A.日本の社会学のはじまり
ぼくは36年間、日本のある大学で社会学を教える教員をしてきた人間です。社会学といっても中はいろいろ分野が細かく分かれているのだけれど、担当する授業科目は教員ごとに決まっていて、ぼくはおもに「社会調査」という授業をやっていたのです。「社会調査」というのは、社会学を研究する時の材料集めのための道具箱のようなものです。頭で考える「理論」はそのままでは現実をちゃんと説明しているかどうかわかりません。しかし、むやみにいきあたりばったりでデータを集めていじくっても、そもそも何が問題なのかがわかっていなければ、あいまいな結論しか出てきません。これは社会学に限らず、どんな学問でもいえることだと学生さんたちには言ってきました。
日本の社会科学系の学問は、ほとんど明治以降にヨーロッパから輸入されたものといってもいいので、もとはイギリスとかフランスとか19世紀の先進国の社会をモデルに作られた新しい学問を、後発の極東の小国が必死で追いかけるためにお勉強したことから現在に至っているわけです。とくに、社会学は「社会」という複雑で変化していく対象をどう捉えればいいのか、対象を絞り込んだ経済学や歴史学などよりも、はじめから面倒な課題を抱えていました。日本の場合、明治以降の最大の国家的課題は、いかにして「近代化」(はじめ「文明開化」という言葉で語られたもの)を達成するか、それは江戸時代までの社会を大きく変えていこうとするわけですから、まずは西洋の社会学者が何を言っているのかをお勉強しなければならなかったのです。しかし、19世紀の終わりあたりの時点では、西洋の方もまだ社会学という学問自体があまりしっかりできあがっていなくて、大学で正規の科目にはなっていなかったのです。
「明治維新以後、日本の解明派知識人は、伝統的儒学から西洋の社会科学思想へと方向転換した。二二〇年間の鎖国の空白は大きく、この間に西洋は科学革命・啓蒙思想・市民革命・産業革命をつうじて近代化を達成し、日本を大きく引き離してしまった。このことに気づいた日本の啓蒙思想の祖・福沢諭吉は、主著『文明論之概略』において、ヨーロッパとアメリカを文明国、トルコ・中国・日本などを半開の国、アフリカとオーストラリアを野蛮の国と区分して、半開および野蛮の国はヨーロッパの文明を目的としてこれを学ぶことにより、みずからを文明国に高めることができるという進化論的見解を提示した。そのさい福沢は、「外の文明」(衣服・飲食・住居・機械・政令・法律)と「内の文明」(精神ないし人民の気風)とを分け、内の文明を学ぶことこそが重要で、またむつかしいのだということを強調し、彼が西洋の文明を目的とするというのは、内の文明を学ぶことを意味すると主張した(福沢、1875、全集四、1959:16-22)。
福沢のこの区分に従えば、社会学は「内の文明」を研究する知識分野の一つである。コント、ミル、スペンサーからデュルケーム、ジンメル、マックス・ヴェーバーにいたるヨーロッパ社会学の巨匠たちが書いたことは、近代化された社会と文化は近代以前の社会と文化とどのように異なるか、ということであった。このような社会学的知識は、まさに明治日本の啓蒙思想家たちがもとめていた知識であった。このような日本の知識人の要求にもとづいて、西洋の社会学は日本に導入されることになった。
日本にはじめてオーギュスト・コントとその社会学を紹介したのは、上述のように西周であったが、これはまだ専門的なコントの研究とはいえなかった。日本の最初の大学であった東京大学にはじめて社会学講座ができたのは1893(明治26)年で、初代担当者は外山正一であった。外山はイギリスとアメリカに留学し、東大ではスペンサーを講じて「スペンサーの番人」といわれた。東大における社会学講座の二代目の担当者であり、社会学研究室(文学部社会学科)の創設を担ったのは、建部頓吾であった。建部はフランスに留学し、帰国後東大において、コントに依拠しながら同時に儒学および国体思想を取り入れた、ナショナリズムの要素の強い伝統主義的な社会学思想を講じて、「社会学はコントによって創始されトンゴによって完成した」というのを常とした、と伝えられている。
明治初期における社会学導入において、このようにコントとスペンサーの歴史的順序が逆になった(コントはスペンサーよりも22歳年長)のは非常に興味のある点である。これはスペンサーの諸著作が、J・S・ミルのそれとともに、自由民権運動の実践的必要とむすびつけられて、明治初期に熱心に読まれたためであった。明治初期の日本の知識人がヨーロッパの社会学に求めたものは、何よりも自由および平等の思想だったのであって、この目的に適合したのはミルとスペンサーであったのである。ミルおよびスペンサーと異なって、コントは、自由民権運動が収束し、議会が開設され、日本の政治の秩序が固まったのちに呼び出された。これは、コントがポスト・フランス革命の段階にあって秩序と進歩の両立を目標に掲げ、フランス革命が秩序を破壊したあとの社会再組織化を彼の中心課題としたことに見合っていたと考えられる。
初期社会学のドイツ語文献からは、ローレンツ・フォン・シュタインが有賀長男によって日本に紹介された。シュタインは国家による「上からの組織化」を主題としていたので、その学説は明治政府の官僚たちによって受容されるのに適していた。他方、マルクスは、コントやスペンサーやシュタインのいずれとも同世代人であったが、明治啓蒙主義者たちはマルクスを日本に紹介しなかった。これは、マルクスが「危険」視されたことのほかに、明治啓蒙主義者たちのもとめたものが近代化の過程そのものにあったのにたいして、マルクスが論じていたのは近代化が実現されたあとの問題であったという意味で、当時の日本ではまだ需要されるにいたらなかったからであると説明され得るであろう。マルクス思想の日本人の紹介は、二〇世紀の初頭以降、大部分社会学の枠の外で行われた。日本の社会学の中にマルクス主義が入ってきたのは、一九三〇年代以降のことであった。以下では、サン‐シモン、コント、ミル、スペンサー、シュタイン、マルクスを社会学第一世代と呼ぶことにしよう(第二節)。
フランスのデュルケーム、ドイツのテンニェス、ジンメル、マックス・ヴェーバー、アメリカのサムナー、ウォード、ギディングス、トーマス、ミード、クーリーら十九世紀末から二〇世紀初頭にかけて活躍した社会学者たちを、ここでは社会学第二世代と呼ぼう。社会学第一世代が大学アカデミズムの外で活動したのに対して、社会学第二世代は社会学を初めて大学アカデミズムの中に引き入れた。それゆえ彼らは、社会学の知識体系と方法論のレベルを高めることに、努力を傾注した。この段階において、日本に最も大きな影響を与えたのは、それ以前の段階とははっきり異なってドイツの社会学であった。ジンメルによるミクロ社会学としての形式社会学の提唱は、第一世代のマクロ社会学からの大きな方向転換として受けとられた。しかし同時に、この方向転換の是非をめぐって、形式社会学を受けいれた高田保馬と、総合社会学を主張した新明正道との間でなされた論争が、大きな関心の焦点になった。他方、マックス・ヴェーバーは、1920年代ごろから日本に知られはじめ、一方で彼の「資本主義の精神」テーゼ、他方で理念型や理解社会学や没価値性に関する方法論的テーゼが関心をあつめた。宗教社会学・支配の社会学・経済社会学・法社会学など多数の異なる焦点をもつヴェーバー社会学の全貌がわかってきたのは、戦後のことである。
デュルケームもヴェーバーと並んで1920年代から日本に導入され、ヴェーバーと同様に現在にいたるまで長く持続的な研究が行われてきたが、その全貌がわかってきたのはやはりヴェーバー同様に戦後のことである。ヴェーバーの場合と似て、デュルケームの場合にも、多数の異なった視点をもつ彼の諸研究のうち、初めは近代化テーゼと方法論テーゼが関心をあつめ、その後しだいに道徳、アノミー、聖と俗、社会主義論などの個別的トピックスに感心が広げられていった。この段階におけるフランス社会学に対する関心の圧倒的に大きな部分は、デュルケームとデュルケーム学派によって占められた。
これとは対照的に、スペンサー以後のイギリス社会学、たとえばバジョットやホブハウスなどは、日本ではあまり読まれなかった。第二世代の社会学における英語文献としては、二〇世紀初頭から活動を開始した、サムナー、ウォード、ギディングスらに始まる初期のアメリカ社会学が日本に入ってきた。以上が第二世代の社会学の日本への導入として扱われる(第三節)。
ヨーロッパ社会学の第三世代は、第二次大戦後の世界の社会学を形成した人びとである。戦後は、日本の社会学も世界の社会学も、膨大な量的拡大をとげることになったから、社会学者の数はふえ、個別的研究主題はいちじるしく多様化した。ここでは、その中から次の三つの主題をとりあげることにしよう。第一は、第二次大戦後の日本の社会学が、集中的なアメリカニゼーションを経験したことである。戦後一九五〇年代くらいまでのあいだ、日本の外交関係における日米間のそれの圧倒的な大きな比重を背景に、アメリカ社会学の動向は、日本においてほとんど国際社会学そのものの動向として受けとられた。
第二は、そのアメリカ社会学からの影響の中で、とりわけパーソンズの社会学理論が日本に大きなインパクトを与えたことである。ここではとくに、パーソンズ社会学の受容をめぐって、日本の社会学の中に多くの論争が生みだされたことに注意を向けたい。私はそれらの論争が、全体として、日本におけるパーソンズ受容を受動的なものから能動的なものにするのに貢献したと評価したいと考えるが、構造―機能理論に対する批判の中には、誤解に発するものもいろいろあった。以下では、現在の時点に立って、これらの論争の意味について自省してみたいと思う。パーソンズはアメリカ人ではあったが、彼の社会学研究はヨーロッパ第二世代の社会学からスタートしたので、かれの没後パーソンズの社会学の遺産は、むしろアメリカにおけるよりもヨーロッパにおいてより生産的に引継がれた点が重要である。だから日本でも、パーソンズからハバーマス、ルーマン、ミュンヒなど、ヨーロッパ社会学への回帰が生じることになった。
第三は、戦後の日本社会学の圧倒的なアメリカニゼーションの波にもかからわず、その中でのヨーロッパ指向の持続を典型的に示すものとして、マンハイムの知識社会学とイデオロギー論が強い関心をもって読まれ続けたということである。しかし他方では、そのイデオロギー論への強い関心は、ベルのイデオロギー終焉テーゼ、マルクス主義の退潮、そしてペレストロイカ、ソ連共産党の解体と、東欧諸国の民主化革命、ドイツ統一によって、目下急速に変化をとげつつある。このことの意味について考えることは、ひいては、日本の社会学が明治いらい果たしてきた啓蒙主義的近代の担い手という広義におけるイデオロギー的役割についての、現在の時点における自省を促さずにはおかないであろう(第四節)。」富永健一『マックス・ヴェーバーと東洋の近代化』講談社学術文庫、1998. pp.174-179.
富永先生のこの部分の説明は、第二世代の社会学者とその仕事については、ほぼ定説を踏まえて簡潔な要約になっていると思います。ただ第二次大戦後の、第三世代とくにパーソンズへの傾注は富永先生自体の評価に大きく影響しているのは当然で、これも戦後日本の社会学の状況をよく反映していると思います。もうわれわれの世代は、それすら過去の歴史になりつつありますが、改めて読み直してみます。
B.朝鮮半島情勢の転回と報道
朝鮮戦争休戦以来、朝鮮半島で対立してきた南北政府のトップ同士が、北緯38度の板門店の境界線を手を取ってまたいで、融和的な会談を行い共同宣言を発表した。これは確かに、これまでの北朝鮮は冒険的「挑発行為」を繰り返す「ならずもの国家」で、周辺国のみならず大国アメリカに核攻撃をちらつかせる危機を、日米韓が共同戦線を張って対抗するという構図を信じていた日本人に、一種の当惑をもたらす事態かもしれない。この延長上に、すでに米朝首脳会談が実現すべく準備されている。かつて冷戦の厳しい対立を前提にしていたアメリカと中国が、日本の頭越しにニクソン訪中で国交回復したときのことが思い出される。
「反共」を謳い文句に台湾を中国の正当政府としていた日本の自民党政権は、これで動揺するなか、田中角栄は機敏に対処して首相になると中国に飛んで毛沢東、周恩来と握手して日中国交回復を実現した。こういうドラスティックな国際的枠組みの変更は、トップの指導者の大局的な決断が状況を一変させることで現実になる。外交は、イデオロギーの建前ではなく現実的な利害で動くのだが、それが少し長い時間とフォーカスを引いた視点から見て、結局お互いの安定と利益をもたらすのなら、両国民はそれを支持するだろうし、それを決断した指導者の名は歴史に残るだろう。
今回の北朝鮮の戦略は、まだ進行中なのでどうなるのか予断を許さないが、金体制の存続を朝鮮戦争の終結と合わせて国際社会に承認させる方向で、韓国文政権が積極的に動くものと予想される。金正恩がこれをあらかじめ狙って、平昌オリンピックの好機を利用したのだとしたら、彼は頭に血がのぼった狂気の独裁者ではなく、冷静で巧妙な政治家として見直されるかもしれない。軍事的な挑発を相手から自分に有利な言質を得るために取引する弱小国の戦略としては非常に合理的だ。トランプは単純な頭脳で対応するだろうから、おそらく東アジアが面倒なことにならないなら、核を捨てればオッケー!と北と握手するだろう。だとすれば、安倍晋三は困るのではないか?
金正恩が、いつでも日本のどこにでもミサイルを撃ち込めるぞ!おめ~らに核攻撃を仕掛けるのは簡単だと言ってくれたおかげで、総選挙で安倍自民党は圧勝できた。いわば金正恩は最大の安倍晋三の応援団だったと思っていたかもしれない。悲願の憲法9条改正についても、北朝鮮の脅威に備えるには、自衛隊の強化と国防への強い同意が必要だという訴えは、多くの有権者を自民党への投票に導いたと思う。でも、それは見当違いの妄想に等しいことがわかった。それどころか、朝鮮半島の軍事的構図が南北トップ、トランプ大統領と金正恩が直接会って何を合意するかによって、相対的に半島が安定に向かう可能性は高い。だとするなら、日本の冷戦ガラパゴス思考に囚われた安倍政権は、いま何をするのが国益なのかよく考えてほしい。北朝鮮にとっても韓国にとっても、もはや日本という国は政治的に無視できる存在になりつつある。それは、安倍晋三という首相が意図している時代錯誤な世界認識と偏狭なヴィジョンが、この数年間の習近平の中国が主導する東アジアの流動的な変化に対して、ただ無条件にアメリカ政府に盲従し大統領のご機嫌をうかがう姿勢に徹していることで明らかだ。
「板門店宣言 全文を報道 朝鮮中央通信「完全な非核化」も
北朝鮮の朝鮮中央通信は28日、板門店で27日行われた南北首脳会談を伝えた。会談後に発表された板門店宣言も、「完全な非核化を報じた核のない朝鮮半島」という表現も含めてそのまま全文を報道した。核開発問題を巡る北朝鮮の新たな方針は伝えていない。
同通信は首脳会談の様子も詳しく報道。首脳会談について「北南関係問題と朝鮮半島平和保障問題などについて意見交換した」と説明した。記念植樹や夕食会の様子も伝えた。
27日午後に金正恩朝鮮労働党委員長と文在寅韓国大統領が2人だけで30分以上意見交換したことについて「真摯に談話を交わした」と伝えた。情報関係筋によれば、金正恩氏はこの席で「完全な非核化の意思」を文氏に伝えたという。
同通信は「わが民族の祖国統一史に特記すべき歴史的な瞬間」と伝え、正恩氏の指導力を褒めたたえた。
28日付の労働新聞(電子版)も全6面のうち1~4面を使って南北首脳会談を報道。写真61枚を掲載した。1面トップ記事は見出しで「民族の和解団結と平和繁栄の新時代を開く歴史的出会い」と評した。
一方、同通信は27日、北朝鮮が21日に発表した核実験や大陸間弾道ミサイル(ICBM)発射中止などの措置に対する米国の反応を批判する論評を伝えた。
論評はこの措置について「核兵器のない世界建設に貢献するために積極的に努力することを宣言した」と説明。「米国の一部が我々の戦力的決断に対し、被害妄想的に反応している」と批判した。(ソウル=牧野愛博)
非核化への疑念払拭 深い議論あったのか:韓国メディア、評価二分
板門店での南北首脳会談から一夜明けた28日、韓国主要紙は1面に韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が抱擁する場面などの写真を大きく掲載した。ただ、会談の最大の焦点だった「非核化」で成果を出せたかどうかは評価が分かれた。
文政権に好意的な進歩(革新)系のハンギョレ新聞は、2㌻を使って文氏と正恩氏が手を携えて軍事境界線を越える特大写真を掲載。板門店宣言に「完全な非核化」を共同目標にすることが盛り込まれたとして、「板門店の春」と題した社説で「北側の非核化の意思がないという疑念は確実に払拭された」と主張。6月初めまでの米朝首脳会談を前に「文氏は両国を仲介する好位置に浮上した」と称賛した。
これに対し、最大部数を誇る保守系の朝鮮日報は社説で、板門店宣言の非核化の言及はわずかな分量で「北の核廃棄について本当に深い議論があったのか疑わしいほど貧弱な内容」だと酷評。米朝会談の不確実性を減らすという役割は果たせなかったと主張した。
各紙ともに、正恩氏や妻李(リ)雪主(ソルチュ)氏が夕食会などで見せた打ち解けた姿については、好意的に手厚く紹介した。(ソウル=武田肇)」
在韓米軍の扱い 北朝鮮と議論も:マティス米国防長官
マティス米国防長官は27日、米国防総省で記者団から今後の北朝鮮との交渉次第で朝鮮損層の「休戦協定」を「平和協定」に転換する際の在韓米軍の取り扱いを問われ、「同盟国と最初に議論し、当然北朝鮮とも議論する課題の一つだろう」と述べ、将来的に議論の対象になる可能性を示した。
マティス氏は「私は(将来を占う)水晶玉をもっていないが、我々は(朝鮮戦争が起きた)1950年以来初めて楽観的になっている」と述べた。(ワシントン)」朝日新聞2018年4月28日夕刊2面総合
韓国内のメディアも、政権側に立つハンギョレ新聞と、部数最大の大衆紙朝鮮日報の論調は、今回の南北首脳会談について意見は分かれているようだ。同じ民族がかつて殺しあった悲惨で過酷な過去を生きた人がまだいる社会では、どちらの立場に立つにせよ、「笑って済ませる」ことなどできないし、南北分断を解消することなど遠い理想かもしれない。でも、半島の人びとの多くは、いま進行しつつある大展開に大きな期待を抱くだろうと思う。それは北も南もそうであって、アメリカの動向もあるしまだ不確定要素が多すぎるが、日本が当事者とは思われていないという点で、安倍政権にはプラスになる動きとはとてもいえまい。
ぼくは36年間、日本のある大学で社会学を教える教員をしてきた人間です。社会学といっても中はいろいろ分野が細かく分かれているのだけれど、担当する授業科目は教員ごとに決まっていて、ぼくはおもに「社会調査」という授業をやっていたのです。「社会調査」というのは、社会学を研究する時の材料集めのための道具箱のようなものです。頭で考える「理論」はそのままでは現実をちゃんと説明しているかどうかわかりません。しかし、むやみにいきあたりばったりでデータを集めていじくっても、そもそも何が問題なのかがわかっていなければ、あいまいな結論しか出てきません。これは社会学に限らず、どんな学問でもいえることだと学生さんたちには言ってきました。
日本の社会科学系の学問は、ほとんど明治以降にヨーロッパから輸入されたものといってもいいので、もとはイギリスとかフランスとか19世紀の先進国の社会をモデルに作られた新しい学問を、後発の極東の小国が必死で追いかけるためにお勉強したことから現在に至っているわけです。とくに、社会学は「社会」という複雑で変化していく対象をどう捉えればいいのか、対象を絞り込んだ経済学や歴史学などよりも、はじめから面倒な課題を抱えていました。日本の場合、明治以降の最大の国家的課題は、いかにして「近代化」(はじめ「文明開化」という言葉で語られたもの)を達成するか、それは江戸時代までの社会を大きく変えていこうとするわけですから、まずは西洋の社会学者が何を言っているのかをお勉強しなければならなかったのです。しかし、19世紀の終わりあたりの時点では、西洋の方もまだ社会学という学問自体があまりしっかりできあがっていなくて、大学で正規の科目にはなっていなかったのです。
「明治維新以後、日本の解明派知識人は、伝統的儒学から西洋の社会科学思想へと方向転換した。二二〇年間の鎖国の空白は大きく、この間に西洋は科学革命・啓蒙思想・市民革命・産業革命をつうじて近代化を達成し、日本を大きく引き離してしまった。このことに気づいた日本の啓蒙思想の祖・福沢諭吉は、主著『文明論之概略』において、ヨーロッパとアメリカを文明国、トルコ・中国・日本などを半開の国、アフリカとオーストラリアを野蛮の国と区分して、半開および野蛮の国はヨーロッパの文明を目的としてこれを学ぶことにより、みずからを文明国に高めることができるという進化論的見解を提示した。そのさい福沢は、「外の文明」(衣服・飲食・住居・機械・政令・法律)と「内の文明」(精神ないし人民の気風)とを分け、内の文明を学ぶことこそが重要で、またむつかしいのだということを強調し、彼が西洋の文明を目的とするというのは、内の文明を学ぶことを意味すると主張した(福沢、1875、全集四、1959:16-22)。
福沢のこの区分に従えば、社会学は「内の文明」を研究する知識分野の一つである。コント、ミル、スペンサーからデュルケーム、ジンメル、マックス・ヴェーバーにいたるヨーロッパ社会学の巨匠たちが書いたことは、近代化された社会と文化は近代以前の社会と文化とどのように異なるか、ということであった。このような社会学的知識は、まさに明治日本の啓蒙思想家たちがもとめていた知識であった。このような日本の知識人の要求にもとづいて、西洋の社会学は日本に導入されることになった。
日本にはじめてオーギュスト・コントとその社会学を紹介したのは、上述のように西周であったが、これはまだ専門的なコントの研究とはいえなかった。日本の最初の大学であった東京大学にはじめて社会学講座ができたのは1893(明治26)年で、初代担当者は外山正一であった。外山はイギリスとアメリカに留学し、東大ではスペンサーを講じて「スペンサーの番人」といわれた。東大における社会学講座の二代目の担当者であり、社会学研究室(文学部社会学科)の創設を担ったのは、建部頓吾であった。建部はフランスに留学し、帰国後東大において、コントに依拠しながら同時に儒学および国体思想を取り入れた、ナショナリズムの要素の強い伝統主義的な社会学思想を講じて、「社会学はコントによって創始されトンゴによって完成した」というのを常とした、と伝えられている。
明治初期における社会学導入において、このようにコントとスペンサーの歴史的順序が逆になった(コントはスペンサーよりも22歳年長)のは非常に興味のある点である。これはスペンサーの諸著作が、J・S・ミルのそれとともに、自由民権運動の実践的必要とむすびつけられて、明治初期に熱心に読まれたためであった。明治初期の日本の知識人がヨーロッパの社会学に求めたものは、何よりも自由および平等の思想だったのであって、この目的に適合したのはミルとスペンサーであったのである。ミルおよびスペンサーと異なって、コントは、自由民権運動が収束し、議会が開設され、日本の政治の秩序が固まったのちに呼び出された。これは、コントがポスト・フランス革命の段階にあって秩序と進歩の両立を目標に掲げ、フランス革命が秩序を破壊したあとの社会再組織化を彼の中心課題としたことに見合っていたと考えられる。
初期社会学のドイツ語文献からは、ローレンツ・フォン・シュタインが有賀長男によって日本に紹介された。シュタインは国家による「上からの組織化」を主題としていたので、その学説は明治政府の官僚たちによって受容されるのに適していた。他方、マルクスは、コントやスペンサーやシュタインのいずれとも同世代人であったが、明治啓蒙主義者たちはマルクスを日本に紹介しなかった。これは、マルクスが「危険」視されたことのほかに、明治啓蒙主義者たちのもとめたものが近代化の過程そのものにあったのにたいして、マルクスが論じていたのは近代化が実現されたあとの問題であったという意味で、当時の日本ではまだ需要されるにいたらなかったからであると説明され得るであろう。マルクス思想の日本人の紹介は、二〇世紀の初頭以降、大部分社会学の枠の外で行われた。日本の社会学の中にマルクス主義が入ってきたのは、一九三〇年代以降のことであった。以下では、サン‐シモン、コント、ミル、スペンサー、シュタイン、マルクスを社会学第一世代と呼ぶことにしよう(第二節)。
フランスのデュルケーム、ドイツのテンニェス、ジンメル、マックス・ヴェーバー、アメリカのサムナー、ウォード、ギディングス、トーマス、ミード、クーリーら十九世紀末から二〇世紀初頭にかけて活躍した社会学者たちを、ここでは社会学第二世代と呼ぼう。社会学第一世代が大学アカデミズムの外で活動したのに対して、社会学第二世代は社会学を初めて大学アカデミズムの中に引き入れた。それゆえ彼らは、社会学の知識体系と方法論のレベルを高めることに、努力を傾注した。この段階において、日本に最も大きな影響を与えたのは、それ以前の段階とははっきり異なってドイツの社会学であった。ジンメルによるミクロ社会学としての形式社会学の提唱は、第一世代のマクロ社会学からの大きな方向転換として受けとられた。しかし同時に、この方向転換の是非をめぐって、形式社会学を受けいれた高田保馬と、総合社会学を主張した新明正道との間でなされた論争が、大きな関心の焦点になった。他方、マックス・ヴェーバーは、1920年代ごろから日本に知られはじめ、一方で彼の「資本主義の精神」テーゼ、他方で理念型や理解社会学や没価値性に関する方法論的テーゼが関心をあつめた。宗教社会学・支配の社会学・経済社会学・法社会学など多数の異なる焦点をもつヴェーバー社会学の全貌がわかってきたのは、戦後のことである。
デュルケームもヴェーバーと並んで1920年代から日本に導入され、ヴェーバーと同様に現在にいたるまで長く持続的な研究が行われてきたが、その全貌がわかってきたのはやはりヴェーバー同様に戦後のことである。ヴェーバーの場合と似て、デュルケームの場合にも、多数の異なった視点をもつ彼の諸研究のうち、初めは近代化テーゼと方法論テーゼが関心をあつめ、その後しだいに道徳、アノミー、聖と俗、社会主義論などの個別的トピックスに感心が広げられていった。この段階におけるフランス社会学に対する関心の圧倒的に大きな部分は、デュルケームとデュルケーム学派によって占められた。
これとは対照的に、スペンサー以後のイギリス社会学、たとえばバジョットやホブハウスなどは、日本ではあまり読まれなかった。第二世代の社会学における英語文献としては、二〇世紀初頭から活動を開始した、サムナー、ウォード、ギディングスらに始まる初期のアメリカ社会学が日本に入ってきた。以上が第二世代の社会学の日本への導入として扱われる(第三節)。
ヨーロッパ社会学の第三世代は、第二次大戦後の世界の社会学を形成した人びとである。戦後は、日本の社会学も世界の社会学も、膨大な量的拡大をとげることになったから、社会学者の数はふえ、個別的研究主題はいちじるしく多様化した。ここでは、その中から次の三つの主題をとりあげることにしよう。第一は、第二次大戦後の日本の社会学が、集中的なアメリカニゼーションを経験したことである。戦後一九五〇年代くらいまでのあいだ、日本の外交関係における日米間のそれの圧倒的な大きな比重を背景に、アメリカ社会学の動向は、日本においてほとんど国際社会学そのものの動向として受けとられた。
第二は、そのアメリカ社会学からの影響の中で、とりわけパーソンズの社会学理論が日本に大きなインパクトを与えたことである。ここではとくに、パーソンズ社会学の受容をめぐって、日本の社会学の中に多くの論争が生みだされたことに注意を向けたい。私はそれらの論争が、全体として、日本におけるパーソンズ受容を受動的なものから能動的なものにするのに貢献したと評価したいと考えるが、構造―機能理論に対する批判の中には、誤解に発するものもいろいろあった。以下では、現在の時点に立って、これらの論争の意味について自省してみたいと思う。パーソンズはアメリカ人ではあったが、彼の社会学研究はヨーロッパ第二世代の社会学からスタートしたので、かれの没後パーソンズの社会学の遺産は、むしろアメリカにおけるよりもヨーロッパにおいてより生産的に引継がれた点が重要である。だから日本でも、パーソンズからハバーマス、ルーマン、ミュンヒなど、ヨーロッパ社会学への回帰が生じることになった。
第三は、戦後の日本社会学の圧倒的なアメリカニゼーションの波にもかからわず、その中でのヨーロッパ指向の持続を典型的に示すものとして、マンハイムの知識社会学とイデオロギー論が強い関心をもって読まれ続けたということである。しかし他方では、そのイデオロギー論への強い関心は、ベルのイデオロギー終焉テーゼ、マルクス主義の退潮、そしてペレストロイカ、ソ連共産党の解体と、東欧諸国の民主化革命、ドイツ統一によって、目下急速に変化をとげつつある。このことの意味について考えることは、ひいては、日本の社会学が明治いらい果たしてきた啓蒙主義的近代の担い手という広義におけるイデオロギー的役割についての、現在の時点における自省を促さずにはおかないであろう(第四節)。」富永健一『マックス・ヴェーバーと東洋の近代化』講談社学術文庫、1998. pp.174-179.
富永先生のこの部分の説明は、第二世代の社会学者とその仕事については、ほぼ定説を踏まえて簡潔な要約になっていると思います。ただ第二次大戦後の、第三世代とくにパーソンズへの傾注は富永先生自体の評価に大きく影響しているのは当然で、これも戦後日本の社会学の状況をよく反映していると思います。もうわれわれの世代は、それすら過去の歴史になりつつありますが、改めて読み直してみます。
B.朝鮮半島情勢の転回と報道
朝鮮戦争休戦以来、朝鮮半島で対立してきた南北政府のトップ同士が、北緯38度の板門店の境界線を手を取ってまたいで、融和的な会談を行い共同宣言を発表した。これは確かに、これまでの北朝鮮は冒険的「挑発行為」を繰り返す「ならずもの国家」で、周辺国のみならず大国アメリカに核攻撃をちらつかせる危機を、日米韓が共同戦線を張って対抗するという構図を信じていた日本人に、一種の当惑をもたらす事態かもしれない。この延長上に、すでに米朝首脳会談が実現すべく準備されている。かつて冷戦の厳しい対立を前提にしていたアメリカと中国が、日本の頭越しにニクソン訪中で国交回復したときのことが思い出される。
「反共」を謳い文句に台湾を中国の正当政府としていた日本の自民党政権は、これで動揺するなか、田中角栄は機敏に対処して首相になると中国に飛んで毛沢東、周恩来と握手して日中国交回復を実現した。こういうドラスティックな国際的枠組みの変更は、トップの指導者の大局的な決断が状況を一変させることで現実になる。外交は、イデオロギーの建前ではなく現実的な利害で動くのだが、それが少し長い時間とフォーカスを引いた視点から見て、結局お互いの安定と利益をもたらすのなら、両国民はそれを支持するだろうし、それを決断した指導者の名は歴史に残るだろう。
今回の北朝鮮の戦略は、まだ進行中なのでどうなるのか予断を許さないが、金体制の存続を朝鮮戦争の終結と合わせて国際社会に承認させる方向で、韓国文政権が積極的に動くものと予想される。金正恩がこれをあらかじめ狙って、平昌オリンピックの好機を利用したのだとしたら、彼は頭に血がのぼった狂気の独裁者ではなく、冷静で巧妙な政治家として見直されるかもしれない。軍事的な挑発を相手から自分に有利な言質を得るために取引する弱小国の戦略としては非常に合理的だ。トランプは単純な頭脳で対応するだろうから、おそらく東アジアが面倒なことにならないなら、核を捨てればオッケー!と北と握手するだろう。だとすれば、安倍晋三は困るのではないか?
金正恩が、いつでも日本のどこにでもミサイルを撃ち込めるぞ!おめ~らに核攻撃を仕掛けるのは簡単だと言ってくれたおかげで、総選挙で安倍自民党は圧勝できた。いわば金正恩は最大の安倍晋三の応援団だったと思っていたかもしれない。悲願の憲法9条改正についても、北朝鮮の脅威に備えるには、自衛隊の強化と国防への強い同意が必要だという訴えは、多くの有権者を自民党への投票に導いたと思う。でも、それは見当違いの妄想に等しいことがわかった。それどころか、朝鮮半島の軍事的構図が南北トップ、トランプ大統領と金正恩が直接会って何を合意するかによって、相対的に半島が安定に向かう可能性は高い。だとするなら、日本の冷戦ガラパゴス思考に囚われた安倍政権は、いま何をするのが国益なのかよく考えてほしい。北朝鮮にとっても韓国にとっても、もはや日本という国は政治的に無視できる存在になりつつある。それは、安倍晋三という首相が意図している時代錯誤な世界認識と偏狭なヴィジョンが、この数年間の習近平の中国が主導する東アジアの流動的な変化に対して、ただ無条件にアメリカ政府に盲従し大統領のご機嫌をうかがう姿勢に徹していることで明らかだ。
「板門店宣言 全文を報道 朝鮮中央通信「完全な非核化」も
北朝鮮の朝鮮中央通信は28日、板門店で27日行われた南北首脳会談を伝えた。会談後に発表された板門店宣言も、「完全な非核化を報じた核のない朝鮮半島」という表現も含めてそのまま全文を報道した。核開発問題を巡る北朝鮮の新たな方針は伝えていない。
同通信は首脳会談の様子も詳しく報道。首脳会談について「北南関係問題と朝鮮半島平和保障問題などについて意見交換した」と説明した。記念植樹や夕食会の様子も伝えた。
27日午後に金正恩朝鮮労働党委員長と文在寅韓国大統領が2人だけで30分以上意見交換したことについて「真摯に談話を交わした」と伝えた。情報関係筋によれば、金正恩氏はこの席で「完全な非核化の意思」を文氏に伝えたという。
同通信は「わが民族の祖国統一史に特記すべき歴史的な瞬間」と伝え、正恩氏の指導力を褒めたたえた。
28日付の労働新聞(電子版)も全6面のうち1~4面を使って南北首脳会談を報道。写真61枚を掲載した。1面トップ記事は見出しで「民族の和解団結と平和繁栄の新時代を開く歴史的出会い」と評した。
一方、同通信は27日、北朝鮮が21日に発表した核実験や大陸間弾道ミサイル(ICBM)発射中止などの措置に対する米国の反応を批判する論評を伝えた。
論評はこの措置について「核兵器のない世界建設に貢献するために積極的に努力することを宣言した」と説明。「米国の一部が我々の戦力的決断に対し、被害妄想的に反応している」と批判した。(ソウル=牧野愛博)
非核化への疑念払拭 深い議論あったのか:韓国メディア、評価二分
板門店での南北首脳会談から一夜明けた28日、韓国主要紙は1面に韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が抱擁する場面などの写真を大きく掲載した。ただ、会談の最大の焦点だった「非核化」で成果を出せたかどうかは評価が分かれた。
文政権に好意的な進歩(革新)系のハンギョレ新聞は、2㌻を使って文氏と正恩氏が手を携えて軍事境界線を越える特大写真を掲載。板門店宣言に「完全な非核化」を共同目標にすることが盛り込まれたとして、「板門店の春」と題した社説で「北側の非核化の意思がないという疑念は確実に払拭された」と主張。6月初めまでの米朝首脳会談を前に「文氏は両国を仲介する好位置に浮上した」と称賛した。
これに対し、最大部数を誇る保守系の朝鮮日報は社説で、板門店宣言の非核化の言及はわずかな分量で「北の核廃棄について本当に深い議論があったのか疑わしいほど貧弱な内容」だと酷評。米朝会談の不確実性を減らすという役割は果たせなかったと主張した。
各紙ともに、正恩氏や妻李(リ)雪主(ソルチュ)氏が夕食会などで見せた打ち解けた姿については、好意的に手厚く紹介した。(ソウル=武田肇)」
在韓米軍の扱い 北朝鮮と議論も:マティス米国防長官
マティス米国防長官は27日、米国防総省で記者団から今後の北朝鮮との交渉次第で朝鮮損層の「休戦協定」を「平和協定」に転換する際の在韓米軍の取り扱いを問われ、「同盟国と最初に議論し、当然北朝鮮とも議論する課題の一つだろう」と述べ、将来的に議論の対象になる可能性を示した。
マティス氏は「私は(将来を占う)水晶玉をもっていないが、我々は(朝鮮戦争が起きた)1950年以来初めて楽観的になっている」と述べた。(ワシントン)」朝日新聞2018年4月28日夕刊2面総合
韓国内のメディアも、政権側に立つハンギョレ新聞と、部数最大の大衆紙朝鮮日報の論調は、今回の南北首脳会談について意見は分かれているようだ。同じ民族がかつて殺しあった悲惨で過酷な過去を生きた人がまだいる社会では、どちらの立場に立つにせよ、「笑って済ませる」ことなどできないし、南北分断を解消することなど遠い理想かもしれない。でも、半島の人びとの多くは、いま進行しつつある大展開に大きな期待を抱くだろうと思う。それは北も南もそうであって、アメリカの動向もあるしまだ不確定要素が多すぎるが、日本が当事者とは思われていないという点で、安倍政権にはプラスになる動きとはとてもいえまい。