gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

読書の意味について ベストセラー

2014-12-30 23:35:56 | 日記
A.読書は趣味?か
 あなたの趣味はなんですか?と聞かれて「読書です」と答える人はかなりいるだろう。たぶん「マラソン」とか「油絵」とか「楽器演奏」とかよりは多いだろうけれど、「ゴルフ」「テニス」「映画鑑賞」とか「カラオケ」なんかよりは少ないかもしれない。読書は小学校以来、学校で奨励し受験勉強などともからんで、教師は生徒に本を読む習慣をつけようとするので、本を読むことはよいことだと多くの人は思い込んでいる。しかし、今出版業界は不況が続き、紙媒体の本を購入して読書する人口は減っているといわれ、ネットなどの普及はますます読書から人を遠ざけ、町の書店は次々廃業しているように見える。
 しかし、もともと日常的に書物を買って読む人口は、江戸から明治までは国民全体から見ればごく限られた読書階級だった。学校教育が普及して文盲は減ったけれども、まとまった書物を読むだけのリテラシーは簡単には習得できない。高等教育の普及が国民の3割程度になれば、書籍の商品市場ができて出版業書店業が成立する。現在の日本は、同世代の半数が高等教育を受け、膨大な量の雑誌、新聞、書籍が発行されているから、「読書」は趣味のひとつに数えられるほど普及しているわけだが、問題はどんな本を読んでいるのか、ということだ。
そんなことを考えたのは、新聞(朝日)に、2014年のベストセラーというのが日販調べのランキングで出ていた(2013年12月~2014年11月、総合部門)からだ。

1位:槙孝子著・鬼木豊監修「長生きしたけりゃふくらはぎをもみなさい」アスコム。
2位:水野敬也・長沼直樹著「人生はニャンとかなる! 明日に幸福をまねく68の方法」文響社
3位:池井戸潤著「銀翼のイカロス」ダイヤモンド社
4位:坪田信貴著「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶応大学に現役合格した話」KADOKAWA
5位:小山鹿梨子まんが、フランクリン・コヴィー・ジャパン監修「まんがでわかる7つの習慣」宝島社
6位:和田竜著「村上海賊の娘 上下」新潮社
7位:池田大作著「新 人間革命26」聖教出版社
8位:サラ・ネイサン、セラ・ローマン作、しぶやまさこ訳「アナと雪の女王」ディズニーアニメ小説版 偕成社
9位:大野正人原案・執筆、村山哲哉監修「こころのふしぎ なぜ?どうして?」高橋書店
10位:岸見一郎、古賀史健著「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」ダイヤモンド社
11位:長友佑都著、木場克己監修「長友佑都 体幹トレーニング20」KKベストセラーズ
12位:渡辺和子著「面倒だから しよう」幻冬舎
13位:元宮秀介、ワンナップ著、ポケモン、ゲームフリーク監修「ポケットモンスターX ポケットモンスターY公式ガイドブック 完全カロス図鑑完成ガイド」オーバーラップ
14位:村上春樹著「女のいない男たち」文芸春秋
15位:大川隆法著「忍耐の法 「常識」を逆転させるために」幸福の科学出版
16位:渡辺和子著「置かれた場所で咲きなさい」幻冬舎
17位:元宮秀介、ワンナップ著、ポケモン、ゲームフリーク監修「ポケットモンスターX ポケットモンスターY公式ガイドブック 完全ストーリー攻略ガイド」オーバーラップ
18位:小西樹里著、ディズニー監修「アナと雪の女王 角川アニメ絵本」KADOKAWA
19位:水野敬也・長沼直樹著「人生はワンチャンス! 「仕事」も「遊び」も楽しくなる65の方法」文響社
20位:室谷克実著「呆韓論」産経新聞出版

 この中で、ぼくが読んでいたのは14位村上春樹の新作のみだった。自分で読んでもいない本について論評するのははばかられるが、題名を見ただけで読むのは時間の浪費でしかないと思う。もっとも、ぼくは「趣味」で読書をするのではなく、本を読むのは給料分の仕事の大きな部分を占めるので、楽しみのために本を読むことは少ない。でも、もし趣味娯楽、楽しみのために読むとしても、こういう本は読まないだろう。
 それで思ったのだが、こういったベストセラー、アニメガイド、自己啓発、心理マニュアル、気分転換修養本、の類を買って読む少なからぬ人たちは、図書館で何かを調べ考えようとして本を読むような動機ではまったくなく、いわばドラッグストアで風邪薬を買うように本を買っているのだろう、ということだ。あるいはテレビで言えば、ニュース報道や教養番組ではなく、お笑いバラエティやスポーツ中継を見ているのと同じだ。書店に並んださまざまな本の中から、ぼくたちはそれぞれの必要とする目的に沿って、ぴったりした商品としての本を選ぶわけだが、予期した効果が得られれば満足して終り、期待外れだとなんだ損しちゃった、と思ってこれも終わり。ちょっと風邪気味だからいい薬ないかな、という感じで本を買う。つまり書物は、効きそうな市販薬であればいい。あんまり効かなくても効きそうに見えれば売れる。いずれにしてもそれは消費され直ちに捨てられる。
 しかし、書物が人類千年の歴史で読み継がれてきたのは、そういう1日で消費される文章ではなく、読み終わってから考え、また読んでは深く考え、そこで頭に残った問題について考えるために、次の書物を探索するような人間の行為につながるから意味があると思う。市場としての出版業界、商品としての本や雑誌、流通販売としての文化産業は栄華を了えて、衰退するのかもしれないが、それは文字を読むことの価値と文化の質からすれば重要なことではない。こんな本読まなくたって、まったく困らない。



B.昭和の始まりの過ち
 まず年表をみておく。
大正15(1926) 総理大臣 若槻礼次郎・・北伐開始(中国)
昭和3(1928)     田中義一・・張作霖爆殺事件(満州某重大事件)/パリ不戦条約調印/映画『大学は出たけれど』封切、流行語となる/石原莞爾が関東軍赴任、「満蒙問題」に関して次々提案
  4(1929) 総理大臣 浜口雄幸・・ウォール街株式市場が大暴落
  5(1930)      ロンドン海軍軍縮条約
  6(1931) 総理大臣 若槻礼次郎(第2次)・・中村震太郎大尉、中国軍に虐殺される/満州で万宝山事件起こる/満州事変(柳条湖事件)起こる/チチハル占領    
  7(1932) 総理大臣 犬養毅・・錦州占領/山海関に進出/上海事変/井上準之助、団琢磨暗殺(血盟団事件)/満州国建国/上海事変停戦調印/五・一五事件/愛郷塾が東京の発電所を襲う/リットン調査団報告、国際連盟が日本の満州からの撤退勧告/

 昭和3年に張作霖爆殺事件が起き、これは関東軍が工作した陰謀で、日本軍が満州に手を伸ばすきっかけになり、昭和5年のロンドン海軍軍縮条約をめぐって、海軍内部で対立が起き、それが昭和7年の5・15事件と満州国建国に至る。

「張作霖爆殺と統帥権干犯:陸軍が張作霖爆殺事件で昭和四年に「沈黙の天皇」をつくりあげ、昭和をあらぬ方向へ動かしてゆくのと同時に、海軍も翌年のロンドン軍縮条約による統帥権干犯問題をきっかけに、まことに不思議なくらい頑なな、強い海軍が出来上がっていく。つまり昭和のはじめのこれら二つの事件によって、昭和がどういうふうに動いていくか、その方向が決まってしまったとも言えるのではないでしょうか。
 統帥権干犯ということについては、それまで誰も考えていなかったのです。軍備は誰がやるのか、陸軍なら参謀本部か陸軍省か、海軍なら軍令部か海軍省か、それは昔から何度もあった話ですが、両方の話し合いでその都度、対応してきましたから、問題になることはなかった。それが突然、統帥権が持ち出されて、「統帥権干犯」という言葉が表に出てきました。この統帥権干犯という言葉はのちのちまで影響します。軍の問題はすべて統帥権に関する問題であり、首相であろうと誰であろうと他の者は一切口出しできない、口出しすれば干犯になる、という考え方がこの時に確立してしまいます。
 ではこの“魔法の杖”を考え出したのは誰か。この概念で政治を動かせると思いついたのは、北一輝だと言われています。この半分宗教家ともいえる天才哲学者が統帥権干犯を考えつき、犬養さんや鳩山さんら野党に教え込んだ。それにまた海軍の強硬派がとびついた。そこで妙な大喧嘩がはじまった。しかも、国際的な条約が結ばれたあとで、それが暴発して日本を揺すぶったのです。考えてみると、まことに理不尽な話でした。そして多くの優秀な海軍軍人が現役を去っていきました。
 この辺が、昭和史のスタートの、どうしようもない不運なところなんです。この奇態な状況を踏まえて、ウォ―ル街の暴落による不況時代を日本はいかにして乗り切るか、それが翌年の満州事変へとつながっていくのです。」(第1章 昭和は“陰謀”と“魔法の杖”で開幕した)半藤一利『昭和史1926-1945』平凡社ライブラリー、2009.pp.50‐51.

註1――張作霖 1875-1928。今の遼寧省海城県出身の軍人。辛亥革命前後の動乱期に軍閥を築き上げ、十三年間にわたって中国東北地方に君臨した。関東軍と反発しあいながらも相互利用の関係にあった。1926年、北京に安国軍政府をつくり陸海軍大臣を称したが、二八年に蒋介石軍に敗れ、奉天に逃れようとして関東軍に爆殺されたのはこの時。
註2――立憲君主制 専制政治とは異なり、君主の権力が憲法によって規制を受ける君主制。
註3――司馬遼太郎さんがいう“魔法の杖” 「日本という国の森に、大正末年、昭和元年ぐらいから敗戦まで、魔法使いが杖をポンとたたいたのではないでしょうか。(中略)発想された政略、戦略、あるいは国内の締めつけ、これらは全部変な、いびつなものでした」(『「昭和」という国家』1998年、日本放送出版協会)
註4――北一輝 1883-1937。国家主義運動の理論面での指導者。天皇大権の発動によるクーデタで国家を改造し、海外膨張をもくろむ構想を説いた『日本改造法案大綱』(1923)は国家主義運動の経典となった。政界の裏面で暗躍し、二・二六事件の黒幕とみなされ銃殺刑となった。

 マジックワード「統帥権干犯」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「国家戦略特区」 「国力」 「国民の利益」のための軍隊?

2014-12-28 03:17:59 | 日記
A.法の精神の否定をあえてする権力は近代以前
 われわれのものごとの判断は、愚かなことではあるが、はじめに誰に好意をもつかに拠っているのかもしれない。安倍晋三という人物に心情的共感を感じてしまった人は、あとはその共感を確認するために、この心情を肯定する言説を集め、否定する言説を攻撃するようになる。これは反対側も同様で、安倍晋三という人物に感覚的嫌悪を感じてしまった人は、その印象にもとづいて否定的な言説を集め、肯定する言説を攻撃する。ネット社会はその収集活動を擬似公共的に拡大する。あとはあらかじめ結論が措定された賛美と憎悪の応酬があるだけで不毛である。そういう沼には嵌りたくない。
 経済政策の当否は、現状判断と政策手段の有効性を判断する理論に依存する。だが、経済理論は唯一の正解などない世界で、条件命題が複雑多様に介在するので、最期にどういう手段を取るかは政治的に決まるほかない。ということは成功の可能性と失敗の可能性は確率的に予測できない。まして、政権にある指導者の判断がつねに賢明であるという保証はどこにもない。ぼくは、安倍晋三という人にいかなる意味でも心情的に共感はできないが、だからといって安倍のMIXに批判的な言説だけを読んで満足するのは、ただの溜飲を下げているだけで、公正な目を曇らせると思う。問題は、好き嫌いでも理論の整合性でもなく、その政策によって現実に何が起るかを見通し、国民の利益(国家の「国益」ではなく)にとってそれがプラスになるのか、マイナスになるのかを考えることだと思う。

「いま、「リフレ派」によりかかったアベノミクスの危うさ、そして綻びが目に見えるかたちで現れ始めた。急速に変化する「産業構造」への認識不足も露呈している。
 たとえば非伝統的、異次元の金融緩和によって進めてきた円安政策だが、現実には円安のもとでも輸出(数量)が伸びず、逆に巨額の貿易赤字が続いている。このまま進めば、数年内に日本は「経常赤字」と「財政赤字」という「双子の赤字」に陥る懸念が強くなった。二〇一三年の「貿易赤字」は過去最大を記録している。
 この現実に対して安倍首相は「この状態が恒常化するとの見通しはもっていない」と強調した。いま進みつつある貿易赤字構造への認識不足を首相自ら露呈してしまうかたちとなっている。先進国で最悪の政府債務(GDPの二倍程度)と経常収支赤字が定着すれば、いずれ国債発行の引き受けを海外投資家に頼らざるをえなくなるだろう。そうなれば、金利急騰、市場不安定リスクの拡大は避けられない。
 さらにアベノミクスによって私たちの社会が失ったものに「日銀の独立性」があり、その「危うさ」を多くの専門家が指摘するようになった。この現実を前に第三の矢、すなわち成長戦略なるものが可能か。その主柱となる「国家戦略特区」を顕彰する。
 ある特定の地域を指定し、その地域内で大胆な規制緩和を先行実施する。安倍晋三首相自らが主導し、「世界で一番ビジネスのしやすい環境をつくる」と執念を燃やす「国家戦略特区」構想が現実のものになろうとしている。
 構想の核となる「雇用特区」では従業員の解雇自由、労働時間の上限規制の緩和・撤廃、残業代ゼロ制度の導入……と、経団連をはじめとする経済界の宿願が達せられる。特区内に本社をおけば、全国どの地方支店でも同じ「例外権」を行使できる。
 だが、日本国憲法は「労働条件法定主義」(27条2項)を原則としてきた。この原則に基づいて戦後早い時期に労働基準法が生まれた。労基法、労働組合法、労働関係調整法の三法は「普遍立法」である。この普遍法に例外権の穴を穿つ雇用特区が、大都市圏に忽然と姿を現す。労働基準法で守られる人と、そうでない人を分かつ労働の分断・解体が人々の意表を突く政治手法で進む。「憲法番外地」のその先に国民生活の安寧は可能だろうか。
 すでに形骸化しつつあるとはいえ、一日八時間・週四〇時間と定めた「法定労働時間」(労基法)の縛りは厳存する。これを超える労働には残業代という対価を支払わねばならない。また従業員の解雇を縛る「解雇ルール」の遵守が求められる。すなわち真に人員削減に迫られてのことか、解雇を避ける努力はなされたのか、解雇対象者の選定は合理的かなど、「判例」に則る条件が満たされていなければならない。
 言葉を換えていえば、被雇用者は「合理的な理由なしに解雇されない」権利(労働契約法)をもつ。そこに「労働条件法定主義」の神髄があった。
 それらが廃棄され、金銭的解決などの姑息な術を代償に、「企業行動の自由=解雇の自由」が拡大される。経団連はじめ雇用側が抱いてきた長年の欲望に安倍政権は一もニもなく即応の構えだ。筆者には異様な光景と映る。アベノミクスによって日本社会の格差拡大は必然となる。国家戦略特区は一例に過ぎない。
 強い者の欲望に寄り添う安倍政権の危うい本性が滲み出し始めた。三本の矢ではなく、三本の刃なのであり、その向かう先はほかならぬ私たち国民ではないだろうか。
 いまはそのことを恐れなければならない。」内橋克人「アベノミクスは「国策フィクション」である」岩波書店『世界』2015.1月号、pp.67-68.

 内橋氏の安倍政権の経済政策に対する否定的な視点は、いったんカッコに入れるとして、ぼくにはこの論文から教えられたことがある。安倍首相が第三の矢の決め手と位置づける「国家戦略特区」なるものが、企業にとって労働法制の枠を取っ払った無法地帯を出現させるということ、それが経団連をはじめとする財界の長年の政治的願望であること。うすうすとは感じていたことだが、明確には認識できていなかった。それは法が想定する基本精神を否定しない限り出て来る発想ではない。なるほど、とんでもないことをアベノミクスはやろうとしている。その犠牲になる非正規雇用の若者・女性・外国人労働者は、選挙に行かれないか、行く余裕がなかった。



B.国益を獲得し、拡張するということの味
 明治維新のとき、政府の最大の政治課題は帝国主義列強のアジアの植民地化に対して、極東日本がいかにして独立を保ち、国土国民の安全を確保するか、ということだった。それから必死で欧米先進国に学び、追いつき、国力を蓄え、国益を増大させるために明治の指導的日本人が血の滲む努力をした、ということも間違いではないと思う。その結果、日清戦争、日露戦争という対外武力戦争をかろうじて勝った。それが、その後の日本人、とくに軍人に過剰な自信と高慢をもたらしたと半藤一利は述べる。

「帝政ロシアはご存じの通り北の国です。冬は凍ってしまうシベリアには自由に出入りできる港がない、そこで不凍港を欲しがって、現在の中国の東北、満州――ここはまさに清国皇帝の発祥の地であり、当然のこと当時は清国、現在の中国の領土なのですが――へ強引に乗り込んで、武力をもって清国と条約を結び、満州におけるさまざまな権益を奪いました。具体的にいいますと、遼東半島にある旅順・大連という大きな港を自分のものにしたのです。日露戦争というのは結局、このように帝政ロシアがどんどん南に下りてきて、旅順・大連を清国から強引にもぎ取り、さらに朝鮮半島へ勢力を広げてきたことに大変な脅威を抱いた日本が、その南下を食いとめんと、自存自衛のため起ったものです。それに勝ったおかげで日本は、ロシアとの条約、さらには清国と「満州ニ関スル条約」などを結び、諸権益を得ます。
 ひとつが関東州、つまり遼東半島のほとんど全部を清国から借り受けて、自由に使える権利をもらいました。さらに南満州鉄道です。長春(のちに新京となる。現在は長春)から旅順までの鉄道経営権をもらいます。三番目は安奉鉄道という、国境線の安東(現在の丹東)から奉天(現在の瀋陽)間に敷設した軍用鉄道の経営権です。これで満州南部の鉄道の経営権をほとんど得たことになります。さらに南満州鉄道に属する炭鉱の採掘権を得ました。のちには清国との協定で鴨緑江右岸地方の森林の伐採権も得ます。最後に、ここが大事なところですが、権利を得た鉄道の安全を守るために軍隊を置く、つまり鉄道守備の軍隊駐留権を得ました。――日露戦争に勝って、とにもかくにもそれまでまったく関係をもたなかった満州に日本が足を踏み入れ、軍隊を派遣するスタートになりました。」半藤一利『昭和史1926-1945』平凡社ライブラリー、2009.pp.15-17.

 日露戦争で日本が得たものは、ロシアが清から奪い、それをロシアから奪った遼東半島の旅順・大連港であり、そこから北の大地に延びる鉄道の経営管理権だった。これが日本にとって領土的野心というものに火を点けた。軍事力はそこから、日本という島国を外国の侵略から防衛するものから、外国の土地や利権を奪い取るもっとも有効な手段だと思うことになった。日本帝国の仮想敵国はロシア革命で出現したソビエト連邦であり、それと並んで弱体な姿をさらす中国になった。ソ連の南下に備えて関東軍が置かれる。「関東軍」という名称は遼東半島一帯を指す関東州という地域名と、もとは満州と中原を画す山海関より東、つまり広い意味の満州という意味がある。ここに日本陸軍は常駐の軍隊を置いて、鉄道利権の保護という名目で大陸侵略の橋頭保とした。

 「この結果、ひとつはロシアのちのソビエト連邦が諸権利を奪い返しに再び南下してくる可能性があるゆえ、国防のための最大の防衛戦――のちに日本の「生命線」と言われます――日本本土を守るための一番先端の防衛戦を引くことができた、生命線としての満州ができたことになります。はじめは鉄道や住民を守るため駐屯した軍隊は一万人くらいで(最後は七十万人まで増えます)、これがもっぱら関東州の旅順・大連に司令部を置いたので、のち大正八年(一九一九)から「関東軍」と呼ばれるようになります。日本はこの関東軍を次第に増やす方策をとるようになる。
 さらに二つ目に、資源の乏しい日本はそれまで鉄や石油、錫や亜鉛などをもっぱらアメリカと、イギリスなどの植民地である東南アジアの国々からの輸入に頼っていましたが、もうその厄介にならなくてもいい、自力で生きる道ができあがった、と大いに期待した、つまり日本本土を守るための資源供給地としての満州が注目されたのです。しかし実際、満州には鉄や石炭はたくさんあったのですが石油はありませんでした。もしあったとしたら、昭和史はずいぶん変わったと思いますが、残念ながら石油だけはどうしても出なかった。しかし他の資源は満州でかなり生産できたので、英米への完全依存からいくらかは脱却して日本帝国が堂々と世界の一強国として列強に伍していくだけの力をもつことができました。こうして日本が強国であるためには、満州は必要不可欠な土地になったわけです。
 また三つ目として、人口がどんどん増えて問題が起っていた狭い日本には、人口流出先としても満州が重要視されました。明治の終わりくらいから盛んに移民政策がとられるようになり、多くの日本人が海を越えて満洲へ渡っていきました。昭和になりその数は激増します。この人たちは、昔から満州にいた満州人、あるいは蒙古人、朝鮮人といった人たちが開拓して住んでいた土地を強制的に奪う、またはものすごく安い金で買い取ったりして、恨みをかうことになりました。のち、昭和十一年(一九三六)には広田弘毅内閣が「二十年間百万戸移住計画」として、百万戸を満州へ送り込んでしまおうとしました。そうなると、先住の人たちの土地を奪わないことには開拓村などできるはずがありません。実際はその間に戦争が起きたりして百万戸には届かなかったのですが、最初は農家の次男坊三男坊、日本では食い詰めてひと旗あげようという人たち、弾圧により日本にいられなくなった転向したコミュニストや社会主義者などなど、昭和にかけてあらゆる人たちが満州に移住し、四十万人から五十万人まで移民が増えたことは確かです。
 このような三つの大きな役割もをもつ満州を、日露戦争に勝ったことによって日本は手に入れ、明治の終わり以降、これをどうやって経営していくかが政治の中心課題になっていきました。日本は、小さく細長い、つまり海岸線が長い島国ゆえに、敵国が本土上陸して攻めて来たら防ぎようがなく、あっという間にやられてしまうという恐怖感が絶えずあります。それを防禦するには海を使わねばならない、そのためには海の向こうの土地を防衛戦にしなくてはならないという考えが常にありました。日本本土を防衛するために朝鮮半島に日本の軍隊を置いてしっかり守ろうということになる。朝鮮半島を防衛するためには地続きである満州を守らねばならないのです。そこで満州での自分たちの権利をしっかり守り、うまく利用するために、明治四十年(一九〇七)頃に満州経営がはじまるのと同時に、間にある朝鮮半島――当時の李氏朝鮮は頽廃して外国の勢力が好き放題にする、政治も軍隊もあやふやな状態でした――に対する圧迫も自然と強くなり、ついに明治四十三年(一九一〇)に併合してしまうという強硬手段に出たのです。ただし国際的には認められていましたが。ということで、日本の政策は北へ北へと向かい、同時に国力も確実についていきました。」半藤一利『昭和史1926-1945』平凡社ライブラリー、2009.pp.17-20.

 さて、ちょっと考えたのだが、この半藤一利『昭和史』をこのような形で、抜粋引用して行ったら相当長いものになってしまうし、だからといって端折ると歴史としての個々の事項の記述は穴だらけになる。読みたい人は買えばよい。だから、経過は付属の年表にとどめて、半藤氏の文章から少々気になる箇所を選んで考えたいと思った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寒村・正造・一利 ジャーナリズムの仕事

2014-12-26 19:16:07 | 日記
A.足尾鉱毒事件のいま
 今は岩波文庫に入っている荒畑寒村のルポルタージュ『谷中村滅亡史』は、明治四〇年に、足尾銅山の鉱毒事件を広く世に訴えるべく、田中正造に依頼されて書かれた本。1907年だから、ジャーナリスト荒畑寒村(1887-1981)は,まだ20歳の青年である。土地収用法によって谷中村 が強制的に破壊されるという事態に接して,一気に書き上げられ、谷中村滅亡の惨状を後世に伝えようと生々しく記録されたジャーナリズムの古典である。しかし、明治時代のこの公害問題は、これによってだけでなく世間によく知られているが、今から見れば大昔の話のように思っていた。だが、それはいまも運動として継続していて、その担い手が先頃亡くなったという記事を見て、なにか不思議な気もした。
「東京新聞」2014年12月25日夕刊一面
「板橋明治さん死去93歳
 栃木県足尾町(現日光市)の足尾銅山から流出した鉱毒で農業被害を受け、加害企業に初めて責任を認めさせた「渡良瀬川鉱毒根絶太田期成同盟会」(群馬県太田市)の板橋明治会長が二十四日、心不全のため亡くなった。九十三歳だった。「足尾鉱毒事件は終わっていない」と、現在まで半世紀にわたり銅山跡の監視などに尽力し、被害者の代表的な存在だった。
 明治期から大正初期まで足尾鉱毒事件と戦った政治家田中正造を尊敬し、正造でさえ認めさせられなかった古河鉱業(現古河機械金属)の加害責任を認めさせるため先頭に立った。
 一九五八年、鉱毒を含む土砂などが廃棄された「源五郎沢堆積場」が決壊し、渡良瀬川中流の旧毛里田村(現太田市)の水田に被害が出た。同年、被害家族ら前千百戸が「毛里田村鉱毒根絶期成同盟会」を結成。太田期成同盟会の前身になった。
 板橋さんは六二年に毛里田同盟会の二代目会長に就任し、七二年に約三十九億円の農業被害の損害賠償を求め、国の中央公害審査委員会(当時)に調停を申請。調停は七四年に成立し、保証金十五億五千万円を勝ち取った。
 銅山跡には堆積場が今も十四カ所残り、大雨などで重金属が流れ出ることがあるため、板橋さんは管理状態などを監視する立ち入り調査も続けてきた。通夜は二十七日午後六時から、告別式は二十八日午後一時から、群馬県太田市浜町六六の五二、太田市斎場で。」
 
いうまでもなく、名高い足尾鉱毒事件は、明治時代初期から栃木県足尾町(現日光市)の足尾銅山開発に伴い、鉱毒水や排煙などの有害物質が周辺や渡良瀬川下流域を汚染し、農業や漁業などに被害をもたらした国内初の公害事件とされる。栃木選出の衆院議員田中正造が帝国議会で追求し、議員辞職して明治天皇に直訴も試みた。
その後、戦後の高度経済成長期に、水俣をはじめとして四大公害裁判が大きな社会問題としてとりあげられ、国家のすすめる工業化と経済発展の裏でくり返された大企業の経済活動が、地域社会に壊滅的な打撃を与えたことは、強く長く記憶されることになったが、それにはジャーナリズム、メディアの報道が大きく貢献した。それからもう半世紀。いまの日本のメディアは、こうした社会問題よりはアベノミクス、オリンピック、ヘイトスピーチなど、ジャーナリズムのほんらいの役割を忘れて、政府の宣伝機関と化しているのではないか。



B.半藤一利『昭和史』を読んでみる
 このところ室町時代の能楽などという世界に遊んでいたので、年末も押しつまって安倍第三次内閣が発足したこともあり、このブログも方向転換をする。とりあえず「昭和史」である。「昭和史」という元号に沿った歴史記述が、20世紀の世界史としての同時代を捉える上で、どこまで意味があるかは疑問も感じるが、いまの日本に蔓延る歴史へのねじまがった言説をみると、やはり現在につながる「昭和」、それも前半と後半が劇的に転換したさまざまな事実を、まずは確認する必要があることは言うまでもないと思う。
 半藤一利氏の「昭和史」は、きわめて平易に、ジャーナリストとしての視点と手法で、この近代日本という国家が経験した成功と失敗の、剥き出しの姿を当事者の証言を求めて書き継いだ本として読む価値はあると思う。ただ、半藤氏の昭和史の評価は、そのまま全部受け容れることができるかどうか、ぼくは多少疑いをもちつつ読んでみる。

「嘉永六年(一八五三)に、いわゆるペルリの黒船が突然日本にやってきて、開国を迫ってから百五十年がたちました。すなわち「近代日本」がはじまって十二年後、慶応元年(一八六五)に、京都の朝廷までが日本を「開国する」と国策を変更した。その時を近代日本のスタートと考えた方がいいと思っています。
 それまで朝廷は、「開国などとんでもない、外国人は追っ払え」という「攘夷」の政策をとっていたのですが、徳川幕府がアメリカの大砲におそれをなして国を開いてしまった。それがけしからんというので、薩摩や長州の「勤王の志士」といわれる人たちが、幕府を倒さなくてはならない、攘夷を貫かねばならない、といわゆる明治維新の大騒動になったわけです。ところがそうはいっても結局、日本の力では外国人を追っ払うことはできない、国を開いて世界の国と付き合わざるを得ないと京都の朝廷も決定せざるを得なくなった、「攘夷のための開国」というわけです。これが慶応元年なんですね。日本はこの時、国策として開国を決め、そこから新しい国づくりといいますか、世界の文明と直面しつつ自分たちの国をつくっていかなければならなくなりました。
 それから三年後、慶応四年が明治元年になるわけですから、すぐに明治の時代がはじまって、人びとが一所懸命に国づくりをはじめます。世界の国々に負けないように、あるいは世界の列強の植民地にならないようにと、いろいろな解決せねばならない問題を後にまわして、とにかく急いで、いってみれば少々の無理を承知でいくらか背伸びした国家建設を懸命にやったわけです。
 それがある程度うまくいきまして、つまり植民地にならずに日本は堂々たる近代国家をつくることに成功したわけです。
 そのころ、東南アジアの国々はほとんど、ヨーロッパやアメリカなど強い国の植民地になっていました。たとえばインド、ビルマ(現在のミャンマー)、シンガポールはイギリスの、香港は植民地ではないんですがイギリスが強引に中国から百年間借り、今のインドネシアはオランダの、ベトナムなどのインドシナ三国はフランスの植民地で、フィリピンはアメリカの半植民地、というふうに。ところが日本だけは、折からアフリカの方で戦争が起こって欧米列強がアジアから自分の国に戻らなくてはならなくなったりの幸運もあって、植民地にならずにすみました。それは別にしても、明治の日本の人たちが、とにかく一人前のしっかりした国をつくろうと頑張ったことは確かなんです。
 その成果が表れて、明治二十七,二十八年(1894,95)の“眠れる獅子”といわれたアジア随一の強国清国との戦争(日清戦争)に勝ち、さらに明治三十七,三十八年(1904,05)、日本は当時、世界の五大強国の一つといわれていた帝政ロシアと戦争(日露戦争)をして、かろうじて勝つことができた。そして世界の国々から、アジアに日本という立派な国があることを認めてこらうことができました。つまり国を開いてからちょうど四十年間かかって、日本は近代国家を完成させたということになるわけです。
 さてここから大正、昭和になるのですが、自分たちは世界の堂々たる強国なのだ、強国の仲間に入れるのだ、と日本人はたいへんいい気になり、自惚れ、のぼせ、世界中を相手にするような戦争をはじめ、明治の父祖が一所懸命つくった国を滅ぼしてしまう結果になる、これが昭和二十年(一九四五)八月十五日の敗戦というわけです。
 一八六五年から国づくりをはじめて一九〇五年に完成した、その国を四十年後の一九四五年にまた滅ぼしてしまう。国をつくるのに四十年、国を滅ぼすのに四十年、語呂合わせのようですが、そういう結果をうんだのです。
 もうひとついえば、敗戦国日本がアメリカに占領されて、植民地ではないのですが、なんでもアメリカの言いなりになる苦労の七年間を過ごし、講和条約の調印を経た新しい戦後の国づくりをはじめた、これは西暦でいいますと一九五二年のことです。
 さらにさまざまなことを経てともかく戦後日本を復興させ、世界で一番か二番といわれる経済大国になったはずなんですが、これまたいい気になって泡のような繁栄がはじけ飛び「なんだこれは」と思ったのがちょうど四十年後、同時に昭和が終わって平成になりました。
 こうやって国づくりを見てくると、つくったのも四十年、滅ぼしたのも四十年、再び一所懸命つくりなおして四十年、そしてまたそれを滅ぼす方へ向かってすでに十何年過ぎたのかな、という感じがしないわけではありません。いずれにしろ、私がこれから話そうという昭和前半の時代は、その滅びの四十年の真っただなかに入るわけです。
 そのためにはまず、世界の五大強国の一つである帝政ロシアを討ち破って一応「近代日本」が完成した結果、日本が何を得たかということを考えなくてはなりません。つまり建設の四十年間で日本が得たものについてあらかじめ考えておくと、あとの四十年が非常にわかりやすくなる。そこで、日本が日露戦争に勝って何を得たかを詳しくみてみます。」半藤一利『昭和史1926→1945』平凡社ライブラリー、2009.pp.12-15. 

 この冒頭の記述は、これまでの明治維新から日露戦争までの栄光の足跡、それが自己肥大した軍事力を過信した自惚れの大国意識によって太平洋戦争の敗北に至る過程、そしてアメリカに負けたのだというトラウマを背負い、冷静な反省をごまかしつつ経済大国に浮かれるまでの戦後の歴史を眺めるという視点は、少なくとも戦後日本のオーソドックスな歴史観に棹さしていて、大方の支持は得られるはずだったと思う。しかし、それにもかかわらず21世紀の初頭に、それをまるごとひっくり返すような反動的ナショナリズムが擡頭してしまったのはなぜか?という現代的な課題がぼくたちの前にぶらさがっている。
 これは、いまぼくたちが考えるべき課題なのだが、それには少々面倒な作業が必要となっている。戦後の歴史家や社会科学者は、すでにこの問題をさまざまな角度から検討し、ある意味では結論を得たはずなのに、それがどうやらこの国の国民大衆にうまく伝わっていない。それはなぜなのだろう?半藤氏はここで日本近代史をおおざっぱに40年周期で見ようとする。しかし、もしそれが当たっているとしたら、敗戦後の40年を経過した時点は、1985年になるので、あのバブルの経済大国の成功を一つの頂点として、いまに至る30年は日露戦争の勝利から満州国建国にかかる昭和の危険な歩みをなぞっているといえるのか?
 そんな気もするし、それとは違うような気もする。とにかくしばらくは読んでみよう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐渡ヶ島の世阿弥と日本海

2014-12-24 23:48:51 | 日記
A.韓国の原発について
 韓国は以前の日本同様、原子力発電を積極的に推進し、途上国への原発輸出にも攻勢をかけているという。エネルギー資源の確保のための条件は、日本以上に厳しい韓国が原発に頼る政策をとるのはある意味で当然な動きなのかもしれない。しかし、もちろん韓国にも反原発運動はある。むしろ日本より反対派の運動は、倫理的色合いを帯びて過激化しているみたいだ。今日の時事通信が報じた事件。

【ソウル時事】韓国の原子力発電所の内部文書が23日もネット上に流出した。流出は15日以来5回目。原発運営会社「韓国水力原子力(韓水原)」が明らかにした。 「原発反対グループ会長」を名乗る犯人は23日、ツイッター上に古里、月城両原発の図面とみられるファイルを公開。「(韓水原が)謝罪すれば資料公開(を中止するか)も考える」「国民の皆さん、原発から早く逃げてください」などと書き込んだ。 犯人はこれまでに、クリスマスの25日から両原発の稼働を停止するよう要求。検察当局は、国内の反原発団体や北朝鮮の犯行の可能性も視野に捜査を進めている。 

韓国の原発は、現在5カ所11基が稼働中、他に7基が建設中だという。5カ所の原発のうち4カ所は日本海沿岸に立地している。日本がいくら危険な国内の原発を止めろ、といっても、日本海の対岸に韓国の原発があるのでは、事故の放射能が及ぶ危険は当然あるわけで、少しも安全ではないのではないかという疑問もわく。例によって、韓国のことならお天気まで憎たらしい嫌韓ネトウヨ諸君は、原発にはあまり関心がなくてもこの話には乗ってくるだろう。でも、これはちょっと簡単に判断しにくい側面があると思う。ことは日本の中だけで考えたときの原発の安全性の議論を超えた所があるからだ。たとえばY-tubeにあった大震災原発事故のあとの2011年6月のちょっとした記事。

“脱原発”主張の孫正義氏、「韓国の事情は異なる」(聯合ニュース 6月20日(月)17時21分配信)
福島第1原子力発電所の事故を機に原子力以外のエネルギーへの将来的な転換を目指す「脱原発」の議論が日本で活発化する中、韓国を訪れているソフトバンクの孫正義社長は20日、「『脱原発』は日本の話。韓国は地震の多い日本と明確に異なる」と述べ、安全に運営されている韓国の原発を 高く評価した。
 青瓦台(大統領府)で李明博大統領を表敬訪問した席で述べたもの。青瓦台の金相浹(キム・サンヒョブ)グリーン成長環境秘書官が伝えた。
 日本の「脱原発」を主張してきた孫会長は「日本が地震の多い場所に原発を建て、太平洋沿岸に原発があるのは大きなミス(big mistake)だ。予想以外の事態が発生した時になすすべがない」と指摘したという。
 一方、孫社長は自ら設立した「自然エネルギー財団」と李大統領の主導したグローバルグリーン成長研究所の協力関係締結を推進する意向も明らかにした。

 このときは、震災と福島原発の直後で、危機感が高まっていた時期だから、このような発言もあまり批難の対象にはならなかった(今だったら、韓国叩きの側から孫正義叩きが炎上するだろう)のかもしれないが、孫氏の言った「韓国は地震の多い日本と明確に異なる」から、韓国は安全に原発を運営している、というのは当時の李明博大統領へのリップサービスとしても甘いだろう。原発の危険性は、地震による原子炉の損傷だけではない。
北朝鮮という何をするかわからない国家が隣接している。金正恩暗殺をフィクションとして娯楽映画にしただけで、大規模なサイバー攻撃を仕掛ける国家である。日本海の原発めがけてミサイルを飛ばすことは技術的には容易だろう。それは脅しの手段には使うかもしれないが、実際にやれば戦争になる。しかし、愚かにも戦争をあえてやるのが国家なのだ。ぼくは韓国や中国をむやみに批難する言論はどうかと思うし、韓国人は嫌いだ、中国人は邪悪だというような幼児的な人たちは、まともにものを考える能力に欠けると思う。でも、原発の問題で国家間の軍事的な緊張を考慮しない議論は、楽観的だと思う。



B.佐渡の世阿弥
 白洲正子は、世阿弥を日本が生んだ天才アーティストとして、最高の境地に達したとみる。だが当時としてはとびぬけて長命だった世阿弥の晩年は、不幸の連続だった。とくに、世阿弥の息子、元雅の先立つ死は老いた世阿弥にとって、深い痛手となった。

「元雅が死んだのは、永享六年(一六三二年)八月、伊勢の阿濃津で、旅興行中のことでした。突然の出来事らしく、死因はもとより、年齢もはっきりしていませんが、三十から四十へかけての芸の盛りの頃であり、七十になんなんとする世阿弥にとって、それがどんなに打撃であっtか、「夢跡一帋(むせきいっし)」という書の中にこのような言葉を残しています。

   夢跡一帋
「根にかへり ふるすを急ぐ 花鳥の おなし道にや 春もゆくらん」けにや はなにめで 鳥をうらやむなさけ それは 心あるながめにやあらん これは 親子おんあいの別を したふおもひ やるかたもなきあまりに 心なき花鳥をうらやみ 色ねにまどふあはれさも おもいは おなじ道なるべし さても 去年八月一日の日 息男善春 勢州安濃津にて身まかりぬ 老少不定のならい いまさらおどろくには似たれとも あまりに思ひの外なる心ちして 老心身を屈し 愁涙袖をくた(腐)す さるにても 善春 子ながらも たぐゐなき達人として むかし 亡父此道の家名をうけしより 至翁 又わたくしなく当道を相続して いま七秩にいたれり 善春 又祖父にもこえたる堪能と見えしほどに「ともに云ふべくして いはざるは 人をうしなう」と云本文にまかせて 道の秘伝奥義 ことことくしるしつたへつるかすかす 一炊の夢と成て 無主無やくの塵煙となさんのみ也 いまは のこしてもたか為のやくかあらむ「きみならでたれにか見せん梅の花」とえいぜし心 まことなる哉 しかれども 道のはめつの時節到来し よしなき老命のこて 目前の境界に かゝる折節を見る事 かなしむにたえず あはれなる哉「孔子はりきよに別て 思火をむねにたき 白居易は子をさきたてて 枕間にのこる薬をうらむ」と云り善春まぼろしにきたりて かりのおや子の離別のおもひに枝葉の乱墨を付る事 まことに思のあまりなるへし
 おもひきや 身はむもれ木の のこる世に さかりの花の 跡を見んとは
  永享三年九月日       至翁書
 いくほど おもはざりせは 老の身の なみだのはてを いかでしらまし

 善春というのは、元雅の法名ですが、「子ながらもたぐいなき達人として、云々」といい、更に「祖父にも越えたる堪能」と賛辞を与えているのは、あながち親の慾目ではなかっただろうと思います。花伝書その他を書き残したのも、元雅の才能に理想的な後継者をみたからで、この希望がなかったら、秘伝を記す筆もにぶったに違いありません。そういう意味で彼の死は、愛児を失っただけでなく、まさしく「道の破滅」と思われたことでしょうが、世阿弥の晩年の不幸は、実は数年前からはじまっていたのです。
 というのは、義満にはじまり、義持、義量、三代の将軍に、楽頭として仕えた世阿弥は、義教の代に至って、突然失脚したのです。理由は、義教が世阿弥の甥に当たる音阿弥という役者を贔屓にした為とか、あるいは南朝と通じたのではないか、などと憶測されていますが、本人が黙している以上、はっきりしたことは誰にもわかりません。辛うじて推察できるのは、義教はかねてから幕府の施政に不満をもっており、その上短気で横暴な性質だった為、すべてを一気に改革しようとし、その巻添えを喰ったのかもしれない。何れにしても、将軍の代が変わると、同時に、音阿弥が重く用いられるようになりましたが、正確にいえば、現在の観世家の先祖は、この人の末なのです。世阿弥には、元雅の他に、元能(もとよし)という次男があり、――申楽談儀を筆記したのも彼でしたが、芸がまずかったのか、時勢にいや気がさしたのか、永享二年に出家し、間もなくその血筋は絶えてしまいました。
「ははそ原かけをく露のあはれにもなほ残る世の影ぞたちうき」
 申楽談儀の終りに記した元能の歌は、芸道への断ちがたい愛著を訴えており、「心中バカリノ、ナホザリナラザシ所ヲ見スベキバカリニ、コレヲ記ス」とあるのも、何か哀われなものを感じさせますが、もしかすると、世阿弥は、元雅の才能を愛するあまり、弟をないがしろにしたのではないでしょうか。こうしたことは、天才にはありがちな欠点で、それから二年を経て元雅を亡くしたことは、いわば二人の後継者をつづけて失う結果になったのです。

 が、不運は、それだけに終りませんでした。またそれから二年を経た永享六年の五月に、世阿弥は佐渡へ流されるという悲惨な目に会いました。
 又しても原因は不明でしたが、利休の末路ほどでなくても、そこにはあらゆる天才が負わねばならぬ宿命的なものが感じられます。新しい将軍にとって、三代も仕えた芸道の達人が、傍らにいることは、煙たく思われた筈ですし、多くの貴族や大名と交わることも、色眼鏡で見られたことでしょう。その頃には、もはや舞台に立つ機会も与えられませんでしたが、配流の身になっても、創作慾はおとろえず、「金島書」と名づける一れんの小謡を作って、後世に残しました。佐渡は、「こがねの島」と呼ばれる所から出た名前ですが、それらの謡には、「げにや罪なくして、配所の月をみる事は、古人の望みなるものを」云々といったような、意外と明るいものが感じられます。これまでの生き方から推しても、佐渡での生活は私たちが考える程、苦痛ではなく、うるさい世事から逃れて静かな道に入る「こがねの島」とうつったのではないか。寂しいには違いなくても、その寂しさを自然に受け入れて楽しんでいるような所があります。

 度々いいますように、世阿弥の一生をつらぬいている思想は、今の言葉でいえば一種の幸福論ですが、晩年におそった数々の不幸は、天が与えた試練のようにも見えます。が、世阿弥の芸は、もうその頃には、時世や逆境の前にびくともしない、見事な人間を造りあげていました。」白洲正子『世阿弥』講談社文芸文庫、1996.pp.193-197.

 世阿弥の能楽師としての足跡と、「花伝書」をはじめとする世阿弥の能楽論を辿ってきて、白洲正子の筆は不幸に見舞われた世阿弥の最後の境地を、むしろすべての世俗の制約を解き放たれた自由、舞台の上の身体表現を通じて自らと観衆の幸福をもたらす、という思想を完成させたのだ、という。しかし、それは少し思い入れが過ぎた見方かもしれない。時の権力者に三代続いて尊ばれた芸能者が、後継者と期待した息子が突然亡くなってしまう。しかも、日本海に浮かぶ佐渡ヶ島に流されて、活動の自由を奪われることが、老いた身に堪えないはずはない。

「そういう世阿弥の晩年の姿には、舞台からも、申楽からも解放され、宇宙の調和の中に没した感があります。将軍の迫害も、佐渡への配流も、そこまで至った人間に、打撃を与えることは不可能だったでしょう。いつ頃許されて、都へ戻ったか、そんなことも世阿弥は語りませんが、死ぬまでの何年かは、婿の金春禅竹の元ですごしたと伝えられています。
 そして嘉吉三年(一四四三)、八十の高齢をもって、無名の一老人として世を去りましたが、その死はきっと静かなものであったでしょう。最後の日々についても、本人は勿論のこと、一つの消息も残ってはいません。が、それはもしかすると、こんな風な姿ではなかったかと、私はひそかに想像しています。
 中国の話で、私は実は中島敦の小説で読んだだけですが、ここにひかして頂くと、昔、紀昌と名づける弓の名人がいた。文字どおり、百発百中の名手で、天下に名をとどろかせたが、晩年に至ると、弓を取らないでも飛ぶ鳥を落し、見えない賊を射るという不思議な働きをするようになった。その頃には、精悍な面魂も影をひそめ、木偶のように無表情な顔つきに変わっていたが、「既に我と彼の別、是と非との分を知らぬ。眼は耳の如く、耳は鼻の如く、鼻は口の如く思われる」と述懐し、ある日知人が弓を見せると、たしかに見憶えのある道具だが、いったい何に使われるのか、どうしても思い出せなかったというのです。」白洲正子『世阿弥』講談社文芸文庫、1996.pp.200-201.

 この小説の意味するところは、天才的な能力をもった人間が、さらに高い境地を追求したあげく、完全に超越的な場所に行ってしまったために、過去のすべてを忘却するという寓話である。中島敦は、中国を題材とした歴史小説の名品を残した作家だが、格別な人生を生きた人の「老い」をテーマにした作品が多い。世阿弥をそのような人物に重ねるのは、もちろん大いに納得はするのだが、能楽は弓のような技術とは少し違うともぼくは思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベネズエラの現状と、能に流れる時間

2014-12-22 19:07:32 | 日記
A.政治指導者にできることとできないこと、について
  先頃の米国とキューバの国交回復・関係改善で、「反米大陸」という言い方もあった中南米での反米的政策をとっていた政権に揺らぎが起きている、という。今日の朝日の国際面では、ベネズエラのことが採りあげられていた。キューバと連携して反米の路線をぶち上げて、国内の高い支持を得、ラテンアメリカ全体でも人気を得ていたベネズエラの、ウゴ・チャベス大統領が2年ほど前に死去し、後を継いだマドゥロ政権は、世界最大の埋蔵量を誇る原油のもたらす財政を背景にチャベス路線をすすめているが。だが状況は苦しいという。これに同調していた反米的なエクアドル(コレア大統領)、ボリビア(モラレス大統領)、ニカラグア(オルテガ大統領)などの中南米左派政権は、ここに来てアメリカとの関係を再考し、歩み寄る動きを見せているという。

 「チャベス前大統領が死去した2年ほど前から経済状況が急激に悪化し、物不足が深刻化。牛乳や小麦粉、トイレットペーパーなどの生活必需品を求める人々の行列が、あちこちで見られるようになった。買い占め防止のため、レジでは指紋認証が導入され、電気店の前では兵士が銃を構える。
昨年のインフレ率は56.2%まで上昇し、今年は7割台に達するとの見方もある。強盗や誘拐が多発し、カラカスの殺人発生率は世界でも最悪レベルだ。住民は「夜は恐ろしくて外出しない」と声をそろえる。停電や断水も頻発している。
 混乱の背景は、チャベス氏が進め、マドゥロ現大統領が引き継いだ社会主義政策だ。
財政収入の柱である石油公社への政治介入を強めた結果、投資不足が起きて、原油の生産量が大きく低下した。一方で貧困対策の名の下に、ばらまきに近い社会政策が続けられ、財政赤字が膨らんでインフレを招いた。外貨収入の9割以上を原油輸出が占めるため、輸出の減少が外貨不足と輸入品の減少をもたらした。
生活必需品の多くは価格が統制され、企業の生産意欲を失わせている実態もある。
 ベネズエラは世界最大の原油の確認埋蔵量を誇り、キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長を師と仰いでいたチャベス氏は、1日約10万バレルの原油を医療サービスと引き換えにキューバに輸出してきた。米国主導の秩序に対抗し、原油をテコに地域統合を進める狙いもあったが、足元のとの経済が揺らぐ中、献身的にキューバを支える構図には国内から批判も出始めている。」朝日新聞、2014年12月22日朝刊国際面(カラカス=田村剛記者)。

  他の中南米左派政権も、社会主義的な政策を捨てたわけではないとしながらも、経済的にはアメリカとの結びつきを強め、関係は悪くない。こうした報道を見ると、一時は国内外であれほど「反米の星」としてもてはやされたチャベス氏も、あっけなく亡くなったらこのザマはどうだ、と言われてしまう。政治指導者とはカリスマ化しないと大きな力を発揮しないと同時に、失脚の落とし穴も深い。政治家個人ができることにはいずれにせよ困難と限界がある。
  国民大衆は自分たちに利益や恩恵がある政策なら喜んで支持するが、どれほど重要で必要な改革でも痛みを伴う政策には拒否を隠さない。したがって、多くの政治家は受けを狙っていいことばかり言うけれど、国民が嫌う政策は先送りにするか、口をつぐんで語らない。それはどの国でも同じで、ベネズエラはたまたま石油という富の源泉があるために、チャベスは弱者に手厚い政策を実現できたわけだが、アメリカという巨大な力に逆らうにはそれだけでは続かない。でも、これまでキューバやベネズエラが曲がりなりにもアメリカに逆らえたのは、経済力なのか、軍事力なのか、政治力なのか。アメリカが主導するグローバル経済に距離を取って、自国のみで閉鎖的な経済を維持することは今日不可能な話だろう。中南米で反米路線がスクラムを組んで独自の政策を進めるには、軍事的な同盟は難しくても政治的な連携はできなくはない。かつての東側ソ連型社会主義の力を借りることは、もはや選択肢から消えた。 南米の歴史は、この困難な課題の追求と敗北の教訓に満ちている。
  そこでカリスマや独裁に身を委ねれば、どんな理想も国民のある意味では利己的で短期的な利害の前に失脚してしまう。結局は、大きな政治の理念と物語が失われた世界で、何がほんとうに国民大衆に幸福をもたらす道なのかを、指し示す人間と知的指針が現れる他ないのだが、地球環境の危機的な崩壊を前に、まだ希望の光は見えていない。
そういう状況の中では、皮肉なことに、日本という国のありようは、相対的に恵まれている。食料も治安も軍事的脅威も、国民大衆に切羽詰まった危機をほとんど感じさせていない。なにしろ国政選挙に有権者の半分しか投票に行かなくても、まるでNo problemだと思っているのだから。でも、これは日本の政治家がよくやっているわけでは全然ない、と思う。A首相もご多聞に漏れず、国民に心地よいことしか語らないだけでなく、自分で自分の言葉に酔って、いやなことには耳をふさぐ。このような政治はそう長いことはないように思う。
 

 

B.能の言語的創造について
 能は、音楽と舞踊と演技と、つまり人の聴覚と視覚と五感を駆使して味わう芸能なのだが、なかでも重要なのは舞台という空間と、歌われる言葉の作り出す物語の構造である。それは、近代演劇のように台詞と動作を指示する脚本・シナリオがあるのではなく、非常に簡潔で短い詩的な言葉があり、それは世阿弥などごく少数の作者が書いたものを、数百年にわたって伝承している。明治以降、新作能が現れ現代ではさまざまな作品も書かれるようになったが、歌舞伎のような定型化を前提に自由な解釈や現代化の上演をするのではなく、能としての基本は、上演形式にはじまって能舞台や衣装など、頑ななほど伝統が守られている。
 白洲正子「世阿弥」は、この能の台本を「作曲」と呼ぶ。

「能を作曲することは、この道の生命である。それほど学才がなくても、工夫次第で、いい能は出来る。大方の風体は、序破急の所で述べたが、ことに脇能は、典拠も正しく、その曲の冒頭から、由来を述べ、やがて見物にもはっきりわかって行く故事来歴を書くべきである。脇能は、そんなにこまかい所に気を配る必要はないが、大体の趣を、素直に書き流し、はじめから明るい気分がみなぎるようにすればよい。そして、二番、三番と能がすすんで行くにつれ、言葉と姿に念を入れて、次第にこまかく書いて行く。たとえば名所旧跡が中心の能ならば、その場所に因んだ詩歌の、人口に膾炙したものを、能のやま場に持って来るようにする。シテの言葉や動作と、無関係な所に、重要な句をもって来てはいけない。何といっても、見物人は、上手な芸でなくては、注意して見たり聞いたりしてはくれないのだから、一座の棟梁たるシテの、面白い言葉や身振りで彼等の目をひき、心をとらえれば、たちどころに感を催すのである。このことは、作曲上、一番必要なテクニックといえる。
 詩歌をひく場合でも、耳当りがよくて、即座に意味の通じる言葉を用いた方がいい。優美な言葉に合わせて、身振りをすれば、自然に幽玄な風情が現れるであろう。硬い言葉は、振りにうまく合わない。が、硬くて、聞き馴れない言葉が、反っていい場合もなくはない。素材となる人体によって、硬い言葉の方がふさわしい時もあるからだ。支那やわが国の故事にしたがって、言葉の強弱も、その時々に使いわける必要がある。ただし、あまり卑俗な言語は、見た所も悪い能になるから、気をつけた方がいい。
 そういうわけで、いい能というのは、典拠も正しく、新鮮な姿で、しかもやま場があって、全体の感じが幽玄であるのを第一とする。姿形は、そう珍しくなくても、ごたごたした所がなく、さらっと流れて行く中に、何となく面白い所があるのが、二番目にいい能といえるが、これは大体のことをいったまでで、能は風情を主とするから、上手な人が演じて、どこか一ヶ所美しい所が現われれば、必ず面白く見られるであろう。たとえ悪い能でも、何度も何度も演じ、月日を重ねて、その度毎に何とか珍しく見えるよう、色々にやり方を変えて行けば、必ず面白くなるに違いない。能が出来上るには、時間が要る。悪い能だからといって、捨ててしまうのはよろしくない。それはシテの心づかい一つにかかっている。……。」(花伝書-花修云)
 現在行われているお能の中、半分以上が世阿弥の作で、百二十数番をかぞえますが、その他に古い曲を改作したものや、廃曲になったものを加えると、膨大な数にのぼります。世阿弥以後にも、観世小次郎、金春禅竹ほか数人の作者がいましたが、何れも世阿弥の世界から一歩も外に出た人はなく、その範囲でも、彼は期待の才能を示しました。
「能の本を書くことは、この道の命なり」といっているように、作曲することは、自分の芸を生かす上にも、自分の姿を外から眺める為にも、たしかに必要な条件だったでしょう。が、それは必ずしも一流の文学であることを要しませんでした。よく、謡は「つづれの錦」などといわれます。出来合いの枕言葉や掛け言葉を並べた、つぎはぎだらけの文章だからですが、実際に舞ってみると、詞と型が、実に気持ちよく一致することに気がつきます。
 たとえば松風の「よせては返る片男波」という所で、シテの松風が二、三歩前へ出る。と、ツレの村雨がたらたらと後へさがる。実に何でもない型ですが、気合のかかった「よせては」の地謡にのって前へ出るシテの姿と、気合をぬいた「片男波」の句で、後へさがるツレの動きは、さながら静かな秋の夜に、潮ざいの音を聞くようです。そういう所が象徴的といわれるのでしょうが、「優しき言葉を振りに合すれば、不思議に、おのずから幽玄の風情になるもの也」といった世阿弥は、いつも筆を片手に、舞いながら書いたに違いありません。悪い例にあげて恐縮ですが、現代の新作能の欠点はそこにあるので、謡は机上で作れるものではないのです。
 そういうことを、世阿弥ははっきりわり切って、振りのつきにくいような言葉を、はじめからさけて通りました。が、場合によっては、「こわき言葉の耳遠き」が、ふさわしい場合もありました。山姥の謡の「巌巍々たり」などその一例で、これは特別硬音で、ギギと発音するのですが、そういう詞を用いることで、シテの姿は、ことさら大きく強く見えるのです。また、「たとひ悪き能とて捨つべからず」といっているのは、さすがに苦労した人の言葉で、六百年の間には、多くの役者の工夫を経て、美しい能に生まれ変わった例も少なくないでしょう。松風などはその最たるもので、はじめ「汐汲」と呼ばれた曲を観阿弥が改作し、後に世阿弥が手を加えて、「松風村雨」と名づけたものが、更に洗練されて今に至っているのです。」白洲正子『世阿弥』講談社文芸文庫、1996.pp.165-168.

 能役者は舞台上で声を発することもあるが、語りは地謡として並ぶ別の人々が、楽器に合わせて歌う。それは一種の詩であり、コーラスであり、物語であり、台詞でもある。日常の人間が発する言葉よりもずっと長く遅く象徴的な響きで歌われる。ぼくは、何度か能を見たときに、そのテンポを踊りとともに感知するには、ぼくらが今生きている日常の時間間隔を捨てなければならないと思った。このあまりにもゆったりした言葉と時間に、まず自分の五感を馴染ませないと、能の表現をじゅうぶんに受け取ることができない。しかし、それにはかなり修練が必要だろう。見た目で足りる歌舞伎にはこんな努力は要らないし、西洋の演劇やオペラでも速度ははるかに速い。鑑賞者は、言語の違いがあってもただ舞台上の流れに素直に身を任せていれば、それで心地よくなれるし、感動も沸いてくる。しかし、能はそうはいかない。
 ぼくたちのふだん見ている芸能、たとえばテレビドラマや映画は、高速道路や新幹線のテンポで、めまぐるしくシーンが入れ替わり、登場人物の言葉や表情は0.2秒ほどで切り替わる。まるで見る者の目を一瞬でも引き離すまいと、刺激的な映像を塗り重ねている。たまに、のんびりと同じシーンを続けたりすれば、観客はすぐ飽きて他のものに関心を移してしまうと思い込んでいる。それに馴致されているぼくたちの感覚は、能のような時間間隔にとても耐えられなくなっている。でも、これはどっちが異常なのだろう。
 室町時代の人々は、世阿弥の能を見てこの時間間隔を当然のように感じていたのかもしれない。その後の戦国時代も、長い江戸時代も能は武家の嗜みとして鑑賞されてきた。各藩の居城の御殿には能舞台がしつらえられていて、お抱えの能役者が定期的に、藩主家臣の前で演能の宴を催していた。そこに流れる時間は、現代のテンポからすれば新幹線と牛の歩みほどに違っていただろう。どっちがいいかは別として、現代の能楽堂の客席は椅子席になっているが、江戸時代の能舞台を鑑賞した人々は、2時間ぐらい平気で正座していたはずだから、凄いな、とは思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする