私はそうなんですが
せっかくいい話を聞いても
聞いた後からすぐに忘れ得てしまう。
ですから、
この十地経の講義も
こうやって通して見てみると
結構、同じ話を繰り返しておられる。
良いか悪いか
聞いている時は毎回新鮮に聞こえ
感動するのです。
こういうことは
誰にもあるようで、
そのことを講義で述べておられます。
「聞法する人がどうも非常に頭が悪くて、
聞いた後からせっかく立派な話を聞いても、
聞いた後から、
その時は感動するが、
すぐ後から忘れてしまうというようなことで、
どうしたものでありましょうと、
自分の、この、まあ、
聞いたわけです。
仏法を耳に入れようとするから忘れるのではないかと。
仏法の中にお前を浸けたらどうや、
水をすくおうとおもって、
網でこう、すくおうとするから
水は漏れてしまう。
それで忘れたとか、忘れんとか、
そのようなこと言っておるけど、
そうじゃなしに、
浸けておけばいいじゃないかと。
水に浸けるということがね。
昔、学生の間に禅宗から来ておった学生がいました。
妙心寺派の学生でしたけど、
大学出ただけでは
禅宗の坊さんになる資格を与えないんだ。
やっぱり行をやらないといけない。
入ってみれば、無茶苦茶やという、
修行じゃないと。
飯を食うと、朝、顔を洗う時間と
同時に飯を食う時間になっている。
飯食う時間に同時に
座禅する時間になっていると。
だからして飯食って
それから次にという具合に
いっとらんというとね、
非常に不合理やと。
くたくたにしてしまうんですね。
ああいうことが一つの、
くたくたにするということが
一つの大事な教育的意義を
もっとるんじゃないかね。
うだうだ文句いうてですね、
言っておった日には、
何もできんじゃないか、
それは語学でも数学でも
皆あるんじゃないか、
そういうことが。
全身を浸けておくということがね。
どうも、世の中忙しいから
どうも仕方がないけど、
やっぱり速成というものは、
これは、どうもこうもならんものです。
やっぱり暇がかかるけれども、
暇がかかるように出来とるんだ。
その、抜け道というものはないんです。
そこを抜け道してやるというと、
やがていつかまたそこを
やらんならんようになってくる。
それだからして、
数学の好きな生徒は
数学ばっかりやるし、
国語の好きな生徒は
国語ばっかりやっとると。
まあ特色がっていいと
いうようなことも考えられるこれども、
そうじゃない。
みんな要るようになっとるんですね。
みんな要るように、最後は。
そういうもので、
全部が要るようになっています。」
全身を浸けておく
今日もテレビに三味線の吉田兄弟がインタビューに答えて
「毎日三味線持たなかったら勘が鈍る。
三日も持たなかったら
まったく納得する音が出ないと。」
おなじことで、
『十地経講義』も毎日開いて
読まないと、頭がその頭にならない
ずっと読まなくても
ちょっとでも開いて見ないと
考える頭にならないようです。
身を浸けておくという表現は
実に面白い言い方だと思います。
また、修行時代も
ああすれば、こうしろと言うし
こうすれば、ああしろと
一体どうしたらいいのかと
本当に無茶苦茶いうのです
たまりかねて、
では、どうしたらいいのかというと
それは自分で考えなさい。
という答えです。
まあ、
こちらの下手な分別を破るには
そういう方法しかないのかもしれませんね。