gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

いまドストエフスキー 8  『白痴』から『悪霊』へ 「人権」を嫌う人たち

2023-03-29 15:09:11 | 日記
A.「聖母子」像のドストエフスキー的読み
 「三角関係」のドラマというのは、古今の演劇・小説・映画(マンガ・アニメもあるけれど)における普遍的な構造を成り立たせる要素だった。まず愛する男女のペアが登場し、これに絡む第三の人物が介入する。当然のように波瀾が波乱を呼び、クライマックスは愛の破綻か死。しかし、三角関係のドラマはいやというほど作られて、たいがいの物語のパターンはやりつくされてしまったともいえる。でも、ドストエフスキーほどの作家になると、そんな月並みな恋愛小説など書くはずもない。
『白痴』を三角関係の恋愛小説として読むことは可能だが、ムイシキンとナスターシャとロゴージンというそれぞれに特異な人物の愛の葛藤は、ねじまがってからみあって複雑にできていて、しかも最後にくるヒロインの死までどこか謎なのである。亀山郁夫の解釈も、これまたねじまがって複雑だが、なるほどと思わせるものはたしかにある。

 「(『白痴』の)本来のプロットに即していうなら、花嫁を奪いとられたムイシキンこそ「寝取られ亭主」の役割にふさわしいではないか。ところが、意識のうえでは、ロゴージンのほうが、つねにその役割を背負わなくてはならなかった。たしかにこれは、男性の心理としてけっして納得のいかない話しではない。しかし、ロゴージンは、十字架の交換によって兄弟の契りを結んだ相手を殺すことはできなかった。彼が、ホルバインの「死せるキリスト」の絵を好きだといったのは、その絵にこそひそやかな願望の実現を見ることができたからである。だが、『群盗』の例ではないが、兄弟殺しこそは、「神も恐れる」最大の罪であり、あえてその罪を犯すだけの勇気はなかった。
 形而上的嫉妬――象徴と現実のあいだ
 このように「物語層」では、濃密な恋愛小説(あるいはストーカー小説)として読めるものが、「象徴層」では、三者とも性を介さない、純粋に精神レベルでの恋愛小説となる。しかしこの「象徴層」には、さらに一段高いレベルでの物語が存在する。
 ドストエフスキーはこの『白痴』を三度目のヨーロッパ放浪中に書きあげたが、その間、各地の美術館で数多くの美術品に接している。彼が関心をもったのは主として近代絵画とくに聖母像や聖母子像だった。なかでもとくに『白痴』の執筆に影響を与えたのが、イタリア・ルネサンス期の画家ラファエロの作品で、天井でイエスを抱く聖母を描いた『サンシストの聖母』や、聖母子と幼い洗礼者ヨハネを描いた『まひわの聖母』だった。このふたつの絵が、「象徴層」での『白痴』の謎を解き明かすとみることができるのである。
 結論から先に言うと、聖母ナスターシャとキリスト公爵ムイシキンとの間にイメージされていたのは、ふつうの男女関係ではなく、ラファエロの絵に垣間見える聖母子の関係である。ロゴージンは、二人の切っても切れない聖母子の愛を前に、宿命的ともいえる疎外感をもち、挫折を覚えた。この挫折をのり越えるには、性による侵犯しかなかった。
『まひわの聖母』を見ると、仲むつまじい聖母子にまひわ(鳥)を差し出す洗礼者ヨハネは、あたかも聖母子を引き裂こうとするかに見える。この絵に限らず洗礼者ヨハネは縮れ毛で描かれることが多いが、ロゴージンもまた縮れ毛である。ドストエフスキーは、長い年月にわたって描きつがれてきた、聖母とキリストと洗礼者ヨハネの図を、このような恐ろしいリアリティによって見つめつづけていたのだ。それは、まさにドストエフスキーの「妄想」の世界での出来事だった。
 それでは、なぜ母(ナスターシャ)と子(ムイシキン)との関係が、ロゴージンにとってそれほどまで絶望的な嫉妬を呼び起こしたのだろうか。
 わたしはこう空想する。
 もしかすると、ロゴージンは、去勢派の一家の生まれである自分の出生をうたがい、だれの子として生まれたのかを知らずにいたのではないか、と。
 この謎を解くには、もう一度、ロゴージンのみならず、ナスターシャ、ムイシキンもふくむ親子関係を根本から洗い直さなくてはならない。」亀山郁夫『ドストエフスキー 謎とちから』文春新書、2007、pp.155-157. 

『白痴』に続く長編『悪霊』は、無垢な聖者としてのムイシュキン公爵とは正反対の主人公、悪の権化としてのスタヴローギンを登場させて、皇帝権力を転覆させようとする革命結社の内部抗争、という醜悪な政治の闇を描く。1970年当時の日本で、警官隊と銃撃戦を演じ、リンチ殺人が明らかになった連合赤軍事件が世間を騒がせたとき、『悪霊』にふれて政治と暴力の病理を論じる言説が、ひとしきりジャーナリズムに登場していたことを、ぼくも覚えている。『悪霊』はいかなる小説か?

「ドストエフスキーは『悪霊』で、革命家たちを『聖書』(ルカの福音書8-33)の「悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ」に重ねて描いている。このイメージは、革命家たちに対してというより、「観念にとりつかれた人間の悲劇」に向けられている。豚にとりついた「悪霊」とは、「観念」のことである。「悪霊」に出てくる革命家たちの思想は、「万人の平等を築くためには人を殺すことが許される」という、最終的に「皇帝殺し」へとつながる「観念」に礎を置き、「自分たちは大衆の権利を踏みにじることができる」という結論に達している。この「悪霊=観念」がもっとも積極的に、純粋なかたちで現れるのが、絶対的な「善」を前提として行われる殺人なのである。それはラスコーリニコフの「ナポレオン主義」にしても同じことである。
 「反革命」の内実 
 『悪霊』はわたしにとってもっとも思い出深い小説であり、ドストエフスキーに対するわたしのイメージを決定した小説でもある。ドストエフスキーについて何かを語ろうとするわたしのイメージはすべてこの『悪霊』で得た根源的な感覚から来ていて、本書における作家像の基本もこの作品を起点としている。
『悪霊』に出合ったのは、1970年の、学園闘争の頂点に当たる年だった。むろん、その時のわたしにも、革命結社の力学に対する関心はなくはなかったし、連合赤軍事件の内ゲバを耳にし、『悪霊』の持つ予言的なテーマ性にも気づいてはいた。
 だが、ソ連が崩壊し、社会主義の夢も、「革命」の理想もすでに潰えたといえる21世紀において、『悪霊』のテーマはもうそこにはない。むしろ、いささか古くさいと思われるかもしれない「神と人間をめぐる問題」としてこの小説を捉えなおすべき時代が来たとわたしは考えている。逆にわたしたちは、神の問題にじかに触れることができると感じられるほど追いつめられた時代に生きているということなのかもしれない。
『悪霊』は、1869年にモスクワで起きたある内ゲバ殺人事件(ネチャーエフ事件)に基づいている。当時ドイツ・ドレスデンにいて、妻の弟からこの事件の内実を詳しく知らされたドストエフスキーは、それまで社会主義や革命運動に対して抱いてきた不満や鬱憤を、小説それ自体がどれほどの歪みをはらむことになろうと吐き出してみせるとの意気込みで執筆に向かったとされる。
 わたしは、こうした「伝説」を字義通りには信じないことにしている。どことなく誇張の匂いがするのだ。小説の構想を人に伝えるときにさえ、たえず皇帝権力の耳を意識していたドストエフスキーのことである。もしかするとそこには、作家お得意の「二枚舌」が隠されていたのではないか。
 つまり、ネチャーエフ事件のニュースに接する前から、彼にはすでに革命運動が抱える悲劇性をその総体において描き出してみようという心づもりがあった。非難する、しないはともかくとして…。
 おまけに、革命運動をカリカチュア的に描くだけでは、つまり「物語層」だけを書くとすれば、いちじるしく平板な小説となる危険性がある。ましてや、「象徴層」でのダイナミックな問題設定を真骨頂とするドストエフスキーにとってそれだけで小説は書けない。やはり、小説のどこかに、作品全体のエネルギーを吸引する「中心」の人物をすえ、その人物に基づいて物語全体を構造化していく必要があった。
 みずからの作家生命をかけて『悪霊』を書いていく中で、彼いわく「自分の心のなかからつかみ出した」かのように、スタヴローギン像が浮かび上がってくる。「自分の心のなかからつかみ出した」という表現は複雑なニュアンスをはらんでいる。作家自身の魂のうちに、スタヴローギンが潜んでいたというよりも、むしろ、みずからの過去の記憶から取り出してきたと読み替えたほうが正しいだろう。悲しいながら、スタヴローギンが「告白」を書きつけたもっともいまわしい部分には、作家自身の体験がまぎれもなく息づいていた。
 主人公スタヴローギンは、知力、美貌、腕力という三つの力を備えた、神の似姿にも等しい存在であって、実際のドストエフスキーとは似ても似つかない人物である。しかし、スタヴローギンはけっして、いわゆる「神がかり」ではなかった。いや「神がかり」の対極にあって、みずからの霊的な力をかけらほども経験することができない。むしろ、作家はこのスタヴローギンに、みずからの魂の記憶をすべて注ぎ込み、これまで経験し、記憶してきたなかで、もっとも「悪」と考える根源にひそむ何かを描き出そうとつとめていた。
 前作『白痴』が「最も美しい人間」を描こうという試みであったのに対して、『悪霊』は、それとは逆に「もっとも醜い人間」を描こうとする試みであったとわたしは思う。しかしたとえ「もっとも醜い人間」であろうと、ドストエフスキーはさまざまな愛惜を込めて、この人物を造形しようと心がけていた。
 小説のモデルとなった「ネチャーエフ事件」は、モスクワ農業大学のイワーノフという一学生が、革命結社からの離脱を表明したがために、密告を恐れる仲間うちから殺され、農業大学の構内にある池に沈め込まれた事件である。
 この事件を小説の中でなぞりつつ、スタヴローギンという悲劇的な人物を物語の内部に織り込もうとしたドストエフスキーは、『罪と罰』で提示し、最後の『カラマーゾフの兄弟』でアリョーシャが投げかけた「だれそれは生きる資格があって、だれそれは生きる資格がないということを自分以外の人間について決める権利があるか」という問いをここでも発してみせた。いや、これこそ『悪霊』がわたしたちに突きつける最大の問いなのだ。目的は手段を正当化するのかという……。そしてその「目的」を実現する手段の一つである「そそのかし」というモチーフが誕生した。スタブローギンばかりではない革命運動を推進するピョートル・ヴェルホヴェンスキーに、彼は、神の座にとってかわろうとする人間の卑しさを見る。いや、卑しい人間の傲慢さを見てとる。それゆえ、『悪霊』には、ありとあらゆるところに「そそのかし」のモチーフがちりばめられることとなった。
 オウム真理教事件でもそうだが、カッコ付きの「理想」や「善」の実現のため、「死」を前提とした暴力的な手段を行使する際、いやおうなく「命じる者」と「命じられる者」という立場が生まれてくる。
これもまた、「模倣の欲望」の関係性をおのずからあ形づくる。すなわちなにかを願望し、欲望し、得ることを実現する手段として、「権威の上位にある者」と「権威の下位にある者」の関係が『悪霊』でも描かれるのである。「権威の上位にある者」は「権威の下位にある者」に対して、なんらかの「目的」を得る手段として「そそのかし」を行使する。(オウム真理教でいえば「ポア=殺人」)。他方、「めいじられる者」は、「命じる者」の欲望にどこまでも従順であろうとして、この「そそのかし」をみずからの主体的行為として意味づける。これがドストエフスキーが考える革命結社の組織論であり、力学だった。
ピョートル以下の革命結社の悲惨な末路を描く小説に、スタヴローギンの登場が不可欠だった理由は、まさにこの「そそのかす」という精神性に対する作者の注意深いまなざしがあったからにほかならない。つまり、人間全般に対するスタヴローギンの無関心は、個々の人間に対する革命結社のメンバーたちの恐るべき想像力の欠如を集約し、象徴するものということができるのだ。
では、生命への無関心はどこから来るのか。
 スタヴローギンにおいては無関心が、ニヒリズムになり、感情の摩滅とでもいうべきロマンティックなヒーロー像の延長にあるとするなら(ロシアには、ニヒリズムに侵された「余計者」と一般に呼ばれる高等遊民のテーマが脈々と流れる)、革命家たちのそれは、いわば観念という名の狂気から生じる無関心である。観念が、狂気が、生命を愛するという根源的な感覚を目隠しにしてしまう。そして目隠しされた人間は、いつのまにか無慈悲な神のごとき不気味な表情をたたえはじめる。スタヴローギンが、革命家たちにとってカリスマ的な存在たりえるとすれば、それは、彼が、究極において革命が行き着く先の精神性を先取りしているからにほかならない。必要なのは、無慈悲に人を、生命を、裁くことのできる人間なのだ。またしても「だれに生きる権利があり、だれに生きる権利がないか」のくり返しである。」亀山郁夫『ドストエフスキー 謎とちから』文春新書、2007、pp.168-174. 

 観念が狂気に転化し、それが集団のなかで政治にもちこまれると、醜悪な暴力になる。そのような例は、ロシアでもフランスでもドイツでも、そして日本でも19世紀以来ずっと繰り返された。その意味でも『悪霊』は、現代に生きるすぐれた文学であり続ける。


B.「人権」を嫌う人たちの貧しさ
 日本国憲法がうたう基本的価値のなかで、政権を担う保守政党の政治家たちがいちばん嫌っているらしいのは「人権」、そして「平等」だと思う。これに結びつく女性・障害者・少数者・外国人の権利という問題にも冷淡な目を向ける。逆に彼らが好むのは、「競争」「成長」「開発」「勝利」という言葉である。彼らが考える教育の目標は、「人権」ではなく「競争に勝ち抜く」根性である。したがって、学校の教師も「人権」など、どうやって教えたらいいかもわからない。この再生産、いや悪循環が日本の将来にどんな暗い影を落とすか、考えなければなるまい、というおはなし。

「時代を読む:「人権」再考  法政大学名誉教授・前総長 田中 優子 
 「人権」についてうまく教えられない教員がいると聞いた。むべなるかな。人権とは単なる言葉ではない。「その背後にある人間の命を感じ取れなければ、人に伝えることはできない。しかしそれを伝えられないのは日本の危機である。なぜなら、人権は憲法の柱だからだ。
 憲法はその前文に述べるように国政は「国民に由来」し福利は「国民がこれを享受する」のだが、このことは「人類普遍の原理であ」るとする。そして「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」、と述べる。そして「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」のであって、その政治道徳を「普遍的なもの」である、としている。このように一国の憲法でありながら人類普遍の原理と、全世界の国民と、不変的な政治道徳を前提にして書かれたのが現行憲法である。
  •     *     * 
 それに対して2012年に公開された自民党憲法改正草案の前文は「日本国」を主語とし、天皇を戴く国家であることを述べ、国民は家族と共に国を守るために存在すると位置付ける。その視野は世界や人類からはるかに後退し、狭く浅く硬く縮んでしまった。
 とりわけ「人権」が現行憲法では極めて重要な位置を占める。「最高法規」の中に、基本的人権の由来と特質を述べた第97条がある。「基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」という条文だ。自民党憲法改正草案は、この条文を抹消した。
 現行憲法の「人権」には二つの側面がある。一つは、人はどこで生まれようと、誰もが生まれた瞬間から人権をもつ、という天賦人権説の側面である。もう一つは、その人権は「不断の努力」によって保持される、という考え方である。第97条はその両面をよく表している。 
  •     *     * 
 「天賦」はキリスト教に由来する言葉で、天から授けられた命を、欲望と闘争の渦巻く過酷な社会のなかで砦のように守るのが人権である。したがって「個人」と密接に結びついている。天賦人権説は西欧の考え方だから採用しない、という意見を聞いたことがある。ではなぜ明治時代の自由民権主義者たちは積極的に使ったのだろうか? それは、人権の背後に、人の命を感じ取っていたからではないだろうか。
 天賦の命は物理的な命だけではない。生命がこの世で啓くあらゆる可能性のことだ。仏教ではそれを「仏性」と表現してきた。日本の国学は「なりゆく勢い」と言語化した。平塚らいてうは「潜める天才」と言った。「人権」とは単なる法律用語ではなく、社会においてそれらを守るための砦として、近現代に出現した理念なのである。
 西欧の言葉だからと排斥すれば縮む。日本の言葉とつなげることによって、その向こう側に広がる広大な生命の可能性に触れることができるのだ。それに触れることができれば、ウィシュマさんのような外国人たちへの向き合い方は変わり、大量殺人たる戦争も軽々にはできないはずである。「人権」は仏性を持つあらゆる日本人たちのための思想なのだ。」東京新聞2023年3月26日朝刊5面、社説・意見欄。
「人権」はただ言葉だけがあるわけではない。いや言葉があっても、それを積極的に実現させる意志と運動がなければ空虚な、言葉だけのものになってしまう。憲法を変えようという人たちが、この国の権力の座に座っている。それがどれほどヤバいことか、「人権」が危ういことはいうまでもない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いまドストエフスキー 7 五大長編の読み  カイロを送るかい

2023-03-26 14:23:30 | 日記
A.『白痴』という小説
 ドストエフスキーの長編小説のうち、後期の五大傑作といわれる作品を、執筆時の作者の年齢と上梓順に並べるとこうなる。「罪と罰」1866年(45歳)、「白痴」1868年(47歳)、「悪霊」1871年(50歳)、「未成年」1875年(54歳)、「カラマーゾフの兄弟」1879年(58歳)。1821年生まれのドストエフスキーがサンクトペテルブルグで亡くなったのは1881年だから、60歳。シベリアでの獄中生活をもとに書かれた「地下室の手記」1864年に始まる、ドストエフスキーの後期の創作活動は40代半ばから50代までの15年ほどに爆発的に展開された。
 とくに悪魔的な主人公『悪霊』のスタブローギンと、神に近い善良な主人公『白痴』のムイシキン公爵とは、対照的な双璧をなす。『白痴』はそのムイシキンとヒロインのナスターシャという女性、そしてこれに絡むロゴージンという男との三角関係のドラマが、「世界最高の恋愛小説」などと言われたりもする。しかし、亀山郁夫氏の読解は、そのような見方は皮相な誤読になるという。

 「『罪と罰』以降、ドストエフスキーは、現実に起こった事件をネタに小説を書くというスタイルを取りはじめた。後期五大小説における想像力の爆発は、まさにこのスタイルに負うところが大きいとわたしは考えている。『白痴」もまた、さまざまな事件を内にとりこんでいるが、何よりも、彼がシベリア時代に経験したマリア・イサーエワとその愛人ヴェルグノーフが織りなした三角関係のドラマが影を落としている。
 すでに述べたように、ここでの三角関係は、一種の馴れ合い的な関係をはらんでいた。諦めが早いといおうか、憎みきれない、というのか、ドストエフスキーはたちまち奉仕者の側にまわった。愛するマリアを得たいと願いながら、それを横から「奪おうとする人間=愛人」と「奪われる人間=ドストエフスキーが」が一種の「共犯」関係を結んでしまったのである。税関役人の妻マリアに対する恋心は、「模倣の欲望」からはじまり、「死より強い」と感じるほど熾烈をきわめたものとなったが、他方、ドストエフスキーがこのドラマに注ぎこんだディテールは、現実のドラマをはるかに超えるものを含んでいた。わたしが考える『白痴』とは、もはや「世界最高の恋愛小説」でも何でもない。
 本質において、この小説は「入り口も出口もない不可能性の物語」なのである。
 ひとつは、「地上では完成しない物語」という物語である。ドストエフスキーは後に『白痴」について、「推測やほのめかし」を多用し、「最後まできちんと言い切らず」いかにも小説じみた書き方をした誤りを後悔したが、わたしたちがこれからこだわるのはその「推測やほのめかし」の部分であるといってもよい。
『白痴』は、人間的な情念のドラマの経験に浅い読者には、たしかに「世界最高の恋愛小説」として迫ってくる。ただしそれは「物語層」のドラマである。一方、人生の根本まで知り尽くした人間でなければ分からない「象徴層」、底辺の下意識のドラマもそこにはある。「物語層」「象徴層」、そして「文化相」の三つが混然一体となっている複雑な小説である。
 ドストエフスキーは、この小説の最大のテーマは、「ほんとうに美しい人間」を描くことだと考えていた。「ほんとうに美しい人間」を描くことほど困難なことはない。ことに現代においてはそうであり、そういう人間を描写しようとした作家は例外なく失敗してきた。そして「ほんとうに美しい人間」を描くには、何よりも滑稽という要素が欠かせないという発見に至った。
 草稿段階でムイシキン公爵は「キリスト公爵」と名づけられたように、キリストを軸として、それに人間的な滑稽さを付与するために、ドン・キホーテがイメージされる。しかしキリストとドン・キホーテを足しただけではまだ「ほんとうに美しい人間」にはならないと感じ、ロシアの民衆に「聖なる人」として敬われてきた「神がかり」の風貌を肉付けし、癲癇の病まで背負わせる。
 歴史的に聖人の多くが癲癇によって予言したといわれるように、この病は「聖なる証」、いわばイエス・キリストの体に刻まれた聖痕(スティグマ)のようなものであったからだ。
 だが、ムイシキン公爵は早々に、「神がかり」の地位から転落してしまう。「神がかり」には、「金を受け取る」ことや「家庭を持つ」ことはタブー視されているのに、彼はアナスターシャに結婚を申し込み、遺産を相続する。つまり彼は「神がかり」として早々に「汚れた」存在に堕した。
 そういう汚れを背負いながら、「美しい人間」としてどう生きていけるのかという問題がこの小説には設定されている。しかも、ドストエフスキーはその冒頭で、ムイシキンが性的に不能であることを暗示している。
 ところが、一見ムイシキンと対極にあり、性的エネルギーそのものであるようなロゴージンも初めから入り口をふさがれた男なのだ。「入り口」とは、人生の喜びや、それを愛を通じて経験できる幸せを言うが、ドストエフスキーはロゴージン家が代々、去勢派の一家であることを暗示する。何よりも興味深いのは、ロゴージンの家には、すでに前章でもふれたホルバインの『死せるキリスト』の絵が架けられていることである。
 つまり、『白痴』は、「不能」ないし「去勢」という視点に照らして、その人物関係をはじめとして、小説全体の読み方自体を根本から変えてしまう不気味な力をはらんでいるのである。そこにはおのずから「ロゴージンは父親によって去勢されているのか」「去勢派の父のもとで、ロゴージンはどうして生まれてきたのか」「ロゴージンの父親ははたしてだれなのか」という、これまで論じられてこなかった疑問が生まれてくる。
 極端な言い方をすれば、夫が去勢派で、妻がロシア正教徒である場合、夫婦には性的関係はなく、妻はだれかと関係して子供を産むことになる。つまり、ロゴージンの出生そのものが深い謎に包まれているのである。
 先に述べたような、「未経験の魂」の読者にとって、「精神の美しいドラマ」といえる強靭な「物語層」は、ドストエフスキーがさまざまな「ほのめかし」「象徴」によって描こうとした世界と互いにおよそ次元を異にしているにちがいない。
 そこにこそ、二十一世紀のわたしたちにとって重要な問題がひそんでいるのである。現代は、「少子化」や「セックスレス」に象徴される「性」が無化される時代である。その代わりに、若い世代では、性はかぎりなく軽量化し、ある意味で「精神」だけが過剰に肥大している。そういう問題を受けとめる受け皿としても、『白痴』は読める。性的な不能者であるムイシキン、去勢派の一家に育ったロゴージン、そのふたりに望まれるナスターシャ、この「三角形」のどこに「入り口」があり、「出口」があるというのか。
 ナスターシャは幼い時に家が火事に遭って焼け出された孤児で、「女たらし」のトーツキーに育てられた。二人の間には、何がしかの性的関係があったとみられるが、具体的なディテールは何ひとつ書かれていない。あいまいな地の文と、ナスターシャ自身による「自己劇化」、あるいは「妄想のドラマ化」が入り混じる驕り高ぶった自虐的なセリフによって、客観的なその内実はぜったいにわからない仕組みである。だが、幼いころに癒しがたい心の傷を抱えたことは事実らしく、それが大人になった彼女の分裂した行動の原因となっている。
 じつのところ、ドストエフスキー自身、このナスターシャの過去を充分に整理をつけて書いていたかどうかすら危ぶまれる。だから、読者は細心の想像力とディテールの読みときをとおして、彼女の過去を探らねばならない。それによって、大人になった彼女の謎に満ちた言動をさぐることが、『白痴』の読み方のひとつである。
 いまわたしの脳裏にこだましている仮説がある。
「ナスターシャ・フィリッポブナ」は、「父フィリッポフの娘ナスターシャ」という意味である。「フィリッポフ」という名前は、次作『悪霊』で、異端派の開祖ダニール・フィリッポフに重ね合わせていたと思われる。すると、彼女の命名は、鞭身派の祖フィリッポフを父にもったナスターシャという意味になる。ナスターシャはもともとギリシャ語源で「復活する女(アナスタシア)」の意味である。それはつまり彼女がいまだ深い「傷」を負い、現に「死んでいる」女性であることの暗示となる。ではどのような意味で、彼女は死んでいるのか。
 ナスターシャは、本来もっとも喜ばしい幸福のかたちである「性」が閉ざされているという意味において「死んでいる」。とすると、『白痴』は、彼女が「復活」するにはどう生きねばならないかという物語にもなってくる。
 では、彼女を「死」に至らしめている「傷」とは具体的に何なのだろうか。その謎を解く鍵が、ナスターシャのモデルとされる実在の少女、オリガ・ウメツカヤにある。両親から残忍な幼児虐待を受け、自殺まで図ったオリガは、1867年、復讐心から家に火を放った。この事件はロシアのジャーナリズムを大いに沸かせ、裁判では陪審員が少女オリガを無罪とし、両親に有罪判決を下した。ドストエフスキーはこの事件に大きな衝撃を受けたとされている。
 ドストエフスキーが、オリガをモデルとする、少女ナスターシャの家が焼けたエピソードを『白痴』に取り込んだとすれば、読者の頭にオリガ=ナスターシャによる「放火」という連想が入り込んできてもむりはない。ちなみにドストエフスキーは、放火願望にとらわれる少女を『カラマーゾフの兄弟』でも描き出していた。サディストであり、マゾヒストである十四歳のリーズことリーザ・ホフラコーワである。ナスターシャの過去に思いめぐらすには、オリガ・ウメツカヤとこのリーザ・ホフラコーワとの連想が大きな役割を果たすにちがいない。
 『白痴』では、ナスターシャの家が焼失した理由は示されていない。しかしこの小説は、「ほのめかし」と「象徴」の手法によって書かれているので、読者は、ドストエフスキーと一体となってその脳裏に浮かぶさまざまな空想を共有しなければならない。
 モデルになった実在の人物や事件を想起することで、「物語層」ではわかりづらい、ナスターシャの複雑な個性、ドストエフスキーが彼女の中に思い描いている「傷」が浮かび上がってくる。
 また、ゆくゆくナスターシャと鞭身派との関連性に思いめぐらせるのであれば、家が焼けた原因を別に求めることも可能だろう。鞭身派の儀式は、主として人里離れた家の風呂で行われた。幼いナスターシャの家で鞭身派の儀式が営まれ、風呂のかまどから失火した可能性だって否定できないのである。こうなるともはや妄想と罵られそうだが、ドストエフスキーの読解においては、こうした可能性の領域にまで想像力を膨らませないことには、とうてい答えが得られない場合がある。
 単なる失火であれ、あるいは放火であれ、さらには鞭身派の儀式から生じた結果であれ、幼いナスターシャの心には、小説の終わりにおける「死」を導きかねない「傷」が残されたことだろう。
 ナスターシャのもうひとつの傷は、実業家トーツキーとの関係である。彼女がトーツキーと暮らした四年間において、どんな関係が存在していたかという「謎」が出てくる。
 面白いことに、トーツキーの名前は、ドイツ語の「死(トート)」に由来している。では、「死神=トーツキー」が、十四、五歳の少女にかけた呪いとはどのようなものであったのか。少なくとも常識的に、結婚年齢前の少女を相手に、ごくありふれた男女の性が存在したとは思えない。それが「きず」となるような経験があったとすれば、それは何であったろうか。
 ナスターシャは自虐的に、あるいは大げさに自分の過去を語るため、「物語層」を追う読者は、彼女の言うことがまことか噓か見きわめがつかなくなる。
 小説における客観的な事実は、地の文に埋め込まれているから、彼女のセリフと地の文との間に矛盾があれば、地の文がより正当性を主張すると考えるのがふつうである。ところが、これまで多くのドストエフスキー論は、ナスターシャに高級娼婦のレッテルを貼り、「トーツキーに囲われていた」と自虐的に語ったセリフをそのまま鵜吞みにするかたちで彼女の過去をイメージし、語ってきた。自己劇化や、「妄想のドラマ化」(ベーム)といった要素をすべて排除するか、無視してきたのである。
 では、実際に、ナスターシャの少女時代におけるトーツキーの役割について地の文ではどう書かれているのか。
 「それ以来、彼はなぜかこの人里離れた草原の村がすっかりお気に入りとなり、夏が来るたびに訪れてきては、二カ月も、いや、時として三カ月も滞在していくのだった。こうして、かなり長い時間が、四年余りの年月が、つつがなく、優雅な趣のうちに流れすぎていった」
 ここに引用した文章のどこに、ナスターシャの将来を危うくした「傷」の内実が記されているというのか。「つつがなく、優雅な趣のうちに」に、何が隠されていたというのか。そもそも彼女の抱える「傷」とは何なのか。すべては、まさにベームのいう、ナスターシャ自身による虚言、「妄想のドラマ化」につきるのではないか。」亀山郁夫『ドストエフスキー 謎とちから』文春新書、2007、pp.138-147. 

 黒澤明は1951年に『白痴』を日本で映画化した。舞台を当時の北海道札幌に置きかえ、ムイシキン役を森雅之、ナスターシャ役を原節子、ロゴージン役を三船敏郎が演じた。撮りあげた映画の上映時間は265分あったが、制作側の松竹はこんな長くて暗い映画は当たらないと166分に短縮して公開したという。ムイシキン役の亀田(森)は、沖縄で戦犯として処刑される直前に罪を免れ釈放されたため、てんかんを患い札幌に帰ってくる青函連絡船で、ロゴージン役の赤間(三船)と出会うという設定だった。原節子が黒澤映画に出ている(「わが青春に悔いなし」の方が有名だが)という貴重な作品でもあるが、たしかにドストエフスキーを映画にすると長大で難解になるのは当然で、一般受けは望めない。それでも黒澤は、これをとても好きな作品だと言っていたという。


B.ウクライナに何を送るか
 過日、ウクライナを秘密訪問した岸田首相は、キーウのゼレンスキー大統領におみやげとしてしゃもじを渡したというニュースが流れた。敵ロシアを平らげるお守りということらしいが、意味は通じたのだろうか。昨日のニュースでは、戦争犯罪を調査した国際刑事裁判所(ICC)はロシア軍に人道的違反行為があったとして告発したが、最近ではロシア軍だけでなくウクライナ軍のなかでも、戦争犯罪の犠牲が発生しているという。ロシア=悪・加害者、ウクライナ=正義・被害者という単純な図式だけで戦争を考えてよいのか、という反省も出てくる。戦争を始めたロシア・プーチンに非があるのは当然だが、戦争を戦っているウクライナ軍にも、戦争犯罪に手を染める可能性はないだろうか。戦争そのものがいわば人道と人権を侵害する野蛮な行為であるとすれば、反戦という方向は、ロシアにもウクライナにも向けられるべきだ、とは思う。

「「カイロを送ろう会」 ポーツマスの先人 問う和平の心  オピニオン編集部記者 駒野剛
1月23日、山形市から同じ寒冷の地ウクライナへ大型トラックが出発した。荷物は使い捨てカイロが入った段ボール箱。山形、福島に拠点がある「ウクライナに使い捨てカイロを送ろう会」が発起人だ。
 北海道から鹿児島まで、集まったカイロは32万個余。この日は3万個が大手国際物流会社「郵船ロジスティクス」の航空便でポーランドのワルシャワを経て、陸送でキーウ、さらにウクライナ各地に向かった。
これまで約7万個が送られ、残るカイロも初夏までにはウクライナに運ぶ予定だ。
 一人一人の日本人がウクライナの国民の過酷さを少しでもいやしたい。そのために、今できることを考えたとき、武器ではなく、まして軍隊でもなく、暖をとれる使い捨てカイロの送付を思いついたという。
ロシアは発電所などを攻撃しウクライナの人々を凍えさせてきた。「とにかく生き残って欲しい。生きていれば、次に何かにつなげられる」と、送ろう会の代表で元福島県立高教諭の武田徹さん(82)は話す。
 「何事もまずは小さな小さなことから始まって道が開けると感じることができてうれしい」と武田さんは思いを明かす。 「自由も民主主義も、平和も憲法も、それぞれ大事だが、何かを始めなければ意味がなくなってしまう。カイロを送ることが、それらを守る現実的な取り組みなんです」と説く。
 武田さんらを導いたのは、その生涯を研究してきた福島の先人、歴史学者にして平和の創造者たらんと生きた朝河貫一だ。
 今からちょうど150年前、現在の福島県二本松市で生まれた朝河の一家は、幕末、維新の戦乱の犠牲者だった。家族には戦死者もいた。戦争を否定し平和を渇望する環境の中で朝河は育った。
 苦学して米国に留学し、名門イエール大学教授として歴史学の研鑽を積んだほか、図書の収集、整理の責任者キュレーターとして同大の日本研究の基盤を整備した。功績はそんな学術面だけにとどまらない。
 日露戦争の講和を話し合ったポーツマス会議に出向き、オブザーバーとして参加。「領土の割譲や賠償金にこだわってはならない」と日本側代表団の説得に努めた。
 さらに日米開戦直前、米国のルーズベルト大統領周辺に働きかけ、和平のため昭和天皇宛て親書を出させようと画策した。
 親書は出されたが、天皇に届いたのは真珠湾攻撃の当日。内容も朝河の考えた日米友好の歴史から説き起こしたものとはかけ離れた実務的な内容で、効果はなかった。
 それでも朝河は屈せず、日米の和平、日本の自由と民主主義の成長を希求した。
 朝河は終戦の年、こんな言葉を残した。
「侵略戦争の究極的な原因は、人間精神の解放が不十分であるが故に、世界に不平等が存在するという点にあると再度言うべきでしょう」。不平等は今、夢想すらできぬ状態だが、それでも不可欠な一歩だと。
 自己防衛のはずだった日露戦争は戦後アジア侵略の起点となり、そのツケの重さからアジア太平洋戦争に突入、焼け野原になって自滅した日本には、似たような論理で侵略するロシアに言える実体験がある。
 すべてを失った日本は民主主義と平等な社会を目指したからこそ、戦争に手を染めないで来られた。ポーツマスで和平を結べた子孫同士として訴えたい。ロシアよ、銃を置きたまえ。岸田さん。あなたの任務は、軍備拡張という戦争準備に走ることではなく、ロシアに撤兵を説き、ウクライナと共にポーツマスの机につかせる尽力だ。
朝河の軌跡に思いをはせる時、荒唐無稽な幻想ではなく平和への現実的な挑戦だ。
  ◇
私のコラムは今回で終わります。中島みゆきさんの歌「ヘッドライト・テールライト」が聞こえます。「語り継ぐ人もなく」「旅はまだ終わらない……」。長い間、読んでくださり、ありがとうございました。」朝日新聞2023年3月23日朝刊13面、オピニオン欄「多事奏論」。

 二本松出身の朝河貫一という人の名は、初めて知った。戊辰戦争での「二本松少年隊」の悲劇は知っていたが、こんな人がアメリカにわたって反戦非戦の努力をしていたとは、新聞のくれたお土産だった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いまドストエフスキー 6 殺人者の罪と罰  日銀の罪?

2023-03-23 16:18:39 | 日記
A.小説の四層理論 
 外国語の小説を日本語の翻訳で読むということは、いろいろと大変である。それもロシアの長編小説というのは、ただ長いだけでなく登場人物の名前だけでもいろいろあって識別するのも厄介だ。ロシア語は文字からして縁がなく、19世紀のロシアのこともほとんど知らないので、ただ翻訳者の能力に頼るしかない。ドストエフスキーの翻訳者といえば、昔は江川卓(あの同名の野球選手が出てくる前から名を知られていた東工大名誉教授えがわたく、実はペンネームで本名は馬場宏といって、東大法学部出身だがロシア語は独学だったという)さんが有名で、ほかには米川正夫さんとか原卓也さんとかがドストエフスキーを訳している。日本ではロシア語の専門家というのはマイナーな存在で、とくに冷戦時代は共産主義者かと白眼視されたりしたが、トルストイとドストエフスキーの小説だけは世界の名作として読もうとする人も多く、そのお蔭でいまもロシア文学研究家は生き延びている。そして、そのドストエフスキー最後の大作『カラマーゾフの兄弟』の新訳で注目されたのが、東京外語大学長だった亀山郁夫氏である。以下は亀山流小説の分析法である。

 「わたしはそこで、読者の皆さんに、本書での議論を進めていくために必要な分析格子について前もって説明しておきたい。私の考えでは、ドストエフスキーの小説は、おおむね次の四つの層から成り立っている。
象徴層
歴史層
自伝層
物語層
 わたしがこれまで書いてきたドストエフスキー論では、主として歴史層をのぞく三つの部分(象徴層、自伝層、物語層)による成りたちを想定してきたが、本書で扱うテーマを語り尽くすにはどうしてももう一つ別の層を儲ける必要性があることがわかってきた。
 第一に、物語層とは、いわゆるプロットと名づけられる部分で、そこでは登場人物たちのさまざまな心理的葛藤が展開される。
 第二に、自伝層は、端的に言って作者の人生と小説の関わりであり、作者が自分自身の人生から何をどのように切り取り、それをどう意味づけているかを明らかにした部分である。
 第三の歴史層とは、作者の歴史観とでもいうべき部分で、小説全体と歴史との関わりとでも定義することができる。
 そして第四の象徴層とは、それら三つの層におけるドラマをみちびくもっとも高度なレベルでの議論である。ここでは神か、無神論か、自由か、パンか、その他もろもろの形而上的な議論がドラマ化される。
 わざわざこんな方法を用いずとも、ドストエフスキーは語れるではないか、と怪訝に思われる読者がおられるかもしれない。しかし、読者の目先を変え、小説に新しい光をあてるには、こうして一見煩わしいと思える四層構造の明確化がどうしても必要なのである。
 黙示録の再現
 『罪と罰』の連載が開始されたのは、1866年1月のことである。7月の「異様に暑い」ペテルブルグを舞台に、金貸し老婆殺害を扱ったこの小説は、連載の始まりと同時に圧倒的な反響を巻き起こした。
 この小説には、モデルとされる事件があった。発表の前年にあたる1865年1月に、商人の息子でゲラシム・・チストフという27歳の青年がモスクワで起こした連続老女殺人である。作家は、この犯人が「分離派」だったことを知って衝撃を受けた。
 小説では、事件の舞台がモスクワからペテルブルグに、なおかつ季節も真冬の1月から真夏の7月に移された。
 『罪と罰』の最大のテーマは、俗にナポレオン主義と呼ばれる選民思想の是非と罪をおかした人間の「復活」はどのようにして可能か、という問題である。ラスコーリニコフは「ある種の肯定されるべき『善』があれば、人を殺すことは許される」「天才は凡人の権利を奪う権利がある」という「観念」にのっとり、老婆殺しの反抗に及ぶ。
 ナポレオンはフランス革命に続く戦争によって多くの人間を殺しながら、皇帝になった。極端な言い方をすれば、歴史それ自体が殺人を肯定し、「だれに生きる権利があり、だれに生きる権利がない」ということを証明してみせた。
 ついでに述べておくと、この問題は、『カラマーゾフの兄弟』で、三男アリョーシャが次男イワンに尋ねる次の言葉でもういちど反復される。
 「兄さん、もうひとつ聞かせてください。ほんとうにどんな人間でも、だれそれは生きる資格があって、だれそれは生きる資格がないということを自分以外の人間について決める権利があるんですか」
 このセリフは、父親の死を予感したアリョ-シャが、その悲劇を阻止しようとして必死で相手にそれを悟らせようとした言葉である。
 面白いことに、イワンの「肉弾」として父親殺害におよぶスメルジャコフは、隣家のマリアに向って、ナポレオン讃美をひとくさり歌ってきかせている。
 アリョーシャが投げかけた「だれそれは生きる資格があり」、「だれそれは生きる資格がない」という「観念」の前提をなしているのは、殺人である。ドストエフスキーは、殺人という行為のもつ意味についてどこまでも考えぬいた作家だった。いや、端的に、人を殺すことがなぜ許されないのか、についてとことん考えぬいた作家だったといってもよい。殺人は偏執狂が、面白半分に侵す場合もあれば、嫉妬に狂った夫が妻を殺す例もある。あるいは、ナポレオンの犯罪のように、歴史が殺人を正当化する場合がある。「革命」という「善の観念」に基づいて殺人が正当化された例もある。テロはどうか?戦争はどうなのか?そもそも、殺人は絶対に許されない悪なのだろうか?許されず、正当化されないとすればなぜなのか?
 こうして問いを重ねながら、わたしはふと思う。ドストエフスキーはなぜ、この問題にこだわり続けてきたのか、と。
それは、もしかすると、シラーの戯曲『群盗』に影響を受けた理由とどこかで重なりあうのではないか。なぜなら、『群盗』の主人公もまた、「正義」のため、領民の幸福のために領主を襲い、死にいたらしめた。そこには、ラスコーリニコフの「あの金貸し老婆を殺せば、みんな救われる」という「善」とどこか通じあうものがある。『罪と罰』のテーマは、ある点で『群盗』と同じ論理に立っている。同じ論理のうえに、『群盗』を反転させた物語として『罪と罰』は成立しているとも言えるのである。
 思うに、ドストエフスキーは、「殺人」そのものの「罪」を問うというより、「生きる資格がある人/ない人」という二分法をもつことの根源的な「罪」を問おうとしていたのではないか。『罪と罰』で使われる「罪(プレストプレーニェ)」(преступление)に当たるロシア語は、「またぎこす」という動詞の派生形である。「罪を犯す」とは、なにかを「またぎこす」ことにほかならない。では、いったい何をまたぎこすことが、罪とされ、「罰」は下されるのか。
 実際、ドストエフスキーはこの語源のもつ意味を読者に悟らせ、意識させようと腐心し、ラスコーリニコフに(僕と同じく)君もまたぎこしたんだ」とソーニャに向かって言わせている。「黄色い鑑札」を受けているソーニャは、公認の売春婦であるからで、法的に「犯罪」を犯したことにはならない。では、ソーニャが何を「またぎこした=罪を犯した」かといえば、神が人間との間に引いた一線であり、誰に対して罪があるか、と問えば、それはほかでもない、神である。神が与えた肉体を売春に行使することによって、神の掟を破った、見えざる神聖な一線を「またぎこした」ということである。
 では、ラスコーリニコフはどうか?
 彼がまたぎこしたのは、そして彼がまたぎこしたと意識するのは、法である。彼が、ペテルブルグ大学の元法学生であったことを思い出しておこう。驚くべきことに、犯行後も彼の中には、神が人間との間に引いた一線をまたぎこしたという明確な意識は生まれない。だが、ナポレオン主義の崩壊とともに生まれた何かがあるそれは、「大地との断絶」の感覚だった。この感覚こそ、じつは観念的ではなく、むしろ身体的といってもよい負のアウラの経験だった。それは喪失によって初めて経験される何かであり、彼がこうむった最大の罰とは、まさにこのアウラの喪失だったとみなしてよい。このように考えるとき、『罪と罰』の物語は、「罪=またぎこす」と法的な「犯罪」を区別した上で、「犯罪」の自覚が「罪」の自覚へと転化していくプロセスとしてあったといってもよい。
ここに古くて新しい問いがある。もしもラスコーリニコフが金貸し老婆のみを殺し、リザヴェータを巻き添えにすることがなかったら、彼は、みずからの存在を根源から危うくするような「断絶」感覚に襲われることもなく、あるいは蝶のように震えおののくこともなかったのか、という問いである。いかにモデルとなった事件に左右されるところがあったとはいえ、ドストエフスキーはおそらく少くとも一度はこの問いを自分に投げかけたにちがいない。
老婆の義理の妹リザヴェータは「神がかり」であった。「神がかり」とは、社会のルールや通念にとらわれず、ときおり常軌を逸した言動を示し、ロシアの民衆から「神に近い者」として深く敬われてきた存在である。ドストエフスキーはことのほかこの「神がかり」に興味をもち、『白痴』のムイシュキン公爵、『未成年』のマカール・ドルゴルスキー、『カラマーゾフの兄弟』のアレクセイ・カラマーゾフといった登場人物にそれを重ね合わせてきた。
 研究者の間では、思いがけずこの「神がかり」となる聖なる女性を殺すことで、ラスコーリニコフは、法的な「犯罪」よりも、神に対する「罪」を自覚するようになったという見方がある。選民主義に骨の髄までむしばまれた青年の悲劇性により強い彩りをほどこす解釈と言えるが、私はそう考えない。ドストエフスキーの関心はむしろ、「法」を超えることではなく、「神が定めた一線」を「またぎ越す」ことの「罪」の意味を問うことにあった。しかし、ラスコーリニコフがソーニャに向かって「またぎ越した」と激しく責めたてたとき、彼は、ソーニャが春をひさぐ相手を選別するということまで意識していたとは思われない。彼は人間をより普遍的に一つの犯すべからざる生命としてイメージしていたのである。
 であるなら、たとえ金貸し老婆だろうが、「神がかり」だろうが、生命の重さという観点からは同等であり、そもそも他人の生命を脅かすという行為そのものに問題があるのである。
 つまり、「大地との断絶」の感覚は、けっして殺した相手の選別を前提としない。もっと根源的な部分にねざした感覚だということだ。そしてそれを、キリスト教の神とか、宗教的なカテゴリーを越えてすべての人間に普遍的に内在する何かとして描こうとしていたのである。
 では、ラスコーリニコフのどこに問題があるとドストエフスキーは考えていたのだろうか。
 答えから先にいうなら、観念、いずれ『悪霊』のなかで、「豚」のイメージに重ねあわされる観念である。その「豚」がやがて湖に溺れて死ぬように、彼はこの観念にとりつかれた人間を死者のイメージに重ね合わせていくのである。」亀山郁夫『ドストエフスキー 謎とちから』文春文庫、2007、pp.105-112. 

 人を殺すことは、時と理由によっては許されるかもしれない、という危険な思想は、法や規範として、あるいは一般的社会意識として抑圧されている。殺人者は現に出現しているが、それはある特殊な例外的事件であって、その動機や契機も常識的に理解できるものである。しかし、ごくまれに、研ぎ澄まされた思想犯として、積極的な理由で人を殺す殺人者が現れる。たとえば、多くの子どもを殺した池田小事件とか、障害者を狙った津久井やまゆり園事件の犯人などは、確信犯的な殺人者だと考えられる。歪んだ形にせよそこには世界に対するひとつの憎悪に満ちた観念があるとすれば、それは『罪と罰』のラスコーリニコフに響振する何かがあるのかもしれない。それは国家が人を殺す「死刑」を認めることの倫理的矛盾を、深く考えることになる。


B.黒田日銀の過ちと出口戦略
 安倍長期政権とそれに続く菅・岸田自公政権を、日銀総裁として超低金利政策で支え続けた黒田東彦氏が退任する。後任は、同路線を引き継ぐとみられた副総裁ではなく、経済学者出身の植田和男氏に決まった。黒田氏はみずからの政策を、日本経済に貢献する効果があったと自負しているけれど、これ以上超低金利を続けることの無理がどこかで出口戦略をとらねばならないことは、多くの経済専門家は感じているようだ。そこで、当面黒田路線を継承すると述べた植田新総裁は、じつは着々と出口戦略をひそかに進めるのではないかという、推測が出ている。

「出口戦略は  国家財政再建へ 政治との協調難題 (記者解説Commentary) 
 日銀は異次元の金融緩和の名の下に大量の国債を買い支え、国は「打ち出の小づち」を手にしたかのように借金を膨らませてきた。
 もし市場で投資家が緩和の見直しを予想し国債売りが加速すれば、今後は長期金利の急騰や円の急落につながりかねない。市場との対話の難しさは植田次期総裁もわかっているはずだ。
 金融政策を正常化させるために植田氏はいつ、どのように動き出すのか。植田氏をよく知る関係者らは「最後まで真意を見せず、慎重に注意深く進めるだろう」との見方で一致する。
 出口戦略では金利をコントロールする技術面の難しさも当然あるが、対応は可能だ。本当に難しいのは財政健全化とのバランス、そして政治との強調だろう。
 黒田日銀は今も事実上、毎年度の新規発行国債の多くを買い支えている。政府は日銀が買い続けてくれないと、来年度の予算編成さえできない状態なのだ。
つまり日銀の出口戦略は国家財政の再建戦略でもある。財務省と協力し政府の借金の日銀依存を減らしていくしかない。現実には数十年がかりのプロジェクトとなるだろう。
 これを成し遂げるには、まず借金依存の財政に慣れ切った政治を立て直すことが必須だ。昨年の参院選ではほぼすべての野党が消費税の税率引き下げか廃止を公約に掲げた。与党内でも、防衛費や子育て予算の財源を国債に頼ればいいと考える議員が存在感を増す。
 政治家にとっては有権者の反発を招く増税や歳出削減より、日銀にリスクを負わせるほうが都合がいいのだ。この政治の「壁」をどう突き崩していくか。
異次元緩和と政府債務の膨張というぬるま湯のもとで、国力が衰えているのも気がかりだ。日本の1人当たり国内総生産の世界ランキングは2012年の14位から、21年に27位まで落ちた。重荷を抱えた新総裁の行く道は遠く険しい。」東京新聞203年3月20日朝刊、9面オピニオン欄。

 後世の歴史家は、21世紀はじめの20年で、日本の経済力も政治力も坂を転げるように凋落したと書くであろうし、その原因を多数派を保った自民党政権とくに安倍晋三長期政権の政策の失敗に帰する可能性は高いと思う。一部の企業や富裕層を優遇し、国民の貧困化を放置し、アベノミクスというその効果が薄かった政策の財源を、次世代国民への借金としてまかない続けた黒田総裁の責任も、いずれ問われることになるだろう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いまドストエフスキー 5 ロシア正教の異端派  加速主義とは?

2023-03-20 15:48:45 | 日記
A.分離派と異端派 
 これを読むまで知らなかったことだが、ロシアは東ローマ教会の伝統を継ぐロシア正教が、ロマノフ王朝の帝政以来国教として定着した国で、西欧カソリックのキリスト教とは違うけれど、一大勢力を誇っている、と思っていた。しかし、じつは異端派の存在も小さなものではなかったらしく、ドストエフスキーの生きた19世紀後半のロシアでは、「鞭身派」と「去勢派」などの動きが活発だったという。しかし、旧ソ連の時代に、ロシア正教会は共産党政権から迫害もうけたが生き延びた。
 ロシア連邦の中で最大の正教会だがその正確なデータはないという。ソ連時代でさえ4000万から5000万(ローソクの売り上げ数から割り出す)の信者と言われていた。現在、ロシア連邦内に7500万(NHK)とも1億近くとも(タイムス97年)。ウクライナ(信者3500万)、ベラルーシなどの独立国家共同体の正教会も何らかの形でモスクワ総主教庁に帰属する形だが、国家と結びついているのが特徴なので、今のウクライナ戦争などではモスクワとの距離を深めているという。
 教会階位のトップである総主教の管轄地域が「モスクワ及び全ロシア(Русь)」と定められているのは、ロシア人以外のスラブ系諸民族及び少数民族でも洗礼を受ければ、ロシア人(Русские)とは言わないまでもロシア国民(Россияне)とみなした歴史があるからという。現在ロシア正教会には主教職に約160名(国内85名、ウクライナ37名、ベラルーシ10名、その他の外国22名)、司祭・輔祭職に約2万名が在籍し、約150の主教区に所属している。 それぞれの主教区は複数の教会からなる教会管区を構成し、司祭が管区長を勤める(ロシア正教会では、神父・司祭・牧師のどの用語も使うが、呼びかけの時は神父を用いる)。以上がロシア正教の概略だが、異端である鞭身派とか去勢派という異端のセクトは、かなり過激な主張をもっていたという。

 「正教会から離反した人々は、時とともに、教会容認派である「有僧派」と教会否定派のよりラディカルな「無僧派」との二つに大きく分れ、さらにその周辺には数多くのセクト(異端派)が点在していた。異端派のなかで最大の派閥を誇っていたのが、鞭身派(フルイストウイ)(хлыст)と呼ばれる一派である。ダニール・フィリッポフを始祖とするこのセクトは、ロシア国内にすみやかに勢力を広げ、十九世初頭には、非公式ながら、信者数百万人を数える一大勢力を形づくっていた。その理由はいくつかある。そもそも「キリスト教(フリストゥイ)」とみずからを名乗る彼らは、儀礼の際にたがいの体を縄などで打ちあうなどしながらエクスタシーを得ることに由来し、正教会から「キリスト派」ならざる「鞭身派」と蔑まれていた。ラジェーニェと呼ばれる儀式は、一種の性的乱交と化し、著しい退廃を生んだ。そうでなくても、楽しみの少ない農村でこのセクトが、性のタブー視の姿勢にもかかわらず、一種のユートピアと同一視されたのは不思議ではなかった。
 こうした流れに抗し、コンドラーチー・セリワーノフという人物を開祖として開かれたのが去勢派(скопец)である。
 最近ロシアで出たパンチェンコの研究「ロシア民衆文化における反性性」によると、去勢派が誕生し、その運動が加速的に広まっていった理由の一つに、ほぼ同じ時期に、ユダヤ教の異端派たちが、ロシア中部の各地で去勢を実行していった事実が挙げられるという。一種の「相乗効果」が起こったのだ。
 去勢派たちのラディカルな信仰の源にあったのは、いうまでもなく、原初的なアダムとイブの神話的な楽園への回帰であり、原罪の回避であり、「罪なき」、天使のような身体を取り戻したいという願望であった。そのための方法として去勢があった。
 入信者は、当初、かならずしも去勢が義務づけられていたわけではなかった。それぞれが独自の戒律をもつ「船」と呼ばれる共同体では、去勢を受けるか否かは入信者の自由意思に委ねられていたところもある。ただし、去勢を受けること、ないし、去勢者であることは、同じ共同体のヒエラルヒーのなかで、「漕ぎ手」「白いキリスト」と呼ばれ、上位を占めるための不可欠な条件であった。去勢派の信徒たちは、じっさいにその数が、十四万四千人となった暁に、一気にそれが加速されるはずだと信じていた。ちなみに、この数は、ヨハネの『黙示録』で、イスラエルの十二の部族から一万二千人ずつ、全部で十四万四千人の選民が神によって額に「印」を押された逸話に由来している。
 共同体の儀式で、じっさいに去勢を行なったのは、その道の達人(マステル)や老婆であり、彼らは、求めに応じて、村から村へ、「船」から「船」へと渡り歩いた。場所は、都市部の一般市民の住居が舞台となることもあれば、蒸風呂、あるいは穀物乾燥小屋で行われることが多かったとされる。
 先ほど、神によって額に「印」を押された選民について触れたが、ロシア語で去勢手術は、いっぱんに焼き鏝などを意味する「ペチャーチ」の語で表され、他にもたとえば、「白くすること」の意味に用いられる「ウベレーニエ」、「清潔さ」を意味する「チストター」の象徴的な名称で呼ばれることが多かった。
 去勢手術は、男性の場合も、女性の場合も、それぞれに小と大の二つの段階があった、ちなみに、男性の場合、睾丸は「地獄の泉」と、ペニスは「奈落の泉」と呼ばれていた。「第一の」段階の去勢は、ペニスの切断を、「第二の」ないし「皇帝の」と呼ばれる去勢は、睾丸の摘出まで含むものであった。ただし、もっとも流布していたのは、「第一の」去勢であり、他方、ごくまれに、「第三の」去勢の例として、胸の筋肉を削り取る例もあったとの記録が残されている。去勢手術により女性ホルモンの分泌がうながされた結果生じる胸のふくらみを不浄とみなしたためだろうか。
 他方、女性においては、主として五つの段階の去勢があり、乳首に焼き鏝をあてたり、切断したりする方法、乳房を切除する方法(一つないしは両方の乳房)、また、大陰唇の上部と小陰唇および陰核を切断する例で、なかでも去勢派入信の際にもっとも流布したのは、前者の両方の乳房を切り取る例だったとされる。いずれにせよ、出産には直接的には影響が及ぶことがないように配慮されていたと思われる。
 しかし、こうした直接的に性とかかわる器官の去勢のほかに、身体のさまざまな部分に焼き鏝を当てたり、傷をつける例も補足的に行なわれた。その場合、刺青のように、皮膚に十字形の傷をつけることで、「天使の位階」に属する信徒を聖別化した。
 去勢には、純粋に宗教的な動機もさることながら、ほかにさまざまな世俗的な動機が伴った。たとえば、コレラの流行や貧困や飢餓に苦しむ農奴たちが、性を罪深いものと感じ、生殖を避けるために去勢する例もあったとされる。
 先のパンチェンコによれば、去勢の手術にともなう苦痛に耐える際、信者たちは「キリストは蘇りたまえり」を連呼するのだが、その連呼は、磔上でのキリストが嘗めた苦しみに同化するという高尚な動機に従っていたわけではなく、先ほども述べた去勢派の教祖コンドラーチー・セリワーノフが、スノフスカという村で受けた鞭による拷問での苦しみへの同化が根本にあったのだという。
 すでに述べたように、去勢派の問題は、ドストエフスキーの関心を、ぬきさしならぬアクチュアリティでもって領有した。その理由についてはいずれふれるが、何よりも『カラマーゾフの兄弟』とのつながりで興味を引くのは、「清潔さ」こそが最も重要な救済の手段とみなされ、キリストと十二人の使徒たちの十三人の聖人たちがすべてみずから去勢していた、と真剣に信じられていることである。キリストの去勢という「事実」に対する信仰は、もちろん聖書にある一般的な記述に由来していたことはいうまでもない。
 ちなみに歴史上、去勢派にかんする記述がはじめて現れるのは、1772年7月、場所はオリョール県(この場所の名前はしっかりと記憶にとどめておいていただきたい)のことで、当時のエカテリーナ二世が、「ある新しい種類の異端」の調査のためオリョール県に係官を遣わしたのが、そもそものきっかけである。十九世紀になると、鞭身派とならんで去勢派も、皇帝権力を脅かすほどの無視できない存在となり、時のニコライ一世は、去勢派の信徒をシベリア流刑に処したほどであった。興味深いのは、去勢派は地上の肉欲を退けるかわりに、宝石や金品を崇拝して、蓄財に励むものが多く、表向きは、一般の正教信者以上に熱心に祈り、蓄財の一部を教会に寄進していたことである。ちなみに「去勢する」(скопец)と「貯蓄する」(скопец)は同じ単語である。
 国教である正教から分離した人々の数は不明だが、ドストエフスキー自身も深くかかわったペトラシェフスキーの会の主宰者ペトラシェフスキーは、1849年の逮捕の際、分離派の数をじつに七百万人とし、1867年に革命家のオガリョフは、「ありとあらゆる政府の迫害にもかかわらず、わが国では人口のほとんど半数のうちで分離派が保持されている」と書いている。これらの記録には多少誇張も含まれていると思われるが、内務省の調べによると1820年代には少なくみつもって百万人の分離派がいたとされ、十九世紀末にはその数は二百万人近くに上っている。ドストエフスキーと同時代の1850年代に行われた調査では、モスクワの北、ロシア中央部に位置するヤロスラヴリ県の三分の一が分離派であったとの記録が残されている。公式の統計と実数には大きな違いがあったとされ、潜在的にその数倍という恐るべき勢力を誇っていたのである(ただしこの数値では、分離派と異端派の区別が明らかではない)。
 アレクサンドル・エトキントの研究によれば、「十九世紀の後半、鞭身派はロシアの人口でいうと、その広がりにおいて、正教会と古儀式派(分離派――筆者注)につぐ第三番目の宗教となっていた」という。
こうして、ロシア民衆とロシア社会の隠された部分に光が当てられ、都市の知識人たちにその恐るべき実態が広く知られるのは、農奴解放後間もなくのことだった。
 「農奴解放」から五年後の1866年は、分離派の誕生から二百年目の年にあたっていた。その年に起こったカラコーゾフ青年による皇帝暗殺未遂が、分離派や異端派による世俗権力の抹殺を意味するものとかりに理解されたとしても不思議はない。
 こうして性に対する極度のタブー意識をもった「鞭身派」「去勢派」の二つの異端派が競合し、勢力を増していくなかで、ロシア社会は深い秘密を隠しもつにいたった。とりわけ去勢派の勢力増大は少子化の危険をはらむものであったので、国力の弱体化を恐れた皇帝権力は、初めての「異端派狩り」に乗り出した。これが1844年のことであり、この年は同時に、二十三歳のドストエフスキーがデビュー作『貧しき人々』を書き始めた年でもある。
 ドストエフスキーはもともと、内向と開放の二進法的なリズムで行動する作家だった。落ち込めばとことん落ち込み、調子づけば、どこまでも驕りたかぶる一面をもっていた。そうした彼の青春時代の性体験をめぐって、興味深い洞察力を示しているのが、二十世紀イギリスの歴史家E・H・カーである。彼は、ドストエフスキーがかなり早い時期に女性体験をもち、性的な抑圧からは解放されていたと推測している。異端派に対する弾圧がつよまるなかで、旺盛な精神力の持ち主であるドストエフスキーのなかに、「去勢派とはなにか」という関心がにわかに迫り出してきたとしても何ら驚くにはあたらない。異端派への関心は、ドストエフスキーの衒学的対象ではけっしてなく、それ自体が彼の内面のドラマをくっきりとなぞるものであった。
 すなわち「鞭身派」と「去勢派」の双方への関心が、「堕落した父=皇帝」と「去勢派=農奴」との分裂・対立というロシア文化史の基層と深く関りがあることを発見したとき、ドストエフスキーの文学は、恐るべき地平を切り拓くにいたった。以来、「鞭身派」と「去勢派」、「性」と「反性」の分裂というテーマは最後の『カラマーゾフの兄弟』にいたるまで、連綿と彼の小説世界の基本を形づくる重要な要素となるのである。
 そこでわたしはふと現代社会に目を向けてみる。
「性」のタブーをめぐって、「堕落した父」と「去勢派」が繰り広げる世界は、グローバリゼーションの時代にあって、「堕落した父」=アメリカと「去勢派」=イスラームとの戦いと驚くほど似てはいまいか。インターネットによる情報のグローバル化は、多元的な価値観を根こそぎ破壊し、世界を一元的な砂漠に変えようとしている。解放と開放の流れは、一つの国家がいかに規制をかけ、自己防衛に努めようとも、有効な歯止めとなることはない。イスラーム原理主義をとなえる人々が感じる危機とは、自分たちの精神世界が“壊される”恐怖だが、その恐怖すら、ゆくゆくは取り除かれていくことになるのだろう。正直なところわたし自身この一元化に不気味な恐怖を感じ、ドストエフスキーの小説と、十九世紀後半のロシアのテロリズムの世界が、今後の世界の行方を解き明かす大事なヒントになるのではないかとまで空想することがある。
 ドストエフスキー後期の小説で描かれる主人公たちは、その多くが本質において「テロリスト」としての資質を負っている。しかもその「テロリスト」が、異端派の流れを汲んでいる事実を見のがすことはできない。
 『罪と罰』で高利貸の老婆アリョーナらを斧で殺した元大学生ラスコーリニコフも、キリスト教異端派の家庭で育った青年である。『白痴』の女主人公ナスターシャを殺すロゴージンも去勢派の末裔であることが暗示されている。『悪霊』に登場する革命家ピョートルは、政府転覆のために去勢派の利用を考えていた。『カラマーゾフの兄弟』で堕落した父フョードルを殺すのは去勢派のスメルジャコフである。また『カラマーゾフの兄弟』の続編すなわち「第二の小説」では、『私の主人公』アレクセイ・カラマーゾフみずから、きびしい性的タブーに縛られた異端派へ走った可能性がないでもない。では、ドストエフスキー自身はどうであったのか。」亀山郁夫『ドストエフスキー 謎とちから』文春文庫、2007、pp.82-91. 

 身体を痛めつけることで宗教的エクスタシーにいたる教義。いろいろな宗教には激しい修行や生死すれすれまで鍛える宗派があるが、なんだかここまでくると、神秘主義的狂信の世界に見えて、一般の信者には到底ついて行かれるものとは思えない。だが、ドストエフスキーの小説である種の狂気を秘めた人物が登場しているのは、そのような宗教の影響があるのだろう。亀山氏はそれを「テロリスト」と呼び、現代のアメリカ的な合理主義に対して暴力的に対抗するイスラム原理主義にまで言及する。多少飛躍があると思うが、確かにこういう読みもできるところがドストエフスキーなのだろう。


B.accelerationism?
 20世紀後半に、東の社会主義国家が崩壊して、アメリカ的グローバル資本主義が世界に蔓延した結果、われわれが地球で豊かに生き延びる方法は、資本主義経済システムのさらなる合理化高度化を極限まで追求するほかない、という言説が支配的になった。しかし、地球環境は資源の枯渇や温暖化などでそんな楽観的見通しは正直嘘っぽくなり、むしろこの先には資本主義の破綻がくると考え、ならばこの傾向に逆らうのではなく、極限まで加速してしまおうというのが「加速主義」というものらしい。

 「加速主義化する日本: 神戸女学院大学名誉教授・凱風館館長 内田 樹 
 ある講演会で大阪の維新政治十五年の総括を求められた。行政、医療、教育どれをとっても大阪市府の現状は高い評点を得られるものではない。だが大阪での維新の人気は圧倒的である。なぜ政策が成功していない政党を有権者は支持し続けるのか。維新政治に批判的な人たちは有権者が維新政治の実態を知らないからだという解釈を採っている。大阪のメディアが維新の広報機関と化しているので、有権者は維新政治が成功していると信じ込んでいる。だから、真実を知らしめれば、評価は一変するはずだと言うのである。そうだろうか。私は違うような気がする。
 大阪の有権者は大阪で何が起きているかちゃんと知っているのだ。それは日本の未来を先取りしているということだ。大阪は実は「トップランナー」なのである。公務員は減らせるだけ減らす。行政コストは削るだけ削る。社会福祉制度のフリーライダーは一掃する。学校教育では上位者の命令に従うイエスマンをつくり出す。これらはアメリカの「加速主義者」たちが主張し続けてきたことといくつかの点で重複する最新の政治的主張なのである。
  • * * 
 加速主義というのは2010年代アメリカに登場してきたホットな思想である。資本主義はすでに末期を迎えている。人類は「ポスト資本主義」の時代に備えなければならない。だが、「民主主義」や「人権」や「政治的正しさ」のような時代遅れのイデオロギーがブレーキになって、資本主義の矛盾を隠蔽し、資本主義の終焉をむしろ遅らせている。そのブレーキを解除して、資本主義をその限界まで暴走させて、その死を早め、資本主義の「外」へ抜け出そうというのが加速主義である。
 映画を倍速で観る人たちが多数派を占めつつある時代にふさわしい思想だと思う。結果の良否はどうでもいい。結果を今すぐこの目で見たいという欲望のあり方は私にも理解できる。「棺を蓋いて事定まる」とか「真理は歴史を通じて顕現する」とかいう考え方は「ことの良否が定まるまでには長い時間がかかり、生きている間には結果を見ることができないかもしれない」という人間の有限性の自覚に基づいている。当然「そんなの嫌だ」という人もいるだろう。自分が今していることの意味は今すぐ知りたい。判定を「後世に待つ」というような悠長なことには耐えられない、と。
  • * * 
 この加速主義的傾向は今社会のあらゆる領域に広がっているように思われる。「世界標準は…なのに、日本だけが取り残されている」とか「バスに乗り遅れるな」というタイプの定型句は政治的立場を超えて頻用されている。気候変動についても、金融危機についても、原発再稼働についても「待ったなし」だと人々は言う。そのことに私はいささかの不安を覚えるのである。
 加速主義的傾向が支配的な社会では「スピード感」がすべてを押し流し、浮足立った気分を煽る人たちが世間の注目を集める。そうして焦燥に駆られて採用された政策がいかなる結果をもたらしたかの事後的検証には人々はもう興味を示さない。未来を早く知りたいという焦燥感は私にも理解できる。だが、過去を振り返り、失敗から学習する習慣を失った人たちの前に明るい未来が開けることはたぶんないと思う。」東京新聞2023年3月19日朝刊、5面社説・意見欄「時代を読む」。
 
 念のため「加速主義」とは何か?をWikipediaで引くと、以下のような説明があった。
 「政治・社会理論において、根本的な社会的変革を生み出すために現行の資本主義システムを拡大すべきであるという考えである。現代の加速主義的哲学の一部は、広範囲にわたる社会変革の可能性を抑制する相反する傾向を克服することを目的として、脱領土化の力を特定し、それを深め、急進化することを目的としたジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの脱領土化の理論に依拠している。加速主義はまた、資本主義を深化させることは自己破壊的な傾向を早め、最終的にはその崩壊につながるという信念を一般的に指す言葉でもあり、通常は侮蔑語として用いられる。すなわち、テクノロジーの諸手段を介して資本主義の「プロセスを加速せよ」、そしてこの加速を通じて「未来」へ、資本主義それ自体の「外 the Outside」へと脱出せよというメッセージである。 
加速主義理論は、互いに相違する左翼的変種と右翼的変種に分けられる。「左派加速主義」は、例えば社会的に有益で解放的な目的のために現代の技術を再目的化することによって、資本主義の狭義の範囲を超えて「技術進化のプロセス」を推進することを試みる。「右派加速主義」は、おそらく技術的特異点(シンギュラリティ)を生み出すために、資本主義それ自体の無限の強化を支持する」

 ふ~ん、でもここで内田樹氏が考えているのは、もっと単純で破れかぶれともいえる米国流加速主義で、それを日本にもってくるとさらに、後先考えないバカバカしいネオリベ神経症的破壊衝動になってしまう、と批判している。大阪で維新がやっていることは、確かにそういうことなのかもしれない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いまドストエフスキー 4 偽装転向なのか? 極右自民党の天下はまだ続くのか?

2023-03-17 17:46:30 | 日記
A.第三の罪と罰 
 死刑宣告を受け恩赦で生きながらえた若きドストエフスキーは、シベリアのオムスク監獄で4年間の囚人を終えたのに続き、セミパラチンスクという町で4年間の兵役に就いた。現在はカザフスタンの東部にあるこのセミパラチンスクが20世紀に世界に知られる場所となったのは、旧ソビエト連邦によって核実験場が作られ、1949年から40年間にわたって、467回もの、大気中、地上、地下核実験が行われたことで、核実験の住民への被害が明らかになったことである。しかし、ドストエフスキーにとってはここでの生活は愛すべき女性(のちに最初の妻となる)との出会いであり、恋の情熱に燃えた30代半ばの経験だった。それがのちの小説作品にどのような影響を与えたかは、彼の癲癇と結婚の複雑な関係としてもドストエフスキー研究家には、興味深いテーマになっているらしい。

 「仮説-―「転向」の内実
 読者のみなさんは、ドストエフスキーがこの事件をきっかけに、社会主義を捨ててキリスト教に転向したのではなかったか、という疑問を持たれるかもしれない。たしかに一面でそれは真実であったかもしれない。シベリア時代に書かれた何通かの手紙が、そうした彼の「転向」の内実をはっきりと伝えている。しかし現実にはどうであったのか。たとえば彼が、首都ペテルブルグの高官の妻にあて書いている、「思想や信念は変わるものです。人間全体も変わるものです」も、額面通りに信じることができるのだろうか。これまでの通説では、ドストエフスキーはシベリアで民衆に出会い、民衆を通して神を見て、更生した、という「転向」の物語がまことしやかに語られてきた。
 しかしわたしは、ドストエフスキーの身にそう容易に図式化できる「転向」は起こらなかったと考えている。先ほど、「永遠の二重性を生きる」と書いたのは、じつはそのことの意味であった。
 二十代の後半に秘密結社に関わり、ゴーゴリに宛てたベリンスキーの手紙を熱狂的な調子で読み上げ、会員を感動のるつぼに陥れた青年が、かりに恩赦で命を救われたという事実があるとはいえ、そうやすやすと過去の信念を忘れ去るとはどうしても思えないのである。左翼から右翼に転向した戦後日本の知識人の例を見ても、彼らの多くが、自分たちの信念を百八十度変えるどころか、どこかにノスタルジーを引きずりつづけていたではないか。
 その一方で、ドストエフスキーの中になんらかの宗教的な目覚めがあったということも認めざるを得ない事実である。これまでの転向説を完全に覆すのではなく、むしろその半分を否定するべきではないかというのがわたしの考えである。すなわち「永遠の二重性」—-。死刑宣告から一転して恩赦というドラマが彼にもたらしたのは、「転向」ではなくて、むしろ「信仰」と「無信仰」が絶えず共存し、反転する「二枚舌」であった。彼は、そのいずれにも、限りなく同化することができる「二重人格」の持ち主となったのである。
 ドストエフスキーの癲癇をはじめて診断し、治療に当たった医師でペテルブルグ軍医学アカデミーの教授ステパン・イワノフスキー(1812~1897)は、シベリア流刑の前と後の両方を知る貴重な証人だが、その彼の意見によれば、シベリア流刑前のドストエフスキーは「自由主義者としてふるまう」ことを好み、シベリアから帰ってきてからは「殉教者としてふるまう」ことがよくあったという。彼は演技できる作家だったのである。
 たしかに、彼が、晩年に書きつづけた『作家の日記』を読むと、時としてあたかもロシア正教の熱烈な布教者のような姿が浮かび上がって来る。しかし、そのじつ、彼はイデオローグとしてますますしたたかさを加えていった。その典型例として挙げられるのは、先にも引用した1874年の『作家の日記』で、彼が、若い時代にともに活動したペトラシェフスキーの会の会員にとって、社会主義、とりわけフーリエのとなえるユートピア社会主義とキリスト教は一体化していたと述べているくだりである。
 当時、勃興しつつあった社会主義は、その指導的立場にある何人かの人々にとってもキリスト教になぞらえられ、時代の文明の発達にともなってキリスト教が修正され改良されたものにすぎないと受けとめられていた。
 同じ年に、彼は、批評家ベリンスキーとの出会いを回想する文章で、キリストが現にいま存在していたら社会主義者の仲間に加わっただろうと批評家みずから断言していた事実を述べている。

 「だが、いまこの判決を受けることになった事件、わたしたちの精神をとらえたその思想、その考えは、わたしたちにとって、悔いを必要としないものであるばかりか、むしろ何かわたしたちを浄化してくれるもの、わたしたちの多くの罪がそれによって許される殉教であるように思えた。そういう気持ちは長い間つづいた」

 ドストエフスキーにとって第一の目的は、生きのこりだったのであり、思想の是非ではなかった。とにもかくにも生きていかなくてはならなかった。いったんは恩赦を受け、「脛に疵を持つ身」として彼は、少なくとも現体制への信頼をえるべく振る舞わなくてはならなかった。絶大な皇帝権力のもとで、少なくともロシアで生きていくためには、革命思想を捨て、キリスト教への宗旨替えを表明する必要があった。そこに、「信仰」と「不信」の「永遠の二重性」、永遠の葛藤が生じたということである。
 私の見方は少し偏っているとの批判にも甘んじよう。
 しかしかりにこのような「二重性」という視点に立てば、とくに書簡等でのドストエフスキーの発言はすべて一度疑いのふるいにかけざるをえなくなる。であるからこそ、シベリア時代に、高官の妻にあてた「手紙」も、皇帝直属の秘密警察の検閲を意識した演技の可能性を否定できないのである。ドストエフスキーは、「思想も信念も変わる」と「転向」を公にすることで、覚えめでたくシベリアから帰還できると踏んでいたとわたしは見ている。
 さて、少しばかり、わき道に深入りしすぎたが、第三の「罪と罰」とは、「結婚」すなわち「性による解放」という「罪」と、「癲癇」という「罰」である。
 小説の世界においても、実生活においても、つねに彼を苦しめてきた「欲望の三角形」というしがらみから、一対一の対話的な関係へと解き放たれる時が訪れた。
 四年間のオムスク監獄での流刑を終えて、中国国境に近いカザフ・セミパラチンスク(現セメイ)の兵役に就いてまもなく、彼は、マリア・イサーエワという税関役人の妻と出会い、はげしい恋のとりことなった。1854年2月、彼が33歳、マリアが26歳の時である。
 まもなく、マリアは、夫の仕事の関係で、セミパラチンスクから北に八百キロ離れたシベリアの町クズネーツクに移ってしまう。離れるほどに思いはつのり、彼女と結婚できなければ町を流れるイルティシ川に飛び込むとまで思いつめる日々がつづく。
 半年後の八月、彼女の夫が急死したとの知らせが届き、ドストエフスキーは軍規をおかしてクズネーツクに駆けつけるが、そのときにはすでに彼女に新しい恋人がいて、いきなり三角関係に巻き込まれてしまった。ところが、そこで小さなカタルシスが起こり、彼はマリアの恋人のために献身的な振舞いに及びはじめた。そのカタルシスとは、ひとつには、「三角形」のしがらみから自らを解放するためのある種の本能的な防衛策だったのだろう。
 1859年、最初の出会いから約三年におよぶ苦闘を経て、彼はようやくマリアとの結婚をはたす。婚礼はクズネーツクの町で挙行された。ところが、セミパラチンスクへの帰途、バルナウルの町ではげしい癲癇の発作に襲われ、四日ほど足止めを食うはめになった。
 現代の医学では、癲癇は脳による痙攣だということがわかっている。ところが、その痙攣がどうして起こるのかを、現代の脳生理学は必ずしも明らかにしていない。では、ドストエフスキーの時代、すなわち十九世紀のロシアでの理解ではどうであったのか。
 ジェームス・ライスという研究者が書いている。
「何世紀にもわたる医学の歴史において、ヒステリーと癲癇(morbus sacer)は、だらしなく混同されている。双方とも『痙攣性の病』(ないし、民衆の間で言われていたように、『震えがくる』病)とされ、たがいに近しいながら、神秘的な類縁関係にあるとみなされてきた。1870年代以後、もっとも激しいヒステリーの発作は、ヒステリー性癲癇(hystero-epilepsie)と名づけられていた」
 わたしは、医学の専門家ではないのでわからないが、ドストエフスキーにおける発作のクロニクル(たとえば、グロスマンの編んだ『資料』が参考になる)を見ると、発作は、ある種の解放のモメントと密接に結びついているような気がする。たとえば、五十代にやみくもに起こる発作などは、どのように説明できるのだろうか。
 フロイトは、かりにシベリア時代のドストエフスキーが癲癇の発作に見舞われなかったとすれば、癲癇の発作は「父殺し」に対する罰であることを裏付けると述べている。さらに彼は、別のかたちで罰が与えられているときには発作を必要としなかった。ただしこれを証明することは不可能だと補足している。たしかに、フロイトの説を裏付けるかのように、ドストエフスキー自身こう書いていた。
 「神経の障碍から癲癇が起こることは起こったが、しかし、ごくまれであった」
 オムスク監獄時代、彼は現に徒刑という罰を受けていることによってかえって安定していたということである。
 最初の妻マリアを結核で失った後、1866年(この年は強調してもしすぎることはない)の11月、ドストエフスキーは、アンナ・スニートキナという二十歳の速記者と再婚する。若いころは数年おきだった癲癇の発作が、この再婚以来、確実に頻度を増していることに注目すべきである。とりわけ、五十代に入ってから子宝に恵まれたので明らかだが、妻アンナとの夫婦生活はきわめて旺盛かつゆたかであった。
 家庭という閉ざされた世界での性がドストエフスキーをゆたかに解放すると同時に、彼の精神にのしかかるようにして「癲癇」が襲ってくる。彼が、脳生理学にどこまで通じていたかわからない。しかし経験的に、「癲癇」が性による「解放」という「罪」に対する「罰」として起こるという、習慣性ないし関連性について漠然とした認識はもっていたのではないか。
 興味深いことに、第三章でくわしくふれるロシアの異端派、わけても鞭身派や去勢派のモチーフが彼の作品にたち現れてくるのは、主としてアンナ夫人との幸福な結婚以後のことである。すなわち、『白痴』から『カラマーゾフの兄弟』に至るまで、彼のなかでつねに、性的な快楽から完全に自己隔離する異端派への関心がよみがえり、小説世界を駆動する大きなモメントの一つとなるのである。思えば、日常的な、つまり夫婦間の性をこそもっとも犯罪的としたのが鞭身派であり、去勢派ではなかったろうか?」亀山郁夫『ドストエフスキー 謎とちから』文春文庫、2007、pp.42-49. 

 若いときの反体制的政治意識は、権力の弾圧で空しく挫折させられたとしても、シベリアの流刑ぐらいで180度保守派に転向などするものではないと亀山氏はみている。後年の作家としての生活や作品のなかに現れる思想的課題などを考えれば、たしかに権力の裏をかく二枚舌の芝居をやっていたとみることはできる。とくに女性との恋愛が精神と身体の大きな飛躍的変化をもたらしたのは、ある意味当然ともいえる。そして国家の公式宗教としてのロシア正教に対して、じつは異端としての怪しげな宗教が当時の民衆の間にかなり大きな力をもって広まっていたということも、見なければならない、という点が次の問題。


B.安倍政権の負の遺産
 民主党が政権を取った2009年夏、いよいよ伝統的保守勢力を集めた自民党長期政権が終わって、日本も健全な二大政党制が実現し、アメリカや欧州(あるいは韓国)のように保守派とリベラル派が相互批判をしながら政権交代によってバランスを取るようになると期待された。しかし、それは空しく挫折して、民主党はちりじりに分裂し、中間政党とみなされた維新や国民民主党などはどんどん右傾化を進め、怪しげな弱小政党が出たり消えたりしながら、全体として安倍自民党の1強体制が投票率の低い選挙で勝ち続けた結果、今のような極右路線が幅を利かせる独裁に近い体制ができあがってしまった。自民党幹部の発言を聞くたびに、もう野党の言うことなどまったく聞く耳はもたなくていいのだ、という傲慢な政治になってしまい、いろんな不祥事が続いても結局すべては自民党の思うがまま。まことに憂慮に堪えない。どうしてそうなっちゃったのか、朝日新聞は他人事のように論評している。

 「岩盤支持層 路線変更の壁 「保守純化」自民 曲がり角
 直近の政権交代から10年が経過し、政界では自民党だけが圧倒的な力を持つ「1強多弱」という構図が続く。政治改革で目指した政権交代可能な二大政党という枠組は消えつつあり、漂流を続けた。日本政治はどこに向かうのか。与野党議員らの証言を交え、その進路を考える。
 「政権を手放さざるを得ないというのは、政策を実現できなくなること。自民から業界団体が潮が引くように離れていった。むなしかった」(菅義偉前首相)
 野党時代の悲哀をきっかけに自民が重視したのは、今も続く保守系団体との関係強化だ。
 安全保障関連3文書の改訂を控えた昨年12月15日、国会内で「防衛力の抜本的強化を求める緊急集会」と題した会合が開かれた。
 自民議員らを前にジャーナリストの桜井よしこ氏が登壇。3文書改訂を評価したうえで「日本の国防は欠陥だらけ。一番の原因は現行憲法にある」と指摘した。日本会議国会議員懇談会の会長で自民の古屋圭司元拉致問題担当相は桜井氏に同調し、「どんなことがあっても私たちの手で憲法改正をしていかなきゃいけない」と力を込めた。
 集会は保守系団体「日本会議」などが共催した。日本会議は新憲法制定や国防力強化を掲げ、選択歴夫婦別姓などには反対の立場をとる。自民もこうした政策を掲げる。
 「本当の保守団体は野党時代も自民を支持してくれた。保守政党としてのスタンスをより明確にしていこうと考えた」(安倍派会長代理の下村博文・元政調会長)
 労働組合の中央組織である連合を支持団体とした民主党は中道左派的な立ち位置だった。選択的夫婦別姓や永住外国人への地方参政権付与などリベラル色の強い政策に取り組む考えを示していた。自民が保守色を強めるのは、民主に対抗しつつ差別化を図るためでもあった。
 その一つが、2012年にまとめた憲法改正草案だった。自衛隊を「国防軍」に改めるほか、天皇を「元首」と位置づけ、「国旗は日章旗、国歌は君が代」と明記するなど「保守色」を前面に出した。
 こうした保守純化路線は、民主の台頭によって下野以前から強まる傾向にあったが、「保守再興」を掲げて12年、党総裁に返り咲いた安倍晋三元首相のもとで加速した。「反共」や保守的な家族観を主張する世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と自民議員の結びつきを強める土壌も、作られていった。
 朝日新聞社と東京大学の谷口将紀研究室による国政選挙候補者への共同調査からも、自民の保守的な立ち位置が強まる傾向が見てとれる。自民が下野した09年の衆院選では「日本の防衛力はもっと強化すべきだ」について、「賛成」「どちらかといえば賛成」の賛成派は自民候補で76%だったが、直近の21年の衆院選で94%、22年の参院選で99%に増加。ロシアによるウクライナ侵攻なども影響したとみられるが、参院選では安倍政権下の13年95%を上回って最多となった。
 「改憲」の賛否でも22年の参院選では自民は97%が賛成派で、第2次安倍政権課の前回93%を上回った。
 そうした結果、保守系の岩盤支持層を固め、一定以上の支持層は失わない強い体制づくりを構築した。衆院解散の時期を周到に練ったこともあり、これまで国政選挙で7連勝した。自民内では、二大政党制より、党内の派閥間で首相の顔や政策を代える「擬似政権交代」を求める声が強い。
 「同じ政党の中で徹底的に議論をして政策変更する。あとは和をもって尊しとなすのが日本人が一番得意とするやり方だ。日本に二大政党制はいらない」(西田昌司・政調会長代理)
 しかし、保守路線は曲がり角に立つ。露呈した自民と教団との結びつきは、政治不信を高めた。その中心的な立場にいたとみられる安倍氏との関係の調査に踏み切ることもできていない。保守層が反発するLGBT理解増進法の推進にも及び腰だ。擬似政権交代のように首相を交代しても、岩盤支持層が崩れる危機感もあり、路線変更は簡単ではない。」朝日新聞2023年3月16日朝刊4面総合欄「漂流10年 沈む二大政党1」
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする