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小泉文雄『日本の音』を読む 3 能・狂言って何?  書籍代の呆然

2024-02-16 23:17:07 | 日記
A.能・狂言は音楽か
 能は一回だけ千駄ヶ谷の国立能楽堂で見たことがあるが、だいぶ昔で、しかも途中で眠くなってあまり記憶に残っていない。題名も、どんな能だったかも記憶にない。若かったせいかもしれないがひどく退屈な芸だと思った。だって十歩進むのに五分くらいかかるんだから…。囃子方と謡という器楽とバックコーラスも、なじみがなく言葉の意味もわからない。というわけで、能というものを伝統演芸として伝承された文化財ではあっても、現代に生きているぼくたちに、なにか意味のあるアートだと思ってこなかった。しかし、数年前に必要があって、日本の伝統演劇について調べる必要があって、いろいろ本を読んでみると、歌舞伎よりも能というものが格別な意味を持ったものだと思い、いろいろDVDなどで鑑賞してみた。なにより、能は中世室町時代に観阿弥世阿弥によって完成され、歴代の幕府や大名家によって保護され、武家の式楽として継承されてきたものだということが大きい。江戸時代の将軍の江戸城はじめ、各地の大名家の御殿には能舞台が設けられ、能役者や能・狂言に携わる者は武士身分を与えられてお抱えになっていた。町人文化の浄瑠璃や歌舞伎とはそこが違う。
 小泉文雄『日本の音』でも能・狂言はくわしく取り上げられているが、音楽という視点から見ているので、能・狂言は音楽はいわば脇役で、演劇の要素が強いから、まずそこが問題になる。

 「能や狂言が、はたして音楽であるかどうかという点については、まず疑問があると思います。私たちは普通音楽の面から、能・狂言を見ていますので、その謡の音階がどうだとか、リズムがどのような構造になっているかというようなことを盛んに問題にしますけれども、能や狂言はラジオで聞いたり、レコードで聞いたりするということが本来の鑑賞の仕方ではなく、実際は舞台の上で見なければならないということはいまさらここで言うまでもありません。
 たとえば、弦楽四重奏だとかシンフォニーだとかいうものも、ラジオやレコードで聞いたりするよりは演奏会場で聞く方がいいには違いないのですが、能・狂言の場合には、それをレコードで聞くだけではまったく不完全で、その音としての側面を考える上でも不十分であることが多いのです。実際には能舞台という、歌舞伎やオペラをやるような舞台とは違った、特別な構造を持ったステージが必要であり、そこで演じられるしぐさ、舞い、そういったすべてのものを含めて能というわけですから、能・狂言を音楽の側面からだけに限ってみることはできないわけです。そういうしぐさや、舞いをふくめて、そこに語りがあり、また伴奏音楽である囃子が加わってきたときには、これはむしろ演劇というべきだと思います。
 日本の能・狂言に比較されるものとしては、西洋のオペラや、オペラコミックがあり、こういったものは、演劇の一つのジャンルであることに違いはないのですけれども、実際には演劇を専門とする人たちの研究分野とか、鑑賞の対象ということよりは、音楽の一ジャンルというのが今日の常識だろうと思います。つまり演劇ファンだとか、演劇評論家というような人たちはオペラやオペラ・ブッファにはそれほど熱心ではありませんが、逆にシンフォニーや室内楽を聴く人たちと同じ層の人たちが、オペラやオペラ・ブッファを愛好するということは普通に見られることです。その点が日本の能や狂言の場合と違っています。
 こうしたことは日本のいろいろな芸能の中で、音楽がその理論的な側面を発達させ、抽象的な表現を充実させるよりも、むしろその音楽にのって何が語られるかという内容の問題、つまり文芸的側面のほうがはるかに重要であり、したがってそれを形にあらわした演劇というものに、より多くの関心が寄せられているという特徴を、やはりこの場合もあらわしているように思います。
しかしながらまたそれを音楽的側面からながめただけでも、そこにはほかのジャンルに決して見られないいろいろな特徴がふくまれていますので、これを日本の音楽の大きな種目として取り上げることはたいへんに意味のあることです。
  能の音楽的特徴 
 能を音楽的に見た場合には、一方では他の日本音楽の種目と共通する特徴を見ることができますけれども、同時に他の種目と異なった性格や、他の種目の中で行われているものと同じ要素でも、能においてさらに発達、または洗練されたものもたくさんあります。
 まず音階のことを考えてみたいと思います。普通、能の謡の中で使われる旋律的な要素は三つの種類にわけて考えることができます。
 まず第一は「弱吟(よわぎん)」というもので、これはいろいろな装飾がついていますけれども、大体五線譜で書きあらわすことができるようなきまった音の高さを持った音律で示すことができる謡い方です。
 二番目は「強吟」、これは弱吟と同じように、音の上がり下がりというものはありますけれども、一つ一つの音を音符で的確にとらえることがほとんど不可能なような、不安定な、また激しい動きのある音の集まりです。
 そして第三には「語り」というものがあります。これは言葉を朗唱するようなぐあいに述べる、せりふを述べるところなのですが、これには幾つかのパターンがあって、人物や役柄の性格に従ってきまった形をしていますけれども、これもある特定の音高で一つ一つの音を楽譜に書くというようなことがほとんどできない性格のものです。
 この中で強吟と弱吟の二つは、ある一曲が全部強吟であるとか、全部弱吟であるとかいうように分けて使うこともありますし、また一つの曲の中でその両方がまざって使われることもあり、音楽的にその曲の性格をきめるうえで重要な働きをしています。
 弱吟は、それではどのような構造に基づいているのかといいますと、日本の音楽の中でも最も高尚な、洗練された芸能であるこの能楽の音階が、一方日本の音楽の中で、一番プリミティブで幼稚な音楽構造を持っていると考えられるわらべうたなどと、ほとんど同じような構造を持っているのです。こう言うと驚く方もいるかもしれませんが、しかし実際に、能は基本的な性格として、わらべうたや一番簡単な民謡と同じような骨組みを持っているのです。ただ、それをさらに芸術的表現に高めるような使い方をしたり、こまかな装飾をつけたり、さらには全体の音の高さ、ピッチを次第に高めたり、急激に低めたりするような特殊な技法を使いますので、全体には何かつかみどころのないような、むずかしい音楽のように聞こえるだけです。形そのものはきわめて単純で、「かごめかごめ」とか「通りゃんせ」といったわれべうたの中で使われている音の動き方の基本的なパターンとほとんど同じです。
 ところで、音階としてもっととらえにくい強吟は、時代的にもあとからできたと考えられていますが、本来弱吟と同じような動きをするはずのメロディに対して、それを非音楽的に、非旋律的に抑制した表現を求めた結果生まれてきた謡い方なので、音の動きは音程の幅もたいへんに狭く、しかも一つ一つの音の中に、こまかな、激しい動きがたたみ込まれています。そのため、五線譜でそれをあらわすことが不可能なほど、動き自体としては弱吟よりもはるかに狭い領域の中に押し込められているのです。
 リズムについても音階と同じようなことを考えてみることができます。能のリズムは、日本のあらゆる音楽の中で最も理論が進んだ、きわめて高級な体系を持ったものだと考えられますが、これも比較的簡単な原理が基礎になっています。それはどういうことかといいますと、先ず歌詞が普通七五調でできているのに対して、それを「八ツ拍子」という八拍を一区切りとする拍節の中にうまくあてはめなければならず、その際の困難さをいろいろな方法で解決しようとした理論の体系であると考えられることです。普通に七文字、五文字のものを等分に八ツ拍子の中に入れていくと、どうしても拍子にあわないところが出てくるわけです。もともと日本の音楽では、わらべうたや、語りもの的な民謡の中に現れているように、話しことばの特徴にしたがって、ことばの一拍、一拍がほとんど同じ長さになるというのが、最もあたりまえの朗誦のしかたです。ところが、それが音楽になると、あることばのシラブルだけが伸びたり、または縮んだり、早く述べたり、ゆっくり述べたりする違いが出てきて、その違いのおもしろさというものが、一つの音楽的なリズムを構成します。
 ところが能の場合には、音楽的に、また旋律的になるよりも、むしろ文芸や演劇的表現に重点がおかれているという本来の性格から、ことばを非現実的な領域にまで飛躍させずに、しかも深い表現を目指しているということなのです。ことばの一拍、一拍の等拍の性格をなるべく保持しながら、しかもわずかにその中に伸び縮みをおいて音楽的表現に高めようと努力します。
 このような原則にしたがって、謡いの歌詞を拍子にあてはめることを、地拍子といいます。これにはほぼ三つのやり方がありますがその第一は、「大ノリ」とか「中ノリ」と呼ばれるものです。謡いには大ノリ、中ノリ、平ノリと三種のノリがあり、平ノリについてはあとで説明します。先ず大ノリは、等拍のわらべうたや唱歌のように、一字一拍の原則で進みますから一番簡単です。能のお終りごろ、事が急に運ぶところでは、二字を一拍に入れます。これが中ノリです。そのため、ことばの等拍性はきちんと守られるので、多少の字余りや字足らずがあっても、わらべうたと同様に、それらの個所を休符にしたり、二字分を一字分縮めれば、全体のリズムは崩れません。したがって、理想的には、大ノリは四文字・四文字、中ノリは八文字・八文字で文章ができているのが基本です。
 第二のタイプの地拍子は「平ノリ」で、歌詞が七五調の場合です。七文字・五文字合わせて十二文字になります。ところが音楽は一拍に二字をあてれば、八ツ拍子では十六文字分のスペースになります。つまり四文字分のスペースをどこかに作って、その分だけ休むか、前の文字を伸ばして埋めなければなりません。本来はこうした字配りを地拍子というらしいのですが、基本には上の句七文字の、一、四、七字目と、下の句五文字の最後の五文字目をのばします。これで四文字分ふえますから、十六字分になるわけです。実際はこんな簡単なものではなく、別な要求から伸ばされる「増し節」という技巧などが混ってきますし、八ツ拍子の各拍の長さも、全く等拍というわけではありません。比較的拍子の等拍性を守ろうというこのやり方を、「ツヅケ」と呼びます。これは本来は謡いの伴奏になる打楽器の打ち方のパタンの呼び名です。とにかくこのように、音楽の拍子の等拍性を守るために、歌詞の方を部分的に伸ばしたり縮めたりして、うまく合わせようというのが第二のタイプです。
 これに対し、同じ平ノリでも、逆に歌詞の方の等拍性を尊重するあまり、音楽の拍節が等拍でなくなってしまうやり方もあります。奥さんがあまりに強いと、旦那さんが譲らなければならない破目になるわけです。実際にこうした拍節のリズムパタンは、これを「三ツ地」といいますが、女性を主人公とする能の静かな地謡いなどに使われます。具体的な方法としては、歌詞の十二文字に合せるため、八ツ拍子の、第一、第三、第五拍目を短くして、歌詞の等拍性に合せるのです。
 細かいことを言えば、やはり能のリズムは技巧的に高度な洗練を経て完成されています。しかし、その基本は以上のべた単純な原理に基づいていることは興味ある点です。
 さて、その基本は以上のべた単純な原理に基づいていることは興味ある点です。
 さて、囃子のほうは笛一本と小鼓、大鼓それにあるときには太鼓がつきます。このように四つの楽器がそろったときには「四拍子」といいます。中には太鼓を使わない曲もあります。笛と謡いとは必ずしも同じ旋律をかなでるわけではありません。両方とも同じ音階に基づいている対位法というのでもないのです。能管の場合には能管独特の音列というものがあって、それが一見自由に、しかも拍子、あるいは謡いとそれぞれ特殊な関係に結ばれながら演奏されます。最も自由な場合は「アシライ」などといって、どこからどこまでの間、適当に笛を吹くという部分もあります。しかしながら、何でも自由に吹いていていいのかというとそうではなく、アシライの笛には、また特別な旋律の形があって、それをそのときの気分に一番よくあうように演奏するというふうになっています。
 したがって、リズムのうえでも、小鼓、大鼓、太鼓の拍子と謡いの拍子との間に、お互いに深く結ばれながらも合う場合と合わない場合があり、さらに謡いの旋律と笛の旋律との間にも互いに関係がありながら違った音が同時に響きますので、それらをポリフォニーあるいはポリリトムスというふうに呼んでもいいかと思いますが、それは決して西洋音楽のような意味ではありません。
 能の音楽は、ほかの日本の音楽と比べてみた場合に、一見自由に行っているようなポリリズムやポリフォニーを特徴としているようですが、実は厳格な理論がその背景にあるわけです。
 この点は、三味線音楽や、お箏の音楽、あるいは尺八などと比べて、能がやはり武家に支えられてきた厳格な音楽であるということをあらわしていると思います。」小泉文夫『日本の音 世界のなかの日本音楽』平凡社ライブラリー、1994年、pp.176-184.

 西洋音楽では楽譜があり、合奏する場合は、かならずリハーサルして音合わせを練習するのは、当たり前である。西洋音楽を基本とした現在のロックもポップスも、楽譜やコードを決めて練習は欠かせない。ジャズは即興が命だが、それでも基本はコード進行やハーモニーを頭に置く。そして音楽付きの演劇として見れば、現代演劇では演出家が必ず何度もリハーサルを繰り返して完成させてから上演するのは当たり前だ。ところが、能はなんとリハーサルなどない!らしいのだ。曲は何百年伝わる謡本があって、言葉も決まっている。だから能役者や囃子方は、いきなり能舞台に出てすぐ始められる。出だしから終わりまで、その呼吸と調子の合わせ方は、その場でやっているうちに合ってくるという。そういう訓練を年月をかけて身につけているというのだ。凄い。


B.あきれた書籍代
 自民党の派閥の裏金問題は、いつまでも不透明で不愉快きわまりない話だが、さらに政治資金報告書に実態をちゃんと記載してなかったから、訂正するとかいう醜態が続いてあきれるほかない。とくに書籍代に3500万円という金額にはだれでも驚く。書物が飯の道具である研究者だったぼくにも、大学勤務時代は書籍代は足りないくらい使ったといっても、年間30万円が限度だった。分野によってはもっと高額の資料文献代がなければ仕事にならないこともある。政治家も本を読んで勉強したり、資料をそろえたりする必要はあるだろうが、3500万円は桁はずれで、自分が読むために購入したとは思えない。斎藤美奈子氏は例によってするどく論評している。

「3500万円の使い方 : 斎藤美奈子 
自民党・二階俊博元幹事長の資金管理団体が2020~22年の政治資金収支報告書を訂正。3年間で、約3500万円(もう少し正確には約3470万円)の書籍代を計上したそうだ。どうやったらここまで巨額の書籍代になるのだろう。
 まず「献本」が考えられる自著を大量に購入して支持者などに送る。二階氏の著書『二階俊博言行録』は1部3300円。1万冊買えばほぼこの金額だ。ただ、この本は23年刊なので先の報告書の対象ではなく、また自著の贈答は公職選挙法に抵触する恐れがあるのでヤバイはヤバイ。
 次の可能性が「付き合い」である。知人の著書や自費出版本を買う。1万円の本を3500冊買えばこの金額になることはなる。毎月平均100冊ずつ買えばだが。
 一番効率的なのは3500万円の本を1冊買うことだろう。世界的なオークションに出る稀覯本なら不可能ではない。23年に英国の競売で落札された『ハリー・ポッターと賢者の石』の初版本は約1千万円。22年に同じ英国で落札されたジェーン・オースティンの初版本はセットで約3千万円だった。
 とは書いてみたけど、全部非現実的。もっとも疑われるのは会計担当者の手抜きである。二階事務所、スタッフの賃金をケチっているのではないか。でなきゃこんなバカげた数字が出るわけないっしょ。 (文芸評論家)」東京新聞2024年2月14日朝刊21面特報欄「本音のコラム」

 きのうの報道では、やはりこの購入した書籍は、支持者などに配る本のまとめ買いらしく、そのなかには二階氏の著書も相当数含まれるという。印税が還流したとすれば犯罪に近く、あきれる。公金の不正使用と同じだ。
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