本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

根(コン)

2020-09-30 20:16:13 | 住職の活動日記

「根」という字も

種子ということと同じように

仏教ではとても大切なことです

やはり、植物がひとつの

譬えとしてよく用いられます。

 

というのは

草引きをしていた時

草の根の凄さに驚かされたのです

 

 

本体の根は浅いものの

倒れた茎の所が出ている根は

その勢いを感じます

地面に付いている所の茎からは

全体に根が張り出しています

 

 

土には着かないものの

土を求めて必死に根を

伸ばしている

根の力強さには驚きです

 

根も仏教読みでは「コン」と

発音します

何気なく口にする

「ドッコイショ」は

「六根清浄」から来ているとか

その六根、

眼耳鼻舌身意

眼根・耳根・鼻根・舌根・身根

そして意根です

ですから、定義としては

力があって強い作用を有するもの

ということです。

 

そいうことで

他には男根・女根・命根という

ことがあります

命根というのは寿命のことで

男根女根というのは

男としての働き

女性としての働きということで

根コンという字が入っています

また、お釈迦さまの時代も

転根といって

男より女性へ女性より男へと

そいう性転換のこともあった

ようです。

 

 

その横には一輪だけ

彼岸花が咲いています

この姿だけ見ていると

天上に咲く花という名前が

ぴったりするようです

この花が終わると

今度は葉が勢いよく出てきます

その根は球根です

この球根には毒があり

それから毒花とも呼ばれました

よくお墓に植えられたのは

動物が死骸を掘り返さないため

とも言われています

しかし、本当に

飢饉で食べるものがなくなった時

この球根を毒抜きして

食べたといわれています。

 

根の働きも様々で

信仰の上からは

さっきの六根と区別して

五根、これは眼根とかと違って

五受根ともいわれ

信・勤・念・定・慧の五つ

これは五力ともいわれます

信仰の力・精進努力の力

聞いた事を忘れない憶念不忘の力

それによって心が定まる力

それで初めて智慧が生まれてくる

という慧の力

これは煩悩を除き聖道に導くのに

勝れた力があるということで

五力のことを五根といいます。

 

また、普通に使う

「根性」ということも

機根ということで、

教えを受ける者としての資質

をいうことがあります

これに優劣があって利根・鈍根

何となく分かるような

何度聞いてもすぐ忘れる私に

ぴったりのことば鈍根です

 

また上中下にわけ

上根・中根・下根ともいいます

しかし何も

上根がいいというわけでもなく

自分の名前すら覚えることが

できなかったシュリハントクと

いう方は箒一本で悟ったいわれ

 

反対に、

一を聞いて十をさとったという

舎利弗は勝れた記憶力と理解力で

お釈迦さまの話をすべて理解した

ということです

お釈迦さまも舎利弗に後を託す

つもりだったようですが

残念ながら先に亡くなられます。

 

私たちも隠れている根のことは

忘れがちですが

植物だって

あれだけの根を張ろうと

しているのです

自分にとっての根は何かを

よくよく考えていないと

困難が来た時すぐに

倒れてしまいます。

 

草の根を見ながら

あらためてその働きに

驚かされました。

 

 

 

 

 

 

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十地というのは自己が自己との闘い

2020-09-28 21:03:06 | 十地経

九月はお不動さまの大祭

本堂も広々と使い

ソーシャルディスタンスで

イスもゆっくり目に坐って頂く

 

護摩の炎を見ながら

お不動さまを拝す

燃え上がる炎の向こうに

真っ黒くなった立ち姿の不動明王

不動という名前

『十地経』の第八不動地が

ふと浮かんでくる。

何ものにも揺るぎのない姿

迷わない姿そのものでしょう

 

何故、十地というのがあるのか

初歓喜地で一つのさとりを獲た

ということであれば

それで十分のような気もする

 

ちょうど講義では

「十地の十というのが立てられる

のはさとりが十あるのではない

さとりは如なんだ。

如は一如だ。

そんなもの十もあったら大変な

ことだ。

それなら、

なぜ十を立てるのかというと

初歓喜地を証した時に、

一切智が証せられるはずです。

けれども、

我々が信心を起こしたとき

すぐ仏になったのと違う。

信心を獲たのは

仏になったのではない。

仏になったに等しいと」

 

こうでてくるのですが

等しいというところが

面白いところで、

さとられた法ということは

一如なんですが

さとる私たちに問題があります

それは私たちが無数の過失を

持っているということです。

 

そこを混同すると

さとったといってそれでおしまい

になるのですが

本当になんでもそうですが

やり始めるとさらにやるべきことが

見えてくるというのが

実践す側のことだと思います。

 

講義では、

「広い言葉でいえば罪です。

 それは我執です。

 こういうのが大事な縁となって

 さらに展開していく。

 そこで十あるのは

 人間というのが自己疎外

 本来の自分を失わせるような

 ものを人間は持っている。

 その闘いです。

 自己が自己との闘い。 

 それが十地なんだ。

 その闘いを通して、

 菩提心が菩提を完成してくる」

 

と述べられています。

過失ということも別な言葉では

雑夾性とも言っていおられます。

そこが分からないと

大きな間違いを

起こしてしまします。

初歓喜地でそうだと頷き

感動したことは一つのさとりには

違いないが

それがすべてではなく

そこから、雑夾性を対治していく

歩みが始まるということです。

 

不動明王ということも

不動、動かないということではなく

精神は定まったものを感じ取り

歩みは一歩一歩の歩みがある

ということです。

身近な掃除ということでも

これで終わりということはなく

やりだせば、

さらにやることが見えてくる

そいうことがやりだした人の言葉

のように思います

やらない人にとっては

もうこれでいいのでは

と思えてくるものです。

 

やえばやるほど

やることが見えてくる

ということが本当のことのように

思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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爽やかな秋の風

2020-09-27 16:41:13 | 住職の活動日記

明日の「秋の大祭」を控え

庭に出ていると

とても気持ちの良い

爽やかな風が吹いてきます

それと同時にいい香りも

庭一面に漂ってきます

 

 

金木犀が満開のようです

この小さな花から

これだけの香りを発するのは

不思議な気がします

 

仏教ではよく植物が

一つの譬えとして使われます

有名なのは蓮の花

泥沼にあの美しい花を咲かせる

その座は仏さまの座として

蓮華座というように使われ

また、

「薫習」(くんじゅう)

という言葉もあります

香りのいい花に布を被せると

その香りが布に移るように

いい人と接すると

その人の香りが身に染むように

人間の経験もその心に染み込んで

その人の人柄を形成していく

そういうように香りということも

形も何もないのですが

染み込む力はたいしたものです。

 

彼岸花も満開

 

 

この花もたくさんの異名を持ち

こわいところでは地獄花があり

曼殊沙華といえば

天上に咲く花という

不思議な花でもあります

 

 

花が出なかった球根もあります

多分花が終わる頃

勢いよく葉を出してくるのかも

しれません

 

 

黄色の彼岸花も

赤の彼岸花と形は少し違いますが

よく見ると

何とも不思議な形です。

 

 

彼岸花にとまりながら

アゲハ蝶も風と香りに誘われる

ようにやってきました

止まっているのは樒の木です

 

 

ポツンと落ちていた樒シキミの

種です。

 

「種」も仏教では

「種子」(しゅじ)といって

私たちに宿る仏の種を

象徴しています。

仏の種は誰の中にも宿っていて

それがいつ芽生えるかは

分かりません

私の代ではないかもしれませんが

子か孫の代に芽生えるかも

そういう種を宿しています。

 

この樒の種も

これからはじけて飛び出し

どこかに種が宿り

芽が出るかは分かりません

ほとんど見ないところをみると

種が撒かれ芽を出すというのは

本当に難中の難のようです。

 

秋の風を感じながらの

庭での仕事

それだけでも幸せを感じます。

 

 

 

 

 

 

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「ごはんさん」

2020-09-26 20:13:08 | 十地経

東寺での朝参りをどういうわけか

「ごはんさん」と

呼んでおられました

今はどうか知りませんが、

たまに間違える方がいて

東寺へ朝参りへ行くと朝御飯が

出ると勘違いして

お見えになる方もおられました。

 

ちょど、『十地経講義』で

第八不動地のところですが

先生も、

『十地経』では初歓喜地と

第八不動地が特に

意味があるように話されています

 

初歓喜地は初めて歓喜する

物事の始まりは歓喜カンギです

歓喜がなければ物事は始まらない

ようです

仕事にしろ仏道を歩むにしろ

その原動力は歓喜です

教えを聞いてハッと驚く

感動があるのです

その感動する心をもって

求道の道が始まるようです。

 

第八不動地

ここでは無生法忍ということが

でてきます

不動というと不動明王にも

相通じるものがあるようです

講義では

「それから忍、けど耐え忍ぶ

 という意味じゃない

 法忍ですね。

 これはみんな相通ずる概念

 なんです、

 智慧というものに、

 忍の場合は今いったように

 認可したというような

 認許したということがですね

 これが認というものがもっとる

 智慧のある一つの形態です」

というように出てきます。

 

そこでふと思い出した

「ごはんさん」ということですが

多分、漢字では

「御判さん」と書くのでは

と思うのです

「御判の御教書」という

将軍が出した御教書もあるので

やはり

御判ということには認可する

という意味があるのでしょう

 

朝参りの時

弘法大師へのお食事が終わると

お参りの方々にお舎利さんが

額と掌に授けられます

あなたの信仰は間違いない

という印シルシを額と掌に押す

ところから

「ごはんさん」と呼ばれたのだと

思います。

 

今はそういう形になっていますが

本来は日々参拝して

教えを聞き信仰を深め

自分の信仰を更に確かなものに

していくということがあります

 

菩提心を獲たといっても

そこには雑夾性がまだあり

第八地は菩提心の含んでいる

雑夾性を排除していく

菩提心が自己自身を純化していく

そういう意味で、

この無生法忍が相応してくる

 

と述べておられます。

第八地もこの無生法忍という

ことが中心の課題になっています。

不動地ということも

不動明王と何か関係が

あるように思います

明王というと明は智慧ですから

智慧の王ということでしょう

智慧を生み出すもとは

定というか三昧です

そういう動かぬ智慧があってこそ

あらゆるものへの対応が

生まれてくると思います

やはり、ウロウロして

心が定まらない散心のでは

何ごとも出来ないようです。

 

「歓喜と不動」

言われてみると非常におもしろい

テーマだと思います

何かの拍子に何かに感動して

聞法や参拝が始まり

それがさらに深まって

ゆるぎないものになり

無生法忍という智慧が生まれ

安住できる不動の地が

生まれてくる

やはり『十地経』の眼目は

「歓喜と不動」

ということかもしれませんね。

 

 

 

 

 

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十四難儀

2020-09-24 20:01:08 | 住職の活動日記

難儀ということも

むつかしいとか困難という意味や

苦しい、めんどうなことという

意味がありますが

ここに出てくる難儀とは

少し意味が違ってます。

 

仏教は内観道といって

自分の内を見ていくというか

自分自身を問題にしていく

そういう道なのです

ところが

お釈迦さまの時代のインドでは

いろいろの修行方法があって

またいろいろの論者もいて

世の中の外の世界を問題にする

そういう人々も盛んで

その人たちを外道(げどう)

外のことを問題にする道

ということでそう呼んだのです。

 

ところが、

内観の道なのにお弟子の中には

やはり外の事柄を問題にする

人たちも中には出てきて

そのお弟子を厳しく諌めて

おられます。

 

その外の道を問題にする

ということを細かくいうと

十四あったので十四難儀といって

そういうことを論じてはいけない

とされていました。

 

その中には

天地というものは有限であるか

無限であるかとか

世界は始まりがあるのか

始まりがあるのであれば

終わりはあるのか、

死後の世界のこととか

霊魂はあるのか不滅なのか

というようなことが

具体的には数えれば十四ある

ということで十四難儀と

いわれていました。

 

お弟子たちがそういうことを

論じていると、

お前たちは何のひまがあって

そういう戯論(けろん)を

しているのかと、

厳しく戒イマシメられました。

 

仏弟子として

終始考えなくてはならないことは

この人生の問題であると、

人間の一生というものを

どういう風に考えるのか、

一度生まれて30年なり

50年を通過すれば

もう永遠に取り返しのつかない

人生である。

その永遠に取り返しのつかない

一生涯を与えられて、

お前たちは何と思うのか。

そのことについて語り合うならば

幾ら語り合ってもいいが

天地万物は有限か無限かという

ようなことは戲論である。

 

と、諭しておられます。

 

お釈迦さまの修行をみて見ると

私たちがしたような生半可な

ものではなく、

それこそ命懸けの修行です。

その回顧録というか経典には

その時のことを、

「魚・肉・酒をとらず、

 一日一食より始めて、

 半月に一食をとるに至った。

 野菜、なま米、草の実、牛糞

 自然に落ちた果実のみ食し、

 墓場に捨てられた屍を包んだ衣

 捨てられたぼろを継合せて

 作った衣を着した。」

と語っておられます。

 

よく師匠から電話をもらった時

「忙しいです」

と答えると、

「なんという呑気なことか。

 まず最初に考えなければ

 ならん問題があるだろう。

 忙しさにかまけていると

 一番大事なことを見失うぞ」

と、注意されたものです。

仏教では

「第一義諦」ダイイチギタイ

といって、まず考えなければ

いけない問題ということです。

 

お釈迦さまは

「人生は短い、まず

 自分の生きる意味を

 見出しなさい。」

ということを常々お説きになって

おられます。

ということで、

十四難儀ということを列挙して

こういうことについて

論議してはいけないと

おっしゃったのです。

 

ついつい外の世界のことが

面白くまた

自分のことが問題にならないので

痛くもかゆくもない話ですので

ついつい話が弾み

自分自身の大切な問題を

忘れてしまいがちになってきます。

 

努々怠るべからず!!

 

 

 

 

 

 

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DHC8-Q400

2020-09-23 20:11:05 | 住職の活動日記

最近はこの機体とよく縁があり

 

 

プロペラ機なのですが

それなりに高度も低く

日本の景色を俯瞰するように飛び

楽しいものです

 

 

間近に見るとプロペラの大きさに

驚きます

 

 

機体も低いので滑走路を

這うように進んで行きます

エンジンもフル回転で

いざ離陸

 

 

たぶん? 宝塚

川沿いのオレンジ色の建物は

宝塚劇場のようです

 

 

神戸の港を過ぎて

神戸空港も見えました

 

 

この大きな敷地は何でしょう

どうも、メガソーラーのようにも

見えるのですが

かなり広大な敷地です

 

 

こういう人工の島のような

それとも島全体が工場のようにも

見えます

 

 

そうこうしているうちに

機体は徐々に降下をはじめ

下には国東半島が見えてきます

 

 

ここが大分空港でしょう

本当に天候にも恵まれ

景色を見ているだけでも飽きません

やがて

湯布院の山々が見えてきます

 

 

もうここを過ぎると

阿蘇が見えてくるはずです

座った席が右側ということで

阿蘇の山々は見えません

 

 

眼下には外輪山と

阿蘇の盆地が見えてきます

何回も往復するのですが

その時折々の景色が楽しめ

これこそプロペラ機の醍醐味

というかいいところです

 

外国では「飛び恥」という

言葉があって

飛行機は燃費も悪くCO2も排出する

ということで、

列車の旅を利用しようと

そういう運動があるようですが

この機体は燃費もよく

昔のジャンボジェット機が

ゲートから滑走路に出るだけの

燃料でこの機体なら

九州まで飛べるということです

 

 

そう思っていたら

熊本の江津湖が見えてきました

ここから有明海に出て

そこで大きくUターンして

熊本空港に入っていきます。

 

帰りの便も

どうも帰りは高度が高いようで

そして曇り空ということで

景色はあまり楽しめませんでした。

 

今、熊本空港は大工事中

今までのビルを全部壊して

新しく建て替えているようです

今の状態では数年はかかりそうな

様子です

新しい空港になった時まで

通えるかな ??

 

1時間10分の楽しい空旅です。

 

 

 

 

 

 

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お彼岸のお中日風景

2020-09-22 18:25:46 | 住職の活動日記

22日は彼岸の中日

今年は敬老の日そして

土曜日を入れると4連休となり

お盆に帰れなかった人も

この連休を利用して里帰り

された方も多いようです。

 

ふと見ると裏庭の彼岸花

 

 

人に見られることなく

満開に咲き誇っています

その隣には

 

 

ムラサキツユクサ科の

ムラサキゴテンも

勢いを増して咲き誇っています

 

コロナ禍ということは

本当に世界を変えてしまいました

お参りの方々も

ソーシャルディスタンス

席を開けて座り見なマスク姿です

静かに住職のお話に耳を傾け

終わると

手作りのちらし寿司とおはぎを

いただか頂かれて

三々五々にお寺を後にされます。

 

三密ということが

いかに楽しかった思い知ります

法要が終わって

お斎を頂きながら

積もり積もったはなしに

笑顔やら大声で笑い

そのことも

大切な役目です

何気ない話に花を咲かせ

何かしら元気を頂き

お寺を後にするのも

お彼岸の大事なはたらきです。

 

しかし、

そういう中にもお寺に足を運び

共にお参りし

ただ顔を見合わせて

言葉数も少なく

会釈して元気そうな表情を見る

その事も大事なことだと

つくづく思いました

 

そういう世界こそがまさにお浄土

今までの世間の雑踏の中で

あれやこれや思い悩み

何かしらはっきりしない心でいた

それがお寺に足を運ぶことで

心が軽くなる

何かしら忘れていたようなことを

取り戻す

それもお寺のはたらきです

 

「平常心是道」

という言葉もあります

何も特別なことが修行ではなく

健康な常識を持つ

それが道に適っている

宗教ということも

あってもなくてもいい

というものではなく

そういう心のふるさとを持つ

ということがなければ

人間として成り立たないのでしょう

 

健康な常識

人間としての本当のあり方

そういうことが分からないと

勝った負けた儲けた損しただけの

世界ではあまりに寂しい

そういう世界をしばし離れて

お寺に足を運ぶ

それこそが本当の人間の本来性を

取り戻す機会のようです。

 

11時から彼岸会法要

1時からは愛するペットのお彼岸

何かの縁によって

自分を無に出来る場所へ

足を運ぶということは

世間の忙しさから考えると

無意味のように思いますが

微かではあるけど

それが私たちを支えている

ように思います。

 

 

彼岸花もとても美しく

目に飛び込んできました。

 

 

 

 

 

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麤(ソ)と細(サイ)

2020-09-21 18:20:10 | 住職の活動日記

麤という字もあまり見かけません

鹿を三つ書きます

鹿が離れ離れになっている

ということを表すようです

この字もお経に出てくるのですが

離れるという意味とは別に

あらい、とかうとい、おおまか

というような意味があります

麤人ソジンという言葉もあり

ぶしつけな無作法な人という

意味です。

 

何かしらふと口ずさむ歌に

折れた煙草の吸殻に

 あなたのウソが分かるのよ

という中条清司さんでしたか

なかなかよくできた歌だと

思います

ウソ見抜くには

麤というような荒い雑な心では

見抜けません

その反対の言葉は「細」です

繊細な心が嘘を見抜ける

 

普段何気ない時には

たばこの吸い殻が折れていようが

その消し方一つにも

気にもならないのですが

自分から心が離れていってる

と感じる繊細な心には

折れた煙草の吸殻で

あなたのウソが分かるのです

 

こういう人間の微妙な心の動きを

表現している歌はとても

驚かされます

 

嘘ということも

言っている本人はさほど

気にもしていないのでしょうが

それは心が荒い麤の心なので

分からないのでしょう

ところが

嘘をつかれた方は

非常にデリケートな心に

なっています

ですから些細なことにも

神経をとがらしています

微細な心なのです

つまり、

全身が耳になっているのでしょう

一挙手一投足が気にかかり

相手を見ているということです。

 

やはり、

嘘はいけません

十善戒の口に関する諌めが

不妄語・不綺語・不悪口・不両舌と

十の中でも四つを占めています

それほど口というのは

災いの元ということでしょう

その第一が

「不妄語」

嘘を言ってはいけません

ということです。

お経には

「妄語をする人は

 心に慚愧ザンキがなく

 涅槃および天に至る道が

 閉ざされている

 しかも、

 口気が臭く、

 善神は遠ざかる」

というように出ています。

 

よく講義の中でも

「人の心は麤で荒いもんだ

 細心の心でないと仏法は

 分からない」

ということを言っておられました

お経の最初の言葉は

『無上甚深微妙法』

とあるように

微かで妙なる法を分かるには

やはり細なる心が大事という

ことなのでしょう。

 

 

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彼岸花

2020-09-20 20:57:46 | 住職の活動日記

朝夕めっきり涼しくなり

よくしたもので季節は正直

 

 

彼岸花が咲きだしています

まだまだ満開とはいきませんが

庭のあちこちで

咲き出しています

 

 

真っ赤な彼岸花もあったのですが

ここ最近は見かけなくなり

もっぱらピンク色の彼岸花が

今は盛んに咲き出しています。

 

彼岸、彼カの岸と書きます

それに対する言葉は

此岸、此コの岸です。

お彼岸、彼岸と当たり前に

よんでいますが

此の岸、彼の岸というのも

面白い表現です。

 

似た言葉に

あの世、その反対がこの世

ということがあります

今いる世界がこの世というのは

何となく分かりますが

死後の世界をあの世とよぶのは

何となく不思議な気もします

 

彼岸というのも

憧れの気持ちをもって

彼岸と呼んだのでしょう

この辛く苦しいこの世、此岸を

離れ憧れの彼の岸へあの世へ

旅立ちたいという

切なる願いだった

のかもしれません。

 

経典には

極楽浄土の世界が描かれています

それを形にしたものに

宇治の平等院があります

平等院鳳凰堂の前に広がる池

その川を渡り阿弥陀如来のいる

極楽浄土の世界へ旅立つ

此の岸より彼の岸へ

そういう願いのようなものを感じます。

 

あの暑かった夏も

どうなることかと思っていましたが

よくしたもので

お彼岸の声を聞く頃になると

虫の声も聞き、朝夕の涼しさに

この世にあるような浄土を

今の世界に感じることができます

 

今はちょうどお彼岸の日

明後日はお中日です

先に旅立たれた方々の安堵を思い

今ある私たちの生活を振り返る

過去を見ることによって

今を思い起こし

そして未来の世が平和で安楽である

ことを願うのも

お彼岸の大事な務めだと思います。

 

 

 

 

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比叡山より三上山を遥拝しカレーを食す、そして

2020-09-19 19:47:11 | 住職の活動日記

比叡山へひとっ走り

 

 

正面に三上山を拝み

そして、

秋の気配を楽しみながら

 

 

ホテル比叡で

 

 

カレーを頂く

 

 

人も少なく絶景を独り占め

 

 

という名前のホテルです。

ここよりさらに上の展望台を

 

 

目指します。

比叡山というとやはり根本中堂

ですが、今日は

初めて訪れる展望台へ

そこは

フラワーガーデンになっていて

いろいろな花々を楽しめます

 

 

出迎えてくれたのは

フォックスフェイス

このように束になって植えてある

姿は初めて見ました

その前の池には

 

 

オタマジャクシが泳いでいます

これもまた久しぶりに見ました

 

 

 

ミツバチたちも元気に飛び回って

(写真上の方)

また

 

 

蝶も飛び回り

さかんに蜜を吸っています

 

 

くちばしを差し込んでいる

ところのようです

 

 

センニチコウにとまる蝶

よく見ると

この蝶は羽が痛んでいる様子

 

 

蝶たちにとっては

まさに極楽でしょう

 

 

センニチコウも群生しています

なかなか可愛い花です

花言葉は

「変わらぬ愛情」と

書いてあります。

私たちかな??

でもそういう人ほど当にならない

とか言いつつ…

 

 

いろいろの花を楽しみ

 

 

ダリアの元気な姿にも

心打たれます

 

 

ベゴニアの群生も美しい

 

 

この花もダリアでしょうか

美しさに目を引かれます

 

 

芙蓉の花も空に向かって

太陽を一身に受けているようです

 

 

バラの花もまだ一輪

見ることができました

 

 

この小さな花

名前は分かりませんが

何とも愛らしい花です

 

 

上から見下ろすカレーを頂いた

ホテルです

この左端のテラスで頂きました

 

 

琵琶湖にはたくさんの川が

流れ込んでいるのですが

出るのはこの川一本です

その入り口には

びわ湖大津プリンスホテルが立ち

ここから瀬田川となって

京都に入ると宇治川となり

さらに三川合流した所からは

淀川となって大阪湾に流れ込む

という長い道のりを辿るのです。

 

天気も良く秋の一日を

楽しめました。

 

 

 

 

 

 

 

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