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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

ソシオロジ 事始め 半島の世論はどうなの?

2018-04-29 13:19:01 | 日記
A.日本の社会学のはじまり
 ぼくは36年間、日本のある大学で社会学を教える教員をしてきた人間です。社会学といっても中はいろいろ分野が細かく分かれているのだけれど、担当する授業科目は教員ごとに決まっていて、ぼくはおもに「社会調査」という授業をやっていたのです。「社会調査」というのは、社会学を研究する時の材料集めのための道具箱のようなものです。頭で考える「理論」はそのままでは現実をちゃんと説明しているかどうかわかりません。しかし、むやみにいきあたりばったりでデータを集めていじくっても、そもそも何が問題なのかがわかっていなければ、あいまいな結論しか出てきません。これは社会学に限らず、どんな学問でもいえることだと学生さんたちには言ってきました。
日本の社会科学系の学問は、ほとんど明治以降にヨーロッパから輸入されたものといってもいいので、もとはイギリスとかフランスとか19世紀の先進国の社会をモデルに作られた新しい学問を、後発の極東の小国が必死で追いかけるためにお勉強したことから現在に至っているわけです。とくに、社会学は「社会」という複雑で変化していく対象をどう捉えればいいのか、対象を絞り込んだ経済学や歴史学などよりも、はじめから面倒な課題を抱えていました。日本の場合、明治以降の最大の国家的課題は、いかにして「近代化」(はじめ「文明開化」という言葉で語られたもの)を達成するか、それは江戸時代までの社会を大きく変えていこうとするわけですから、まずは西洋の社会学者が何を言っているのかをお勉強しなければならなかったのです。しかし、19世紀の終わりあたりの時点では、西洋の方もまだ社会学という学問自体があまりしっかりできあがっていなくて、大学で正規の科目にはなっていなかったのです。

 「明治維新以後、日本の解明派知識人は、伝統的儒学から西洋の社会科学思想へと方向転換した。二二〇年間の鎖国の空白は大きく、この間に西洋は科学革命・啓蒙思想・市民革命・産業革命をつうじて近代化を達成し、日本を大きく引き離してしまった。このことに気づいた日本の啓蒙思想の祖・福沢諭吉は、主著『文明論之概略』において、ヨーロッパとアメリカを文明国、トルコ・中国・日本などを半開の国、アフリカとオーストラリアを野蛮の国と区分して、半開および野蛮の国はヨーロッパの文明を目的としてこれを学ぶことにより、みずからを文明国に高めることができるという進化論的見解を提示した。そのさい福沢は、「外の文明」(衣服・飲食・住居・機械・政令・法律)と「内の文明」(精神ないし人民の気風)とを分け、内の文明を学ぶことこそが重要で、またむつかしいのだということを強調し、彼が西洋の文明を目的とするというのは、内の文明を学ぶことを意味すると主張した(福沢、1875、全集四、1959:16-22)。
 福沢のこの区分に従えば、社会学は「内の文明」を研究する知識分野の一つである。コント、ミル、スペンサーからデュルケーム、ジンメル、マックス・ヴェーバーにいたるヨーロッパ社会学の巨匠たちが書いたことは、近代化された社会と文化は近代以前の社会と文化とどのように異なるか、ということであった。このような社会学的知識は、まさに明治日本の啓蒙思想家たちがもとめていた知識であった。このような日本の知識人の要求にもとづいて、西洋の社会学は日本に導入されることになった。
 日本にはじめてオーギュスト・コントとその社会学を紹介したのは、上述のように西周であったが、これはまだ専門的なコントの研究とはいえなかった。日本の最初の大学であった東京大学にはじめて社会学講座ができたのは1893(明治26)年で、初代担当者は外山正一であった。外山はイギリスとアメリカに留学し、東大ではスペンサーを講じて「スペンサーの番人」といわれた。東大における社会学講座の二代目の担当者であり、社会学研究室(文学部社会学科)の創設を担ったのは、建部頓吾であった。建部はフランスに留学し、帰国後東大において、コントに依拠しながら同時に儒学および国体思想を取り入れた、ナショナリズムの要素の強い伝統主義的な社会学思想を講じて、「社会学はコントによって創始されトンゴによって完成した」というのを常とした、と伝えられている。
 明治初期における社会学導入において、このようにコントとスペンサーの歴史的順序が逆になった(コントはスペンサーよりも22歳年長)のは非常に興味のある点である。これはスペンサーの諸著作が、J・S・ミルのそれとともに、自由民権運動の実践的必要とむすびつけられて、明治初期に熱心に読まれたためであった。明治初期の日本の知識人がヨーロッパの社会学に求めたものは、何よりも自由および平等の思想だったのであって、この目的に適合したのはミルとスペンサーであったのである。ミルおよびスペンサーと異なって、コントは、自由民権運動が収束し、議会が開設され、日本の政治の秩序が固まったのちに呼び出された。これは、コントがポスト・フランス革命の段階にあって秩序と進歩の両立を目標に掲げ、フランス革命が秩序を破壊したあとの社会再組織化を彼の中心課題としたことに見合っていたと考えられる。
 初期社会学のドイツ語文献からは、ローレンツ・フォン・シュタインが有賀長男によって日本に紹介された。シュタインは国家による「上からの組織化」を主題としていたので、その学説は明治政府の官僚たちによって受容されるのに適していた。他方、マルクスは、コントやスペンサーやシュタインのいずれとも同世代人であったが、明治啓蒙主義者たちはマルクスを日本に紹介しなかった。これは、マルクスが「危険」視されたことのほかに、明治啓蒙主義者たちのもとめたものが近代化の過程そのものにあったのにたいして、マルクスが論じていたのは近代化が実現されたあとの問題であったという意味で、当時の日本ではまだ需要されるにいたらなかったからであると説明され得るであろう。マルクス思想の日本人の紹介は、二〇世紀の初頭以降、大部分社会学の枠の外で行われた。日本の社会学の中にマルクス主義が入ってきたのは、一九三〇年代以降のことであった。以下では、サン‐シモン、コント、ミル、スペンサー、シュタイン、マルクスを社会学第一世代と呼ぶことにしよう(第二節)。
 フランスのデュルケーム、ドイツのテンニェス、ジンメル、マックス・ヴェーバー、アメリカのサムナー、ウォード、ギディングス、トーマス、ミード、クーリーら十九世紀末から二〇世紀初頭にかけて活躍した社会学者たちを、ここでは社会学第二世代と呼ぼう。社会学第一世代が大学アカデミズムの外で活動したのに対して、社会学第二世代は社会学を初めて大学アカデミズムの中に引き入れた。それゆえ彼らは、社会学の知識体系と方法論のレベルを高めることに、努力を傾注した。この段階において、日本に最も大きな影響を与えたのは、それ以前の段階とははっきり異なってドイツの社会学であった。ジンメルによるミクロ社会学としての形式社会学の提唱は、第一世代のマクロ社会学からの大きな方向転換として受けとられた。しかし同時に、この方向転換の是非をめぐって、形式社会学を受けいれた高田保馬と、総合社会学を主張した新明正道との間でなされた論争が、大きな関心の焦点になった。他方、マックス・ヴェーバーは、1920年代ごろから日本に知られはじめ、一方で彼の「資本主義の精神」テーゼ、他方で理念型や理解社会学や没価値性に関する方法論的テーゼが関心をあつめた。宗教社会学・支配の社会学・経済社会学・法社会学など多数の異なる焦点をもつヴェーバー社会学の全貌がわかってきたのは、戦後のことである。
 デュルケームもヴェーバーと並んで1920年代から日本に導入され、ヴェーバーと同様に現在にいたるまで長く持続的な研究が行われてきたが、その全貌がわかってきたのはやはりヴェーバー同様に戦後のことである。ヴェーバーの場合と似て、デュルケームの場合にも、多数の異なった視点をもつ彼の諸研究のうち、初めは近代化テーゼと方法論テーゼが関心をあつめ、その後しだいに道徳、アノミー、聖と俗、社会主義論などの個別的トピックスに感心が広げられていった。この段階におけるフランス社会学に対する関心の圧倒的に大きな部分は、デュルケームとデュルケーム学派によって占められた。
 これとは対照的に、スペンサー以後のイギリス社会学、たとえばバジョットやホブハウスなどは、日本ではあまり読まれなかった。第二世代の社会学における英語文献としては、二〇世紀初頭から活動を開始した、サムナー、ウォード、ギディングスらに始まる初期のアメリカ社会学が日本に入ってきた。以上が第二世代の社会学の日本への導入として扱われる(第三節)。
 ヨーロッパ社会学の第三世代は、第二次大戦後の世界の社会学を形成した人びとである。戦後は、日本の社会学も世界の社会学も、膨大な量的拡大をとげることになったから、社会学者の数はふえ、個別的研究主題はいちじるしく多様化した。ここでは、その中から次の三つの主題をとりあげることにしよう。第一は、第二次大戦後の日本の社会学が、集中的なアメリカニゼーションを経験したことである。戦後一九五〇年代くらいまでのあいだ、日本の外交関係における日米間のそれの圧倒的な大きな比重を背景に、アメリカ社会学の動向は、日本においてほとんど国際社会学そのものの動向として受けとられた。
 第二は、そのアメリカ社会学からの影響の中で、とりわけパーソンズの社会学理論が日本に大きなインパクトを与えたことである。ここではとくに、パーソンズ社会学の受容をめぐって、日本の社会学の中に多くの論争が生みだされたことに注意を向けたい。私はそれらの論争が、全体として、日本におけるパーソンズ受容を受動的なものから能動的なものにするのに貢献したと評価したいと考えるが、構造―機能理論に対する批判の中には、誤解に発するものもいろいろあった。以下では、現在の時点に立って、これらの論争の意味について自省してみたいと思う。パーソンズはアメリカ人ではあったが、彼の社会学研究はヨーロッパ第二世代の社会学からスタートしたので、かれの没後パーソンズの社会学の遺産は、むしろアメリカにおけるよりもヨーロッパにおいてより生産的に引継がれた点が重要である。だから日本でも、パーソンズからハバーマス、ルーマン、ミュンヒなど、ヨーロッパ社会学への回帰が生じることになった。
 第三は、戦後の日本社会学の圧倒的なアメリカニゼーションの波にもかからわず、その中でのヨーロッパ指向の持続を典型的に示すものとして、マンハイムの知識社会学とイデオロギー論が強い関心をもって読まれ続けたということである。しかし他方では、そのイデオロギー論への強い関心は、ベルのイデオロギー終焉テーゼ、マルクス主義の退潮、そしてペレストロイカ、ソ連共産党の解体と、東欧諸国の民主化革命、ドイツ統一によって、目下急速に変化をとげつつある。このことの意味について考えることは、ひいては、日本の社会学が明治いらい果たしてきた啓蒙主義的近代の担い手という広義におけるイデオロギー的役割についての、現在の時点における自省を促さずにはおかないであろう(第四節)。」富永健一『マックス・ヴェーバーと東洋の近代化』講談社学術文庫、1998. pp.174-179.

 富永先生のこの部分の説明は、第二世代の社会学者とその仕事については、ほぼ定説を踏まえて簡潔な要約になっていると思います。ただ第二次大戦後の、第三世代とくにパーソンズへの傾注は富永先生自体の評価に大きく影響しているのは当然で、これも戦後日本の社会学の状況をよく反映していると思います。もうわれわれの世代は、それすら過去の歴史になりつつありますが、改めて読み直してみます。



B.朝鮮半島情勢の転回と報道
 朝鮮戦争休戦以来、朝鮮半島で対立してきた南北政府のトップ同士が、北緯38度の板門店の境界線を手を取ってまたいで、融和的な会談を行い共同宣言を発表した。これは確かに、これまでの北朝鮮は冒険的「挑発行為」を繰り返す「ならずもの国家」で、周辺国のみならず大国アメリカに核攻撃をちらつかせる危機を、日米韓が共同戦線を張って対抗するという構図を信じていた日本人に、一種の当惑をもたらす事態かもしれない。この延長上に、すでに米朝首脳会談が実現すべく準備されている。かつて冷戦の厳しい対立を前提にしていたアメリカと中国が、日本の頭越しにニクソン訪中で国交回復したときのことが思い出される。
「反共」を謳い文句に台湾を中国の正当政府としていた日本の自民党政権は、これで動揺するなか、田中角栄は機敏に対処して首相になると中国に飛んで毛沢東、周恩来と握手して日中国交回復を実現した。こういうドラスティックな国際的枠組みの変更は、トップの指導者の大局的な決断が状況を一変させることで現実になる。外交は、イデオロギーの建前ではなく現実的な利害で動くのだが、それが少し長い時間とフォーカスを引いた視点から見て、結局お互いの安定と利益をもたらすのなら、両国民はそれを支持するだろうし、それを決断した指導者の名は歴史に残るだろう。
今回の北朝鮮の戦略は、まだ進行中なのでどうなるのか予断を許さないが、金体制の存続を朝鮮戦争の終結と合わせて国際社会に承認させる方向で、韓国文政権が積極的に動くものと予想される。金正恩がこれをあらかじめ狙って、平昌オリンピックの好機を利用したのだとしたら、彼は頭に血がのぼった狂気の独裁者ではなく、冷静で巧妙な政治家として見直されるかもしれない。軍事的な挑発を相手から自分に有利な言質を得るために取引する弱小国の戦略としては非常に合理的だ。トランプは単純な頭脳で対応するだろうから、おそらく東アジアが面倒なことにならないなら、核を捨てればオッケー!と北と握手するだろう。だとすれば、安倍晋三は困るのではないか?
金正恩が、いつでも日本のどこにでもミサイルを撃ち込めるぞ!おめ~らに核攻撃を仕掛けるのは簡単だと言ってくれたおかげで、総選挙で安倍自民党は圧勝できた。いわば金正恩は最大の安倍晋三の応援団だったと思っていたかもしれない。悲願の憲法9条改正についても、北朝鮮の脅威に備えるには、自衛隊の強化と国防への強い同意が必要だという訴えは、多くの有権者を自民党への投票に導いたと思う。でも、それは見当違いの妄想に等しいことがわかった。それどころか、朝鮮半島の軍事的構図が南北トップ、トランプ大統領と金正恩が直接会って何を合意するかによって、相対的に半島が安定に向かう可能性は高い。だとするなら、日本の冷戦ガラパゴス思考に囚われた安倍政権は、いま何をするのが国益なのかよく考えてほしい。北朝鮮にとっても韓国にとっても、もはや日本という国は政治的に無視できる存在になりつつある。それは、安倍晋三という首相が意図している時代錯誤な世界認識と偏狭なヴィジョンが、この数年間の習近平の中国が主導する東アジアの流動的な変化に対して、ただ無条件にアメリカ政府に盲従し大統領のご機嫌をうかがう姿勢に徹していることで明らかだ。

「板門店宣言 全文を報道 朝鮮中央通信「完全な非核化」も
 北朝鮮の朝鮮中央通信は28日、板門店で27日行われた南北首脳会談を伝えた。会談後に発表された板門店宣言も、「完全な非核化を報じた核のない朝鮮半島」という表現も含めてそのまま全文を報道した。核開発問題を巡る北朝鮮の新たな方針は伝えていない。
 同通信は首脳会談の様子も詳しく報道。首脳会談について「北南関係問題と朝鮮半島平和保障問題などについて意見交換した」と説明した。記念植樹や夕食会の様子も伝えた。
 27日午後に金正恩朝鮮労働党委員長と文在寅韓国大統領が2人だけで30分以上意見交換したことについて「真摯に談話を交わした」と伝えた。情報関係筋によれば、金正恩氏はこの席で「完全な非核化の意思」を文氏に伝えたという。
 同通信は「わが民族の祖国統一史に特記すべき歴史的な瞬間」と伝え、正恩氏の指導力を褒めたたえた。
 28日付の労働新聞(電子版)も全6面のうち1~4面を使って南北首脳会談を報道。写真61枚を掲載した。1面トップ記事は見出しで「民族の和解団結と平和繁栄の新時代を開く歴史的出会い」と評した。
 一方、同通信は27日、北朝鮮が21日に発表した核実験や大陸間弾道ミサイル(ICBM)発射中止などの措置に対する米国の反応を批判する論評を伝えた。
 論評はこの措置について「核兵器のない世界建設に貢献するために積極的に努力することを宣言した」と説明。「米国の一部が我々の戦力的決断に対し、被害妄想的に反応している」と批判した。(ソウル=牧野愛博)

非核化への疑念払拭 深い議論あったのか:韓国メディア、評価二分
 板門店での南北首脳会談から一夜明けた28日、韓国主要紙は1面に韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が抱擁する場面などの写真を大きく掲載した。ただ、会談の最大の焦点だった「非核化」で成果を出せたかどうかは評価が分かれた。
 文政権に好意的な進歩(革新)系のハンギョレ新聞は、2㌻を使って文氏と正恩氏が手を携えて軍事境界線を越える特大写真を掲載。板門店宣言に「完全な非核化」を共同目標にすることが盛り込まれたとして、「板門店の春」と題した社説で「北側の非核化の意思がないという疑念は確実に払拭された」と主張。6月初めまでの米朝首脳会談を前に「文氏は両国を仲介する好位置に浮上した」と称賛した。
 これに対し、最大部数を誇る保守系の朝鮮日報は社説で、板門店宣言の非核化の言及はわずかな分量で「北の核廃棄について本当に深い議論があったのか疑わしいほど貧弱な内容」だと酷評。米朝会談の不確実性を減らすという役割は果たせなかったと主張した。
 各紙ともに、正恩氏や妻李(リ)雪主(ソルチュ)氏が夕食会などで見せた打ち解けた姿については、好意的に手厚く紹介した。(ソウル=武田肇)」

 在韓米軍の扱い 北朝鮮と議論も:マティス米国防長官
 マティス米国防長官は27日、米国防総省で記者団から今後の北朝鮮との交渉次第で朝鮮損層の「休戦協定」を「平和協定」に転換する際の在韓米軍の取り扱いを問われ、「同盟国と最初に議論し、当然北朝鮮とも議論する課題の一つだろう」と述べ、将来的に議論の対象になる可能性を示した。
 マティス氏は「私は(将来を占う)水晶玉をもっていないが、我々は(朝鮮戦争が起きた)1950年以来初めて楽観的になっている」と述べた。(ワシントン)」朝日新聞2018年4月28日夕刊2面総合
 
 韓国内のメディアも、政権側に立つハンギョレ新聞と、部数最大の大衆紙朝鮮日報の論調は、今回の南北首脳会談について意見は分かれているようだ。同じ民族がかつて殺しあった悲惨で過酷な過去を生きた人がまだいる社会では、どちらの立場に立つにせよ、「笑って済ませる」ことなどできないし、南北分断を解消することなど遠い理想かもしれない。でも、半島の人びとの多くは、いま進行しつつある大展開に大きな期待を抱くだろうと思う。それは北も南もそうであって、アメリカの動向もあるしまだ不確定要素が多すぎるが、日本が当事者とは思われていないという点で、安倍政権にはプラスになる動きとはとてもいえまい。
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ただ西洋においてのみ… 東洋はまだ遅れているか?

2018-04-27 08:56:54 | 日記
A. nur im Okzident
 たしかにマックス・ヴェーバーの書いた本には、「ただ西洋においてのみ」こうした現象は存在した、という言い方が頻出する。21世紀の現代では、世界各地で人びとの生活は多かれ少なかれ近代化していて、もはや西洋にしかありえないことなどほとんどない。ぼくたちは、グローバル化した世界で、飛行機に乗り、スマホを使い、好きな時に商品を買い、自由に移動して快適な暮らしをしている。しかし、そうなった経過と原因を考えると、ヴェーバーのいう「ただ西洋においてのみ」はじまった出来事が、世界に徐々に広がっていったと考えざるをえない。そして、この近代化のさまざまな側面を説明するには、宗教というものの役割が重要だということをヴェーバーは強調していた。富永健一『マックス・ヴェーバーとアジアの近代化』から第三章の一部。

「ヴェーバーが「儒教と道教」における初めの四つの章で『社会学的基礎』として分析の対象にしたのは、中国の近代以前の社会構造であった。そのさい重要なことは、ヴェーバーが伝統社会を研究する時、宗教社会学においてであれ、支配の社会学においてであれ、また経済社会学においてであれ、常に西洋と非西洋との対比を念頭に置いているということである。現代の西洋社会は近代化された社会である。従って、彼が非西洋・前近代社会を研究対象にえらぶさいの目的は、それを西洋社会の前近代段階と比較することをつうじて、非西洋社会の近代化の可能性を検討することにある。すなわち、ヴェーバーの宗教社会学、支配の社会学、経済社会学は常に近代化というかくれた共通主題をもっている。だから中国の伝統社会についての彼の研究は、一方で近代社会 対 伝統社会という対比に、他方で西洋 対 非西洋という対比に関心を向けているのである。
 ヴェーバーは、『宗教社会学論集』の「序言」の冒頭で、「まさに西洋という地盤において、またそこにおいてのみ、普遍的な意義と妥当性をもった発展傾向にある――すくなくともそう考えておきたい――文化現象があらわれるにいたったのは、どのような事情の連鎖によるものであるのか」という問いを立て、この問いに答えるために、彼が「ただ西洋においてのみ」(nur im Okzident)存在したと考えた諸項目の長いリストを列挙した(GAzRS:Ⅰ:1-12)。
 -普遍妥当的と認められる発展段階にまでと唄うした科学
 -ローマ法とその流れに属する西洋の法の厳密な法律学的図式や思考形式
-合理的な和声音楽
 -ゴシック式ドームの合理的利用
 -新聞や雑誌
 -学問の合理的・体系的な専門的経営
 -近代国家と近代経済の礎柱たる専門官僚
-(家父長制国家に対比された意味での)身分制国家
-定期的に選出された代議士から成る議会
-合理的に制定された憲法と合理的に制定された法律をもち、合理的に制定された規則すなわち法規に指向した専門官僚による行政を備えた、政治的アンシュタルトという意味での国家
-交換機会の利用による利潤の期待、従って(形式的に)平和的な営利機会にもとづいたものとしての資本主義的な経済行為 
 -資本計算
 -(形式的に)自由な労働の合理的-資本主義的な組織化
 -家計と経営の分離
-合理的な簿記
そしてヴェーバーは最後に、もちろんさまざまの個別的レベルで考えることができるが、彼は人間の態度レベルで考えられた、 
 -生活様式における合理主義
をとくに重視する。そうしてそのような生活様式(Lebensfuhrung)の形成にとって最も重要な要因として、宗教がとり出される。かくして、以上の諸項目のリストは、究極的に宗教につながっていくことになり、かくして宗教社会学的分析を呼び起こすことになる。
 ヴェーバーの列挙したこれらの諸項目は、一見雑然と並べられているけれども、これらをつぎの四つの次元に整理することが可能であろう。すなわち、
(1)科学-技術的近代化の起動因としての科学的精神。上記の諸項目のうち、「科学」「学問の合理的・体系的な専門的経営」がこれに属する。西洋において、ガリレオの天文学・物理学にはじまる科学革命と、ワットの蒸気機関の発明にはじまる産業革命がこれを実現した。それに対して東洋では、この次元での近代化を独力で生み出すことができなかった。だから中国では十九世紀後半の洋務運動、日本では十八世紀いらい医学の分野からはじまった洋学研究をつうじて、西洋近代の科学技術を輸入しなければならなかった。 
(2)経済的近代化の起動因としての資本主義の精神。上記の諸項目のうち、「資本主義的な経済行為」「資本計算」「自由な労働の合理的-資本主義的組織化」「家計と経営の分離」「合理的な簿記」がこれに属する。ヴェーバーが強調したように、利潤動機それ自体は西洋にも東洋にも、また古代にも中世にもあったが、近代西洋以外のところではそれらは資本主義の「エートス」にまで高められるにはいたらなかった(GAzRS:Ⅰ:30-34)。日本で1890年代以降におこった資本主義的産業化は、初め西洋に学んでこれを輸入し、やがてそれらが日本社会に内部化されて独自の発展をとげたものである。
(3)政治的近代化の起動因としての平等主義の精神。上記の諸項目のうち、「(家父長制国家に対比されたものとしての)身分制国家」「定期的に選出された代議士から成る議会」「政治的アンシュタルトとしての国家」がこれに属する。家父長制国家においては、家臣はヘル(君主、皇帝)に完全に従属しており、自律性の余地を与えられていない。家父長制におけるヘル家計が地域的に分散化した形態である家産制国家が克服され、平等主義の精神が制度化されることが、政治的次元における近代化を意味する。西ヨーロッパにおいては、十七世紀いらいの絶対王政のもとで啓蒙主義的合理主義が市民社会の理念を形成したことによって、平等主義の制度化が世界で最も早く実現された。中国も日本も十九世紀半ばまでそのことを知らずに眠り続けていた。
(4)社会文化的近代化の起動因としての合理主義の精神。上記の諸項目のうち、「ローマ法とその流れに属する西洋の法」「合理的な和声音楽」「ゴシック式ドーム」「新聞や雑誌」「専門官僚」「西洋文化における合理主義、とりわけ生活様式における合理主義」がこれに属する。とくに最後のものは、ヴェーバーのあげた全項目の根元にある人間の生活態度をあらわしている。このような生活態度のあり方をその根底において規定している要因を、ヴェーバーは宗教に求めた。宗教は本来的に人間の非合理的な側面にかかわるが、近代化はこの本来的に非合理的な領域を合理化する。ヴェーバーによれば、宗教の合理化の度合いをはかる尺度は二つある。一つは呪術からの解放の度合い、もう一つは神と世界との関係が体系的に統合されている度合いである。ヴェーバーの見るところによれば、禁欲的プロテスタンティズムは、この両面で合理化を押し進めたのに対し、儒教はなお多くの非合理的要素をのこしたままである(GAzRS:Ⅰ:512-516)。
 ヴェーバーがこれらのことを書いた1920年から今日まで70年近い歳月がたち、この間に世界は大きく変化した。今日ではそれらのうちの多くのものはもはや西洋だけに限られず、日本をはじめ多くの非西洋諸社会によって共有されるにいたっている。もちろんそのさい、非西洋諸国はそれらを西洋からの文化的伝播をつうじて受けいれたのであって、自力で生み出したのではない、というのは正しい。しかし、もし一国の近代化を、その国民が上記の諸項目を享受することができるようになることであると定義してよいとするなら、近代化はもはや西洋にのみ限られているわけではなく、非西洋人もいまやこれらの項目のより一層の発展を担っている、と言い得るであろう。日本はこの側に立っている。しかし同時に、ヴェーバーのあげた項目の多くがまだ世界の発展途上国民の多くによって共有されていない限り、ヴェーバーの「ただ西洋においてのみ」命題は、時代遅れになったわけではないと言わなければならない。中国の内陸部はまだこの側に立っている。」富永健一『マックス・ヴェーバーとアジアの近代化』講談社学術文庫、pp.111-116.

 この第三章「マックス・ヴェーバーと中国および日本の近代化」は1988年に雑誌『思想』に載ったものの採録だから、この中国に関する最後の部分「中国の内陸部はまだこの側に立っている」といえるかどうかは検討事項だろう。しかし、大筋はそのとおりだと思う。



B.改憲に積極的な人たちは、多数派とはいえない?
 安倍晋三という人の本音は、自分が日本の歴史に大きな足跡を残す仕事の最大のものとして、憲法9条を変えるということを目標とし、その手段をずっと考えている、と思う。そしていよいよ、改憲の国会発議が見えるところまできた、ここでやらなければ改憲は難しくなる、という判断から9条2項を残して自衛隊の存在を書きこむという、もっとも実現可能性の高い案を出している。しかし、そもそも多数の国民は喫緊の課題として改憲が必要だと思っていないし、これほど安倍政権が安定長期政権になることを歓迎しているかに見えたのに、実は憲法に関する議論は広く一般の関心を呼ばず、したがって相変わらず20世紀にやっていた、極右的な国家主義の「改憲派」と決まり文句の平和主義の「護憲派」が、議論抜きで相変わらず対立しているかのような構図をメディアは繰り返している。たぶん、そうではないのだと思う。だが、世論調査というものは、質問の設定と調査設計によって結果はかなり違ってくるので、それを知ったうえで大きな傾向を推測するには意味があると思う。

「自民改憲案に否定多数 「安倍政権下で反対」61% 共同世論調査
 共同通信社は15日、憲法記念日の五月三日を前に郵送方式で実施した憲法に関する世論調査の結果をまとめた。自民党が改憲を目指す四項目全てで「反対」や「不要」の否定的意見が上回った。このうち九条改正は必要ない46%、必要44%で拮抗した。教育充実のための改憲は不要70%となり、必要28%に大差をつけた。安倍晋三首相の下での改憲に61%が反対し、賛成は38%だった。
 自民党は九条への自衛隊明記、教育充実、緊急事態条国の新設、参院選「合区」解消―の四項目について条文案をまとめたが、世論の理解が得られていない現状が明らかになった格好だ。同党が年内の国会発議も視野に2020年の改正憲法施行を目指していることには反対が62%に上り、賛成は36%にとどまった。
 調査は三~四月に十八歳以上の男女三千人を対象に実施した。改憲を「必要」「どちらかといえば必要」とする改憲派は計58%。改憲は必要ないとする護憲派は「どちらかといえば」を含め39%だった。
 自民党の改憲四項目のうち、大規模災害時に対応する緊急事態条項をめぐって内閣の権限を強め、個人の権利を制限できる条文の新設に反対59%、賛成42%。国政選挙が実施できない場合の議員任期延長に反対66%、賛成32%だった。
 16年七月の参院選で導入された合区に関しては選挙制度の抜本改正47%、現行制度の維持15%計62%が改憲は不要とした。合区解消の改憲に賛成は33%。
 一方、改憲による解散権制約について尋ねたところ「解散権に制約を加えるべきだ」は57%で、必要ないとする40%を上回った。憲法に「環境権」や「知る権利」などの新たな権利を「明記すべきだ」は62%、必要ないは36%となった。【注】小数点一位を四捨五入した。」東京新聞2018年4月26日朝刊1面。

「安倍政権下の改憲に不信感 世論調査 9条の行方を注視
「時代の要請に合わせて改正すべき条文はあるが、急ぐ必要はない」。今回の世論調査結果からは、こんな民意が読み取れそうだ。安倍晋三首相の下での改憲や、首相が掲げる2020年改憲には六割超が反対。九条の行方を注視する姿勢や、政権への根強い不信感が浮かび上がった。
 改憲を「必要」「どちらかといえば必要」とする計58%の人に理由を尋ねると、64%が「条文や内容が時代に合わなくなっている」と回答。改憲を「不要」「どちらかといえば不要」とした護憲派計39%は、理由として「戦争放棄を掲げ、平和が保たれている」(42%)「改正で軍備拡張につながる恐れがある」(32%)を挙げ、九条に関係する理由が七割超を占めた。
 全員に九条改憲の必要性を尋ねると、賛成は44%、反対が46%。賛成した人の61%は「北朝鮮の核・ミサイルや中国の軍備拡張など、日本を取り巻く安全保障環境の変化」を理由に挙げた。賛成者に改憲時に重視すべき点を聞くと「自衛隊の存在明記」が47%で最多。「海外活動に歯止めの規定を設ける」が24%で続き、「軍として明記」は14%。
 首相は、戦力不保持などを定めた九条二項を維持しつつ、自衛隊の存在を書き加えると提案している。条文案について全員に聞くと、首相案への賛同者は40%となり、「九条二項を削除し、自衛隊の目的、性格を明確にする」(28%)「九条に自衛隊明記の必要はない」(29%)を上回った。20年改憲のため今年中に国会発議を、という自民党のスケジュールへの賛成は36%にとどまり、62%が反対した。
 現政権をけん制する傾向は、衆院の解散権にも及ぶ。首相の解散権に制約を加えるべきかどうか尋ねると、57%が賛成し、反対の40%を上回った。
 日本が戦後七十三年間、海外で武力行使をしなかったのは「九条があったからこそ」と答えた人は69%に上り、「他の要因もあったから」の29%を圧倒した。
 教育の無償化や充実・強化に向けて「憲法を改正すべきだ」とする回答が28%だった一方、法律で実施可能として「改憲の必要はない」は70%を占めた。自身や家族の経済状況に「満足していない」とする層でも傾向は変わらなかった。
 年代別で見ると、改憲派は、三十代以下の若年層が最も高く42%。中年層(40~50代)30%、高年層(60代以上)19%で、年代が高くなるにつれて割合が低下した。いずれの年代でも改憲不要派が上回った。
 経済状況に「満足している」と答えた人のうち改憲派は24%、改憲不要派は74%。「満足していない」では改憲派は74%。「満足していない」では改憲派33%、改憲不要派65%だった。
 主な政党支持層別の改憲派の割合は自民党31%、立憲民主党19%、公明党39%、共産党16%、日本維新の会33%。「支持する政党はない」とする無党派層は28%だった。」東京新聞2018年4月26日朝刊7面総合欄。
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合理的精神の欠如について… ダイヤル電話機?

2018-04-25 11:37:29 | 日記
A.文化的近代化としての宗教の革新
 ぼくは日本という場所にいて「近代化」modernizationということをずっと考えているのだが、このテーマに関してやはりマックス・ヴェーバーという人の考えたことは、きわめて重要だと思い、また日本の社会学者で「近代化」を正面から問い続けた富永健一という人の書いたものから、多くを学んだと思っている。富永の『マックス・ヴェーバーとアジアの近代化』という本は、西欧と東アジア(おもに中国・韓国・日本)の近代化を比較するというモチーフで、要約的に論じているもので、改めて読んでみると多くの示唆を与えられた。
 いまぼくが僭越ながらやっている講義のひとつに、「モダン・アートの社会学」というのがあるのだが、文化的近代化という論点は新たなヒントを提供しているように思ったので、少し引用してみる。富永の問題設定は、西欧に始まった「近代化」には四つの側面があり、それは同時並行して起こったのではなく、時間的な継起のずれがあったとする。四つとは、経済的近代化(資本主義的産業化)、政治的近代化(民主主義的議会政治)、社会的近代化(共同体から個人へ)、文化的近代化(精神の合理化)であり、西欧ではまず文化的近代化に始まり、それが社会的、政治的近代化を招き、最後に経済的近代化が実現したのに対し、アジアとくに日本の場合で考えると、順序は逆に、経済的近代化を優先して、政治的・社会的近代化が遅れて徐々に実現し、文化的近代化は一番遅れているという認識をとる。そして、この文化的近代化を、ヴェーバーの宗教社会学から敷衍して、日本の宗教の現状からみることになる。

「ヴェーバーの見るところによれば、日本人の生活態度の精神は、宗教的要因以外のところから来ている。それは日本が中国と異なって、早い時期に中国タイプの家産制からヨーロッパ・タイプの封建制に移行したからである、というのがヴェーバーの観察であった。封建制のレーエン関係(封土を介した封建領主と家臣との関係)は、ヴェーバーの解釈では、家産制における絶対的従属と異なり、主従のあいだに「解約可能の強固な契約的法律関係を作り出す」。このことが、日本に西洋的意味での個人主義の基盤を提供した。かくしてヴェーバーは、「日本は資本主義の精神を自ら作り出すことはできなかったとしても、比較的容易に資本主義を外からの完成品として受け取ることができた」と結論した(Weber, 1920, Ⅱ:300)。
 日本の資本主義の場合には、たしかにヴェーバーのように論ずることが可能であろう。しかしそれなら、韓国はどのように説明したらよいのだろうか。さらには、中国本土における文化大革命収束以後の高度経済成長は、どのように説明したらよいのだろうか。これらの問題について考えるとき、われわれはヴェーバーを超えて進まなければならないということに、気がつくのである。
 戦後日本における政治的近代化と文化的近代化の問題点
 アジアにおける「資本主義の精神」という問題を考える場合に重要なことは、「資本主義」は経済の近代化に関わる要因であるが、「精神」は文化の近代化にかかわる要因である、ということである。われわれは第一節において、近代化の構成要素を四つに分け、それら四つの近代化は、歴史的に見て同時に起こってきたものではないということに注意した。そしてそれらが起こる順序は、西洋と東洋とで逆になってきた、ということを見た。すなわち、西洋では文化的近代化はもっとも早く、経済的近代化は最も遅かったのに対して、日本ではその反対で、経済的近代化が最も早く、文化的近代化は最も遅いのであった。このコントラストは、西洋においては、資本主義の発展が起った時その精神的基盤はあらかじめできていたのに対して、東洋においてはそうではなかった、ということを示唆するものである。
 戦前における日本の近代化の歴史的経過を通観することから、経済的近代化の成功のみが先行し、それ以外の三つの近代化はそれよりずっと立ち遅れており、とりわけ文化的近代化は最も遅れている、ということを私は指摘した。そこでこの説の課題は、戦後五十年の日本の近代化において、経済的近代化以外の近代化におけるそのような遅れが、はたして解消したといえるかどうか、この一点に絞られることになる。
戦後日本の政治に関しては、まず政党政治における民主主義のルールが確立されたことが指摘できるであろう。少なくとも、戦後半世紀の日本には、戦前に大正デモクラシーが軍部独裁に逆戻りしたようなことは起こらなかったし、発展途上国に見られるような独裁政権の長期持続も起こらなかった。からこれは日本における政治的近代化の発展を意味する、といちおう言ってよかろう。しかしその政党政治の中身を見ると、(1)1955年いらい38年間自民党の単独支配がつづき、わずか二年の中断をへて1995年以後自民党はまた政権に復帰したこと、(2)1972年の田中角栄内閣の登場いらい、とりわけ金権政治と汚職事件の連続があったこと、(3)1990年代に入ってからはバブル崩壊にともなう大規模な金融不祥事と官僚制の腐敗が明るみに出たこと、この三つが主要な政治問題として注目されねばならない。これらの諸事件は、政治的近代化の遅れによってひき起こされてきた権力の固定化と非合理性が克服され得ない、という事実をあらわすものとして注目されねばならないであろう。
つぎに戦後日本における狭義の社会的近代化に関しては、戦後改革において家父長制家族の解体があったこと、高度経済成長にともなう都市化によって村落共同体の解体が起ったこと、の二点がまずあげられよう。これらは、社会的近代化の発展を意味する。しかし、日本の社会的近代化を経済的近代化と結びつけて見ようとするとき、戦後日本の最大の問題は、世界の注目を集めた「日本的経営」の持続があったということである。日本的経営は、これまで日本経済の高度成長の原動力として称賛されてきたし、それはたしかに否定できない事実であるが、同時にそれは、組織の社会的近代化における遅れとしてとらえられる面をもっており、この観点からは、日本の企業における近代化の未成熟の問題が注目されねばならないであろう。日本的経営は、1960年代を中心とする高度経済成長期に広まったが、石油ショック後不況において最初のゆらぎを経験し、ついでバブル後不況において解体の危機に立たされることになった。しかし戦後の半世紀間、日本的経営は日本の大企業に定着し、そのことが日本社会における世代内移動率を西洋先進諸国におけるよりも低い水準にとどめてきた事実は、否定することができない(富永健一・宮本光晴編、1998)。
第三に、戦後日本の文化に関しては、技術の進歩、科学的研究の進歩、芸術の進歩、などの事実がまずあげられよう。これらは、文化的近代化の発展を意味する。しかし目を宗教界に向けると、「新宗教」および「新新宗教」と呼ばれる多様な民衆宗教の非近代性が日本の社会に引き起こした、多くの非合理的な社会問題が指摘されなばならない。とりわけ影響の大きかったものとしては、(1)「折伏」と呼ばれる攻撃的な布教運動で教勢を拡大したのち、「公明党」として政治に進出した創価学会、(2)「原理運動」や「勝共連合」の名で多数の学生を全国規模で集団生活に引き込んで「洗脳」し、親たちの反対運動を引き起こしてきた統一教会、(3)多数の若者を全国規模で集団生活に組織化し、多くの場合彼らに薬物を用いるなどして激烈な「マインド・コントロール」を行ない、善良だったはずの若者たちをサリン事件のテロルにまで引き入れたオウム真理教、の三つがとりわけ大きな社会問題としてあげられねばならないだろう。
これら三つのうち、日本的経営の問題については第四節でとりあげることにしよう。この節では、政治の側面および文化の側面に関して、戦後日本の近代化の未成熟を分析することにしたい。」富永健一『マックス・ヴェーバーとアジアの近代化』講談社学術文庫、1998.pp.72-76.

富永の戦後日本近代化の未成熟の分析は、政治的近代化の戦後的形態としての自社二大政党が固定する55年体制と政権交代なしの自民党政治および官僚制の腐敗などを瞥見し、「保守二政党」+市民派第三極という混迷の構図に政治的近代化の未成熟を見る。これは1996年頃に書かれたものなので、その後の政治の展開とくに民主党による政権交代とその失敗については当然触れられていない。そして問題は、次の文化的近代化の未成熟の分析である。

「オウム真理教がひきおこした1994年6月の「松本サリン事件」と、1995年3月の「東京地下鉄サリン事件」は、文化面における戦後近代化の欠陥を、悲劇的に象徴化する出来事であった。オウム真理教事件はいったいなぜ起こったのか。それのもつ意味は、いったいどのように解釈したらよいであろうか。
 戦後に出現した「新新宗教」と呼ばれる多数の教団――阿含宗とか真光教団とかGLA教団などから幸福の科学やオウム真理教まで――を見ると、呪術力、超能力、霊能力、さらには薬物までも用いるというように、非合理的な力を公然と動員することにより、エクスタシーをつくり出すことを共通の特性とするようになっている。またそれらが興味本位にマスコミによってとりあげられたことが、核家族の中で親の影響力が低下した批判力のない若者たちに、非近代的・非合理的な呪術への関心を駆り立てたと思われる。宗教学者の中にも、そのような傾向を支持する雰囲気が見られたのは、驚くべきことであった――さすがにオウム真理教の集団的犯罪行為が露呈したあとでは、新新宗教を持ち上げる言論は消滅したが。
 第二節で述べたように、マックス・ヴェーバーの宗教社会学は、西洋ではカルヴィニズムが徹底して呪術からの開放を推進したのに対して、アジアでは仏教や儒教・道教が呪術を排除しなかった、という差異に注目した。カルヴィニズムの合理主義は、近代資本主義の精神に直結し得たのに対して、アジアの諸宗教は神秘主義にとどまって、資本主義の精神のような合理主義への道をとり得なかった、というのがヴェーバー・テーゼであった。この違いは、キリスト教が宗教改革をつうじて合理化と近代化を達成したのに対して、アジアの諸宗教には宗教改革の自生がなく、宗教は終始伝統主義にとどまったことによるのであった。
 ヴェーバーのこのような観点を日本の宗教にあてはめてみよう。宗教学者は、日本の宗教を、(1)古代から中世初期にかけて成立ないし渡来して以来の長い制度的伝統をもつ、既成宗教としての神道・仏教・儒教、(2)幕末から戦前期にかけて成立し戦後にいっそうの隆盛を見た天理教・創価学会・立正佼成会などの「新宗教」、(3)戦後とりわけ高度経済成長期以後に成立し急速に発展した阿含宗・真光教団・GLA教団その他多くの「新新宗教」、の三つに区分してきた。そこでこの三分類にしたがって、日本における宗教と近代化との関係を考えてみると、次のようなことがいえるだろう。
 日本における既成宗教である神道・仏教・儒教は宗教改革を経験しておらず、したがって伝統主義からの離脱を実現していない。だから日本では、それらの宗教は近代思想とは見なされてこなかった。日本において近代思想とは、宗教から出てきたものではなくて、福沢諭吉や中村正直らをはじめとする「明六社」系の明治啓蒙思想家たちによって、西洋の文献をつうじて教えられるものであった、という事実が重要である。日本の近代において、既成宗教はヴェーバーの意味での「合理化」の担い手になり得なかった。民衆の関心は、西洋におけるプロテスタントたちのように宗教の合理化を実現する方向には向けられず、仏教を中心とする既成宗教の信者たちは葬祭や祖先供養に終始するのに対して、既成宗教にあきたらない人びとは、非合理的な宗教体験を与えてくれるものを求める方向にすすんだ。そのような関心をみたすものとして登場してきたのが、宗教のいっそうの非合理化を実現する担い手としての、新宗教・新新宗教であった。オウム真理教の事件が日本の戦後史においてもつ意味は、戦後日本の若い世代にそのような非合理主義に対する批判力がまったくないことが端的に露呈された、ということにあるというべきだろう。
 天理教や創価学会や立正佼成会などの「新宗教」は、既成宗教と違って、専門聖職者でない民衆の中から教祖があらわれて、信者の獲得に成功するという前例を開いた。この方式が成功して、新宗教の中から巨大化したものがいくつも出現したことにより、近代日本の宗教界には、新興の諸宗教がつぎつぎに登場してくるというパターンができあがった。それらの新宗教は今日ではすでに十分エスタブリッシュされたから、いまやよりいっそう非合理的な呪術力の行使は「新新宗教」に求められることになったのである。
 とりわけここで問題にしたいのは、新新宗教がつぎつぎに信者を集め得たという事実である。このことは、戦後の高度産業化、技術と経済の合理化にもかかわらず、民衆が依然として非合理的な呪術に対する期待をもちつづけていることを意味する。ここに、日本人のうちの少なくない人々が「宗教」の名のもとに求めているものの不変の原点がある、と思われる。アメリカには、非合理的な新興宗教の叢生が見られるが、ヨーロッパにはそういうものはない。これは、キリスト教がなお強力な求心力をもちつづけているからであろう。日本には、西洋諸国のキリスト教のような強力な求心力をもった宗教がなく、既成宗教には強い組織力が欠けている。そこに一種の空白があり、この空白こそが、新新宗教が信者を集め得る原因をなしている、と思われる。戦後日本において文化的近代化が「成熟」していない、最大のあらわれがここに見出されるのではなかろうか。」富永健一『マックス・ヴェーバーとアジアの近代化』講談社学術文庫、1998.pp.80-83.

 富永はここで、近代的合理主義精神とはかけはなれたオウム真理教など日本の「新新宗教」が、若い世代の信者を獲得していることに注意を促し、経済的近代化を達成した日本で、文化的近代化がかくも遅れて(むしろ後退して)いることに大きな問題があると指摘している。ぼくもこの点で問題意識は共有するが、文化的近代化というテーマを宗教に限って論じているのは、ヴェーバーとの関連で書かれているという文脈はわかるけれども、他の要素についても考える必要があると思う。つまり、近代の文化的要因には、いわゆる宗教だけでなくアートも重要で、日本人の精神を考える場合、宗教の側面からだけ問題にしていると、ひとびとの感受性や認識の様態を意味づけているものが、西欧のユダヤ=キリスト教や中国の儒教などの宗教倫理に照準したヴェーバーの論点に縛られてしまうのではないか、と思う。



B.つれづれの感想
 明日に迫った絵画展のために、この数日は家に籠って絵を描いている日々である。追い詰められてきたので、気分転換につれづれの文章を記しておく。
 「天声人語」から
「東京・下北沢の骨董品店で、大学生らしき男性が黒電話と格闘していた。「指を突っ込んで回してごらんよ」と店主が教える。回すべきはダイヤル盤。だが男性は穴の一つに入れた指そのものをくるくると回し、あきらめたという▼この目撃談は、大阪市住吉区内で私設の「てれふぉん博物館」を運営する稲谷秀行さん(56)に教わった。ダイヤル式の電話を見なくなって久しい。スマホでも携帯でも指先で数字に触れれば足りる。「数字ごとに右へジーコジーコと盤を大回転させるとは夢にも思わないようです」▼稲谷さんが電話機の収集を始めたのは30年ほど前。買い集めた電話機をいつか展示したいと考えた。夢を母に打ち明けると、「んなもん作ったらアホやと言われる」。一念発起して大学の通信課程で学芸員の資格を得て、5年前に開館させた。▼収集総数700台強。館内を歩くと、明治期に輸入された大仕掛けの電話から、昭和世代には懐かしい赤や黄、緑の電話機までアナログ電話全史が一覧できる▼戦前の古い電話機を試させてもらった。だがダイヤル盤はなく、最初の一手がわからない。送話口と受話口の区別もできない。一世代前の技術にこれほど難渋するとは、黒電話にてこずる下北沢の若者と同じである▼通信機器の進化はめまぐるしくも慌ただしい。四半世紀前にあれほど欠かせなかったポケットベルも姿を消した。いまから半世紀もすれば、骨董品店で若者がスマホに四苦八苦する姿を見かけるのだろうか。」朝日新聞2018年4月23日朝刊1面。

 これもときどき読むコラムから。
「意地悪ホルモン :本音のコラム  宮古 あずさ
 患者さんとこじれる時は、しばしば私の余計な一言が絡んでいる。「やり込めたい」「一泡吹かせたい」という抑えがたい感情。その結果、口をついて出る嫌味や当てこすりが、余計な一言の正体である。
 私は余計な一言をひき出す感情を、意地悪ホルモンと呼んでいる。元々心の闇に潜み、活性化するとやっかいな本能に思えるからだ。
 放言、暴言の多くはこれに起因するように見える。事務次官のセクハラ発言を巡る麻生財務大臣の発言などは、その典型ではないだろうか。
 セクハラ被害を受けた女性記者について、テレビ朝日からの抗議文書が財務省に出された。これを見たかと記者に問われ、麻生氏はこう答えた。「もう少し大きな字で書いてもらった方が、見やすいなと思った程度に見ました」
 まさに余計な一言。あんなことを言って、いったい何の役に立つのだろうか。居合わせた人間を不快にする以外に、何の役にも立たない。実に無駄である。
 作家のフランソワーズ・サガンは哲学者のサルトルについて「とても頭のいい人に意地悪な人はいない」と評した。
 本当に賢い人は他者を思い、無駄を排する知性がある。いや、そこまでは望まない。ほんの少し考えただけでも、当てこすりや嫌味が事態を良くしないことは、わかるはずである。(看護師)」東京新聞2018年4月23日朝刊、21面特報欄。
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"Sea Change"の終了… 神道と近代について

2018-04-23 11:41:57 | 日記
A.戻った人、戻らなかった人
 スチュアート・ヒューズの20世紀社会思想史シリーズ3部作(「意識と社会」1958、「ふさがれた道」1968、「大変貌」1975)を順に読んできたわけだが、半世紀も前に書かれた本なのに、歴史的考察という点でもその後の世の変化で古びてしまった、という感じがしない。
『大変貌Sea Change』でも主な登場人物は、ヘッセ、マン、ヴィトゲンシュタイン、ボルゲーゼ、マンハイム、フロム、サルヴェーミニ、ノイマン、アーレント、ホルクハイマー、アドルノ、マルクーゼ、ハルトマン、エリクソン、ティリヒなど、ドイツ語圏とイタリアからファシズムの迫害をのがれてアングロ=アメリカ世界に亡命した人たちである。ヨーロッパ大陸のファシズムの抬頭がなかったなら、これらの人々がアメリカに移住することはなかった、ということを改めて確認する。
 それにしても、ぼく自身ふり返ってみれば、M・ウェーバーとG・H・ミードをテーマとした大学の卒論を書くために、当時みすず書房から翻訳が出たばかりの『意識と社会』を読んで、20世紀の社会思想というものへのひとつの見取り図を得たように思ったものだ。とくにヒューズのいう「実証主義への反逆」という言葉が強く印象に残った。それから現在まで40年ほど経っていて、いまだにぼくのなかで「実証主義への反逆」という言葉は通奏低音のように響いている。

「亡命と冷戦:1950年代のはじめころまでには、ヨーロッパの生活労働条件は戦前の水準近くまで復興し、それとともに、亡命知識人は「帰郷」の問題に当面した。だが、アメリカ合衆国に10年の余も住んでいたあととなっては、どこが家郷かはっきりしないこともしばしばであった。いくつかの場合には、選択は明瞭だった。アメリカ社会で安定した地位をえ、英語をしゃべってアメリカ人のように感じ行動する子供をもった比較的若い人びとにとっては、選択は留まることだった。もっと歳をとったものにとっては――とくに母国語から切り離される苦痛を味わった著作家たちにとっては――故国への情念的牽引は抗し難いものであったろう。この両極の間に、躊躇い迷ったものたちがいた。かれらは最終的な決断に達するまでに、幾度も大西洋をこえて往来した。そのなかには、もっとも卓越した幾人かの人たちもいた。かれらの場合、それぞれに事情は異なり、各人によって、感情的なあるいは実際的な考慮をさまざまにめぐらした。結局、サルヴェーミニとボルゲーゼ、ホルクハイマーとアドルノは、ヨーロッパに戻った。ノイマンとマルクーゼ、ハルトマンとエリクソンは、アメリカ合衆国に留まった。
 文化的忠誠とか経済的安定という普通考えられる問題点の他に、今世紀半ばのころに亡命者が当面したもっと大きな、またもっと特別な状況があった――すなわち、冷戦とそれに伴った「マッカーシズム」の波である。亡命の問題について書いている人たちも、この一連の出来事についてはあまり触れてこなかった。おそらく、この主題が、全面的に解明するにはあまりにデリケートで厄介なものであったからだろう。そのうえ、イデオロギー上の配慮が個々人の意思決定をどれほどの重みで左右するか、を明確に示す統計的方法などはない。だが、アメリカ版ファシズムの恐怖が、帰郷を躊躇っていた多くの人びとに最後の一押しを加えたことは明らかであり、また、この国生まれの知識人の多くが政府を支持したり、あるいは沈黙したりしたそのときに、留まることにした亡命者のなかの指導的な人びとが、国内でも国外でもアメリカのとっている政策にきびしく抗議したのも確かである。
 1941年にアメリカがドイツおよびイタリアに宣戦したあと、この国への新来者たちは、迎えてくれたものたちと反ファシズムの戦いに連帯する態度を共に分ちもっていた。平和主義の立場をとったグループは、両方の側でほんの少数でしかなかった。1940年代末になると、このような連帯は解体しはじめた。亡命者たちは、この国生まれのものほど、もう一度イデオロギー的戦いにエネルギーをふりしぼる用意はなかった。かれらは、ハナ・アーレントのような少数の著名な例外はあったが、コミュニズムとナチズムを同じように「全体主義的」だとして等置したり、スターリンをヒトラーと同類だとみたりするのを拒んだ。このような躊躇には、そうさせる心理的根拠があった。ファシズムは、つまるところ、かれらの多くが1920年代に抱いていた倫理的相対主義ないしは判断留保の態度を突き崩す衝迫力になったのであり、悪の具体的イメージを与えることによって、かれらに自らの善に対する感覚を自覚させたのであった。そこでかれらは、ナチのやったことを一切否定的なものとみ、コミュニズムに対しては――スターリンによって歪められたものにすら――その起源にある「啓蒙」の残光と未来への潜勢的可能性を認める傾向があったのである。
 さらにひろくみれば、1930年から1945年にいたる15年間は、亡命者たちに精神的拠りどころを与えていた。この年月に経てきた三重の闘い――経済恐慌と国内の専制と「人種的」征服とに対する――は、かれらのその後の生涯にも、中心的なイデオロギー体験として残った。そこから、かれらが、東からの新しい脅威に依然と同じように鋭く反応できない状況が生じた――しかも、西欧の再動員(今回はスターリニズムに対する)は前のような大義名分に欠けているという確信がしばしば伴った。「ヒトラーは」とトーマス・マンは書いた、「もやもやした感情をすっきりさせ、はっきりしたノー、明白で決定的な憎しみを呼び起こすという大きなメリットがあった。かれに対する闘いの年月は、道徳的によき時代であった」――そのあとには倫理水準の下落がきたのだが。1947年から48年のころまでは、亡命者はその苦難がどんなものであったにしろ、過ぎ去ったばかりの過去を一種特別なノスタルジアで思い起こしたといえよう。この国生まれのある批評家の判断は何とちがっていたことだろう。この批評家は1930年代を「低劣で不正な」時代として語り、そういうノスタルジアを「うんと若いかうんと歳をとったものたちだけが抱きうる感情」だと片付けえたのである。
 多くの事例の中でただ二つ、一つはアメリカに留まった者の事例、他は帰郷したもののなかでもっとも有名な者の事例が、マッカーシー時代の間の亡命者たちの不安を語ってくれよう。エリク・H・エリクソンは、共産主義宣誓をすまいとしたカリフォルニア大学の同僚たち――たまたまそのなかには、かなりの比率の中央ヨーロッパ人が含まれていた――を支持したが、その自分の行為をイデオロギー的理由よりも道徳的理由で説明している。かれは、他のドイツ生まれのものたちと同様、もとの祖国での周知の出来事と同じ危険を警告する一方、教授たちの屈従がその学生たちにはね返る影響を強調した。「黙って意味のない身振りをすれば、重要人物たちの面子」は立てられるかもしれない。だが、それは、「もっとずっと重要な人たち」――学生たち――を「傷つけるだろう」。「若者たちは、まことに正当に疑い深く、またひとを困惑させるほど明敏」なものだ、とさらにかれはいう。歳とったものなら「笑って……すませる」ことが、世代間の「危険な裂け目」を――「“公式の真実”と、思想の発展に不可欠の条件である深いラディカルな懐疑との間の」裂け目を――作ることがありうる、とかれは指摘した。それは1960年代の空気の驚くべき予言であった。
 トーマス・マンの良心の闘いはもっとよく知られているし、また長くも続いた。マンは、エリクソンと同様カリフォルニアに居を定めて、気持ちよく受入れられ尊敬をえていたが、バークレーでの宣誓問題の二年のち、気がすすまぬながらヨーロッパに戻る決心をした。アメリカ合衆国に対するかれの懐疑のはじまりは、ルーズヴェルト大統領の死のときからであった。尊敬するこの指導者がなお支配している間にアメリカ市民になって――マックス・ホルクハイマーが保証人の一人であった――幸いだった、とかれは回想している。この時期には、迎え入れてくれたこの国の人々に向けられたかれの好意的でない言葉は、『扶養者ヨーゼフ』のなかでのアイロニカルでヴェールに包んだ言いまわしや、ときどき飛び出す「人のいい野蛮人」についての軽口などに限られていた。しかし、1946年のころには、かれの気分はもっと暗いものになっていた。かれは、第三次世界大戦の到来に反対することを自らの「任務」だと考えた。そのために、かれは数多くの「闘う(フロント・)組織(オーガニゼーション)」に名を貸したが、そのような立場は、時代の狂熱的な雰囲気のなかで、かれが容共(プロ・コミュニスト)主義者ではないかという疑惑を生んだ。悪罵の手紙や電話が寄せられ、かれはパスポートをとり上げられるのではないかと危惧し、議会の調査委員会に喚問されるのではないかと恐れた。「どうしてかれらは、わたしを静かに自分の庭のなかに座らせておいてくれないのだろう」と、かれは嘆いた。「わたしに石をぶつけて、わたしが仕事を中断して身を守らざるをえなくしたりしないで、どうして自分の仕事をさせてくれないのか。」世紀の真中の50年のころには、かれはほとんど絶望していた。冷戦が「デモクラシーを破壊し、全般的狂気に導きつつある」とかれは書いた。かれの『失意』は、一年の間に一挙に来たいくつかの死別によって――息子のクラウスの自殺と、兄のハインリヒおよびドイツにとどまっていた末弟の死によって――いっそう深められた。そしてまた、南カリフォルニアでかつてかれの心を励ましていた多彩な顔ぶれのすぐれた同国人たちも、次第に数少なくなりつつあった。あるものはこの世を去り、あるものは故国へ去っていったのである。
 故国へ去ったもののなかには、もちろんアドルノがあった。マンは、この社会学者に転じた哲学者が、「異邦のようになった祖国に戻って……きわめて活気に満ちている」のは「意味深いこと」だと考えた。というのは、たしかにそこには摩擦があったからである。マンは、ドイツ人と自分が疎遠になっていると思いこんでいた。「底知れぬ裂け目が、自分の経験とドイツに残った人びとの経験」との間にある、とかれは書いた。かれが戦争中に書いた「政治的」著作は、帝国(ライヒ)の「外部でだけ慰め力づけるものと受取られていたと、かれは――少々大げさに――考えていたのである。だとすると、かれを悪罵していたものたちを、「逆にうちひしがれた状態から起ち直らせるのにどれだけのことができるだろうか」、とかれは問うた。1947年のころになると、かれはヨーロッパを訪れる気持ちになった。その年の晩春と夏を、かれはイギリス、スイス、オランダで過した。しかし祖国には一度も足を踏み入れなかった。二年のちになってやっと、かれはドイツに入った。そのときにはもう、かれが恐れていた反対デモは全くなかった。かれが受けた批判の主なものは、東側との境界線をこえて、ワイマールで開かれたゲーテ二〇〇年祭に参加したことに対してであった。
 だが、一旅行者としてドイツに帰ることは、永住的に戻ることとは全く別のことであった。永住的に戻る見通しを、マンはまだもてなかった。しかし同時に、戦後幾度も旧世界を訪れるにつれて――1950年と1951年に長期滞在した――、かれはヨーロッパとの古いつながりがいっそう強く自分をとらえるのを感じた。1952年に、かれは思い切った決断をした。望ましくないことにアイゼンハワーが大統領に選挙されそうだという見通しが、気持ちのバランスを破ったのだと思われる。マンはいかにもかれらしく、軽い鞄一つを下げてアメリカ合衆国を離れた。そして、それが最後の別離だということを、知人たちのほとんどのものは気づかなかった。
 ヨーロッパに戻って、かれのディレンマはついに解決された。かれはドイツの外で暮らす生き方を、自分の言語が話され、コスモポリタニズムとドイツ文化への尊敬が結び合わされた市民たちの住む場所でみつけた。生涯の最後の三年間を、かれはチューリヒ近郊で過ごした――この都市を、かれはもっとも愛し、共感をもって書いてきたが、その愛着も十分に報われたのであった。死の一年前、かれは、ニーチェの隠棲地として有名なエンガディン渓谷のシルス・マリアで、ヘルマン・ヘッセとの最後の再会を楽しんだ。1945年以降に味わった幻滅にもかからわず、マンは、アドルノやノイマンやその他多くのものたちと同様、ルーズヴェルトのアメリカで、日常生活の現実としてデモクラシーを経験することを学び知り、最後には、スイスに定住することで、デモクラシーの信奉と大人になるまで育ったヨーロッパの文化的伝統への変らぬ愛着とを結びつける生き方を発見したのであった。」スチュアート・ヒューズ『大変貌 社会思想の大移動 1930-1965』荒川幾男・生松敬三訳、みすず書房、1978.pp.183-186.

 自分の生まれ育った祖国を捨てて、長い亡命生活を過ごした思想家たちが、戦後に敗れた祖国に戻るか戻らないか、それぞれの思想と作品の本質にかかわる選択になる。かれらはヒトラーの帝国を出現させ自分たちを排斥した国民大衆への不信や絶望を、そう簡単に忘れることはできなかったが、他方でアメリカ社会という異文化風土に居続けることへの態度が、それぞれ異なる結果を生んだ。ファシズム批判をするのは当然だったが、時代の動きはもはや滅んだファシズムの問題ではなく、東西冷戦の進行のなかでスターリン・ソ連の脅威への対抗に移っていた。マッカーシズムの極端な熱狂は、ソ連には批判的なかれらを直接に襲ったわけではないが、アメリカがもう平穏にかれらを暖かく迎えてくれる場所ではなくなったことを知らしめた。エリクソンは米国に残り、アドルノはフランクフルトに帰り、トーマス・マンは祖国ドイツに足を踏み入れるのを躊躇って、あちこち転々としたあとでスイスで最期の時を過ごした。亡命はやはり過酷な経験だったのだろう。



B.神道について西洋人はどう考えるのか
 日本にはどの町でも村でも必ず神社があって、人びとは手を合わせて拝み、お賽銭を投げ入れる。そうすることでなにか良いことや楽しいことが、自分に確かに実際に起こると信じている人はいないだろう。ただ、だからこの神道という古式の信仰行為は、廃れないのかもしれない。しかし、神道は日本固有のもので、日本列島以外の場所では、通用しないものと考えられている。日本が武力でアジアに侵略を繰り広げた時代、各地に神社を作って現地の人々に神道の儀礼を普及させようとしたこともあったが、それはもちろん成功しなかった。それは神道といっても明治以降に人為的に作られた「国家神道」だったからと考えられる。

「宗教でも哲学でもなく 人間の根源 共有する場:パリで神道を考える 下 奥谷 公胤 
 前回、「個別のものの、存在の働き」を神といい、個々の「尋常でない働き」を共同体が社会的にお祭りする場と空間が神社であると説明しました。
 さらに神道の特徴を書けば、英語でよくWorshipと訳される意味での「崇拝」は新党にはない概念ですし、「宗教教義を強く信じる」という意味での英語のFaithも神道にはありません。今日そのような創始者が存在せず、聖書のような言葉による聖典や経典もない。教義や文字による教えもないので、布教という概念や、信じる・信じない、信者・非信者という概念もなく、戒律や善悪の規定もない。人々が人生で直面する困難や死の恐怖などに対し、言葉をもって解決策を示し個々人を救済するという、いわゆる宗教が本質的に有する機能も、神道には最初からありません。逆に、だからこそ、フランスはじめ欧州の人々に神道が受け容れられるのだと思います。文化的背景の違いや時代の新旧、科学技術の発展などとは無関係に、人間の根源に関わる共有部分があるのでしょう。
 この九年間パリに住み、講演や神事に加えて、欧州圏内で開かれる国連関係の会議で神道を代表して意見を述べる機会や、現地のメディアに取り上げられる機会も増えてきました。神道に高い関心を示し、私の大切な友人たちでもある人々の中には、第一線の政治家や経営者、知識人、テレビ番組などの編集者、ファッション・クリエーターら、さまざまな業界で活躍している方々も少なくありません。彼らと対話を積み重ねていくと、「神道は宗教でも哲学でもない」「人間として美しく生きるための、審美的な生き方そのものだ」といった彼らなりの神道観を私に語ってくれます。
 ある企業の地鎮祭では、参列したフランスの政治家が「神道はあらゆるものと調和し、発展して行くことを大切にする。神道の神事は、その精神を表すものである。我々もそれに習うべきである」と挨拶されました。神道をよく理解した経営者から依頼され、新製品の開発に神職として参加することもあります。フランス人と共に、その価値観を具体的な形にするという試みは、私にとって苦労と喜び、そして新しい発見の連続です。
 こうしてフランスで日本同様に神事を行う際に、大切な点があります。政治家が多数参列するケースもあり、政教分離の観点からも事前に神道とは何かについて十分に説明し、対話を重ね理解してもらうのがまず必要です。そして、個人主義の確立したフランスでは、個に関しての説明が特に重要です。神を祭る行為は本来、自らが属する共同体の、安寧と感謝のために行われます。何故なら、個が存在するためには、最小単位の共同体である家、そして地域、国、自然が密接に関わり合いながら存在し、直接的にも間接的にも、大小さまざまな働きと、調和によって、初めて個が存在することが可能となるのだと。さらに本来言葉では伝わらぬ神道の暗黙知を、より理性的、客観的に言葉で説明します。困難はありますが、フランス人の、日本人と比べより演繹的な思考に助けられ、学ぶこともまた多いのです。
     ◇
 神道の本質には、いわゆる「御利益」のような概念はありません。かといって、お参りすることに意味がないわけではなりません。実際、神社や家の神棚にお参りするだけで、自ずと素直な心になるという事実に気づいている方も多いのではないでしょうか。日本書紀や古事記には神々の「見直し、聞き直し」がたびたび書かれ、また神職が奏上する祝詞にも「見直し、聞き直し」という言葉が出てきます。素直な状態は、結果的に、個々人の根源にある、その人特有の個性をも引き出し、その人固有の「働き」に気づき、磨いていくことにもつながります。
 代々京都で神職であった私の先祖が、平安末期に居を移して以来、奉仕している薮原神社(長野県木祖村)は、680年に創建され、島崎藤村の長編小説「夜明け前」の冒頭通り、木曽の深い山の中に鎮座しています(藤村の父で、神職だった正樹氏は私の曽祖父を頼って、神社によく遊びに来ていました)。友人の仏大手企業経営者が、ここを正式参拝した後、仏語でこんな言葉を記していきました。「掃き清められた静寂な境内に流れる、清浄な空気。伝統に則り、しかるべき様式で建てられた、美しい宮。玉垣の石柱一本一本に、力強く刻まれた、奉納者の名前。寒さで、今にも足が凍えそうだ、などということは、全く取るに足らなくなってしまった。このような場と空間が、地球上に存在しているという事実に、ただ感謝したい」(おくたに・まさつぐ=薮原神社禰宜)」東京新聞2018年4月22日朝刊、11面こころ欄「生きる。」

 明治維新以来、日本の目標は「西洋近代」に追いつき、西洋の列強に対抗できる「近代国家」を建設することに置いた。「近代化」の追求は、まず西洋の技術・知識、制度や法律の輸入を優先し、インフラを整備し、産業を作り出し、輸出で外貨を稼ぎ、経済の資本主義化を図るとともに、様式軍隊を作り武器を揃え、軍艦を浮かべることに資金をつぎ込んだ。いわゆる「富国強兵」である。こうした「上からの」努力は必至で追求されたが、国民の「下からの」近代化への合意や同意を調達する政治的近代化は後回しにされ、社会関係の近代化、つまり西洋社会が実現した個人の自由や権利という考え方は、意図的に導入されないように制度を作った。そして、西洋では近代化の基礎となった人間としての思考や感受性のあり方を形づくった宗教的・文化的近代化は、部分的には輸入されたものの、日本人の大多数の精神には無縁なものだった。それはある意味で現在もそのままかもしれない。
 神道はもともと日本人が「近代以前」から保持していた自然信仰のようなもので、こうした近代化の進展にもかかわらず持続した一方で、明治以降に西洋のキリスト教とその近代形態としてのモダン文明を拒絶しつつ「近代国家」に人々を統合する必要から、「国家神道」つまり天皇を神として祀ることで強力な精神的凝集力を日本に造り出すという実験だったのだと思う。これはいうまでもなく、1945年に明らかな失敗に終わった。
 奥谷氏がパリで考えたような神道は、古代的な自然の清浄性への畏敬感情の形象化であって、近代という視線にとっては、明らかにプレモダンな、宗教とも呼べないものである。ぼくはそれは日本列島内に限定する必要もないし、神社や神職がどこにでもあるように、あってよいものだと思う。しかし、国家神道との混同がなくなっていない点は、注意が必要だと思う。
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M・ルターのモラトリアム… 財務事務次官のオヤジ文化について

2018-04-21 02:50:27 | 日記
A.「若きルター」のモラトリアム
 「モラトリアムmoratorium」という用語は、日本では関東大震災後の1923(大正12)年の震災手形や、昭和金融恐慌1927(昭和2)年の際になされた一時的金融避難措置などの専門用語として使われた。語源はラテン語の "mora"「遅延」、"morari"「遅延する」で、そこから「支払猶予令」 天災、恐慌などの際に起こる金融の混乱を抑えるため、手形の決済、預金の払い戻しなどを一時的に猶予する一時停止(期間)のことを指し、やがて対象が拡大されて、法律が公布されてから施行されるまでの猶予期間、核実験の一時停止 (a moratorium on the test of nuclear weapon)、商業捕鯨モラトリアム、死刑執行の停止などに適用されるようになった。
 それが、やや違った意味で一般に使われるようになったのは、エリク・H・エリクソンがその著書で提唱した概念、学生など社会に出て一人前の人間となる事を猶予されている状態を指すものとして広がったのが、1960年代。大人になるために必要で、社会的にも認められた猶予期間を指す。日本では、小此木啓吾の『モラトリアム人間の時代』(1978年(昭和53年))等の影響で、社会的に認められた期間を経過したにもかかわらず、社会に出ることをためらう状態を指して否定的意味で用いられることが多いが、本来のエリクソンでは、むしろ人間にとって必要な若き模索の時代を指していて、どちらかといえば実りあるポジティブな意味を与えられている。

「エリクソンが東部に戻って七年後に、かれの第二の著作『若きマルティン・ルター』Young Man Luther は刊行された。前著と同じく大きな影響力をもったこの本はさらに広汎な読者を獲た。それというのも、ここで著者の焦点は歴史的な伝記、もっと正確に言えば、偉人たることを運命づけられた一青年の「生活史」の「イデオロギー的』研究にと移っていったからである。エリクソンのイデオロギーに関する全般的な定義は『幼児期と社会』で解読された諸概念の一覧表に新しい一用語を加えた。かくしてまた「モラトリアム」への決定的な要求が力説された。そしてさらに、「偉大なる青年」の歴史的役割が描き出されることによって、一個人へのかれの注意の集中が解明され、かれのルター研究がはじめた大胆な外挿法も認可されることとなった。
 エリクソンの詳説するところによれば、かれの目的にとってイデオロギーとは「宗教的、科学的、ならびに政治的な思想の底にある無意識的な傾向のことで、この傾向は、アイデンティティの集合的および個人的な意味を支持するに十分なほど説得的な世界イメージを創出するために、ある与えられた時に事実を観念に、観念を事実に服従させることになる」。ルターが行ったことは、かれ自身の苦難の火の中で新しい時代にふさわしい新しいイデオロギーを鍛造することであった。しかし、かれは僧院において「足ぶみ」したあとではじめてそうすることができたのである。
 それゆえ、われわれはこの経過に注意を集中してみよう。いかに若きマルティンが謹厳で苛酷な幼児期の末に烈しいアイデンティティ・クライシスに突き落され、そのためにかれが僧院の沈黙の中に猶予と治癒を求めたか、沈黙しているうちにいかにかれが「とらえられ」たか、またとらえられることによっていかにかれがしだいに新しい言葉、かれの言葉を語れるようになったか、そして話ができるようになっていかにかれが僧院から自分自身のこと、ローマ教会からかれの国のことについて語ったばかりでなく、自分のため全人類のために一つの新しい……倫理的・心理的意識を定式化したか……
 この種の人間は「かれが偉大な青年」となる「以前の歳月において」、「まったくはっきりしない頑固さ、秘かな強固な不可侵性」を「内部に」抱いている人と想像される。「そういう場合には、一切か無か」というのが「この種の人間の」暗黙裡の「モットー」なのである。かれらは自分の言うことを真実全面的に本気で言っている。
 イデオロギー的指導者というものはその同時代人の思想を再形成することによってのみ克服できる極度の恐怖におののいているように見える。そしてこの同時代人たちはいつも、こうして絶望的にそうすることを心にかけている人びとによってかれらの思想が形成されるのを喜ぶものなのだ。生まれながらの指導者は、だれもがその心の奥底ではなんらかの形で恐れていることをただより意識的に恐れているように思われる。そしてかれらは確信をもってその答えをもっていると主張するのである。
 右の文章は、エリクソンがかれの説明の範囲を拡大する歴史的外挿法のもっともめざましい一例にあるにすぎない。かれはしだいにルターの「内陣での発作」とか、福音書を読んでいた時にこの若い修道僧が雄牛のようにわめき出したとか、ある罪の嫌疑を否認したとかいう「半伝説」を「半歴史として……認めざるをえない」と感じるにいたった。同様にまたかれはごく僅かの証拠によって、というよりむしろ「臨床医の判断」として「もしもその母親の声が歌いかけていたのでなかったならば、だれもルターのやったように話したり歌ったりできなかったであろう」と推測した。このような主張は細心慎重な歴史家たちの心に疑念をかきたてずにはおかなかった。しかしながら、エリクソンの本が呼びおこした長びいた論争の要点は、それが個人の良心から大衆のそれへの概念的な橋渡しをしたという、また「ルターのような感受性と衝迫力をそなえた」人間が「歴史的変化の新しいうねにイデオロギーの種子を播く」ことのできたプロセスを描き出したという主張にあった。
 このようにして、心の広い歴史家や歴史的傾向をもった精神分析家たちはこの『若きルター』が開示した知的な展望から大きな利益を得ることになった――事実、「エリクソン崇拝」がはじめて出現したのはこの著作をめぐってであった――が、半年がたつにつれてかれらは、言われるところの個人から大衆への架橋なるものはエリクソンの崇拝者たちがはじめに考えていたほど確実ではないことに気づきはじめた。かれらはいぜん、歴史や社会的環境をエーリヒ・フロムのようなネオ・フロイディアンなどの場合よりも比較にならないほど豊かな鋭敏・微妙な仕方で扱ってみせてくれたことでエリクソンに感謝の念を抱いてはいた。とりわけエリクソンがイデオロギー的忠誠の見出される人生段階――10歳代の半ばからほぼ30歳にいたる――を重視したことによって、普通データがまことに乏しい半ば忘れ去られた古典的フロイト的な幼児期からもっとよく記録の残っている青年期や初期青年期に情緒的重点を移せることになり、研究者の仕事がやりやすくなったのは好都合であった。けれども、エリクソンの見本に刺激された人たちが、のちに「心理的歴史学」と呼ばれることになるものに手をつけたとき、かれらはたいていはみな個人的伝記を産出することになったのであって、その解釈をもっと広汎な集団へと投射しようとする努力は手探り状態にとどまり、あまり説得力はもちえなかった。かれらは大衆行動を問題にしようとしながら、多くは「その指導者の動機づけから……この大衆行動の動機づけを……単純に誤って推断した」。「家族の中の個人の発展に基礎を置く」方法論的な「モデル」では大きな歴史的変化の起源を説明するには適切でないことが明らかになったのである。」スチュアート・ヒューズ『大変貌 社会思想の大移動 1930-1965』荒川幾男・生松敬三訳、みすず書房、1978.pp.170-172.

 エリクソンの『若きルター』は、『幼年期と社会』のアイデンティティ論の延長上に、青年期に直面する課題としての自己認識への模索を「モラトリアム」と呼ぶことで、思想的に据えつけた仕事といえるだろう。しかしそれが広汎な影響力を与えたのは、マルティン・ルターという西洋精神史における偉大な宗教者の名前を、伝記的な個人史をエリクソン的文脈に読み替えることで達成した離れ業であって、こういうことがどの人物、どのケースの場合にもうまくいくとは限らない。というよりも、下手にこの青年期のモラトリアム分析をやってしまうと、成功者の後付け話や、失敗例の無視に陥る可能性が高い。モラトリアムがポジティヴな意味を持ちうるのが、結果としての成功者の場合だけで、むしろ多くの場合は青年期のつまずきや挫折が、その後の人生を暗い悲観的なものにしてしまったり、不幸な断絶・中断になることの方が多いかもしれない。おそらく、エリクソンはそのように物事を考えない。それはかれ自身が経験したモラトリアムの充実と、結果としての栄誉と名声からくるのだろう。

 「アイデンティティに関しては、エリクソンは絶えず新しい定義――しかもこれらは以前のものと必ずしも両立しない――を作り出すことによって読者の困難を内済にしている。この点でかれの伝記記述者は有用な示唆を与えてくれる。つまり、それによるとエリクソンは本当は概念の定義づけには関心を抱かず、「何度もくり返しその概念を用い、何年もその概念に特殊な意味を与える仕事をすることによって」徐々におのずから概念を確立せしめようと欲したのだと言う。事実、かれが産み出したもっとも単純な定式化ですら、ウィリアム・ジェームズから借りてきたものであったのだ――「これこそ真の私である」。アイデンティティの感覚あるいはそれの欠如は、疑いもなく人間の基礎的経験の一つである。しかし、精神分析理論におけるそれの地位は、歴史的ないし人類学的解釈におけると同様、いぜん不明確なままである。それは、古典的な自我と個人の社会的役割との間を行きつ戻りつしているつかまえどころのない用語である。それはまた「性格」という平凡な伝統的な言葉にも接近する。おそらくその最大の難点は、エリクソンが無意識という基本的なフロイトのカテゴリーとの関係を明確にしえなかったところから出てくるのであろう。かれの用法では、一人の人間のアイデンティティは最終的にそれが意識の完全な光の中にあらわれ出るときに確立されることになるのだという推測をあえて試みてみたくなるほどである。
 これらの概念にまつわる困難は、エリクソン特有の文体に内在しているものである。『幼児期と社会』の文章はまだ英語をうまく使いこなせないと感じている人の平明で直截な性質を帯びているが、エリクソンのその後の著作は著者がすでに言語上の戦いに勝利を収めたと確信し、みずからすぐれた文体の持主とさえ考えていることを示している。『ルター』以後はかれの文章はしだいに入念になり、とらえにくく、さらにはにかんだ風にさえなった。自負を込めた、自覚的に「文学的」な言葉づかいという点で、それはフロイトの優雅な単純さからはるかに隔たっている。
 フロイトその人の追憶にはエリクソンは変ることなく尊敬の態度を堅持していた。この創始者をかれはただ遠くから知っていただけで実際に「話しかけた」こともなかったけれど、かれは生き生きとした共感をもって、老フロイトが不平を言うことなく苦しみに耐えていたさまを回想している。エリクソン自身としては、標準的なフロイト的な実践からの背離は最小限にしようと骨折っていた。かれにとって大事だと思われたことは、かれが受け継いだ「唯一のイデオロギー的基礎」を「放棄することなく少しでも」かれの教説を「前進」させることであった。「諸現象の流れに寄せる第一義的関心」が「正統派の中に安全を求めたり、異端へと逃げ出したりする試みをすべて封じたのだ」とかれは説明している。師の遺産に挑戦するよりは、暗示やほのめかしによって精神分析の輪郭を変えることの方をかれは好んだ。かくしてかれは、「フロイトの超(メタ)心理学の五分の四」を知らず、その五分の一をきわめて自己流に応用した「卓越した……理論家という奇妙な人物像」を提供することになった。流行おくれの機械論的語彙からまだ解放されていない精神分析にかれはさらに古い、科学以前的な知的世界を呼び出すような言葉を再導入してきたわけだが、一方で、かれは直系の忠誠心を絶えず言明しつつ、精神分析的方法の「裏の入口から人間精神という概念」を密輸入するという比類のない離れわざをやってのけたのである。」スチュアート・ヒューズ『大変貌 社会思想の大移動 1930-1965』荒川幾男・生松敬三訳、みすず書房、1978.pp.175-176.

 なるほど、エリクソンは若い頃の放浪のモラトリアムの到着点で、ウィーンのフロイトの創始した精神分析のごく近いところに辿り着いたおかげで、正当な分析家としての肩書を得たし、そこを去ってアメリカに渡ったことで、精神分析の流れを基礎により広汎な大衆にわかりやすい心理学的説明に展開して有名になった。しかし、ヒューズの見解では、それは正統的な精神分析の伝統からすれば一種の逸脱、あるいは通俗化への道を開いたということになりそうだ。



B.倫理性の喪失は敗戦から始まっていた?
 「セクハラ」という言葉も、日本で一般に定着するようになったのはおそらく1980年代末くらいからだろうか?それ以前は、若い女性に対して中年以上の男性、いわゆる「オヤジ」が、言葉や行為で性的なからかい、おふざけをしたり、セクシャリティを前面に出した画像や映像表現が日常的に目に触れることは、珍しくなかった。ぼく自身、自分が育った環境のなかで、男たちが当たり前に共有する「文化」として、今ならセクハラに抵触する「エッチ」「エロ」「猥褻」をよしとする「オヤジ文化」の兆候が少なからぬ男性に根付いていて、それが息子世代にも潜在意識として継承されていると感じることがある。それが、国家の中枢にある人物の行為として、相変わらず本人にはただの無邪気で楽しい「遊び」としか認識されていない、という事実が明らかになった。
 この日本という国が、いま抱えている問題は、経済的、政治的、法律的な課題以前に、人間が生きるうえで何を価値をするかという文化の問題であり、そこが深刻な危機にあると思う。

「言葉遊び 佐藤優
 週刊新潮が音源とともに報じた女性記者に対するセクハラ疑惑で財務省の福田淳一次官が十八日に辞意を表明したが、問題は全く解決していない。十六日、財務省が公表した福田氏のコメントによると、〈お恥ずかしい話だが、業務時間終了後、時には女性が接客しているお店に行き、お店の女性と言葉遊びを楽しむようなことはある〉という。新潮社のホームページに公開された音源データによると、福田氏とされる人物が「胸触っていい?」「予算が通ったら浮気するか?」「抱きしめていい?」「手縛っていい?」などと話している。いったいどういう言葉遊びをする店に福田氏は出入りしているのか。
 この店で消費した飲食やサービスの代金は誰が払ったのか。ポケットマネーか公費か、それとも第三者か。第三者の場合、国家公務員倫理法に基づき五千円を超える接待を受けた場合は贈与等報告書を提出することが義務付けられている。この法律は大蔵官僚(当時)のノーパンしゃぶしゃぶなどの過剰接待問題によって生まれた。筆者が外務省にいた時期には四半期ごとに締め切りが設けられていた。外務省では、マスコミ関係者との意見交換で先方が会食費を負担した場合でも贈与等報告書を提出していた。財務省ではどういう運用がなされているのだろうか。マスコミは徹底取材してほしい。(作家・元外務省主任分析官)」東京新聞2018年4月20日朝刊、25面特報欄「本音のコラム」

このような人物を事務次官にしている麻生太郎氏には、さらに濃厚に「オヤジ文化」が漂っているが、ぼくの仮説ではこの源流は、石原慎太郎の「太陽の季節」が描いている世界からではないかと考えている。つまり、「男はマブいスケをナンパして、イッパツやってモノにするのが一人前の証拠だぜ」というような価値観が、戦後の裕福なお坊ちゃんたちに滲透した、ような気がする。この東大法学部から財務省のトップ官僚に上り詰めた人物も、頭の中はこういう奇妙な世界に漂っていたことが明らかになった。ぼくの周りにもこの手のオヤジはたくさんいたが、基本的につきあわないことにしていた。
 安倍政権を批判する「リベラル」「サヨク」人権派を、「売国奴」「反日」だと熱心に罵り攻撃している人たちに言いたい。この伝統ある麗しい国ニッポンを、倫理的道徳的宗教的に貶め、過去の先人が努力して築いてきた大事な価値をぶち壊し、日本に愛着を持つ海外の良心的な人びとを嘆かせる、恥ずかしく嘆かわしい人間は、いったい誰なのか?自分はエリートでこの国を動かす権力の座にあるとうぬぼれて、若くイイ女はオレ様の前で喜んで脚を開くのが当たり前だ、と思う愚劣で傲慢なオヤジが、現にこの国の権力の中枢にいる。こんな悲惨な事態を、きみたちは許しているだけでなく、拍手して応援している。もし、こういうオヤジこそ男の理想だと考え、自分もそうなりたいと思っているのなら、君たちの腰の底は痔疾のように割れている。だからよく考えてほしい。
 人類の文明を支えてきた世界宗教、ユダヤ=キリスト教、イスラム教、仏教、儒教、それらはそれぞれ異なる真理、聖典を主張してきましたが、どれも共通して唱えているのは、この世に生きている人間が守るべき価値があり、それに背いて生きることは自分を否定するだけでなく、自分に関わるすべての人々を否定し、結局は自分を破滅させるということなのです。そうあってはならないし、そのために誰もが自分の幸福を願い、自分だけでなく周囲の親しい人びとの幸福を願うのは自然な感情です。では、具体的にそれを実現するにはどうすればいいか?イエスも釈迦も孔子もムハンマドも、それを言葉で説いています。そのなかにある教えのひとつに、他者を道具とする欲望を貪ってはいけない、という真理があるのです。とくに、世俗の権力をもつ人々にこれは厳しい戒律になります。
 つまり、日本の現職財務省事務次官という最高の公職にある福田淳一氏の場合でいえば、自分の地位にともなう職務の延長上に、女性記者を酒食の場に呼び出して「言葉遊び」のおつまみに供して心理的満足を得たという事実を、些細な「娯楽」としか考えていない「精神の荒廃」こそが、国家の危機「反日」的行為だといわざるをえないでしょう?佐藤優氏の指摘する国家公務員の法律的行為の正統性という問題にはぼくはあまり関心はないけれども、「オヤジ文化」が日本社会に今もなお底流でしっかり持続していること、それをネトウヨ的若い世代にも伝染していることは、日本人として、男として痛いほど、切腹したいほど、戦争を挑みたいほど怒っているのです!
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