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プログレの時代 Yes 5 高校野球予選…

2019-07-31 12:11:54 | 日記

A.単純から難解へ進むと……

 なにかを始めるときには、ふつう先生について初歩から習う。なにしろ何も知らないのだから、単純なことから順に教えてもらわなければならない。入門段階からおぼえていって、ある程度のレベルまでだんだん上達していく。音楽の場合も、まずはなにか楽器を手にして音の出し方から練習する。いきなり難しい曲に挑戦しても失敗するだけだ。多くの人は、ある程度できる段階までやって、それ以上は技術の限界を感じて挫折するものだ。いくら練習しても、鍛えられたプロのような演奏はできそうもない。それが「才能の違い」だろうと諦める。

 ロックという音楽が、1960年代に世界中の若者をあっというまに熱狂させたのは、まずは単純でわかりやすい曲だったのと、楽器なんか触ったこともない青少年たちが、これならオレにもできるかも、とバンドを組んでみようと思ったからだろう。ギターを持ってFとかGとかのコードを押さえれば、ジャーンと鳴る。楽譜なんか読めなくても、とりあえずこれだけでカッコがつくので、ドラムとベースとヴォーカルを揃えればにわかバンドができる。この単純でとっつきやすい音楽が、どれほどの若者を惹きつけたかは、ぼくもあの頃の中高生だったからよくわかる。今まで野球やサッカーをしていて音楽なんか無関心だった男の子たちが、急にギターを欲しがって仲間と騒音バンドを鳴らし始めた。そういう中から、やがてプロのミュージシャンを目指す者も出てくるわけだが、おおかたは1年もすると飽きてまた野球少年や受験勉強に戻っていった。

 ぼくは小学生の時、ピアノを習っていて、バイエルの楽譜を読んで指使いを直されたりするお勉強クラシックが肌に合わず、男の子でピアノを習っていた者は他におらず、なにか悪いことをやっている気がしてこそこそ隠れていた。ぼくにとって楽器をやるというのはそういう暗いイメージだったので、ロックが流行り出した時、家にエレキギターやアンプがいくらでもあったのに、自分もやってみようとは思わなかった。どうして家にエレキがあったのかというと、ギターの弦を作るのが父の仕事だったからだ。エレキギターがブームになって、仕事はどんどん忙しくなり、従業員を雇って儲かっていたようだが、ぼくはロックに背を向けてクラシックばかり聴いていた。

 どんなジャンルの音楽もはじめは単純でわかりやすい曲が流行る。やがてそれに飽きてもうちょっと複雑な曲も聴きたくなる。みんな知ってる通俗名曲などで喜んでいるのはシロウトだと、だんだん新傾向の手の込んだ曲に入りこみ、ついには何をやっているのか一度聴いただけではわからない難解な曲こそすばらしいと言いはじめ、それを知っている自分は特別な音楽通なのだと自慢し始める。単純から複雑へ、明解から難解へ、クラシックも、ジャズも、そしてロックも、この順序で「進化」しているのだと思ったのが1970年代だったのかもしれない。

 

 「1973年10月26日(11月9日という説もあり)に本国イギリスで発売されたイエスの大作「海洋地形学の物語」は、いろいろな意味で賛否両論を巻き起こした問題作と言える。それは単にLP2枚組で全4曲という長さや、以前にも増して難解で理解し難い歌詞といったことからだけではない。むしろ、それだけだったらプログレ・ファンからは大いに歓迎されたことだろう。プログレの必須条件と言われる、“曲が長い”“難解である”“変拍子を多用している”といったポイントをすべて満たしているわけだから。

 この作品は、冒頭にあるジョンの文章からもわかるように、彼とスティーヴ・ハウの二人が中心となって作られたものだ。この壮大なコンセプトを練り上げるにあたってジョンは、上記のパラマハンサ・ヨガナンダの著書「あるヨギの自叙伝」と、ヴェラ・スタンレー・アルダーの著書「第三の目の発見(THE FINDING OF THE THIRD EYE)」から強く影響を受けたようだ。一方のスティーヴ・ハウは、その前の年、1972年7月に行なわれたデヴィッド・パーマーによるシンフォニーに参加して以来、シンフォニックな作品に強い関心をもっていた。また、1996年にリリースされたスティーヴ・ハウの初期デモ・テープ集「HOMEBREW」には、本作1曲めの「神の啓示」の原曲となった「For The Moment」が収められている。このデモ・ヴァージョンは、1972年にスティーヴの自宅で録音されたもので、この曲こそが大作「海洋地形学の物語」の骨格になったのは間違いない。

 しかし、その他のメンバー、つまりクリス・スクワイア、リック・ウェイクマン、アラン・ホワイトの3人は(おそらくしぶしぶ)コンセプトに同意はしたものの、制作段階から懐疑的だった。特にリックは、この作品のコンセプトを端から理解しようとせず、そればかりかレコーディングの最後まで終始否定的だった。結局、リックは翌1974年5月にソロ活動への専念を理由にイエスを脱退することになる。クリスにしても、「海洋地形学の物語」に対しては常に一歩引いていたような状況だった。

 そんな残りのメンバーの不安をよそに、ジョンとスティーヴはガンガン作業を進めていった。ジョンの発言によれば、1曲めの「神の啓示」などはスタジオ段階では28分もあったということだし、この大作にかけるジョン&スウィーヴの意気込みたるや相当なものだったことは容易に想像できる。

 イエスの「海洋地形学の物語」は実に興味深い作品であることには違いない。正直なところ、聴けば聴くほどわけがわからなくなる作品でもある。イエスが自分達の才能だけを頼りに制作した本作は、ある意味で本当のイエスの姿が現われてもいるし、またある意味では背伸びしまくったイエスの姿もそこにはある。明らかに未消化の部分、持て余している部分を散見できるのも事実だ。事実、アルバム発表直後にはマスコミ、特にイギリスの音楽誌からは酷評されまくった。にもかかわらず、20年も経ったいま聴いても、その魅力はまったく色褪せていないというのが、この作品の奥の深さを物語っている。

 ところで「海洋地形学の物語」の発表に併せたツアーは、まずイギリス国内ツアーとして1973年11月16日のボーンマス公演を皮切りに12月10日のエジンバラ公園までの24公演が行われた。翌1974年に入ると、2月7日のフロリダ・ゲインズヴィル公演を皮切りとするアメリカ・ツアーが3月21日のサンディエゴ公演まで行われた。そして4月に入ると、4月11日のフランクフルト公演を皮切りに4月23日のローマ公演までのヨーロッパ公演が行われた。このツアーでの演奏曲目は以下の通りだ。

01.「シベリアン・カートゥル」

02.「同志」

03.「危機」

04.「神の啓示」

05.「追憶」

06.「古代文明」

07.「儀式」

08.「ラウンドアバウト」

 恐ろしいことに、ステージで演奏されたのは「危機」全曲と(当時の)新作「海洋地形学の物語」全曲、そしてアンコールの「ラウンドアバウト」というものだった。トータルで3時間弱。さすがに、ツアー後半からは5曲目の「追憶」がセットリストから外されたようだが、それにしても当時のオーディエンスは、初めて耳にするであろう「海洋地形学の物語」をほぼ全曲聴かされたわけだから、相当面食らったに違いない。当然の如く、イギリスのマスコミはイエスに集中砲火を浴びせてきた。こうした批判が、さらにメンバーの不安を増長させたのだった。

 1998年、イエスはバンド結成30周年を迎えた。30年に及ぶ活動歴において、この「海洋地形学の物語」というアルバムはどんな位置づけにあるのか。発表された1973年というのは、バンドが活動を開始して5年めということでは初期にあたるわけだが、この時期こそがイエスのバンドとしての魅力に溢れた全盛期だったと言えるだろう。その意味においても、本作「海洋地形学の物語」はイエスが最もイエスたらんとしていた時期の重要な作品であると思う。当時、20代半ばだった5人の若者が、レコード会社からの制約を一切受けることなくクリエイトした自分たちの理想の音楽……それがこの「海洋地形学の物語」だったのだ。

               笹川孝司/MUSIC Watch 」イエス「海洋地形学の物語」解説

 

 Ritual  Nous Sommes Du Soleil  (Word by Anderson-Howe. Music by Yes)

Nous sommes du soleil we love when we play/ Nous sommes du soleil we love when we play

Open doors we find our way/ we look we see we smile / Surely daybreaks cross our path/ and stay maybe a while

Let them run let the chase/ let them hide between/ Constant doors will open eyes/ as life seems like/ life seems like a/ fight, fight, fight

Maybe I’ll just sing a while/ and then give you a call/ Maybe I’ll just say hello/ and say maybe that’s all

Hurry home as love is true/ will help us through the night/ Till we’re coming home again/ our life seems like/ life seems like a/ fight, fight, fight

 僕らは太陽の子、僕らには見える 僕らは音楽を奏でるのが好きだ

 開かれた扉の向こうにぼくらは道を見つける 僕らは求め、僕らは見、僕らは笑う

 夜明けは確実にやって来て しばしの間とどまってくれる

 奴らを走らせろ、奴らを追わせろ 奴らを隠れさせろ 不変の扉は瞼を開き

 人生は  人生は  戦い、戦い、戦いのようなもの

 僕はしばらく歌い続け 君に電話するだろう  おそらくハローとだけ言って

 ただそれだけだよと言うだろう   家に急げ 真実の愛が 

夜通し彼らの手助けになってくれるだろう 僕らが再び家に帰るまで

人世は 人生は  戦い、戦い、戦いのようなもの

 

 We hear a sound and alter our returning/ We drift the shadows and course our way on home/ Flying

Home/ going home

Look me my love centences move dancing away/ we join we receive/ as our song memories long hope in away Nou sommes du soleil/ Hold, me around.  Lasting purs/ We love when we play/ Nous sommes du soleil/ Nous sommes du soleil/ Nous sommes du soleil

 僕を見て、恋人よ、 言葉が躍りながら去ってゆく

 僕らはひとつになって受け入れる  歌の思い出は末永い希望となって

 僕らは太陽の子、僕らには視える  僕を抱きしめておくれ、残された時間を

 僕らは遊ぶことが好きなんだ    僕らは太陽の子、僕らには視える  

僕らは太陽の子、僕らには視える  僕らは太陽の子、僕らには視える (Kuni Takeuchi訳)

 

 イエスのメンバーのうち、この「海洋地形学の物語」という長大な作品のコンセプトを、先導したジョン・アンダーソンとスティーヴ・ハウの2人以外がどこまで理解して演奏していたかは、きわめて怪しい。音楽自体はそれまでの「こわれもの」「危機」の延長上で、各自がやりたいことを擦り合わせればなんとかできたのだろう(それでもリック・ウェイクマンは耐えられずこのあと脱退するが)。しかし、この歌詞を読むと、作っているジョンすら何を言っているのか、わかっていたとは思えない。結局、冒頭のフランス語もカッコつけにすぎないし、詩としての押韻だけを頼りになにか意味深いことをいいたい、というだけであるから、日本語に訳すとさらに訳が分からなくなる。そもそも20代のイギリスの男子が理解する、インド哲学とか黙示録的世界など誤解と偏見に満ちるのは避けられない。要するに、この難解は音楽の実験の装飾にすぎないと思うのだが、その意味でもイエスが1973年という時点で、突出した存在であろうとしたことは疑いない。

 

B.高校野球の変化

 都立小山台高校には大学進路指導のための模擬授業を頼まれて、一度行ったことがある。都立高のなかでも文武両道でそれなりの評価を得ている学校だ。ぼくのゼミにも、小山台高校出身者がいて、なかなか意欲のある学生だった。その小山台高校の野球部が、夏の甲子園予選東東京大会で、決勝まで進んだという。すごいことだと思う。並みいる強豪校はみな私立の部員を多数抱えた野球部だ。それに勝ち抜く都立の硬式野球部とは、どんな子たちなのだろう。

 

 「高校野球 夏の地方大会:東京、神奈川で公立躍進 :小川勝の直言タックル

2019年の高校野球では、東東京と神奈川で、公立校の見事な戦いがあった。東東京の都立小山台高校と神奈川の県立相模原高校だ。小山台高校は2年連続で決勝まで勝ち上がった。

 東京、神奈川で公立高が準決勝以上まで勝ち上がるのは、きわめてまれなことだ。準決勝まで残るには、私立の強豪校に勝たなければならないわけで、私立の強豪校に対して、限られた地元の生徒だけでチームを作っている公立高が、対等な勝負をするというのは、通常であればと、なかなかできない話なのだ。

 高校野球が持っている独自の価値のひとつは、地域性ということだ。大学野球であれば、地元を離れた学生がさまざまな地域からやってくるというのは普通のことだ。プロ野球の場合は、チームに地域性はあるが、プレーするメンバーは、日本はもちろん、海外からのプレーヤーもいる。だが高校野球は、地域で育った高校生たちが、地域の代表としてプレーするということがありえる分野だ。

 ただ東京、神奈川といった大都会を含む地域では、私立高校がたくさんあるため、公立高校が甲子園に行くチャンスがほとんどないことはよく知られているところだ。

 小山台高校が東東京の決勝に残ったり、相模原高校が横浜高校に勝ったりというのは、19年の高校野球で語りつがれていい出来事だ。小山台高校は14年の春の甲子園に出ているが、夏は初めての甲子園まで、あと1勝だった。相模原高校は、準々決勝で横浜高校に5点をリードされながら、7回から大逆転勝利を収めた。横浜高校は18年の秋季大会では神奈川で優勝していて、19年の春季大会は準決勝まで勝ち上がっていたから、夏は甲子園に出る可能性が十分にあったはずだ。相模原高校の勝利は、19年の夏の高校野球で歴史に残る記念碑になり得るゲームだったと言えるだろう。

 相模原高校が横浜高校に勝つにはある程度、戦力がそろったときに、工夫された練習を積んで、相手をよく研究して、熟考されたプレーをゲームの中で出せる精神面など、さまざまな要素がすべて重要だったはずだ。甲子園にたどり着く前の戦いである、都道府県の地方大会は、広く共有されることはあまりないが、東東京と神奈川には、高校野球の醍醐味といえるゲームがあったと思う。(スポーツライター)」東京新聞2019年7月29日朝刊25面特報欄。

 

 たしかに小山台高と相模原高の健闘は記念すべきものだと思うけれど、見方を変えれば、高校野球というものが、あるいは中学高校という学校教育の中の部活として行なわれる野球が、質的に変わってきているのではないかと推察する。つまり、甲子園大会に象徴される学校野球部勝ち抜きトーナメントは、地元をはじめ世間が注目するイヴェントだということを学校もメディアも当然の前提にしている。だが、それを戦う球児たちの現実は、一部の強豪校やプロ野球を目指すトップ・エリートと、大半は高校までの部活として「青春を燃やす」だけの男の子に分かれる。強豪校の野球部に入っても、レギュラーとして大会に出られるのは選抜された一部だけ。そして野球部というものがかつてのように第一の花形スポーツではなくなり、厳しい練習と坊主頭の体育会風土に抵抗を感じる子は、野球には行かない。もしそういう傾向が少子化とも関連して進んでいるとしたら、地域に野球が定着する地方よりも、学校も部活選択肢も多様な大都市部では、そもそも硬式野球をやろうという子が減少しているかもしれない。ちゃんと調べてはいないが、かつてのような勝利至上主義で部員をしごきあげるような指導はもう時代に合わないだろう。

 そのようななかで、大都市圏公立校の野球部が甲子園に出るところまで来ているとすれば、野球の質自体が変わりつつあるのかもしれないと勝手に想像する。

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プログレの時代 イエス4 戦いのはじまり

2019-07-28 02:24:47 | 日記

A.言葉か音楽か

 1970年頃、アナログレコードをプレーヤーにかけて針を落し、耳を澄ませるという音楽の聴き方が当り前だった時代、音盤を購入してデザインで目立とうとするジャケットを眺めるだけでなく、曲目や演者の解説や歌詞を読むということは必須だった。ライブ映像などは、テレビか映画でやらないかぎりお目にかからなかったし、生のコンサートを聴く機会は洋楽の場合めったになかった。世界に名の知られた大スターなら顔や声を知っていたが、売り出したばかりの若手バンドのメンバーが、どんなルックスでどんな演奏をしているのか、レコードから想像するほかなかった。今は、Uチューブなどでライブ映像が簡単に手に入るので、音だけに耳を澄ますという鑑賞法、しかもアルバムを順に全曲通して聴くというのはむしろ珍しくなったかもしれない。

 19世紀ロマン派交響曲のような言葉を含まない器楽だけの音楽なら、タイトルだけで純粋に音の表現を楽しむことになるが、オペラや歌曲は言葉を謳う音楽で、当然言葉には意味がある。ジャズは楽器演奏が中心だが、ジャズ・ヴォーカリストは歌詞を歌う。ある曲が何を表現しているかは、歌詞で歌われる曲なら当然言葉の意味に音楽は結びつく。しかし、ある音楽の価値は、歌詞の言葉にあるのか、それとも楽器がもたらす音そのもののインパクトにあるのか、という問題は、しばしば論議を呼ぶテーマである。教会音楽・宗教音楽であれば、合唱などで歌われる言葉は神を讃える典礼文であり音楽はそれをより荘重に飾るための演出にすぎない。逆にお客がダンスを踊るための伴奏音楽であるスウィング・ジャズなどは、曲の歌詞は類型的な決まり文句で構わない。意味をもたないスキャットのようなダヴィドヴァでもよいわけだ。

では、歌詞が大きな意味を発散するメッセージ性の強い音楽とは、どんなものか?フランスのシャンソンはもともと詩を歌うということに重点があるし、たとえば60年代のボヴ・ディランや日本のフォーク系、陽水や拓郎、あるいは荒井由実などの曲は、歌詞を抜きにしては価値が半減するようなものだろう。そうなると、ビートルズ以後のロックの場合は、ほぼつねに歌詞がついて謳われる音楽だから、音楽のインパクトと釣り合う程の歌詞の重要性は疑いないように思える。しかし、プログレにおいて言葉の問題は少々面倒なことになる。

 まずは「Close to the Edge危機」(1972)の解説をみよう。

 

 「本作のレコーディングの手法は他のどのアーティストとも違っていた。ジョン・アンダーソンとスティーヴ・ハウによる弾き語りの部分に全員で肉付けし、ある時はフレ-ズごと、ある時は数小節ごとにレコーディングしてはそこで立ち止まって検討する。あとで良かった部分だけをジグソーパズルのように繋ぎ合わせて聞いてみるといった具合だ。1972年7月28日から4度目のアメリカ・ツアーがはじまっているところを見ると、本作はリハーサル期間を含めて約2カ月という短い時間で制作されたことが分かる。これはプロデューサーであるエディー・オファードの並々ならぬ努力の賜物だろう。アルバム「CLOSE TO THE EDGE」(Atlantic K50012)は1972年9月8日にイギリスで発売された。

 プロデュースはエディ―とイエスの共同名義である。カヴァーアートは「FRAGILE」でも好評だったロジャー・ディーンを起用、深緑色による深淵のイメージの表紙も美しいが、そこに堂々と描かれたYESのロゴマークが素晴らしいデザインで、その後長い間このロゴが使われていた。ジャケットを開くと見たこともない幻想的な世界が一面に広がる。まさにタイトル通りの世界だ。

 本作は全3曲という構成になっており、1曲目のタイトル・ソング「CLOSE TO THE EDGE」はアナログ盤ではA面全てを費やす18分半という長丁場の曲となった。この曲はヘルマン・ヘッセが書いた「シッダールタ」という本をもとにジョンとスティーヴが骨組みを作っている。“CLOSE TO THE EDGE”や“ROUND BY THE CORNER”といった言葉は実際にその本から引用されているらしい。テーマは“自己解明への危機状態”というもので、自己発見への挑戦という意味を持っている。常に難解だと言われて来た歌詞は、いくつものシチュエーションに変えて現れる夢のようなものだ。テムズ河近くの崖っぷちで暮らすことを歌ったはじめの部分から、教会に背を向けて自分の中に自身の教会を見出す場面があり、やがては現世から来世へと旅立つことをイメージしている。一種の宗教絵巻きのような展開だが、ジョンは来世へ行く幻想的な夢を見て以来死ぬのが恐くなくなったという。この曲を聞いて人生が変わったというファンが出現したほどの黙示的な曲だ。この大作のレコーディングにあたり、エディ―・オフォードは2インチの太さの16トラックのマルチテープを切り刻んで編集した。その際に繋げた箇所の前と後ろとで音像的なギャップが生じてしまい、それを回避するためにオルガン・ソロを入れるなど、大胆なアレンジをほどこしている。本作が発表された当時にアナログLPの片面を使った長尺の曲は、ピンク・フロイドの「ATOM HEART MOTHER」と「ECHOES」、エマーソン・レイク&パーマーの「TARKUS」、ジェネシスの「SUPPER’S READY」、ジェスロ・タルの「THICK AS A BRICK」、ヴァン・ダー・グラフ・ジェネレイターの「A PLAGUE OF LIGHTHOUSE KEEPERS」、キャラヴァンの「NINE FEET UNDERGROUND」、マクドナルド&ジャイルズの「BIRDMAN」などたくさん存在しており、イエスだけが達し得た領域というわけではなかったが、終始緊張感がありただの一瞬たりとも無駄な音がないと言い切れるのはイエスだけだろう。

 ギターのチューニング音、そしてヘッドフォンから聞こえるキューに「OK!」とスティーヴが答えるシーンからはじまる2曲目は、アナログ盤ではB面の1曲目にあたる「AND YOU AND I」。1曲目の「CLOSE TO THE EDGE」を牧歌的に変えて構成し直したような曲だが、宇宙的な讃美歌のようにも聞こえる。実際にこのアルバム全体が3曲からなるひとつの物語としても機能しており、この曲はもっとも多くの音楽的要素を含んだ多角的な曲となっている。教会の中であり、のどかな牧草地でもあり、東洋的な神秘さも覗かせる、まさに輪廻転生や人生の縮図を垣間見るようだ。イエスというキーワードのもとに、世界中からさまざまな要素を持った音楽たちが集まって来ているのが分かる。この時代にワールド・ミュージックと呼ばれるジャンルは存在していなかったが、全ての音楽の中から自分たちが必要としているエッセンスを抽出する才能は、このイエスにしか出来ない芸当だと言えるだろう。

 アルバム最後を飾る3曲目は9分にも及ぶロックン・ロールの「SIBERIAN KHATRU」だ。タイトルの「KHATRU」とは南イエメンの言葉で「望むがままに」という意味で、この曲も宗教的な解釈を可能としている。登場する言葉の羅列はあまり深い意味を持っていないが、それぞれがまるで真夏の世の夢のごとく呪文のように鳴り響く。スティーヴによるギターのイントロが印象的で、段々と音程が上がって行き、来るべくハーモニーへの期待が膨らむ。イエスの当時のパワーを伺い知ることが出来る曲だ。あまりにも荘厳なグルーヴをもった曲だけに、アルバムでは最後に収録されたが、ライヴでは必ず1曲目に演奏される曲として長く君臨している。

 本作はイギリスで4位、アメリカでは3位にまで上がる大ヒット作となり、プログレッシヴ・ロックというカテゴリー以外でも人々の知るところとなった。アメリカでのチャートは「90125(ロWンリーハート)」の最高5位という成績を押さえ、イエスとして今日までの最高位となっている。本作の録音終了後すぐの1972年7月末から4度目のアメリカツアーが敢行されているが、そこにはビル・ブラッフォードの姿はなく、替わりにアラン・ホワイトがドラムを叩いていた。往年のイエス・ファンは新作「CLOSE TO THE EDGE」の期待と共に、予期せぬドラマーの交替劇を目の当たりにすることとなった。そしてこの交代劇がまたしてもイエス内部で巧みに仕組まれたものであったとは、誰の知るよしもなかった。その後イエスはかつてない大々的なツアーへと展開して行くが、そのツアーの行程中はじめて日本の地を踏むことになる。」イエス『危機』解説。

  ロックのアルバムの解説というのは、曲の構想からレコーディング、完成までの細かないきさつやメンバーの動向についてかなり詳細に追いかけるのが普通だが、イエスの場合は時々メンバーが入れ替わったりするので、そういった周辺のあれこれだけでも蘊蓄になる。しかし、曲の中で歌われている歌詞について、あまり内容に触れたりはしない。ディープパープルとかツェッペリンといったハードロックは、単純な叫びだけの歌詞でわかりやすくストレートに伝わりそうだが、プログレ、とくにイエスはなにを言ってるのかよくわからない。だから歌詞カードはついているけどあんまり考えなくてもいい、という方向に解説も流れる。「危機」の第3曲シベリアン・カートルの歌詞をみてみよう。

  Siberian Khatru  song word :Anderson   Theme : Hawe -Wakeman

Sing, bird of prey; beauty begins at the foot of you.

Do you believe the manner? Gold stainless nail, torn through the distance of man as they regard the summit.

Even Siberia goes through the motions,

Hold out and hold up: hold down the window.  Out bound river

hold out the morning that comes into view  blue tail, tail fly

River running right on over my head.

How does she sing?  Who golds the ring?

And ring, and you will find me coming.

Cold reigning king, hold all the secrets from you as they produce the movement.

 

囀れ、祈りの小鳥よ 君の足元に美が生まれる  風習を信じているかい?

錆びない金の爪が  頂点を見守る人々の距離を引き裂く  

シベリア問題が可決されても 抵抗し、持続せよ  窓を閉めておくんだ

川を越えれば越境  景色が見えるように朝を引き留めよ 

青い尾が飛んで行く 頭の真上に川が流れる その囀りはどんな歌? ベルを鳴らすのは誰?

その響きに、君は僕の訪れを知る  冷血に君臨する王、君の秘密を奪われ

彼らは革命を起こそうとしている   (以下略)  加納一美訳

  日本語訳を読むとさらに頭が混乱するが、たんに韻を踏むための言葉遊びなのか?それとも、ヘッセの「シッダールタ」に啓示を受けたという第1曲と同様、なにか哲学的な深~い意味があるのか?ほとんどのファンは、まあ分んねえけど気分が同調できればいいんじゃね…という感じで通り抜ける。でも、ど~して「シベリア」なんか出てくんの?頻出する川のイメージってテムズ川と関係あんの?とか、英語を聞き流す日本人は気にならないかもしれないけど、英語に慣れた聴衆には気になってしまうだろう。次は『Tales from Topolograrhic Oceans海洋地形学の物語』である。

  「イエスのツアーで東京に行った時、夜のコンサートを前にして、私はホテルの部屋で一時を過ごしていた、パラマハンサ・ヨガナンダの著書「あるヨギの自叙伝」のページをめくっていた私は、83ページにあった長い脚注に心を奪われてしまった。そこには宗教、社会生活、医学、音楽、美術、建築学などすべてを網羅した、4部から成るヒンズー教の経典についての解説が記述されていたのだ。その時まで私はスケールの大きな作品のためのテーマを探し求めていたのだが、この経典はその場で作品が思い描けるほどぴったりだったので、これをもとにして組み立てた4部作が誕生した。それは(1973年)2月のことだった。その8ヶ月後、このコンセプトはレコードとして実を結んだ。

 その後もツアーは続き、最初にオーストラリア、そしてアメリカを訪れた。このアイディアをスティーヴに話すと彼は気に入ってくれて、すぐさま私達二人はホテルの部屋のロウソクの灯りの下でセッションを始めたのだった。米ジョージア州サヴァンナに到着する頃には、この構想は明確なものとなっていて、朝の7時まで6時間のセッションをしたこともあった。ヴォーカル、歌詞、そしてインストの基礎を組み立てたが、それがあまりにも素晴らしい体験だったので、私達は何日も上気していたものだ。アレンジ、レコーディングに費やされた5ヶ月の間、クリスもリックもアランも大いに貢献してくれた。

 第一楽章 〈知識〉

 神から授けられた学問は、いつも咲いている花のように顕在化している。その花の中には、複雑な事物の分析中に現われる単純な真理や、いにしえの魔術が含まれている。だから我々に聴かせるべく遺されてきた歌を忘れてはならない。神の知恵は探究そのものである。普遍にして明確。

 第二楽章 〈伝承〉

 記憶。我々の思考、知識、印象、恐怖は何百万年もの間に増大してきた。我々に明らかにされているのは自分自身の過去、自分の人生、そして歴史。ここではリックのギーボード群が心の目の干満と深みに活力を与えてくれるだろう。探索すべき大洋。自然が心に与えてくれる印象に比べれば、時の流れの中のさまざまなポイントなど大した意味はないことを、希望とともに知るべきだ。その印象を常に心に留め、活用しなければならない。

 第三楽章 〈知識の広がり〉

 記憶の厳戒を越えて、古代はいまだに過去の遥か彼方にある。スティ―ヴのギターは、その古代の美と宝をはっきりと回想させる主軸となっている。インド人、中国人、中央アメリカ人、アトランティス人、これらの、またほかの地方の人々は、膨大な知識という宝庫を遺していった。

 第四楽章 〈知識の広がり〉

 儀式。人生における儀式を習得し知る自由を与える7音階。生きることは悪の根源と純粋な愛との間における戦いだ。アランとクリスは肯定的な根源を示し、新たなるものとして送出しようと奮闘している。我々は太陽の子。見者と成り得るのだから。

 これは本作「海洋地形学の物語」の内ジャケットに記載されている文章だ。ジョン・アンダーソンによるこの記述には、アルバム制作の動機とその制作過程、そして各楽章(各曲)の概要について触れられている。

 事実関係を照らし合わせてみると、イエスの面々は1972年9月に発表した「危機」に併せたワールド・ツアーの一環として、翌1973年3月上旬に日本に上陸している。よって、ジョンによる上記の“それは2月のことだった”という部分は、3月というのが正しいと思われる。いずれにしても、本作のコンセプトはなんと東京で具体化したということがわかる。また“米ジョージア州サヴァンナに到着する頃”とあるが、イエスはこの年、4月4日から22日までの約3週間にわたって7回めのアメリカ・ツアーを行っていたので、これは1973年4月時点でのことになる。同年5月、ツアーも一段落したイエスはしばしの休養を取り、モーガン・スタジオ委はいってのレコーディングを開始したのは7月下旬のことだった。レコーディングに先駆け、6月から7月にかけて約2カ月にわたり入念なリハーサルを行っている。レコーディングは9月下旬まで続き、アルバムが完成したのは1973年10月のことだった。構想に4カ月、リハーサルに2カ月、そしてレコーディングにさらに2カ月の合計8カ月が費やされ、本作「海洋地形学の物語」は完成したのだった。」イエス「Tales from Topolograrhic Oceans海洋地形学の物語」解説。

B.武器暴力はどういう文明か?

 人間が絡み合う社会現象において、ものごとは利害と理念で動くとマックス・ヴェーバーは言った。利害Interesseは、金銭や権益や威信といった社会的資源をめぐる争奪パワーの抗争である。自分の利益をどこまでも求めていくと、かならずそれを阻み対抗する他者勢力が登場してくる。それを解決するには、まずは話し合いであり交渉なのだが、それでうまくまとまるとは限らない。利害だけではなく理念idea、つまりどうしても譲れない価値観というものを人は持っているので、それを譲って合意するのは感情の上でも認めたくない。その結果、力を背景とした威嚇、憎悪からくる武器暴力の使用への誘惑が滲み出る。

 人類の歴史上、人に物理的に危害を加える武器というものが登場したのはいつからなのか。遺跡から出土した刀剣や戦闘で死亡したとみられる骨などから、それは狩猟採集社会ではなく、人が定住した農耕社会になってから、というのがどうやら考古学的事実らしい。武器暴力を組織的に使う技術、つまりある集団的目的のために戦争をするには、武器を持った兵士を命令によって動かすことのできる軍事的権力が成立する必要がある。日本ではどうだったのか?

 「論説委員が聞く 人はなぜ戦うのか :国立歴史民俗博物館教授 松木武彦さん

 戦争について思いを巡らす夏が来ました。そもそも人はなぜ戦ってしまうのか。それを考えることが戦争を抑止する一歩になるかもしれません。考古学の見地から、戦争について研究をしている国立歴史民俗博物館教授の松木武彦さん(57)と語り合いました。

早川由紀味 日本列島で集団的な戦いが始まったのは、朝鮮半島から渡ってきた人々が稲作文化をひろめた弥生時代だそうですね。

松木 紀元前十世紀後半に玄界灘を越えて九州に上陸したと考えられています。難民だったか開拓だったかは分かりません。水稲農耕のノウハウや技術とともに戦いの思考も携えてきた。それがなぜ分かるかというと集落の周囲に防御のための濠を巡らせています。遺跡からは武器も出土している。福岡県糸島市の新町遺跡からは、太ももに石を細く磨いた矢尻が突き刺さった四十代の男性の遺骸が見つかりました。

早川 それまで続いた縄文時代の狩猟生活の方が攻撃的なっても不思議はないように思うのですが。食糧の供給源は不安定だし、日常的に動物を殺している。稲作をすれば安定的に食糧が確保できるのに、なぜ戦いが生まれたのでしょう。

松木 世界的に農耕が始まると、人は戦い始めます。定住することで、水や土地などの不動産が生まれます。干ばつや飢饉の時には、不動産をめぐる争いが生じる。生活が安定することで寿命も延び、子どもも増える。人口が増えるとより広い農地も必要になり、隣から奪うしかないということになる。狩猟採集生活の時代は、人口も少ないし、四季折々の恵みもあるので何かが不足しても別のものでカバーすることもできました。農耕生活では、森を伐採して米を作り、それに依存しているので、不作だった場合は、経済的な危機が起こりやすいのです。

 さらに言えば、狩猟採集文化では、自分のことも生態系の中に位置付けており、食べる分だけ猟をする。それに対して、農耕は一つの植物を徹底的に管理する。生態系の外側で支配することで、人間中心の世界観が築かれやすいのです。それは他者を支配する世界観にもつながっていく。

早川 そもそもなぜ、戦いを古代研究の一つの柱にしようと思われたのですか。

松木 即物的なきっかけとしては、学部時代、アーチェリー部にいて、筋力を落さないため、発掘の合宿にも弓を持っていっていました。それを見た教授に「弓が出土しているから、それで卒論書かないか」と提案されたんです。子どもの頃、周囲に戦争の語りが満ちあふれていたことも影響しています。父方の祖父は神主で若者を戦地に送り出していた。母方の祖父はシベリアで抑留された。戦争って何なんだろうという思いが蓄積されていました。

早川 先日、百舌鳥・古市古墳群(四~五世紀)が世界遺産となりました。巨大な古墳も戦いの思考とかかわりがあったのでしょうか。

松木 古墳が巨大化したのは、奈良盆地の大王が中心となったヤマト政権が鉄を入手するために、朝鮮半島の諸国と協調したり、軍事力を派遣したりしていた時代です。倭軍特有のよろいが半島でも出土しています。半島での利権獲得のため、中国の王朝に使いも送っています。大阪湾岸に巨大な百舌鳥・古市古墳群が造られたのはそういう国際的な競争関係が背景にあったためでしょう。半島でも同じ時期、高句麗と百済では階段ピラミッド状、新羅は土まんじゅうの大きなお墓が造られています。

 ただ、朝鮮半島での戦いを経ても、軍備の革新には非常に鈍感でした。騎馬戦術を用いる高句麗に歯が立たなくても、その時と同じ重装歩兵用のよろいをその後も七十~八十年間作り続けている。山城など防御の施設も機能的には発達しなかった。島国で、他国から攻め込まれることをあまり想定していなかったのでしょう。防御への関心の薄さや軍備を改良していく柔軟性の欠如といった特質は、その後の日本のありようにつながっているようにも思います。

早川 第二次世界大戦(1939~45年)が始まる七年前の三二年、国際連盟から依頼を受けた物理学者のアインシュタインが心理学者のフロイトと戦争について往復書簡を交わしています。「人間を戦争というくびきから解き放つことが出来るのか」というアインシュタインの問い掛けに、「フロイトは攻撃本能を抑制する文化の発展に希望を託しています。でも弥生より前の縄文時代に組織的な戦闘がなかったとするならば、地代が進めば文化が発展するとも言い切れない気もします。

松木 「平和」は考古学には痕跡が残りにくい。武器がなければ平和ととらえるしかないのですが、武器をつくっていなかった縄文への憧れがあります。戦争という観念がなく、暴力で上下関係をつくらず、支配もしない。飢餓などもあっただろうし、早くに亡くなるし、あまり美化してはいけないのですが。人間だから競争心はある。それをどこに投入したかといえば土器です。世界各地のネーティブ(先住民など)の文化を調べた民俗学の研究からは、土器は女性がつくる場合が多いことが分かっているので、縄文もその可能性が高いと考えられます。見事な土器を作る競争を通じて、女性が威信を獲得する社会だったのかもしれません。

 稲作をもたらした渡来人と縄文人との間には部分的には戦闘があったかもしれませんが、短期間で縄文人も農耕を取り入れ、弥生の農耕民として溶け合っていったと考えられています。縄文と弥生とでは世界観が変わり、弥生は好戦的になる。パソコンでいうと機種としてはつながっていても、それを起動させるソフトが違う。

 古墳時代も四世紀後半ぐらいまでの最初の百年は、地域の有力者とみられる古墳の埋葬者のうち四割は女性でした。女性の場合は副葬品に甲冑などの武器がないので性別が分かるのです。朝鮮半島に乗り出すなど軍事の存在感が増すにつれ、男性の支配が勝っていった。

早川 地域のリーダーの四割が女性ですか……。指導的地位に女性が占める割合を三割にすることがいまだ目標とされている現代の日本よりマシかもしれない(笑)。「弥生ソフト」のバージョンアップのたび、好戦的・男性優位の世界観が徐々に強まっていったのかもしれないですね。今、七十年以上戦争をしていないことは、戦争をたたえたり必要としたりする文化を次世代に引き継がないという意味で貴重だと思います。

松木 2011年にスティーブン・ピンカーという認知科学者が「暴力の人類史」という画期的な本を書いています。古代から現代までの間に、戦争につながることを喜ぶ人間性や、暴力は減少していると彼は書いています。ローマ帝国時代には奴隷同士の殺し合い競技に拍手を送っていました。現代の暴力を嫌がる心は、動物愛護や男女平等などの概念の拡大にも表れている。未来もその傾向が強まるだろうし、これこそ人類の進化であると。ただ、日本についてどうかというと、死刑は存続し、男女平等は進まず、商業捕鯨が復活している。彼の論法を用いれば、日本はまだ進化の前段階かもしれません。」東京新聞2019年7月27日朝刊、4面考える広場。

 武器暴力の組織化、つまり軍隊を持ちたい、紛争の解決に軍事力を使いたい、という密かな願望は自分の手で政治を動かしたいと考える政治家の最大の誘惑要因である。先頃ロシアの占有する北方領土に行って、そこを故郷とする人びとに向かって「取り戻すには戦争するしかない」という意図の発言をした若手政治家の頭のなかは、拳銃を握って強くなったような気分ではしゃぐ子ども同然である。これが冗談で終らないのは、自衛隊を憲法に書き込んで、対外交渉に軍事力の威嚇を使いたいと考える首相の願望に無縁ではないと思えるからだ。強力な武器を実際に持てば、外交交渉における威嚇によって相手に戦争を思いとどまらせるため、といいながら双方に憎悪と軍拡を加速させ、結局は戦争に踏み切らせるに至る歴史が繰り返されてきたことは明らかだ。核兵器はこのジレンマの象徴であり、兵器を扱う人間の肉体的限界をとっくに超えたイデアの戦争バーチャルの次元になっている。しかし、それは21世紀の現実であり、この先悲惨な戦争が地球上のどこでも起きないとは誰も言えない、というのが恐ろしい。

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プログレの時代 Yes 3  経済成長というまやかし

2019-07-25 03:15:54 | 日記

A.「初来日」というインパクト

 これももう老人しか知らない昔になってしまったが、東京オリンピックが1964年10月に開かれる頃、紅毛碧眼の外国人がまだ身の回りにはいなくて、東京でも「ガイジン」というだけで引いてしまう日本人が多く、オリンピックでたくさん外国人が来るというので道案内程度の英会話を勉強しましょう、などと言っていた。日本人の多くには外国旅行など夢の夢であったような時代であった。あの頃は音楽でも「邦楽」という言葉は、江戸以来の三味線や琴や都都逸や新内といった純和風音曲のことを意味し、いまのJ-ポップにあたる曲は「歌謡曲」とか「流行歌」とか呼んでいた。

 戦後のGHQ占領時代に、アメリカの「流行歌」つまり、1950年代のスウィング・ジャズや、ハリウッドの映画音楽などが入ってきて、こじゃれた日本の中産青少年にアメリカン・ポップスの翻訳歌謡が広がりはじめ、60年代には米国製ロックンロールがプレスリーとともに日本の歌謡界にもブームをもたらした。そこまではたぶん、イギリスやヨーロッパ諸国の戦後大衆音楽の動向とさほど大きなずれはなかったと思う。多少の時差はあったにしても、戦後生まれの青少年たちのうち、ラジオで流れる陽気なアメリカ音楽を聴いて育って、自分もなにか楽器をやってみようとしたとんがった若者が、あちこちで自分勝手にバンドをやりはじめたのも、1960年代なかばからだろう。そして先頭を切ってメジャーなアイドルになったのが、いうまでもなくイギリス出身のビートルズだった。

 ビートルズ以後、エレキギターを抱えて自分たちで作った曲を演奏する「ロック」こそ、若者が好む最先端の音楽になったことも、改めて言うまでもないだろう。だが、どんなアートでも、ある傾向を前面に出したジャンルなり運動なりが、そのまま10年鮮度を保って存続するのは難しい。熱狂するファンというものは、大騒ぎで飛びついてスターを追い廻すくせに、やがて年齢を重ねるとともに二つに分かれる。ひとつは、自分が熱狂した記憶だけに愛着を感じて、それ以後の変化を認めない方向。もうひとつは、自分が熱狂したことを恥じてさっさと過去を忘れて新しいものに気を移す方向。

  ビートルズが日本に来たのは、東京オリンピックから2年後の1966年6月。大変な騒ぎだった。日本武道館で開かれたコンサートは、若者で溢れ返ったが音楽を聴くという環境ではなく、4人の実物がそこにいるという興奮とヒット曲を確認するファンの絶叫で終った。それに比べると、7年後のイエスの日本公演はずいぶん違ったものだったのかもしれない。なにしろ、ビートルズは来日時、大きな社会現象として一般大手メディアが報道して、ファンでなくても誰でもその名を知っていたが、プログレの時代が始まっていた1970年代初めには、イエスを聞いたことのある日本人は、ごく少数でメディアもほとんど採り上げず、マニアックなロックおたくだけが公演に詰めかけた。

 1973年3月にイギリスのロック・バンド「イエス」は初来日した。この時点で、のちにイエスといえばこれが最高傑作と言われるようになるアルバム「Fragileこわれもの」と「危機Close to the Edge」は前年1972年に発表されてはいたものの、日本の洋楽ロック・ファンには、「In the Court of Crimson Kingクリムゾン・キングの宮殿」('69)でびっくりして、ピンク・フロイド「Atom Heart Mother原子心母」(‘70)で「いやあ、これが新潮流プログレかあ」と気がつき始めた頃。まだイエスがどういう音を出すバンドかは、ほとんど知られていなかっただろう。その当時の雰囲気は、イエス日本公演のために書かれたパンフレットの次の文章に名残をとどめている。

 「イエス――Yes,Exquisite & Superb!     今野雄二

 実際、イエスに捧げるべき賛辞を数えあげてみても限りがありません。おそらくこの世に存在するすばらしい形容詞のことごとくがイエスという稀有のロック・バンドの音楽美に吸収しつくされてしまいそうです。  かねて、ロンドンのロック界の消息に詳しい知人から、イエスの音楽のすばらしさを吹きこまれていたぼくですが、それにしては、イエスとぼくの出合いはずいぶんと長い回り道(Long Distance Runaround)を経たようです。というのも、あの『こわれもの』のアルバムに接して初めて、ぼくはイエスの持つ魅力に目覚めさせられた、いわば遅れてきたイエス・ファンだからです。 それにしても、『こわれもの』の衝撃的な感動を表わすのは至難の業です。その感動を言葉で表現するなどという次元を突き抜けたところに、イエス・ミュージックのもたらす感動の本質が潜んでいるような気がするのですが、まったく、イエスの作品は不滅の生命を誇る古典音楽を彷彿とさせる深みを備えているのです。『危機』を聞くまでもなく、イエス・ミュージックが古典的な骨格の上に、未来へ向けられた壮大なスケールに基づく視点をしっかりと兼ね備えている事実は、明白です。その、イエスの宇宙とも呼ぶべき世界が5人の若者たちによって、確固とした護りを得ている事実は、さらに明白です。おそらく、イエスほど、個々のミュージシャンに抜群のテクニシャンを擁したロック・バンドは他に例を見ないでしょう。

 ジョン・アンダースン(ヴォーカル)、ビル・ブラッフォード(ドラムス、但し現在はアラン・ホワイトと交代)、クリス・スクワイア(ベース)、スティーヴ・ハウ(ギター)そしてリック・ウェイクマン(キーボード)という5人が各々、ソロ・パートをフィーチャーした『こわれもの』はその自信のほどを何よりも雄弁に物語っています。 中でも特筆に値するのはウェイクマンと言うべきでしょう。ブラームスのスケルツォをシンセサイザーを始め各種キーボードに分解し再構築した演奏には、まさにウェイクマンの魅力のすべてが結集されています。 いまほどポピュラー・ミュージックに夢中でなかった頃どっぷりひたっていたブラームスを、ストローブスの頃から注目してきたウェイクマンがとりあげたことが、ぼくにとっては尚一層の魅力を感じさせたのかもしれません。アムステルダム公演のイエスのステージをレコード化した‟WHITE YES ALBUM”で、このウェイクマンのキーボード・ソロはさらに華麗なる成長ぶりを示しています。そこではシンセサイザーとメロトロンを同時に演奏するというアトラクションが展開されているからです。

 おそらく、イエスのステージの楽しみは卓越したヴォーカリストのアンダースンを上廻って、ウェイクマンの美しい金髪をふり乱した活躍ぶりにあるのではないか、と思います。だからと言って、メロトロンやシンセサイザーのエレクトロニック・サウンドのみに心を奪われないように気をつけなければいけません。ピアノの澄みきった音に、またハウのアコースティック・ギターの透きとおった響きに、ぼくはあの『危機』のジャケットさながらに徐々に透明度に向かって色を失っていくグリーンのはかなさを〈見たい〉と思うからです。 イエスの音楽は人生を描き出します、人生――そのもっともはかない美の一瞬を。その一瞬を捉えようと、ぼくはまた何度もイエス・ミュージックを繰り返し聞き続けることになるでしょう。」今野雄二「特別掲載1973初来日によせて」(文藝別冊「イエス プログレッシヴ・ロックの奇蹟」河出書房新社、2016) pp.116-117.

 当時メディアで音楽評論家として知られていた今野氏は、『こわれもの』の収録第2曲Cans and Brahmsがまず気になったらしく、この文章ではリック・ウェイクマンを重点的にとりあげている。ブラームス交響曲4番の第3楽章をほぼそのまんま、キーボードで弾くだけのこれが、ロックというクラシックとは正反対の野蛮で単純でパワフルな音楽というステレオタイプがあったからこそ、ブラームス!が出てきただけでびっくりしている。でも、これは『こわれもの』というアルバムが、製作時間が足りなくて、半分仕方なくメンバーのそれぞれのソロを、全員合奏の大きな曲の間に挟んだという事情の結果であって、ウェイクマンがさほど真剣にやっているとも思えないし、ブラームス4番の3楽章は、アレグロ・ギオコッソとなっていて、3拍子系スケルツォではなくスケルツォ風に演奏するというだけだ。つまり、この来日公演当時の日本では、今野氏の文章にも「プログレッシヴ・ロック」という用語は登場していない。ただ、逆に、クラシックを弾くだけのテクニックがある、ということがイエスの名声を高めてしまった。つまりちゃんと楽譜が読めて、コードを鳴らすだけじゃない早引きのアルペジオみたいな技をみせびらかして、長大なシンフォニックな響きを煌めかせるバンドは、ビートルズ、ストーンズ以来のロックとは違う、なにかハイ・ブラウなものだと思わせたのだった。それがつまり「プログレ」というわけだ。

 LPレコードで、大きなジャケットにロジャー・ディーンの目の覚めそうなイラストがあって、それに針を落として、始めから終わりまで目をつぶって聴く。それって、3分か4分で終るシングル盤のヒット曲とは全く違う聴き方をしなければならない。いわば、クラシックの交響曲を第1楽章からじっくり聞いてフィナーレで拍手するという鑑賞態度に近いものを要求される。考えてみれば、これがロックで成立したとすれば、70年代プログレってかなり奇妙な音楽だったかもしれない。

B.参議院選挙は結局どうってことなく終わったのか?

 選挙では劇的なことなどなにも起きない、ということを確認したような選挙だった。1人区で野党統一候補を立てて、それなりの戦績を上げ、安倍政権の政策継続と国会の現状維持を追認しつつも、改憲派の3分の2は阻止したというのが大方の総括だ。でも、それなりに新たな視点とこれまでにない兆候があったのだという記事が朝日新聞に載っている。

「耕論 選挙戦で見えたものは: 社会運動家らの課題提起 ようやく光  稲葉剛さん  今回の参院選では、野党が「2千万円問題」で与党を攻め立てる構図が見られました。年金だけでは老後の生活を支えられないのではないか、という有権者の深刻な不安を背景にした批判です。

 2千万円問題があぶり出したのは、日本社会の「中間層」にあたる人々が経済的にやせ細り、その地盤沈下がいよいよ隠せなくなってきているという実態でしょう。実際、この十数年間に日本では、貧困の問題が拡大してきています。

 選挙戦で示された野党の主張を見ていて依然と変わりつつあるなと感じたのは、住いの問題に光が当てられ始めたことです。賃貸住宅で暮らす世帯への「家賃補助」が掲げられたり、低家賃の「公的住宅」を拡大する政策が訴えられたりしていました。持ち家を奨励する政策が中心で、賃貸住宅での暮らしを充実・安定させる政策が手薄だと言われてきた日本にあって、ようやく住宅政策の見直しが意識され始めているのです。

 個々人の収入を増やす政策や生活保護などの福祉政策だけではもはや足りないことが明らかになり、生活の根幹である「居住」のありようを見直すことも必要だという認識が広がっている構図です。

 振り返れば、日本社会で貧困の存在が可視化されたのは今から10年ほど前のことでした。派遣切りに遭った人たちを支援する派遣村が設けられ、注目を集めたことが契機になっています。

 この10年間に起きた変化の一つは、絶対的貧困と呼ばれる問題の改善です。貧困に苦しむ人々への支援が広がり、路上生活者がこの時期に約5分の1に減っていることが象徴的です。もう一つ起きたのが、相対的貧困の増大です。生活が苦しいと感じる人が増えてきたのです。相対的貧困の問題が深刻化したのは、政府の政策によって非正規労働が拡大されたことが要因だと私は見ます。目的は、企業の人件費負担を圧縮するためでした。

 中間層に持ち家を持たせることを支援する従来の住宅政策は、正規労働者を中心とする「日本型雇用システム」の存在を前提にしていました。30年以上もの長期間にわたって住宅ローンを支払い続けられる労働者が必要であり、終身雇用と年功序列を特徴とする旧来の雇用システムが、それを支えていました。また住宅費と並ぶ重い負担である子どもの教育費についても、年功序列の賃金上昇でカバーできました。かつて老後が安定していたとすればそれは、ローンを払い終えた持ち家と、夫婦2人分の生活を支えられる年金があったからだと思います。

 この旧システムの特徴は、住宅や教育への重い出費を各世帯が「賃金収入から払う」ことでした。しかし、それが成り立つ前提は2000年代を通じて崩れました。非正規労働が広がり、住宅費も教育費も賃金収入で担う方式の無理があらわになった。家賃負担や公共住宅の充実といった政策が提示され始めたのは、そうした社会の変化を映したものです。

 非正規労働の拡大によって従来の日本型雇用システムは崩壊しました。にもかかわらず、政治は人々の生活を支える新しい仕組みを提示できず、従来のシステムの手直しにとどまっています。こうした現状が、いま日本を覆っている行き詰まり感の根っこにあると思います。

 社会をより良くしようと活動する人々と多く出会っていて少し不安を感じるのは、NPOや社会的起業による民間の創意工夫は高い関心を向ける反面、政府の政策を変えようとする動きが低調な傾向です。政治へのあきらめがあるのかもしれませんが、民間だけでは貧困は解決できません。貧困のような構造的な問題を解決するには、政府の巨大な力を活用して普遍的な支援の体制を築きあげていく作業がやはり欠かせないのです。

 生活への公的な支援を充実させる方向に政府の役割を変えるべきだという異議申し立ては、参院選での議論にも表れたと思います。ただ、それが旧システムの終わりの始まりになるかは未知数です。投票率は低く、日本では自己責任論が広がり、社会としての連帯感は10年前より後退している印象さえあるからです。

 先日、元ハンセン病患者の家族を支援する方向に政府が政策を転換しました。参院選を意識したものだと言われましたが、長年にわたる当事者や支援者の地道な活動があっての転換だった事実を忘れるべきではありません。日本では社会運動が弱いと指摘されますが、今回の転換から見えたのは、この社会にも「課題を設定する力」はあるという事実です。

 問題は山積みですが、社会運動による課題提起の力を、野党の公約だけでなく現実政治の転換にまでつなげていければと考えています。 (聞き手 編集委員・塩倉裕)」朝日新聞2019年7月23日朝刊17面、オピニオン欄。

 投票率は毎回前回を下回る状況を嘆くだけでは、空しい。選挙に行かないマジョリティは、中央の政治に何かを期待してもしょうがない、という醒めた意識に取りつかれているのか、それとも「安倍的なもの」に他よりましなポジティヴな改革を期待してあえて投票しなくても自民党は勝つと思っているのか、選挙によって統治のシステムを維持する現在の政治自体になんの価値もないが他に選択肢がないから選挙なんかばかばかしいと考えるのか。そもそも政治を考えることに全く興味がないのではないかとすら思う人たちはいる。

 「耕論 選挙戦で見えたものは: 目先の「経済成長」訴え 抱え込むリスク 藻谷浩介さん  そもそも経済は「生きもの」です。政治の過度な介入は経済の活力を失わせます。仮に政策を総動員して好景気にしたとしても、景気の循環によって、何年か後には必ず不景気が訪れます。だからこそ、過去の政権は経済成長を数字で公約にすることは避けていたのです。

 そのタブーに挑んだのが、2012年に誕生した第2次安倍政権です。以来、国政選挙のたびに「経済成長」を正面に掲げて、勝ち続けてきました。 この言葉を、消費税や年金、格差拡大、マイナス金利政策の是非といった複雑な問題を見えにくくする「魔法の言葉」として使ってきたのです。そして、今回の参院選でも勝利をおさめました。 安倍晋三首相は、経済学界では少数派である「リフレ論」を深く信じ込みました。日本銀行による「異次元の金融緩和」が緩やかなインフレをもたらし、購買意欲が刺激されれば、内需が拡大し、経済が持続的に成長するという考え方といえます。確信したがゆえに、安倍首相は真摯に経済成長を訴え続けました。多くの有権者は理論をよくわからぬまま、その「真摯さを信じた」といえるのではないでしょうか。 では、現実はどうだったのか。株式の時価総額はトランプ政権の景気刺激策や日銀や公的年金を動員した買い支えもあり、12年から18年にかけて、年率16.1%も伸びました。同時期のGDP(国内総生産)の成長率は、政府が積極的な財政出動を続けた効果もあり、年平均で1.7%となり、名目上の経済成長は実現しました。ただ、当初目標の3%にはほど遠い。その間に政府の純債務が年率2.5%増えたのに比べても、効率が悪いものです。同時期、個人消費は年率で0.9%しか伸びず、多くの国民や企業には、戦後最長ともされる「好景気」の実感がありません。一部の大企業や投資家は大きな利益を上げたものの、そのもうけはためこまれたままなのです。

   今回の参院選で、安倍政権はアベノミクスにより、若者の就職率が改善したことを強調しました。しかし、これは半世紀近く続く少子化で新規学卒者が年々減るとともに、団塊世代の最終退職によって労働市場が極端な人手不足になったことが主な要因です。実際問題として44歳以下の就業者の数は減り続けており、企業経営や消費の足を引っ張っています。

 とはいえ、安倍政権下において内需とGDP はかろうじて増え、マイナスにはなっていません。  投票率が低かったのは、政権の「針小棒大な」成果の宣伝にしらける一方、あえて「反対票」を野党に入れるという気分にもならず、投票に行かなかった有権者が多かったためではないでしょうか。  今回の参院選でもカギとなった「経済成長」ですが、それが実現したからといって、いろいろな問題が自動的に解決するわけでは決してありません。

 例えば、参院選の争点のひとつになった「老後の2千万円不足」に象徴される年金不安があります。原因は長引く少子化で現役世代の数が減る一方、長寿化で高齢世代の数が増えていることです。

 そんな中で、安倍政権の掲げる「2%インフレ」が達成されれば、年金の給付水準を自動的に調整する「マクロ経済スライド」が発動し、物価は上がっても年金は増えません。他方、消費増税で年金受給世帯の負担感は増すことになり、「ダブルパンチ」になります。このことを理解して今回投票した年金生活者はいったいどれだけいたのでしょうか。

 理解されていないのは、日銀の「異次元の金融緩和」の副作用も同じです。インフレになって金利が上がれば、国債の市場価格は下落します。400兆円以上を保有する日銀は債務超過となり、その発行する日銀券(お札)の価値が下落しかねません。わずかばかりの経済成長のためにとんでもないリスクを抱え込んだのが、「アベノミクス」の実態です。

 本来、政治が取り組むべきは抽象的な「経済成長」などではなく、女性と若者の賃上げによる内需拡大、これ以上の少子化の食い止めです。だからこそ、この参院選で多くの政党が最低賃金の引き上げを訴えたのです。様々な少子化対策の公約が打ち出されたことも評価はできますが、まだ濃淡があります。  アベノミクスのように、政府の借金を増やし、日銀の財務の健全性も損なってまで、目先の経済成長を求めることは、来たるべき反動への不安をかきたてて、少子化を進めることにつながり、長期的な日本の反映にはマイナスです。後世に「経済成長の早期達成を安請け合いする公約には要注意」という教訓が残れば、せめてもの救いなのですが。 (聞き手・日浦統)」朝日新聞2019年7月23日朝刊17面、オピニオン欄。

 「専門家」の解説が現状を冷静に正確にみるものであるなら、それは読むに値するし、ぼくたちの判断に影響を与えるはずだと思う。しかし、それにもかかわらず候補者の演説やテレビのコメンテーターなどが発言している内容は、きわめて思いこみだけの素人の議論としか思われないものが多い。落選した人はそれで言いたいことを言って気が済めば無害に近いが、おかしなことを考え発言する人がなぜか当選する場合がかなりある。これは、国会の劣化につながるし、現に失笑を買うだけでなく国際問題にすらなりかねない言動をする問題議員もいる。

 この日本総研主席研究員藻谷氏のここでいっていることは、かなりまともな議論として、説得力があるとぼくは思う。安倍政権が自慢するアベノミクスの成果、そしてなんとなく「経済成長」こそがすべての課題を解決する唯一の手段であるという言説が、もともと一種の妄想に近いことは、はじめからわかっていたけれども、それでもこの主張に日本の有権者の過半数が疑いをもっていないらしいことは、やはり「専門家」つまり企業応援団エコノミストではない、プロの経済専門家がちゃんと指摘し説明する必要が大いにあると思う。力強い経済成長は可能であり、経済成長すればほとんどの問題は解決に向かい、日本は安定する、などと今この状況でいうことは、詐欺みたいなものだと。

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プログレの時代 Yes 2  お薦めできない進路

2019-07-22 22:09:48 | 日記

A.イエス入門の「現在性」

 半世紀、つまり50年前に流行っていたことは、当然今の50歳代以下の人たちには生まれる前の出来事で、たんなる知識として知ってはいても、自分になにか意味のある、具体性としてつながってくるものではありえない。50年前にティーンエイジャーだったぼくなども、その時点で、半世紀前の大正の終わりから昭和のはじめ頃の時代の流行が、どんなものであったかなど、何も知らなかったしまったく興味はなかった。それどころか、音楽について振り返れば、ほんの10年前までの昭和30年代のヒット曲すら、ひどく古めかしい演歌歌謡曲かアメリカン・ポップス曲を真似しただけの軽薄な曲で、おれたち若いもんは、もう自分でギター弾いてフォークソングを歌うんだぜ!という陽水・拓郎が出てきたのを喜んでいたのだった。その頃、イギリスの若いもんは、もっぱらアメリカのポップ・ヒット曲やR&B、そしてロックンロールをラジオで聴いて、俺たちもこういうのやれんじゃね、と思っていた矢先、素人バンドのビートルズが一躍世界に躍り出て、大ブームを巻き起こしたロックの嵐を追いかけることになった。そして、1970年代が彼ら「プログレ」の短い黄金時代になる。労働者階級からロックは生まれたけれども、次はミドルクラスの音楽をたくの実験場になった。

 いつの時代も、新しい流行は先行世代の硬直したマンネリに飽きた、若いもんのまぐれ当たりから始まる。それが同世代の若いもんを熱狂させ、世界中でまたたく間に広がったのは、レコード産業とテレビ映像と野外ロックコンサートが実現した1960年代末の、あの男の子が髪の毛を長く伸ばしたむさくるしい狂騒の季節だった。でも、どうしてあの中から「プログレ」は一ジャンルを築くまで支持されたのか?ある意味で謎だが、また別の意味で今になってなるほどと解ることもあるのだ。

 

 「『リレイヤー』の後しばらくして、ジョン・アンダーソンが抜けてしまうんです。このへんは事情が複雑で、アンダーソン以外のメンバーがイエスを勝手にやっていたように見えなくもない。その後イエスはバグルズというバンドの二人を迎えて『ドラマ』というアルバムを作るんですが、これはかなりポップな作品で、個人的には大好きですね。ただ、昔からのプログレ・ファンには受けなかった。有名な話ですが、このとき新しいメンバーでライヴをやったら、バグルズの二人は観客席からいろんな物を投げられたりしたそうです。あそこでジョン・アンダーソンがいないままバンドが展開していたら、ちょっと面白いことになっていたかもしれません。でも結果的には、ジョン・アンダーソンが戻る。そしてバグルズのトレヴァー・ホーンがプロデュースをして「ロンリー・ハート」を作るんです。このタイトル曲が大ヒットした。わかりやすい曲で、プログレであるにもかかわらず、当時はディスコでプレイされるほど売れた。こうしてイエスは復活を遂げたわけです。昔、イエスのメンバーにインタビューしたとき、バンドの長い歴史の中で、大きな転換点がニ回あったと言っていました。一度目は、サード・アルバムのあたりでプログレッシヴになったとき、二度目が『ロンリー・ハート』の頃だそうです。『ロンリー・ハート』は83年発表で、いわゆるプログレ受難の時期ですよね。大作主義は格好悪いという風潮のなか、ポップな『ロンリー・ハート』で復活したわけです。

 たぶんこのあたりで、イエスのメンバーたちは、人が替っても音楽性を保てば何とかなるということを感覚的にわかりはじめたんでしょう。さらに、そのあと入ったトレヴァー・ラビンというギタリストがわりあい器用な人で、音楽性のほうに自分を合わせることができた。彼が中心になって作った87年の『ビッグ・ジェネレイター』は、とてもよくできたアルバムだと思います。見方によっては、黄金期の自分たちの音楽のセルフ・コピーにハード・ロック感覚を加えただけのようにも感じられますが……。そういえば、このアルバムが出たとき、僕は雑誌の評にそういうことを書いたんですよ。黄金期の自分たちを真似しているだけで、よくできているけど可能性はあまり感じないアルバムだと。でも、いま思うと逆に、音楽性を変えないところが、実はイエスの素晴らしいところだったんですね。

 

――サード・アルバムの頃にプログレッシヴになっていったのには、どういう影響があったのでしょうか。

 

 それもメンバーの人たちに訊きましたけど、口を揃えて言っていたのは、時代の流行、潮流だということでした。バンド結成時には、サイモン&ガーファンクルやCSN&Yみたいなものをロックっぽくやろうとした。それからフィフス・ディメンションなんかも好きで、コーラスの入った曲をやろうとしていたようです。ところが60年代の終わりになると、同じイギリスにプログレっぽいバンドがたくさん出てきて、ああいうふうにやろうじゃないかとなったようですね。

 ここで面白いのは、イエスって全員演奏が上手なんですけれども、個性がありすぎるというか、ものすごく偏ったプレイヤーばかりなんです。奇跡的に同じバンドに集まったから成功したけれど、他のバンドにいっていたら失敗していたかもというメンバーばかりですね。まずヴォーカルのジョン・アンダーソンは、すごく綺麗な声が魅力的なんですけれども、あの声ではブルージーな泥臭い曲は歌えない。ですからイエスの曲は必然的に、メロディラインのはっきりした、クラシカルで上品なものになるわけです。バンドに最初からいたクリス・スクワイアというベーシストがまた曲者で、上手だと思うんですけど、本当に一種類の演奏しかできないんですよ。ディストーションをかけてハードに弾く。音色面ではザ・フーのジョン・エントウィッスルからかなり影響を受けていると思うんですが、全然ブルージーじゃないですよね。たまには違う音色で弾いてみたらと言いたくなるくらい、一貫して同じ音色で、しかもブルースっぽくないので、彼のベースでバンドのサウンドが決まってしまうんです。そこに今度はビル・ブルーフォードというドラマーが途中から加入する。この人も不思議な人で、めちゃくちゃ上手いんですけどブルースが苦手です。この人の有名なエピソードで、十代の時にサヴォイ・ブラウンというブルースのバンドに入るんですがブルースが叩けないということで、クビになったとか、自分から辞めたとかいう話があります。まったくスウィングしないドラムなんですね。でも、ものすごくうまい。後の時代のプログレ・バンドのドラマーは、皆この人を真似しているみたいなところがある。極端なことを言えば、この人がいなかったらプログレッシヴ・ロックはジャンルとしてこれほど栄えなかったでしょう。この三人が出会ったというだけでも驚くべきことですが、さらにスティーヴ・ハウというギタリストが加わる。この人がまた独特で、やっぱりブルースを弾かない。コード弾きをしない人なんです。クリス・スクワイアのベースは分厚い音の壁を作るタイプで、そこにギターがジャーンとコードを弾いてしまうと、ただ暑苦しいもっさりした音になると思うんですが、スティーヴ・ハウはコードを弾かず、短音でめちゃくちゃ早く弾く。偶然だと思うんですけど、それがすごく合ったんです。もうこれは天の配剤というしかないですね。

 ただ不思議なのは、プレイ・スタイルはアンチ・ブルース的であるにもかかわらず、本人たちはブルースの延長にある音楽を――具体的にはロックンロールをやりたがる。僕の一番好きなイエスのアルバムは『こわれもの』なんです。正統派プログレ・ファンの間ではこのアルバムの最後に入っている「燃える朝焼け」という大曲が人気ですが、僕はむしろポップな短いナンバーが好みで、「ラウンドアバウト」「南の空」「遥かなる思い出」の三曲がすごく好きなんです。どれもポップで、ちょっとロックンロールっぽいんですよ。ブルースが苦手で黒人音楽とはかけ離れた世界の人たちが、一生懸命ロックンロールをやっている。すると非常に奇妙な感じで、熱気はあるんですけど、黒っぽさがないんですよね。ものすごく不思議な音楽なんですけど、これがワン・アンド・オンリー的な魅力になっている。さっき言ったLP時代に通じる話ですけど、長いスパンでロックの歴史を見た時に、この二〇年くらいでグローバル化みたいなことが進んでしまっていて、日本のミュージシャンでも、たとえばソウルや黒人音楽が好きだという人は、メンテリティの部分から黒っぽくなっていたりする。英語の発音がいいのももちろんで、本当に脱日本化していてすごいなと思うんですけど、一方で、たとえばかつてのはっぴいえんど系の人たちなどは、メンタリティが日本人なんだけど洋楽に憧れていて、そのアンバランスでギクシャクしたところから面白いものが生まれていた。実は70年代のロックバンドにはそういうものが多くて、イエスもその一つだと思うんです。当時のイギリスのミュージシャンの多くは、50~60年代にラジオでかかっていたソウルやR&Bを聴いて育ったという人たちがほとんどで、たぶんイエスのメンバーたちもそうだったと思います。ところが自分で楽器を持って演奏すると、好きだからというんでロックンロールをプレイするんだけど、まったく黒人音楽風にならない。異文化に憧れるんだけど、異文化を完全には体得できないわけですね。そこで苦労する。そこにギクシャクしたような歪んだ感じがあって、ところがそれが面白いものを生む。これはある意味で永遠の課題なんですけど、たとえば明治時代の初めに、それまで日本画を描いていた人たちが、西洋画に憧れて、西洋画を描こうとする。ところが日本画的な感性が身に染みついてるから、ちょっと変わったものが出来てしまう。でも、その歪みがすごく魅力的だったりするじゃないですか。ああいうものに近い感じが、イエスにはあると思うんです。異文化との接合のしにくさみたいなものを引きずったまま、それを解決しようとするエネルギーがよい曲を作らせて、その曲を模範にして何十年もやっている。そういったところがイエスというバンドの不思議な魅力なんだと思います。

 

――メンバーの出入りの激しさについて。

 イエスの場合、一度脱退したメンバーが数年後に戻ってくるということが実に多い。メンバー交替ではなくて、まさに「出入り」ですよね。辞めても戻ってくるというのは、なんだかんだいって自分の実力をいちばん発揮できる場所はイエスだということを、わかっているメンバーが多いということなんでしょうね。たとえばベーシストのクリス・スクワイアですけど、さっきも言ったように一種類のプレイしかできない人なんで、イエス以外の場では自分が生かせない。だから、これだけキャリアの長い人なのに、ソロ・アルバムはちょっとしか出していません。ジョン・アンダーソンの場合、ソロ・アルバムの枚数は多くて、ジョン&ヴァンゲリスのいくつかの作品みたいな傑作もあるんですが……、ただ、彼があの声で歌うと、どんな曲もイエスになってしまう。だったらイエスで歌った方がいいや、ってことになりますよね。スティーヴ・ハウも、やっぱりイエスでのプレイが一番という人で、たとえばエイジアの作品なんか聴いていても、彼がソロを弾き始めると途端にイエスになっちゃう。個性が強すぎるんですよね。ただ、ハウという人は、ギタリストとしてだけでなく、サウンド・メイカー的な実力も持っていると思います。たとえば、99年にソロ名義でリリースしたボブ・ディランのカヴァー集『ポートレイツ・オブ・ディラン』などは、隠れた名盤だと思います。

 反対に、イエス以外でも良い仕事をしているのが、ドラマーのビル・ブルーフォードと、キーボーディストのリック・ウェイクマンですね。ブルーフォードはキング・クリムゾンの作品で数々の名演奏を残していますが、それ以外にもソロ作品がものすごく充実している。個人的には、自身のバンドを作って最初のニ作、『フィールズ・グッド・トゥ・ミー』と『ワン・オブ・ア・カインド』というのが好きで、これは英国風ジャズ・ロックの名盤だと思います。上原ひろみあたりのファンが聴いても、けっこう楽しめると思いますよ。それからキーボードのリック・ウェイクマンですが、この人だけは、他のイエスのメンバーが「これしかできない」という中で、唯一例外的に何でもできるというタイプの人。もともと楽譜に強くて、イエスに入る前は何百枚というアルバムのレコーディングに参加していたと言われているくらいで、セッション・プレイヤーとしてめちゃくちゃ有能なんです。ライヴの映像を見ると、派手な服を着てたくさんのキーボードに囲まれていて、一見すると目立ちたがり屋なのかと思いますけど、実は他のプレイヤーを立てて邪魔しないように弾くのが上手い人なんです。この人がキーボードというのが良かったですね。スティーヴ・ハウと同じくらい個性的なキーボーディストだったら、完全に喧嘩になっていたと思います。実際、ウェイクマン脱退後の『リレイヤー』ではパトリック・モラッツというキーボーディストが入るんですけど、この人は上手いんだけれども目立ちたがり屋で、個性的な演奏をする人なんです。だから『リレイヤー』は、メンバー同士のバトルみたいになっている。これはこれで面白いんですが、曲のまとまりという点ではいまひとつ。ウェイクマンのおかげで曲がまとまっているというところが大きかったんですね。ウェイクマンに興味がある人は、彼が参加しているイエス以外の作品がたくさんありますので、ぜひ聴いてほしい。僕がお薦めしたいのは、一つはシングルで、キャット・スティーヴンスというシンガー・ソングライターの曲です。日本でもコマーシャルでよく使われましたが、「雨にぬれた朝(Morning Has Broken)」、あのイントロがリック・ウェイクマンなんです。スタジオでアドリヴで弾いたらしいんですが、これはもう素晴らしい。もう一つはデヴィッド・ボウイの初期の作品『ハンキー・ドリー』。全体がフォーク・ロックっぽいアルバムなんですけど、ほぼ全曲で、素晴らしいアコースティック・ピアノを弾いている。ちょっと大げさに言うと、ウェイクマンという人は、70年代イギリス・ロック史の大事なところをキーボード・プレイで押さえているともいえますね。

 

――これからイエスを聴く人へのおすすめは?

まず一枚というのなら、やはり『危機』でしょう。いちばん完成度が高いです。個人的にはポップな『こわれもの』が好きですけど、『危機』はプログレッシヴ・ロックというジャンルを代表する作品の一つだと思います。そして聴くときに大事なのは、アルバム全体を通して聴くということですね。さっきも言ったように、プログレというのは全体性を楽しむ音楽なんです。しかもイエスの場合はロジャー・ディーンの描いたジャケットが非常に魅力的で、トータル・アートとしての魅力が大きいと思うんですよ。ですから本当はLP番を手に入れて30センチ四方のジャケットを楽しむのがいいのかもしれませんが、でも、いま出ている日本製の紙ジャケットCDがとても良くできていて、LP盤のジャケットを完全にミニチュア化して再現している。だから、それを見ながらCDを飛ばさないで聴いて、トータル・アートを全体として味わってもらいたい。そうすれば、イエスの魅力に浸ることができると思います。 (談)」立川芳雄「イエス入門」(文藝別冊『イエス プログレッシヴ・ロックの奇蹟』河出書房新社、2016)pp.50-55.

 

 なるほど、にわかプログレ学習者へのイントロとしては、かなりツボを押さえたガイダンスだな。シングル単曲ではなくアルバムの全体性を味わう長尺主義、とか、べたのねばっこいブルースに、つまりコードを押さえてジャーンとやってあとはこぶしを入れて叫べばいい、という野蛮な根性路線が彼らには生理的にダメで、楽譜に書ける調性音楽の楽器習得と子どもの頃から教会でコーラス歌ってたりした素養があるんで、ロックをやりたいんだけどど~しても、もっと凝った音楽に傾いていくイエス。そうなのかあ。音楽の話題は、個人の好き嫌いが露骨に出るのは当然だが、それがどんどん細分化されわずかな違いが拡大され、互いの好みが似通ってくればくるほど、逆に一致できない箇所が気になって喧嘩する。そもそもロックバンドって、それぞれ違う楽器を持ち寄りながら自分の個性を前面に出して目立ちたい人間が集まっているわけで、ひとつの曲に仕上げるのはスター独裁主義になるか、激論デモクラシーになるかしかない。でも、長続きしたイエスの場合は、メンバーの出入りを繰り返しながら、独自の曲をもっていることで、分裂ではなく協和を実現した、というわけか。

 とにかく『危機』と『リレイヤー』をぼくはちゃんと通して聴いていないので、まずはそれをした上で、なにかが言えるというわけ、ですね。

 

B.労働市場としてのお笑い芸人と大学教員

 吉本興業は、関西の寄席興行主から始まっていまやTV芸能界最強の大企業になっている。でも、落語・漫才・コントを出身母体とするお笑い芸人と呼ばれる人たちは、吉本の正社員ではなく、いわば仕事をもらう契約社員のようなもので、芸能人として才能もあり知名度もある人でも、芸能活動だけで安定した収入のある人はごく一部だという。一度当たりをとって、テレビなどに露出して売れたとしても、多くは数年で消えてしまう。歌手や俳優として転身をする人もいるが、これはこれで長続きするにはかなりの努力と幸運が必要だ。今回の「闇営業」の件は、かなり名の売れた人が並んでていたために世間の注目を集めた。暴力団関係の催しに事務所に断らずに出演してギャラを得たことが問題だというが、そのような稼ぎ方は常態化していたという。彼らは「その筋」の会とは知らずに出ていたという。後悔しているだろうが、そこまで自己点検できる体制ではないとすれば、問題は別だ。

 

 「新しい職種 生む道へ:芸人も研究者も供給過剰  経済季評 松井邦彦

 芸能界が「闇営業」問題で揺れている。TVでもおなじみの芸人たちが次々と所属事務所から謹慎処分などを受け、人気番組のMCを降板した芸人も出た。「闇営業」と聞くと、かなり怪しい感じがするが、どうやら業界用語では所属事務所を通さない営業のことで、「直営業」とも呼ぶらしい。今回の「直営業」が問題になったのは、その相手が反社会勢力だったことにある。

 しかし、問題の根底にあるのは、芸人に関する需要と供給のアンバランスだ。多くの芸人にとって、事務所を通す正規の仕事だけでは食べていけない。あるお笑い芸人がいるとして、自活できるのは200~300人くらいだという。需要に対して供給が多過ぎるのだ。「闇営業」をすれば中には危ないケースも生じるだろう。「闇」とは、むしろ芸人の生活苦やそれを黙認する芸能界のことだとも言える。

◎              ◎ 

 芸人と同様の構図が最近は、研究者の世界でもみられる。

 日本近世仏教思想の研究で日本学士院学術奨励賞を受賞した女性研究者が定職に就けず、自らの命を絶ったという報道は記憶に新しい。また、先月には神戸学院大が、薬学部の30代の助教が発表した論文10本で、データの改ざんがあったとする調査結果を公表した。聴き取りに対し、助教は「研究成果を出さないといけなかった」と述べた。精神的に追い詰められていたようだ。助教は依願退職したという。

 これらの事件を生んだのは、研究者に関する需要と供給のアンバランスにほかならない。

 まず重要側を見てみよう。

 政府は大学の経常的な資金である運営費交付金を毎年一定割合で減らしている。それに応じて、常勤教員の雇用数も減少している。代わりに増やしているのが競争的資金で、選ばれた分野や大学に重点的に資金を配分する。この競争的資金は多くの場合、5年程度の期限付きの資金で、大学はこの資金を用いて研究者の雇用もできる。長期雇用の裏付けとなっている運営費交付金が減り、5年程度の時限雇用を可能にする競争的資金が増えたのだから、その効果は明らかだ。

 任期なしの長期雇用は減り、任期付き雇用が増えている。例えば、東京大学では2006年から17年にかけて任期なし教員数は3千人強から2400人弱に減り、任期付き教員数は約2300人から4千人強に増えた。たった10年間で任期付き教員の割合は43%から63%程度に増えたのである。

 これらの数字からもう一つわかるのが、教員数の増加だ。単純計算でも10年間で灯台の教員数は約5300人から6400人に増えている。これを説明するためには研究者の供給側に注目しなければならない。

 1990年代、大学院の重点化が推進された。「大学教員・研究者のみならず社会の多様な方面で活躍しうる人材の育成を図る」ねらいで、大学院を2000年時点で91年時点の規模の2倍程度に拡大することが必要との提言がなされ、約10年間で大学院生の数は約1.2倍へと拡大した。例えば、評者が所属する経済学研究科では、80年代に年間20~30人に過ぎなかった大学院入学者数(一貫制)は現在では100人超(修士課程)へと大きく膨らんだ。

 需給の不一致は火を見るより明らかだ。政府は高度人材育成を推進したが、社会や大学の受け入れ体制がそれに追いつかなかったのだ。

 とりわけ人文社会系の場合、修士課程修了の学生はまだしも、博士課程修了の学生に対する社会の需要は少なく、ほとんどは大学の研究職のみでそれも十分ではない。博士課程の量的拡大は明らかに失政だった。

 国策に沿ったうえで儒教のバランスを保つには、社会の大学院生に対する需要を増やすと同時に、供給も適正化しなくてはならない。

 例えば、評者の研究科では社会から一定の需要が見込まれる修士課程の学生の定員は増やし、需要の少ない博士課程の定員は減らした。

 国の政策やそれに対する一般企業や大学の対応によって、研究者の需要と供給は決まっていく。受給のバランスが崩れれば、そのつけを負わされるのは若手研究者たちだ。短期的には供給の抑制もやむを得ないが、長期的には需要の拡大がなければ、問題は解決しないだろう。

◎               ◎ 

 がしかし、芸人も研究者もある程度の供給超過は必然でもある。たとえリスクを冒しても芸人になりたい、研究をしたい、という気持ちは抑えることのできないものだからだ。だからこそ、新しい職種の開拓を通じた需要の拡大が大切になる。もっともこれは一朝一夕にできることではない。

 最後に一つ例を挙げて本稿を閉じよう。先日、学生時代の友人に会った。彼は長らく海外で研究者を務めた後、日本の研究機関で生命科学のサイエンスコミュニケーターの職に就いた。彼の仕事は研究の魅力を社会に発信していくこと。研究職ではないが、「最先端の研究を把握していなければできない仕事だ。新しい職種が生まれつつあると感じた瞬間だった。」朝日新聞2019年7月18日朝刊、13面オピニオン欄。

 

 一般の人には、大学の教員がどういう生活条件のもとで教育や研究活動をしているか、その実態は知られていないようだが、事態はもはや深刻なところに来ているといえる。ぼくも、ある私立大学で長年教員をしていたので、自分の後輩や若い大学院生たちが、この先に待ち受ける職業上・生活上の困難を抱える現実を日々感じている。ぼくたちの大学院生時代も、決して前途に希望がもてる状況ではなかったが、大学は増え大学生も増える時代だったから、研究者の職を得てなんとかなった。その後の重点化による大学院枠拡充と「縮小の時代」を思うとき、自分はまだ恵まれた時代にあったなあ、と思って心が痛む。学生に大学院に行きたい、と言われた時、どんなに勉学意欲にあふれ能力も高いと思えても、指導教員としては「やめておけ」と言わざるをえないだろう。新規の教員公募には、1名の枠に50人60人もの応募が来る。選考委員として論文業績を見ればそれぞれ努力の跡がある優秀な人も多い。しかし、採用できるのは一人だけ、あとの人たちはまた非常勤講師などの教育労働とアルバイトなどで生活しながら、学会誌投稿や学会発表をたゆまず行って次のチャンスを狙う。30過ぎてこれを十年続けるのは、いろんな意味でつらいはずだ。

 理系の場合は、大きな予算を使えるプロジェクトに参加しないと研究自体が難しい分野が多いが、エンジニアとして技術的応用分野もあり、共同研究のなかで育てられるのかもしれないが、文系の院生の場合は、共同研究もあるけれど、基本的に自分の設定したテーマをデータや文献を漁って追及する単独論文の数がものをいうので、孤独な作業の中で自分を支えなければならない。

 学問研究というものは、文科省が考えるような、きっちり計画され予算が無駄なく投入され組織的に研究がすすめられれば、数年後には社会が求める画期的な成果が確実に生まれてくる、というような予定調和的なサイエンスではないし、もしそのような研究が行われれば、どのみちろくなものではない。計画通り出てくる結果などというのは、すでに結果が予測されたものを、念のため検証し確認するといった種類のもので、多少の誤差や予測違いがあれば修正する価値はあるが、従来の説を覆す画期的な研究など出てくるはずがない。多くの画期的な新しい研究というのは、基本的な視点の転換や研究手法やデータの根拠そのものを疑うところから出てくるものだ。若い研究者の柔軟な頭脳に、そこを期待するのならば、短期的な論文の本数や目に見えるアウトプットではなく、予定されたレールを外れても独自の視点を耕し続ける資質を見るべきだろう。しかし、今の日本の大学院やオーバードクターをとりまく状況は、その能力をすり減らす方向にすすんでいて、学問本来ののびやかで余裕のある知的能力を伸ばすことを阻害しているように感じられる。

 経済学者の松井氏は、結局お笑い芸人同様の人材需給を無視した大学院拡充に原因がある、ということになるが、政策の失敗というだけではなく、ぼくには現代のサイエンス・テクノロジーの硬直したあり方を、政治家も大学人も当然のように信じ込んで、なんでも解決する科学万能を謳い、あやふやで役に立たない学問の象徴のような「文学」を視野の外に置くという大きな間違いをやっている気がする。ノーベル賞にだって物理学賞もあれば文学賞もあるのに。

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プログレの時代 Yes 1 なんで?

2019-07-19 16:16:05 | 日記

A.いまごろ「プログレ」入門するの?

 こんどのテーマは、プログレ、とくにイエスである。なんで?といわれるとちょっと困るが、要するに何にも知らないから、というのが答えだ。ぼくは、プログレッシヴ・ロックもイエスも、全然知らない素人だから、このさい知ってみようということだ。 調べてみたら、バンド「イエス」のメンバーは、中心だったベーシスト、クリス・スクワイアとキーボードのリック・ウェイクマンが共に1948年ロンドン生まれ、ドラムのビル・ブルフォードとその後継者のアラン・ホワイトが1949年生まれというように、1949年生まれのぼくとは同世代になる。みんないまや70歳に達しようというジジイになっているが、ファーストアルバム「Yes」が出た1969年7月では、花の20歳前後だった。ロンドンと東京は遠いが、いわば同時代を生きていたことになる。でも、ぼくは高校時代に友人たちが夢中になったビートルズやローリングストーンズにはじまるロックに、あえて触れないように過ごしていた。

 当時のぼくには、音楽はジャズやクラシックを聴くだけで満足していて、新興のロックはなんだか流行に飛びつく軽薄さと、大音量で騒ぎまくる野蛮で下品な感じがして敬遠していた。 あれから半世紀が経った。若者だったミュージシャンが年老いてあの世に行くのも近い。ロックも考えてみれば全盛期はせいぜい1980年代はじめまでで、CDの売上枚数を競った時代は過去のもの。いまの日本では、「洋楽ロック」などと一括されて中高年の懐メロ扱いされている。イエスのCDを探しに中古屋へ行ったら、プログレ4大陸(キング・クリムゾン、ELP、ピンク・フロイド、イエス)とまとめられた棚に「ロック・クラシック」と札がついていた。おお、もうクラシックになってしまったのか。

 ま、それもそうだよな、今の大学生からみれば、生まれるずっと前に流行った「楽曲」なんて知らんもんね。ぼくらが昭和の初めの演歌聴くようなもんだな。 ともあれまずは「プログレ」の定義は?安易にWikipediaにはこう書いてある。

「プログレッシブ・ロック(英: Progressive rock)は、1960年代後半のイギリスに登場したロックのジャンルの1つ。進歩的、革新的なロックを意味する。世界ではプログ・ロック(progまたはprog rock)、日本での一般的な略称は「プログレ」。代表的なグループには、ピンク・フロイド、キング・クリムゾン、イエスなどがある(引用者註:なぜかELPほかは外れてる)。 プログレッシブ・ロックは、実験的・革新的なロックとして、それまでのシングル中心のロックから、より進歩的なアルバム志向のロックを目指した。1960年代後半に誕生し、全盛期は70年代前半である。当初の進歩的・前衛的なロック志向から、一部のクラシック音楽寄りな音楽性が、復古的で古色蒼然としていると見られ、1970年代半ばから後半にかけて衰退したとされている(引用者註:誰がそんな説を唱えたの?)。ピーター・バラカンはプログレッシブ・ロックの全盛期が短かかったことを指摘している。後年、マリリオン、アネクドテンなどの登場により、復活してきている。 プログレッシブ・ロックとは進歩的ロック、クラシック的ロック、アート・ロック、前衛ロック、実験的ロックなどの概念を包括したジャンルである。」

  以下云々は飛ばして、要するにプログレの特徴を箇条書きすると…

◎一部のバンドはアルバム全体を一つの作品とする概念(コンセプト・アルバム)も制作した

◎大作・長尺主義傾向にある長時間の曲 ◎演奏技術重視で、インストゥルメンタルの楽曲も多い

◎技巧的で複雑に構成された楽曲(変拍子・転調などの多用)

◎クラシック音楽やジャズ、あるいは現代音楽との融合を試みたものも多く、演奏技術を必要とする

◎シンセサイザーやメロトロンなどといった、当時の最新テクノロジーを使用した楽器の積極的使用

◎イギリスのバンドの場合、中流階級出身者が多かった ということになる。

 そこで、以下はもっと詳しい「洋楽」専門家らしき立川芳雄さんという人が書いた、「イエス入門」という要を得たありがたい文章があるので、まずこれを読ませていただく。

 「プログレはブルースや黒人音楽からすごく離れた非常に白人的な音楽といえますが、イエスはその最右翼的なバンドです。僕は中学校時代から自分でギターを弾いたりしていたんですけれども、クラシックを勉強していない素人が、当時のプレイヤー系の雑誌なんかを見ながら自己流でやろうとすると、だいたい「コードを押さえて弾きましょう」というあたりから始まる。ソロは「ブルースのコードに合わせて弾いてみましょう」ということになるので、アマチュアでロック系のギターを弾く人間はどうしても最初ブルース、ロックンロール方向に行くんです。その時に、ピンク・フロイドは親和性が強い。フロイドはデイヴ・ギルモアがブルース・ギタリストですよね。キング・クリムゾンの場合、ロバート・フリップは意図的にブルースを拒否しようとしているところがありますけど、それ以外のプレイヤーには黒人音楽を引きずっているみたいなところがあるんです。だから素人の中学生でギターを弾いている人間はそっちに行きやすい。ところがイエスは、まずコピーしようと思っても何が何だかわからない。最初は特にそうです。たぶんこう感じた日本の音楽ファンは多いと思います。だからイエスは、ちょっと入口が狭いんですよね。

 イエスの中心人物はヴォーカルのジョン・アンダーソンとベースのクリス・スクワイアだと思うんですけれども、この二人が最初にバンドを組んだ時、サイモン&ガーフィンケルが好きだというんで意気投合したというエピソードがあるんです。ですから非常にフォーク的なんだけれども、フォークといってもアメリカのカントリーから来るものではなくて、ヨーロッパの白人的なフォークです。イエスはすごくメロディ重視型なんです。メロディで聴く人にとってはイエスは「いいな」と思えるところがあると思います。でも、たとえばエリック・クラプトンやローリング・ストーンズあたりのファンは、イエスに対して「これは音楽なんだろうか」と思うくらい違和感を覚えるんじゃないかという気がします。ストーンズやクラプトンみたいにブルースが元になっている音楽は、たとえばヴォーカル一つ取っても、こぶしをきかせるというか、音符にできない部分が味わいということになるんです。しかしイエスはかっちり音符になるようなメロディが特徴で、非常にスクゥエアな感じがする。そのへんが好き嫌いのはっきり分かれるところだと思います。僕も最初はギターをやっていたこともあり「なんだ、こりゃ」と思ったんですけれども、聴いているうちにだんだん、そのスクゥエアな感じが良いと思えてきました。

 音楽というのはいろいろ聴いているうちに自分の好みがはっきりしてきますよね。僕もだんだん、自分はソウルやR&Bよりは白人系の音楽の方が好みなんだとわかってきた。そうするとイエスを自覚的に聴けるようになりました。本当に異様なくらいブルースっぽくないのが特徴で、たとえば3拍子の曲が多いんです。三拍子のロックはあまりない。アルバムに一曲くらいデカダンな雰囲気のお芝居っぽい曲を入れようというんで三拍子を使うというのはよくありますけれど、代表曲に三拍子が多くて、しかもノリがいいというのはなかなかない。すごく不思議で、イエスの奇妙な特徴だと思います。

 このバンドの強みって、楽曲中心主義にあると思うんです。70年代前半、いわゆる黄金期のイエスは、曲がめちゃくちゃいい。その曲のよさで生き残ったんでしょうね。同じプログレ・バンドで比べると、たとえばクリムゾンは、メンバーが替わると演奏する曲も変わる。唯一の例外が「21世紀の精神異常者」で、あれだけはバンドにとって特別な曲なんでしょう、メンバーを替えてもちょくちょく演っていますけれども、ただ基本的にあのバンドはメンバー間のインプロヴィゼーションで曲を作るという感じなので、メンバーが替わると音楽性もどんどん変わっていくんです。ところがイエスの場合は、70年代前半に『こわれもの』と『危機』という名作を作ってしまった。そして、そこに入っている代表曲が自分たちにとっての規範になってしまって、あとはそれを真似していくという感じで何十年もバンドを存続させている。メンバーは替わるんだけども、黄金期の曲は演奏し続ける。むしろメンバーのほうが曲に合わせていかなくてはいけない。新しいメンバーが入っても、変わるのは些末の部分で、基本的に音楽性は変わらないまま保たれていく。クリムゾンと対照的ですね。それからピンク・フロイドの場合は、メンバーが変わると音楽性が変わるとわかっているんでしょう。だからメンバーが減っていくんです。新しいメンバーは入れない。そしてメンバーが減れば減るほど売れていくという不思議なバンドです。イエスはどんどんメンバーが替わるけど曲が揺るがないから、結局、音楽性が変わらないまま何十年もやってこれてしまった。彼らも一時期、「ロンリー・ハート」のスマッシュ・ヒットがあって、あそこで音楽性を変えるかと見せかけたところがあったんですが、四十年という長いスパンで見てしまうと変わっていない。今はライブで「ロンリー・ハート」を演らず、むしろ70年代の曲でくる。だから結局、曲が良かったというのが彼らの強みなんですね。さっきも言ったように、イエスの曲というのはメロディ―中心型で、楽譜にきちっと書けるような曲です。メンバーの味で聴かせるということはない。新しく入ってメンバーが古い曲に対して「俺流の色に染めてやるぞ」と言っても、それができないくらい曲が完成されている。それで何十年も保って来たバンドですね。イエスはライヴも魅力的ですけれど、彼らは近年も、スタジオ作品で新しい曲を作る一方で、ライヴでは昔の名曲を演奏し続けている。僕はこれをダブル・スタンダード方式と呼んでいるんですけど、この方式を最初に始めたいくつかのバンドのうちの一つが、イエスだと思います。ステージでは、新作の曲もやるけれども、最後は必ず往年の名曲をやってファンを満足させる。それをけっこう以前からやっていたのがイエスです。ロック・バンドは変わっていくから、「俺たちは古い曲はやらないよ」という人たちが多いんですが、イエスは黄金期の曲が規範になっていることを自分たちで分っているので、そこは外さない。このダブル・スタンダード方式の成功が、イエスを長生きさせたんでしょう。

 イエスは、プログレ好きでポップな曲も好きという人も満足させるんだけど、逆にシンフォニックな壮大な難しい世界が好きという人のことも満足させてくれる。『こわれもの』や『危機』はポップな面が強いと思うのですが、その後の『海洋地形学の物語』や『リレイヤー』は、普通の人には難解だと思わせるところがあって、しかしプログレのマニアにとってはむしろそれが嬉しい。70年代のイエスの作品にはポップな面と難解な面とが同居していて、いろんなファンを満足させるところがある。そのへんもこのバンドの魅力になっていると思います。

 『海洋地形学の物語』はLP二枚組で全四曲という構成ですが……、イエスのもう一つの本質的な魅力として、LPレコード時代を象徴するバンドだということがあると思うんです。僕は、ポピュラー・ミュージックの聴かれ方には歴史性があると考えています。60年代後半までは、皆がLP盤ではなくシングルを聴いていた。ビートルズも中期まではシングルで聴かれていました。しかしビートルズが『サージェント・ペパーズ』を出したあたりから、LPはトータル・アートだという発想が出てきて、片面約20分を統一感をもって聴かせるということがロック界に広がった。それが60年代終わりから70年代までです。ところが80年頃からパンク、ニューウェイヴの時代になって、シングル盤の手軽さが再評価されるようになった。このあたりからLPの凋落が始まって、さらに90年代になると、今度はCDが主流になる。そうすると、CDって曲を飛ばしながら聴くことが簡単にできますから、アルバムを通して聴くという習慣が失われていった。さらに21世紀に入ると、音楽を配信で手に入れるようになるので、アルバムという形式自体が形骸化してしまいました。この本の読者の皆さんはどちらかというとLPやCDになじんだ人が多いと思いますけど、長いスパンで見てしまうと、LPやCDを一時間かけて集中して聴くという聴き方のほうがむしろ特殊なんですね。60年代末から70年代にLP、トータル・アルバム至上主義の時代があって、プログレというのはその時代を象徴するジャンルなんです。あと二十年くらい経って振り返ると、本当に変わった時代だったと評価されることになるかもしれませんね。メディアって、自分の身体と外部をつなぐものですから、人間は若い頃に慣れ親しんだメディアからなかなか離れられない。ですから、いま四十代以上の人たちはシングルよりもアルバムで聴くことになじんでいると思います。イエスをはじめとするプログレのトータル・アルバムは、そうした人たちを満足させるものだと思います。」立川芳雄「イエス入門」(文藝別冊『イエス プログレッシヴ・ロックの奇蹟』河出書房新社、2016)pp.46-50.

 何も知らなかったぼくには、ふ~ん、そうなのかァ、なるほどね…、と感心するばかりなのだが、あのプログレ全盛の70年代、ぼくもクリムゾン、フロイド、ELP、そしてイエスの名前くらいは知っていたが当時のLPレコードを自分で購入して、針を落として20~30分聴くという対象とは思わず、ジャズやクラシックのLP盤しか聴かなかった。ただ、唯一記憶に残っているのは、音楽の中身ではなくレコードジャケットである。イエスの『リレイヤー』や『トポロジーの物語』のLPジャケットは、ロジャー・ディーンという人のイラストで、ぼくはこれだけは欲しかった。でも、レコードは買わなかったので、ロジャー・ディーン、ロジャー・ディーンとつぶやいてはレコード屋のロックの棚にそれがあるのを探しては眺めた記憶がある。そのうち『レコード・ジャケット・カタログ』という美術本が出たので、お値段は高かったが無理して買った。やっぱり、ロジャー・ディーンは個性的で気に入った。プログレもイエスも、当時のぼくにはロジャー・ディーンの付属物でしかなかったのだ。

B.過ちをなかったことにしたい偉い人たち

 誰でも自分の間違いを認めるのはつらい。それもその当時はなんの疑問も抱かず、世間も気がつかなかったことが、ずっと後になって大きく問題視されたような場合、いまさら間違っていたなんて言われても責任あんの?悪いのオレだけか?と口走ってしまう人はいるだろう。問題はそれが、民間人の過失ではなく、政府として公式に行った行政行為である場合、守るべきは被害者であって行政官僚の方ではない。しかし、どうもそうなっていないらしい。

 「ハンセン病元患者の家族への賠償を命じられた熊本地裁判決で今月、控訴を断念した国。「首相談話」で謝罪しながら、「政府声明」で国の法的責任を否定した。この手法は、2001年に元患者に敗訴したときと同じだ。このとき国の責任をあいまいにしたことが、その後の施策や啓発に影を落とししてきたと、ハンセン病問題に詳しい藤野豊・敬和学園大教授(日本近現代史)は指摘する。 (安藤恭子、榊原崇仁)  (中略)  元患者の判決から、家族の被害が認められるまで十八年。この間、患者の救済や生活保障を定めたハンセン病問題基本法(09年施行)ができたが、家族は対象とされなかった。

 「元患者のみならず、その家族もまた『患者予備軍』として国に監視される立場にあった。同じ隔離政策の被害者だったゆえ、声を上げるのに時間がかかった」と藤野氏は指摘。ハンセン病を発症した父を恨み、結婚を恩に着せる夫からの暴力を受けた女性の話を聞いた経験に触れ、こう話す。 「当事者は人生そのものを奪われた。その苦難を思えば、自らの責任を認めない国の欺瞞は許されない」  藤野氏は、家族の被害実態の新たな検証と、首相談話が約束した立法など補償措置による速やかな救済がなされるか、市民の側が見届けることが必要とする。

 「高齢化する原告の時間との闘いを考えれば、首相談話を当事者が歓迎するのはいいと思うが、国の反論や声明はなお検証されるべきだ。国は元患者らがいなくなることで、問題が自然消滅するのを待っている。人権問題として向き合わず、『気の毒だから救済する』という道場の論理で、終わらせてはいけない」  国策による人権侵害の「救済」が、すんなり進まない例は少なくない。

 1950年代に日本政府の募集に応じてドミニカ共和国に移り住んだ人らが劣悪な生活を強いられたとして損害賠償を求めた訴訟では、2006年の一審判決で国の違法性が認められたものの、原告側が敗訴。政府は一人当たり最高二百万円の特別一時金で幕引きした。汚染された血液製剤を投与されてC型肝炎ウイルスに感染したとして患者らが国などを相手取った損害賠償訴訟は、和解に向けた基本合意書の調印まで提訴から五年余りを要した。

 集団予防接種の注射器使い回しが原因で多くの人がB型肝炎ウイルスに感染した問題は、06年の最高裁判決で国の過失が認められながら、首相の謝罪に至ったのは11年。九州訴訟弁護団事務局長の武藤糾明弁護士は「被害者認定の条件を詰めるのに官僚側の抵抗があった」と語る。謝罪の前段で協議した際、「被害者側が提出しなければならない資料を多く求めてきた。少しでも認定のハードルを上げようとしているように感じた」と振り返る。

 官僚が素直に被害者救済に動かないのはなぜか。明治大の西川伸一教授(官僚分析)は「明治以来、日本の発展をけん引してきたのは自分たち官僚だという、高い矜持がある。そんな自分たちが誤りを犯すことはないと考えている。一方で、先輩の官僚を否定するような振る舞いに出れば、いつかは自分たちが否定されるという恐れも抱いている」とみる。

 さらに挙げるのが「余計なカネを出したくない」「仕事を増やしたくない」という考え方だ。「国の予算を使うとなれば、財務官僚を相手にしないといけない。彼らこそエリート中のエリートで、折衝は骨が折れると考えてしまうのだろう」。米国製兵器の爆買いの方がよっぽど「無駄」にも思えるが、「国民の意識と乖離した論理がまかり通っているのが現状だ」。  誰のための税金かという疑問が湧く中、千葉商科大の田中信一郎准教授(政治学)は「官僚の論理を抑え、国民の目線を取り込むべき人たちがいる。政治家たちだ」と説く。

 しかし、長らく政権を担う自民党はこうした論理を追認してきたという。「支持者や仲間を徹底して重んじる。だからこそ、薬害をもたらした企業をかばい、政権を支える官僚組織を守る」。ハンセン病の件でも、「国民の目を恐れ、やむなく控訴を断念した」一方、「結局は政府声明で、守るべきものは守るという意思を明確にした」とみる。

 最近、こうした姿勢が顕著になった例が、旧優生保護法下で障害者らに不妊手術が繰り返された問題だ。四月に議員立法で救済法が成立したが、盛り込まれた一時金は1人320万円にとどまり、訴訟で原告側が求める3千万円台後半と大きな開きがあった。田中氏は警鐘を鳴らす。

 「官僚や政治家の姿勢が今のままなら、『いわれなき被害者』は軽んじられ続ける。ハンセン病の問題に限ったことではない」」東京新聞2019年7月17日朝刊24・25面こちら特報部。  以前、南米移民の研究をしていた時、ドミニカ移民の悲劇についていくつか文献があって、日本政府が募集して送り込まれた人たちが、事前の説明とは全く違う劣悪な条件下で苦しんだ話は聞いていた。それを国相手の賠償訴訟があったことまでは聞いたが、結果が納得のいくものでなかったというのは残念だった。裁判で実害があったことを認めながらも、それが官僚のしたことであれば権力を使って責任を最小限にとどめ、補償を軽くしたり曖昧にしようとする例は後を絶たない。それは長期政権ほど政官癒着は構造化するというわけかな。公正な政治とはほど遠い。

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