本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

身と心

2023-08-30 20:03:28 | 十地経

身と心ということも

難しい問題です

心は自由にいろいろと

思うものです

それで師匠の口癖で

「ここころ変わるから心

というのだ」、

ということですが

好きと思っても何かの都合で

嫌いになったりと

周りの条件で変します

その心を限定しているのが

身ということです

身ということは

現に今いるここということを

限定します

 

そういうこともあって

からだということも

あえて、身体というように

使っています

ただのボディーではない

ということで

身というのは心と体が

一つになったもの

ということです。

 

講義では

「身体は物質で、心と違うと

デカルトはこういうのですが

それは大体心というものを

主観と考えるから、

初めから間違いなんです。

心といっても幽霊の心ではない

主観というようなものじゃ

ないのであって、

誰かの心なんです。

 

誰かといえば、

身があるわけです。

身というものを離れて

別に心を考えれば、

それは観念というような

ものです。

 

我々が現に生きて

意識している心は、

身をもった意識だ。

心身ということで

一つの存在を表すわけです。

存在ということを表している

すべての経験はこの身の上に

起こることです。

悩むことも喜ぶことも

どんなことも

これを場所として起こる。

 

ただ心身という物じゃあない

これ、一つの、

何といいますか、

『於て』というような

もんですね。

よくいう、

In‐der-Welt-Sein

イン‐デア‐ヴェルト‐ザイン

(世界内存在)

というように、

Welt、世界という意味を

もったもんやね。

心身というのは

物じゃあないんだ。

あらゆる経験の成り立つ

世界なんだ。

それを『於て』という。」

 

身ということは

ただの体ボディーと

いうだけじゃなく

自分の経験の成り立つ場所

それが身体ということです。

この話は

そこから大きな意味をもって

展開するのですが

今、繰り返し読んでいるの

ですがなかなか難しい。

 

ですから、

さとりにしても

迷いにしても

その成り立つのは心ではなく

身体という大きな意味を

もっているようです

人の身体というのは

心と体が一つになったもの

体という物ではない

ということなのです。

 

 

 

 

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あしたもよろし ゆうべもよろし

2023-08-28 19:55:10 | 住職の活動日記

好きな詩です

床の間に掛け軸として

掛けてありました

 

 

山あれば山を観る

雨の日は雨を聴く

春夏秋冬

あしたもよろし

ゆうべもよろし

すなほに咲いて

白い花なり

 

という歌なんですが

この詩を見た時

ふと思い出しました。

 

あるご婦人です

ちょっとしたご縁で

本蔵院にお参りに

おみえるようになりました

たまたまだったのですが

今週の言葉で

この歌に出会われて

それ以来

この歌が自分のものになり

まるで

お念仏のように

「あしたもよろし

 ゆうべもよろし」

と口ずさみながら日参される

ようになったのです

 

初めはただ

おロウソク、線香をあげ

外から本堂にお参りし

修行大師さんにお参りして

帰るという

歩く距離も

ちょうどよかったのでしょう

本当に毎日続いたのです

 

それから

次第にお不動さまの護摩

春秋のお彼岸

星まつりと

この方の姿を見かけない

行事はなかったのです

 

 

そのようなことを思い出しながら

しげしげと

このお掛け軸を眺めていました

 

何でもないことながら

続けるということの大切さ

あらためて思い知ります

そして

「すなほに咲いて

 白い花なり」

何かしら修行の大切さを

語っているようでもあります

 

 

 

 

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懺悔-罪を知るといいうこと

2023-08-26 12:00:13 | 十地経

地に入り住し出る、という

入・住・出

入るというのが加行道

そして、住する

ということに二つあって

初めて住する、正しく住する

そのことが、解脱道・無間道

ということで

その無間ということの説明で

話しが広がっていきます。

 

講義を読んでいきましょう

 

初めて住すると、

正しく住すると、

この二つになって、

無間・解脱という構造に

なっているんです、住が。

住というものが無間・解脱

という構造になっている。

それに加えて、

この、前の方は、加行です。

 

加行によって住し、

また住することを完成する

ために勝進していく

というわけですが、

その住が無間・解脱という

構造になっている。

 

これは、たとえていえば、

間違いを知るということと、

真理を知るということとの、

その動き方ですね、

間違いを知ると、

ああこれは間違いだったと、

それから真理を知ると、

こういうこととね。

 

その間違いは、

闇が消えていくと、

光に逢って闇が消えていくと

その時に

闇が消えていくことと、

光に逢うということの間に

何がないんですね、間が、

媒介者がね。

これは大事なことじゃ

ないでしょうか。

媒介者がない。

 

何かによって出し、

何かによって得るのじゃなく

あの光に … 。

つまり

闇を知ったということが

光であってですね、

闇を知ったということと

光に逢ったということの

間がないんです、

それを媒介するものが。

これは精神生活の 

一つの構造。

 

この無間ということの喩えで

懺悔ということが出てきます

仏教では「さんげ」と

濁らないで、普通は「ざんげ」

というようにいいます

読み方も違うし

その内容も違ったものに

なっています。

 

では講義の続きです。

 

たとえていえば

懺悔ということをよく考えて

みれば、

懺悔ということは、闇、

罪を知ったことですわね、

懺悔というのは。

 

回心懺悔(えしんさんげ)

という。

懺悔ということは、

慚愧ということとは

違うんです。

これは非常に違うんです。

慚愧というのは、

これは倫理的反省なんです。

理性が反省する。

倫理的な意識が反省する。

懺悔(さんげ)は違うですね

もっと深い、あのいわゆる、

 

何といいますか、

意識のもっと深まった意識に

おいて成り立つもんであって

懺(さん)というのは、

これは音を写したんですから、

意味じゃあないんだ。

こっちは「慚」というのは

「恥じる」という意味

ですから、これは意味がある

懺(さん)は音ですから。

 

だから、内容は

「懺悔(さんげ)」という

ことは回心(えしん)です。

回心懺悔、

回心のことを懺悔。

 

「懺悔(ざんげ)」という

方は回心じゃあない。

「懺悔(ざんげ)」するのは

恥を知ることで、

理性をもった人間の

理性的反省です。

しかし、

理性という立場を超えた

わけではない。

だから非常に

「慚愧(ざんき)」という

ときには苦しむものです、

理性の苦しみ。

 

「懺悔(さんげ)という

のは、

これは救われておるんです。

「懺悔(さんげ)」で

苦しんでいる

ということはないでしょう。

「懺悔(さんげ)」している

のになお謝れと、

そういうことはいえん。

「懺悔(さんげ)」という

のは罪の自覚ですけど、

罪を自覚しているからして

その罪までなくなれ

という意味じゃない。

 

罪を自覚したら、

それで罪を超えているんです

罪を自覚して、

もう一つ、

更に罪を捨ててしまう

ということはないのです。

 

罪を知るということと

罪を超えるという

ことの間に媒介者は

ないんです。

この構造は非常に大事ですね

間が無いということがです。

 

ということが講義です

難しいですが

丁寧に読んでいくと

何となく分かるのでは

ないでしょうか。

 

お釈迦さまも

さとりを開かれた時

「大工が見つかった」と

自分の迷いを構成している

その大工が見つかったと、

ですから

迷いが見つかることと

さとりを開くということは

間が無い(無間)です。

また、

「降魔成道」

(ごうまじょうどう)

という表現もあります

魔を降すということと

成道、さとりを開く

ということも

無間、間が無いと

いうことでしょう。

 

 

 

 

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『十地経』の主役「金剛蔵菩薩」

2023-08-24 20:06:54 | 十地経

『十地経』は

金剛蔵菩薩によって説かれた

経典です

金剛蔵菩薩、

金剛ですから金剛不壊とも

いうように

辞書には、

堅固で絶対に

壊れることのない智慧を持ち

無尽の功徳を与える菩薩

とあります。

 

しかし、

ただ説くというのではなく

その背景に、

「言わん如来を菩薩が語る

菩薩の世界は背後に如来の、

いわゆる不可分の世界を

背景として持っている」

ということがあります。

 

それで講義では、

 

「安心というと、

堅固ということです。

経文に『よく堅固に住す』

『不動の法をもっての故に』

とありましょ。

堅固にして不動の法、

その堅固に住する

ということがですね、

実際いうと、

金剛蔵菩薩といって、

『十地経』の経文は、

金剛蔵菩薩の、

仏陀の説法ではないんだ、

金剛蔵菩薩の説法に

なっているんです。

 

金剛蔵という名前が

つまり堅固という意味。

金剛堅固という。

これは頑固という意味じゃ

ないんです。

無限に展開すると。

しかし展開するんであって、

それはただ動いている

というんじゃない、流れて。

展開するんであってですね

ただ流れていると

いうんじゃない。

 

縁に添って流されている

のではないんであって、

動いているけれども、

流されているのではない、

展開するのだと。

したがって

展開するが故に、

一層自己が自己となるんだ。

それで堅固なんだ。

自己を失わんのやと。

 

そういうわけで、

ちょっというと、

堅固ということは、

頑固になることのように

思ったりね、

そうじゃないというと、

今度は動くんだというと、

動かされて流されてしまう

ということになったり、

 

そこらの分別が

なかなかちょっと混乱する

かも知れませんけどもですね

その堅固ということと、

それからして動く

ということは決して矛盾

いないんです。

 

あの、精神というものが

動いても

精神に動いていくんです。

精神というものが

精神でない縁に

遭うんですけど、

そうすれば、

逢うものになっていくじゃ

ないんですね。

 

逢うものを媒介として、

精神が一層精神になるんです

から、

それで堅固というんだ。

他のものになってしまうなら

それは流されてしまう

ということです。

 

それからして、

逢っても知らん顔を

していると。

もうすでにできたので、

もういっぺんできたら、

もう動かんという。

そういうようなのは頑固

ということでしょう。

固定したことですね。」

 

堅固と頑固

似ているようでも

まったく内容が違っている

この講義のあとも

問題になって

一時ブームになりました。

「あんたは頑固だ」とか

「いやそうじゃない堅固

なんだ」と

 

また、流されるということも

安田先生の奥様、

よく、

キリスト教の方が勧誘に

来られたそうです

何日も、

そこで話せば話すほど

自分の立場がはっきり

してきたそうで

お互いに、自分は仏教を

私はキリスト教を信じて

よかったということが

ますます明らかになったと

そういうことが

あったそうです。

 

普通は、

どちらかに引き込まれて

いくのですが

それか、初めから

話も聞かないと

そういうようになるのですが

自分が明らかであれば

聞くこともできるし

流されることもない

そういうことになるのでは

ないでしょうか。

 

 

 

 

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「入・住・出」

2023-08-23 20:40:16 | 十地経

『十地経』というのですから

その地(じ)に入る

そしてその地に住し

さらにその地を出ていく

という段階があります

それぞれの地に

入り、住し、その地を出る

そういう構造です

 

そのことを

「四道」に当てはめると

加行道というのが「入」です

そして

無間道と解脱道が「住」で

勝進道というのが「出」に

あたります

 

たんに修行といっても

こういう段階があるのです

その地に入り、そこに住し

さらにその地から出ていく

ということです

 

講義では

「地という意味は、

第一に地は住するところを

地というんですから、

地を得るということは、

住するということでなけりゃ

ならんが、

ただそこに、

いつまでも腰掛けて

しまっているという意味

ではない。

 

何か、我々を成り立たせる

という、我々から得た、

我々が得た智慧が、

かえって我々というものの

地になると、

こういうわけです。

我々の獲得した智慧

というものが、

かえってそれが我々の大地と

なると、

こういう意味で、

そこに住する。

安住するという意味で、

住というのは、

安住するという意味ですね。

 

安住するというのは、

信念の確立ですから、

精神の確立ということを

表すんですから、

大地というものを持つ

ということですね。

 

それでないと、

絶えずふらふらしている、

縁に会う毎に、

動かされどおしに

動いていると。

 

そうでなしに、

精神の安住を得ると、

立脚地を得ると、

こういう意味で「住」

ということは地という

ことを表すんですけど、

しかし

それは住したということは

固定したという意味ではない

住したというたら

固定したように思えるけど

そうじゃあない。

かえってむしろ人間、

広い言葉でいえば、

菩薩行というものの実践

ですけど、

智というのは

実践の主体ですね。」

 

なかなか難しいというか

言葉が厳密なので

そのようにも感じますが

地に入り、住して

安住することで自分の

信念を確立して

そこに止まって

しまうのではなく

そこから出でてさらに進む

ということなんです。

 

そういうことが

はっきりしないと

やはり、ふらふらする

よく三浦先生から

「お前は浮いたが瓢箪」

だといわれましたが、

こういう言葉があるかどうか

知らないのですが

瓢箪が水に浮いて

波が来るたび流されるように

心が定まらない、と

 

しかし、人の心とは

そう簡単に腹が決まる

ということはないようです

やはり、聞けば聞いたことが

気になってくるし

そういうようになびいていく

ものです

 

また反対に

これと思ったらそれを

握って離さない

というのも問題で

それを「固定」という表現

で言っておられるようです

ふらふらするのも問題ですし

また、「これと」決めて

離さないもの問題です

 

だから、「出」という

ことが出てくると思います

勝進道、さらに勝れて進んで

行く道だと、

ここまで来たら一服と

いいたいものですが

やはり死ぬまで修行と

そういうことなのでしょう。

 

 

 

 

 

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四道・修行の循環

2023-08-22 20:40:30 | 十地経

茶道・柔道・剣道・弓道

などなど道とつくものが

ありますが

ただのテクニックではなく

そこにはそのことを通して

自分を発見していくという

そういうことで

「道」という名前を付けた

のでしょう。

 

四道(しどう)という

修行の段階があります

仏教では煩悩を断じ

真理を證得するという

ことです。

辞書をみて見ると

 

⑴加行道(けぎょうどう)

 煩悩を断ずるための準備的

 実践。

⑵無間道(むけんどう)

 まさしく煩悩を断ずる道で

 無間隔の意味で無間と。

⑶解脱道(げだつどう)

 煩悩を断じて解脱の真理を

 證する道。

⑷勝進道(しょうしんどう)

 さらに進んで他の煩悩を

 断じようとし、

 この時は勝進道は次の

 煩悩を断ずるための加行道

 となる。

 

このように出ています

ここで気になったのは

加行道から出発して

勝進道まで行けばそれで

完成かと思いきや

また、加行道に戻ってくる

ということです。

 

『十地経』には対治タイジと

いうことが常に出てきます

一つの地を完成すると

完成したということは

次の障りが見つかったと

いうことで

そこからまた次の対治が

始っていくというように

やればやるほど自分の未熟さ

ということが見えてくる

 

頭で考えると

また戻ってしまうのかと

思ってしまいますが

実践してみると

出来ないことが、まだまだ

ということが

分かってくるのです

 

そういう意味で

修行というものは循環する

ものだと思うのです

 

無間ということは

間が無いと書きます

無間地獄という地獄も

あります

ここでいう無間は

よく講義の中での喩では

千年の闇もマッチ一本の光で

消えてしまう

闇が消えて次に

光がやって来るというのでは

なく、それは同時だと

光が見えれば同時に

闇は消える

そういう間が無いという

ことで無間といいます

 

ここでいう無間道とは

煩悩が断ぜられた

ということは道が見つかった

ということで

道を歩むということが

煩悩を断ずるということで

それが同事であるという

ことでしょう。

 

なかなか道が見つからないで

うろうろしているのが

私たちのあり方のようです

 

講義では

「生まれたる者から

生む者へといって、

生まれたる者が生む者から

独立して歩むんです。

それで逆に新しい生む者を

作っていくという、

生まれた者がね。

 

そういう意味で、

生む者から生まれた者が

出てくるけど、

その生まれた者が真に完成

するというと、

今度は逆に生む者を離れて

逆に超えて、

生む者を生んでいくんです、

新しくね。

そういうところに

完成という意味がある。」

 

というようにあるのですが

なかなか難しい文ですが

やはり修行というのは

直線的でなく円環を

描くように行きつ戻りつ

しながら進んでいく

そういうことが完成という

ことのように思います。

 

逆にいえば

何も障りがないということは

問題意識も起こらない

ということは

歩んでないということが

いえるようにも思います。

 

 

 

  

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『十地経講義』の断片

2023-08-21 20:36:05 | 十地経

講義の中でいくつか

テープが録音されてなくて

先生方の講義ノートより

書き起こした

講義録があります。

まあ、

内容の濃ゆいものですが

ここまでよく聞法されている

ことが驚きです。

 

私も、一応講義の時は

聞いたふりで

ノートに書き取ったり

しているのですが

後で見ると、

何のことだったか

自分でも分からないこと

が多いのです

たまに、

感動した一つの言葉で

広がっていくことも

あります。

 

そこで、ここのところは

断片的ですが

次のような言葉になります。

 

「そういう矛盾に耐える

ような精神・心を願心と

いうのである。

すなわち難関・矛盾を

転機として無限に自分を

掘り下げていくのである。」

 

「自分は分からんから

といって止めることは

できない。

自己が自己であろうとする

ことが、分からぬから、

無理だからやめる

というわけにいかない。

たとえば

生死が分からんからと

生死を止めることは

できない。

死ぬのを死なんようにする

のではない。

死ぬことを自覚する。

 

しかたなく死ぬのでなく

自覚して死ぬ。

すれば、それが不死である。

死を自覚的に明らかにする。

生の裏は死である。

 

『生のみ我にあらず、

死もまた我なり。

我は生と死を併有する

ものである』と

清沢先生はいわれる。

どの一刹那をとってみても

生死の巌頭に立つものである

といいうことである。」

 

「欲をなくすとか

さとってしまう

とかいうのでなく、

それを隠さん。

欲の固まりである自分が

恐ろしい。

失敗あり、怒りあり、欲あり

恥あり、後悔あり、幼さあり

貧あり、そういう

パトスのジャングルの

一点一画も捨てんと

いうのである。

 

ここに願心あり。

人の前に出せないものも

捨てずして、

いまだかつてなかった

自分を完成していく。

それを修という。

その原理が願である。

それが願心である。

主体性を願心という。

 

矛盾こそ精神をダイナミック

にしていくのである。

願は矛盾を契機として

成長する。

矛盾において願は

スタティックでなく、

ダイナミックになる。」

 

こういう言葉は

原理的な言葉であり

ここから色々の

考えが生まれてくると

思うのです。

漠然と聞けば

何のことやらわからない

と思うのですが

聞かれた先生方も

ただ自分が感動した言葉を

書き止められたのです。

 

こういう言葉は

一つ一つ考えてみると

「矛盾」ということも

人生は矛盾だ

といってしまえばそれだけ

ですが

矛盾ということを

自分の問題として考えると

「十善戒」の第一は

不殺生戒です

生きもの命を

取ってはならない

ということですが

 

私たちは他の命を頂かないと

生きていけないという存在

です

他を殺生しなければ

食べなければ

自分を殺してしまう

ということになります

 

食べれば、殺生

食べなければ自分を殺生

してしまうという

ことになります

 

ですから、

生きていること自体

大きな矛盾を抱えて

生きている

ということになります

こういうことも

考えれば大きな問題です

 

そういう問題提起のような

言葉だと思うのです。

 

 

 

 

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人間の問題意識

2023-08-19 21:06:57 | 十地経

振り返ってみると

高校生の頃に感じていた問題

その問題を

今だに持ち続けている

ある面からいえば、幼い

成長していない

ようにも思えるのですが

ほっとするような一文に

出会いました。

 

「思想というのは、

やっぱりある時期が

あるんじゃないでしょうかね。

まあ

私自身の経験からいっても、

20歳ぐらいに思想問題を

もたなかったら、

問題にはならないと

思うんですよ。

 

年が50になってもという、

そんなところから

問題が出るもんじゃないんで

あって、

若い時代です。

いわゆる物心のついた

時代ですね。

『人生とは何か』と、

漠然と考えた時代に、

やっぱり問題が出るんですね

それを一生かかって深め、

そして基礎づけていくんです。

 

年がいってできるのは、

本を読んだり経験したり、

まあ学問が横に広がって

いくだけですね。

思想というものは、

横に広がるものではなく

縦に深められるものです。

 

まあ人によって

違うかもしれませんが、

ある時期じゃないかと

思います。

それは年がいってから

だんだんできるという

ものではないと思います。

 

人間というものは、

そうたくさんの問題を

もてるものではないと

思うんです。

自分が果たさねばならぬ

問題は、

若い時代に何か一つ

あるんですよ。

 

それは浅くていいんです。

浅くてあたりまえでしょう。

あとは深める努力ですね。

そういうもんじゃないかと

思うんです。

 

息を引きとるまで

思索が続くということは、

これはちょっとないことで

あってですね。

まあ曽我先生という人は

そういう人でしょう。

 

死なれる前に

私は訪問してきましたけれど

寝床のなかでですね、

臨終正念ということが

今初めてわかったと、

今、息を引きとる

前になってからですね。

 

それはもう

歳をとって目が見えん

ですから、

本を読むということは

されないですが、

思索というのは

そこまで続いているんですね

 

西田(幾多郎)先生でも

そうでしょう。

そういう人は珍しい

人ですね。」

 

ということなんです。

そこまで深くはないんですが

ただ、

忙しさに浮かれていた時

三浦先生から電話があって

「えらい、呑気な話やね」

と、厳しい言葉を

言われたのです。

忙しいなら、それはそれで

いいではないかと

思っていた矢先、

先生にしたら、第一義

まず何をしなければ

いけないか

そういうことを

まず考えなさい

ということだったのです。

 

それ以来、

高校生の時にもっていた

問題が頭からはなれなく

なってしまったのです。

 

今だに持ち続けている

ということは

本当に成長していないのです

出来れば、

そういう問題が亡くなる時

まで続けばいいのですが

寝込んでしまうと

何が出てくるか

これも大きな問題です。

 

とんでもないことが

出てくるかも ?? です。

 

 

 

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道元禅師示寂の地

2023-08-17 21:17:48 | 住職の活動日記

家からほんの近くに

道元禅師示寂の地という

ところがあります

偶然にも出逢ったのです

 

 

烏丸通の高辻通を西へ

左へ行くと

高辻通もいろいろあって

 

 

繁盛神社という

ご利益をそのまま名前にした

そういう小さな神社があり

そこを通り過ぎ

 

 

菅大臣神社という

菅原道真が生まれた地

ここに邸跡があったと

伝えられています

そこを過ぎて

 

 

高辻通と西洞院通の

交差点を過ぎると

 

 

道元禅師が示寂された地が

小さな場所で残っています

中に入ってお参りすることも

出来るようで

 

 

柵の中に入り

お参りをしました

ふと、

こういう町のまん中で

亡くなられた

その跡地には立派なお寺が

建てられることもなく

ひっそりと

最後の足跡を残しています

いかにも道元の生き様を

見るようです

 

前の立て札には

道元は正治2年(1200年)

京都で生まれ

比叡山で出家

その後、

建仁寺で栄西の門下に入り

禅を学び、

貞応2年(1223年)入宋

帰国後は曹洞宗の開基となる

興聖寺を深草に建立

今は宇治の地に移り

紅葉の頃にはとても賑わいを

みせています。

 

晩年には、権勢から逃れ

福井の地に永平寺を建立して

静かな地で専ら座禅に

励まれました

しかし、病になって

永平寺も弟子に譲り

 

建長5年(1253年)

俗弟子の寛念の邸に移り

(この地がその場所です)

この年の8月に54歳で

その生涯を閉じられました。

 

講義の中でも

道元の話はよく出てきます

先生もその生き様には

深い感動をもっておられた

のです。

 

思い出すのは

道元が宋に行った時

港に着くと

向うの老僧がやって来て

日本から船がついたので

椎茸を買いに来た

というのです。

道元がその老僧に

買い物なんかせずに

もっとお寺で勉強したら

どうかというのです

 

後で、その老僧が

自分が目指すお寺の住職

ということを知るのです

それから

典座(てんぞ)といって

道元の寺では

料理を作る僧が一番偉い位に

なったということです。

 

道元は日常生活のすべてが

禅であるということで

「行住坐臥」すべてが

禅に叶わなければならないと

ひたすら座禅をするという

「只管打座」

を中心に据えられました。

 

座禅して仏になるのでなく

座禅そのものが仏なのだと

一時座れば、それが一時の仏

であるという

仏という固定したものでなく

動きのある、行仏という

ことを説かれたようです

 

「只管打座」

只管、ただひたすら

打ち座る

とても強い力のような

普通でいう「ただ」とは

違うのです

これしかないというような

そういうものを感じます。

 

意外と

このような近くに

道元禅師の示寂の地がある

というのは驚きです

そしてまた

このような街の真ん中で

亡くなられたというのは

人込みの中で亡くなる

永平寺という立派なお寺を

持ちながら

亡くなるのは街の中で

何かしら

道元の生き様を表している

そのように感じました。

 

 

 

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ななめ大文字

2023-08-16 21:04:00 | 住職の活動日記

五山の送り火です

我が家からはかろうじて

ななめの大文字が拝めます

 

 

このような感じですが

ベランダからはこのくらいに

して、あとはテレビで

鑑賞です

 

大文字の中央には

弘法大師をお祀りしたお堂が

あり、そこで読経の後

その火をもって

種火に点火します

 

 

これが種火です

この火が燃え上がると

 

 

そこから松明に火を移し

次々に点火していきます

そして一番最後は

左大文字です

 

 

その大文字が燃え上がる頃

最初の大文字は消えかかって

いきます

まあ、今年は台風接近で

どうなることかと

心配したのですが

無地に勤めることが

出来たようです

 

我が家でも

仏壇にお光を灯し

香を焚き

ご先祖さまをお送りいたし

ました

 

 

熊本の本蔵院の仮本堂で

住職と式衆により

送り火のお勤めがおこなわれ

ご先祖さまを

お送りしたようです

「万灯会」は

11日におこなわれ

多くの方の参拝があった

ということのようです

 

町には

 

 

お盆のお供え物を入れる

京都市の段ボールが

準備されています

最近では、盆休みも

少なくなったような気がします

とくに、企業とかでは

特に盆休みとかは

なくなって、順次休みを取る

というかたちのようです

 

むかしは、

盆正月といって

奉公人の方はお盆とお正月が

休みだった

そのときは、

ご先祖さまを迎え

親戚一同が集まり

ゆっくりとした時間を

過ごしたものです

 

京都の人にとっては

祇園祭よりも

五山の送り火を大切に

しているようです

これで、お盆も終わり

明日からはまた

仕事がはじまるという

大きな区切りの時でも

あるようです。

 

 

 

 

 

 

 

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