本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

野の花たちは春を謳歌している

2020-03-31 20:48:54 | 住職の活動日記

「STAY HOME」ということで

じっとしているのですが

手紙を出す用があって

ポストまで出かけたところ

野の花たちはコロナウイルスは

なんのその

元気に春を謳歌しているようです

 

 

通りすがりに見つけた

白い花

フランスギクというようです

フランスという名があるように

外来種、

もとは庭に植えてあったものが

逃げ出して野生化したようです

 

 

近鉄沿線の法面には

ハマエンドウが群生しています

 

 

花が出る前のつぼみは

このような姿です

 

 

小さいながらアップで見ると

美しい形をしています

 

 

エンドウという名前がついていますが

豆はできないのでしょう

 

 

また

こういう白い花も群生しています

 

 

図鑑を見るとハナニラの

ようでもあり違うかも知れません

葉がにらの形に似ている所から

こういう名が付いたようです

 

 

この姿はハナニラのようです

 

我が家へ帰ってみると

 

 

 

牡丹も随分と膨らんできました

もうすぐ開き始めるようです

 

何気なく隅々を見ていると

いつの間にか

 

 

オニノゲシが随分と大きく

なってきています

 

 

ド根性というのでしょう

ブロック塀とコンクリートの

わずかな隙間に

根を生やしたのです

枯れた葉が残っているので

昨年も咲いたのでしょう

あまりにも隅っこで

昨年は気が付きませんでした

 

 

そういえばこの花も

隣の土に根を下ろし

本体をわが家へ

伸ばしてきています

 

 

ムラサキサギゴゲかな?

葉は広卵形とありますから

そのように思うのですが

花の形がサギに似て、

苔のように地面を覆って広がる

様子からこの名前が付いた

ということです。

 

自然の営みは凄いというか

恐れ入ります

わずかな条件を求めて

そこで根を下ろししっかりと咲く

条件がそろはなければ

枯れてしまい

それでも、また来年は

わずかな縁で命を伸ばしている

本当に不思議で

驚くばかりです

 

今年は身近な野の花をめでて

春の花見として楽しみましょう。

 

 

 

 

 

 

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志村けんさん逝く

2020-03-30 20:29:09 | 住職の活動日記

朝のテレビに流れてきたテロップ

「志村けんさんが

  亡くなられました」

まさか、

だいじょうぶだ!

と、すぐにでも退院されて

くるものと信じていました。

 

あらためて

コロナウイルスの恐ろしさを

まざまざと思い知らされました

コメンテーターのなかには

さほど恐れる必要はない

インフルエンザよりも弱いから

ということを聞き

そのようなものかとも思っていた

のですが、

このコロナウイルスは

そんなやわな存在ではありません

 

他人事ではなく

誰にでも襲ってくるということを

志村さんは身をもって

私たちに警告してくれたように

思います

 

今やどこでどうやって感染するか

分からなくなってきています

ということででしょう

難しい外来語が言われています

「アウトブレイク」

「オーバーシュート」

「ロックダウン」

日本語でもいいものを

なぜ横文字?と思うのですが

アウトブレイクは集団発生

オーバーシュートは爆発的感染

ロックダウンは都市封鎖

ということですが

日本語で言った方が

もっと現実味を帯びて響くのでは

と思うのですが… !?

 

いうれにしても

志村けんさんという

偉大なコメディアン失ったことは

本当に残念です

ご本人も、まさか自分が

意識がないまま亡くなるとは

思っておられなかったと

思います。

 

本当に非常事態です

我が家でも非常用の品の点検を

しなおしました

巣ごもりの準備に備えて

本当に必要以外のことは

極力、出歩かない方が

お互いのためではないかと

思うのです。

 

そういうと昨日は

妙な夢を見ました

自分が亡くなったという夢です

お釈迦さまと同じように

亡くなったら晒しで巻いて

それを綿で包み、さらに

晒しで巻いて綿で包みと

お釈迦さまは五百重に包んだ

とありますが

それほどではなく一重くらいで

と思って

そうやって試してみて

棺桶に入ったのです

ところが手が不自由が効かない

それでそのまま亡くなった

という夢です

その光景を自分が見ているという

何とも不思議な夢でした。

 

そうやって、

人はいつ何時、

死ということがくるか

分かりません

それも、皆の顔を見ながら

お礼の一つでも言って

亡くなればいいのですが

コロナとかの場合

隔離され誰とも会わずに

死んでいくかもしれません

 

本当に、

用心に用心をして

過ごさなければということを

思い知らされました。

 

 

 

 

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三つの密

2020-03-29 21:05:46 | 住職の活動日記

感染を防ぐには

「三つの密」の徹底を

という呼びかけです

『換気の悪い密閉空間』

『人が密集する場所』

密接した近距離での会話』

ということです。

 

三つの密を略してでしょうか

テレビで「さんみつ」という言葉が

聞こえてきました

坊主の悪い癖

「さんみつ」を「三密」と

聞こえてきたのです

弘法大師の『即身成仏義』に

「三密加持すれば速疾に顕はる」

という有名な一文です。

 

「密」という文字も

仏教では「蜜」という字も使います

密教という場合は「密」で

六波羅蜜の場合は「蜜」と使います

 

密は「ひそか」とも読み

ふと思い出すのは

前島密ヒソカという方です

郵便制度の父と呼ばれる方で

1円切手の肖像画の人です

 

「ひそか」という字には

密・私・窃・陰・間・微・潜

という字があります

こういう言葉からすると

ひそか、ということは

何かしらひっそりと、かくれて

表ざたにせぬよう

というよな、よからぬ意味合いを

感じてしまいます

 

ところが、

弘法大師の言われる

「三密」ということは

身・口・意の三つ

私たちが行うすべてのことです

これは三業といいますが

身業・口業・意業です

 

いつも唱える十善戒では

身に関することは

不殺生・不偸盗・不邪淫

口は、

不妄語・不綺語・不悪口・不両舌

心(意)に思うことは

不慳貪・不瞋恚・不邪見

ということです

これは何も特別なことではなく

何気なく普段

私たちが行っていることです

自分勝手な思いから

嘘はつくし、お世辞を言って

人をおだて、邪な心で不倫する

という具合に

何かしら気が付かなくても

自然に行っているのです

 

この三業を三密といわれる

三密になればこれは仏のふるまい

仏としての行いになると

三業が三密になる

ということです

何もこれは仏さまは秘かに

行われるということではなく

この場合の「密」は

どういうのでしょうか

 

辞書にはないのですが

秘かということには

純粋という意味合いがあるのでは

ないかとおもうのです

人間の行っている業が

仏から見直されたら

純粋になって行けばそれは

「密」ということになるのでは?

 

食欲ということも

口に任せて食べていたものが

それも腹いっぱい

それが、修行になると

自分のいのちを繋ぐ貴重な糧

となってくる

そこに食事作法(じきじさほう)

ということがあって

修行のためどうかあなたの命を

頂きます

そのかわり道を見つけたならば

必ずあなたの生きる意味を

見出して恩返しします

ということを誓うのです

そうなれば

殺生するという食欲が

「身密」にかわってくる

ということになるのでは

ないかと思います。

 

話はそれてしまいましたが

三密ということ

コロナウイルに対しても

私たちの日々の行いにしても

大切なことのように思います。

 

 

 

 

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不動明王遥拝

2020-03-28 21:02:39 | 住職の活動日記

毎月焚いていた護摩

今回は初めてお参りできなかった

こういう時期でもあり

よっぽどのことがない限り

動かない方がよいのでは

ということで

自宅のお不動さまにお参りし

遥拝することにしました

 

 

いつもの1時には

本蔵院の護摩に合わせて

こちらで読経をしました

このお不動さまを念じ遥かに

本蔵院のお不動さまを心に浮かべ

お参りしたのです

 

我が家のお不動さまの前には

お観音さまもいらっしゃて

お観音さまには

コロナウイルスによって

亡くなられ方々のご冥福を祈り

ました。

 

 

 

よくお寺には遥拝所という

ところがあって

たとえば高野山のお大師様に

お参りするということで

その方向に向いて

ちょっとしたお参りスペースが

作ってあります

 

今回だけはお許しいただいて

こちらにて、遥拝、

お参りさせていただきました。

 

やはり、お参りしていると

護摩木や御祈願を申し込まれる

方のお顔が浮かんできます

いつも思うことながら

自分のことは後回しに

周りの子供さんやお孫さんの事を

願っておられます

ある方はその方の名前すら

最初は分からなかったのです

自分の護摩木はなく

子どもさんやお孫さんの事のみ

お願いしておられたのです

 

なにかしら、

祈らずにはおられないという心

が大事ではないかと思います。

 

不思議なことですが

背きながら近づいていく

ということでしょうか

一番反抗していた自分が

お不動さまの隣で生まれ

東寺では10年余り毎日護摩を焚き

本蔵院では毎月

ふと、焚かないということは

なにかしら申し訳ないような

止めてみると思い当たるものです。

 

自粛というものの

コロナの力は日に日に

増してくるようで

この先どうなることやら心配です

ただただ、一日も早い収束を

祈るばかりです。

 

 

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概念・コンセプト(concept)

2020-03-27 21:01:30 | 漢字

『十地経講義』の中にも

頻繁に出てくる言葉「概念」

何となく分かっているような

つもりで読んでいますが

いざ、聞かれると

分からない言葉でもあります。

 

広辞苑には

「事物の本質をとらえる

 思考の形式」とあります

が、これもよくわからない。

貧弱な脳みそでは

こういうことで躓いてしまいます

 

それがまた、横文字の

「コンセプト」となると

また違った意味で使っています。

 

いっそのこと分析してしまえと

漢和辞典片手に、

「概」という字は?

升にあふれる米をひっかいて

平らにする棒、とあります

今ではあまり見かけませんが

昔はお米は升で計っていたので

必ず丸い棒があってそれで

升の米を平らにしたものです。

それを「概」という。

そこから、意味が発展し

「おおむね」という意味になり

「大概」といように「ほぼ」と

いうことになったのです。

 

「念」は、

心に強くとめておく、

ということで、

「憶念不忘」という

心に深く思い忘れない

という言葉があります。

 

それが概念となると

この言葉も先人方の苦労の賜物の

翻訳でしょう

江戸末期から明治初めにかけて

活躍された西周(にしあまね)

という方が翻訳され

和製漢語をたくさん作られました

他にも、

哲学、芸術、科学、技術、意識

知識、定義、命題など

数多くの言葉を日本語に訳されて

います

今、当たり前のように使っている

言葉なんですが

何がどうなって

こういう言葉になったのか

その経緯を知りたいものです。

 

英語の辞書を見ても

いきなり、「概念」と

でてきます。

似たような言葉に「アイデア」

があると書かれています

どう違うのか

もとはギリシャ語で「物の外見」

ということから

「頭に浮かぶもの」と、

それが一時的に浮かぶもの

突然に→「思いつき、考え」

漠然と→「見当」→「感じ」

それが又体系的に浮かぶものが

「意見」→「思想」となった

ということで、

単なるアイデアということも

思いつきもあれば

じっくり考えた意見が思想に

なっていくという。

 

ですから、コンセプトという

言葉の成り立ちということを

知りたいものですが

概念といいコンセプトといっても

なかなか馴染みがなく

何かしらしっくりこないものが

あるのです。

 

よく聞く文としては

「この商品のコンセプトは」

とか、店のコンセプトなど

使いますが

これが、「商品の概念」となると

何かしら難しく感じ

別の意味のようにも思えてきます 

 

『十地経講義』にも

また安田先生の本にもよく

出てきますので

その中で馴染んでいくしか

ないようにも思います。

 

 

 

 

 

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コバノミツバツツジ

2020-03-26 21:56:49 | フラワー

枯れたような木々になかに

ひと際、

ピンク色の花を咲かせている

「コバノミツバツツジ」

 

 

目を楽しませてくれます

 

 

これから開いていく蕾

 

 

中央の蕾はこれから

開いていこうかという

ところでしょうか

 

 

周りには竹林もあります

すると、今満開の桜

 

 

ヨウコウザクラも

彩を添えています

 

 

枯れたように見える木々の中に

目を引く存在感です

 

 

ユキヤナギも今が見頃です

 

 

モクレンも開く前のほうが

美しくもあり勢いのようなものを

感じます

 

 

低い位置には「ヒュウガミズキ」

黄色い花を咲かせています

 

 

ソメイヨシノはこれから

花をつけている木もあれば

まだ蕾もたくさんあります

 

 

背の短いチューリップにも

出会いました

 

 

気づかない所にそっと

生えているようです

 

 

この桜もこれから

でもこのくらいが美しい

 

 

両脇には先程の

コバノミツバツツジが

咲き誇っています

 

 

棚田もあり、

これから美しく変化していく

その畔には

 

 

ちょっと大きめの水仙があります

 

 

なかなか美しい品種です

 

 

あまり人でもない散歩道

これから登りに差し掛かります

 

 

少し急な階段

段差も大きく息がはずみます

 

 

下には干拓用の池があり

野鳥たちの休息の場でもあり

水の中にはカメや魚たちも

いるのでしょう

枯れて池に落ちた枝には

カメさんも日向ぼっこです

 

明日からは天気も崩れそう

携帯には熊本の大雨注意報が

入ってきます

朝は5度だったのに昼には

22度まで上がり

半袖でもいいくらいです。

巣ごもり前にプチハイキングで

自然を楽しみました。

 

我が家から奈良の方に向かって

行けばこのような美しい自然に

出会えることはなによりも

有り難いことです。

いつもの散歩コースの背割提は

桜の名所でもあり

咲き出した今日この頃は

交通規制がかかり

近づけそうにありません。

花が終わったころ新緑を楽しみに

出かけたいと思います。

 

 

 

 

 

 

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東寺の御影堂(みえどう)

2020-03-25 21:03:37 | 住職の活動日記

弘法大師がお住まいになっていた

という「御影堂」

真新しく修理が完成したようです

とても美しい佇まい

 

 

ここが正面、造りは寝殿造

扉は蔀戸(しとみど)です

屋根は檜皮葺、

屋根の線が実に美しい

大師像は北向きに安置され

俗に北面大師といわれています

御所をお守りするということで

北を向いて坐しておられるのです

 

ここから西に回ってみると

 

 

ちょうど桜も満開です

空の青さとのコントラストが

桜のピンクを引き立てています

 

 

たまたまですが

ちょうどいい時にお参りできました

 

 

そして南面へ

ここには弘法大師の念持仏

秘仏の不動明王が鎮座して

いらっしゃいます

 

 

修理のため仏具がよけてあるので

中の様子がよくわかります

たぶん、左側の奥に

秘仏の不動明王

右に八幡様がお祀りされている

と思います

長く居たのですが

この奥は秘中の秘ということで

入ったことがありません

 

東側へ回ろうとしたのですが

工事中のため入れません

 

 

ここから眺める東面です

木の部分は風雨にさらされ

それなりに歴史を感じますが

金属部分は新しく鍍金され

眩いばかりの光を放っています

 

 

鐘楼です

足利尊氏が寄進したという鐘

ちょうど、仮の御影堂では

読経が始まっていました

そのお坊さんの声を聴きながら

ベンチで耳を傾けていました

その横に

 

 

カイドウザクラがありました

工事のためこの場所へ

移植されたのでしょう

以前は御影堂の西側にあった

ようで、とてもなじみ深い桜です

 

 

これから咲き切っていくのでしょう

移されても元気に咲いていました

ちょうど目線ぐらいのところに

咲く桜でしたので

通りすがりに眺めていて

心がなぐさめられました

 

 

御影堂の北の門から

入ったところにある

大きな樫木です

根元には

 

 

小さなお地蔵様がいらして

なんだか、いろいろと思い出す

場面でもあります

そんなことでちょっと

昔の思い出にふけっていました

 

 

東寺の場所から京都タワーが

見える場所があります

東寺第一の塔頭(たっちゅう)

観智院というところです

 

久しぶりに

静かにお参りできました。

 

 

 

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改竄(かいざん)

2020-03-24 21:31:01 | 漢字

一人の方が命を懸けて残された

「手記」が疑惑を解明し

真実を明らかに

しようとしています。

自分にとって都合の悪いことを

書き換え改竄する

それも「公文書」

その事実に耐えきれなくなって

自ら死を選ばれたのでしょう

痛ましい限りです。

そういう怒りを込めて

あらためてこの字を

書いてみました。

 

難しい字です

「改竄」

「穴」の下に「鼠」を書きます

めったに書かない字なので

書き順を調べ書いてみました

何度も何度も、

竄(ザン)という読みは

もぐり込むという意味の語源

潜(セン)からきています

鼠が穴の中に入る

という意味から

逃げ隠れするということです

 

意味は

①かくれる。かくす。

②のがれる。逃げ隠れする。

③あらためる。かえる。「改竄」

ということになります。

 

鼠という字も

上の部分「臼」歯はを表し

下の部分は体と爪と尻尾を

表しています

言われてみればなるほどと

うなずける象形文字です。

私はネズミ年なのですが

鼠という字にはあまりいい意味は

ないようです。

 

「鼠窃狗偸」(そせつくとう)

こそどろ、という意味で

ネズミや犬のようにこそこそ

ものをぬすむ、

ということです。

それから

「投鼠忌器」

ねずみにとうずるにきをいむ

と読んで、

鼠に投げつけて殺そうとして

そのそばの器物を壊すことを

おそれる。

ということで、

君側の邪悪の臣を除こうとして

その災いが君に及ぶことを恐れる

というたとえです。

 

君側の一言が君を守るため

その災いが及ばないように

改竄したのが始まりのようです。

 

昔知り合いに

ウソの上手な人がいました

口から出まかせ

ウソを言っていると

しまいにはどれが真実やら

どれが嘘か分からなくなった

と言っていました

一つの嘘をつくと

それを隠すために次から次に

嘘を重ね、ついには嘘八百と

なってしまい

とうとう全部消しちゃえと

黒塗りにして改竄

分からなくしてしまう。

 

しかし、

これが個人レベルならまだしも

国家としての文書が

代表者にとって都合が悪い

となれば、

省庁あげて書き換え改竄と

これは由々しき出来事のように

思います。

こういうことがまかり通る

国になってしまった

ということは

何かしら末恐ろしい

不気味なものを感じます。

 

 

 

 

 

 

 

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「誇りに思います!」

2020-03-23 20:45:07 | 漢字

最近の子供さんは上手に

コメントされ、

マイクを向けられても

「… を誇りに思います」

と答えられています。

 

が、この「誇り」という字も

いい方と悪い方の解釈があって

昔はもっぱら悪い面で使われた

ように思います。

漢字の成り立ちも、

言篇に夸(おごる)とから

できています。

意味は「大言をはいて、いばる」

ということで、「じまん」、

という意味もあります。

熟語としても

「誇大」、じまんしていばる

「誇示」、ほこりしめす

という言葉があります。

 

英語ではプライド(pride)

自尊心、ほこらしい、自慢

という意味があります

Ⅰam proud of the fact

that Ⅰwas born in this country

ということがあって

「この国に生まれたことを

 誇りに思います」

こういうことから

子どもまで「誇りに思う」

ということを言うようになった

のではないかと思います。

 

しかし、

もとの意味は悪というか

自分を戒めるような意味合いで

使ったように思うのです

「自分を誇らしげにいっては

 いけない」

というように

もっぱら自慢するという

意味で使ったように思います。

 

今、『十地経講義』でも

第四地から第五地へと歩むところ

なんですが

第四地は「焔地」(えんち)と

いって、炎ですね

燃えて明るくなるというたとえ

煩悩の薪を焼く智慧の光が

初めて生まれてくる

つまり、お不動さまの炎です

お不動さまの光背の燃える炎は

智慧の光です。

ですから、

第四地は初めて智慧が生まれた

法を分別する智慧がうまれた

ということです。

 

そこで、初めて分かったという

誇りが出てくるわけです

そうすると、

誇りに閉ざされてしまう。

分かったということで

歩みが止まってしまう

そういう難というか障りが出て

きます

そこを破って進むところに

第五地が出てくるわけです。

 

ですから、分かったという誇り

を破るのが実践なんです。

 

仏教でいう誇りとは慢という

ことと同じ意味で

誇りを破っていくことが

大事になってきます。

 

ということで、

『十地経講義』ではおもしろい

たとえを引き合いに出して

話しておられます。

ゲーテの『ファウスト』に出る

悪魔メフィストフェレスが

ファウストを誘惑し、

魂を売る約束させその召使となり

冒険をしていくという物語です

講義では、

「メフィストフェレスという悪魔

をかえって自分が抱えるわけです

から。

つまり世間の、学校の学問では

もうだめだと、

生きた人間の学問を知りたいと

こういうんで、

かえって悪魔を、.誘惑する悪魔を

友達にして迷うと。

あえて迷うんだ。

そういう大きな精神が語られとる

でしょう。

こういうことを

『十地経』は表そうと

してるんじゃないと思います。」

というように話しておられます。

 

よくは分からないのですが

煩悩とか慢という誇り

そんなものがだめだという

のではなく

そういうものも一緒に抱えて

修行するということでしょう

かといって

何でも一緒にごちゃ混ぜにして

いいというのではなく

細かい教理というのではなく

大乗仏教という大きな精神は

水も漏らさんような緻密さで

展開しているのでしょう。

そこが面白いところでもあります。

 

『十地経』ということに

接していると

その意味が解るというのではなく

経典に接していく態度というか

心構えというか

関係のない『理趣経』という

日々読むお経も

その文字がしみじみと入ってくる

分かるかというとそうではなく

経典の文字がじっくりと

読めてくるということは

何かしら面白いものです。

 

 

 

 

 

 

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御所の桜は待っていました

2020-03-22 20:08:09 | 住職の活動日記

花曇りの日ですが

ふと思いったって出かけました

お花見弁当というわけにはいかず

急ということもあり

途中でマクドの

チーズバーガーを持って、いざ

 

気になっている桜もあり

その様子が知りたいのが

思いったった心です。

 

まず腹ごしらえと

 

 

タンポポの咲く木の根っ子に

腰を下ろし

美味しくいただきました

 

 

まず目に飛び込んできたのは

モクレンです

ちょうど満開

 

 

白いモクレンも姿がいい

足を進めると

もう、満開の桜もあり

今、まさに咲こうとしている

さくらもあり

 

 

これからはしばらく

楽しめそうな様子です

 

 

咲き始めている桜の風情が

何とも美しい

 

 

枝にちらほらと咲いている

さくらも美しい

 

 

風もあり揺れる枝が

写真を撮る側にしたら

難しさもあります

 

 

この枝垂桜は満開です

天気が良く晴れていたら

空の青さと相まってピンク色が

引き立ってくるのでしょう

 

 

降り注いでくるようなさくら

これは見事な大木です

 

 

こういう立派な桜もあれば

その横では

あまり注目されない桜もあります

 

 

この幹からすると大木だったが

途中が折れて切られ

その横から生え出た新しい枝が

一本だけ伸びて花を付けています

 

 

下から見上げると

やはり枝垂桜、ピンクの

美しい色をしています

 

 

こういう見事な桜をしり目に

お目当ての桜は

 

 

横になっていました

学習院発祥の跡地に咲く

珍しい桜です

ここでは「桜松」と

命名されています

もとはここに大きな黒松があり

そこに宿木した山桜

松の幹の空洞から根を下ろし

その黒松が倒れたあとは

山桜は根を下ろしていたため

倒れた姿のまま咲き出したのが

この「桜松」です

 

 

山桜ですから葉の方も出ています

ちらほらと目線よりも下に咲く

可愛い桜ですが

あまり人目には触れないようで

皆さん気づかずに

通り過ぎていかれるようです

 

 

今年も元気に咲いてくれたのが

何よりもうれしい

 

 

まだ、蕾もあります

これから満開を迎える様子

この山桜も樹齢40年ほどで

黒松の方は100年たっていた

ということです

 

御所もこういう自然のものは

できる限り自然のままに

そっと手を添えるように見守って

おられるようです

それがまた自然のいい風情を

だしているようです。

 

 

 

 

 

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