本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

残滓(のこりかす)

2019-05-23 21:00:50 | 住職の活動日記

残滓・ざんし、

ざんさいとも読みます。

普通には「ざんさい」と

読んでいるようです

 

ふと気になった言葉です

十地経の講義を読んでいて

「雑夾性」ということがずっと

出てきていて

そのことからでしょうか

「残滓」ということが

どうも気になってきたのです

 

振り返ると

住職を辞して6年目になろうと

しています

最近では

やっとなくなってきたのですが

「住職」 という言葉に

ついつい反応してしまい

返事をしてしまいそうになります

 

また、東寺にいたこと

ある面では自分なりに命懸けで

やってきたという自負もあり

東寺のことがいつも気になって

いました

もう関係ないのですが

反射的に、こうしたらということが

頭をかすめます

 

そういう今までのことが

残滓、残りかすのように

体のどこかにへばりついている

なかなか取れないものです

 

辞めてからは

普通のおじさんとして

自分の今までの正体がわからない

ような暮らしをしています

けど、ふと出て来る

それをなくしていくのが

今の自分にとって

一番の修行のような気がします

 

ちょうど講義でも

「有無の二見」

ということが出てきました

あればあったで離すまいとする

なければないで欲しいと思う

あってもなくても

それに執着してしまう

 

難しいもので

有るというと何かしら形が

あると思ってしまうし

今度は反対に

目に見えないものはないと

有るか無いかのどちからに

偏ってみてしまう

 

清めるとか清浄になるとかいっても

具体的には分かりません

何が清浄になったのやら

講義では

有無の二見を破ることが

清浄にすることだと

出てきます

見といっても

これが大切で、見方考え方です

 

私たちがものを見るといっても

本当に物事の真実を見ることは

出来ません

どちらかに偏ってみてしまいます

自分にとって都合がいいか

それもと都合が悪いか

それだけでは済まなくて

その考えに執着、固執してしまう

その考え方を離さないようにする

 

自分はこう思う

この考え方は絶対だと

それに固執してしまう

それで

いろいろ諍いが起きてきます

煩悩よりも

この有無の二見に固執する

この方がたちが悪いようです

 

だから、

どうしても残滓が残っている

本当に残りかすですね

この退治がなかなかです

姿かたちはそこらにいるおっさんに

なったのですが

心の中に残る残滓が

どうもそこらにいるおっさんに

なれないのです

 

このことがこれからの課題です。

 

 

 

 

 

コメント
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