本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

新本堂での初不動

2024-01-30 17:03:35 | 十地経

12月の「終い不動」は

ご本尊が元の場所に

お帰り頂き鎮座された

不動護摩でした

1月は初不動

「初」という字

『十地経』では初歓喜地

第八地は不動地と

 

一年が終わりまた新たな

年が始まり心新たに

一年を始めるのです

なにかそこに

暮れには一年の厄を払い

そして新たな年を迎える

そういう気持ちを入替える

という

 

初には、初歓喜地という

ものごとの出発は歓喜です

歓喜がなければ

ものごとは始まらない

のです

恋愛にしても仕事にしても

歓喜があってこそ

動き始めるのです

そういう意味もあってか

「初歓喜地」

何ともいい言葉ですし

また心が引き締まる言葉

でもあります

 

はじめるというと

「初」という字と「始」が

あります

女偏に台という字書き

生のはじまりは女性です

そこから

ものごとのはじまり、と

生には終わりがある

ということで、

反対の字は終になります

 

初は衣と刀から出来た字で

衣を裁って作ることから

この字が生まれた

ですから

年ごとに生まれ変わり

新たな年を迎える

というのになれば

「初」の方がいいようです

 

「初歓喜地」も

一度この心を起こしたら

それでおわりという

のではなく

何度も何度も歓喜して

初めからやり直す

そういう心持が必要な

気がします

 

というのは

講義に出てきたのですが

 

「自分のやっていることを

侮蔑するのは一番悪いです

裏方の仕事とか

そういうものを侮蔑する

ことが、自己冒涜が

一番悪いんです。

 

そうじゃない、

やっておることが小さい

とか社会的に低い

というようなことじゃない

その大きさというものは

その初めと終わりにある

 

大きなものを背景として

大きなものに向かって

いっとるんだ、

どんな小さなことでも。」

 

と、前回の重複ですが

やはり

一年を締めくくり

また新たな年を迎える

ということには

その背景には大きなものを

感じているからでしょう

自分自身では

感じ取ることはないかも

しれませんが

本能的なものが

自分の背景という大きな

ものを感じているのです

 

そういう意味も込めて

 

 

護摩壇の仏具も真新しい

ように

磨き上げられています

この真鍮の仏具も

護摩を焚けば汚れてしまい

磨くとまた元に返る

仏具も生まれかわっている

ようです

 

 

初不動はお授けもあり

今年初ということもあって

法螺の音色が響くのです

 

 

玄関の額は代々続いている

ものを新しく塗り直した

ものです

 

 

この絵も面白い

本堂内陣から外陣を見た

もので

大屋根の広がりが

大きな空間を作り出し

この天井がLEDライトで

季節や法要に合わせ

変幻自在に色を変える

 

古いものを活かしつつ

新しい技術も取り入れ

本蔵院も新しく生れ変って

いく気配がします。

 

 

 

 

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本当に大きいものは隠れている

2024-01-26 19:35:43 | 十地経

「本当に大きいもんは

隠れている」といっても

私たちには分かりません。

やはり、大きいものに

目を奪われてしまいます。

それで、

奈良の大仏のような

大きな仏さまが造られる

のでしょう。

意味も内容も分からない

でも、

あの大きさを見れば

自然と手が合わさり

首を垂れ

拝んでいるのです。

 

しかし、本当のことは

私達には見えなくても

隠れているのです。

 

講義では

「本当に大きいものは

隠れているんです。

大悲にしても隠れとるし、

仏智にしても隠れている。

 

大きすぎるから目に入らん

のです。

成功したとか失敗したとか

そんなような情けない話

じゃないんだ。

そういう、

人を眼中に入れた話じゃ

ないんです。

 

大心から生まれて、

広心から生まれて

大心に流れ込んでいくんで

す、どんな小さい行を

とってみてもね。

 

そういう一つの、

それは一つに自信じゃ

ないか。

プライドじゃないか。

なんでもこれは

する仕事はね、

自動車の修繕でも何でも

いいんです。

そういう仕事を、

 

一番悪いのはね、

自分のやっていることを

侮蔑するのは一番悪いん

です。

裏方の仕事とか、

そういうものを侮蔑する

ことが、自己冒涜が

一番悪いんです。

 

その、

やっておることが小さい

とか社会的に低いという

ようなことじゃない。

その大きさというものは

初めと終わりにあるんだ。

 

大きなものを背景として

大きなものに向かって

いっとるんだ、

どんな小さなことでも。

ここにやっぱり

人間というものが初めて、

世間なんかと競争する

というようなことを

超えてやね、

大きい心で生きとるわね。

これが行者だわね。」

 

世間でいう大きい小さい

ということが逆転している。

以前にも書きましたが

私の方向付けをした

師匠の言葉、

とても忙しくしている私に

「呑気な話やないか

儲けた損したと、

何のために

坊主になったのか、

人生の一大事を考える

ためだろう」

という、

頭から水をかけられた

ような一言でした。

 

ついつい、経済的なことや

地位とか位とかに

目を奪われがちです。

仏の目から見れば

成功とかいうものは

小さなことなのでしょう

人と生まれて

どんな小さなことでも

人の目につかないことを

黙々とやる

それが出来るということは

その大きな背景を

背負っているからなんです。

 

他のところでも

「隠れたものが

本当に勝れているんです。

外に派手なものは

内容が乏しいからで、

本当に内面的なものが

偉大なものなんです。

 

派手というのは

俗物を驚かすだけなんです

俗物の俗眼をやね。」

 

ということを、

派手なことを求める人も

いるし、

それはそれでいいのです。

自分が本当に自分に頷ける

そういうことを

求めることが

大事じゃないかと思う

のですが。

 

 

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秘密の蔵を開ける鍵

2024-01-25 19:25:05 | 十地経

『十地経』というお経

作者は不明です。

4世紀ごろ世親によって

『十地経論』という論が

著されています。

仏教には大きな流れとして

一つには2世紀ごろ

龍樹によって般若・空の

教学が起こされています

これは空という

一切は空という考えです

一切のものは縁による

縁によって成り立つので

固定化されたものがない

だから空というのです。

 

それに対して

4世紀ごろ起こった

瑜伽の教学です。

瑜伽師地論ともいいます。

これは一切は識のみあって

境はないという思想です。

瑜伽の教学、唯識は

六経十一論といわれ

六つのお経と

十一の論から成り立って

います。

その論の中に

『十地経論』があります。

 

そういう背景があって

弘法大師・空海も

『十住心論』という論を

著書しておられます

これは淳和天皇に奉じた

ものなのです。

やはり、根底には

『十地経』があった

のでしょう。

 

その『十住心論』の

要約として著されたのが

『秘蔵宝鑰』ヒゾウホウヤク

というものです。

鑰(やく)というのは

鍵という意味です

直訳すると

秘密の蔵を開ける宝の鍵

という意味です。

 

安田先生も講義の中で

よく、キーワードというか

「字眼」という言葉を

使われておられましたが

経典を読む場合

その経典にある字眼を

見出さなければ読めないし

分からないだろうと、

 

今読んでいる所でも

第七地ですが

そこには二行双じて無間と

その二行が止観

止と観とが双じて行ぜ

られる、と

そのことが字眼でしょう。

繰り返し出てきます、し

何か月にわたって

説かれておられます。

 

講義の中では

面白い表現ですが

「まあいってみれば

如来の喉首を押さえた

というもんや。

つまり鍵を握ったという

わけです。

鍵さえ握ればいいのです。

別に急いで

蔵を開ける必要はない。

鍵を握ることが大事

なんです。

 

仏の中に見出されたのが

信です。

すると見出された信の中に

仏を包んでいるんです。

我もまた如来の如し。

それは確信でしょう。

だから如来の中に

自分を見出すのが信です。

 

別に如来になる必要はない 

如来の喉首を押さえる

それが大事です。

押さえるところを

押さえんといかん。

 

だから如来を目前に見る

ということは

悠々としとるわけです。

退一歩しとるんです。

退一歩しとるということが

信なんです。

確信を持っとるんです。」

 

なにか、そういうところに

鍵ということの意味が

あるように思います。

弘法大師も

秘密の蔵を開ける鑰と

秘密の蔵ということが

自分自身に眠っている

菩提心を指しているのです

その菩提を開く

その鑰(かぎ)

何とも象徴的な表現ですが

菩提を開くのは菩提心です

 

「十」ということも

根本的には「十界」という

考え方があります。

地獄・餓鬼・畜生・阿修羅

人間・天人・

(ここまでが迷いの世界)

声聞・縁覚・菩薩・如来が

悟りの世界を表しています

 

ですから、人間というのは

中間的存在、間的存在です

求道して求めていけば

声聞・縁覚・菩薩・如来と

道を失えば

地獄・餓鬼・畜生と

迷っていくということです

 

鍵を持つという、つかむ

それが信をもつという

仏になるならんは

いつでもいい

成る時がくればなる

であろうという信をもつ

仏を目前にして

退一歩している

そういう確信が大事だと

 

なったとかならんとか

そういうことを問題にせず

行によって出てくる確信

その方に重きを置くべき

ではないかと思うのです。

 

 

 

 

 

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荘厳(しょうごん)

2024-01-21 19:49:35 | 十地経

安田先生は基本

本を書かれませんでした。

それで今ある本はすべて

テープに取ったものを

書き起こして本にしたもの

ばかりです。

先生の全集を出そうと

いうときも

「出す必要はない」

と断られたくらいです。

 

今、読んでいる

『十地経講義』も

洛南高校の虎頭先生を中心

になって編集されたもの

なのです。

この本の特徴は

先生の言葉を忠実に、

例えば、考え込まれた時

あー、とか、ええ、とか

そういうことまで正確に

書き起こしておられます

 

講義を聞いてきた私に

とっては、講義が再現され

ているようでいいのですが

初めての方には読みにくい

ものかもしれません。

 

 

新しく出たこの本は

そこのところが

よく編集されていて

読みやすい本になって

います。

 

またこの本は

『十地経講義』と合わせ鏡

のように両方読んでいくと

さらによく分かるのでは

と思うのです。

 

この「荘厳」ということも

よく出てくるのですが

分かったようで分からない

言葉でもあります。

普通には仏壇を飾ること等

も荘厳するといいます。

ただそれだけではなく

精神的な内容も含んでいる

言葉なのです。

 

「荘厳といっても、ただ

飾るというだけじゃなし

にね、あの、まあ僕が今、

講義をしとるとするかね、

話をね、一句の話を。

大した講義でもないけれど

もね。そうするというと、

まあ、これまで何かぼんや

りしとったものがはっきり

してくるわね、一つは。

これが荘厳しとるんです。

 

これが僕が講義しとる

ことが荘厳なんです。

その内面的な精神生活を

経典や論で表現してくる

ということが荘厳なんです

 

隠れたるものが本当に

勝(すぐ)れとるんです。

外に派手なものは内容が

貧しいからで、本当に

内面的なものが偉大な

ものなんです。

本当に内面的なものが

偉大なんだ、ということ

を表すのが荘厳という

ことです。

 

何か知らんけれども、

人の何か表面的に、

ことを派手にやるという、

派手ということはそれは

俗物を驚かすだけなんです

俗物の俗眼をやね。

 

そういう外のことに

気を散らさぬようになる。

はやるとかはやらぬとか、

売れるとか売れぬとかさ、

そういうことになるです。

静かなものになるんです。

それが本当に大きいんだと

いう意味を表すことが

荘厳なんです。」

 

ついつい内容がないもの

ですから、ブランド物で

身を飾りたくなる

のでしょう。

かといって

内容があるからといって

不潔感のある好き勝手な

ものもいけないし

立派でなくても清潔感の

ものが大事なのでしょう

身の回りについても

荘厳ということがいえる

ようにも思います。

 

また、身の行いについても

四威儀といわれる行住坐臥

が正しく行われる

それも荘厳といえるのです

というより、

それが荘厳ということです

 

簡単そうで難しい問題です

 

 

 

 

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行がないところに確信は成り立たない

2024-01-20 18:36:35 | 十地経

やはり『十地経』では

行ということが中心です。

「習い性となる」

ということも行がなければ

そうはならないのです

その行ということも

繰り返し行うという数数修習

でなければなりません。

そういうところから

確信とか信ということが

生まれてくるのです。

 

「我々が真理を明らかに

していくというよりも、

といっていいかも知れん

けれども、

真理が我々の上に

現れてくるわけです。

真理はたらいてくるわけ

です、

我々の腕を動かし足を

動かしてくるわけです、

真理がね。

 

足を動かして真理に達する

んじゃないんです。

こういうときにやっぱり

その、成熟ということが

いえるんじゃないかなと

思います。

 

それがね、それにより

信が成り立つ。

これはその展開なんです。

双行があって、

その上に信勝を加えていく

んじゃないんです。

プラスするんじゃないん

ですね。

双行があると双行の上に

一つの信が成り立つ。

 

信といったら確信です。

確信、自信や。

確信というものが

こういう具合に成り立って

くると、

これは大事なことです。

やっぱりこの、

学生というものに確信を

与えるということが

大事なことです、自信をね

 

それはやっぱりその

行がないところには、

もう確信は、

人間には確信ができない、

行がないところには

確信は成り立たない

ですね。」

 

修行でもその行に入る時は

何か自信なさそうな感じが

するのですが

行を終わってくると

何かしらの自信に満ちた

ような姿に見えてきます。

 

辻野先生という体操部の

監督がおらました。

十地経のことは

よくご存じなのですが

あまり出席されない。

しかし、

どうも気になられる。

講義が終わった後

「今日の内容はどうや」

と聞きてこられるのです。

こういう先生ですから

ぐだぐだと言うわけには

いかず、たった一言で

今日の講義の内容を

伝えなければなりません

その時の答えが

「行のないところに

確信は成り立たない」

というと、

うん分かった。と、

 

その一言で今日の講義の

全体を受け止められた。

洛南高校の体操部を

日本一に作り上げたのも

この先生です。

その練習は暮れも正月もなく

毎日練習するという。

 

それも鬼の形相で

とても厳しい練習でした。

なぜそんなに厳しいのか

聞いたら、

ちょっとした

気のゆるみが出ると

怪我どころか命の危険も

ある。

ですから、

指導の監督自体も

気を緩めることができない

ということです。

 

その毎日の練習が

あってこそ

試合で本当の力が出る

また選手も確信が生まれる

ということです。

考えるより体が先に動く

そこまでの練習(行)が

あってのこそなのでしょう

 

この講義の時の

辻野先生とのやりとりを

この言葉を聞くと

思い出すのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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習い性となる

2024-01-19 15:52:27 | 十地経

「習い性となる」

耳にタコができるほど

聞かされた言葉です。

ちょっとやそっとやった

位で分かったと思うな

付焼刃はすぐに

剝がれてしまうもの、

それが身につき自分の

持って生まれたような

ものになるまでやれと、

 

講義では面白い話で

「ある婦人が、

お茶を習っていて、

長い間やめておったのが

何かの機会にまた始めた。

ところが、

そのお茶の場所に座ったら

手が自然にそういう具合に

動いていくと。

頭で考えて、その次は

どうだったかな

というんじゃない。

もう手が、頭は忘れて

おったけど、手の方が動く

つまり身についとると。

その場に、ちゃんと

自分の身を置くと

自然にそれが出てくる。

 

それがつまり習修ですね。

習い性となるという

意味ですね。

この習いということが、

ものを習うというと、

ものが自分になってしまう

性格になるわけや。

 

そういうことが、

いわゆる行の完成という

ことじゃないか。

止観ということが

完成したということは、

止観の修習によってそれが

成熟したと。

 

だからして誰かがあって

やるんじゃないと、

やるものなくして

行われていくと。

やるものなくして、

私が何かを何かでやる

というようなことじゃ

ないんです。

もう、やるものと

やられるものとが一つで

あると。

 

だから、我々が

真理を明らかにしていく

というよりも、

といってもいいかも

知れんけれども、

真理が我々の上に現れて

くるわけです。

真理がはたらいてくる

わけです、我々の手を

動かし足を動かしてくる

わけです、真理がね。

 

足を動かして真理に達する

じゃないんです。

こういうときにやっぱり

成熟というこいとが

いえるんじゃかと

思います。」

 

そこまで深くは考えません

でしたが

習い性となることには

そういう意味があるのです

そういえば、

先日テレビで

あのサッカーの監督の

オシムさん

もう、サッカーの中で飲み

サッカーの中で食べ

サッカーの中で語ると

サッカーと生活とが

切り離せない、一つに

なっていると、

そういう話しをしておられ

ました。

 

以前はこの講義のあとは

おでんを食べながら

お酒も入り楽しい一時が

過ぎていったのですが

最初の頃は

難しい話は聞いた

これからは心のタガも

外れて楽しく飲もうと、

ところが、

そこからまた難しい話が

始るのです。

なぜだろうと思っていた

のですが、

 

そうではなく、

アフターファイブというか

ここまでは講義、

これからは楽しい宴会

ということはないのです

飲んでもやはり人生の話

講義も人生の話

どこをどう切っても

『十地経』しかない

 

そういうことが

聞法をしたということが

聞法が習い性となる

そうならなければ

本当の聞法をしている

といえないのです。

 

妙なもので、

年を取ってくると

ただ飲むだけということが

とても寂しい

味気ない気がします

やはり飲みつつ語り

語りつつ飲むという

その味は何とも言えない

ものなのです。

 

 

 

 

 

 

 

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数数修習

2024-01-18 19:17:16 | 十地経

東寺にお世話になって

間もない頃

師匠の部屋の掃除を任され

ました。

段々慣れてくると

まあ今日くらいは休んでも

と、サボってしまいました

すると、

目の玉が飛び出るほど

叱られたのです

師匠のしかり方は容赦なく

生きている存在を根底から

覆すような …

そこまで言わなくても

と思うくらいなのですが

厳しかったのです。

 

それが「十地経講義」を

聞くまでは分かりません

でした。

そこで出てきたのは

修行は数数修習

ということなんです。

 

数数と書いて「さくさく」

と読みます

珍しい読み方ですが

漢和辞典にもあるように

繰り返して、という意味で

この読み方もあるのです。

 

修習(しゅじゅう)と

修は修行の修ですから

仏教では短く(しゅ)と

重なる場合は濁って

習は(じゅう)と発音

します。

しかし、安田先生は

(さくさくしゅうしゅう)

と、濁らずに

読んでおられたように

思います。

また、

数数修習を短く読んで

数習(さくじゅう)と

また、串習(かんじゅう)

ともいいます。

「串」というと

焼き鳥屋の「串」しか

思い浮かびませんが

「かん」と読んで

つらぬくという意味です

ですから、

くりかえす「数」より

つらぬき通す「串」の

方が修行には適している

ように思います。

 

それで講義では

「この信というのは、

まあ行ということですね。

双行ということが、

止観の行ということが

書いてある。

止観の行が完成する

ということは、

理論的に間違いがない

ということではないので

あって、

理論的理解ということと

実践的理解というものは

ちょっと違うんです。

 

止観の行が完成する

とはどういうことかと

いうとですね、

修行という字がある

でしょう。

修行ということは、

数数修習といって、

やはり習という字がある。

 

数数、いっぺんぎり

ということはないです。

いっぺんぎりは

これは修行にならんです。

修行ということは

ものを繰り返すことである

 

それですわね、

大事なことはね。

繰り返し反復すること

なんだ。

そういうことがやっぱり

理論と違うところや。

 

だからしてこの、

純粋な行が、

つまりいってみれば、

動静一如の行という

ようなものはどうして

完成するかというと、

理論で完成したんじゃ

ないんです。

 

つまり、成長したんだ。

成熟したのです。

成熟やね。

ものが熟したというような

ことが実践上の完成

なんです。」

 

ですから、修行は

一瞬たりとも手が抜けない

そういう修行の厳しさを

師匠は教えていたのです。

「やり始めたことは

もういいというまで

やり続けなさい」

そういうのが教えでした。

 

そういうことなのか

妙な癖がついて

やりだしたことは

自分のルーティーンの

ように続けているのです

はた迷惑のような気も

するのですが。

 

しかし、

『十地経』という経典は

理論の経典ではなく

あくまでも実践の経典と

いうところにその価値が

あるように思います。

 

その実践によって

洛南高校が生まれたのです

そのことは

安田先生自身も

自分の言葉が形になった

ということで

非常な関心を示して

おられたのです。

 

「数数修習」

仏道修行の基本なのです。

 

 

 

 

 

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龍は三停九似

2024-01-17 16:50:26 | 住職の活動日記

辰年ということもあって

「龍」に関する寺院では

「龍めぐり」が紹介されて

います。

龍は雨に関しているので

お寺では火伏の意味を込めて

本堂の天井とかに描かれています。

 

弘法大師の頃、都の雨が降らず

請雨法を修法するのですが

日本には龍神が居られなくて

そこで、中国から善女龍王を請来して

雨を降らせたということです

その場所が二条城の隣にある

神泉苑です

 

また、四神相応の東に当たる

祇園の八坂神社

ここには青龍様がまつられ

そのいらっしゃる池の上に

建てられたのが本殿です

その池と神泉苑は繋がっている

ということです

そういうこともあってか

祇園祭の時には

神泉苑でも祭りに先立ち

鉾を立ててお祀りします

 

面白いのは

龍の姿がまじかに全身という姿で

拝見できるのが

東本願寺の手水場です。

 

龍は三停九似(さんていくじ)

という説があって

龍の首から腕、腕から腰、腰から尾までは

それぞれの長さが等しいと言われています

九似というのは

龍の角は鹿、

頭は駱駝、

眼は鬼、

うなじは蛇、

腹は蜃(しん)、

鱗は魚、

爪は鷹、

手のひらは虎、

耳は牛に似ていると

いいます。

龍の頭には博山(はくざん)

のようなものがあり、

これを尺木といい、

これがないと龍は天に昇る

ことができない。

雨をもたらして

鳴き声を上げるが、

その声は銅製のたらいを

引っかいたようである。

そのよだれは周囲に香気を

発し、

吐く息は雲となり、

その雲によって

身を隠すため

姿を見ることができない。

ということです。

 

 

東本願寺の龍さま

その口から出る水で

手と口を清めます

それで丹念に見ると

 

 

頭にある角

いわれてみれば鹿か

 

 

頭は駱駝、

というものの口の大きさが

際立ってどうにも

駱駝には見えない

眼は鬼、その眼光の鋭さは

やはり鬼か

うなじは蛇

そういうようにも見えます

 

 

鱗は魚

そのような姿です

しかし精巧な造りです

 

 

爪は鷹、

なるほど獲物を捕まえる

鋭さがあります

 

 

耳は牛に似ているという

姿の割には可愛い耳

 

手のひらは見ることが

できなかったのですが

 

 

まあこれだけ緻密に作られ

それを身近で見られ

撫でることもできる

とても立派な龍の姿です。

 

 

 

 

 

 

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「コツ」・「骨」ということ

2024-01-15 17:03:28 | 十地経

早速ですが、

「理論的に分かる

ということと、

実践的に分かるということ

は非常に違うんです。

何かやっぱりコツという

ようなものがよくそういう

ことがよく分かる。

コツというものはですね、

実践的な認識、知識

なんです。

コツが分かった

というような。

理論にコツなんか

ないですよ。」

 

という、

最初は慣れないながら

繰り返しやっていくと

次第に要領が分かってきて

コツというものがつかめる

ものです。

 

ふと思ったのですが

コツとは、

辞書を引いてみると

コツは「骨」と書くのです

骨ですから、ホネと読むと

「ほねをつかんだ」

というとどうも具合が悪い

そこで、元の漢字は骨

なんですが、コツと読む

のでしょう。

 

まあ、骨ということは

何かしら中心的な要素と

いう意味があるようです。

人間も死んだら焼かれて

骨になる。

仏舎利ともいうように

私たちにとってはとても

大事なものです。

 

昔は骨ということを

ただ骨ということだけでなく

例えば、広辞苑を見ると

徒然草に、

「天性のその骨なれど」

何か会得するその才能をも

骨というようで、

また、本の題に

『宗教哲学骸骨』という

名の本もあります。

何か不気味そうですが

そうではなく、

宗教哲学の皮と肉を

そぎ取ってその真髄だけを

記したという

そういう意味なのでしょう

 

一休さんは

お正月に皆が浮かれている

ときに杖の先に骸骨をつけて

「正月や冥土の旅の一里塚

 めでたくもあり

 めでたくもなし」

と詠んだとあります。

 

仏教では人はやがて死ぬ

のではなく、

いつも死と共にある、と

生死巌頭に立つといいます

崖っぷちのその先端にいる

のが私たちの存在なのだと

 

西洋でも、

「メメントモリ」と

死を忘れるなという意味

将軍が凱旋する時

その後ろに立って

「メメントモリ」と言う

今はかって凱旋しているが

次の戦は死ぬかもしれない

心せよ、

ということのようです

 

これも同じことのようです

仏教はいつでも

臨終に立って生きる、と

西洋では

エスカトロギッシュに

生きるという、

終末論ということですが

やがて終わりが来るのでは

なく、いつでも終末に

立って生きるということ

なんです

 

骨のことがそれましたが

宗教によっては

死んだ体は抜け殻で

魂は天国へ行ったのだから

お骨はいらないと言う

こともあるようですが

 

やはり、お骨ということが

私達には大事なもので

ただの骨ではなく

その人の全人生があるという

その最後の塊がお骨なのだと

そういう意味で大事にする

のでしょう。

 

これは余談ですが

先日、

東寺では御七日御修法

  (ごひちにちみしほ)

という法要がありました

天皇の御衣を祈願し

人びとの息災と世の安寧を

祈るというものです

そん時の中心、本尊は

仏舎利です

ですから、舎利守という

重要な役職があります

そして

東寺には弘法大師請来の

仏舎利が甲壺乙壺の二つが

あり、

戦国時代は戦勝祈願の為に

武将たちが頂いたという

記録もあります。

 

コツということから

骨という話しになりました

また、正月から

大変な大災害大惨事も

ありました

一寸先は何が起こるか

分かりません

それこそ、

生死巌頭に立っている

というのが私たちの存在

ということを思い知ります

 

 

 

 

 

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動静一如

2024-01-14 16:27:01 | 十地経

本蔵院のご本尊は

不動明王です

普通のお姿は盤石の岩に座し

身体は腰衣付け、上半身は裸

右手には剣を持ち左手には

羂索(けんさく)という縄を

持った様相です

本蔵院のお不動さまは

立ったお姿です。

仏さまにも座った姿と立った

お姿があります。

 

阿弥陀如来でも立った姿と

坐した姿があります

坐しているというのは

一つの定に入った姿なので

立ったお姿は立って働く

その時の姿でしょう。

坐しているそして立っている

そういう形があるようです。

 

講義では、

ずっと止観ということが

続きます

『十地経』自体では語られて

いないのですが

ただ、双行無間ということで

述べらているだけです

その双行が止と観という

ことです。

 

「この止観というそのことは

まあ、分かるんですけれども

双ずるということが

大事なんであってですね、

止と観とが双じて行われる

ようになったということが

ここで言いたいところ

なんです。

止と観との理論が分かって

も、そうならんのです。

 

やってみれば

それが矛盾してくる、

止と観とがね。

だからこれはどういう意味

かというとですね、

その止と観とは両極端です、

やるというこいとと……。

 

これはね、いってみれば、

止の方は静ね、静そのもの

それから観は動でしょう、

はたらくんですから。

動と静というのは両極です

矛盾、対立でしょう。

だから止観ということが、

やりかけてみるというと

ですね、同じ方向じゃない

動静というね。

 

止の方は

そのものになっとるんです

から静ですし、

観ははたらくんですから

動だ。

動静ということがですね、

これはすぐ矛盾してくる

わけです。

えー、だから止観という

ことの困難は、

動と静との矛盾がですね、

一つにならんということ

です。

だからここは

動静一如というのです。

動静が一つになったという

場合がこの、

今いった双行なんです。

 

これはその、

なれるものならば何も

問題はない。

理論では分かるが実践的

にはできないという。

実践的に分からんのです。

無論、

理論的に分かるんじゃない

実践的に分かるというものが

実践的認識なんです。」

 

動静一如という

動と静が一つという

この一つということが微妙

なんです

不動ということも

何も全く動かないという

のではない

坐した不動、立像の不動

この二つの姿がある

ということは

二つの姿があるという

ことではなく

まさしく動と静が一つに

なっているという姿

のように思うのです。

 

よく、昔の王選手ですか

飛んでくる玉が

止まって見えるということ

を聞いたことがあります

何かそういう境地というか

一つの定になった姿には

動というものを含んでいる

そういうことのように

思います。

 

すべてのことにおいて

動静一如ということが

なければ何事も成就しない

ように思います

静という定の姿は

ただ静かに坐っている

というだけではなく

そこには

あらゆるものに対して

すぐにでも対処できる

動なるものを持っている

ということです。

 

 

 

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