本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

JIJI散歩

2021-01-31 20:34:33 | 住職の活動日記

籠っているのも気持ちも滅入り

天気に誘われて少し歩きました。

 

 

階段を上がると立派な仁王門が

見えてきます

 

 

美しい三重塔もあり

美しい彩色の模様が

 

 

とても立派に描かれています

手水場の龍さまも

 

 

なかなか立派な姿で

普通は頭だけなのですが

ここは全体のお姿が拝見できます

 

 

なかなかの迫力で

こちらを見据えています。

 

 

本堂の屋根も修復が終わった

のでしょう飾り金具の金箔も

輝いています

 

 

舞台の修復も完成して

真新しい所と元の部分には

その上に古色を付けて覆って

あるようです

本堂も上がってお参りしました

以前、観音霊場巡礼では

観光客の雑踏の中で

皆で声をそろえて観音経を

上げたのを思い出します

 

 

本堂脇には観音経の一節が

掲げてあります

 

 

本堂をお参りして奥之院へ

ここからの景色も見事です

 

 

奥之院から更に迂回するように

進むと本堂が正面に見えてきます

 

 

そこにも小さな三重塔があり

ここも美しい彩色が施され

木々の中で際立っています

そこを進んで行くと

舞台の下に出てきます

 

 

下から見上げるこの木組みも

素晴らしいものです

この舞台を守る専門の方がいて

常に中に入り木組みの様子を

点検しているそうです

 

 

一回りしてもとの仁王門のところ

へ出てきます

 

 

椿か山茶花かどちらでしょう

今満開に咲いています

 

 

振り返ってみる景色もいい姿です

 

 

ここには顕彰碑もあり

美しいコントラストを見せて

います

 

下りていくと参道には

新旧の店があり

 

 

スヌーピーのチョコレイトの

店のようです

 

 

帰りはスヌーピーに挨拶して

約6000歩のJIJI散歩は

終了です

久しぶりに歩きました。

アップダウンで心地よい

筋肉痛があるようです。

 

 

 

 

 

 

 

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信仰と信心

2021-01-30 20:45:41 | 十地経

信仰と信心、

似たような言葉ですが

少し違いがあるようです。

広辞苑とかではほぼ同義語として

解釈されています。

しかし、

仏教辞典とかではやはり

もう少し詳しく書いてあります。

 

信仰といった場合の

「仰」はあおぐとかおおせ

という意味で、

ひざまずいた人が立っている人を

あおぎのぞんでいるさまを

表しています。

ですから、

神とかを仰ぎのぞむという

上下関係というか

絶対者に対して服している

ということなのでしょう。

 

ちょうど講義では

「西洋の宗教思想というものは

セム民族が見いだしたんであって

イスラエルとかキリスト教とか

これは今日まで世界宗教を代表

しとるでしょう、

ああいう厳しい宗教がね。

あれにはギリシャの哲学も

論理ではいかなかったんでしょう

不合理だといってもね、

キリスト教に有名な言葉が

ありますけど、

不合理なるが故に我信ずる、と

こういうように

居直り強盗みたいな話ですけど

不合理だから我信ずるんだと。

こういうような逆襲してくる

だけの力をもっとるんです。

 

だから仏教はそのどっちでも

ないんです。

不合理だから信じるというのが

仏教でもないしね。

仏教の信心じゃないです。

仏教の信心はやっぱり智慧です

正信というような、

正見の智慧、正見の信心ですから

だから、

世間で対話するから、

我々は信仰という言葉を

使うんですけど、

信仰というのは世間の言葉を

使うんであって仏教では、

使わんです。

信心とこう言います。」

 

さらに仏教辞典をみて見ると

信の反対は疑で、

疑いをはなれた清らかな心。

というように出てきます。

仏法僧の三宝及び因果の理を

信じることで、

仏道に入る第一歩とする。

とあります。

ですから、

絶対者を信じるという信仰と

違うようです。

 

私たちの心は疑いしかない

のですが、(疑心暗鬼の)

そういう疑いの心を

澄んだ清らかなのもにしていく

精神作用が信ということです

ですから、

「鰯の頭も信心から」

というような信とは違います。

先生も智慧といわれるように

明らかにもごとを正しく見抜く

力ですから

そこには修行の中に

五根の一番初めの信根があり

五力の中に信力がるように

疑いの心で自分勝手に物事見て

判断する心を清らかにしていく

ことが信ということです。

 

五根の根は勝れたハタラキ

ということですが

眼耳鼻舌身も五根ですが

ここでは修行の道筋の

三十七道品の中の五根で

信根・精進(勤)根・念根

定根・慧根を指しています。

同じように五力も

信力・勤力・念力(憶念)・定力

慧力(智慧)の五つです。

 

いろいろ出てきましたが

修行においても

まず清らかな心で信じる

ということが仏道修行の第一歩で

何でもかんでも信じればよい

というものではないようです。

 

 

 

 

 

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From Wife with Love

2021-01-29 20:15:55 | フラワー

久しぶりのフラワーアレンジ教室

今年初めてのようです

先生も京都代表になられたとか

なかなか忙しく

今はとびとびに開かれます。

もうそろそろ

季節の目玉としては

あのバレンタインデーです

ということで

 

 

ハートの形をした花が

活けられました

このハートの形にするというのが

苦労したそうですが

 

 

そのような形になっているように

見えます

暫くお花が活けられなかったので

ちょっと寂しい景色でした

 

 

この薔薇尽くしの花は

いっぺんに部屋の中を

明るくしてくれます

 

 

どこから見ても同じような

ものですが

久しぶりの花でしたので

あちこちから眺めています

 

 

こういう葉の上に

花が萌えいずるように活けられ

ているのです

 

 

真上から見てみると

こんな感じですが

ハートの形と思って見てください

 

007の「from Russia with Love」

をもじって花の題にしてみました

 

 

 

 

 

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解釈学

2021-01-28 17:18:42 | 十地経

仏教では経典というものがあって

今度はそれを解釈する論という

ものがあります。

三蔵というのは

その経と論それに戒律が加わって

経・律・論といい

この三つで膨大な経典を

分けています

この三蔵に通逹した人という

称号で三蔵法師といわれます。

 

『十地経』にも論があって

世親菩薩が著わした『十地経論』

というものがあります。

 

講義では

「この『十地経』は、別に唯識の

学問というわけじゃないけど、

世親はやっぱり瑜伽の論家

ですから、

経典というのは論じゃないけど

経典を解釈するときに、

論で解釈しとるわけです。

経典というものは、

大体いうと、

なんかそこに一貫して流れる

大精神というものに触れることが

経典なんでしょう。

その大きな精神に対する

感動を呼び起こすということが

経典というものの意味だろうと

思いますね。」

 

そこで、

解釈ということも論の中の

一つの大きな事業でしょう。

ということがあって

それに対比するように

西洋の解釈学というものを

引き合いに出しておられます。

 

「解釈学は起源をさかのぼれば

聖書解釈から始まっている。

その元祖はシュライエルマッハー

ですね

神学から独立して、今は

哲学の概念になってなっています

このような経典解釈に、

非常に細かく経文を反省しとる

経典に照らして解釈することに

よって、実は

客観的に経典の真理を明らかに

するというんじゃない、

経典の精神を解釈する

ということによって、

実は自己が解釈されてくる

わけです。」

 

何でもない「解釈」という

こともなかなか深い言葉で、

仏教的には(げしゃく)と読み

辞書には

「経典等の意味を理解し注釈

すること。」

とあります。

それに続けて、

「経論を解釈するには、

通常まず題号や大意を説明し

次で文章を逐次解釈する。」

というように出ています。

 

ですから、

経典はまず最初に結論が出て

います

しれから順次その内容はと

説かれていくのです。

般若心経では

「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時

照見五蘊皆空度一切苦厄」

というところが結論です。

余談ですが、

本を買う時、最初にこの本の

目的が述べてない本は

だめじゃないかと、

先生も仰ってました。

 

しかし、

よく字をみて見ると

どうも気になるのです

解釈の「解」という字は

刀に牛に角が組み合わさった字

何とも物騒な字です

やはり、牛を刀で解体する

というのが成り立ちです。

それから、

「釈」という字は

お釈迦さまの釈という字

ですが、

釆はわけるという意味で

手に種をもってわける

そこから釈は種をこまかく

撒き分けるという意味で

そこから解き明かすという

意味なったようです

しかし、

もっぱらお釈迦さまに関する

言葉が多いようです。

 

まあ、そういう成り立ちの言葉が

解釈という言葉です。

先生の講義もただ一面的に

仏教の講義されるのではなく

西洋哲学やあらゆるものを

駆使しながら解いていかれる

そこに醍醐味があるようで

また問題が自分の問題として

他人事ではないというところに

こちらに響いてくるものが

あります。

 

 

 

 

 

 

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黙食

2021-01-27 17:30:02 | 住職の活動日記

「黙食」

新聞でこういう

言葉を見かけました。

レストランや食堂で

おしゃべりせずに黙って食べる

ということです。

コロナ禍の時代新しい言葉も

生まれてきます。

それに同調するように

ジムとかでは「黙トレ」なる

言葉も出てきました。

 

「黙」という字は

黒と犬という字からできています

犬がそっと襲いかかる、

という意味が原義です

口を閉ざして獲物を狙って

じっと静かにしている

そこから、だまる、ものを言わない

という意味になったのです。

 

よく聞く言葉に「黙祷」があります

また、黙認するということもあり

そこから、

「暗黙知」という言葉もあります

顔の認知や自転車に乗るという行為

具体的に説明してといわれても

なかなか出来ないものです

乗って体で覚えるしか仕方がない

そういうような知識を暗黙知と

いうようです。

 

また、仏教にも

面白い熟語があって

「維摩の一黙、雷の如し」

という、

お釈迦さまの弟子に

維摩居士ユイマコジ

という方がおられて

在家の弟子ですが

仏道についてはなかなかの達人で

会って話せば誰でもばっさりと

きられてしまうという

鋭い意見を持った方です。

 

その方が病気になられた

お釈迦さまが見舞いにって来い

と言われても誰も行こうとしない

当たり前に「どうですか」

と聞こうもんなら

「衆生病むがゆえに我病む」

という具合に

おまえたちがしっかりしないから

私が悩んで病気になったのだと

そこに選ばれたのが

文殊菩薩です

智慧の文殊といわれる方です

色々の問答があり

やはり的確な答えをする文殊菩薩

それで反対に

文殊菩薩が維摩に尋ねたとき

維摩居士は黙って答えなかった

その一黙された様子は

まるで雷が落ちたようだった

ということです。

 

「黙」ということも大切で

「離言の法性」ということが

あります

真理の世界は、言葉を尽くしても

説明することは出来ないし

形でもって表すこともできない

そういう時は「黙」モクするしか

仕方がないということです。

 

安田先生の講義の時も

講義が終わり質問があれば

ということで順番に回ってきます

感想ではなく、何が尋ねたいか

それを言わなくてはなりません

それが一番緊張する時です

最初の頃は質問しても

先生は黙っておられる

たぶんどうでもいいような質問は

答える必要がない

ということでしょう

尋ねた方が赤面してしまいます

その時の「一黙」も

やはり雷のような静けさの中に

説明されるより

黙した一撃の方が堪えます。

 

また、講義の前後

お茶を出すのですが

ただ黙ったまま

先生と私、この静けさが

何時間も経つような

身の引き締まる時間です。

 

案外私たちはどうでもいいような

話をしています

しかし、

このどうでもいい話ができる

ことが大切なのですが

たまには

黙して語らず食事をする

黙して励むということも

いいものではないかと思います。

色々話していると

上手に自分を誤魔化すことも

できるようでし、

また、通じ合ったような

気にもなるものです。

 

 

 

 

 

 

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水仙

2021-01-26 20:24:18 | フラワー

いつもの近鉄沿線の土手に咲く

水仙

今年は草刈り時期が悪かったのか

一輪も咲きませんでした

それに代わるように

69号線(旧24号線)沿いに

小さな塊で咲いていました

 

 

いつものことなのでしょう

あまり皆さんからは

注目されないようです

 

 

しかし、人知れず

美しく咲き誇っています

ちょうど今日まで

穏やかな天気

明日からは下り坂

 

 

今日が見ごろかな

と思わせるように咲いています

この寒い時期に咲く水仙

とても好きな花です

 

 

私なりに思い入れがあって

修行時代、毎年正月の

御修法(みしほ)という法要

その時のお花は梅と水仙

真鍮の小さな花瓶に活けられます

時華ジケといって

その時の季節の花ということで

この時期は水仙と梅なのです

寒い時期いつもこの法要に出て

その寒さの中凛として咲いている

水仙が心に残っていたのです

 

 

桜の古木の下に咲いています

この桜並木も時期には見事な花を

咲かせています

 

 

しかしまだ、蕾はかたく

もうすこしかかりそうです

今土の中ではしきりに準備が

進んでいることでしょう

 

 

この水仙も次第に成長して

この土手を埋め尽くすように

その塊を増やしているようです

 

今はこういう時なので

あまりどこへでも行くことを

自粛中

近くの花を見れたのは

何よりも心が癒されました。

 

 

 

 

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仏の声は「八音」

2021-01-25 21:13:52 | 住職の活動日記

仏さまの声は八つあって

「八音」ハチオン、ともハットン

とも呼ばれています。

 

声というのもとても大事で

毎日テレビとかから流れてくる

色々の声、声にも個性があって

聞きなれた人の声は

声だけで誰か分かってしまいます

 

私はとても苦労しました

なかなかお経の声にならなくて

いつも師匠から叱られたものです

最初の頃は

どんな声で読んでいいのか

どのように声を出したらいいのか

そういうことで困っていました。

 

極楽には美しい声で鳴くという

迦陵頻伽カリョウビンガとか

共命鳥グミョウチョウという鳥たちが

いたといいます

面白いのは共命鳥です

頭が二つあって体は一つ

身体は一つなのですが

頭が二つあるので考えることが

それぞれ違っていたのです

それで、自分の方がいい声だと

言い張り、あいつさえいなければ

ということで、

毒を飲ませて片方を殺してしまい

ました

ところが、身体は一つなので

毒が回りお互い死んでしまった

という話があります。

 

それでお釈迦さまの声は

八つあるので

八種清浄音、八種梵音声ともいい

優れた特質というか功徳がある

といわれています。

1.極好音、最好音、悦耳声、

悦耳声といわれ、

聞くものを厭わずに道に入らせる

という声

2.柔輭音ニュウナンオン

優しく愛らしい声

3.和適音ワチャクオン、和調声

適度に調和して聞くものの心を

快適に和らげる声

4.尊慧音、入心音

聞くものの智慧を開く声

5.不女音フニョオン、無厭声

男性的に明朗活発で人を畏敬

させる声

6.不誤音、分明声フンミョウショウ

聞く者に正見ショウケンを得させる

過誤なき声

7.深遠音ジンノンオン、深妙声

深奥の理をさとらせる

甚深ジンシンなる声

8.不竭音フカツオン、易了声

明瞭で尽きることのない果を

得させる声。

 

という八つです

そいいえば師匠の三浦先生の声は

どことなく悲壮感のあるというか

引きずり込まれるような

そういう説得力のある声でした

安田先生も静かな中に淡々と

話されるのですが

求めている人には

心に突き刺さるような声

だったように思います。

妙なもので

たまに三浦先生の声に接すると

背筋がビシッと伸びるような

性根が入る気がします。

 

声というのも

生まれつきということも

あるのでしょうが

これもまじめに鍛え上げていけば

それなりに人の心に響く声に

なってくるものだと思います。

 

大滝秀治さんでしたか

あの嗄れ声の

あの方も自分の声に随分

悩まれたようです

監督からもお前の声は駄目だと

それでも

自分なりに積み重ねていくと

何とも言えない味のある声になり

一度聞いたら忘れない

そういう個性のある声になった

ということです。

 

何気なく発する声も

心を込めて話していると

そのような声になってくる

ようです。

 

 

 

 

 

 

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業によって生まれ、業を果たして死んでいく

2021-01-24 20:32:25 | 十地経

今朝、何気なく開いた

『唯識三十頌聴記』

何かしら響くものがありました。

 

「業によって生まれ、

そして業を果たして

人間は死んでいくもんだ。

それが人間の実相で、

善人であろうが、悪人であろうが

人間は皆平等なんだと。

それが実相でしょう。

そういうことが分かった時、

人間は始めて安んずるんじゃ

ないか。

それをもっとわしは

やるべきことがあると考えると、

死んでも死にきれんでしょう。

業縁が自覚された時に、

始めて野心が消えるんじゃないか

あらゆる人間が

平等に安んずるんじゃないか。

 

業は業感というて、

感という字を使うのは

業だけなんだ。

例えてみたら、

生まれるとか死ぬということは

感覚でしょう。

理知的なものじゃない。

考えられたものじゃない。

業を通して境遇を感覚するわけで

しょう。

人生というものは

そういう感覚の上に成り立って

おるもんだと思うですね。

だから責任といっても

モラルというですか、

道義的責任という、

そういうもんじゃないかと

思います。

 

『生』といたら

永遠に生きるというもんじゃない

死すべく生まれたんだから、

業に応えて生まれ、

業を果たして死ぬるんだ。

死なん生というものはない。

人間は生きるのは喜ぶけど、

死はいやだというのは、

これは実相じゃない。

人間の考えに過ぎん。

生まれたということが、

もうすでに死を孕んでおる。

 

だから死というものをおさえんと

生まれたということが自覚できん

生まれて死ぬるんじゃない。

死するから生まれたということの

意義がわかる。

なぜかというと、

生まれたということじゃ

生まれたという自覚がない。

明日があるということを

考えるからね。

 

死というものにぶつかるというと

何の為に生まれてきたんだろう

ということを反省する。

こうして生きてきたのは

何の意義をもっとるかということは

死に立つから、

死に立って始めて生の意義が

出てくる。

生に立って生の意義は

出てこないでしょう。

明日明日となんぼでも

延ばしてゆくわね。

 

まあこれまでは失敗だったけど、

明日まで待ってくれと、

こういう具合になる。

待てなくなった時に始めて

何の為に生きとったか

ということが自覚されてくる

んですわ。」

 

安田先生の講義は

『十地経講義』でも

この『唯識三十頌聴記』でも

経典は変わっても

問題としておられるところは

すべて通じるものがあるように

思います。

専ら『十地経講義』ですが

こうやってたまに

別の教材を読んでみると

新たな発見があります。

 

 

 

 

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法性が無生である

2021-01-22 20:23:44 | 十地経

「無生法忍」ということから

無生ということでまた

話が展開していくのですが、

 

仏教でいう「法」ということも

考えてみなければなりません

どうしても、「法」というと

法律の法ということが

頭の中にあって、

「法の支配のもと」

ということを

アメリカの大統領でしたか

言っていたようですが、

 

法律にさえ触れなければ、

とかいうことも

私たちの道徳心が下がってきた

昔は、

天知る地知る、我知る、子知る

といってお天道様に恥じないよう

という法律以前の道徳心が

あったようにおもいます。

 

ところが仏教でいう「法」は

そういうものではないようで

辞書には

任持自性ニンジジショウ

軌生物解キショウモツゲ

に二つの意味があるとあります

さらに

それ自体の本性を保持して

改変せず、

能く軌範となって人をして

一定の物事の理解を生ぜしめる

根拠となるもの。

ですから、

任持という面からいうと

自性をもって存在している

一切の存在ということで

軌生物解からいうと

認識の標準となる軌範、

つまり方則、道理、教説という

ことを指しています。

 

仏教とは、と聞かれたとき

仏教の旗印として三法印が

あげられます。

印とは旗印のことで

真実であり不動不変であり

王印のようにどこでも通用し

証明となるものという意味です

1.諸行無常

2.諸法無我

3.涅槃寂静

の三つがこれにあたります。

この2番目の諸法無我は

一切法無我ともいわれ

この場合の法は任持自性の

面です。

すべての存在しているものは

因縁によって成り立っているので

それ自体の実体はない

ということです。

そこで、講義では

 

「法性が無生である、と

こういうふうにですね。

諸法の法性が、この法は

一切法といってもいいですけど

それから、こっちの方は、法性

法と法性に対して無生を

明らかにすると。

一切の諸法は無生であると、

そうすると一切法の法性も

無生であると。」

 

なかなか難しいところです

先生も、言葉を繰り返しながら

言っておられるので

思考しながら話しておられる

ように思います。

 

法と法性ということが出てきます

法はダルマです

あのだるまさんのダルマです

ダルマを法と訳しそのまま音写して

達磨という字も当てました。

法性はダルマターともいい

法の本来の性質というような

ことで、

真如法性とか真法性ともいいます

 

さらに講義では

「諸法、だから、こっちのほうが

諸法、まあいってみれば、

相ですね、

相というものは、

この中にも相があるから、

相という字は広いんですけど

だから性相学、

こういっとるですね。

これが仏教学なんです。

諸法の性相を明らかにする。

諸法の実相ですね。

物の実相を明らかにする

ということが、

諸法の性相学と。

これは、

非常に大事なことは、

論理というものと違うですね

論理というのはね、

ギリシャでも考える。

つまり法法性論というのは、

言葉から考えても存在論です。

それに対して

論理学というものあるんですが

因明インミョウといってですね。

けども論理というものは、

この仏教学では、

世間学になるわけです。

法法性論というのは、

純粋な仏教学の内容でしょう。」

 

と続きますが

なかなか読み解いていくには

「法」ということも

いま一度考え直さなければ

今後「法」ということが

出てきますので

世間でいう法律という

見方をしてしまいますと

大きな間違いをしてしまいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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この寒さの中ピンカミノール咲きました

2021-01-21 18:37:39 | 住職の活動日記

今朝も冷え込みました

0度です

やはり昨日は大寒

この寒さが当たり前かも

しれません

しかし、

日中は晴天ということもあって

気温もぐんぐん上がり

15度になりました。

 

 

天気も良く暖かくもなったので

水遣りをしていると

葉の中に小さな紫色の花が

 

 

寒さに耐えて膨らましています

何だかほっとする気持ち

コロナ禍もあり家の中で

じっとしている時に

何とも嬉しい様子です

 

 

見つけてみると

ちらほら

四輪ほどの花を見つけました

 

 

やはり寒かったのですね

軒下に置いていたのですが

葉はしもやけというか

寒さでカトリ草の流れも止まった

ということでしょうか

 

 

明日からは寒さも緩んで

くるようです。

もう少しの辛抱ですよ。

 

 

 

 

 

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