A.茨城県の学校でのこと・・大晦日の考察
大学に就職した当初の数年間、ぼくは教育実習担当という仕事をやらされた。ぼくの専門は社会学で、教育学も教育実習指導もちゃんと勉強したことはなかった。にもかかわらず前任者が社会科教育や教育実習などの科目ももっていた方だったことから、しばらくはその授業をやることになった。中学高校の教師を目指す学生が、大学の4年生のとき実際に中学や高校の現場に行って、教師の練習をするのが教育実習で、教員免許取得のためにその頃は2週間の実習が必要だった。百人以上の学生に実習に行く前の指導と終わってからのまとめ、そして5,6月の実習期間中に行われる研究授業という学生が教壇に立って授業するのを見に行く、というのが主な仕事だった。
都内ならスケジュールをやりくりすればいいが、地方出身の学生は地元の出身校などで実習をするから、毎年学校訪問はたいへんだった。新米のぼくは、言われるままに去年は新潟県、今年は栃木県などと当てられて一日5校くらい回るために、電車では無理で数日かけて1人レンタカーで走り回った。それも学生の研究授業に合わせて訪ねたのでは日程が集中するから、1校での滞在時間はなるべく30分くらいで校長と担当教師と学生に挨拶して次に回る。
ある年、茨城県を当てられて、土浦から、新治、石館、岩間、水戸などと回って行った。途中ある高校で校長室に通され、一通り挨拶をして立ち去ろうとすると、年配の校長先生が先を急ぐ頼りない若僧の大学教師を少しからかってやろうと思ったのか、こんな質問をした。
「先生、茨城県の高校教育は戦後完全に全校男女共学になったんですよ。他の県では男子校女子高だったのに、どうしてだと思います?」ぼくはとっさに答えた。「水戸学ですか?」校長はわが意を得たりとにこっと笑って「その通り!GHQは水戸学が軍国主義の元凶だといって、潰しにかかったんです」どうやらこの校長は水戸学に誇りをもっているらしい。「でも、男女共学にしたからといって、日本がダメになるわけでもないでしょう」とぼくは言った。校長はちょっと口を結んで「うん、だから我々は女子にもしっかり質実剛健、日本人の美徳を教えているんです!」
それ以上校長とこの話をするのは面倒なので、次の学校に行かなければなりませんのでと失礼した。でもこんな所に今も水戸学が生き残っていることに、少々驚いた。尊皇攘夷、忠君愛国、教育勅語のイデオロギーの原点にあるのが水戸学らしい。戦争が敗北に終わり、無条件降伏してアメリカを中核とする連合軍の占領を受けた時代、古い軍国日本の精神は否定され、学校教育から水戸学は排除された、はずだった。でも、それはあの戦争の時代に骨の髄に叩き込まれた小国民世代には、繰り返し蘇ってくる「正義」だった。でも、水戸学とはどのような思想だったのか?
B.幕末水戸学の位置づけ
徳川斉昭が作った弘道館の後期水戸学と幕末明治維新について、いくつかの解説書や研究書を見てみたところ、もっともコンパクトで要点を掴んでいると思えたのは、東京家政学院筑波女子大学教授という吉田俊純氏の『水戸学と明治維新』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー150)だった。戦後の歴史学界においても、水戸学は研究すること自体反時代的な行為と見られ、研究者は皇道右翼へのシンパシーをもった人間と見られることを覚悟しなければならなかった。横浜市大の大学生だった吉田氏が水戸学に興味をもったのは、吉田松陰が国禁を犯してアメリカの黒船に乗り込みアメリカに行こうとしたにもかかわらず、なぜ激しく攘夷を唱えたのか、外国船を打ち払うことを可能だなどと考えたのか理解できず、調べていくと松陰の思想に水戸学が大きな影響を与えていたことを知ったからだという。そこから研究を始めた吉田氏は、指導教授の遠山茂樹、家永三郎から励ましを受けて水戸学研究をすすめていった。そして、今日ほぼ定説ともいうべき水戸学の歴史的位置づけは遠山の次のような見解に帰着することになるだろう、というので遠山茂樹を引用させていただく。
-- 幕末の水戸学の本質は何か。結論をいえば、その内容をなす尊王論と攘夷論とが、反幕的性格、まして反封建的性格をもつものではなく、むしろ解体に瀕する幕藩制秩序の再建をめざすものであった(拙著『明治維新と現代』114P.)。しかしこの指摘だけで、明治維新における水戸学の役割を説明しつくすことはできない。藤田幽谷・同東湖・会沢正志斎の書は、尊王攘夷運動のバイブルとして、多くの志士に愛読され、彼らを駆って幕政批判、幕府専制反対の体制改革運動に一身をささげさせる思想的エネルギーとなったのである。
何故水戸学はそうした力をもつことができたのか。私は「封建制の危機が国内的にまた対外的に逼迫した現実に押されて、封建支配者層の危機意識の集中表現となり、封建権力の改革=統一の要求のイデオロギーとなったからである」とのべた(拙著『明治維新』61P.)この考えは変わらない。しかしもう少し説明を加える必要がある。水戸学の思想の特色を、儒学的名分論だと規定することはできる。しかし一般の名分論のように、学者の机上から生み出された観念的教学にとどまらなかった。生きた現実の政治と格闘した、その緊張感覚が、水戸学の名分論を裏づけているのである。だから水戸学を理解するためには、その代表的な著述を読むのと平行して、藩主徳川斉昭が、また東湖・正志斎らブレーンが、藩政および幕政のどのような現実にぶつかり、いかなる改革を意図し、どのような困難に逢着したかを、たとえば『水戸藩資料』を読んで理解することが必要である。『弘道館記』に「学問事業はその効を殊にせず」と説いているが、その「事業」がいかにきびしい現実にさらされているかを読み取るべきである。
(中略)
建前と本音のつかいわけは、斉昭の政治活動において得意とするところであった。彼は幕府への建言には常に攘夷をふりかざした。しかし本心は、攘夷の実行ではなく、国内に戦を主張し、対外には和を旨とする「内戦外和」論にあった。だから水戸学は、現実に対応しうる政治思想でありえたし、生粋の攘夷思想を説いた『新論』の著者が後年の『時務策』では、「時勢の料」り「事変ヲモ察」して、攘夷実行不可論=富国強兵策優先論に転回できたのである。
この建前と本音との分離が、現実の政治行動によって明らかとならざるをえなかった万延年間以降、水戸学は尊王攘夷運動にたいする指導力を減退することとなるのだが、慶応年間に至って、こうした思考が、ふたたび政治運動の指導的な力となって復活した。すなわち尊王と攘夷は、表向きは、いよいよ強調されながら、内実は倒幕のための戦術的スローガン化された。このことによって、尊王攘夷運動は、統一権力樹立のための統幕と富国強兵のための開国をめざす運動に発展できたのであった。その旗手は、水戸藩士ではなく、薩摩の大久保利通であり、長州の高杉晋作・木戸孝允であった。 こうした意味で、水戸学あるいは水戸学的思考は、明治維新の指導理念であったということができる。そして儒学が名分と現実とのへだたり、現実の変化・進展に対応しえて、明治維新以後も、永く教学としての生命をもち続けた思想の鍵を、水戸学において見出すことができるであろう。もとより天保年間の水戸学の背後にある、鋭い現実認識とそこから生れるきびしい危機意識とは、明治の時期にははるかに弱まっており、それだけに思想の迫力は失われているのであるが。
遠山茂樹「水戸学と明治維新」(『日本思想体系』第53巻「月報」)岩波書店1973年4月)
遠山茂樹著作集 第二巻 維新変革の諸相 岩波書店 1992年 所収
大学に就職した当初の数年間、ぼくは教育実習担当という仕事をやらされた。ぼくの専門は社会学で、教育学も教育実習指導もちゃんと勉強したことはなかった。にもかかわらず前任者が社会科教育や教育実習などの科目ももっていた方だったことから、しばらくはその授業をやることになった。中学高校の教師を目指す学生が、大学の4年生のとき実際に中学や高校の現場に行って、教師の練習をするのが教育実習で、教員免許取得のためにその頃は2週間の実習が必要だった。百人以上の学生に実習に行く前の指導と終わってからのまとめ、そして5,6月の実習期間中に行われる研究授業という学生が教壇に立って授業するのを見に行く、というのが主な仕事だった。
都内ならスケジュールをやりくりすればいいが、地方出身の学生は地元の出身校などで実習をするから、毎年学校訪問はたいへんだった。新米のぼくは、言われるままに去年は新潟県、今年は栃木県などと当てられて一日5校くらい回るために、電車では無理で数日かけて1人レンタカーで走り回った。それも学生の研究授業に合わせて訪ねたのでは日程が集中するから、1校での滞在時間はなるべく30分くらいで校長と担当教師と学生に挨拶して次に回る。
ある年、茨城県を当てられて、土浦から、新治、石館、岩間、水戸などと回って行った。途中ある高校で校長室に通され、一通り挨拶をして立ち去ろうとすると、年配の校長先生が先を急ぐ頼りない若僧の大学教師を少しからかってやろうと思ったのか、こんな質問をした。
「先生、茨城県の高校教育は戦後完全に全校男女共学になったんですよ。他の県では男子校女子高だったのに、どうしてだと思います?」ぼくはとっさに答えた。「水戸学ですか?」校長はわが意を得たりとにこっと笑って「その通り!GHQは水戸学が軍国主義の元凶だといって、潰しにかかったんです」どうやらこの校長は水戸学に誇りをもっているらしい。「でも、男女共学にしたからといって、日本がダメになるわけでもないでしょう」とぼくは言った。校長はちょっと口を結んで「うん、だから我々は女子にもしっかり質実剛健、日本人の美徳を教えているんです!」
それ以上校長とこの話をするのは面倒なので、次の学校に行かなければなりませんのでと失礼した。でもこんな所に今も水戸学が生き残っていることに、少々驚いた。尊皇攘夷、忠君愛国、教育勅語のイデオロギーの原点にあるのが水戸学らしい。戦争が敗北に終わり、無条件降伏してアメリカを中核とする連合軍の占領を受けた時代、古い軍国日本の精神は否定され、学校教育から水戸学は排除された、はずだった。でも、それはあの戦争の時代に骨の髄に叩き込まれた小国民世代には、繰り返し蘇ってくる「正義」だった。でも、水戸学とはどのような思想だったのか?
B.幕末水戸学の位置づけ
徳川斉昭が作った弘道館の後期水戸学と幕末明治維新について、いくつかの解説書や研究書を見てみたところ、もっともコンパクトで要点を掴んでいると思えたのは、東京家政学院筑波女子大学教授という吉田俊純氏の『水戸学と明治維新』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー150)だった。戦後の歴史学界においても、水戸学は研究すること自体反時代的な行為と見られ、研究者は皇道右翼へのシンパシーをもった人間と見られることを覚悟しなければならなかった。横浜市大の大学生だった吉田氏が水戸学に興味をもったのは、吉田松陰が国禁を犯してアメリカの黒船に乗り込みアメリカに行こうとしたにもかかわらず、なぜ激しく攘夷を唱えたのか、外国船を打ち払うことを可能だなどと考えたのか理解できず、調べていくと松陰の思想に水戸学が大きな影響を与えていたことを知ったからだという。そこから研究を始めた吉田氏は、指導教授の遠山茂樹、家永三郎から励ましを受けて水戸学研究をすすめていった。そして、今日ほぼ定説ともいうべき水戸学の歴史的位置づけは遠山の次のような見解に帰着することになるだろう、というので遠山茂樹を引用させていただく。
-- 幕末の水戸学の本質は何か。結論をいえば、その内容をなす尊王論と攘夷論とが、反幕的性格、まして反封建的性格をもつものではなく、むしろ解体に瀕する幕藩制秩序の再建をめざすものであった(拙著『明治維新と現代』114P.)。しかしこの指摘だけで、明治維新における水戸学の役割を説明しつくすことはできない。藤田幽谷・同東湖・会沢正志斎の書は、尊王攘夷運動のバイブルとして、多くの志士に愛読され、彼らを駆って幕政批判、幕府専制反対の体制改革運動に一身をささげさせる思想的エネルギーとなったのである。
何故水戸学はそうした力をもつことができたのか。私は「封建制の危機が国内的にまた対外的に逼迫した現実に押されて、封建支配者層の危機意識の集中表現となり、封建権力の改革=統一の要求のイデオロギーとなったからである」とのべた(拙著『明治維新』61P.)この考えは変わらない。しかしもう少し説明を加える必要がある。水戸学の思想の特色を、儒学的名分論だと規定することはできる。しかし一般の名分論のように、学者の机上から生み出された観念的教学にとどまらなかった。生きた現実の政治と格闘した、その緊張感覚が、水戸学の名分論を裏づけているのである。だから水戸学を理解するためには、その代表的な著述を読むのと平行して、藩主徳川斉昭が、また東湖・正志斎らブレーンが、藩政および幕政のどのような現実にぶつかり、いかなる改革を意図し、どのような困難に逢着したかを、たとえば『水戸藩資料』を読んで理解することが必要である。『弘道館記』に「学問事業はその効を殊にせず」と説いているが、その「事業」がいかにきびしい現実にさらされているかを読み取るべきである。
(中略)
建前と本音のつかいわけは、斉昭の政治活動において得意とするところであった。彼は幕府への建言には常に攘夷をふりかざした。しかし本心は、攘夷の実行ではなく、国内に戦を主張し、対外には和を旨とする「内戦外和」論にあった。だから水戸学は、現実に対応しうる政治思想でありえたし、生粋の攘夷思想を説いた『新論』の著者が後年の『時務策』では、「時勢の料」り「事変ヲモ察」して、攘夷実行不可論=富国強兵策優先論に転回できたのである。
この建前と本音との分離が、現実の政治行動によって明らかとならざるをえなかった万延年間以降、水戸学は尊王攘夷運動にたいする指導力を減退することとなるのだが、慶応年間に至って、こうした思考が、ふたたび政治運動の指導的な力となって復活した。すなわち尊王と攘夷は、表向きは、いよいよ強調されながら、内実は倒幕のための戦術的スローガン化された。このことによって、尊王攘夷運動は、統一権力樹立のための統幕と富国強兵のための開国をめざす運動に発展できたのであった。その旗手は、水戸藩士ではなく、薩摩の大久保利通であり、長州の高杉晋作・木戸孝允であった。 こうした意味で、水戸学あるいは水戸学的思考は、明治維新の指導理念であったということができる。そして儒学が名分と現実とのへだたり、現実の変化・進展に対応しえて、明治維新以後も、永く教学としての生命をもち続けた思想の鍵を、水戸学において見出すことができるであろう。もとより天保年間の水戸学の背後にある、鋭い現実認識とそこから生れるきびしい危機意識とは、明治の時期にははるかに弱まっており、それだけに思想の迫力は失われているのであるが。
遠山茂樹「水戸学と明治維新」(『日本思想体系』第53巻「月報」)岩波書店1973年4月)
遠山茂樹著作集 第二巻 維新変革の諸相 岩波書店 1992年 所収