情です。

同情は非常に傲慢な心

なんだ。

人を同情するというような

ことをいうのは。

そうじゃないんだ。

衆生そのものになる

ということが大悲心なんです

 

捨というのは

悲や喜というようなものの

両端を捨てること。

平等という意味です。

悲喜平等ということが

捨という意味です。

だから、

悲しむといっても

衆生を悲しむのではない。

衆生と悲しみを共にする

という意味です。

喜ぶといっても、

衆生の喜びをもって

我が喜びとするという意味

です。

共にということが

大事なんです。

それで捨という。

 

なんか、捨というと

知らん顔してるような

意味に見えるけど、

さっき言った無心という

ような意味です。

けど実はそれは無心で

冷たいんじゃない。

それがほのぼのとした、

なんというか

無心のように見えるところに

静かなるあたたかみ

というものが表してあるんだ

と、

こういうわけで

慈というところに

最後にきたわけ。

慈というのが一番目立たん

ですけど、

ものを育むといいうですね

 

そいう時には何か

冷たいですけど、ただ冷たい

冷淡という意味じゃない。

内面的な情熱というものを

内に包んだ一つの平等の心と、

いう意味で慈ということに

なるわけです。」

 

「人の喜びをもって

 我が喜びとする」

ということが

三浦先生の教育の基本だった

ように思います。

この原点は十地経の中の

四無量心にあったのです

そういうことで、

このことは常に幼稚園、

高校を問わずに

出てきた問題なのです。

 

そういう一言を

ただ言葉として受け取らずに

実践されたところに

大きな意味があると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

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急作急修して頭燃をはらうがごとく

2021-10-26 20:27:46 | 十地経

頭に火が付いた

それは大変とすぐさま

払いのけようとする

そのように

宗教問題というのは

差し迫った問題です

 

ところが

一面には「夏炉冬扇」という

言葉もあり

ある人の命日を「炉扇忌」と

いいます

要らんもんだという

仏法の問題も世間の忙しさ

から見れば

損得の世界から見れば

必要のないことなのです

それで、自分の命日を

「炉扇忌」とされたのです

 

しかしまた

第一義諦ということがあり

世俗諦に対して

何よりもまず

第一に考えるべき問題

そのことが解決しなかったら

生きている意味がなくなる

そういう問題があります

 

講義では

「『急作急修して

頭燃をはらうがごとく

すれども』ということがある

頭に火のついたのを

消すようにという。

そういうのが、つまり、

そういう問題が

人間を実存に追いやる問題

ですね。

頭に火がついとるのを

消さずにはおれんという

問題。

 

人間というものの構造が

そうなんだ。

それだからして、

知らんといって、

我々の問題は無いという

こともいえんやろう。

頭に火がついたように

きつうも思わんけれども、

それではけろっとしとる

わけにもいかんだろうと。

 

ところがそこに

なんか忘れたという不安が

ありゃせんかという、

景気のいいこといっとても

その裏には

不気味なものがあるやろう

それがつまり

知っとるということなんだ。

我々の意識では知らんけど

底の方で知っとるんです

底の方で知るという。

 

その底というのは

どういう具合にいったら

いいかしらないけど、

そういうのはね、

身体が知る

と言った方が一番いいんです

こころは知らん。

身体が知っとる。」

 

その内その内と

思っていると

あっという間にお別れ

という時がやって来ます

落ち着いたら考えよと

思っていると

落ち着く暇もなく

やってくるのが

この不気味な問題です。

 

心はいくらでも誤魔化しが

ききますが

身体というものは

何かしら本能として

知ってるのでしょう

だから不気味なのです。

 

そういうことを

唯識では阿頼耶識アラヤシキ

というようです。

 

忙しさにかまけて

忙しい忙しいというと

許されるような

経済の力というものは

自分を見失わせるものです

儲けた損した

景気のいい話ですが

何かしら

心の底では何か忘れ物

しているような

これでいいのだろうかという

そういう静かな叫びが

あるようです。

 

その叫びに耳を傾けるか

先延ばしにしているかで

人生の意味は大きく

変わってくるようです。

必要ないような問題ですが

分からなかったら

それこそ大きな忘れ物をして

人生の幕を下ろさなければ

いけないときがくるようです

 

 

 

 

 

 

 

 

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空ということは…如去・如来

2021-10-25 19:44:10 | 十地経

「如」ということは

tathâ タター、といって

もののありのままのすがた

という意味です

ものがあるが如くに

おかれているあり方、で

経典では、如如とか真如とか

如実とも訳されます。

最近では、色々な場所で

「ありのまま」

「ありのままのすがた」

という言葉が出てきます。

 

それで講義では

「空とは考えられんもの。

考えでつかむものじゃない。

つまり

絶対的に思弁的に取り扱う

ことを禁止する言葉です。

だから、空という考えは

空じゃないんです。

それは向こうにおいて、

思弁というのは

向こうにおいて考える

ことですから、

そういうんじゃいけないんで

あって、

考えられるものと

考えるものとを

区別してはいけないという。

 

そうすると、

空が分かるということは

自分が空になることなんです

自分が空になること。

あるいは空が自分に、

空が自分になることです。

 

つまり

私が空、空というか、

さっき言った如というか

私が如、

如来になることなんです。

 

如を考えとる私が

考えるんでなしにですね、

私自身が如のはたらきとなる

ことですね。

あるいは、

如去といっていってもいいです

私が如に去ること、

つまり如となることであり、

如が私となることである。

どっちでもいい。

如去・如来。

そういう形でないと、

表せないものが空という。」

 

というように出ています

関係ないかもしれませんが

読んでいて思い出すのは

お寺での修行時代

一緒にいた

体操部監督の辻野先生

朝は全員で掃除します

先生も生徒も関係なくです

その掃除を見ていた

師匠からの一言

「辻野を見てみい

箒と体が一緒だろう

おまえの掃除は

体と箒がバラバラだ」

本人は一生懸命やっている

つもりなんですが… ?

 

見る人から見れば

心の中を見透かされている

というか

身体は一生懸命のつもりが

心の中は早く終わって

朝飯にありつけたい

というが分かったのでしょう

 

体操をやっている人は

身体と心が一つにならないと

怪我してしまいます

そういうことが

自ずから体と心が一つになる

練習をしているのです

 

そういう状態は

いろいろの分別のとれた

それこそ、空の状態

なのかもしれません。

 

如来とは仏のことですが

真理(如)に随って来り、

真如より現れ出でた者、

ということですから

人間つまり自分の本当の姿

ありのままのすがたから

出てきたものが如来であり

その本当の自分に帰っていく

ところが如去といわれる

ものなのでしょう。

 

ところが、

そのありのままのすがた

ということが

わからないのです。

何の飾り気もない

言いたいことを言い

したいことをすることが

ありのままではないようです

 

そこには自分自身を見抜く

静かなる智慧がなければ

いけないようです

誰でしたか

クールヘッドウォームハート

という方が

いらっしゃいました

冷徹な智慧と温かい心が

なければならないようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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般若と唯識の教学

2021-10-22 20:26:18 | 十地経

ここのところ難解なことが

続きます

 

「空性という、

これは唯識と般若の教学で

教学の違いに過ぎんけど、

龍樹の方の教学は、

空即ち性ショウという。

空が即ち性だ。

空という言葉自身がこれが

存在の法性なんだと。

こういうのが般若です。

空が即ち性やという。

だからここに即という字が

入る。

 

唯識の考え方では

それは違うね。

空が性でない。

空所顕やね。

空によって、

空に顕されたる性という

意味だと。

ちょと違うね。

空が性でないんで、

空ということを通して

顕されるものが性やという。

 

言い方が違いますね。

その場合は文法上ね、

のという字で表すんです。

空即性といわずに、

空の性と、

こういうような言い方になる

これは依主釈エシュシャク

といいますが、

前の方は持業釈ジゴッシャク

というて文法上の違い。」

 

インドの言葉の文法は

非常に複雑で

名詞も8格に変化するし

六合釈ロクガッシャクといって

この言葉はリクガッシャク

ともいいますが

複合語を解釈する

六種の方法で

大学で習ったことを

思い出しますが

先生はこういうことも

頭に入っていることが

驚きです。

 

その文法上の解釈で

般若の教学か唯識の教学か

違ってくるところが

面白いのですが

「山寺」が「山における寺」

というのが依主釈で

「高山」というのが

「高い山」というのが持業釈

というのです

当たり前のようにも

思えるのですが

そういうことを六種に分けて

解釈するのが「六合釈」

ということで

 

空の性というのか

空即性かで

般若か唯識かが違ってくる

ちょっとした違いですけど

教学となると

まったく正反対のような

教えになってくるところが

面白いものです

 

「空という字がですね、

もう、性そのものを

表現しとるんですわ。

非常に直覚的な、…

直覚的なんですね

般若の教学というものは。

唯識の方は非常に記述的です

即ということを

あまり言わんのですがですね

 

…だからして、

これは破邪でしょう。

やっぱり否定だから。

これは正しいという字で

顕正というですね。

破邪……間違いを破るという

ことが正しさを顕す

というのだけれども。

破邪即ち顕正やという。

破邪が顕正。

否定が即ち肯定なんだと。

(というのが般若です)

 

唯識の方はそうじゃない。

破邪は破邪、

顕正は顕正なんだと。

おまえの言っとることは

ただ破邪だけだと、

その破邪を通して

何を顕すかということを

言ってみいと、

こういう具合にいくのが

唯識です。

唯識論にくれば、

即という字をあまり使わん。

 

空という字を使うという

意味は何であるかというと

考えられんもんだというんです

考えでつかむものじゃない

んだという。

つまり絶対に思弁的に

取り扱うことを禁止する

言葉です。

 

だから空という考えは

空じゃないんです。

思弁というのは

向こうにおいて考えること

ですから。

 

空が分かるということは

自分が空になることなんです

自分が空になること。

あるいは空が自分に、

空が自分になることですわ。」

 

というように続きます。

なかなか難解です

でも、書いたり読んだり

していると

この言葉にのめり込んで

いけるような

本当の言葉ですから

分からんのが当たり前の

ような気がしますが

分からんといって

そこを逃げては

なお分からんし

分かる分からんを超えて

言葉に浸っていくことも

大事なような気がします。

 

 

 

 

 

 

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戯論寂滅(けろんじゃくめつ)

2021-10-21 20:02:48 | 十地経

この言葉も、その当時

お寺の中でブームになった

のです

ある先輩から

「戯論寂滅!

グダグダ言わずさっさと

仕事せい!」

とよく言われました。

理屈よりも仕事、

といっても掃除なのですが

 

今再びこうやって

文字としてこの言葉を

読み直してみると

その当時の事とは

内容も違っているようです

 

戯という字も普通には

ギと読みます

遊戯とかいう言葉があります

意味はたわむれる

ということです

 

講義では

「龍樹が戯論寂滅という。

普通に寂滅といったら

涅槃のことを寂滅という。

戯論の涅槃というんですわ。

煩悩の涅槃というんじゃない

貪欲・瞋恚・愚痴と

いうようなものが

寂滅したという、

そういう涅槃じゃないんです

煩悩が寂滅した

というのじゃない。

分別が寂滅したという

意味です。

それが大乗の涅槃。

ただ

煩悩が寂滅したというのは

小乗の涅槃です。

大乗の涅槃はそうじゃない

煩悩はあっても

差支えないというんです

分別が寂滅すれば

煩悩はそのまま菩提であると

こういうんです。」

 

ここから話が展開して

いくのですが、

 

「ルターが非常に愛読した

という

『ゲルマニカテオロギア』

という本があるんです

短い本です。

けど、著者が分からん。

 

その一番初めに、

原罪の問題に触れとるんだ

アダムはイブの誘惑に

かかってリンゴを食った。

そのために、

パラダイスを失ったと。

故郷を失ったんだ。

存在の故郷を失ったんです

知恵の木の実を食ってね

 

それに対してその著者は

リンゴを食って

終わりじゃない。

食ってはならんと

禁ぜられたるものを食って

それで罰せられた

ということですわね。

食ってはならんものを

食ったと。

 

ところが

食っていいとか

食ってはならんとかと

いうことを捨てるなら

何ぼ食っても差し支えない

という。

ふふふ、話が面白いね。

 

食ってはならんとか

食っていいとかという考えを

否定するならですね

リンゴをいかに食べても

パラダイスだという。

 

そこらはまあ、

キリスト教にとってはそれは

革命的な思想じゃないかね。

面白い考えでしょ。

それでキリスト教の伝統の

オーソドキシーでは、

ミスティークということを

非常に嫌うんです。

 

つまり、

神というようなものまで

否定するから。

それで、

ちょうど今いったように、

食っては悪いとか、

食ってはいいとか

というもの、

それを戯論というんです。

戯論寂滅ですわ。」

 

と続くのですが、

ここらのページはどうも

スッキリ入ってこなくて

このページだけでも

数日かかりました。

 

食べていいとか

悪いというのが分別で

その分別がなかったら

食べようが食べまいが

関係ないということでしょう

食ったら悪いという

思いが分別で

そういうことに悩むのだ

思います。

 

辞書には

戯論とは、

正しくない無益な言論。

とあります。

これに愛論と見論のがあり

愛着の心よりするのが愛論で

道理に暗い偏見よりするのが

見論とあります。

「戯」には、もてあそぶ

という意味もありますから

やはり無益な言論

ということでしょう。

 

往ったり来たりで

なんとか思い出しながら

何回か読み直していると

薄っすらと分かってくる

ようです。

 

 

 

 

 

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スモール イズ ビューティフル

2021-10-20 19:26:46 | 住職の活動日記

この言葉は

ドイツ人で後にイギリスに

帰化したシューマッハー

という方のものです

この方は経済学者で

本の題名にもなった

『small is beautiful』

のなかで、

無限に拡大する経済は

必ず破綻する、

ということを唱えら、

その本の中に

「仏教経済学」という

一章を設けておられます

「唯物主義者が主として

モノに関心を払うのに対し

仏教徒は解脱(さとり)に

主たる関心を向ける。

だが、仏教は中道であるから

けっして物的な福祉を

敵視しはしない。

解脱を妨げるのは

富そのものではなく、

富への執着なのである。」

 

と述べておられます。

お釈迦さまも、

人間は本来無一物

ということで

遊行される時もその持ち物は

頭陀袋の中に十八物という

七つ道具のような

鉢とか水を濾す布とか

敷物とかいった類です。

 

頭陀ズダという言葉も

衣・食・住に対する

貪着を棄てて心身を修練する

ことなのです

その中には衣は三衣といって

衣と袈裟だけ

食事は一日一食

寝るのは墓場

というような決まりが

あるようです

 

物そのものではなく

物に対する執着心が問題だと

シューマッハーという方も

述べておられます

 

物と心というと

使い捨ての時代から

今はSDGsというか

物に対しても如何に再生可能な

使い方をするかが

問題になっています

しかし、

こころ、こころと叫ばれますが

具体的には、「心を大切に」

といってもその具体策が

浮かびません

ある面では心を表現するのに

物ということが大きな役割を

はたします

ほんの気持ちですが

といって

土産なり物を渡します

人と人とのつながりには

物は大きなはたらきをします

 

ところがその執着となると

そこが難しいところで

今はその捨てるということで

何かしらの精神的苦痛が

あるようです

それほど物に対する執着心は

強いものです

捨てがたきを棄て

捨ててしまう勿体なさを偲び

そこを泣く泣く捨ててしまう

 

そういう物も傍から見れば

ただのごみなのでしょう

物というものも

立場が変わると一変します

使ていたりまたは

また使うかもしれないと

思っている人にはお宝です

しかし、不必要な人には

何でもない廃棄物なのです

 

しかし不思議なもので

捨てだすと何かしら

すっきりしたような

また

新しく生まれ変われるような

そのような気もしてきます

 

まあ、これからは

ものをみても

素晴らしいな、いいもの

と思うだけで

絶対に買わないことです

持てば執着心が湧いてくるし

離すのに一苦労です

持ったまま死ねば

これもまた

はた迷惑なことになります

 

しかし、

本来無一物で

生まれてきたのに

いかに多くの物を持っている

ことでしょう

閻魔様にお土産で

持っていけるのなら

願ったり叶ったりですが

持っていける訳では

ありません

この世のことはこの世で

解決していかなければ

ならないというのが

掟のようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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不純な布施

2021-10-18 19:59:42 | 住職の活動日記

お布施というと

お参りして頂いた時に

お寺さんに差し上げる

お布施が浮かびますが

お布施にも

財施と法施があります

 

布施のことはインドの言葉で

ダーナといいます

それが檀那と音写され

もう普通の一般語として

「うちの旦那が」

というように使います

 

まあ、

お布施(給料)を持って帰る

人ということで

そう呼んだのです

また、家を建てる時

家主さんのことをお施主さん

ともいいます

こういう言い方も一般的に

なっています

ですから布施という言葉も

ある面ではもう一般語に

なっています

 

 

とことろが

布施にもそういう財施とは

別に無財の布施

というものがあって

笑顔であったり

優しい言葉使いとか

席を譲るというような

無財の七施というものが

あります

 

ところがです

今日読んでいたら

布施にも不純な布施が

あるということを知り

それは正に

私にぴったりのような

ドキッとする内容でした

 

それは同じように

七つあります

① 随至施(ずいしせ)

あまりにしつこく

乞われるので断り切れずに

する布施。

 

② 怖畏施(ふいせ)

それをしないと具合が悪く

なりそうなので、

しかたなくする布施。

 

③ 報恩施(ほうおんせ)

恩返しのためにする布施。

 

④ 求報施(ぐほうせ)

返礼を期待してする布施。

 

⑤ 習先施(しゅうせんせ)

習慣であり、

先例にもとづいてする布施。

 

⑥ 希天施(けてんせ)

その功徳によって

天界に生まれたいと希望して

する布施。

 

⑦ 要名施(ようみょうせ)

名声を高めるために

する布施。

 

という七つですが

どの一つを取ってみても

当てはまります。

 

六波羅蜜のなかの

第一番目が布施波羅蜜です

波羅蜜という修行の一番目が

布施ということです

象徴的なのは

施身聞偈セシンモンゲと

捨身飼虎シャシンシコという

自分の身を施すという

教えのためならまだしも

飢えた虎に自分の身を捧げる

という、なんとも

今の時代には考えられない

ような出来事です

 

そういうことが

布施の極致でしょう

それからすると

私たちがしている

布施の真似事など

正に不純そのもののような

気がします

 

しかし、

最初から真なる布施ができる

わけがありません

布施の真似事から始め

それが本物になるのでしょう

まねる、まねる、は、まなぶ

人間は本当のことは

初めから出来ないのです

まねごとをやり続けるうち

やがて本物になる

 

そのような気がします。

 

 

 

 

 

 

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存在自身というものが如来ではないか

2021-10-16 20:39:11 | 十地経

なかなか安田先生の講義は

片手間で読んでも

身に入ってきません

行きつ戻りつしながら

読み書きしていると

少しわかってくるような

やはり先生の講義は

聞いている私たちを

三昧の世界に導いてくれる

そういうことがあって

分からなくても

なにかしら響いてくるのです

 

そしてまた

哲学用語も出てきて

なお更分からないようにも

思うのですが

仏教だけで済ますと

厳密性が欠けてくる

ということがあるようです

 

如、如来ということが

今日のところで

出てきたのですが

「如」tathaタターの訳

如如、真如、如実ともいう

あらゆるものごとについて

変わることのない本性。

と、辞書にはあります

 

「如来」は

tathagataタターガタ

如去とも訳す

真理に随って来たり

真如より現れ出た者、

すなわち仏陀のこと。

というように出ています。

 

講義では

「存在自身というものが

僕は如来じゃないかと

思うですね。

如来というところに

初めて存在自身になった。」

 

こういう言葉も驚きです

仏とか如来というと

私たちとは別次元の人(佛)

というように思うのですが

そうではなく

人間の本当のあり方、

存在自身を表現した人、

さとりとか言わずに

仏ということを表した

ように思います

 

「もう存在自身を表す概念

として如ぐらい立派な言葉は

ないじゃないかと思うです。

漢訳の字ですけども、

tathâというですね。

tat(それ)という字がですね

こういうのがその、

誰にあっても、いつあっても、

どこにあっても

変わらんというような。

そういうのが

こう、tathâということの

意味です。

 

変わらないということを

ですね。

いつでも自己自身だと

いうような。

最も徹底した意味の

自己同一を表しとる概念

でしょう。

ごとしというから

何か二つのものがですね

AがBのごとしと

こういう具合に

いうんじゃないんであって

如というから

それはAがAというんです

それは一つの同一律でしょ。」

 

ここも難しい表現です

ひとつには

人間が全く異質の仏という

ものになるのではなく

人間のままが仏という

では人間を延長していけば

仏かというと

そうではなく

本質的には変わらない

のですが

エゴが破れるというか

そこには大きな転換点が

あります

 

本当の人間の姿というもの

存在自身は

仏性を持った存在でしょう

それが煩悩という

撥水加工されたような

バリアを持っていて

本当のことを受け入れない

ということがあります

ですから、

修行というのは

そのバリアを破ることかも

しれません。

 

なかなか、存在というと

その言葉聞いただけでも

頭に入ってこないものが

ありますが

こういう言葉にも慣れないと

いけないように思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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真理は増えたり減ったりしない

2021-10-15 20:17:24 | 十地経

般若心経にも

『空相不生不滅不垢不浄

不増不減』

というように出てきます

空の相は生ぜず滅せず

そして、不増不減

増えたり減ったりしない

とあります

 

簡単には

人の心は偏っていて

他人を見る場合

好きであればプラスして見る

し、反対に嫌いであれば

マイナスして見る

好きになるとあばたもえくぼ

に見えてくるように

嫌いと思うと

○○憎けりゃ袈裟まで憎いと

いうことになってしまいます

 

そのように

その人自身そのものを見る

というのはなかなかできない

ものなのです

というように単純に

思っていたのですが

 

十地経講義を読んでみると

もっと重要な意味がある

ようです

この不増不減という言葉が

出てくるもとの言葉は

「有仏無仏常恒不変真如」

ということがあって

仏がこの世に出ようと

出まいと真如は変わらない

ということです

 

それには、私たちの傾向性で

真理もそれを得ると

その真理に愛着してしまう

すると汚れてしまう

ということが出ていました

 

「真理を愛着するんです。

真理というものと愛着とは

矛盾です。

愛着されんものが真理なんだ

真理を愛着すれば

真理自身はなにも減りゃせん

のです、愛着したために。

真理は自覚したために

増えるわけでもないし、

愛着したために減るわけでは

ない。

不増不減です。

真理の真理性は不増不減です

ただ愛着した者が

者自身がそこで汚れてしまう

わけです。」

 

というように出てきます。

真理という言葉は真如ともいい

先程の

「有仏無仏常恒不変真如」

ということがあって

この言葉は真如という言葉が

術語になる前の用例で、

のちに仏教の重要な術語に

なったといわけです。

 

「つまり仏が世に出興しても

それで真如が増えた

わけではない

また仏が世に出興しなくても

それによって

真如が減ったわけでもない。

我々が救われたといっても

真如が増えたわけでもない。

我々が救われないから

といって

真如が減ったわけでもない。

我々が救われるか

救われないかは無関係である

こういうのが真理そのもの

である。

 

「そのもの」は

ドイツ語でアンジッヒという

英語ではイットセルフ。

真理そのものは

ヴァールハイト・アンジッヒ

という。

究竟的クキョウテキな真理。

考えられた真理でもないし、

体験された真理でもない。

真理そのもの、

それを「究竟畢竟」クキョウヒッキョウ

という。

 

究竟に畢竟。

畢竟とは終わること。

ものの終わりを畢竟という。

無為に消えてしまって

終わるのではない。

根源的なものに、

究竟的なものに終わっていく

 

終わるということは

消えていくことではない。

かえって根源的なところに

帰っていく。

それがあるから

「究竟畢竟」という

言葉の使い方がある。」

 

何かしら

面倒なことのようですが

これは

私たちの傾向性という

真理とか真如、

空ということに愛着して

しまうという

そういうことを

明らかにしているのでしょう

 

真理それ自身

ヴァールハイト・アンジッヒ

わけもわからず

学生の頃は

この言葉の響きの良さに

心に残っている言葉です。

 

 

 

 

 

 

 

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