本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

鍵ということ

2019-05-20 20:57:46 | 十地経

さとりを得るとかいいますが

それよりも、さとりに至る鍵を

握ることの方が大切と、

聞いたことがあり、その鍵とは

と疑問になっていたのですが、

「十地経講義」を読んでいくうち

ヒントになる文に出会いました。

 

「鍵」ということも

面白いもので、

西洋ではバチカン市国の紋章は

二つの鍵が交差しています

向こうの鍵は

天国の扉を開ける鍵とか

罪人を牢獄につなぎとめる鍵など

あるようです

 

弘法大師も

『秘蔵宝鑰』(ヒゾウホウヤク)

という書を表しておられます

鑰(ヤク)とは鍵のことです

私たちの心の中に眠っている

秘密の蔵(仏の心でしょう)を

開ける鍵、キーワード、眼目

ということでしょう

 

昔の鍵は鑰という字を使います

今の鍵は入れて回す

というのがほとんどですが

昔の鍵は

入れて差し込んで引っ張り出す

というような

どうやって開けるのかわからない

鍵もあります

 

結論から言うと講義の中では

「鍵とは修養」

ということです。

講義では、

 

信仰を得れば、その、

広大無辺の世界に住するんだと、

では、

お前は広大無辺の世界におるか

といわれれば、

そうはいかんと。

それはその信仰が嘘なんじゃない

修養が足りんのやと、

そういう修養をしてそういう具合に

なるんだと

そういう世界を導き出す鍵を

握ったんだと。

ただ修養が足りんと。

だから今、仏というわけにはいかん

我々自身を知れば凡夫だと

凡夫だけれども安心というものが

確立するならばですね

それは仏じゃないけども

仏といいうものはそこから始まる

今私自身が練り上げられれば

それが仏なんだと。

 

普通の伝統の教学からいえば

まだ、修養なんかいっとるのは

信仰がない証拠だと。

そう、すぐ誹謗、擯斥が起こる

修養なんかやっとるのは自力やと

このような批判をするんじゃないか

 

それから八地の経文に

『上上に証する』

というところがあります。

上上に上へ上へということですが

この言葉も分かりにくい言葉です

講義は続きますが

 

二無我の真理をさとるのは

初地ですけど、

上上に証すると書いてあるでしょう

それが練ることなんです

一遍得たらもう済んだ

というようなもんじゃないですわ

二無我の真理を証した智慧を、

それで初歓喜地というんですから

一遍得たら、

もう止めたというもんじゃない

それを上上に練り上げていく

その練り上げるという、

これが修養なんです。

 

というように出てきます。

さとりを開く鍵というから

もっと、何かしら重要な言葉かと

思いきや

やはり『十地経』は実践のお経です

日々の修養ということが

その鍵であるといってあります。

雑夾性ということも

そうだと、頷いた歓喜ですね

自分の我が打ち砕かれたと

よし!、これでさとったと

思うのですが

そうではなく、

それが始まりで

修養して練り上げて

雑夾性を排除していくという

鍛錬ですね

 

鍵といっても

形にある鍵を得たというのではなく

修養という実践道が

見つかったということです。

 

鍵ということも何だろうと

ずっと思っていたのですが

何かしら腑に落ちた気がします。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
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