本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

全身を浸けとけばいい

2023-12-24 20:04:47 | 十地経

私はそうなんですが

せっかくいい話を聞いても

聞いた後からすぐに忘れ得てしまう。

ですから、

この十地経の講義も

こうやって通して見てみると

結構、同じ話を繰り返しておられる。

良いか悪いか

聞いている時は毎回新鮮に聞こえ

感動するのです。

 

こういうことは

誰にもあるようで、

そのことを講義で述べておられます。

 

「聞法する人がどうも非常に頭が悪くて、

聞いた後からせっかく立派な話を聞いても、

聞いた後から、

その時は感動するが、

すぐ後から忘れてしまうというようなことで、

どうしたものでありましょうと、

自分の、この、まあ、

聞いたわけです。

 

仏法を耳に入れようとするから忘れるのではないかと。

仏法の中にお前を浸けたらどうや、

水をすくおうとおもって、

網でこう、すくおうとするから

水は漏れてしまう。

 

それで忘れたとか、忘れんとか、

そのようなこと言っておるけど、

そうじゃなしに、

浸けておけばいいじゃないかと。

 

水に浸けるということがね。

昔、学生の間に禅宗から来ておった学生がいました。

妙心寺派の学生でしたけど、

大学出ただけでは

禅宗の坊さんになる資格を与えないんだ。

やっぱり行をやらないといけない。

 

入ってみれば、無茶苦茶やという、

修行じゃないと。

飯を食うと、朝、顔を洗う時間と

同時に飯を食う時間になっている。

飯食う時間に同時に

座禅する時間になっていると。

だからして飯食って

それから次にという具合に

いっとらんというとね、

非常に不合理やと。

 

くたくたにしてしまうんですね。

ああいうことが一つの、

くたくたにするということが

一つの大事な教育的意義を

もっとるんじゃないかね。

うだうだ文句いうてですね、

言っておった日には、

何もできんじゃないか、

 

それは語学でも数学でも

皆あるんじゃないか、

そういうことが。

全身を浸けておくということがね。

 

どうも、世の中忙しいから

どうも仕方がないけど、

やっぱり速成というものは、

これは、どうもこうもならんものです。

やっぱり暇がかかるけれども、

暇がかかるように出来とるんだ。

その、抜け道というものはないんです。

 

そこを抜け道してやるというと、

やがていつかまたそこを

やらんならんようになってくる。

それだからして、

数学の好きな生徒は

数学ばっかりやるし、

国語の好きな生徒は

国語ばっかりやっとると。

 

まあ特色がっていいと

いうようなことも考えられるこれども、

そうじゃない。

みんな要るようになっとるんですね。

みんな要るように、最後は。

そういうもので、

全部が要るようになっています。」

 

全身を浸けておく

今日もテレビに三味線の吉田兄弟がインタビューに答えて

「毎日三味線持たなかったら勘が鈍る。

三日も持たなかったら

まったく納得する音が出ないと。」

 

おなじことで、

『十地経講義』も毎日開いて

読まないと、頭がその頭にならない

ずっと読まなくても

ちょっとでも開いて見ないと

考える頭にならないようです。

身を浸けておくという表現は

実に面白い言い方だと思います。

 

また、修行時代も

ああすれば、こうしろと言うし

こうすれば、ああしろと

一体どうしたらいいのかと

本当に無茶苦茶いうのです

たまりかねて、

では、どうしたらいいのかというと

それは自分で考えなさい。

という答えです。

まあ、

こちらの下手な分別を破るには

そういう方法しかないのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

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瑜伽(ゆが)・YOGA

2023-12-23 20:18:00 | 十地経

ヨガということは、

どうもあの体操的な運動が

頭にあって、

瑜伽ということと一つに

ならないのですが、

瑜伽ということを

調べてみると、

ヨガということが

単なる運動ではなく

その内容は止観という

奢摩他・毘婆舎那

ということしか出てこない

ようです。

 

もとの意味は

「結合する」「結び付く」

という意味ですが

それが意訳されると

「相応」と訳されます。

つまり、

身と心が等しく和合する

という意味で相応という

意味が出てくるのでしょう

 

なぜでしょうか

ヨガというと運動が

先に立ち、

その本来の意味が

後回しになっている。

どこを調べても

ヨーガというと止観であり

それは仏教の実践の

根本であるということしか

出てこないのです。

 

それで止観ということが

講義でも繰り返し

色々な角度から述べられて

います。

 

「止というのは、

内観に違いないけれども

ですね、まあいってみれば

この、

問題そのものとなる、

という意味があるのでは

ないかと思うですね。

精神統一というような、

そういう意味じゃないかと

思います。

 

もっと言えば

ものとなってものを見る

といいますか、

ものとなるということが

大事なんじゃないかと

思いますね。

ものとなって

同時にまたものを見る

というよりも、

ものとなればもの自身が

もの自身が自分を

語っていくというような、

 

反省するというと

何か色々我々が

頭をひねくるように思う

けれども、

頭をひねくっとるのは

かえってものになっとらん

わけですよ、ええ。

 

ものそのものとなる

というような、

えー、なんですね、

科学の実験観察という

ようなこともそうだと

思いますね。

止観ではないかと思うです

 

実験は行ですわね。

観察は観ですから、ええ。

科学というようなものも

一つの、止観によって

成り立っている

というような意義が

あるわけです。

芸術的創作でも

そうだと思うのです。

 

僕の知っとる陶芸家が

いましてですね。

土を練ると、そのときに、

まあほとんどいえば、

全身を、土になってしまう

というようなね、

そういうことが

大事なんです。

基礎額という。

 

芸術作品を作るという、

そういう分別があると

もう駄目なんだ。

そのような生意気なですね

芸術家的意識というものが

あるとそれがかえって

阻害するんです。

 

そのものになっとらん。

かえってそういうものが

邪魔をして

そのものにならせんです。

そういうような、

いいものを作るとか

悪いものを作るとか

いうのじゃなしにですね、

もう、土になるという。

土になる。

土を練るということよりも

土になるという。

土の中に自分を浸けて

しまうというような意味が

大事なんじゃないか。」

 

心ともの、とか

心と体という

そういう別々なものでなく

和合して一つとなる

そういうことがヨガの

意味が根本にはある

ように思うのです。

 

それで、私はあえて

カラダという場合、

「体」と書かずに「身体」

と書くのです。

「身体」という字に

心と体という二つの意味が

込められているように

思うからです。

 

 

 

 

 

 

 

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止観の行・瑜伽行・ヨーガ

2023-12-22 20:04:42 | 十地経

先生の講義の

終わり方は

「じゃあ、これで」

と突然終わり

講義の始まりも必ずと

いっていいほど、

経文から始まります

「こんばんわ」とかの

挨拶もなしに

いきなり経文から

始まるのです。

 

「これはまあこの、

『経曰是菩薩起於道時

一念心不捨 … 』。

双行分というのですけど、

非常に短いわけですね、

経文が。」

 

という言葉で始まります。

こうやってじっくり書いて

読んでみますと

なかなか

七地から進まなくて

またぞろ七地のところです

しかし、その当時

聞いている私には

(ええ加減に聞いていた

ので仕方がないのですが

毎回、初めて聞くような

感動を覚えていたのです)

 

それで、この双行という

これは止観の行、止と観

という二つの行ですが

それが別々にある

のではなく、

双行無間といって

止と観との間にあいだが

ないということです。

 

十地経では

分かりきっていること

として、双行という言葉で

出てきて、その内容が

止観という言葉は出来ない

ということです。

 

それであらためて

七地の構造を

 

「大体いうとですね、

双行分といいますけれど、

双行分といのが七地の、

これは一、二、三、四と、

こうある、

ある程度短いその経文です

それを丁寧に解釈している

わけです。

 

初めは、えー、

双行分を四節に分けて、

それを述べておる。

『二行双じて無間とす』る

とこうある。

それから『信勝』、

それから『能作大義』

能く大義を成す、

それから最後は

『菩提分の差別』、

こういわけですね。

 

『信勝』なんてのは

ほんの一句ですね。

一句だけで一節を与えとる

わけです。

双行分それ自体という

ものを語っているのが

『二行双じて無間』

ということであって、

後はその進展、

 

それが進んで展開している

ことを述べとるのであって

それをまあ繰り返して

信勝という。

進展しとるですね。

 

双行というのは

奢摩他・毘婆舎那という、

(シャマタ・ビバシャナ)

これが止観というんです

真言宗で阿闍梨といいます

ね。アーチャーリヤという

でしょう。

阿闍梨、つまり行者という

意味ですね。

その、行者、

行者というその行という

ものは、

 

いったい仏教では

どういうものかというと、

この、奢摩他・毘婆舎那が

その行なのです。

つまり奢摩他を止、

毘婆舎那を観と、

こういうんですけど、

まあ観ということが

行なんです。

 

これを、この止観という

ものを瑜伽といいまして、

瑜伽行というわけです。

この頃よくいうヨーガ、

ヨーガといっている

あれですね。

 

止というのは

止めると書いてあるようだ

けれども、

これはつまり、

定(じょう)を表す言葉。

これは二つを、

定と観とを一緒にして

禅といってもいい。

禅宗の禅です。」

 

というような形で

話しが展開していきます。

先生の講義の

始まりかたと終わりかた

面白いところです。

ある面では無駄な言葉が

一切ないというような

講義なんです。

 

 

 

 

 

 

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自己の成就した世界を見る

2023-12-21 19:22:05 | 十地経

はかなさを貫いて

何か永遠のものが生きとる

から歴史になる。

とか、

ただ

消えていくもんじゃない

そこに永遠を荘厳するとか

分かるような

分からないような

けど何となく分かるような

そのような言葉が続きます

 

その続きとして

「それから荘厳ね、

殊異の義と荘厳の相、

これは一つのことでしょう

けど、荘厳によって

荘厳されとる意義が

殊異の義でしょう。

殊異の義を表現しとるのが

荘厳の相でしょう。

 

こういうようなものを、

あのー、

無量の智中に、

念ずるという。

ということは何か

というと、

仏の世界の、

如来の世界の中にね、

あのー、

自己の当来を見るわけ。

自己のね。

自己の成就した世界を

見ると。」

 

(当来というのは未来

ということです。

当に来るべき。

未来は偶然に来る

のではなく

今の中に内包されている

という意味です)

 

「私は、今は仏に

なっとるわけではないけど

仏を目前に見るという。

ただ

仏は仏、

自分は自分じゃないんだ。

 

仏を信ずる

ということはね、

ただ仏を信ずるというのは

仏の中に

自分を確信するんだ。

 

仏の中に自分を確信、

自分の成就、

成就したすがたを見届ける

そういう、念、

念とですね、

つまり自分、

そういう自分を超えた

ものを念ずる念と

相離れんというんだ、

現在がね。

それが信念というものだと

 

何かそこにね、

あのー、

仏を信ずるということは、

ただ仏、

自分を超えた仏を信ずる

という意味もあるけど、

 

更にまた、

仏となりうるという

ことがある。

ええ、

結局最後は仏を信ずるけど

そういう仏に自分も

なりうるという。

 

結局最後は自分を信ずる

ことになる。

確信でしょう。

初めは仏を信ずるんだけど

その仏に自分がなりうると

 

そりゃ自分を信ずる

ことになるでしょう。

そりゃ、確信が持てるんだ。

自分に。

 

仏は仏、

我は我じゃあない。

仏と自分とは違うんだ。

わしゃ仏だと、

そんな大法螺吹

くわけじゃないんだ。

 

だけど、

その違った仏、

我を超えた仏の中に

我自身を見るわけだ。

そこに

信念というものがある。

未だ仏にあらずして、

すでに仏になりうる

確信を持つと。

こういうのが信念。

 

こういうことが、

念念に、

この一念というものが

成立してくると、

自然にその中に

そういう確信が

起こってくると。

 

こういうような意味

ですね。」

 

何度も読むのですが

とても重要なポイントに

なりうるような言葉です

先生の話は

盛り上がったかと思うと

「じゃあこれで」

と終ってしまいます。

ですから、

普通にいうような

序論・本論・結論

というような展開ではなく

最初から本論で

中も本論、終わりも本論と

どこを切っても

エッセンスのような話

なのです。

そこが面白いところです。

 

 

 

 

 

 

 

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安田先生と猫

2023-12-20 20:11:24 | 十地経

十地経講義の会所となった

東寺の宝菩提院

師匠の三浦先生は猫を

とても可愛がっておられ

たのです

それを知ったか知らずか

自然発生的に

ネコちゃんたちが集まって

きたのです

それで、常時14.5匹の

ネコちゃんたちと一緒に

暮らしていました。

 

面白いことに

一匹の猫ちゃん

どういうわけか

講義のときには

いつも安田先生の膝元に

やってきて

講義を拝聴しているのです

 

そういう姿を見て

「猫が自覚したら仏や」

と、仰っておられました。

 

それにしても

何かの因縁がある

のでしょうね

生まれ変わりして

今は猫だけど

ずっと聞法してきた歴史が

あるのかもしれません。

 

「三浦さん慈悲深い人や

なかなか出来ることでは

ない。

しかし、

慈悲にも大中小があって

三浦さんのは小悲やね。」

というような話しが

出たのです。

うろ覚えなんですが、

 

自分の縁のある人に

ほどこすのを小悲と

法縁のある人に

起こす慈悲を中悲と

それから、

無縁の慈悲

ということがあります

あらゆる差別のない

縁があろうとなかろうと

一切の生きとし生ける

そういうものに対する

慈悲が大悲であると、

これは仏から出てくる慈悲

です。

 

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても奉ずべし

骨を砕きても謝すべし

 

という歌がありますが

学生のころ聞いて感動した

歌でもあります。

 

まあ、

猫ちゃんたちの暮らしは

最初は面食らったのですが

食事の時は

まず猫たちのご飯を上げる

私達はその次です

これも理にかなっていて

そうすると

私たちの食事の時

ちょうだい、

とやって来ないで

ゆっくり食事ができる。

 

また、近くの魚屋さんへ

買い出しに行くのですが

「ネコの魚下さい」

というと

「ネコの魚はない!」

と叱られました。

味がないように炊いて

それから、身をほぐして

骨を取って、よく混ぜ

その上に少し出汁をかけて

それで、出来上がりです。

 

それから、

ネコちゃんが妊娠すると

ステーキが出ます

めったに食べない私達には

匂いだけ嗅ぎながら

母になる猫に

別なところで上げるのです

 

三浦先生によく懐いている

ネコは先生が帰ってくると

お出迎えに行きます

足元で甘えるのですが

その声で、

「そうか、

のりふみがいじめたか

よしよしと」

まあこれだけの

猫たちとの共同生活は

色々ドラマもありました。

それはそれで楽しかったし

心が癒されたのです。

 

ふと思い出すと、

丸くなって安田先生の側で

講義を聞いている

猫の姿が

浮かんでくるのです。

 

 

 

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偶然の中に大きな必然を見出す

2023-12-19 20:02:24 | 十地経

人と人との出会いは

本当に偶然なことです。

偶然に出会って

こんにちわ、さようなら

と、それで終わってしまう

出会いもありますが

この人と出合うために

自分があったんだという

必然性をみいだすことが

あります。

 

安田先生の講義も

たまたま、偶然の縁が

東寺の宝菩提院での法座と

いうことになり

その講義が原動力となって

色々の先生方に力を与え

素晴らしい学園活動が

成り立ったということです

 

そのことを少しですが

述べておられます。

 

「我々があなた方に、

我々がこうして何か一つの

感心をもって結びついた

ということは、

これは歴史的なことなんだ

 

それは好きでやった

ことじゃないんだ。 

その、そう、気が付いて

初めて分かるんであって

ですね、

何かそこに、非常に、

久遠の因縁というものが

あるわけですわ。

 

どこの馬の骨に会うた

というもんじゃないわ、

我々が会うて、そうやろう。

ちょっと東寺にきてみて

偶然に会うたんだけど、

 

しかしその、

偶然であって、

その偶然の中に大きな必然

があってやね、

多生曠劫の因縁という

ものに、そこに

結ばれとるわけですね。

 

そういうものが自覚されて

こんとやね、もう、

我がまま勝手ということ

にしかならんじゃないか。

ええ。

使命は出てこない

でしょう。

こんな人と、

どこの馬の骨か知らんけど

会うはずはなかったんや。

 

会うてみて、

なるほどということが

うなづくわけですね、

そこにね。

それがね、まあ、

僕は思うけどもね、

 

あんた方まだ若いから、

そう思わんけど。

僕はあの、

友達とか何とかという

ものでもね、

この友達あかなんだら

新しい友達をなんぼでも

次々に作っていくって、

そういうことできる

ものじゃないと思う。

 

うん。

それで我々の会はね、

まあ初めはちょっと

縁が触れて、

初めは萌芽的なものが

だんだん成長していって、

そうするといろんな事件に

ぶつかるけれども、

まあ

それを乗り越えていける、

継続していく。

 

最後には、まあ、

一番早いのは、

いずれ皆死んでいくわね、

いつまで生きても。

で、ポツポツ減っていくと

歯が抜けるように。

老いこんでいくと。

最後にはまあ、消えていく

 

それで僕は、

そういうことは情けない

ことやと思っていたんや、

長いことね。

自分の力が足りんのかなあ

と思っていた。

 

そうじゃない、

そりゃ生きとる証拠なんや

生きとるものは成長があり

成熟があり、老衰があり、

死滅がある。

 

永遠に死なんようなものは

何か本物じゃない。

何か経済の組織とか、

規則とか、そんなもので

培うから続いているんで

あってですね、

生きとるものは必ず

終わらんならん。

 

それが生きとる証拠や。

そうしてみるとやね、

今会うて、やがて

別れていかんならん、

死んでいかんならん。

そういうはかないもんだ。

 

そのはかないという

ところに生きとる証拠がある

うん。

はかないというところに

生きとる証拠がある。

そういうもんじゃないか。

 

そのはかなさという

ことの中に、いわゆるこの、

はかなさを貫いて、

一つのですね、

あのー、歴史、そのー、

はかなさを貫いて何か永遠

のものが生きとるから

歴史になるんですね。

 

何かこう、

消えていくというもんじゃ

あない。」

 

私達にとっても

出会いということを考えて

思い返してみると

思い当たるものが

あるようです。

 

 

 

 

 

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腰掛け根性

2023-12-18 20:52:43 | 十地経

「腰掛け根性」という

若い方でも、

「この仕事は自分に合い

 ません」

とかいって辞めていく人

がおられますが

まあ、自分に合う仕事

というものはそう簡単に

あるものではないと

思います。

 

反対に合わなかったら

まあ少し辛抱してと

惰性的におられる人も

おられるようです。

そういうことを

「腰掛け根性」と

いうのでしょう

そういう心からは

使命感というものは

出てきません。

 

そうなると

やることなすこと

気持ちが入らなくて

仕事もうまくいかないし

自分でも面白くなくなって

くるのです。

 

ただ月給をもらっている

からいるという。

そういうことから

講義では続けて

 

「やっぱり腰替え根性を

脱出できん」

ということが出てきて

 

「ええ、月給もらっている

からやっとるんだという

ような、

それっでいいわ、

そんなら止めるという。

月給安けりゃ高いところへ

行くというようなもんや。

それ以上出てくりゃせん。

 

それは自由だわね、

そんなものは。

それはあなたの自由だ。

ですけど、

自分が自分の自由になる

ほど、あんたはつまらん

もんですね。

 

自分のようなものの

自由に自分がなるんだから

 

それほど安っぽいもんだ。

そういうふうに

なってきますね。

自重というようなことは

出てこない。

 

それとも何か

理性的に考えて、

いや真理のためとか、

理想のためと

かというようなこと

いってみたところで、

観念論や。

 

やっぱりそこに何か

歴史的な具体性がないと

使命が出てこない

でしょう。」

 

何か、自由、自由と

いうことをよくいうのです

自由というと

自由のための戦いとか

一つの最も大切なものの

ように考えますが、

 

さらに踏み込んで考えると

自由ということも

自分の自由になる

というような自由

つまらん自分が思う自由

そんな安っぽい自由

ではないかと

 

何でも自分の自由になる

そういう考えが

根底にあるので、

自分に合う合わないという

ことが出てきて

やはり、

腰掛け根性という

ものが出てくるのでしょう

 

誰かが

「妻を愛し、仕事を愛し

土地を愛する」

そういうことがないと

何ごとも成功しない

ということを言って

おられましたが、

 

同じようなことで

腰掛け根性と

使命感というものは

正反対のようで

繋がっているように

思うのです。

 

何かしら、

その土地の骨になろうと

心を決めたとき

何かしら、心が軽く

なったような、

気持ちが明るくなった

ものです。

 

 

 

 

 

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大きな人間の存在の使命がある

2023-12-17 20:13:54 | 十地経

使命というと

大きな責任を持った人に

あって

普通の人には使命という

ことは

ないように思うのですが

そうではなく

どんな人にも使命という

ことがあるのだと

ということが出てきます

 

安田先生は講義の時

洛南高校の前を通り

お見えになるのですが

その通りすがりに

車窓から校門前の

門衛の方の姿を見られ

洛南高校のあり方は

立派だと

仰っておられました。

ほんの瞬間ですが

そういう何でもない

ことから本筋を見抜かれる

 

何も

校長先生が偉いのではない

門衛さんの姿が立派だと

ですから、

それぞれがそれぞれの

はたらきをしているから

立派なのだと。

 

私というのは

私だけのものではない

道のものだと

ということが続いています

そこで、講義は

 

「社会的歴史的存在

というようなことになって

初めて自己の存在は、

個人を超えとると。

こういうような、使命やね

使命というものが出てくる

そこに。

ただ好きでやるんじゃない

んだ。

好きでやるというような

ことじゃ、どうも

人間は立ち上がらんですよ

 

大きな人間の存在の使命

があると。

その使命というのは

歴史的使命ですね。

自分でなければ

果たせんような使命が、

各人に与えられとる

わけや。

 

だからそこに、

愚かなものといっても

べつに悲観する必要が

ないんだ。

愚かなものには

愚かなものでなければ

できんような

使命が与えられとるんや。

 

ちょっとも各人の持っとる

天分を変える必要がない

んだ。

そういう大きな使命が

与えられていますね。

 

そういうように、もう、

各人各人の運命を包んで、

それを超えておるものが、

やっぱり歴史というもので

あって、

ま、この場合は仏道の

歴史や。

 

道というような時になると

『道を起こす時』

という、

道というようなことに

なると歴史になっとるんだ

そうせんというと、

やっぱり、これは

腰掛け根性を脱出できん」

 

この時の講義は

とても勇気づけられた

というか元気づけられた

言葉です

「人間の存在の使命」

という、

それもそれぞれの人に

その使命があるのだと

 

洛南の門衛さんの笑顔

校門を通る生徒一人一人に

明るく挨拶される

その姿を見られて

この高校の良さを

実感されたように思います

 

そういう時

私も毎日、掃除と草刈に

追われる毎日日で

いつまで続くのかと閉口

していたのですが

この、どんな人にも

それぞれ使命があるのだと

この言葉は

とても勇気をもらった

のです。

 

掃除をする人には

掃除の使命があるのだと

何も卑下する必要ない

自信が湧いてくる言葉です

 

校長先生には校長の使命が

あり、

それぞれの先生には

先生の使命があり

門衛の方には門衛の

使命があると

その与えられた使命を

果たしていく

 

何か満足して掃除も草刈も

出来るように感じたのです

それからは

掃除も誇りをもってできる

ようになってきた

言葉でした。

 

 

 

 

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自己を尊重する

2023-12-15 21:22:29 | 十地経

一、自己を尊重せよ

一、真理を探究せよ

一、社会に献身せよ

 

というのは、

洛南高校の校訓ですが

この校訓ができるとき

いろいろ意見があって

「尊重せよ」というのは

命令的で上から目線で

いけないのではないか

「自己を尊重しましょう」

とかしたらどうですか

というような意見も

あったようです。

 

これはそうではなく

自分が自分に対して

命令しているのであって

他から命令されている

のではない、

ですから、

「自己を尊重せよ」で

いいのだと

こういうやりとりがあって

決まったようです。

 

ここのところは

安田先生の

三浦先生に対しての

激励のようなものを

感じるのです。

昨日から重複しますが

 

「私は私のものじゃない、

道のものだと。

私の存在は私の自由に

できんもんだと、

こういうわけやね。

そういう拘束がなければ

人間、

何か生きがいとか

というものは

ないんじゃあないかね。

 

まあ一応やってみるけど、

はやくたびれたら止める

ということになる。

つまり

人間の利害を超えてやね、

人の批評とか、

悪口とか、

そういうものを超えて

生きていくと。

 

こういう時には、

勝手に

生きていくんじゃない。

生きんならんような

ものがあるから。

それで、

そういう力が

出てくるんじゃないかな。

 

私はもう私のもじゃないと、

ええ。

だからして、

死んでもいいと

いうんじゃないです。

大事にせんならんと。

自分の肉体も、健康も、

大事にせんならんと。

こういうものでなけりゃ

ならんわね。

 

自分が大切だということや

尊重やね。

自己を尊重する

というようなね。

こんなのは、

我がまま勝手から

出てくりゃせんわ。」

 

やはり

大きな問題があるもので、

そういうことを安田先生も

ちゃんとご存じで、

でも直接は面と向かって

仰らないのですが

こういう講義の中で

それとわなしに

話しておられます。

 

「人の悪口とか批評とか」

何気ない一言ですが

三浦先生にとっては

生き死にに関わるような

大問題を抱えておられた

ようです。

 

大衆威徳の恐れ

ということがあって

他人の口というものは

恐ろしいものです。

色々の方が報道で

マイクを向けられ

詰め寄られている光景を

拝見しますが

本当に大変だろうと

思います。

 

ですから、

安田先生もくどいほど

「私は私のものではない、

道のものだと」

そして、

批評とかを超えて

生きていくんだと。

そういう励ましがあった

ように思うのです。

 

何だかこのページから

進まないのです。

その当時の光景を思い出し

ながら繰り返しています。

 

 

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自己を尊重する

2023-12-15 20:40:37 | 十地経

一、自己を尊重せよ

一、真理を探究せよ

一、社会に献身せよ

 

というのは、

洛南高校の校訓ですが

この校訓ができるとき

いろいろ意見があって

「尊重せよ」というのは

命令的で上から目線で

いけないのではないか

「自己を尊重しましょう」

とかしたらどうですか

というような意見も

あったようです。

 

これはそうではなく

自分が自分に対して

命令しているのであって

他から命令されている

のではない、

というようなことがあった

ようです。

 

ここのところは

安田先生の

三浦先生に対しての

激励のような気がします。

昨日から重複しますが

 

「私は私のものじゃない、

道のものだと。

私の存在は私の自由に

できんもんだと、

こういうわけやね。

そういう拘束がなければ

人間、

何か生きがいとか

というものは

ないんじゃあないかね。

 

まあ一応やってみるけど、

はやくたびれたら止める

ということになる。

つまり

人間の利害を超えてやね、

人の批評とか、

悪口とか、

そういうものを超えて

生きていくと。

 

こういう時には、

勝手に

生きていくんじゃない。

生きんならんような

ものがあるから。

それで、

そういう力が

出てくるんじゃないかな。

 

私はもう私のもじゃないと、

ええ。

だからして、

死んでもいいと

いうんじゃないです。

大事にせんならんと。

自分の肉体も、健康も、

大事にせんならんと。

こういうものでなけりゃ

ならんわね。

 

自分が大切だということや

尊重やね。

自己を尊重する

というようなね。

こんなのは、

我がまま勝手から

出てくりゃせんわ。」

 

やはり

大きな問題があるもので、

そういうことを安田先生も

ちゃんとご存じで、

でも直接は面と向かって

仰らないのですが

こういう講義の中で

それとわなしに

話しておられます。

 

「人の悪口とか批評とか」

何気ない一言ですが

三浦先生にとっては

生き死にに関わるような

大問題を抱えておられた

ようです。

 

大衆威徳の恐れ

ということがあって

他人の口というものは

恐ろしいものです。

色々の方が報道で

マイクを向けられ

詰め寄られている光景を

拝見しますが

本当に大変だろうと

思います。

 

ですから、

安田先生もくどいほど

「私は私のものではない、

道のものだと」

そして、

批評とかを超えて

生きていくんだと。

そういう励ましがあった

ように思うのです。

 

何だかこのページから

進まないのです。

その当時の光景を思い出し

ながら繰り返しています。

 

 

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