本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

今、あたえられた境遇は自分が求めたもの

2023-05-23 20:59:16 | 十地経

この言葉もずっと心に

残っている言葉なんです

最初聞いた時には

なかなか受け入れることは

できませんでした

今のこのような境遇

絶対に

自分が求めたものでないと

思い続けていたのです

 

この講義では直接は

この言葉は出てきませんが

まさに同じことを言っている

のではないかと

「今あたえられた境遇は

自分が求めたものである」

思えるのです

 

講義は

「行者というところに立つと

倫理的責任はないが、

宿業的、実存的責任という

ことがある。

理性的責任でなく、

本能の受ける責任である。

 

阿呆な親を考え、

批判することはできる。

しかし、

阿呆な親は賢くもなれないし

自分も賢くなるわけでない。

そういう親を持ったのは

親の責任でない。

自分の責任である。

宿業である。

縁である。

どんな阿呆な親でも、

それを

我が親とせねばならぬ。

 

因縁・事実は自分のもの。

自分が求めた。

 

どこから火が出たか。

そちらから火は出た

というのは科学。

その通りですと言わず、

いやそうではないというのが

人間。

引き受けられぬと

自ら苦しむ。

 

焼かれたとか、焼いた

というのは理屈ではないか、

解釈ではないか。

焼いたんでも、

焼かれたんでもない。

事実は焼けたんである。

宿業である。

腹の立てようがない。」

 

この話は先生もよく

話されます、よほど

堪えられたのでしょう

先生のお寺が火事にあわれた

大切な本がたくさん焼けた

また大事にされていた

資料も焼けてしまった

何とも悔しい思いを

されたのでしょう。

 

それで、

焼かれたのでも、

焼いたのでもない、

事実は焼けたんである。

この言葉が出るまでに

何度もこの話をされました。

またその時

活躍した松浦さんの話も

されていました

講義の中ではめったに

人の名前は出ないのですが

三浦先生とこの松浦さん

だけが登場します

力持ちだった松浦さん

じっと講義を聞くのは

苦手だったらしいですが

この活躍に先生も大変

感心しておられたのです。

 

引き受けられぬと苦しむ

と出てきますが

自分のことを引き受ける

このことができない

バタバタともがき苦しむ

解決が出ない

そこに引き受けるという

そうでなければ

どうにもならない

 

講義は続けて

「ともにこれ凡夫という自覚

そこに安らぎがないか。

安らぎがあるところに

真理にかなっているという

ことがあるんではないか。

理屈をつけることが多い。

そこには無理がある。

 

休まらんのは

無明の夢を見ている自分に

言い聞かせようとする

からである。

心が休まるというのが、

真理だという証明である。」

 

なかなか

自分の業を引き受ける

ということが

私たちにとっての大きな課題

のようです。

 

 

 

 

 

 

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1 コメント

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Unknown (たま)
2023-05-26 09:37:40
拝見して感動しました
いつもありがとうございます

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