本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

お寺とは… 何か?

2018-11-30 20:54:57 | 住職の活動日記

美しい秋晴れです。

晴耕雨読ではないですが、

朝から一日外の掃除です。

 

 

朝日に照らされたモミジは

美しさを増して

 

 

本蔵院のモミジかしらと思えるほど

美しさが際立っています

 

庭の掃除をしながら考えが

ふと浮かんできます。

お寺とは何だろう

お寺のハタラキとは

お寺の必要性とは

これからお寺も大変な時に

なろうかと思います。

 

2025年問題

団塊の世代の人たちが後期高齢者

医療やら保険のこととか

それから、火葬場の問題

ベビーブームの人たちが亡くなる

という問題等などがあります。

 

今の宗門系大学では

入学する子ども達の減少ということが

末寺の子どもだけで運営するという

大学では

それこそ経営難の問題が出てきます

もうお寺の跡を継がないという

ことなのです。

 

2025年を過ぎた頃から

人口の減少が始まるでしょう

ということは

お寺の数が半分近くになってしまう

という事になっていくようです。

 

お寺にもいろいろあって

京都のような観光寺院と

檀家さんだけに頼っているお寺とでは

それこそ格差が生まれてきます。

 

お寺のあり方も色々になってきます

国宝とか文化財を有するお寺は

それを維持していくという

国宝の番人になってしまうような

あり方もあるでしょう。

観光客相手のお寺も今は大丈夫かも

けれども、

それもあだ花のようなもので

ずっと続くわけではありません。

金閣寺でも昔の写真を見ると

人も少なく金閣寺の中から庭を見せて

いたようです。

 

これからお寺のあり方が問われてくる

そういう時代になると思います。

宗教とは何か、

仏教とは何か、

お釈迦さまは何を説かれたのか

お寺の役目とは何なのか

そういうことが問われてくると思います

そういう面からすると

本当のお寺のあり方が分かり

いいことかもしれません。

 

今日も一日中外にいると

色々な方がお見えになり

久しぶりに会う方、いつもの方

外にいるということで

色々な話も弾みます。

庭を掃いていると話しかけやすい

のかもしれません。

 

掃除しながら無性に

そんなことが気にかかってきます。

弘法大師の言葉に

「虚往実帰」

むなしく往きて、満ちて帰る

ということがあります。

悩んで苦しんでお寺に来て

苦しいことを聞いてもらい

悩みをぶちまけて

心が静かになると何かしら

心が満たされるものを感じる

のでしょう。

ある面では

お寺とは愚痴の捨て場

ということもいえると思います。

 

 

修行大師は一段高いところから

見下ろして

世の人々の悩みを静かに

聞かれているようです。

観音さまというのも

観世音ですから世の中の

苦しみ悩みをじっと見聞きして

おられる姿でしょう。

 

どこの世界におきましても

安泰なところはひとつもありません

いずこの世界も不安と隣り合わせ

それこそ「不安に立つ」

という覚悟が必要なのです。

不安ということでおろおろする

ということではなく、

不安を背負って立つということです

『十地経』でいえば

一歩一歩の歩みを止めないで

歩き続けるという

死ぬまでの修行ということです。

 

お寺も歩み続けないと

そして問題意識を問い続けないと

いけないような気がします。

 

庭は帰していると

そんなことが止め処もなく

出てくるのです。

 

今日一日紅葉を見ながら

楽しくもあり心配なような

気がかりのような

そのような一日でした。

 

 

 

 

 

 

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主体性と我執

2018-11-29 17:54:15 | 十地経

色々な場面で

「主体性」ということが

問題になるようですが、

もう一つ、

仏教的には「我執」ということも

同じ意味合いがあって

注意深く考えてみなければ

いけないように思います。

 

『十地経の講義』では、

主体性というのは

非常に大事なんですけど、

これ用心しないといけない。

多くの場合、

主体性と言っているのは

仏教の立場から言えば我執です。

我執ということと自覚ということは

紙一重です。

主体性主体性というようなところ

には、もう主体性はないんです。

主体を固執しているだけです。

 

道元禅師の言葉は非常にいいですね。

『仏法を習うというは自己を習う』

ことだと、

法に照らして自己がわかる

というんです。

法ということがなければ

自己をみるわけにはいかない。

(そして)

法を見れば自分は消えるんです。

そこで、

(本当の)自己が成り立つ。

しかし、それだけじゃなくて

『自己を習うというは

 自己を忘るるなり』

自己を見るとは何かというと

自己を忘れることだと。

それが大事なことです、

自己を忘れるということが。

(本当の)自己は

自己をつかまえおくことじゃない

自己を超えることですね。(自分の主観を)

真理を見た人は自己に死ぬんだ。

そして真理に生きるわけです。」

 

とあるのですが、

自己に死ぬというのは

自分の我執に死ぬということでしょう。

 

なかなか、我執を破るというか

自分の我執に死ぬということは

至難のことのようです。

生まれもって身についてきた我執

そう簡単に

取れるわけではありません。

 

我執ということが

なぜ付いてきたかというと

本当の自分ということがわからない

からなのです

分からないならそのままかというと

本当でない自分を

本当の自分と固執してしまうのです

そこから我執が始まります。

 

人間は妙なもので

本当のことが分からないと

そのままでは終わらずに

本当でないものを

本当と思ってしまいます。

それでますます

我執が深くなっていくのです。

 

『十地経』ということも

その我執を破っていく修行の段階

ということです

この我執ということは強いもので

自分の我執を破って

智慧が目覚めたと

すると、智慧にしがみついて

法執という

これが悟った法なのだと

法に対する我執が出てくるのです。

 

ですから、

修行ということは無限に続く

それを

十という地で表したのでしょう。

そこに、

平凡ということの大切さ

悟ってしまったというのではなく

何のとりえもない人間

ということが大切になってきます。

自分ひとりが悟ったと、

あとはみな迷っているという

それでは自己を絶対化してしまう。

そうではなく

とりえのない人間だからこそ

無限の修行に耐えていける

ということが出てくると思います。

 

自分はさとったんだ

といってしまえばそれで

もう自分の固執が出てきます。

そういう者を克服する為に

「十」という

くらいがあるのでしょう。

生きている限り

この固執は取れないのだと

そういう自覚が道を歩ませてくれる

「十地」という段階が

あるのだと思います。

 

 

 

 

 

 

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本蔵院の一本モミジ

2018-11-28 10:31:44 | 住職の活動日記

30年頃前、元気をなくしていたモミジ

枯れるかもしれないと

心配していたのですが 

皮ひとつに なりながらも

 

 

次第に元気を盛りかえし

もう前の井手を跨ぐほどに

成長しました。

 

 

暖冬というのに

紅葉も美しく色づきました。

 

 

身近なところで

このような出会えて何より、

 

 

今日はお不動さま、

生憎の雨になりましたが

雨に映えて

紅葉は見頃のようです。

傘を差しての紅葉狩りも

また、趣があるかもしれません

 

本堂では、

準備の真っ最中!

 

 

真緒ちゃん、

一生懸命のお手伝い

お湯のみを並べたり

 

 

お供え物の準備のお手伝いです。

 

裏方さんの方もお斉も整い準備万端です。

 

お護摩は1時からです。

 

 

 

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鷹峰は紅葉真っ盛り

2018-11-26 19:52:07 | 住職の活動日記

悟りの窓・迷いの窓で有名な

鷹峰の源光庵

 

 

山門をくぐると境内は一面

 

 

見事な紅葉に包まれています

 

 

なんだか面白い造りの門です

 

 

天気も良く紅葉も生えています

 

 

どこを見ても真っ赤な景色

 

 

その中に山茶花の真っ白い姿も

一際際立っています

 

 

これが迷いの窓

四角いのは四苦八苦を表現して

いるということです

 

 

その隣がさとりの窓

円というのは、禅と円通の心を

表現しています

写真で見ると向うのモミジが

真っ赤に紅葉しているのですが

 

 

こういう風に悟りと迷いという

世界を感じとるように

作られているのでしょう。

 

 

その部屋の床には

たぶん、陀羅尼のお経を乗せた

亀さんがいます

 

 

もう一つ有名なのが

伏見桃山城の血染めの天井です

 

 

このシミのように見えるのが

血の後のようです

 

 

本当に燃えるような紅葉です

 

 

どこから見ても風情があります

しばし見とれて

 

 

山茶花の白もいいものです

この山茶花幹も大きく樹齢も

相当の年月でしょう

 

それから足をのばし

となりの光悦恃へ

 

 

この参道も風情があります

 

 

こちらも今を盛りに

見事な景色をみせています

 

 

葉の間に落ちた

一葉のモミジ光をうけて

赤く輝いています

 

 

これが有名な光悦垣、

これを見ながら少し上がると

 

 

今度は満天星つつじの紅葉が

見事です

 

 

これを見ながら向かいの借景の山

鷹峰になります

 

 

遥か向こうには京都市内が

微かに見えるようです

 

 

何気ない石畳も美を感じます

 

 

やっと生え出てきたもみじ

小さいながらも美しい紅葉を

見せています

 

 

紅葉を満喫する

素晴らしい一日です。

 

それから、となりには

妙見さんをお祀りする

写真撮影禁止のお寺

心の中のカメラに収めてください

と山門の入り口に書いてあります

そのせいか誰もいない

ゆっくりと

心の中のカメラに納め

やはりその方が満足するような

写真に納めれば

撮ることに追われ本当の姿を

見失ってしまうようです。

 

 

 

 

 

 

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天網恢恢疎而不漏

2018-11-25 21:03:29 | 住職の活動日記

「天網恢恢(てんもうかいかい)

 疎にして漏らさず」

 

いつの頃だったか中学か高校の頃

この言葉に出会い強烈な印象があり

ずっと心の中に残っている言葉です。

同じような言葉で

 

「天知る、地知る、我知る、子知る」

 

という言葉も昔はよく使ったような

気がします。

嘘ついたら閻魔さまに舌抜かれる

ということも

子ども心に何となく恐ろしい

ことのように感じていました。

 

辞書には、

天は人間の善悪を知り尽くしている

天の網は広く目が粗くて

一見あてにならないように見えても

物をすくいもらすことはない。

善は必ず栄え悪は必ず滅びるの意。

天網とは、天が悪人を捕えるために

張る網、自然の制裁。

というように出ています。

 

こういう心のブレーキというか

生活規範のようなものが

日本人のこころに深く

浸透していたような気がします。

だからこそ、

メイドインジャパンという製品は

世界から信用されたのです。

 

ところが、

最近のテレビ新聞では

いろいろな会社の不正が見つかり

記者会見でそろって

「ご迷惑をおかけしました」

頭を下げられる光景を

よく見かけるようになりました。

 

なぜ、

こういうことが起きるのでしょう。

会社にとっての利益追求

コスト削減、

似たようなものであれば

多少手抜きしても大丈夫

ということなのでしょうか。

 

なぜ、

こういうことをするのか

分かりません。

手抜きのない立派なものを作れば

それで信用が生れ

長い目で見れば会社の発展に

つながっていくと思うのですが。

 

時を同じくするように

京都新聞の凡語の欄

13日に93歳で亡くなられた

ロナルド・ドーアさん

日本の好きな点を問われると

「生産主義」

「投機的なカネづくりより、

立派なものをつくり、

人にサービスすることが

まともな生活様式と考えられている

と、答えたそうです。

それから、

1990年代後半からのグローバル化

「構造改革」を強く懸念した。

英米流の株主優先経営でなく

地域や取引先、従業員も重視せよ、

と説いたということです。

大好きな日本が米国のビジネス大学

で教育を受けた「洗脳世代」の

「インチキなスローガン」で

作りかえらた、

手厳しく指摘されています。

その著書が『幻滅』というのは

何とも、今のこの問題を

反映しているようにも

受け取れます。

それから、

「公」を「私」すべからず

とも述べておられます。

 

今、煩悩のところを

うろうろと行きつ戻りつ

しているのですが、

中随煩悩というのがあって、

「無慚・無愧」

(むざん・むき)

というこの二つです。

この二つだけで

中随煩悩とグループ分け

しているのも面白いのですが、

慙愧の念、慚愧に堪えない

というように

自分に対しても恥じ入り

社会に対しても恥じ入る

という(はじる心)ということが

長い歴史の中で

根付いてきたように思うのですが

その根っこも段々と腐りはじめ

肝心の心のコアの部分が

欠落しだしたようにも

思えてきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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京都迎賓館夜間参観

2018-11-24 21:59:58 | 住職の活動日記

夜の迎賓館、

また違った趣があります。

 

 

東側の駐車場より

 

 

迎賓館の塀には美しい明りが

点っています。

 

 

迎賓館の門

ここからは入れません

地下の駐車場より検査を受けて

また上に上がり玄関より入ります

 

 

日本の技術の粋を尽くした調度品

 

 

一人ひとりタブレットを貸していただき

その場所に来るとアナウンスが流れ

説明が聞けます

 

 

西山をモチーフにした織物

夜の雰囲気はまた別物

 

 

天井の照明にしろ

何から何まで粋を尽くしています

 

 

この調度品も漆と螺鈿塗

 

 

賓客用の食器類

 

 

招かれないけど、

お客様はこういうような設定でしょう

 

 

まあ本当に美しい

 

 

釘隠し一つとっても

組みひもをデザインした

人と人とのつながりを

表現しています

 

 

この部屋の天井はまた違った趣

格天井を表現したのでしょうか

 

 

こちらは和室のしつらえ

この机の天板が見事です

 

 

床の間を眺めるとこのような

位置関係になります。

 

 

外からの眺め

池に移った様子は格別、

 

 

やはり夜の様子は

何とも静かな風情があります

 

 

池の中の築島です

 

一歩外に出てみると御所の中は

 

 

真っ暗です。

 

1000年前の今月今日

この御所で

 

 

藤原長道が詠んだ

「この世をば我が世とぞ思う望月の

欠けたることもなしと思へば」

たぶんこのような月

 

 

だったのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

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煩悩にゼロはない

2018-11-23 20:56:13 | 十地経

煩悩ということがわからないと

なにかしら、

無になって、心を空っぽにして

煩悩さえ起さなかったら

それでいいのでは、

と思うのですが、

 

大随煩悩というのがあって

それは八つあるのですが、

その四番目に懈怠(けたい)という

煩悩があります。

その懈怠ということを説明する中に

「善悪品の修断の事」

という一文が出てきます。

善品と悪品の修断という事、

つまり、

善品は修して、悪品は断じなければ

ならないということです。

善は修して、悪は断じる。

 

行なうという(修)と

積極的に断じていく(断)

この二つがセットにならないと

ものごとは成就しない

ということです。

 

何もしないということは

消極的にも見えるて

それはそれでいいのではないか

と思うのですが、

それはその反対で

消極的な姿に見えることが

実はきわめて積極的な

煩悩を助長させていくという

力をもってくるのです。

 

消極ということが

積極の生みの親になるという

ことが多いのです。

無明ということは

智慧がないということですから

消極的に思えます。

ところが、智慧がないと

本当のことがわからない

本当のことがわからないと

それだけでは終わらなくて

本当でないもの、

勝手に自分が良いと思ったものを

本当と思ってしまうのです。

 

あるコメントで

渡辺淳一さんは北海道出身

今まで食べた中で毛ガニが最高

と思っていたそうです。

ある時、北陸で越前ガニというか

ズワイガニを食べた時

今まで食べていた毛ガニは

何だったのか

ということを仰っていました。

 

人間は悪い癖で

本当のことを知らないと

本当でないものを

本当と思ってしまう、

ということがあります。

 

無明というのは智慧がない

それによって我執が起こる

我執は積極的であるが

無明は非常に消極的、

その無明が転倒して我執になる

私たちは、

消極的なものはあまり警戒しない

が、実は

その悪い積極的な元は

消極的なことにあるということです

 

それで、お釈迦さまの説かれた

修行の三十七菩提分法という中には

悪を断じて、善を修す

ことがいろいろな修行に出てきます

 

修行して善を勤めるということと

今まで積み重なってきた悪を

断じるということは

必ず両方行わなければいけない

ということです。

 

だから、

ゼロはないということは

一歩一歩歩み続けなければ

マイナスになってしまうという

煩悩も起さずに

おとなしくしていれば

いいではないかと思うのですが

そうではなく

対治して行かなければ

必ず我執という

マイナスの働きが起こってくる

ということです。

 

これは、やる気がない人が

周りにいると

その人だけそっとしておいて

当らず障らずでいれば

いいではないかと思うのですが

その人が一人いるだけで

その組織は次第に不満が出て

段々やる気のない空気が

蔓延してくるものです。

 

同じことで

人間の心もそのやる気のない心を

そのままにしておくと

怠け癖が付き

次々といろいろな煩悩が生まれて

とうとうかすかに残る

自分の善なる心まで

食い尽くされていくという

そこに静かに見える煩悩の

恐さが潜んでいるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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「喝!!」

2018-11-22 21:09:55 | 住職の活動日記

先日もテレビで鶴瓶さんが

話しておられたのですが

知人のお葬式に出て

お坊さんが突然

「喝!」

という大きな声を出されたので

ビックリしたと、

おとなしそうなお坊さんが

突然、言うものだから

あれは一体何??

 

そいういえば

私も知り合いのお葬式で

その方も大きな声ではなく

静かに淡々と

お経を読まれていたのですが

やはり、突然 「喝」と

大きな声を出される

中にはびっくりして目を覚ます

方もいらっしゃったようです。

 

先日の建仁寺に

そのいわれが書いてありました。

 

禅の真髄を端的に示した「喝」

一、煩悩、妄想の迷いを断ち切る喝

一、目覚めよ。と奮い立たせる喝

一、かかってこい。

    と本気にさせる喝

一、平常心是れ喝。と、大きな喝

 

というように四つの意味がある

ということのようです。

 

サンデーモーニングの

スポーツ欄で張本さんが

盛んに、「あっ晴れ」

ダメな選手には「喝」を

出しておられましたが

本当は

とてもいい意味があるのですね

納得です。

 

 

 

 

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建仁寺参拝

2018-11-22 20:20:26 | 住職の活動日記

建仁2年、栄西は南宋より帰国

     源頼家二代将軍に就任

その頼家の庇護のもと

建仁寺が建立されます。

 

 

初めてのお参りです

行きたかったのですが

祇園の花見小路を南へ、という

とても賑やかな場所にあります

昔は鴨川の東、洛外という

静かな場所だったのでしょう。

 

 

三門の望闕楼(ぼうけつろう)

「闕」とは宮城の門という意味

御所を拝むというところから

名づけられたということです

 

 

この先に開祖の栄西が眠る地

があります。

 

 

ちょうど境内のモミジも見頃の

ようです

 

 

本坊から中へ

受付では

どうぞご自由に写真撮ってください

と、なんと開かれたお寺でしょう

 

 

玄関には、「大なる哉 心乎」

(おおいなるかな しんや)

という栄西の言葉が待ち受けています

 

 

やはり見たかったのは

「風神雷神図」

両端に寄せて描いた風神雷神

この真中の空間に

お釈迦さまがいらっしゃる

ということを暗示しているのです

 

中にはビデオも流れていて

お参りの方に飽きさせないような

工夫があちこちに見られるようです

 

 

圧巻は法堂(はっとう)の龍

仏法を守り、火災から守るという

そういう意味があり

禅宗のお寺では必ずといていい程

見かけるようです

 

 

見る角度によっては

表情を変えてくるようです

 

そして襖絵も

 

 

見事な龍です

 

 

海北友松(かいほうゆうしょう)

「雲龍図」です

この絵はキャノンの複製技術で

再現されたもの

その行程もビデオで見ることが

できます

古いものを残すためには

新しい技術を次々取り入れて

いるようです。

 

 

庭に出ると大きな手水鉢

この長い柄杓がおもしろい!

 

 

またここには秀吉が愛したという

お茶室があります

 

何と不思議な出会いですが

このお茶室の入り口近く

 

 

安国寺恵瓊(あんこくじえけい)

の首塚です

 

 

六条川原で斬首された後

その首を持って来てここに埋め

供養したということです

 

 

またこの周りには

梔子の木をたくさん見かけました

上手に刈り込んであると

とてもいい風情が出るものです

 

 

この掛軸も面白い

説明では地水火風を表すと

四角が地、丸が水、三角が火

ということです

いろんな形が違うものが

一つになって仕事をする

ということで、この三つを

会社のマークにしていた

ところもあるようです。

 

 

こういう芭蕉を庭に

そしてこの丸窓から覗く姿は

妙に融け込んでいるようです

 

そして

 

 

もう一つ見たかったのが

金澤翔子さんの「風神雷神」です

 

 

 

本物に引けをたらないような

筆のタッチは素晴らしい

この絵が躍り出てくるような

そういう迫力を持った字です。

 

 

やっと念願かない

訪れたのですが

堪能させていただきました。

 

 

 

 

 

 

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一切智と一切種智

2018-11-21 21:01:53 | 十地経

弘法大師が開かれた日本最初の私学

「綜芸種智院」

(しゅげいしゅちいん)

の名前にも種智という言葉が

使われています。

種智ということは疑問に

思っていたのです。

学校の名前自体も一寸変というか

舌をかみそうな名前と

不謹慎なことを思っていたのですが

『十地経講義』を読むと

その大切な内容が分かってきます。

 

仏教ではすべての存在ということを

「一切法」というようにいいます

法というと法律ということが

頭に浮かぶのですが

仏教ではものごとの在り方を

法というように言います。

そのすべての存在の在り方を知る

ということが「一切智」という

ことなのですが、

辞書には、

「すべての存在に関して概括的に

知る智慧」

というように出てきます。

それは菩薩・仏の智慧であると

さらに、

一切種智ということは

すべての知るべきものを

知り尽くした智慧というように

出てきます。

 

よく安田先生は講義の中で

klar und deutlich

クラール・ウント・ドイトリッヒ

というドイツ語で

話しておられました。

「明晰にしてかつ判明」

ということです。

この言葉を使って

一切智と一切種智ということを

説明しておられます。

 

「本当のものに触れたけれども

しかしながら、

いろんな仕方で知ったわけではない

ただ一面を捉えたというだけで。

つまり、

大海に触れたけど、

大海の一滴をなめただけだと

後には無限の大海があるんだと。

大海を知り尽くしたわけじゃない」

 

というように

海を知るというたとえで

一切智と一切種智ということを

説明しておられます。

 

ということは、

「一切種智という立場に立てば

終りはないんだと、

仏道というものは。

卒業したということがないのが

仏道ということなんです。

求める道はここまで来たら済んだ

ということはない。

十地ということは無限の段階を

表しているんです。

そういう所に自分を置くという

ことですね。」

 

なんだかこの話を聞いて

「綜芸種智院」にかけた

弘法大師の思いが伝わって

くるような気がします。

仏道には終わりはないんだと

ありとあらゆるものを

知り尽くす

それでもなおそれは

一面にしか過ぎない

種智ということに立てば

無限の修行の道程があるではないか

という声が聞こえてくるようです。

 

知ったということで

「満足したら、

それは自慢になってしまう。

煩悩に迷ったわけではないけど

さとりに迷ってしまう。

つまり自分のさとりに

惚れこんでしまうわけです。

結局独りよがりになってしまう。」

 

これでいいと思った瞬間

それはそこにとどまっている

ということではなく

今まで得たものまでなくしてしまう

坂道にいるようなもので

止まってしまったら

ずるずると下に落ちてしまう

ようなものなのです。

 

知るということに立てば

一切智ということで

いいのかもしれませんが、

仏道という立場に立てば

一切種智ということで

無限の修行の道程があるのでしょう

 

あらためて、

「綜芸種智院」

という名前を付けられた

弘法大師のお考えに感服します.

その私学を作られた

「綜芸種智院式序」には

 

「物の興廃は必ず人に由る

 人の昇沈は定めて道にあり」

 

と述べておられます。

この言葉は今の教育にも通じる

内容があるのではないかと思います

 

ついつい人間は調子がよいと

自分の分限を忘れてしまいがちです

一切種智を求める

という立場は自分を原点に

引き戻してくれるようです。

 

 

 

 

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