gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

小泉文雄『日本の音』を読む 2 「型」の文化  世代より階級

2024-02-13 17:12:08 | 日記
A.「和」の伝統とは?
 日本の音楽には、古代に伝来した雅楽や声明をはじめ、中世の謡曲や江戸時代の三味線音楽までさまざまに伝承され発展した伝統音楽「邦楽」があって、それらはいまも消え去らずに、また融合することもなくそれぞれ一部のファンに支えられて鑑賞されている。だが、音楽研究家小泉文夫氏は、これが明治以降の日本政府は、近代西洋音楽を、それら伝統音楽とはまったく別の思想や原理からできている普遍的、正統的な音楽だと考えて直輸入し、学校で教えたために、非常に歪んだ音楽状況になってしまったと考える。
 西洋近代の文化的特性を「合理化」という言葉で考えた、マックス・ヴェーバーは、「音楽社会学」を書き、なぜ西欧に発達した音楽が、たのさまざまな国・地域で発達した音楽とは違った、普遍的な合理化「調性音楽」を作り出したのかを、考察している。これはある意味で、20世紀に世界に広がった五線譜とドレミファの楽器で、国や民族の伝統を超えるワールド・ミュージックを誰もが楽しめるという考え方の、もとになる考え方で、日本は19世紀の明治維新から、その道を進んできたことになる。でも、小泉氏からすれば、それが「邦楽」そして東洋の各地にある伝統音楽を孤立させ歪んだ形にしている、ということになる。

「三味線音楽のように小さな旋律型にそれぞれ名称があったり、また特に名称がなくても大体しばしば使われる旋律の型は非常に多く、これらが大きな単位で組み合わされて高次の旋律型をなしていることも珍しくない。たとえば長唄の名曲といわれる『越後獅子』は九世杵屋六左衛門が一夜にしてつくったといわれているが、その大部分を既存曲の地唄の『越後獅子』にとり、その間にこれまた既存の民謡的旋律や「さらし」の手などを加えて合成したのである。また歌舞伎の下座音楽には、「付帳」というオーケストラのスコアのようなものがあるが、これはけっして楽譜ではなく、伝統的旋律型の名前だけ書いてあって、筋書のどの部分ではどの旋律を使うということの「型」の名前が書いてあるにすぎない。
 琵琶のような語り物の世界ではこの楽譜はもっと徹底しており、薩摩や筑前の近世琵琶では詞章のところどころに、旋律型の名を付しただけのものが楽譜に相当するものとして使われている。
 ところがこの「型」は厳密に細かく規定するものではない。殊に三味線音楽の中の手や「合方」のように同じ「型」がいろいろな楽曲に使われるものでは、それぞれ曲調や歌詞の内容に合うよう変形されて使われるという意味での「型」であることにも注意しなければならない。この音楽における「型」の概念は江戸時代になってからいっそう甚だしい傾向として一般化されるが、すでに中世の平曲や能、さらにそれ以前の声明の中にすら確固として存在し、またもっとも「型」の制約が少ないと思われる雅楽の旋律の中にすら、特にここに名称はもたないが調子によって、平調(ひょうじょう)なら平調によく用いられる旋律型とか、黄鐘調(おうしきちょう)なら黄鐘調に用いられる旋律型というものがある。だから、日本の芸術音楽では一般的な現象とみることができる。
 邦舞と音楽の関係でよく似た現象としては、また「寸法」の概念がある。音楽の拍子の一拍ごとに舞踊の動きが結びついているのではなく、歌詞のどこの部分からどこの部分までの間に、どのような動きをするという大まかな「寸法」が決まっていて、その枠の中で仕事をするのである。この融通無碍の精神は、能の謡と能管の「アシライ」の関係にもそっくりあてはまる。決まったところで始まり一緒に終りさえすれば途中の音の垂直の関係はほとんと問題にされない。こうした「寸法」の感覚はもっと広くいえば、舞踊や音楽ばかりでなく日本人の生活のリズムや調和の原理としても強くはたらいているように思う。物事のはじまりと途中はあまりパッとしないが、終わりに臨んですべて間に合ってしまえば、それで途中の遅れなどケロリと忘れてしまうところなど、なかなか生活感情にマッチしている。
 演劇のように音楽と表裏一体の関係にあるものについては省略しよう。これらの分野での並行現象を発見したとしても、何も発見しなかったのとたいして変わりはない。それよりも文学・舞踊・演劇のような互いに関係の深い時間芸術とは一見関係がないように見える造園や建築、絵画や彫刻といった視覚芸術との並行現象を考えることの方が意味深い。
 伝統的な造園術においては、その基本は石組(いわぐみ)みにあるといわれている。庭園を構成する要素としては、苔や芝など地面をおおうものや、植物や置物など景を添えるもの、中には建築もその庭の一部と考えなければならないが、やはりその造園術としての基本は、庭石をどのように配置するかという点が、平安時代から江戸時代まで、各時代の芸術様式を決定する決め手になる。
 石組は個々の石の配置をいうのではなく、あくまで数個の石を一組と考えての石組であって、たとえば鶴亀石組とか三尊石組といえば、鶴や亀の長寿をあらわすとともに、その形も縦長の石と、横に平たい石を並べるとか、三尊の御姿を形どって、真中に大きな石、左右に小さな石を配して一組と考える。さらに夜泊石組は島に参詣する船が互いにつなぎ合って夜泊りをする姿を形どって、一列に池の中に並べられる等、この石組は、あたかも個々の音の独立した動きよりも、幾つか組み合わされて旋律型となった時に、はじめて何か概念をあらわす「型」として認識される伝統音楽の原理と共通しているように思われる。
 造園においてさらに石組のほか、灯篭や石橋、あずまや、門など、それぞれに半分独立した要素をたがいに組み合わせて全体のプランをつくることなども、歌舞伎の付帳と似ていておもしろい。それぞれの部分を既製品として別々に買ってきて、それを適当に配置すれば、いろいろな形の庭ができ上がるところなども、旋律型の発達した邦楽でも可能なことであることはすでに述べた。
 建築、ことに民家の建築においてもこれが見られる。日本の建築の著しい特徴は、ほとんど設計図らしいものを持たなくても、大工は四畳半と六畳に台所などという家をつくってしまう。廊下の幅は半間と決まっているし、建具も寸法が決まっている。配置さえ口でいってもらえば、あとは必然的に大まかなプランができてしまう。そこで依頼主はごく細かなところで個性を出そうと努める。たとえば、どこかに便利棚をつけるとか、窓をアルミサッシにするとか。また、日本では四畳半の次は必ず六畳その次は八畳の大きさで、途中の五畳とか七畳とかの大きさがない。もっとも隣の押入れが出張っていたり、何かの都合で七畳半になったり、五畳半になることはある。しかしそれもプランとしては八畳や六畳が半畳分欠けたという形であり、全体の寸法がそれだけ小さいという部屋は稀である。最近は団地サイズなどというものもあるが、普通は標準より細長い唐紙や、馬鹿に幅の広い畳などは特別注文しない限りつくってもらえない。この建築における大工、建具屋、畳屋、壁屋(これも荒壁のためのコマイ屋などが独立している)などの独立分業がおもしろい。それぞれ統一した規格があるから、どの建具屋がつくった障子や唐紙でも、必ずどの大工がつくった家にでも合う。これがやはり伝統の「型」であり、約束ごとのうまみでもある。
 能の役者はシテ方が観世流で、ワキ方が下掛宝生流などという組み合わせが普通である。双方の流儀は同じ演題でも異なった譜本と伝承をもとにしているので、必ずしも同じではない。ある部分が違う文句であるのはまだ良いとして、時にはその部分がある流では省略されていて無いなどということもある。それでも予め細かく打ち合わせなどせず、いきなり本番で合わせてしまう。囃子方についてもそうで、能管など「アシライ」が多いので毎回違うやり方をしているし、鼓なども流儀によってカケ声が違っていたりはするが、それでもどの流儀と合奏しても必ず合ってしまうのである。この秘密はやはり「型」のもつ約束ごとの妙であって、あまり厳格に細かく個々の寸法を決めてしまわないで、大体の約束ごとの寸法に皆が何となく合わせておけば、後は現場で少し削ったり、たたいたりしているうちに、ぴったり合ってしまうのである。
 絵画において、西洋画のような遠近法や影の描写が発達しなかったかわり、線の持つ表現力やニュアンスが特に重要視された点は、立体的な和声音楽よりも、もっぱら線的な表現に重きを置いた伝統音楽との共通点としてすぐに思いあたるところであるが、この線の持つニュアンスでおもしろいのは書道である。吉川英史氏が以前指摘しておられたが、棒を一本横に引くのにも、まずドスンと筆を置いて少し筆先をおらしたり、にじらせたりしながらその頭を大きくし、それから一気に横に引いてとまる。そのとまった所でまた団子のように太く力を入れてから筆を上げて、初めて「一」の字ができ上がる。これも声をただ一本引きに長く引く場合と似ている。初めに必ずといえるくらい小さな装飾音がついてから、真っすぐにのび、声をとめる時にも改めて力を入れながら音を下げる。この邦楽特有の発声法もやはり音楽独自の技法と見るよりは、絵画や書道の筆の動きと関連させてみると、いっそうその美意識の性格やねらいがはっきりする。
 こうして、伝統文化の他の分野と音楽との並行現象をあげていくときりがないくらいに思い出されてくる。筆者はここで、こうした諸分野の相互関係を論ずるのが目的ではなく、音楽がそもそも他の分野から独立したそれ自体で自律的な体系をもつものではなく、日本人の芸術的表現のあらゆる側面と極めて密接に結びつき、からみあったものであることを強調したいのである。
 にもかかわらず、ひとり音楽だけが伝統とまったく切り離された形で教育の場で取り扱われ、いきなり何の社会的・身体的・言語的裏づけもないまま、西洋音楽の成果としての体系が日本の子ども達に押しつけられた誤りを反省してみたかったのである。
 こうした伝統音楽の現代および将来におけるわれわれの対し方は、すでに述べた二つの点に少なくとも焦点をあてて考えて見なければならない。それは次のように要約できる。
 (一)文学や言語のように、それ自体を近代化するという努力を、音楽ではこれまでほとんど放棄していた。したがって、邦楽は依然として江戸時代からあまり本質的な変化をしないで凝り固まってしまっている。そのため、伝統音楽は現代社会にマッチしないとか、伝統音楽は閉鎖的な性格を本質的にもっているとか、教育の場で利用するのは困難であるとか、いかに日本語と結びついていても、それ自体発展性がないとか、その他さまざまの危惧や非難が聞かれるのである。その議論のどれも本当にあたっているといえるかもしれないが、それは過去百年の間、まったく社会の表街道から見捨てられていたという事実を無視しての議論であることは、いうまでもない。江戸時代の日本語について、ちょうど音楽と同じような非難を浴びせることもできよう。しかし現在では原子物理学でも説明できるような言語にまで発達させてきたのである。これと同じことが音楽においてもできなかったと誰がいえよう。
 こうした歴史的事実を考慮することなしに伝統音楽の今日のあり方を非難してみてもはじまらない。それより伝統音楽の性格を科学的に調べ、その理論的体系を見極めた上で、古代から江戸時代まで実際にどのように発達してきたかを眺めてみる方がよい。そこには常に新しい社会の要求に答えるべく変様してきた日本の伝統の姿があったのである。
 (二)偏った教育のおかげで、われわれは伝統音楽の美に対してもほとんど背を向けるか無関心になるほど狭量になってしまったし、また伝統的な要素にのみ執着する人たちの貧しい音楽性を見せつけられて、伝統音楽そのものの芸術的価値を見失いがちになるが、それは教育による弊害とはいえ、われわれにその価値判断をする資格がないのだということも、少し言い過ぎのようでもあるが考えてみる必要がある。それはすでに考察した通り音楽以外の他の伝統の分野と切っても切れない密接さをもった文化なのである。自分が不幸にして親しみを覚えなくても、また、それに関してまったく無知であっても、やはりわれわれのことばや立居振舞と関係があり、住んでいる家や書いている文字や、物の考え方や感じ方と関係が深いのである。たとえ音楽においてもっと優れたもの(洋楽)を代わりに持っていると思っても、それは本当にはわれわれの他の表現とはあまり密接でない借物なのである。それが非実用的な音楽であるから日常それほど気がつかないが、いざ宴会だとか親戚の集まりとか、たのしい内輪のパーティだとか、社会的な怒りの表現だとかいうとき、本当にはそれほど自分自身をうまくあらわしてはくれない。
そこへ行くと、流行歌や民謡の方がこうしたときには役に立つ。そこでふだんはステレオでベート―ヴェンを聴いている人が、宴会で『炭坑節』をうたったりする。そんな下品なものはうたえないという人には、何もうたうものがない。だから彼は黙っていてうたわないのだ。彼がもっているのは教養としての音楽の知識であり、受動的な鑑賞であり、またステレオや楽器やレコードといった物体であって「音楽」そのものではない。
この二つの点が明らかになっていれば、現代および将来における伝統音楽の意義はおのずと鮮明に浮かび上がってくる。
 第一には日本に住み日本語を話している間、それからのがれるわけにはいかない。音楽そのものから逃避することもできるし、音楽は積極的に自分の表現としてではなく、単に受動的に聴くだけのものであると限定すれば我慢もできる。だが、もっと積極的に自分のものにするためには、まず伝統音楽を知ることである。
 次にはそれを現代社会に合った表現に育てることである。作曲家は社会の要求なしには曲を書かないし、食べてもいけない。また放送局やレコード会社も現代邦楽の要求なしにやたらに放送したり発売するわけにはいかない。やはり現代日本人たちの音楽に対する要求がなければならない。しかしなんといってもその決め手は教育である。」小泉文夫『日本の音 世界のなかの日本音楽』平凡社ライブラリー、1994年、pp.75-83.

 現在の学校教育でも、音楽の時間に「邦楽」の作品をちょっとだけ鑑賞することになっているから、それがどういうものか、子ども達も知らないわけではないだろうが、西洋音楽で教育された音楽教師はそれらについてとくに詳しい知識や関心があるわけではないから、やはりなんか特殊な音楽として、ふだん聴いているJ-ポップやロックなどと結びつけることはない。それがいいか悪いかというよりも、「和」の伝統といったとき、もはやぼくたちの意識の中に「邦楽」的なものはどこにいったのか、考えもしなくなっていることが問題なんだろう。


B.世代論ではなく階級論を 
 若者論というものは、いつの時代でも大人たちが「若い奴らは困ったもんだ…おれたちの若い頃はな…」という形で批判的に語られることが多い。それに対して言われた若者のほうは、「そんなこと言われたって時代が違うんだからしょーがないでしょ」とやり返す。これは不毛な議論になる。このノンフィクションライターという20代後半の女性は、いわば若い世代の代表として意見を求められているのだが、働く若い世代の現実をテーマにしているという。世代でくくってものをいうのではなく、さまざまな背景をもつ人々を年齢や世代で切り取って論じるよりは、社会的な生きる場所、つまり階級の違いで見る必要があるという。これはしごくまっとうな視点だと思う。

「若者も老年も 見えぬ貧困 : ノフィクションライター ヒオカさん
 Z世代と言われたことはあります。でも、Z世代の若者カルチャーの中心は今の中高校生か20歳前後。正直、どの世代かはっきりしない。私的には「中ぶらりん」。ゆとり世代だと意識することも、あまりない。
 生まれたときから不景気が当たり前とか、常に不安があると言われますが、自覚はなく、上の世代と比較して初めて分かること。
 ただ、「世代でくくる」ことに一定の意味はあると思います。40代以上の友人に話を聞く中で知ったのが就職氷河期のロスジェネです。優秀な人でも非正規雇用を余儀なくされた。その世代ならではの苦しみを知る上で、「氷河期世代」という言い方は必要です。
 何を消費するとか、どんな歌がはやったとかは、正直、どうでもいい。
 世代間の違いが最も顕著に出るのが、ハラスメントへの耐性、働き方に関することでしょう。今の若者は「すごい軟弱で、𠮟られた経験がなくてすぐ辞める」「ハラスメントに弱い」と言われている。
 でも、マッチョな時代の、パワハラ上司がいても耐える「強さ」は、人に対する共感性や思いやり、正常な感覚をまひさせる。上の世代がハラスメントと闘ってきて「やっぱりおかしい」という感覚を作ってくれたからこそ、今の若い世代は耐性がない。それは多分、良い変化なんです。
 働き方では、50代以上は会社と心中するような感覚が強く、40台と50代に大きな潮目がある。バブル期と氷河期の間です。
 氷河期に「会社が絶対」というのが揺らぎ、30代ぐらいになると転職が当たり前になり始め、20代では新卒で入った会社で勤めあげる方が珍しいくらいになっています。
 一方で、世代でくくると見えなくなるものもある。私の背景で、取材テーマでもある「貧困」で言うと、どの時代・世代をも貫く「階級」があり、追い込まれやすい属性の人たちがいる。
 若者の貧困が進んでいると言われますが、高齢者、中年の貧困も進んでいる、経済的な格差は結局のところ貯蓄で、年齢が上がるほど格差は広がり、若者より深刻なはず。なのに若者と高齢者がパイを奪い合っていると、世代間対立につなげるから話がこじれる。
老年の貧困は、若者のときに稼げていないからかもしれない。子どもの貧困はあわれむけど、それと地続きの老年の貧困は「勝手に死ね」とでも言うのでしょうか。少し、怖いです。 (聞き手・寺崎省子)」朝日新聞2024年2月9日朝刊13面オピニオン欄・耕論。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 小泉文夫『日本の音』を読む... | トップ | 小泉文雄『日本の音』を読む... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事