A.大学の危機
近代の学校教育の問題を考えていくと、大学という高等教育機関がどのようなものとして存在するかが非常に重要なことになる。宇沢弘文はそれをヴェブレンのIdle CuriosityとInstinct of Workmanshipという概念から説明しようとする。宇沢は前者を「自由な知識欲」、校舎を「職人気質」と訳す。そしてこの両者を大学のあるべき価値とするのだが、それはつねに社会が求める物質的有用性や世俗的な実利性といったべつの価値によって脅かされ、歪められるという。
ここで出てくるソースティン・ヴェブレン(Thorstein Bunde Veblen、1857年 - 1929年)は、19世紀・20世紀初頭のアメリカの経済学者・社会学者。1857年 ノルウェー移民である両親の12人の子どもの第6子として、ウィスコンシン州カトーに生まれる。ジョンズ・ホプキンス大、イェ―ル大などで学び、1892年新設のシカゴ大学で経済学を教える。最初の著作『有閑階級の理論(The Theory of the Leisure Class)』(1899年)から『営利企業の理論』(1904年)『技術者と価格体制』(1921年)などの著作によって制度派経済学の創始者と呼ばれる。私的所有より「社会資本」を考慮し、営利企業は産業体制を管理し消費者に消費財を公正に分配する任務には適していないと主張した。彼は近代経済学の主流をなす、自由な市場における営利企業の競争を前提とする経済学とは異なる立場に立っていた。また労働者による革命と国家による社会体制の変革を主張するマルクス主義とも異なる、現代産業社会への批判を行なった。
デューイは教育による社会の改善を考えたが、ヴェブレンはもっぱら「大学の自由」をいかに確保するか、そのなかで「自由な知識欲」を開発し「職人気質」によって編み出されるものの大切さを説いた、と宇沢氏は言う。
「アメリカ資本主義の性格と、そこにおける学校教育の成功とに対して、デューイとはまったく対照的な視点にたって理論を組み立てていったのが、同じシカゴ大学の同僚であったソースティン・ヴェブレンである。
ヴェブレンの論点はもっぱら、大学に向けられていた。ヴェブレンの大学論は、1916年に刊行された『アメリカにおける高等教育』(The Highr Learning in America)に述べられている。この書物は、A Memorandum on the Conduct of Universities by Business Menという副題がつけられている。
ヴェブレンはまず、近代社会において、大学はどのように位置づけられるかということを明らかにすることから始める。
文明社会はいずれも、どのような「真理」としての知識――ヴェブレンは、エソテリック(esoteric)な知識という表現を用いるのであるが――を蓄積しているかということによってその社会を特徴づけられる。この「真理」としての知識がどのような内容をもつものであるか、またどのような人々によって維持され、新しく蓄積されているかということは、異なる文明社会についてそれぞれ異なった形態をもつ。しかし、どのような文明社会についても、共通した点がある。それは、科学者、学者、賢者、神官、教師、僧侶、医者などという専門家、あるいはその道の達人ともいうべき人々からなる選ばれた集団の恒久的な維持という形態をとっていることである。
この、「真理」としての知識は、物質的ないしは現実的にはなんらの価値をもたらさないのが一般的であって、それ自体として固有の価値をもつ。それは、宗教、魔術、神話、哲学、あるいは科学の体系として形づくられていることが多い。どのような形態をとるにせよ、一つの文明社会の中核的な存在として、その文明社会の特質と性格とを象徴するものとなっている。
この、「真理」としての知識は、文明社会にとって、もっとも基本的な真理であり、永遠に真実であると思われているものを体系化したものであって、この「真理」としての知識を蓄積し、維持する専門家の組織は、どの文明社会においても、もっとも聖なるものとされている。この組織を構成する専門家たちは、絶えず「真理」としての知識を追求し、その蓄積と維持し、その全生涯を捧げることを全般的な目的とするが、きわめて厳格なかたちでの分業と専門家とがおこなわれるようになっているのが一般的である。
近代文明社会、とくに西欧諸国における大学もまた、このような流れのなかに位置づけられる。その範囲、方法は他の文明社会と異なったものであることはいうまでもないが、基本的に同じような資質と能力とが必要とされ、知識を求めるという、人間本来の性向がある特定の方向に特化したものであるという点で、他の文明社会の場合とまったく変わらない特質を備えている。
この特質は、二つの側面をもっていて、文明社会におけるエソテリックな知識の蓄積と維持を担当する専門家集団を特徴づけるものとなっている。ヴェブレンは、Idle CuriosityとInstinct of Workmanshipという特異な表現を用いて、この、人間固有の本能的な特性をあらわしている。人間は本能的に、知識を求め、それを高く評価する。Idele Curiosityというのは、知識そのものを求めるのであって、知識によってもたらされる物質的、世俗的有用性を求めるものではないということが強調されている。適切な訳語がないまま、差し当たっては「自由な知識欲」とでもしておこう。Instinct of Workmanshipという言葉もまた、ヴェブレンの経済思想において中心的な概念の一つであるが、技術者、職人、労働者が常に、ものをつくるという立場から最良の生産技術、原材料、生産工程を選ぼうとする本能的性向を意味する。しかし、この、本能的性向は、現実の社会では利潤追及などという外的条件によって支配されて、実現不可能なことが多く、ヴェブレンはそこに、労働者の自己疎外を惹き起こすもっとも重要な原因をみたのであった。この言葉もまた適切な訳語が見当たらない。普通「製作本能」と訳されているが、ここでは「職人気質」という表現を用いることにしよう。
大学は、この二つの本能的性向にもとづいて、ひたすら知識を求める場として、一つの文明社会の中枢的地位を占めるものである。大学の場でもっとも重要な役割を果たすのは技術である。とくに、産業革命以降、エソテリックな知識の蓄積は、産業技術の適用によってはじめて可能となり、また産業技術の発展は、大学におけるエソテリックな知識の蓄積によってはじめて可能となるという面ももっている。
近代技術は、客観的かつ即物的な性格をもち、きわめて固定的な側面をもつ。機械過程を中心とする近代技術は、産業レベルで中心的な役割を果たすが。それを実際に担当するのは、法人化された企業である。大学で蓄積されるエソテリックな知識と、法人企業によって求められる知識、技術とは、その動機は異なっていても、本質的な共通の性格をもっている。しかし、法人企業のなかで働く人々は、自らのもつ「職人気質」と利潤追求の経営的要請との間で常に矛盾、緊張関係を形成する。
しかし、大学が、法人資本主義体制のなかにおける一つの制度として存在し、維持されている以上、大学の運営もまた、利潤追求という、資本主義の市場目的の支配下におかれるという危険を常にもっている。
大学はこのように、一つの文明社会において、その象徴的な存在として、エソテリックな知識の蓄積を、自由な知識欲と職人気質という、二つの人間的本能にもとづいて追求する場である。しかし、大学はいわゆる高等教育の一部分を形成するにすぎない。高等教育というとき、二つのまったく異質な行為から構成されている。一つは、学問の研究、科学的探究であり、もう一つは、学生の教育である。第一の、学問の研究ということが大学にとって第一義的な意味をもつことはいうまでもないことである。第二の、学生の教育は、副次的な意味をもつにすぎないが、大学の活動において不可欠となることが多い。それは、学生の教育を通じて、研究の質と成果が大きく影響されるからであるが、学生の教育ということはあくまでも、副次的な重要性しかもたないということは改めて強調しておきたい。大学における第一の実利的、実用的な目的からまったく独立して、知識の探究のみをおこなう場として、大学の本来の存在理由がある。このような大学の目的から、大学人の行動様式、習慣、基本的性向にかんしておのずからある共通のパターンが生みだされることになる。それは、学問研究が、自由な精神にもとづいて、しかも科学技術的に最新の知識を用いて行われるような環境のもとではじめて実現可能となるものだからである。そこには、大学以外の教育機関にみられるような規律、規則の類は存在する余地はない。
ところが、アメリカの諸大学では、法人企業において支配的な基準を大学に持ち込もうとしている。知識が金銭的利益をどれだけもたらすか、という市場的基準が導入され、大学における研究者は、有用な知識をどれだけ生産したか、学生を何人教育したかという外的な基準にしたがって評価される。大学自体も、利潤最大化という企業的制約条件のもとで経営されることになる。ヴェブレンの書物の副題が示すように、法人資本主義における支配的な利潤論理が適用され、大学という聖なる組織が、ビジネスマンという俗世界の人々によって管理され、運営されることになった。そこには、法人資本主義の抑圧的、非民主主義的なヒエラルヒーの論理が中枢を占めるようになり、自由な知識欲と職人気質は跡形もなく消え失せてしまうことになるであろうと、ヴェブレンは嘆いたのである。
大学の自由
今、世界の大学人が共通してもっている問題意識は、政府からの圧力に対して、大学の自由(Academic Freedom)をいかに守るかということである。これは、国立大学はもちろんのこと、私立大学も、国からの財政的援助に対する依存度がきわめて大きくなってきたことに起因する。
もともと、大学は、重要な社会的共通資本として、一国の文化的水準の高さを表す象徴的な意味をもち、その国の将来の方向を大きく規定するものである。このとき、国(Nation)の統治的な機構としての政府(State)からの力に対して、大学の自由をどのようにして守るかということが重要な課題となる。
大学の自由というとき、教授の人事、研究の自由、講義、カリキュラムの自主的決定、入学者の選抜方法、基準の自主性などがあげられる。しかし、大学が財政的に国あるいは外部の組織に大きく依存せざるを得ないとき、これらの自主性をどのようにして維持するかということが重要な課題となるわけである。
もっとも大きな関心がもたれるのは、科学研究の規模が巨大化し、そのために必要な研究者の数も飛躍的に大きくなり、研究施設の規模もかつては考えられないほど巨大化し、そのために必要な経費が天文学的な額に上ろうとしている現在、いかにして、大学の自主性、内発性を喪失することなく、創造的、先端的研究が行われるような環境をつくっていったらよいか、という問題である。このような研究のために必要な資金は、大学自体の負担で調達することはもはや不可能であって、国あるいは企業からの資金が大量に投入されなければならない。しかし、このような資金の導入によって、大学の自由が阻害されるとき、自由な研究をおこないうる雰囲気がこわされ、真の意味における独創的な研究を期待することは困難となってしまう。」宇沢弘文『社会的共通資本』岩波新書、2000年、pp.146-153.
「大学の自由」はつねに高く掲げられてきたが、「象牙の塔」という言い方をするとき、それが真理の府であると同時に特権的なエリートの独占物として、やや現実離れしたアカデミア、頭でっかちな学者を揶揄する言葉にもなっていた。そして、ときの政府や権力者は、大学人が国の政策や方針を批判するとき、大学は役に立たない知識しか学生に教えておらず、もっと現実的な要請に応えるべきだと大学制度をいじろうとする。しかし、営利企業や一般社会の追求するものと、学問や科学の研究が求めるものは本質的に違うのであって、長期的に見れば国や政府は、大学に自由な環境を与えるのが仕事で、それでこそ人類に貢献する成果をあげることができる、というのは今さら言うまでもない。しかし、日本の場合でも、大学の歴史は苦難の道であって、とくに近年、大学への政府の管理統制の強化は露骨にすすめられている。その端的な動きは、効率化、民営化、自由競争と成果主義、といった新自由主義的論理を大学にも適用するというもので、これは、文化そのものの危機を招きかねない。
B.愚かな男子たち
東京大学に在籍した経歴があるかないか、ということが日本ではかなり重要視される世界がある(らしい)。ぼくのいた大学という業界でも、東大出身者はそれなりに徒党を組んだり、ある種の自負をもってものを言うのを見ていたから、そういうことを気にしなくていいのは気楽だな、と思っていた。そして、東大出身者でもそのことが重要なアイデンティティになっている人も多いが、そうでもない人もいる。要するに人間の人格や品性、そして本来の能力や才能という点でも、出身大学などたいした問題にはならないと思うのだが、自分の人格や品性、能力や才能に自信がない人ほど、出身大学というものが何より大事だと考えているらしい。でもそこに、「東大女子」というレッテルは別の要素になっているらしいので、これはおかしい、というか時代錯誤だと思う。
「問:「性差別の解消」東大生には難問?東大女子入会拒否サークル活動制限
東大でサークルの新入生歓迎行事を取りまとめている学生団体が、学内の女子学生の入会を認めていないサークルを今春は参加させないと明らかにした。そうしたサークルの存在は長年にわたって知られながら、これまで抜本的な措置が取られてこなかった。改善への一歩とはいえ、そもそもどうして、こんな露骨な性差別が残っているのだろうか。 (石井紀代美)
大学を象徴する存在として知られる、本郷地区キャンパス(東京都文京区)の赤門。三十日午後に訪れると、記念撮影する外国人観光客の間をすり抜けるように、女子学生が次々に構内に入っていった。
当事者にこの問題への受け止めを聞くと、教養学部一年田之倉芽衣さん(19)は「差別があるなんて、びっくりした。フェアじゃないですよね」とばっさり。文系四年の女子学生(22)は「差別をする人はどこにでもいると思うけど、『あの東大で?』となるじゃないですか。社会へのメッセージ性の強さを考えるとよくないし、恥ずかしい」と訴えた。
学内の女子学生を入れない東大のサークルは数十年前からあったとされる。立命館大の伊田広行非常勤講師(ジェンダー論)は「頭が良く冷静で、しっかりしている東大の女子は扱いにくいイメージがあるのではないか。そうした人間を排除する一方、『東大ブランド』に弱い従順な女子を集めて精神的に優位に立ちたいのだろう」と分析する。
学内の動きを内外に発信している「東京大学新聞」が2018年4~5月に学内のサークルを調べたところ、回答した二十三団体中三団体が学内の女子を入会させていないと答えた。「入れない理由を聞かれても、伝統としか答えられない」「他大の女子が大勢いる中、東大女子が少数いても馴染めなさそう」「例年そうなっている」といった理由だった。
記事が出た同年九月に編集長を務めていた小田康成さん(21)=文学部三年=は「差別は恥ずべきことなのに、まさか明確に認めるサークルがあるとは思わなかった。差別の自覚がないのかもしれない」と指摘。調査を担当した武井風花さん(21)=同=も入学時にサークルの説明を受けた際、明らかに歓迎されていない雰囲気を感じたといい、「肌感覚として三団体ではとどまらない。回答を得られなかった団体も多く、これは氷山の一角」と主張する。
コラムニストの辛酸なめ子さんは伊田氏と同様の見方を示した上で、「同じぐらい賢い女子学生と互いに高め合えばいいのに、褒められ、尊敬してもらいたいのだろう。日本の男性の自信のなさがよく表れている。最近は東大にも他大学に負けない女子力を備えた子が多く、完璧に近い存在は男性に恐怖を抱かせるのでしょうね」と皮肉まじりに話す。
東大といえば、言わずと知れた国内最難関の大学。社会的影響力も大きく、このままでいいわけがない。伊田氏は「組織の中で長年続いてきた悪習を改善するには、同調圧力に抵抗する一人一人の力が大事。違和感を持つ仲間を見つけ、徐々に変えていく努力が必要になる。理解してくれそうな先輩とじっくり話してみるのもいいだろう」と提言した。」東京新聞2020年1月31日朝刊24面特報欄。