本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

和光同塵

2019-04-30 20:47:12 | 漢字

ちょっと変な繋がりなんですが

平成という時代も終わり

もうすぐ、

令和という時代の幕開けです。

ということで、

「令」という字と

「和」という字を漢和辞典で

見ていたのです。

そして今、

京都新聞に連載されていた

「梁塵秘抄」に

とても関心が出てきまして、

そこらから、和とか塵という言葉が

気になってきたのです。

 

「和」という文字も

禾偏に口と書きます。

人の声に応じて合わせる

というところから

心を合わせるという意味に

なったようです。

やわらぐ、やわらか、たいらか、

おだやか、というような意味が

生まれてきました。

 

そして、

その中に仏教でも使う

「和光同塵」

という言葉もありました。

もとは老子から出た言葉です

光を和らげて塵に同ずる

ということで、

仏教では

仏や菩薩がさとりの智慧の光を隠し

衆生を救うために仮に煩悩の塵に

同じて世俗の間に生まれ、

衆生に縁を結んで、

衆生を次第に仏法へ引き入れる、

と辞書には出ています。

まあ、このことも

非常に難しいもので

一歩間違うと

ミイラ取りがミイラになってしまう

ということになりかねません。

世俗の中に埋没し

とうとう心まで

煩悩にまみれてしまっては

引き入れるどころか

引っ張りこまれてしまう

ことにもなりかねません。

 

「塵」というのは

煩悩のことです。

『梁塵秘抄』の梁塵というのは

梁(はり)の上の塵(ちり)

ということで、

巧みな音楽、という意味です。

これは、昔

虞公という音楽家が歌う時には

梁の上の塵まで動いたという故事

からきているようです。

その中に、

こういう歌があります

 

「釈迦の正覚成ることは

 このたび初めと思いしに

 五百塵点劫よりも

 彼方に仏と見えたまう」

 

釈迦如来が悟られたのは

この度が初めてと思っておったが

五百塵点劫よりもはるか昔に

仏になって現われておられた

 

という意味ですが、

ここに「五百塵点劫」という

(ごひゃくじんでんごう)

難しい言葉があります。

劫というのは兆載永劫という

言葉もありますように

とても長い計り知れないほどの

時間の長さを言います。

「塵点劫」というのは

三千大千世界のすべての物を

磨して墨汁として

一千国土を経過するごとに一点を

下し、

ついに墨汁がなくなり

更にその経過した国土を微塵に砕き

その一塵を一劫として数えた劫数を

三千塵劫点という。とあります

 

私たちにはとても

計り知ることのできない数ですが

昔のインドの人いはこういう

途方もない数を

イメージで来たのでしょう。

 

それから「塵」というのは

いろいろありますが

「微塵」(みじん)という

言葉もあるように

非常に微細な物質のことで

塵が常に浮遊して他のものに

ついて汚すことから

煩悩や俗世間に喩えて

塵垢とか塵労という言葉も

生まれてきました。

 

煩悩ということが、

私たちが気が付かないほど

小さなものでそこら中にあって

いつの間にか体にくっついている

という、ことを

微塵な「塵」に喩えたのは

非常に面白いたとえだと

思います。

 

令和が来るというので

調べだしたら全く違った方向に

行ってしまいまして

まあ、それぞれ深い意味がある

ということがわかり

面白い時間でした。

 

 

 

 

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気になっていた牡丹の花

2019-04-29 21:54:17 | フラワー

咲ききっていた牡丹の花

2.3日留守にするので

もうすっかり散り果てていて

無残な姿ではないかと

気になっていたのですが

 

 

咲ききった花びらを横たえるように

まだ散らずに萎れていました

 

 

しかしよく見ると

花びらがまるで

シルクで出来ているように

しっかりとした花びらでした。

 

 

なんだかその姿にも見とれて

しまいました。

 

 

普通の花は咲いてしまった花弁は

もう触ると今にも

くちゃくちゃになって

しまいそうなのですが、

萎れた姿をとどめていました

 

 

まあ帰ってきて

一番うれしい出来事でした。

 

 

 

 

 

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断絶しつつ連続してる

2019-04-28 21:46:58 | 住職の活動日記

 

言われてみれば、

今日が平成、最後の護摩法要か

と思いながら、  ふと

庭に出てみると、

朝日に輝く新緑が

目に飛び込んできます

 

 

若葉の緑は初々しくていいものです

と言いつつよく見ると

 

 

やはり新緑の葉はごちそうなので

しょうか、

どこからきたのか

もう虫さんがやって来ています

いまはいいのですが

あの、成長したら

とげとげの虫です。

 

 

 

砂利の上をテントウムシの子供が

忙しそうに駆けずり回っています。

こういう虫たちも

一年で命を終わり、

その命をどこかに隠し

次の年にまた出てくる。

一つの命はその年で終わり

しかし、

虫としての命は繋がっている。

 

平成も終わり新たな令和と言う年が

始まろうとしています。

 

断絶しつつ、連続している

おもしろいもので、

人間の世界も

迷いから仏へという

このことも

人間から仏へと

ただ連続しているのではなく、

「十界」という

世界というか、考え方があるように

ちょうど、

迷いの世界から仏の世界へと

その中間に

「天」という世界があります。

地獄餓鬼畜生、修羅、人間

その上が天です。

そこからさとりの世界

声聞、縁覚、菩薩と仏の世界が始まり

到達点が如来です。

だから、中間の「天」という世界が

とても大切な意味を持っています。

 

「人間の終わるところ、

    仏の始まるところ」

 

という意味を天の世界は

もっています。

大きな転換点です。

その転換点がないと

けじめがつかないというか

難関を乗り越えるというか

それがないと仏の世界へは

入っていけないということです。

 

地獄、餓鬼畜生という

迷いの世界から仏の世界へ

ただ、スーッと行くのではなく

大きな一つの難関を乗り越えて

初めて仏の世界が開けてくる。

 

『十地経』でも

第六地は般若現前地

般若が目の前に表れてくるという

般若現前地、

そして、第七地が遠行地

遠いというのは遠くへ行く

ということではなく、

行が完成するという地

智慧が実践に移され行が完成する

ということです。

ここにも大きな難関があります

過地ともいわれていて

過はすぎるという意味もあれば

過失という意味もあります。

過失を自分の中に見出し

それを対治していくのが七地

 

いずれにしても

この、六、七というところに

難関があるよです。

 

平成が終わり令和が始まる

色々イベントがあるのは

その、終わるところがあり

始まるところがあるということを

表している様にも思います。

平成が終わるという断ですけど

令和へ引き継がれるという

連続があるのです。

 

切れていながら、連続する

一つ一つの命は切れながら

連続するというのが

ものごと、いのちもそうですが

ありようなのかもしれません。

 

わしはわたしであり

短かろうが長かろうが

それはそれで完成して終わる

でありつつ

いのちは連続している

ということなのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

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春を競って艶やかに!

2019-04-27 11:56:51 | フラワー

わずか1日2日のいのち、

歌の文句ではないですが、

春を競い合うように

見事に咲いて

散っていくようです。

 

 

満開に花開いた花も

一日たつと

 

 

花ビラの形が崩れ始め

力なくわずかに形をとどめ

 

 

今日が最後と

花の形が変わっていきます

 

 

さらに一日たつと

もはや、花としては限界

 

 

頭も下げて

花びらも散り始めるようです

 

「花が散るとき

  蝶も死ぬ

 どちらもどちらも

  命をかける」

 

という歌がありましたが

みな、活きるということは

命がけなんですね。

 

いのちをかけない命なんて

一つもありません。

 

本当にご苦労さまでした。

来年に向かって

水を遣り、肥料もあげて

日に当てて、

これから

何でもない一日のようですが

来年に向かって頑張りましょう!

 

 

 

 

 

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即位灌頂

2019-04-26 17:17:45 | 住職の活動日記

もうすぐ即位の儀式が執り行われます。

この即位ということも

二条家の文書によると

「即位灌頂」とあり、

この頃は仏教の要素が強いようです。

即位の前には、

「践祚」(せんそ)という儀式があり

意味は天子の位につく、

ということで、

「践」は、足で踏む、位をふむ

という意味です。

「祚」は、さいわいという意味で、

そこから「くらい」という意味

天子の位という意味になったのです。

 

そして、

践祚の後、即位ということに

なります。

この即位灌頂の秘儀も

代々五摂家が

口伝として受け継いできました。

その後、伏見天皇のころからは

もっぱら二条家が伝えてきました。

本来は一切メモも取らなかったが、

次第に書き残していいたようです。

この次第は秘儀なので

書き残すにしても、

一見すると何もないような

白紙の真ん中ほどに書くとか

わからないように残した

ということです。

 

摂家の務めは、

「印明伝授」の秘儀を

天皇に伝えるということです。

印明伝授を受けて、

天皇がそれを実践するのが

「即位灌頂」になります。

いつ伝授するのか、

それは即位の前日とも

その時々で違ったようです。

 

二条家文書には

「即位灌頂の事ハ、朝廷の重事なり

後三条院即位の時、成尊法印さつけ

たてまつる、

これはじめなり、」

とあって、

五摂家が務めてきたのですが

「二条家のほかさつけらるる

例ハなし」

とあります、

「二条家伝授なきときハ、

主上つたえらるへし、

主上伝授以前なれは、

上皇よりつたえらるへき事、」

とあるように、

二条家と天皇、さらには上皇

どちらも伝授しあう

という形をとったということです。

 

この儀式も明治までで

それ以後は別な形になったようです。

これを見ていると

もともとは仏教の形を踏襲して

即位灌頂が行われたようです。

 

「灌頂」ということも

インドで国王の即位の時

頭頂に四大海の水をそそいだ儀式で

仏教でもやはり、頭に水を灌ぐ

ということですけど、

『十地経』のなかでは

菩薩が第九地から第十地法雲地に

入るとき、諸仏が智水をもって

その頂から灌ぎ法王の職を受ける。

ということが出ています。

また密教の方では

如来の五智を象徴する五瓶の水を

弟子の頂にそそぐ作法によって

仏の位を継承させる、

という儀式があります。

 

密教では特に灌頂ということは

重要な儀式で

その一番上の灌頂は

伝法灌頂と言って、

大日如来の儀軌明法を授けるもので

最極奥秘を伝える

ということがあります。

 

二条家の文書の中には

この伝法灌頂の時に伝えるものと

似たような印と真言があるようです。

五眼格別印というのがあって、

七道が伝えられ、

十善戒が授けられ、

「保チテ此ノ十善ヲ、昇帝位、

師云、此法、付テ法花経四要品

習ヒ伝ル事有之云々

方便品、智拳印 十方仏土中

安楽品、无所不至印 勧一切法

寿量品、塔婆印 仏語実不空

普門品、引導印 慈眼視衆生

 凡此法、令授子孫給時、師弟共

 着束帯可授与之也

   元和四年九月二十一日 関白判

     (二条昭実)」

という文書が残っています。

 

今はこうやって二条家の文書も

公開されるようになりましたが

明治までは、秘中の秘として

二条家に代々伝えられてきた、

ということです。

 

それまでは天皇の即位にあたっては

これらの印と真言が伝授され

それをもって高御座に上がられ

即位灌頂の儀式が

執り行われたのでしょう。

今はどうかわかりませんが

仏教の儀式が深くかかわっていた

ということは興味深いことですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

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瀉瓶の弟子

2019-04-25 17:49:17 | 住職の活動日記

「瀉瓶の弟子」(しゃびょう)

ということがあります。

瓶から瓶へすべての水を移すように

師匠から弟子へ教えをもれなく

伝えることをこのように言います。

 

弘法大師・空海が

中国の西安・青龍寺で

恵果和上(けいか)から

密教のすべての教えを

伝授されたことを

このように表現します。

 

老舗の店では

「一子相伝」とか

一人の子に伝わってきた味を

教えることを

このようにいうようです。

 

しかし、

仏教の教え、法ということになると

なかなかそう簡単ではなく

難しいものがあるようです。

 

『唯識三十頌』という経典でも

最初の一文に

「満分清浄者」

満に分に清浄なるもの

ということで、

「満」とは、

すべてを満たされている

ということで、仏のことです。

それで、「分」とは

仏の一部分を有している

ということで、

私たち人間のことです。

 

思い起こしてみると、

三浦先生は多くの人を育てられ、

洛南高校の卒業生を入れると

数千人という人たちになるでしょう

それぞれの方が先生の教えの一部分

を受け取り自分のこととして

実践されました。

例えば、

山井和則さんは政治の世界に

飛び込まれ、

その原動力となった言葉が

「世の中の雑巾になれ」

という一言です。

 

私たちには瀉瓶というように

すべてを受け取ることはできません

しかし、その一部分は

何とか受け取れるものです。

考えようによっては

一部分でも受け取り実践されたら

それは一部分でもって全体を表す

ということが成り立つと思います。

 

安田先生の奥様も

先生が亡くなられた後、

いろいろの場所で閑話を頼まれると

「皆さんは主人の話を私よりも

たくさんお聞きになっていると

思います。

ただ、聞きっぱなしではなく

その聞かれた一言でも

実践していただければ

主人の話が生きると思います。」

と話されておられました。

 

瀉瓶というように

全部をそのまま移し替えるように

受け取るということは

普通の凡人には無理かもしれません。

このことも、

師匠というより、

受け取る聞き手の方が

大切だと思います。

 

お釈迦さまも

十大弟子といわれる勝れたお弟子が

おられましたが、

その中で、舎利弗(舎利子)

智慧第一といわれた方で

とても聡明でお釈迦様の教えを

すべて理解しておられ、

お釈迦さまも舎利弗に向かって

話されていたようです。

経典でも、

呼びかけるように「舎利弗・舎利子」

と繰り返し出てきます。

自分の跡継ぎは舎利弗だと

思っておられたのでしょう。

しかし、

お釈迦さまより

先に亡くなられてしまいます。

 

その勝れた聞き手がおられたので

お釈迦さまの話も

引き出されるように話が

展開していったのです。

 

別な見方をすれば

教えということも

話す方にあるのではなく

聞き手の方にあると思います

いかに、話を引き出すか

それは聞く方が

どれだけ問いを持っているか

にかかっていると思います。

 

瀉瓶ということも

ただ移し替えたというのではなく

師匠の教えをどれだけ引き出したか

ということにかかっているとも

いえるのではないかと思います。

恵果和上が

並み居る中国のお弟子がいる中

異国から来た僧(空海)に

教えを伝えられたのは

空海の求める問いのすごさにあった

ともいえるのではないでしょうか。

 

全部ではなく

その一部分でも受け取り

実践することが

本当の瀉瓶の弟子

ということではないでしょうか。

 

 

 

 

 

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牡丹開花

2019-04-24 11:12:47 | フラワー

あっという間の開花

 

 

早いものです。

昨日はまだ固そうなつぼみだったのに

今朝にはこんな大輪を開いている。

 

 

開ききってこぼれんばかり

 

 

またこれかは根のハタラキの出番です

光合成をして根に力を蓄えていきます

 

そういうことで裏の檸檬の木は?

よく見ると、

小さな芽をつけているよう

 

 

かわいい新葉を出しました

 

 

あちこちから出ています

ちょうど今朝は小雨

葉にとっても強い日差しよりは

潤してくれる雨が何よりでしょう。

 

 

大きく伸びていくことを

見守っていきたいものです。

 

牡丹の開花の報告まで!!

 

 

 

 

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牡丹の花が膨らみ始めた

2019-04-23 21:01:09 | フラワー

あっという間の成長

昨日まだ固いつぼみのままだったのに

今日見たら

もういまにも開きそうな状況です。

 

 

牡丹の花も好きな花で、

以前、熊本の阿蘇で求めて

大きく成長して

毎年花開くのを

楽しみにしていたのですが

私の不注意で枯らしてしまい

この花が我が家にとって

二代目の牡丹です。

 

 

今晩か、明日には満開でしょう。

二輪花があります

 

 

こちらの方が早いかもしれません

 

そういうと、裏の山法師も

小さな芽を出したと思っていたら

 

 

もうすっかり葉を広げています

早いものです。

ぐんぐん水を吸い上げている様子

 

 

もう立派な木陰を作り出しています

 

気になっていたのが

檸檬の木

なかなか芽を出さない

枯れた風でもないので

今は、根っこを張って

枝を出す準備をしているのでしょう

「根を養えば木は育つ」

ですね、

しっかと準備ができないことには

そう容易くは若葉を出さないのです

 

根のことを仏教では

「コン」と読みます。

ハタラキということです。

辞書には、

力があって強い作用を有する

とあります。

般若心経に出来る

「眼根・耳根・鼻根・舌根・身根

 意根」がそれにあたります。

つまり六根清浄のそれです。

六根清浄とは私たちのすべての

行いや心に思うことを清めていく

ということです。

しかし根とはまだたくさんあって

さらに付け加えて、

「女根・男根・命根・楽根・苦根・ 

喜根・憂根・捨根・信根・勤根・

念根・定根・慧根・未知当知根・

已知根・具知根」

を合わせて二十二根といいます。

 

何気なく暮らしている私たちにも

このような二十二根の上に

成り立っているのです。

私たちもたくさんの根を張っている

ということでしょう。

 

檸檬の木も今しばらく!

準備をしています

というところでしょう。

 

野の花たちも

 

 

自然に生えたのでしょうか

エンドウや

 

 

ハコベも咲き出しています。

鳥のえさに取ったことを思い出します。

 

春はいのちのハタラキを

目の当たりに見ることができ

楽しいものです。

 

 

 

 

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ラウンド(四方正面)

2019-04-22 20:52:09 | フラワー

五重塔はどこから見ても美しい

どこから見ても変わらぬ姿

そういう形に作られたのでしょう。

 

 

今週のお花の題は「ラウンド」

どこから見ても美しい姿

 

 

言い方によっては「四方正面」

ともいうよです。

 

 

左から見ても良い形です

 

 

ちなみに上から覗き込むように

見てもそれぞれの花がいい表情

 

 

右から見ると

バラが存在感を示しています

 

 

やや後ろに回ってみても

また違った花たちが

違う表情を見せています

ついでに下から見上げてみると

 

 

可愛い如雨露が

その形を表します。

 

 

ほんとうにどこから見ても

花々も競い合うことなく

お互いに協調し合って

それぞれを引き立てているようです

 

そういうと、

十一面観音や

十一面千手千眼観音(千手観音)は

頭の上に十の顔を乗せています

頭の上にぐるりを顔を頂き

その頭頂にさらに一つ顔があります

それを「仏頂面」(ぶっちょうめん)

言い方によっては(ぶっちょうづら)

ぶすっとした顔をぶっちょうづら

悟りすました顔から

そう呼ぶようになったのでしょう。

そして、

その一番後ろの顔は

「暴悪大笑面」という

大笑いした顔があります。

人間の悪を笑い飛ばす表情でしょう

前に出ている顔は

すべて美しいのですが

誰にも見えない所の後ろでは

人の煩悩を笑い飛ばす不敵な笑みを

浮かべた顔があるのです。

 

今回の花は「ラウンド」

丸い・円形という意味です。

ラウンドテーブルという

言葉もあります。

上下の関係なく皆平等に

ということでしょう。

裁判(民事)でも最終段階は

ラウンドテーブルという

設定になってきます。

裁判官も弁護士も原告被告も

円卓に坐って話し合いをするという

 

まあ、ラウンド・四方正面

面白いですね

いろいろな使い方がありますが

人間もラウンド、平等で

同じ立場で話し合いもでき

個人としてはどこから見ても

変らない姿、

姿勢でありたいものです。

 

 

 

 

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岩屋山・志明院参拝

2019-04-21 20:51:41 | 住職の活動日記

4月21日は弘法大師の祥月命日

弘法大師も修行をし

日本で最初の不動明王を刻まれた

という雲畑の「志明院」へ

道は鴨川に沿って登っていきます。

右に行けば貴船神社、

そこを左へ曲がり道は細くなります

 

 

すると広がってきた光景が

広がってきます。

昨年の台風の傷跡です

これほどまでにひどかったのか

 

 

 

倒木の多さに驚きます

やっと道が通れるように

道に倒れた木は取り除かれている

ものの原状復帰は至難の業です

 

 

道は細く離合するのも大変

時折出会った車に

どちらかがバックしたり

道を譲りあって進んで行きます

 

 

このような道がずっと続きます

でも、バスも通っているようで

時折バス停を見かけます。

集落を抜けて

 

 

ここを左折さらに道は細くなります

京都市内というものの

まさに京都の秘境というところです

21日の日曜日

ということもあるのでしょうか

よくお参りの方と出会います。

やっと到着です

駐車場は10台ほど停められる広さ

そこから、志明院へ

 

 

立派な山門が見えてきます。

この広場で山内の説明を受けて

京都の魔境といわれるだけあって

昭和23年に司馬遼太郎さんが

新聞記者時代、ここに宿泊したら

夜な夜な三つの物の怪たちが

やってきて賑やかだったとか

その話を宮崎駿さんにしたら

「もののけ姫」の話の題材になった

ということです。

 

そのせいか、門より先は

神聖な場所ということで

カメラは受付に預けて

階段を進みます。

 

階段も自然石で出来たもの

結構急な階段を上がっていきます

本堂でお参りして

次は左に折れて岩屋へ

ここにも不動明王お祀りしてあり

護摩をたくような形になっています

岩の上からは水が滴り落ちています

この一滴の水が集まり

鴨川となり京都の市民の喉を潤して

いるということです。

 

奥の院には、

ここも不動明王で、

菅原道真が彫ったということです

上がったり下りたりと、

結構な難行です。

 

またここは歌舞伎十八番「鳴神」の

舞台になったところでもあります。

世継ぎのない天皇からの依頼で

鳴神上人がご祈祷をする

すると見事願いが叶うのですが

天皇は寺院を建立するという

鳴神上人との約束を破ってしまう。

怒った上人は龍神を志明院の滝壺へ

閉じ込めてしまう。

すると都は日照りになり

一滴の水も降らなくなってしまう。

宮中では都一の美女雲の絶間姫を

上人のもとへ遣わす

さすがの上人も思わず

その身体に触れてしまう

すると法力も無くなり

酒で酔いつぶれたところを

姫は滝壺の注連縄の結界を切って

龍神を解き放った。

すると一点にわかに掻き曇り

雨が降り出したという

その音で酔いが醒めた上人は

烈火のごとく怒り

姫を追いかけたという、

物語です。

 

しかし、

4月末は「シャクナゲまつり」

 

 

今まさに開き始めている

ところです

これから一面シャクナゲの花で

覆われることでしょう

 

 

大きな椿の木もあり

この花もこれから満開を迎えます

 

 

 

集まった水はここから流れ落ち

大きな流れになって

 

 

鴨川となっていきます

この小さな水たまりに

よく見ると「ハヤ」という魚

ここから流れ落ちたら死んでしまう

雨が降って水かさが増すと

必死になって岩とかのすき間に

身を潜めているそうです。

水が流れる1㍍四方もないような

小さな棲家が彼らの世界です。

 

参拝を済ませ下山

心も落ち着きやっと

 

 

木々の美しさも目に入ります

行く時は道の狭さと

倒木に圧倒され景色も眼に入りません

 

 

ここはまだ春の気配がいっぱいです

 

 

さくらは語りかけるように

下を向いて咲きます

美しさがふりそそいできます。

 

 

降りてくると

鴨川はゆったりとした流れ

 

 

さくらも終り

 

 

新緑に包まれています。

おにぎりを食べていると

スズメも寄ってきて

一緒に軽い虫やしないです。

 

さすがに今日の石段は堪えました!

 

 

 

 

 

 

 

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