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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

水戸学とは(つづき)

2012-12-31 01:10:53 | 日記
A.茨城県の学校でのこと・・大晦日の考察
 大学に就職した当初の数年間、ぼくは教育実習担当という仕事をやらされた。ぼくの専門は社会学で、教育学も教育実習指導もちゃんと勉強したことはなかった。にもかかわらず前任者が社会科教育や教育実習などの科目ももっていた方だったことから、しばらくはその授業をやることになった。中学高校の教師を目指す学生が、大学の4年生のとき実際に中学や高校の現場に行って、教師の練習をするのが教育実習で、教員免許取得のためにその頃は2週間の実習が必要だった。百人以上の学生に実習に行く前の指導と終わってからのまとめ、そして5,6月の実習期間中に行われる研究授業という学生が教壇に立って授業するのを見に行く、というのが主な仕事だった。
 都内ならスケジュールをやりくりすればいいが、地方出身の学生は地元の出身校などで実習をするから、毎年学校訪問はたいへんだった。新米のぼくは、言われるままに去年は新潟県、今年は栃木県などと当てられて一日5校くらい回るために、電車では無理で数日かけて1人レンタカーで走り回った。それも学生の研究授業に合わせて訪ねたのでは日程が集中するから、1校での滞在時間はなるべく30分くらいで校長と担当教師と学生に挨拶して次に回る。

 ある年、茨城県を当てられて、土浦から、新治、石館、岩間、水戸などと回って行った。途中ある高校で校長室に通され、一通り挨拶をして立ち去ろうとすると、年配の校長先生が先を急ぐ頼りない若僧の大学教師を少しからかってやろうと思ったのか、こんな質問をした。
 「先生、茨城県の高校教育は戦後完全に全校男女共学になったんですよ。他の県では男子校女子高だったのに、どうしてだと思います?」ぼくはとっさに答えた。「水戸学ですか?」校長はわが意を得たりとにこっと笑って「その通り!GHQは水戸学が軍国主義の元凶だといって、潰しにかかったんです」どうやらこの校長は水戸学に誇りをもっているらしい。「でも、男女共学にしたからといって、日本がダメになるわけでもないでしょう」とぼくは言った。校長はちょっと口を結んで「うん、だから我々は女子にもしっかり質実剛健、日本人の美徳を教えているんです!」

 それ以上校長とこの話をするのは面倒なので、次の学校に行かなければなりませんのでと失礼した。でもこんな所に今も水戸学が生き残っていることに、少々驚いた。尊皇攘夷、忠君愛国、教育勅語のイデオロギーの原点にあるのが水戸学らしい。戦争が敗北に終わり、無条件降伏してアメリカを中核とする連合軍の占領を受けた時代、古い軍国日本の精神は否定され、学校教育から水戸学は排除された、はずだった。でも、それはあの戦争の時代に骨の髄に叩き込まれた小国民世代には、繰り返し蘇ってくる「正義」だった。でも、水戸学とはどのような思想だったのか?

B.幕末水戸学の位置づけ
 徳川斉昭が作った弘道館の後期水戸学と幕末明治維新について、いくつかの解説書や研究書を見てみたところ、もっともコンパクトで要点を掴んでいると思えたのは、東京家政学院筑波女子大学教授という吉田俊純氏の『水戸学と明治維新』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー150)だった。戦後の歴史学界においても、水戸学は研究すること自体反時代的な行為と見られ、研究者は皇道右翼へのシンパシーをもった人間と見られることを覚悟しなければならなかった。横浜市大の大学生だった吉田氏が水戸学に興味をもったのは、吉田松陰が国禁を犯してアメリカの黒船に乗り込みアメリカに行こうとしたにもかかわらず、なぜ激しく攘夷を唱えたのか、外国船を打ち払うことを可能だなどと考えたのか理解できず、調べていくと松陰の思想に水戸学が大きな影響を与えていたことを知ったからだという。そこから研究を始めた吉田氏は、指導教授の遠山茂樹、家永三郎から励ましを受けて水戸学研究をすすめていった。そして、今日ほぼ定説ともいうべき水戸学の歴史的位置づけは遠山の次のような見解に帰着することになるだろう、というので遠山茂樹を引用させていただく。

-- 幕末の水戸学の本質は何か。結論をいえば、その内容をなす尊王論と攘夷論とが、反幕的性格、まして反封建的性格をもつものではなく、むしろ解体に瀕する幕藩制秩序の再建をめざすものであった(拙著『明治維新と現代』114P.)。しかしこの指摘だけで、明治維新における水戸学の役割を説明しつくすことはできない。藤田幽谷・同東湖・会沢正志斎の書は、尊王攘夷運動のバイブルとして、多くの志士に愛読され、彼らを駆って幕政批判、幕府専制反対の体制改革運動に一身をささげさせる思想的エネルギーとなったのである。
 何故水戸学はそうした力をもつことができたのか。私は「封建制の危機が国内的にまた対外的に逼迫した現実に押されて、封建支配者層の危機意識の集中表現となり、封建権力の改革=統一の要求のイデオロギーとなったからである」とのべた(拙著『明治維新』61P.)この考えは変わらない。しかしもう少し説明を加える必要がある。水戸学の思想の特色を、儒学的名分論だと規定することはできる。しかし一般の名分論のように、学者の机上から生み出された観念的教学にとどまらなかった。生きた現実の政治と格闘した、その緊張感覚が、水戸学の名分論を裏づけているのである。だから水戸学を理解するためには、その代表的な著述を読むのと平行して、藩主徳川斉昭が、また東湖・正志斎らブレーンが、藩政および幕政のどのような現実にぶつかり、いかなる改革を意図し、どのような困難に逢着したかを、たとえば『水戸藩資料』を読んで理解することが必要である。『弘道館記』に「学問事業はその効を殊にせず」と説いているが、その「事業」がいかにきびしい現実にさらされているかを読み取るべきである。
  (中略)
 建前と本音のつかいわけは、斉昭の政治活動において得意とするところであった。彼は幕府への建言には常に攘夷をふりかざした。しかし本心は、攘夷の実行ではなく、国内に戦を主張し、対外には和を旨とする「内戦外和」論にあった。だから水戸学は、現実に対応しうる政治思想でありえたし、生粋の攘夷思想を説いた『新論』の著者が後年の『時務策』では、「時勢の料」り「事変ヲモ察」して、攘夷実行不可論=富国強兵策優先論に転回できたのである。
 この建前と本音との分離が、現実の政治行動によって明らかとならざるをえなかった万延年間以降、水戸学は尊王攘夷運動にたいする指導力を減退することとなるのだが、慶応年間に至って、こうした思考が、ふたたび政治運動の指導的な力となって復活した。すなわち尊王と攘夷は、表向きは、いよいよ強調されながら、内実は倒幕のための戦術的スローガン化された。このことによって、尊王攘夷運動は、統一権力樹立のための統幕と富国強兵のための開国をめざす運動に発展できたのであった。その旗手は、水戸藩士ではなく、薩摩の大久保利通であり、長州の高杉晋作・木戸孝允であった。 こうした意味で、水戸学あるいは水戸学的思考は、明治維新の指導理念であったということができる。そして儒学が名分と現実とのへだたり、現実の変化・進展に対応しえて、明治維新以後も、永く教学としての生命をもち続けた思想の鍵を、水戸学において見出すことができるであろう。もとより天保年間の水戸学の背後にある、鋭い現実認識とそこから生れるきびしい危機意識とは、明治の時期にははるかに弱まっており、それだけに思想の迫力は失われているのであるが。

遠山茂樹「水戸学と明治維新」(『日本思想体系』第53巻「月報」)岩波書店1973年4月)
         遠山茂樹著作集 第二巻 維新変革の諸相 岩波書店 1992年 所収
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儒教について

2012-12-29 03:02:30 | 日記
A.里見八犬伝の記憶
 子どもの頃、日本名作全集子ども版みたいなシリーズが隣に住んでいた祖父の家になぜかあって、小学生のとき片っ端から読んだ。世界名作全集もあって、そっちは「名探偵ホームズ」シリーズとか「怪盗ルパン」シリーズとかは熱心に読んだが、「岩窟王」とか「小公子」などはあまり面白くなくて途中で放り出した。日本のは挿絵入りで「北条時宗」とか「弁慶と義経」とか「聖徳太子」とか、今から考えると戦国時代の物語はなかった。唯一、「南総里見八犬伝」があって、これはもちろん滝沢馬琴のオリジナルのままではなく、わかりやすく現代語にしたチャンバラ物語である。でもぼくは、これを読んで儒教の徳目、仁義礼智忠信孝悌という文字を知ったし、安房の戦国大名里見家の伏姫が、敵将を噛み殺して勝利をもたらした八房という愛犬と共に山に入って懐妊し、腹を割いて八つの文字が入った玉と共に飛び散り、その玉を持って生れてきた八人の剣士が、それと知らずにめぐり合って活躍するという、とんでもないスペクタクル物語に魅了された。

 犬塚志乃、犬山道雪、犬田小文吾などと「犬」プラス玉の名をもつ八剣士の設定や、舞台が関東、それも江戸や上総下総、常陸安房といった今の東京や千葉県という場所で、なんだか身近に感じた。ハリウッドSF大作映画にも匹敵する、ダイナミックな娯楽物語である。滝沢馬琴は江戸後期の読本、小説作者だが、もとは武士階級の生まれで儒教的教養をもっていた人である。生活のために書き始めた「南総里見八犬伝」は、全9巻106冊を書き上げた。中国の「水滸伝」を目標に、1814年(文化11)に初巻が刊行されて以来、完結編が刊行された1842年(天保13)まで、実に28年間心血を注ぎ完成をみた。その間には、版元も2度かわり、挿絵絵師も交代し、馬琴自身最後は失明して、嫁のお路に口述筆記をさせて完成にこぎつけたという。これは江戸の人々の人気を得て、明治時代までベストセラーだった。

 しかし、西洋近代文学の紹介者、シェークスピアを翻訳した坪内逍遥が、「八犬伝」こそ古い勧善懲悪の馬鹿げた物語であり、人間のリアルな生態を活写する文学とは正反対のものだと攻撃したことで、文学史的には葬られていった。でも、歴史というものへの江戸の人々の感覚、そして儒教的世界への不思議な魅力を最初にぼくに教えてくれたのは、「八犬伝」だったな、と思う。正義のために戦うヒーロー、相手は醜い悪。この実にわかりやすい構図のもとに、子どもは世界を捉える方法を学ぶ。哲学戦隊ジューキョーシャー!すげ!

B.儒教と日本
 この世界がどうしてできているか、人間はどのように生きるべきか、というような大きくて難しい問題に答えを与えるのが宗教あるいは哲学ということになるが、宗教と哲学とは何が違うのか?いちおう辞書(『広辞苑』)を引いてみると・・

*宗教:神または何らかの超越的絶対者、或いは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事。また、それらの連関的体系。帰依者は精神的共同社会(教団)を営む。アニミズム・自然崇拝・トーテミズムなどの原始宗教から、呪物崇拝・多神教などの形態を経て、今日の世界的宗教すなわち仏教・キリスト教・イスラム教などに至るまで、文化段階・民族などの違いによって多種多様。多くは教祖・経典・教義・典礼などを何らかの形でもつ。

*哲学:philosophiaは愛智の意。西周は賢哲の希求という意を表すため希哲学と訳し、やがて哲学という訳語が行われるに至った。世界・人生の究極の根本原理を追及する学問。古代ギリシャでは学問一般を意味し、のち諸科学の分化・独立によって世界・人生の根本原理を取り扱うものとなり、単なる体験の表現ではなく、あくまで合理的認識として学的性格をもつ。

 定義としていまひとつ明確でないが、宗教は世俗を超越した聖なる絶対者への帰依・信仰と教祖・教団・教義、独自の儀式があるのに対し、哲学は世界と人生に関する原理的考察・学問であって、知的活動ではあってもそこから直接に社会運動や組織などを意味しないことは確かだ。M・Weberの宗教社会学は、歴史的宗教現象を広範にとらえて、世界各地に発生し信仰されている宗教を、個別の民族や地域に限定された宗教と、民族や地域を越えて普遍化した宗教とに分け、後者を世界宗教と呼んだ。Weberが世界宗教として考えたのは、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教などだが、それぞれそれに先行する民族宗教がある。

 ところで儒教というのは、よく考えてみると宗教なのか哲学なのか?Weberは世界宗教の比較社会学として「儒教と道教」という大部の考察も書いているから、世界宗教に含めているともいえるが、キリスト教や仏教などに比べて宗教の色彩が弱い。儒教は紀元前5世紀の春秋時代の思想家孔子に始まり、彼は弟子たちに教えを説いたが著述をせず、自分の理想を魯という小国家で実現しようと政治顧問になるが、結局挫折した。その後も弟子たちは、中国や周辺の王朝国家で、政治権力の指導原理あるいは統治技術をもつ学者となって、孟子荀子をはじめさまざまな流派を生んだ。つまり儒家とは、皇帝や王に道を説き政治がどうあるべきかを指導する個人教師のようなもので、教団・教義・独自の典礼などはあまり重視されず、哲学思想の性格が強い。それは抽象的な世界認識、理気二元論や名分論などの理論を構築したが、神概念のようなものがあるとすれば「天」になる。だが、「天」は自然の秩序以上のものではなく人格神ではない。

 それと儒教のもうひとつの特徴は、他の宗教のように来世の救いを約束するあの世を語らず、あくまで現世の実際的な政治、そして人間の生々しい闘争の記録としての歴史から学ぼうという姿勢が強いことだ。孔子の言行を記録したとされる「論語」とともに、魯の歴史についての記録と考察「春秋」とその解説「春秋左史伝」は儒教の最重要文献である。その後も、中国の儒教的伝統の中では、歴史書は非常に大切なものとされた。紀元前1・2世紀、前漢の時代に「史記」を書いた司馬遷は、実証主義的な歴史、つまりどのような事実があったのかを価値観や感情を廃して冷静に書こうとしたのだが、資料を漁る途中から人物の姿と声が見えてきて、歴史を貫通する真理のようなものを書くことになる。儒教的思想の中では、中立的客観的な歴史叙述はありえず、正邪曲直、主君への忠義、友への仁義、人への礼儀、信義、親への孝などの徳目が、実際の歴史の中でいかに実現されたか、されなかったかを確認していく。

 儒教のこのような特徴は、さまざまなヴァリエーションで展開していったものの、知的考察と歴史探求という点で変らなかったと思う。それはどうも宗教という感じではないので、日本に入ってきても、仏教のように広く民衆を導く教えにはならず、国家指導層の学習すべき教養、中華漢字文明圏の高級学問としてのみ伝承された。しかも武士階級の教養として四書五経が教えられても、どこまで原典どおりに理解できたかは、かなりあやしい。それは明治以降の近代日本で西洋文明知識の急速な輸入が起こり、横文字で書かれた書物を学校で学んだ日本人が、それを西欧の文脈どおりに確かに理解できたか、きわめてあやしいのと同じだろう。

 しかし日本にも、真面目だけがとりえの秀才はいるから、中国の役人並みに漢籍を読みこなし、そこに書かれた倫理道徳を厳格に守るべきだと主張する者も現れる。とくに、儒教が生れた春秋戦国時代にならい、日本が群雄割拠で争いが絶えなかった中世から戦国の世を収めて、ようやく安定した天下になったとき、統治の原理としての体系的イデオロギーが必要になった。そこで徳川幕府は、朱子学という儒教の中でもかなり観念的な封建秩序の理論を採用して、三百諸侯に学ぶよう推奨した。しかし、これを真面目に学んでいくと当然、日本の歴史をどう解釈するかという面倒くさい問題を解くことを迫られる。日本の歴史はヤマト朝廷の歴史であり、万世一系の天皇の歴史だとすると、そこから一番問題になるのが、その天皇が並立していた南北朝の時代である。(つづく)
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殿様と日本の名前について

2012-12-28 00:15:47 | 日記
A.殿様と名前のお話
 年末の慌しいときに暢気でこまかいお話ですが、徳川御三家水戸藩の藩祖、つまり初代の殿様は徳川家康の11男頼房で、家康は1543(天文11)年生まれなので、末っ子の頼房、幼名鶴千代が生れた1603(慶長8)年には満60歳だったことになります。その前年には、紀伊徳川家の藩祖、10男頼宣も誕生しています。関が原で天下の大勢を徳川が握った時代に生れてきた二人に対し、遥か昔、家康の正妻、今川の人質時代に結婚した築山殿(瀬名)との間に生れた長男信康は、織田信長の娘徳姫と9歳同士で結婚したが、1579(天正7)年に父の命により満21歳で切腹しています。

 頼宣、頼房を生んだ側室養珠院(名は万、1580(天正8)年生れ)、は上総勝浦城主正木氏の娘という人で、北条遺臣の養父のもと、伊豆で成長した16,7歳の頃、家康に見初められて側室となり、長福丸(頼宣)と鶴千代(頼房)を生みました。60歳の家康は23歳の万に二人の男の子を生ませて万々歳だったわけですね。信長には3人の男子(5人以上いたともいわれる)、秀吉にも3人の男子があったが、いずれも若くして殺されたり死んでしまい、後を3代目に継ぐことができなかった。直系男子が代々継承することで政治権力が維持されるシステムが基本である以上、実力本位の戦国時代が終わると、大名殿様の最大の仕事は武力の戦ではなく、お家を安泰に導く健康な男の子を作ることでした。乳幼児死亡率も高かった時代、無事成人して殿様になる若君も1人では危ない。安産型の側室を何人も用意して、男の子を用意する必要があったんですね。女の子も有力大名を手なづける手段に活用。もっとも跡継ぎ候補が何人もいると、殿様が死んだときお家騒動になって困ったりするわけですが、家康は還暦まで子作りでも成功を収めたといえます。

 このへんの事情は天皇家も同じですが、それが今は側室をもてないので難しい問題になってしまうわけです。ついでにこれも細かいお話ですが、天皇家の人たちには姓がありません。普通子どもが生まれると2週間以内に名前を決めて役所に出生届を出すことになっています。そこには姓と名を書いて、人の名が戸籍に記録されます。しかし、天皇家の人、皇族は民法ではなく皇室典範という規定によって名のみ皇統譜に記載されます。裕仁、明仁などの名は普通は使われず、学校に入学すると「皇太子殿下」「親王殿下」「内親王殿下」などと呼ばれます。でも、江戸時代までは一般庶民にも姓はなかったのです。村の田吾作、権助で別に不自由はなかった。女性など武家でも正式の名は記録されない場合が多かったのです。ちゃんと上の名前があったのは、サムライや公家だけでした。日本の名前には4つの種類があって、姓(かばね:実名)は古代の氏姓制度の名残で、蘇我、大伴、藤原など、畿内の豪族が大和朝廷に服属したものや、地方の有力者に天皇家の子孫を送り込んで清原、源、平、大江などと称したのが姓です。後に武士になった一族も、自分が高貴な血を引く者だというために姓を名乗りました。
 次に律令の官職名からくる仮名(けみょう)通称、越前守とか内蔵助とか治部少輔といった百官名というものです。ほんらいは正式に朝廷から賜る役職ですが、武士の世になった鎌倉時代以降は、下級武士まで箔付けて勝手に○兵衛、○の介、○の丞などと名乗っています。古代の官制では、今の知事にあたる地方長官を守(かみ)、次官を介(すけ)、3番目を丞(じょう)とした名残です。たとえば神奈川県は相模の国だったので、相模守、相模介、相模丞が役職だったわけです。その次は、いわゆる家名、名字・苗字(みょうじ)があります。姓が朝廷貴族との関係で使われたのに対して、家名は荘園や地頭の開発田などで武士として一族を形成した人々が、土地の名をもとに名乗ったものです。足利(尊氏)や新田(義貞)という家名は、姓は源氏の子孫で源ですが、関東の足利郷、新田郷に定住して鎌倉幕府の御家人として有力な名家になったものです。家名の多くは土地からくるので、山、川、谷、岡、浜、橋、松などの字が使われるのと、姓の変形、藤原の荘園だった所から、伊藤、齊藤、佐藤、藤田などの家名に繋がります。家名は血縁集団の名ですが、最後に個人名としての実名、諱(じつめい、いみな)がきます。さらに死後に与えられる諡(おくり名)や戒名もあります。「○○公」「○○院」様というのがそれです。

 つまり昔の武士は、正式の名として姓、官名、家名、諱を並べるわけで、たとえば信長は織田弾正忠平朝臣信長(おだだんじょうのちゅうたいらのあそんのぶなが)になり、家康は徳川内大臣従三位源朝臣家康、細川幽斎は細川兵部大輔従五位下源藤孝などというように長いのです。正三位とか従五位とかいうのは朝廷での位階、これも古代の名残です。朝廷の記録には姓と諱のみ、つまり平朝臣信長だけが記載されました。今日、歴史上の人物を呼ぶのには、この家名と実名を使います。徳川家康、織田信長から井伊直弼、西郷隆盛までこのパターンです(ただし西郷の隆盛は実は父の諱で、本人の諱は使わなかったので誰も知らなかったという逸話があります。南州というのは自分でつけた号です)。ちなみに坂本竜馬の坂本は家名ですが、半分商家だった実家の才谷屋の屋号から才谷梅太郎という別名を使ったり、竜馬は通称で諱は直陰または直柔です。諱は忌み名といわれるように、正式名称なのに普段使う名ではなく、格下の臣下や庶民はその字を使うことは憚られたものです。時代劇などでよく「信長様」「家康殿」などという台詞を登場人物が口にする場面がありますが、そんな発言は当時はタブーで首が飛ぶ無礼でした。ではどう呼んでいたかといえば「御屋形様」「上総介殿」「三河殿」「内府様」などの仮名・官名を使っていたはずです。最近はこのへんをちゃんと守った時代劇は少なくなりました。残念です。

 家康の家臣は、「家」「康」の文字を自分や子の名に使うことはできず、逆に直系の子や孫は「家」や「康」の一文字を使い、臣下でもとくに功績のあったものには一字を与えます。このことから、家康の長男「信康」は当時の権力者信長と父家康から一字もらったこと、次男「秀康」は秀吉に養子に行って秀の字がついていて、二代将軍になった「秀忠」も天下人秀吉からもらった名だということがわかります。徳川が実権を握った関が原後も、建前上はまだ豊臣政権は存続していたので、家康は名目上豊臣秀頼の家臣なので、生れた息子が元服する際には、秀頼と融和するためもあり「頼」の一字をもらって「頼宣」「頼房」になったのでしょう。一般庶民にはどうでもいいようなことですが、身分制社会ではこういうルールは厳格に守られたのです。

 それが明治維新によって、幕藩封建制を廃止し近代国民国家を目指すことになり、新政府が国民を直接把握するために、新たに戸籍を編纂し旧来の氏(姓)と家名(苗字)の別、および諱と通称の別を廃して、身分を越えて全ての人が姓名を公式に名乗ることになりました。このとき、今まで自由だった改名の習慣が禁止され、ひとつだけの姓名を決めるために、庶民は急に土地の名や屋号を姓にしたり、親方や名望家の姓をもらったりして届け出たわけです。明治以降の日本人の戸籍の名は、氏は家名の系譜を、名は諱と通称の双方の系譜から選ばれた。たとえば戸籍名である夏目金之助は通称系であり、大久保利通は諱系の名とみられます。

 ちなみに日本では結婚すると相手の姓に合わせて改名すること(大多数は夫の姓に変える)を、当たり前のように思っていますが、中国でも韓国でも男女の姓は結婚しても変えませんし、世界的にも少数派になっています。夫婦別姓を可能にする法案はたびたび国会に出されていますが、いつもこれは日本の美風であるとする保守派によって否定されています。儒教が強い中国や朝鮮半島で姓を変えないのは、祖先を同じくする血縁原理重視にもとづくもので、日本だけがそうしていないのは、血縁より「家」原理を優先したからです。つまり、土地と財産に結びつく「家」(家業・家産)の存続が、親子の血の繋がりより重視された結果、よその家から子をもらう「養子」が頻繁に行われたことによります。たとえば江戸時代、藩主に直系男子の跡継ぎがない場合、改易という取り潰しで家臣一同失業してしまいましたから、それを避けるには親子の血が繋がらなくても、一族や名家から子をもらっておくのです。江戸中期以降はこれが一般化して、嗣子なき改易はなくなり、たとえば幕末の会津藩と桑名藩は、京都の守護職と所司代の重責を担って薩長の反感を買い、戊辰戦争で亡ぶのですが、藩主の松平容保と松平定敬は美濃高須藩主の子として生れた兄弟で、尾張藩主の慶勝も兄弟です。高須藩は譜代の小さな藩ですが、健康な男の子がたくさん生れたので、跡継ぎに不安のあるあちこちの大藩から望まれて養子になったのでした。血縁原理を大事にする中国や朝鮮からすれば、これは原則を無視したご都合主義でしょう。

 なんか、だらだらと名前のことを書いてしまったけれど、水戸学の話に行きたいわけです。でもまだ江戸時代の文章を読むのが途中なので、また今度。とりあえず、イントロになりそうな大仏次郎の文を一部、Bとして引用します。

B.水戸の老公〈徳川齊昭の一徹〉
 堀田(老中備中守正睦・佐倉藩主)(引用者註)は正しい善良な人間だが、真直ぐで妥協がない。内政の問題では、彼の見解は狭く、伊勢守(阿部正弘)のように水戸の老公、島津斉彬、福井の松平慶永と、取り扱いにくい大物を並べて相手にして、上手に手綱をさばいた腕には及びもつかなかった。殊に、水戸の老公は他人がまだ気がつかない時代に、世の中に先んじて対外問題をとらえ、声を大きく警告し、海防の必要を唱えて来た人だから、今更、人に教えられることはないと、一徹の老人にふさわしく気を負うている。内外の事情が当初とはまったく変って来ていることも考えない。一体、水戸学を代表する會澤正志齋の「新論」は、華夷の区別を立て外国を蔑視すべきを説いたもので、その思想が厚く水戸に沈殿していた。我が国は「大地の首」に位置し、外国は四肢に屏居する位置に在る。頭部が四肢を支配すべきものなのは無論で、我が国は、朝の気、正気、陽であって、これに対し外国は暮気、邪気、陰である。神州の道が勝って、人倫の道を明らかにせねばならぬ。夷狄の道は人道を暗くし亡ぼす陰晦不祥の道なのだ。我が民をして禽獣たらしめぬために攘夷を断行せねばならぬ、というのである。この固定した論議を下地にして、齊昭は外国人を日本の国内に入れたら、国が混乱し、上下の名分がみだれて、今日まで社会を正しく規律して来た封建の秩序が破壊せられる。民が上の支配を怖れず不遜になる。社会が転覆せられるだろうと、深い危惧を感じている。天下の副将軍の立場から先祖以来の幕府の体制の崩れることに不安な予感ガ常に働くのである。大体が想像力がたくましく、さかんに予覚を働かせる性格であった。国防問題の先覚だったのと同じく百姓たちの一揆や氾濫の危険に、著しく敏感で、度々その不安を人に告げた。
         大仏次郎『天皇の世紀ニ 大獄』地熱 朝日新聞社 2005、p7-8.

 これは黒船来航後、幕府の勅許なき条約締結に対して水戸の齊昭が反対意見を幕閣に言っても無視され、朝廷に強硬な攘夷を吹き込みはじめる所の説明である。なにか現代の「暴走老人」を髣髴させるが、その結果は井伊大老の安政の大獄を招き、齊昭は蟄居謹慎、攘夷派の諸侯は遠ざけられ、志士は処刑される。それが桜田門外の変になっていく。
 政治の局面はどんどん流動していくのだが、その背後に流れるイデオロギーも過激化すると同時に変質していった。それを少し丁寧に追っていくのが、ここでの課題。
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水戸黄門と坂本竜馬

2012-12-26 03:28:52 | 日記
A.水戸黄門と坂本竜馬:イントロ
 現在の日本では、「価値観が多様化」し人が何を信じ、何を正しいこととするかは、各自の判断にまかせて、人の迷惑にならない範囲で「自由に生き方を選択すれば良い」、人の生き方に他人が干渉するのはよくないという前提が認められているといわれる。このような価値相対主義の行きつく先は、混乱と無秩序であるから教育によって正しい道徳や倫理を教えなければいけない、という強面の意見はいつの時代にもあった。これに対抗して、いや特定の価値観を権力が押しつけるのは自由の侵害であり、いまも「自由な選択」がじゅうぶん可能な状態になっていないのだから、もっと開放的な社会にするべきだ、という意見もある。
 どちらも時間と空間を限定しない一般論としては、とくに決着のつく問題ではない。つまりどのような場所、どのような時代で、どんな価値観をとるべきか、少しも具体的な内容が示されていないので、それを誰かが上から決めたり、個人の判断に任せたりすればいい、という議論をいくらしても実質的な意味がないからだ。誰でも特定の場所、特定の時代、今ここの中に生きている以上、そこには価値観の真空状態などはない。考えてみれば誰でもわかる。人を殴ったり借金を返さなければ直ちに問題になって、紛争が起こる。「価値観の多様化」を認めても、あちこちで争いは起きている。
 問うべきは、いまぼくたちが生きているこの時代、この国で、自分の選択、他者の選択を統御する価値はあるのか?あるとしたらそれはどんなものか、を考える必要があるということだろう。それは昔から、複数の考え方の対立を生んできたし、今も生んでいる。
 そこで話はいきなり、クリスマスとはまったく関係ない水戸黄門と坂本竜馬である。
 娯楽時代劇のヒーロー水戸黄門は、助さん角さんという屈強な若者を従えているとはいえ、白髪の老人である。黄門様がスーパーパワーを発揮するのは、印籠の権威、幕藩体制の身分制社会の頂点に君臨する、天下の副将軍徳川御三家水戸中納言であるからだ。「黄門」というのは宮中の官位である中納言の中国名で、神君徳川家康が自分の直系の息子を、尾張名古屋と紀伊和歌山に置いて大納言の地位を与え、さらに末っ子の11男頼房を常陸水戸25万石の藩主にしていざというときの備えにしたことによる。歴史の研究というのは、細部に拘るのでなかなか面倒くさいのだが、遠い過去の出来事などもはや確かめようもない事実も多いから、怪しい伝承や噂話みたいなことも多い。そこを歴史学者は、古文書資料を漁って確実な証拠を探すのだろうが、ぼくはあまり古いことには拘らない社会学者なのでそんな努力は諦める。とりあえず大筋解っていることで、考えることにする。
 明治維新の志士を導いたイデオロギーとして語られる「水戸学」は、この水戸黄門様、つまり徳川家康の孫で水戸藩主、徳川光圀が心血を注いだ修史事業、17世紀に彰考館という歴史研究所で行った「大日本史」の編纂の成果が前期水戸学と呼ばれ、それからずっと後の19世紀前半の天保期から幕末にかけての尊皇攘夷をスローガンとする水戸藩の学問を後期水戸学という。通俗時代劇の「水戸黄門」伝説は、歴史編纂の資料を求めて全国に情報探索を行った光圀と、幕末の黒船来航の直後、国内世論の沸騰に応えて攘夷を唱えて人気を集めた水戸藩主、徳川斉昭のイメージが重なっている。幕末の動乱の第一段階は、この水戸藩を渦の中心にして桜田門外の変を惹き起こす。
 水戸藩は徳川御三家として、江戸幕藩体制の中核を担う存在である。しかし、光圀という殿様は非常に知的な人だったらしく、日本の歴史を徹底的に洗い出して徳川政権の正当性を証明しようとした。人間は普通、自分の目先の愉しみ、日々の仕事に眼が向いて、そんな遠大なイデオロギー構築には興味を感じない。しかし、偉大な祖父徳川家康の事業を継がなければ、と思った黄門様は、極めて知的に徳川幕府の支配の正当性を証明する作業に全力をあげた。その結果が水戸に集められた歴史資料と、日本の独自性を主張する勤皇思想だった。ということで、水戸学とそれが導いたもののお話は、これからじわじわ詰めて考えながら書きたいのだが、もうひとつは坂本竜馬伝説。
 戦後の日本で、最も理想的なイメージで繰り返し語られたのが土佐の脱藩浪士、坂本竜馬である。予備校のポスターにまで使われた竜馬の英雄像は、軽薄な政治家にとっても魅力的らしく、「維新」「薩長同盟」「船中八策」などの言葉は、都合よく解釈されて「維新回転」のイメージとして悪用されている。おそらくそのような大きな影響をもたらしたのは、司馬遼太郎「竜馬が行く」という名作のせいだと思う。ぼくは、産経新聞に連載された「竜馬が行く」を、美しい岩田専太郎の挿絵とともにリアルタイムで毎日読んでいた。「竜馬が行く」は、歴史の転換点で一介の辺境の下級武士・武士であるかも怪しい若者が、流動する政治情勢の中で川を遡る鮎のように躍り出て、稀有な役割を果たしテロに斃れて消えてゆく。それは戦後という混沌と幻滅の時代に、きらきらと輝く英雄を提示していた。
 でも、今もう一度日本の幕末という歴史的時代を見るとき、坂本竜馬はむしろ極めて異色の、というよりはあの時代に血気盛んな若者として国事に奔走して、無残に命を捨てていった若者の多くとは違っていたのだろうと思う。坂本竜馬も最初は尊皇攘夷の志士として、土佐勤皇党に参加したのだが、途中から水戸学的尊攘思想から離れていく。ぼくが注目したいのは、そのイデオロギー闘争のプロセスと明治につながる思想のドラマだ。

B.儒学の思想について1 
 今から150年くらい前、後に江戸時代と呼ばれた徳川幕府が治めていた社会、海に囲まれた日本列島を外国から閉じて営まれていた社会生活が、どのようなものであったか。それを体験的に知っている人はとうの昔、明治の終わりにはほとんどいなくなっていた。今のぼくたちは、時代劇の中で着物を着てちょんまげをつけ、刀を差した侍の姿からなんとなく想像しているイメージがあるだけである。電車も自動車もなく移動は徒歩か馬か駕籠に乗り、電気も電話もないから夜は暗く蠟燭や焚き火の灯りで、文字は墨を磨って筆で書いていた、ということは知っている。要するに今ぼくたちが使っている道具や、エネルギーの大半は西洋文明から持ち込んだもので、江戸時代にはなかった。
 モノや知識は移入することができるし、時間はかかるが生活は変わることができる。実際、明治以降の日本は、開化・開発によってどんどん変わっていった結果、今のぼくたちの便利で快適な生活になっていることも知っている。人間は過去と現在を繋げ、現在の先に未来が来ることを予想して生きている。それは江戸時代の人も基本的には変わらないはずだ。しかし、江戸幕府があった時代の人々が考えていたこの世のありよう、そこに生きる人の生というものへの考え方は、かなり違っていたはずだ。それが19世紀のなかば、わずか十数年で瓦解していくとき、何が起こったのか?もうぼくたちは知らない。
 世の中が平穏で安定していると思われた時代は、歴史とは単にお勉強する知識に過ぎない。しかし、外発的にせよ内発的にせよ不確定な未来に大きな不安を抱く変革期には、みずからの歴史を学び何か新たな指針を見つけ出そうとする。
 どんな時代にも、人は目の前にある現実、日々の生活で経験していることの中で暮らしているが、それをどのような意味のあることか、考えずにはいられない。
 江戸時代は、生まれながらの身分という枠の中で生きていて、文字も読めない人々が多かったといわれるが、一方で読書をする人も少なからずいて、多様な文化も育まれていた。大きくみれば政治を担う上層の武士や読書階級である名主層の基礎的教養は、儒教と仏教、それに素朴な自然信仰としての神道である。江戸時代というある意味では平和で安定していた時代が急速に終末へと雪崩れ込んでいく過程で、思想的な課題に答えたのは伝統的な仏教でも神道でもなくて、武士階級の価値観・倫理道徳の拠り所であった儒学の教養。とくに公認思想としての朱子学、その異端としての陽明学と国学、そして過激派の役割を担った水戸学だと思う。(つづく)

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桜田門外の変について 1

2012-12-24 02:53:06 | 日記
A.「日教組と戦後教育」嫌いについて
 年が明けたら二度目の総理大臣になるはずの安倍晋三氏は、これまでもことあるごとに日本の教育は「日教組」の左翼に偏向した方針によって歪められ、子どもたちが愛国心を持てないような「自虐史観」を植えつけられてきた、と攻撃してきた。その背景には、歴史教科書をめぐってクレームをつけ続けてきた歴史修正主義者の運動(つまり日本の敗北した戦争目的は正しかったのだとする国家主義者のイデオロギー闘争)がある。当初は一部の過激な右翼が主張していると見られていた運動が、安倍氏の言うようにいまやそれは国民の多くの支持を得ているかにみえる。選挙に勝った安倍自民党や維新の会などは、ふたたび教育改革と称して、学校現場にこのイデオロギーを強引に持ち込むことは間違いない。
 日本の公教育の現場で、彼らが言うように「日教組」が支配的な権力として教育内容を左右するほどの力を持ったことがあったかどうか、はさておいても、「自虐史観」と呼ぶ昭和日本の現代史への批判的視点は、戦争に関わった人間には不愉快な「自虐」感を呼び覚ましてきた。そして同時に、中国大陸・朝鮮半島・台湾・樺太そしてアジア太平洋の各地では、そこに軍隊を送って戦争した日本帝国の記憶を呼び覚まして、ただちに国際的緊張を招いてきた。「靖国参拝」や「A級戦犯合祀」などで繰り返し顕在化する中国や韓国との緊張は、ただの歴史研究と解釈の問題ではなくて、国外では日本人は過去について何も反省していないと怒る声、国内ではいつまで過去のことに拘るのか、いい加減にしろ!と反発する声が沸騰する。
 ぼくの得意領域としては、ほんとは歴史研究における実証主義と理念主義の矛盾、みたいな話ならいくらでもできるのだが、そんな面倒な話は誰も興味がないだろうから、ここはごく単純にこれだけ言っておく。子どもにも解る話だと思うが、自分の家によその人が入って来て、俺たちと一緒にこの家を建て替えよう、もっといい家にしてやるぞ、と言う。いやだ、と言ったら銃を出していやとはいわせない!今日からこの家は俺たちが使うから、お前たちは言うことをきけ、と言ったとしたら、これは侵略だろう。日本だってロシア人や中国人やアメリカ人が武器を持って、日本列島に入ってきて同じ事を要求したら、激しく怒るだろう。
 歴史的事実として、そういうことを過去の日本はしたと思う。朝鮮併合は合意の上だったかとか、南京で何人殺したかとか、従軍慰安婦は合法的だったかとか、事実の確認検証も必要だろうが、それはある意味細かいことをいくら追求しても、証拠隠滅してる限り解らない部分が残る。「自虐史観」と言っている安倍氏は、自分がまさに「自虐」だと思っているから、このような不愉快な事実を否定したいのだ。学校教育でこのようなことは教えないで、ただ美しい日本、栄光の歴史だけを教えたいわけだ。そうすれば子どもたちは自信を持って、愛国兵士になる。このような精神は右翼小児病とでもいうしかない。
 だが、ぼくは同時に「日教組」的なもの、戦後民主教育と呼ばれたものには、ある種の違和感を持っている。それは安倍氏のようなイデオロギーからではなく、左翼右翼といった政治的な視線を越えた日本の学校を覆う、重苦しい不文律、民主教育といいながら個人を抑圧するような全体主義の匂いを感知するからだ。おそらく、今の若者が小学校以来16年もの学校生活の中で、面従腹背の処世術を身に付けて大人になること、学級ホームルームの相互監視的環境の中で、いかに周囲から浮き上がらずにお互いに当たり障りのない友人関係を装うかに、若い神経をすり減らしていくか、その根幹に戦後民主教育は手を貸したと思う。「日教組」が謳った理想は、実際は一部の優れた教師を別にして、処世を優先する教師たちの見え透いたタテマエに堕し、それは文部省の上からの教育政策と、タテマエの綺麗ごとという点でいい勝負であったと思う。ぼく自身が、戦後民主教育のもっとも熱心な教師(彼は日教組の活動家だったが)の教え子であったという経験から、そう思うのだ。
 だから、「自虐史観」を批判し、靖国の英霊に参拝するいまの若者を見るたびに、この子たちは何に対して怒りを向けているのか、と考える。彼らにとって過去の戦争は夢物語に過ぎない。特攻兵士に感動しても、自分がおんぼろ飛行機で敵艦に体当たりして死ぬ意味と覚悟を考えているとは思えない。彼らが「日教組」や「左翼」を国賊として憎むのは、小学校以来の学校体験の中で、多くの教師が教室でタテマエとしての平等、平和、個性の尊重を言いながら、実際にやっていたのは学力競争と進学実績の追及と、生徒の選別やいじめの権力管理だったからではないか。でもそれは、彼らが「日教組」や「左翼」教師だったからではなく、学校全体が戦前からの共同体「臣民」教育が形を変えて現れていたのだと思う。
 いうまでもなく、安倍晋三的教育改革は、その抑圧的傾向を強めこそすれ弱めることはない。

B.「桜田門外の変」について 
 旧い伝統保守権力が支配するある国に、国際社会が武力を背景に開国と自由貿易をするように迫り、政府は仕方なく各国と条約を結んだものの、国内は緊張し反政府勢力が条約を破棄せよと古代以来の宗教的権威を呼び出してナショナリズムの反対運動を起こす。責任を一身に担った首相は政府の決定に従えと反政府勢力を力で弾圧し、指導者を逮捕して処刑する。追い詰められた反対派は、独裁者首相へのテロに走り暗殺が成功する。国内は大混乱して、政府の権威が失墜し表面上条約破棄を約束しながら、外国への約束も守らねばならず、事態は内乱に向って走り出す。無力な発展途上国の、不幸な社会的政治的混乱のプロセス。
 これは、先ごろ内乱状態だったリヴィアやソマリアの話ではなく、19世紀半ばの極東の島国で起きていたことである。革命は愚劣と流血の混乱が繰り返す中で、薄氷の中を走り抜けるような危険な短いプロセスである。人々の期待を背負った指導者だけでなく多くの若者が血気に燃えて、まるで早く死にたいかのように政治闘争の中で命を捨てる。平和な日常、幸福な家族、日々の生活を大事にする庶民にとっては、革命運動など人を不幸にするだけの危険な狂気の世界である。幕末の日本では、熱病に取り憑かれたように若い下級武士たちが、革命運動の沸騰に飛び込みテロリストになった。その結果、多くの志士は死んでしまい、運よく生き残った人が新政府の要職に就いて、権力の味に染まった。しかし、あの幕末の混乱がなければわれわれは今このような国に住んでいることはできなかったということは、よく考えてみる価値があると思う。
 井伊大老が殺された翌年の文久元(1861)年、幕府はこの難しい事態に対して、全国の各藩にどう対処すべきか意見を求めた。そのとき長州藩毛利家から出された「航海遠略策」を書いた長井雅樂という人のことを、ぼくはいやでも思い浮かべる。智謀優れた彼は国際情勢を冷静に読んで、外国人を嫌い感情的に排除する攘夷の不可能と無知を知り積極的に西洋の技術知識を取り入れ、国家の独立を図るという実に現実的な政策を提起した。しかし彼の案は幕府を助ける開国論と見られ、激高した尊攘派から攻撃され失脚して文久三年無念の切腹をする。未来の歴史は、長井の説の正しさを裏書きし明治政府はその方向に進んでいった。
正義と真理を言うだけでは、革命の波には乗れない。明治維新にはこういう局面がいくつもあった。
 徳川幕府の側にその読みができる人材がいれば、幕政改革で近代国家への移行もできたかもしれない。でも、歴史はただ一つしかない。多くの若者の命を飲み込んで維新は、徳川幕府を踏み倒し薩摩と長州主導で明治新政府を立ち上げた。徳川御三家の水戸藩は、維新の出発点で全国の志士の輿望を担って「尊皇攘夷」の熱狂を先頭で突っ走った。それが結果的にはまるで滑稽なピエロのような役割を演じて、ミイラのような残骸を晒すことになった。
 維新の精神には、相反する2つの方向があったと思う。ひとつは水戸国学の尊皇攘夷、天皇を最高の価値とするナショナリズムで、外国への心情的拒否を核とする偏狭なアイデンティティ。もうひとつは、帝国主義列強のせめぎ合う世界で、詰まる所日本が西洋文明を受容した近代国家になる以外に選択肢はない、という冷徹な「開国」「和魂洋才・文明開化・富国強兵」のリアリズム。幕末の歴史は前者に起動し、後者に帰着した。

 テロリズムは、あらゆる歴史において常に悲惨である。殺す者も殺される者も、政治の力学の中ではたんに道具に過ぎない。とくに実行者であるテロリストは、歴史の未来に希望を託して自分はみじめに死んでいくことを受け容れる。しかも、自分の死が現実をどのように変えたのか知ることはできない。たいていの場合、テロの結果は、とりあえず人々の憎悪と軽蔑をもたらすだけで何も生産的な結果は生まない。でも、万延元年の「桜田門外の変」というテロは、日本の極めて微妙な時点で、確かに歴史を大きく展開させたのは間違いない。当時、大老井伊が殺されたからといって、江戸の庶民の生活は何ひとつ変わらないように見えた。大名諸藩は何事もなかったかのように平和を装って今まで通りの日常を続けていた。しかし、全国で深刻な危機を自覚した少数の志士にとっては、これが革命の始まりだったのである。万延元年には、たった8年後にこの徳川幕府がなくなり、大名も藩もなくなり、武士も町人の身分もなくなる未曽有の歴史的大変動を予測した人は全国に何人もいなかった。
 たとえば吉村昭の小説「桜田門外の変」は事件の詳細を、襲撃部隊の現場を指揮した水戸藩士関鉄之介の視点から史実に則して描いて、映画にもなった。安政7年(1860年)2月18日早暁、水戸藩士・関鉄之介は、妻子に別れを告げ、故郷から出奔する。鉄之介は水戸藩の有志たちと徳川幕府大老・井伊直弼を暗殺する盟約を結び、これを実行するため江戸へと向かった。大老襲撃は3月3日に決まり、鉄之介を始めとする水戸脱藩浪士17名と、薩摩藩士・有村次左衛門を加えた襲撃実行部隊18名が集結。そこで計画の立案者で水戸藩尊王攘夷派の中心・金子孫二郎から、関は部隊の指揮を執るよう言い渡される。
 襲撃当日。雪の降る中、品川愛宕山へと集結した鉄之介たちは襲撃地点である桜田門へと向かい、襲撃者の一人が大老の行列に直訴状を差し出す振りをして、行列に斬りかかる。同時に仲間が発砲した短銃の発射音を合図に、乱闘が始まり、やがて有村が大老の駕篭へ到達、井伊の首を刎ねる。襲撃隊は稲田重蔵が闘死、4人が自刃、8人が自首。その成功を見届けた鉄之介は、京都へと向かう。彼らの計画では大老襲撃は序曲に過ぎず、上方で薩摩藩が挙兵をして京都を制圧、朝廷を幕府から隔離するはずであった。だが薩摩藩内で挙兵慎重論が持ち上がり、計画は瓦解。
 ペリー来航以来、幕閣が鎖国の解除を逡巡するうち、国内世論は沸騰し、米国に圧力を受けた井伊直弼ら譜代の重臣は独断で通称条約を締結。それに異を唱えて尊王攘夷論を押し出したのは水戸藩主・徳川斉昭だった。やがて井伊が大老に就任したことから、斉昭ら尊攘派は失脚。斉昭に賛同した各藩の藩士、公家を弾圧する。水戸藩の尊攘派志士がテロに走ったのは、主君斉昭の名誉のための忠義と、井伊への反感にあった。しかし、維新の第一段階で突出した水戸藩尊攘派のその後は、めまぐるしい時局の展開の中で、流れに取り残された惨めな末路をたどる。
 そこで、水戸学であるが今日はここまで・・。
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